ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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#22 夜の果てより、陽は昇る

「……う……ぐっ……っ……!」

 

暗く湿った岩肌の上で、ハジメは掠れた呻き声を上げた。

 

全身を苛むのは、焼けた鉄棒を叩きつけられているかのような激痛だった。

服は各所でボロボロに引き裂かれ、血と泥が交じり合って肌に黒くこびりついている。呼吸をひとつするたびに肋骨の軋む音が脳裏に響き、折れ曲がった右腕からは激痛が全身へ伝播していた。

 

南雲ハジメは、血で固まりかけた粘つく睫毛を震わせ、もう一度しっかり生まぶたを持ち上げた。

 

視界に飛び込んできたのは、見たこともない漆黒の岩盤と、遠くでかすかに明滅する不気味な燐光――『オルクス大迷宮・奈落』。

人類の足跡など一歩たりとも残されていない、地獄の底だった。

 

(……あーし……マジで……生きてんの……?)

 

舌の裏に残る鉄の味を吐き捨てるように、ハジメは途切れ途切れの思考を必死に手繰り寄せる。

 

あの絶望の断崖。崩れ去る足場。 ベヒモスの咆哮と、上空で泣き叫んでいた香織や雫の顔。 仲間たちを地上へ逃がすため、残された僅かな魔力を振り絞ってベヒモスを足止めし、自分はそのまま暗闇の深淵へと呑み込まれて落ちていったはずだった。

 

「……みんな……無事に……地上へ……逃げられたのかな……」

 

擦り切れた喉から漏れ出た声は、あまりにも小さく、掠れていた。 香織の顔が思い浮かぶ。優しすぎる彼女のことだ。絶対に自分を責めて、目を腫らして泣いているに違いない。 雫もそうだ。不器用なあの性格のまま、また自分の殻に閉じこもってしまうのではないか。 クラスの皆は。リリアーナは。ランデル王子は。愛子先生は――。

 

自分がいなくなった後の地上の仲間たちの姿を想像し、ハジメは胸を押し潰されるような切なさに苛まれた。

 

だが、無情にもその余韻に浸る時間すら、この奈落の世界は許してはくれなかった。

 

――ドスン……ドスン……ドスン……。

 

重苦しい、地響きのような足音が、湿った洞窟の壁を震わせて伝わってきた。

 

ハジメの身体が硬直する。

呼吸を止め、痛む頸椎を必死に動かして音のする方へと視線を向けた。

 

暗闇の奥からぬらりと現れたのは、見上げるような巨体を持つ異形のモンスターだった。

熊に似たシルエットだが、その両腕には剣のように鋭く巨大な三本の漆黒の爪が生え揃っている。体表を覆う毛皮は硬質化し、岩石のような威圧感を放っていた。

 

『オルクス大迷宮・奈落』の上位モンスター――爪熊。

 

爪熊は血と泥の匂いを嗅ぎつけると、ギラついた赤い瞳をハジメへと向けた。

その口から粘つく唾液が滴り落ち、地面を不気味に溶かしていく。

 

(……ウソでしょ……マジで……!?)

 

ハジメの背筋を、冷や汗が一気に駆け抜けた。

 

今の自分の身体は、まともに指一本動かすことすらままならない満身創痍。魔力も底をつきかけており、体力も限界を迎えている。

あんなバケモノと正面から戦えば、一秒と持たずに肉片へと変えられて食い散らかされるだけだ。

 

「ルァァァァァオッ!!」

 

爪熊が空気を震わせる咆哮を上げ、巨大な爪を振り上げた。

死が、直前まで迫る。

 

(――ヤバいヤバいヤバい……っ! マジで死ぬ……っ!!)

 

死線に直面したハジメの脳細胞が爆発的に活性化する。

ハジメは感覚の消えかけた左手を必死に動かし、手のひらを足元の岩盤へと叩きつけた。

 

「『錬成』っ……!!」

 

枯渇しかけた魔力の底を浚い出し、回路を無理やり焼き切るような感覚とともに起動する魔法。

爪熊の凶刃がハジメの頭部を叩き割るコンマ一秒前――ハジメの真下の地面が急激に陥没し、横穴状の小さな洞窟が錬成された。

 

ズザザッ!!

 

ハジメは重力に従ってその小さな穴へと滑り込んだ。

直後、ハジメのいた頭上の岩盤が、爪熊の爪によって爆音とともに粉砕される。散り散りになった岩の破片がハジメの背中に激しく降り注いだ。

 

「グオォォォッ!?」

 

獲物を見失った爪熊が怒り狂い、穴の口径を広げようと巨大な腕を突っ込んで掘り返し始める。

 

「追ってくんなバカっ! 錬成……! 錬成……!!」

 

ハジメは激痛に悲鳴を上げそうになる喉を必死に押し殺し、暗闇の中で前方へ向かって手当たり次第に穴を掘り進めた。

爪熊が追いつくよりも早く、ひたすら岩を液状化させ、押し広げ、前方へと潜っていく。

左手の指の爪が剥がれ、血が滲み出ようとも、錬成の手を止めない。

 

どれほど夢中で掘り進めただろうか。

 

フッ――と、急に手応えが抜けた。

 

「え……っ!?」

 

押し広げていた岩盤の先は、傾斜になった空洞だった。

体勢を崩したハジメは、そのままゴロゴロと斜面を転がり落ちていく。

 

「きゃぁぁぁっ!?」

 

何度も身体を打ち付けながら転がり落ち、最後は冷たい滑らかな岩の床の上へと投げ出された。

 

激しい痛みに身悶えしながら、ハジメはゆっくりと顔を上げた。

そこに広がっていたのは、異様な光景だった。

 

ハジメの頭より少し高いだけの低い天井を持つ、こぢんまりとした静かな空洞だった。

その天井の中央には、バスケットボールほどの大きさを持つ、淡く神聖な青白さを帯びた丸い結晶が静かに張り付いていた。

そしてその結晶の底から、一滴一滴と透明な液体が下方の岩の窪みへと静かに滴り落ちている。

 

神秘的な光に包まれた、静寂の空間だった。

 

「はぁ……はぁ……なに……ここ……?」

 

息を荒らげながら、ハジメは潰れた這うような格好でその岩の窪みへと近づいた。

透明な液体が満たされた小さな水たまり。そこから漂ってくるのは、かぐわしい清涼感と、濃厚な生命の気配だった。

 

喉はカラカラに干からび、全身の皮膚が灼熱のように熱い。

理性が「飲め」と叫んでいた。

 

ハジメは激痛に耐えながら、かろうじて動く左手を震わせながら水たまりに差し入れ、掌で掬い上げたその澄んだ液体を必死に口へと運んだ。

 

ゴクン……と、一滴が喉を通り抜けた瞬間。

 

「――――っ!?」

 

ハジメの瞳が大きく見開かれた。

 

凄まじい衝撃が肉体を貫いた。

身体の内部から、温かく、けれど爆発的なエネルギーが湧き上がり、全身の細胞を焼き尽くすかのような勢いで巡っていく。

 

ポキポキッ、と不快な音を立てて折れていた右腕の骨が正しく繋がり、ズタズタに引き裂かれていた皮膚や筋肉が瞬く間に修復されていく。

内臓の損傷が塞がり、激痛が引いていくどころか、枯渇していたはずの魔力回路が濁流のような勢いで満ち溢れていく。

 

ほんの数秒前の満身創痍が嘘のように、ハジメの肉体は完璧な状態へと再生を果たしたのだった。

 

「……すご……傷が……全部消えた……?」

 

ハジメは自分の両手を動かし、曲がっていた右腕をぐるぐると回してみた。痛みが一切ない。身体が驚くほど軽い。

 

だが――。

 

肉体の劇的な回復が完了し、死の恐怖から脱したその瞬間。

逆に、それまでアドレナリンによって押し殺されていた「精神的な疲労」と「極限の孤独」が、巨大な波となってハジメの心へ一気に押し寄せてきた。

 

しん……と静まり返る低い天井の空洞。

聞こえるのは、一定の周期で結晶から垂れ落ちる水滴の音と、自分の呼吸音だけ。

 

誰もいない。

助けてくれる大人も、心配してくれる友達も、気さくに話しかけてくれるクラスメイトも、ここには一人も存在しない。

 

自分は今、人間世界の遥か深く、二度と這い上がれないかもしれない奈落の底にたった一人で取り残されているのだという残酷な現実。

 

「あ……」

 

ポロリと、ハジメの瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。

 

一度溢れ出した感情の堤防は、もう止まらなかった。

ハジメはその場に膝を折ってへたり込み、両腕で自分の身体を強く抱きしめて丸まった。

 

「あーし……本当は……臆病で……周りに誰かがいないと、何にもできないのに……っ」

 

ギャルとして明るく振る舞っていた自分。

そのノリと勢いを鎧にして、みんなの前で強がっていた自分。

誰かのために背伸びをして、かっこつけて見せていた自分のメッキが、ポロポロと惨めに剥がれ落ちていく。

 

こんな暗くて恐ろしい場所で、凶暴なバケモノに怯えながら、一人で生きていけるわけがない。

錬成ができると言っても、ただの女子高生だ。本当は虫一匹殺すのすら怖くて、誰かに頼りたくてたまらない、ちっぽけで臆病な存在なのだ。

 

「怖いよ……寂しいよ……みんな……助けてよ……っ……」

 

膝に顔をうずめ、ハジメは声を押し殺して泣き続けた。

冷たい岩盤の上で小さく震える姿は、あまりにも小さく、儚かった。

 

すべての気力が萎え、このまま暗闇の中で静かに消えてしまいたいという誘惑が、ハジメの心を黒く塗り潰そうとしていた。

 

涙で視界が霞み、深い自己嫌悪の泥沼へと沈みかけていたその時――。

 

脳裏の暗闇の奥底から、淡く温かい月光のような光がぽっと灯った。

 

思い出したのは、この大迷宮に挑む直前……宿場町ホルアドの宿屋のテラスで、冷たい月を見上げながら香織と交わした、あの切なくも温かい夜の記憶だった。

 

雫と大喧嘩をして自暴自棄になりかけ、テラスで一人佇んでいた自分。

「雫の手さ……めっちゃボロボロだったんよ。血豆つぶれて痛そうにしててさ……。だからもっと手に馴染んで少しでもラクに使いやすいやつをと思って徹夜で作ったのに……」と、自分の無神経さを責めて俯く自分に対し、香織は優しく両手を重ねて包み込んでくれた。

 

『ううん。ハジメちゃんは昔から、ずーっと変わってないよ』

 

『香織……?』

 

『私ね、ハジメちゃんと初めて出会った日のこと……今でも鮮明に覚えてるの』

 

香織は琥珀色の瞳を愛おしそうに揺らし、あの日本の商店街の路地裏でのコロッケ事件のことを語り始めてくれたのだ。

 

『あの時、ハジメちゃんはチンピラさんたちを相手に、すごく強そうに、格好よく威張ってみせてたでしょ? でもね……私、見てたんだよ。相手から隠すように背中に回したハジメちゃんの右手……痛いほど強く、震えていたのを』

 

ハッとハジメの身体が硬直する。

 

『自分がどれだけ怖くても、脚がすくみそうでも……見知らぬ誰かの痛みや困ってる姿を見捨てられなくて、必死に手を差し伸べてくれる。ハジメちゃんは昔からずっと、そういう優しさを持ち続けている人なの。だからね、ハジメちゃんの真心は、絶対に間違いなんかじゃないよ』

 

自分の、一番隠したかった弱さ。

かっこつけて強がっていた自分の裏側にある、情けない恐怖と震え。

それを香織はすべて知った上で、否定するどころか、温かい愛おしさとともに丸ごと包み込んで受け止めてくれていた。

 

『あー……それ、バレてたかーw マジであの時、脚ガクガクでビビり散らかしてたんだけどね……w やっぱ香織には、全部お見通しだったかーw』

 

『ふふっ、私を誰だと思ってるの?』

 

あの時、気恥ずかしそうに苦笑しながら、胸の奥にあった冷たい氷がすーっと溶けていったあの感覚。

 

『この大迷宮の遠征が終わったらさ。ちゃんと雫と向き合って、仲直りしないとねー』

 

そう笑顔で誓った自分の言葉。

清水の手の中に強引に預けてきた、あの水色のシュシュ。香織と雫が自分の誕生日に一生懸命選んでくれた、大切なお守り。

 

くだらないことで笑い合ったクラスメイトたちの顔。

悩める幼いランデル王子の肩を叩き、「あーしが超イケてる世界で一番ヤバい服を作ってあげるから」と笑い交わした真っ直ぐな瞳。

「リリィだってもう友達じゃん!」と特製アクセを渡し、困り顔になりながらも嬉しそうに手首のチャームに触れていたリリアーナ王女の微笑み。

東方荒地でおにぎりを分け合い、「しっかり生き残って帰んないとじゃん」「お互い、絶対に帰りましょうね!」と誓い合った愛子先生との笑顔。

 

(――あーしは……一人じゃない……!)

 

ハジメはぐっと奥歯を噛み締め、袖で乱暴に涙を拭った。

 

自分が臆病なのは本当だ。誰かがいないと寂しくて泣いてしまう弱虫なのも本当だ。

けれど――その弱さを知った上で、自分を信じてくれた人たちがいる。自分の帰りを待ってくれている仲間たちがいる。

 

「雫と仲直りも……してないのに……約束も果たしてないのに……こんなところで諦めて死ぬなんて……冗談じゃないしっ……!」

 

ハジメは力強く立ち上がった。

足元を踏みしめ、拳を固く握り締める。

そのブラウンの瞳から弱気な影が消え去り、地獄の底からでも生きて返ってみせるという、不屈の猛火が宿っていた。

 

「絶対……生きて帰る……! みんなのところに……香織や雫のところに、絶対に帰ってみせる……!!」

 

言葉が空洞に強く力強く響き渡る。

もう、迷いはなかった。

 

腹を括ったハジメは、地上へ戻る術を探すため、まずは外の広大なエリアの安全と状況を確認することにした。

 

先ほど錬成で掘り進めてきた穴を静かに引き返し、爪熊に追われていた出口付近まで戻る。岩の隙間から慎重に外の様子を伺った。

 

そこは、先ほどまでの静かな空洞とは異なり、無数の巨大な岩柱が立ち並ぶ開けた大空洞だった。

相変わらず静まり返っていたが、中央付近に目を向けたハジメは、息をのんだ。

 

(……あいつ……!)

 

そこには、先ほどハジメを襲おうとした「爪熊」が1頭存在していた。

そして、その爪熊と激しい死闘を繰り広げていたのは――全身の毛皮からバチバチと紫色の静電気を放つ、二本の尾を持った狼の群れ――「二尾狼」の3頭だった。

 

だが、その戦況はあまりにも惨酷だった。

 

狼たちのうち、ひと際体が大きい親と思われる1頭(母狼)は、すでに爪熊の凄まじい爪撃によって脇腹を深く引き裂かれており、大量の血の海の中に横たわっていた。荒い息を吐き出し、命の灯火が今にも消えかけようとしている。

 

その死に瀕した親狼を背後に庇うようにして、残された2頭の若い狼(子狼たち)が立ち塞がっていた。

親狼に比べて一回り小さく、身体の各所に怪我を負い、恐怖で脚を細かく震わせながらも、子狼たちは巨大な爪熊1頭に対して激しく牙を剥き、必死に威嚇の唸り声を上げている。

 

「ガァァァッ!!」

 

爪熊が凶悪な笑みを浮かべるように爪を鳴らし、じりじりと子狼たちを追い詰めていく。

体格差は圧倒的だ。子狼たちが親を守ろうと健気に踏みとどまっているのは痛々しいほどだったが、全滅は時間の問題に見えた。

 

ハジメは岩の影でじっと息を潜めていた。

 

(関わっちゃダメだ……。今のあーしは、錬成しか使えないんだから……。バケモノ同士の潰し合いなんて、見過ごして逃げるのが一番頭いいに決まってっし……)

 

冷徹な理性がそう警告する。

だが、その時だった。

 

横たわっていた大きな親狼が、ゆっくりと首を動かした。

濁りかけたその瞳が――岩の隙間から覗いていたハジメの視線と、真っ直ぐに交差した。

 

『――――』

 

声にはならない。言葉など通じるはずもない。

けれど、その死に行こうとする親狼の瞳から、ハジメは確かに感じ取ったのだ。

 

言葉を超えた、切実で痛切な「願い」。

――どうか……この子たちを……助けて……。

 

「っ……!」

 

ハジメの胸が、ドクンと激しく脈打った。

 

脳裏にフラッシュバックしたのは、日本で暮らしていた頃の記憶だった。

通学路の近所で飼われていた、二匹の雑種犬。ハジメが通りかかるたびに、千切れんばかりにシッポを振って『遊んで!』とまとわりついてきた、懐っこいあの犬たちの姿。

 

圧倒的な暴力を前に怯え、死の恐怖に震えながらも、血を流す親を守るために牙を剥く幼い狼たちの姿が――あの愛くるしい犬たちの面影と、痛々しく重なってしまった。

 

「――っあーもうっ!! めんどくさいなぁ本当にっ!!」

 

ハジメは頭を激しくかきむしると、頭の中の損得勘定をすべてゴミ箱に投げ捨てた。

 

「あーしのこの性分、本当にどうにかしてほしいんだけどっ!!」

 

岩の影から一歩を踏み出し、ハジメは爪熊と二尾狼たちの死闘の只中へと、全力で躍り出た。

 

「そこ退きなバカ熊ぁぁぁっ!!」

 

ハジメの甲高い叫び声が、大空洞に響き渡った。

 

突如として現れた人間の少女に、爪熊も、死に瀕していた二尾狼たちも一瞬呆気にとられたように動きを止めた。

 

その隙をハジメは見逃さなかった。

躍り出た勢いのまま、ハジメは両手を冷たい岩盤へと叩きつけた。あの不思議な水によって完全に満たされた全魔力を、回路の限界まで注ぎ込む。

 

「『錬成』――上がれぇぇぇっ!!」

 

ゴゴゴゴゴゴッ!!

 

爪熊の足元の岩盤が急激に陥没・隆起を起こし、形を変えた。

岩が液体のように爪熊の太い脚へまとわりつき、一瞬にして硬化。爪熊の足を、地盤と一体化させるようにガッチリと固定・封じ込めたのだった。

 

「グオォォォッ!?」

 

身動きを奪われた爪熊が激怒し、狂ったように咆哮を上げる。

爪熊の凄まじい腕力と脚力が岩盤を砕こうと暴れ始め、ハジメの錬成した岩にバリバリと亀裂が走り始めた。

 

身体は全快し魔力も満たされているものの、相手は奈落のバケモノだ。生半可な固定では、力任せに数秒で破壊されてしまう。

 

「くっ……固く……もっと固くなれぇっ!!」

 

ハジメは必死に歯を食いしばり、全神経を集中させて岩盤の分子構造を極限まで硬化させ続ける。手のひらから伝わる衝撃で腕が痺れる。

 

ハジメは後ろで呆然としていた2頭の子狼たちへ向かって、顔を真っ赤にして叫んだ。

 

「ちょっとあんたたちっ!! 言葉通じるか分かんないけど、今のうちっ!! 早くやりなってっ!!」

 

ハジメの必死の叫びと、命がけで爪熊の足を止め続けている意図――。

子狼たちは一瞬ハッとしたように目を見開くと、お互いに視線を交わした。

 

次の瞬間、2頭の二尾狼の全身から、眩いばかりの「紫電」が炸裂した。

 

バリバリバリッ!!

 

空気を焦がす放電音とともに、2頭の狼は全身に紫色の雷光を纏い、目にも留まらぬ速度で突撃を開始した。

 

「ガアァァァッ!!」

 

1頭の二尾狼が雷光の矢となって飛び上がり、拘束されて身動きの取れない爪熊の首元へ深々と牙を突き立てる。

もう1頭の二尾狼も交差するように宙を舞い、爪熊の太い腕を雷撃を帯びた噛みつきで一瞬にして食いちぎった。

 

「グギャァァァッ!?」

 

悲鳴を上げる爪熊に対し、2頭の二尾狼は完璧な連携を見せた。

紫電の閃光が幾重にも交差し、空間を切り裂く。

首を噛みちぎられ、急所を雷撃で焼き穿たれた爪熊は、凄まじい音を立てて地面へと崩れ落ちていく。

 

動かなくなった爪熊の巨体を見届け、ハジメは両手を地面から離した。

 

「ふぅ……はぁ……なんとかなっ……た……」

 

安堵の息が漏れる。

 

だが、爪熊を倒した緊張の糸が切れた瞬間――全魔力を一気に絞り出した反動と、極度の精神的疲疲労が一気に波となって押し寄せてきた。

 

視界が急速にぐにゃりと歪む。

 

「あ……ヤバ……また……これ……」

 

膝から力が抜け、ハジメの身体がそのまま前へと倒れ込む。

冷たい岩肌に顔を伏せる直前、最後に見えたのは、倒れた自分のもとへと心配そうに駆け寄ってくる、2頭の二尾狼の紫電の揺らめきだった。

 

(……頼むから……喰わないでね……)

 

そんなバカな思考を最後に、南雲ハジメの意識は再び深い闇の中へと落ちていくのだった。

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