「えっ……嘘でしょ? なんでこんなとこに人が埋まってんの!?」
大扉を開けたハジメは、警戒する様子など微塵も見せず、部屋の中央に鎮座する立方体へとズカズカ駆け寄っていった。
石の立方体から首だけをちょこんと出しているのは、息を呑むほど整った顔立ちの美少女。
薄汚れてはいるものの艶やかな金の髪と、深い紅を湛えた瞳が、突然目の前に現れたハジメを信じられないものを見るように見つめ返してくる。
「……あ、なた……誰?」
「あーしはハジメ! ちょっとアンタ大丈夫!? めっちゃ顔色悪いじゃん! てか首から下どうなってんの!?」
屈み込んでぐいぐい顔を覗き込んでくるハジメの距離感の近さに、少女は目を白黒させた。
何十年、あるいは何百年も声を出していなかったのか、掠れた喉を小さく震わせながら、ぽつりと紡ぐ。
「……たすけて……」
「当たり前じゃん! こんなとこに埋まってて助けないわけないでしょ! ちょっと待ってて、すぐ出してあげるから……あ、でもその前に、なんでこんな奈落の底に埋められてんの?」
あまりにフランクに助ける宣言をされ、少女は拍子抜けしたように瞬きを繰り返した。
だが、その紅い瞳にふっと暗い影が落ちる。
「……裏切られた。……信じていた、叔父に」
「……叔父さん?」
「……私、先祖返りの吸血鬼……すごい力、持ってる。……だから、国の皆のために頑張った。でも……ある日、家臣の皆……お前はもう必要ないって……。おじ様……これからは自分が王だって……」
「は……?」
「……私、それでもよかった。……でも、すごい力あるから危険だって……殺せないから……ここに、永遠に封印するって……それで、ここに……」
少女が淡々と語る過去に、ハジメは同情するように眉を下げた。
「えー……なんかめっちゃかわいそー……。てか家臣とかおじ様が王になるとか言ってたけど、アンタってもしかしてお姫様か何かなわけ?」
ハジメの問いに、少女は小さくコクコクと頷いた。
「マジで!? リアルお姫様じゃん! ……あ、てかさっき言ってた『殺せない』ってなに? 不死身ってこと? ヤバっ!」
「……勝手に治る。怪我しても直ぐ治る。首落とされても、その内に治る」
「首落とされても治るとかマジでヤバすぎでしょ……! てかさ、アンタずっと閉じ込められてたんならご飯とかどうしてたん? なんで生きてられんの?」
「……吸血鬼だから。魔力と自動再生があるから……死なない。でも……ずっと飢えて……苦しい……」
「死ねない体質だからって生き埋め放置とか、余計にエグすぎ……。すごい力ってそれ?」
「これもだけど……魔力、直接操れる……陣もいらない」
「は? 陣がいらないって何? 魔法陣ないと魔法とか錬成って出せないっしょ? ほら、あーしもこの手袋の陣があるから錬成使えてるわけだし!」
ハジメは右手に嵌めた錬成用手袋の手のひらを見せ、得意げに言ってのけた。
魔力を無意識に垂れ流しているだけの本人は、自分がとっくに魔法陣なしで錬成できる規格外になっていることすらミリも気づいていない。
そんな二人のやり取りの最中、背後からトコトコとコテツとマロンが駆け寄ってきた。
二尾狼の二匹は、石棺から顔だけが出ている少女の周りをフンフンと念入りに嗅ぎ回ると――。
ペロペロペロペロペロッ!
「……んっ……ひゃぅ……っ!? く、くすぐったい……やめ……っ、たすけ……っ」
二匹がかりの猛烈な顔面舐め回し攻撃が始まった。
首から下がガチガチの岩に埋まっている少女は、手も使えず、ただ首を左右にブンブン振って身をよじるしかない。完全な無抵抗状態のまま、今度はくすぐったさのあまり別の意味で必死に助けを求めて涙目になっている。
だが、ハジメはその光景を眺めながらニッコリと呑気に笑った。
「ありゃ? コテツもマロンもめっちゃ気に入ってる感じ? アンタいい匂いしてんじゃない?w」
「ちが……っ、んぅ……っ、……たすけて……っ」
じたばたと悶絶する少女をひとしきり微笑ましく見守ったあと、ハジメは二匹をよしよしと撫でて少し下がらせた。
少女は濡れた顔を真っ赤に染め、肩で息をしながら潤んだ瞳でハジメを見上げる。
「あはは、ごめんごめん! ……でさ、吸血鬼ってことは……血とか飲む感じ?」
ハジメの問いに、少女が息を整えながら、こくりと小さく頷く。
「お腹空いてるっしょ? ほら」
ハジメは何の気負いもなく、自らの細い腕を少女の口元へと差し出した。
少女は信じられないものを見るように紅い瞳を丸くする。
「……そんなすぐに信じて……怖くないの……?」
「んー? まぁ、話聞いてる感じとかさっきの必死さ見て嘘じゃないって分かるし、コテツとマロンも気に入ってるみたいだしさ。……何よりアンタかわいいし!」
「……かわいい……? そ、そんな理由で……?」
「てかさ、助けてって必死こいて叫んでる子助けるのに、いちいち難しい理由とか必要なわけ? ウケるんだけどw」
あっけらかんと笑い飛ばすハジメに、少女は呆気にとられて言葉を失った。
だが、鼻先をくすぐるハジメの血の匂い――神水と魔物肉の変異によって極上の魔力を秘めた甘い香りに、吸血鬼としての飢餓と本能が限界を迎える。
少女は小さく口を開き、差し出されたハジメの腕に小さな八重歯を突き立てた。
「っ……痛……」
ハジメは少し眉をひそめたものの、腕を引き抜くことなくじっと耐えた。
地味にチクッとはするが、あの魔物肉を食べた時の地獄のような激痛に比べれば全然余裕だ。
ゴクッ、ゴクッと小さな喉を鳴らして血を吸い上げるごとに、少女の青白かった肌に桜色の生気が戻り、艶やかな輝きを取り戻していく。
ひとしきり吸い終えると、少女は名残惜しそうに唇を離し、満足そうに息を吐いた。
「……よし、エネルギー補給完了ね! 今ここから出してあげるから!」
ハジメは手袋の手のひらを立方体にピトッと押し当て、気合を入れた。
(頼むよあーしの相棒手袋! ガツンと砕いちゃって!)
そう念じながら魔力を流し込んだ瞬間――。
「うわっ、なにこれ超弾かれるんだけど!? どんだけガチガチに固めてんの、マジありえないし……!」
石棺に施された強力な封印術式と魔力妨害が、ハジメの手をバチバチと激しく弾き返してくる。
だが、手袋の性能だと信じ込んでいるハジメは、力尽くで魔力を限界まで手袋越しにねじ込んだ。
「あーしを舐めんなし……ッ!!」
ハジメが歯を食いしばって魔力を全放出した瞬間、部屋全体が眩い紅い光で煌々と染まり上がる。
規格外の魔力暴風によって封印術式は粉々にねじ伏せられ、立方体はドロッと融解するように崩れ落ちていった。
拘束を解かれた少女の身体が、前へと力なく傾ぐ。
「っと、マロンナイスキャッチ!」
倒れ込んできた小さな身体を、すかさず滑り込んだマロンがその柔らかな背中の毛並みでふわりと受け止めた。
しかし、マロンの背中に乗っかっている少女を見てハジメは素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっとアンタ、スッポンポンじゃん!? 風邪ひくでしょ! ほら、これ着ときな!」
ハジメは自分が羽織っていた王宮支給のフード付きローブを脱ぐと、少女の身体にすっぽりと被せてあげた。百四十センチほどの少女にはぶかぶかで、一生懸命裾を折っている姿が微笑ましい。
「……ありがとう」
少女はハジメに礼を言うと、自分を優しく受け止めてくれたマロンの背中の毛並みへそっと小さな手を伸ばし、優しく撫でた。
「……あなたも、受け止めてくれて……ありがとう」
自分にお礼を言われたのが分かったのか、マロンは嬉しそうに「くぅ〜ん」と喉を鳴らしてシッポを大きく振った。そこへコテツも加わり、無事に封印から解放された少女を歓迎するように再び嬉しそうに駆け寄ってきた。
ペロペロペロペロペロッ!
「……んっ……ひゃぅっ!? ま、また……っ、やめ……っ、くすぐったい……っ」
二匹がかりの猛烈な顔面・手元舐め回し攻撃第二弾が始まった。
今度は首から下が自由になっているものの、ぶかぶかのローブのせいで手足が上手く動かせず、少女はじたばたと身体をよじりながら涙目で抗議するしかない。
「あはは! アンタら本当に気に入ったんだねー! ほらほら、そこまでにしときな!」
ハジメが二匹の頭をポンポンと叩いて宥めると、二匹は満足そうに「ウォンッ!」と喉を鳴らして少し下がった。
少女は息を整えながら、濡れた顔をぶかぶかのローブの袖で一生懸命ゴシゴシと拭った。
「……もう……べたべた……」
そう小さく不満そうに零し、真っ赤になった顔のまま、満足げにシッポを振る二匹と呑気に笑うハジメをじとーっと見上げる。
「あ、そういえばアンタの名前聞いてなかったわ」
ハジメが尋ねると、少女はふっと視線を落とし、小さく呟いた。
「……名前……つけて」
「え? 何? ずっと埋まってて自分の名前忘れちゃった系?」
「……違う。……前の名前、いらない。……あなたがつけた名前が、いい」
「はぁぁっ!? そんなの自分で決めなよ! 他人の名付けとか無理無理無理! 責任重すぎでしょ! ポケモンにニックネームつけるノリで言ってんじゃないし! 生身の人間の名前をあーしが適当に決められるわけないじゃん!」
――と、そこまで叫んで、ハジメは「……あ」と口を噤んだ。
思い出したのは、この奈落を下り始めたばかりの頃、足元の二匹へ名前をつけた時のこと。
後ろ脚をひょいと持ち上げて性別を確認し、「マロン!」「コテツ!」と完全にその場のノリと勢いだけで直感命名していたあの一連の流れである。
今や二匹は背中を預け合う大切でかけがえのない家族同然の存在になっているが、あの名付け自体は完全にただの思いつきだった。
(……いやいやいや! あの子たちの名前、あーしのノリと勢いだけで適当につけちゃったけど……もしかしてダサかったりした……!?)
ふと一抹の不安と後悔がよぎったハジメは、足元の二匹へちょっと遠慮がちに視線を向け、恐る恐る小声で尋ねてみた。
「……ね、ねぇアンタたち……今の名前、不満とかないよね……?」
「ウォンッ!」「クゥ〜ン♪」
二匹は「大好き!」と言わんばかりにご機嫌でシッポをブンブンと振ってくれた。
ハジメはホッと胸を撫で下ろしたものの――それとこれとは完全に話が別だ。親でもないただの通りすがりの女子高生に、生身の人間の、それもこれから一生背負っていくかもしれない名前をつけるなんて荷が重すぎるにも程がある。
ハジメは改めて全力で両手をブンブンと振って拒否の姿勢を示した。
「というわけで、やっぱ無理! 自分の名前くらい自分でつけなって!」
「……あなたが、つけて」
「嫌だし!」
「……つけて」
「無理無理無理! 絶対嫌だって!」
「……つけて」
「だから嫌だってば!!」
「……つけて」
「――あーもうっ!!」
頑なに一歩も引かず、真顔でじーっと見つめてくる少女に、ハジメは頭をガシガシとかきむしって根負けの悲鳴を上げた。
「分かった! 分かったから!! ……じゃあニックネーム! 普段呼ぶ用のあだ名で勘弁してよ!」
少女は少しだけ考え込むように目を瞬かせたあと、小さく頷いた。
「……ん。あだ名なら……いい」
「よし、交渉成立!」
ハジメは「うーん」と腕を組み、一応は真面目に新しいあだ名を考えてあげようと頭をひねり始めた。
(えーっと、あだ名ねぇ……。金髪だから……『きんちゃん』? いやそれ完全に某有名タレントだし! じゃあ……『ゴールドちゃん』? パチンコ屋の看板かよ! ……『きらら』? いやなんかキラキラネームすぎてあーしのキャラじゃないし……)
うんうん唸りながら候補をひねり出してみるものの、湧き上がってくるのは壊滅的なネーミングセンスによるクソみたいな案ばかり。
(……ダメだ、見た目だけのインスピレーションじゃ限界があるし!)
早々に己の語彙力と発想力に見切りをつけたハジメは、ポンと手を叩いた。
「ねぇ、参考にするから元の本名教えてよ! そこから一部取ったりアレンジした方が、いい感じのあだ名作れるっしょ!」
ハジメが問いかけると、少女はぷいっと顔を背け、頑なに唇を噤んだ。
「……言いたくない。……あんな名前、思い出したくもない」
(こ……このガキ……ッ!! 人に名付け頼んできといて情報ゼロとかマジで舐めてんの!?)
ハジメのこめかみにピキッと青筋が浮かぶ。
きゅっと眉を寄せて頑なに拒絶する少女の態度に、ハジメの負けん気と悪戯心にカチリと火がついた。
(……あっそ。頑なに教えないってわけね? だったらこっちだって、容赦なく好き勝手呼ばせてもらうし!)
ハジメは腕を組み、目の前の少女をじっと見つめ直した。
薄汚れてはいるものの、さらさらと流れるように美しい金色の髪――。
(金髪ねぇ……金髪……金……きん……キン……)
連想を巡らせていくうちに、ハジメの脳裏に懐かしい中学時代の光景がフラッシュバックした。学校帰りのファミレスで、仲の良かったクラスの女子から「ハジメ金髪だし金太郎とかどうwww」とゲラゲラ笑いながら悪ノリであだ名をつけられたあの日。ノリの良かったハジメも「どうも〜! 金太郎でーすw」と便乗し、しばらくの間友達グループの中で金太郎と名乗り合ってふざけていた事を思い出したのである。
(……これだ!)
天啓を得たハジメはフッと目を細めると、まるで悪戯を思いついた小悪魔のような、めちゃくちゃ悪い笑みをその口元に浮かべた。
「あっそ……。じゃあ名前言わないんなら、アンタの事これから
「……キン、タロー……?」
「そ! 髪きんきらきんだし、なんか強そうだしちょうどいいっしょ? これからよろしくね、金太郎!」
ハジメはニヤニヤと意地の悪い笑みを崩さず、親指をグッと立てて見せた。
その邪悪なまでのドヤ顔と自信満々な声音を正面から浴びせられ、少女の背筋をツツッと冷たい汗が伝う。
(……キン、タロー……? なに、その響き……?)
少女は頭の中でその奇妙な音を必死に反芻し、意味を探ろうと眉をひそめた。
トータス広しといえど、聞いたこともない異様な語感。
金髪だから『キン』? それはまだいい。だが、後半の『タロー』とは一体なんなのか。
『強そう』とこの少女は言った。ということは、どこかの地方に伝わる屈強で筋骨隆々な野蛮人の名前なのか。あるいは、山野を荒らし回る巨大な毛むくじゃらの魔物の類か、はたまた古の邪悪な呪術師の称号なのか――。
そんな恐ろしくて奇怪な名前で呼ばれ続けたら、自分の吸血姫としての誇りも、女の子としての尊厳も、未来永劫完全に消滅してしまう。
得体の知れない恐怖が脳内を駆け巡る。
しかも、目の前の白銀の少女の目を見れば、一目で分かってしまった。
(――冗談じゃない。この人、本気だ……っ! 1ミリの迷いもなく、明日からもずっと私をその名前で呼ぶ気満々の目をしている……!!)
このままでは、数百年の封印から解き放たれた吸血姫が、世にも恐ろしい『キンタロー』として第二の生を歩むことになってしまう。
まさに人生最大の危機に直面した少女は、屈辱と焦燥で顔を真っ赤に染めながら、消え入りそうな蚊の鳴くような声で呟いた。
「……アレーティア」
「えー? なんてー? ちっちゃすぎて全然聞こえなーいw」
ハジメは耳に手を当ててわざとらしく顔を近づけ、楽しそうにおちょくってみせる。
そのあからさまな煽りに、少女の羞恥心と焦燥感が限界を突破した。
「……っ、アレーティア・ガルディア・ウェスペリティリオ・アヴァタール……っ!」
恥ずかしさをかなぐり捨てて早口で告げられた長大な本名。
しかし、あまりの長さと情報量の多さにハジメの脳の処理が完全に追いつかず、さっきまでの意地の悪い煽り顔から一転して、ぽかんと素の表情に戻った。
「……え? あ、ゴメン……もっかい言ってくんない?」
「だーかーらーっ!!
ヤケクソ気味に神殿中に響き渡る大声で叫ばれた、二度目の長大フルネーム。
それを正面から浴びせられたハジメは、目を丸くして思わず素っ頓狂なツッコミを返した。
「え、なっが!! 長すぎでしょ!? ネイマールの本名より長くて草ァ!?」
「……ねい……まーる……? だれ……?」
少女は怒りも忘れてポカンと首を傾げた。
だがハジメはそんな疑問をスルーして、指を折りながら口元をもごもご動かした。
「いやアンタの名前だし! てか、えーっと……アレーティア……ガルディ……ウェス……ペリ……? ちょ、最後の方とかマジで舌噛みそうだし、長すぎて意味わからんくてマジ無理なんだけど!!」
「……むぅぅぅ……っ!!」
意味の分からない単語でゲラゲラと爆笑され、少女は恥ずかしさと憤りで耳の先まで真っ赤に染め上げた。
言いたくもない過去の名前を必死に白状させられた挙句、盛大にバカにされるという理不尽。
少女はぶかぶかのローブの袖をぶんぶんと振り回し、頬を限界までぷくーっと膨らませて、ハジメの二の腕をぽかぽかと叩き始めた。
「……いじわる……! 言えって、言ったくせに……! ひどい……バカ……!」
「ちょ、痛くはないけどめっちゃ怒るじゃんw」
ポカポカと抗議してくる少女の頭を、ハジメは宥めるようにポンポンと優しく叩いた。
「まぁ長いけどさ、アレーティアってのはめっちゃいい感じの名前じゃん。裏切られて嫌な気持ちになるのは分かるけどさ、せっかくいい名前なのに捨てちゃうの勿体ないって」
「……え」
あっけらかんと、しかしどこまでも真っ直ぐに肯定され、少女は毒気を抜かれたように紅い瞳を丸くした。
忌まわしい過去の象徴だと思い込んでいた自分の名前を、この少女は何のわだかまりもなく「いい名前だ」と笑ってくれたのだ。叩いていた手も、自然と止まる。
「まぁ、フルネームは呼びにくいし長すぎるからさ。……じゃあアレーティアからとって、
「……ティア……」
少女は口の中でその響きを小さく転がし、眉を寄せてハジメをじとーっと睨みつけた。
捨てようと思っていた過去の名前の略称だし、何よりさっきから散々からかわれてハジメに対してちょっとイラッとしているのもあって、手放しで喜ぶ気にはとてもなれない。
だが……あの得体の知れない『キンタロー』なる怪異のような名前を呼ばれ続けるよりは、一億倍マシだ。
「……むぅ……。……キンタローよりは、いい……」
少女は不満そうに唇を尖らせつつ、渋々といった様子で小さく頷いた。
「……ティアで、いい……」
不承不承ながらも新しい呼び名を受け入れたティア。
そんなティアの渋々とした反応を見るや、ハジメはしたり顔でニシシと笑い、人差し指をビシッと突きつけた。
「おっけー決まりね! ほーら、最初から素直に本名言えってのw」
「……っ!!」
その勝ち誇ったようなドヤ顔と心底楽しそうな煽り文句を正面から浴びせられ、ティアの中で何かがプツンと音を立てて千切れた。
助けてもらった恩も、名前を褒めてくれた感謝も、一瞬で綺麗さっぱり消し飛んだ。
(……やっぱりこの人……ものすごく、ムカつく……っ!!)
限界を迎えたティアは、考えるよりも先にハジメの首元へと勢いよく飛びついた。
ガブッ!!
「ぎゃぁぁぁっ痛ったぁぁぁっ!? ちょっ、なになに!? なんで急に噛みついてんのアンタ!? ちょ、血ぃ吸わないで! やめろしぃぃぃっ!!」
「んぐ……っ、……ちゅぅ……っ」
「痛い痛い痛い! コテツ! マロン! この狂犬引っ剥がして!! ぎゃーーーっ!!」
ハジメが首筋を押さえながら涙目でジタバタと大暴れする中、ティアは頬をぷくーっと膨らませてハジメを睨みつけたまま、仕返しとばかりにゴクゴクと甘美な血を強引に吸い続ける。
(……んぐっ……血は、ものすごく美味しいけれど……)
下でギャーギャーと情けない悲鳴を上げながら暴れ回る白銀の少女。
主人の大パニックに、二尾狼の二匹も「ワンワンッ!」「クゥ〜ン!?」と大騒ぎで二人の周りをオドオドと駆け回り、部屋の中は完全なカオスと化していた。
(……私、もしかして……ものすごく頭の悪そうな、とんでもないお馬鹿さんに助けられたんじゃ……?)
仕返しで血を吸いながらも、命の恩人が放つあまりのアホっぽさと底抜けの軽さに、ティアの胸中には早くも猛烈な一抹の不安がよぎっていた。
まさに現場が阿鼻叫喚に包まれていた――その時だった。
ボッ! ボボボボボッ!!
突如、それまで薄暗かった神殿の壁際や巨大な石柱に設置されていた無数の燭台に、赤々とした炎が一斉に燃え上がった。
神殿のような広大な空間が、眩い火光によって隅々まで照らし出される。
「えっ……なに!? 急に火ぃ点いたんだけど!?」
「……っ……!」
突然の異変にハジメとティアが目を丸くした――そのコンマ数秒後。
――ズドォォォンッ!! と天井の岩盤が凄まじい音を立てて軋み、直上から殺気とともに無数の瓦礫が降り注ぐ!
「――ッ!!」
「……っ!?」
天井を突き破って巨大な影が降ってきたのと、ハジメが首筋に噛みついたままのティアごと足元へ【纏雷】を瞬間点火して横へと全力で飛び退いたのはほぼ同時だった。
ドッシャアアアアアンッ!!
「ぷはっ!?」
紫電の急加速の慣性でティアの唇がハジメの首筋からスポンと抜け、二人は間一髪で瓦礫の直撃を離脱する。
直前までいた場所に地響きを立てて着地したのは、体長五メートルほどの巨大な魔物。
四本の腕には巨大なハサミ、蠢く八本の脚、そして背中からは致死の猛毒を湛えた二本の鋭利な針が、ハジメたちを狙って鎌首をもたげていた。
「キャウッ!」「ガルルッ!」
コテツとマロンが瞬時に毛を逆立てて牙を剥く。
凶悪なサソリモドキの姿を目にしたハジメは、頭をガシガシとかきむしりながら盛大に悪態をついた。
「あぁもうっ!! 次から次へとマジでなんなのこの迷宮!? ちょっとは休ませろし!!」
ハジメは即座に腕の中のティアを部屋の隅の頑丈な岩陰へとサッと降ろした。
「アンタはそこでじっと隠れて待ってて!」
「……え……? ちょっ、まっ……」
突然降ろされて状況についていけないティアが困惑し、何かを言いかけようと手を伸ばす。
だが、それを待つことなく――。
バチィッ!!
ハジメは足元へ【纏雷】を瞬間点火し、疾風のごときスピードで前方へ躍り出た。
巨大サソリの正面へと一気に肉薄し、両拳を固く握り込んで鋭く身構える。
その左右へ、コテツとマロンが滑り込むようにして並び立った。
「コテツ、マロン! さっさと片付けて、今度こそゆっくり休むよっ!」
「「ウォンッ!!」」
ギチギチとハサミと二本の毒針を鳴らし、にじり寄ってくる巨大サソリ。
休息を阻まれたギャルと二匹の相棒たちによる、苛烈な迎撃戦の幕が上がろうとしていた。