「……ん……っ……」
ハジメがゆっくりとまぶたを持ち上げると、視界に飛び込んできたのは見覚えのある低い岩の天井だった。
神聖な青白い光を静かに放つ丸い結晶と、一滴一滴と水滴が垂れ落ちる静かな空洞。
(あ……あーし、また倒れてたんだ……)
身体を起こそうとすると、頭の上に柔らかい感触と、スンスンと鼻を鳴らす温かい吐息を感じた。
「きゃっ! なに……っ!?」
驚いて振り返ると、そこには先ほど爪熊との戦いをともに切り抜けた2頭の二尾狼(子狼)がいた。
子狼たちはハジメが目を覚ましたことに気づくと、ちぎれんばかりにシッポをぶんぶんと振りながら、ハジメの目の前にちょこんと行儀よくお座りしてみせた。
「あ……アンタたち、あーしのことここまで運んでくれたん……? マジサンキューね……」
ハジメが呆然としながらお礼を言うと、子狼たちは嬉しそうに「ウォン!」と短く吠えた。
ふと、ハジメは二匹の背後に視線を向け、息をのんだ。
空洞の隅の冷たい岩肌の上に、先ほど激しい死闘の末に致命傷を負い、死にかけていた大きな親狼(母狼)が、静かに横たわっていたのだ。
すでに息を引き取っており、その全身からは命の温もりが完全に失われている。子狼たちが、ハジメを運ぶと同時に、大好きだった母親の亡骸も一緒にここまで引きずって運んできたのだろう。
「……これ、アンタらのママ……だったりする……?」
ハジメがぽつりと尋ねると、言葉が通じたわけではないだろうが、二匹の子狼はハジメの問いかけを理解したかのように耳をペタリと後ろに伏せた。
二匹はトボトボと親狼の亡骸へ歩み寄ると、冷たくなった母親の顔に愛おしそうに鼻先をすりすりと当て、シュンと小さくなってその場に丸まってしまった。
その背中からは、大切な親を失った悲しみと深い孤独が痛々しいほど伝わってきた。
「……そっか……」
ハジメは胸を締め付けられるような切なさを覚え、膝立ちのまま二匹のそばへと寄り添った。そっと伸ばした両手で、二匹の背中の毛並みを優しく、なだめるように撫でてあげる。
すると、二匹の子狼はハジメの手の温もりに気づき、涙ぐんだような目を向けると、吸い寄せられるようにハジメの胸元へとすっぽりと顔を押し当ててきた。すがりつくように頭をすりつけ、じゃれてくる。
ハジメは二匹をギュッと抱きしめながら、頭の上にぽつりと語りかけた。
「あーしね……これからここを出て、地上にいるみんなのところに帰るつもりなんだけど……アンタたちも、一緒に来る……?」
伝わっているか分からない拙い問いかけだったが、二匹はハジメの顔を見上げて首を横に傾げた後、再び甘えるように「クゥ〜ン」と喉を鳴らしてハジメの頬に冷たい鼻先を当ててきた。
「ふふ、返事はオッケーってことでいいのかな。……よし、決まり! アンタたちのことも、あーしが連れてってあげる!」
ハジメは気合を入れるように力強く立ち上がろうとした――その瞬間。
ぐぅぅぅぅぅぅ〜〜……っ!!
静かな空洞内に、ハジメの腹の底から盛大な腹の虫の音が響き渡った。
「うっわ……ヤバ……そういえばあーし、ここ落ちてから何も食べてなかったじゃん……」
あまりの空腹に、ハジメは思わず自分の腹を押さえて苦笑した。いくら満身創痍の傷が癒え、魔力が回復したと言っても、胃袋は完全にカラカラだ。人間である以上、食べ物を補給しなければ力など湧いてこない。
(どうしよう……外に何か食べられるキノコとか、安全な植物でも探しに行こうかな……)
ハジメがそんなことを思案し始めた、その時だった。
ガリッ、ボリッ……!!
背後から、肉が引きちぎられる凄惨な音が聞こえてきた。
「えっ……!?」
ハジメが慌てて振り返ると、二匹の子狼たちが、なんと自分たちの親狼の亡骸に群がり、その肉を噛みちぎり始めているではないか。
「ちょっ……あんたら何やってんの!?? ママでしょそれ!!? 狂っちゃったの!?」
ハジメが焦り倒して叫ぶ中、一匹の子狼が噛みちぎった親狼の血なまぐさい肉片を口にくわえ、ハジメの足元へとトコトコ歩み寄ってきた。そして、「はいっ!」と言わんばかりに、ハジメの目の前へポトンと肉片を落としたのだ。
「え……食えってこと……? いやいやいや、無理無理無理!! ちょっと待って、これアンタらのママでしょ!? 食べられるわけないじゃん!!」
ハジメは引きつった顔で全力で首を横に振った。だが、二匹の子狼はちぎれんばかりにシッポを振りながら、期待に満ちた瞳でハジメが肉を食べるのを「早く早く!」と待っている。
「いや、マジで言ってる……? だって……っ」
断ろうとするハジメだったが、狼たちの眼差しはどこまでも真っ直ぐで真剣だった。
魔物の世界において、倒れた親の肉を喰らい、その糧を次の世代へと引き継ぐことは、命を無駄にせず生き残るための尊い「儀式」なのかもしれない。そして狼たちは、ハジメをすでに自分たちの新しい「家族」として受け入れ、その命の糧を分かち合おうとしてくれているのだ。
それに、ハジメの胃袋はすでに限界を告げている。背に腹は代えられない。
「……わかった……わかったからっ! マジでちょっとだけね!? 一口だけだからねっ!?」
ハジメは腹を括り、覚悟を決めてその肉片を拾い上げた。血と泥が交じり合った生の肉片。覚悟を決め、目を固く閉じて一気に口の中へと放り込んだ。
次の瞬間――凄まじい激臭と腐敗臭、そして鉄の味がハジメの口内を支配した。
「〜〜〜〜っっっ!????」
あまりの不味さと狂暴な風味に、ハジメの目が飛び出そうになった。
胃が猛烈な拒絶反応を起こし、吐瀉物が喉元までこみ上げてくる。
(吐く……っ! マジで吐く……っ!!)
だが、ハジメの目の前では、二匹の子狼が純粋な瞳で「食べてくれた!」と嬉しそうにシッポを振っているのだ。自分たちにとって何よりも大切な親の形見であり、ハジメに生きてほしいと差し出してくれた食べ物を、目の前で吐き捨てることなんてハジメのプライドと性分が許さなかった。
「んぐっ……ぐううっ……!!」
ハジメは涙目になりながら歯を食いしばり、必死に喉の動きを抑え込んで肉片を強引に呑み込んだ。そのまま転げるようにして神結晶の下の水たまりへと這い寄り、溜まっていた澄んだ水を両手で掬っては、ガブガブと狂ったように胃の中へと押し流した。
「はぁ……はぁ……っ! 飲み込んだ……呑み込めた……っ!」
口内に残る不快感を水で無理やり洗い流し、ハジメは膝をついたまま二匹の子狼へと振り返った。
「ふぅ……ありがとね……アンタたちの気持ち……ちゃんと受け取ったから……」
ハジメが引きつった微笑みを浮かべ、二匹の頭を優しく撫でようと手を伸ばした――その瞬間だった。
ドドドッ――――――――――――――っっっ!!!!
「――――――――っっっ!!!!??????」
ハジメの全身の細胞という細胞、血液という血液が、一瞬にして灼熱のマグマへと変貌したかのような凄惨な衝撃が炸裂した。
内臓が内側から爆破されたかのような猛烈な激痛。骨がメキメキと音を立てて砕け、皮膚が引き裂かれ、血潮が全身から吹き出していく。魔物肉に宿っていた狂暴で毒性を持つ魔力が、ハジメの肉体を破壊し尽くそうと猛威を振るい始めたのだ。
「痛った! 痛った!! 痛タタタタタ痛い痛い痛いマジでヤバイこれ!!! 死ぬ死ぬ死ぬ!!! たすけてーーー!!」
声にならない叫びを上げながら、ハジメは狂ったようにのたうち回った。
本能的な恐怖に突き動かされ、ハジメは神結晶の下にある水たまりへと頭から勢いよくダイブし、その不思議な水を狂ったようにガブガブと飲み干し始めた。
水(超絶的な再生力)が肉体を修復しようとする先から、魔物肉の毒(超絶的な破壊力)が肉体を破壊していく。
『破壊』と『再生』の地獄のような無限ループ!!
「ウォンッ! ワンワンッ!!」
「クゥ〜ン! クゥ〜ン!!」
突然の事態に、二匹の子狼たちもリアルな犬がパニックを起こしたかのように甲高い悲鳴を上げた。耳を限界まで後ろに伏せ、激痛に狂乱してのたうち回るハジメの周りを必死になってウロウロと旋回し始める。
転がるハジメの顔面に濡れた鼻先を必死に押し当て、「クゥ〜ン、クゥ〜ン」と心配そうに喉を鳴らし、暴れるハジメの腕に前足を乗せてなんとか止めようとするが――ハジメ側にはそんな配慮をする余裕など一切なかった。
「痛い痛い痛い死ぬーーっ!! ……ちょっ、鼻水ついてる! 押さえないで! 痛ったぁぁぁ!!」
言葉が通じないが故に、ハジメ一人でギャーギャーと悲鳴を喚き散らし、現場の状況は凄惨かつ完全なカオスへと化していた。
細胞が破壊され、修復され、遺伝子レベルで書き換えられていく。
ハジメの肉体は魔物の魔力を取り込み、人間としての限界を超越した構造へと強制改変(変貌)されていった。
その凄絶な激痛の波の中、ハジメの金髪からは急速に色素が抜け落ち、眩いばかりの純白の白銀色へと塗り替えられていく。全身の骨格や肌の質感が変容し、よりしなやかで、女性らしさと美しさを極めた肉体へと再構築されていく。
「あ……あぁ……っ……」
やがて、極限の痛みのキャパシティを超え、南雲ハジメの意識は奈落にて『三度目』の気絶へと落ちていったのだった。
◇
――フッと、気がつくと。
ハジメは何もない、どこまでも広がる真っ白な空間の中にぽつんと立っていた。
上下も左右もない、静寂に満ちた不可思議な世界。
「え……? ここ……どこ……?」
困惑するハジメの視線の先――数十メートルほど離れた場所に、一頭の巨大な狼が静かにたたずんでいた。 全身から神聖なオーラを纏い、先ほどいた二匹よりも一回り以上大きいその姿。ハジメはその優しげで威厳に満ちた瞳と視線が交差した瞬間、直感した。
(もしかして……あの死んでたママ狼……?)
親狼はハジメに対し、感謝と愛おしさを込めたような穏やかな表情を向けると、ゆっくりと静かにハジメの方へと歩み寄ってきた。
ハジメの目の前で一度立ち止まると、親狼の姿は一筋の温かい靄(モヤ)のように変化し、ハジメの身体をそっと包み込むようにして、優しく空中に霧散していった。
ずっと困惑しっぱなしのハジメの脳裏に、ふと、かすかな声が響いた気がした。
『――あの子たちを……頼みます……』
「え……っ!?」
ハジメが目を見開いた、その瞬間。
「ガバッ……!!」
ハジメは勢いよく上体を起こした。
「ふぅ……はぁ……はぁ……っ! あーしマジで何回気絶すんだし!!? 自覚症状なさすぎてマジ草なんだけどっ!!」
開口一番、ハジメは自分の体質と状況に対して全力のセルフツッコミをかました。
「ウォンッ!」「バウッ!」
ハジメが起きたことに気づき、横で寄り添って寝そべっていた二匹の子狼たちが、スンスンと鼻を鳴らしながら、待ちかねたとばかりにハジメの膝の上へ躍り乗ってじゃれついてきた。
「あ……心配してくれてたんだ……ありがとね、アンタたち」
ハジメは苦笑しながら、二匹の柔らかい頭を優しく撫でてあげる。
だが、ハジメはふと手元を見つめ、先ほど全身を襲った地獄のような激痛を思い出した。
そして脳裏に蘇ってきたのは、王宮でメルド団長が言っていた警告だった。
『魔物の肉には狂暴な魔力が宿っており、人間が口にすれば肉体が崩壊して即死する。絶対に食うな』
「……あ〜……。もっとちゃんとおじさんの言ってたこと聞いてればよかったぁぁぁ……」
ハジメは頭を抱えて深々と後悔した。
そして同時に、自分がダイブしてガブ飲みしたこの湧き出る水が、肉体の崩壊を即座に修復してしまうほどの、とんでもなく規格外な「超・神水」であることにようやく思い至ったのだった。
「……マズイし、死にかけるし……もう二度と魔物の肉なんて食わないって固く心に誓うわ……」
ハジメはゲッソリとした顔で呟き、「やっぱ外に安全な食べ物探しに行かんとなぁ……」と二匹を撫で続けていた――その時だった。
(……ん? なにこれ……?)
目の前の視界の端に、サラリとした純白の毛束が揺れていることに気づいた。
手でつまんで引っ張ってみると、明確な痛みが頭皮に走る。
「え……? なにこれ……? あーしの髪……!?」
ハジメの顔から一瞬にして血の気が引き、青ざめた。
慌てて神結晶の下にある水たまりへと這い寄り、澄んだ水面を覗き込んだ。
そこに映し出されていたのは――自分であって、自分ではない「誰か」の姿だった。
水面に揺らめくのは、雪のように美しいプラチナブロンドの白銀の髪。
吸い込まれそうなほど鮮烈で、宝石のように怪しく輝く深紅の瞳。
顔立ちは確かに南雲ハジメの面影を残しているものの、毛穴一つ存在しない透き通るような白磁の肌と、神々しいまでの美貌へと昇華されていた。
「えっっ!? 誰これ!!!? マジであーしなの!!????」
ハジメの大絶叫が空洞に響き渡った。
「待って待って待って!! 髪が真っ白なんだけど!!? サロンでブリーチ3回抜いてカラー入れたより綺麗なプラチナブロンドになってんの何事!!? 頭皮ノーダメージでこれいくら掛かると思ってんの!!?」
自分の髪を引っ張り回しながら、ハジメはパニックを起こしてギャーギャーと騒ぎ立てる。
「てか肌白っ!! 毛穴消滅してんだけど!? デパコスの高級美容液浴びたレベルで肌ツヤ爆誕してるし、なんか無駄にスタイル引き締まってよりモデル体型になってない!!? あーしの顔どこ行った!!?」
水面に映る自分の姿をまじまじと見つめ直し、ハジメは思わず自分の頬を両手で挟み込んだ。
「え……てかさ……冷静に見たら……あーし、めちゃくちゃ盛れてない!!? 盛れてるどころの騒ぎじゃないんだけど!! これ原宿歩いたら秒でスカウト100人釣れるやつじゃん!!」
さっきまでの弱気や絶望がどこかへ吹き飛ぶほど、ハジメのテンションは一気に明後日の方向へと爆上がりしていた。
二匹の子狼たちは、急に一人で大騒ぎし始めたハジメを「くぅ〜ん?」と不思議そうに首をかしげて見つめていたが、やがてハジメの足元へと寄り添うと、愛おしそうにクンクンと匂いを嗅ぎ、嬉しそうにじゃれついてきた。
それを見たハジメは、ふと我に返る。
(……もしかしてこの子たち……あーしがママの肉を食べたせいで、ママと同じ匂いがするからこんなに懐いてくれてるのかな……?)
そう思い至った瞬間、ハジメの胸の中にすーっと冷たい風が吹き抜けた。
「……あーし……人間じゃなくなっちゃったんだ……」
ポツリと漏れ出た言葉。
見た目が人離れした美しさへと変貌し、肉体が魔物の力を宿してしまったという事実。自分はもう、普通の女子高生には戻れないかもしれないというショック。
ハジメは試しに立ち上がってみた。
すると、いつもより視界が高く、天井が少し低くなったように感じられた。手足がすらりと伸び、身長が明らかに伸びている。
「……はは……これなら、自分のファッションブランド立ち上げた時、自分でモデルできるじゃん……ハハハ……」
ハジメは自嘲気味に引きつった苦笑いを浮かべた。
そんなハジメの異変と寂しさを察したのか、二匹の子狼が心配そうに「ウォン」と鳴き、ハジメの顔を見上げてきた。
ハジメは深呼吸をし、二匹の頭を優しく撫でて微笑んだ。
「ううん、アンタたちのせいじゃないよ。ほんと、助けてくれてありがとうね」
見た目が変わってしまったことで落ち込んでいる暇など、この地獄の奈落にはない。
自分が化け物になろうが何だろうが、南雲ハジメは南雲ハジメだ。中身は何も変わっていないし、何よりギリギリで人の形を保てているのだから「まあギリセーフ!」と捉えることにした。
ハジメは強く気持ちを切り替えると、最後に部屋の隅に横たわる親狼の亡骸へと歩み寄った。
亡骸の前で静かに両手を合わせ、心の中で強く誓う。
(任しといて。この子たちは、あーしが責任を持って面倒みるから)
ハジメは地面に両手を突き、「『錬成』――」と呟いた。
岩盤が静かに形を変え、親狼の亡骸を優しく包み込むようにして立派な石の墓標が錬成された。子狼たちも墓標に向かってクゥ〜ンと静かに鳴き、最後のお別れを告げた。
その後、ハジメは神結晶から取った硬い岩石を錬成し、頑丈な水筒を数本作り上げた。
そこへ神結晶から溜まった不思議な水をなみなみと注ぎ込み、しっかりと栓をしてリュックへと詰め込む。
準備はすべて整った。
「よしっ! 行くよ、ふたりとも!」
ハジメの呼びかけに、二匹の白銀の毛並みを持つ子狼たちは「ウォンッ!」と元気よく応えた。
白銀の髪をなびかせ、赤い瞳に不屈の意志を宿したハジメは、二匹の相棒とともに、奈落攻略と地上への生還を目指して力強く一歩を踏み出したのだった。