「よし、行く前にそれ直しちゃお」
封印の部屋の入口で荷物を背負い直しながら、ハジメは当たり前のように言った。
「……それ?」
「ローブ。そのままじゃ歩けないっしょ。着たままでいいから、そこ立ってて」
言われるまま、ティアは部屋の中央に立った。
ぶかぶかのローブは、袖が手の先まで余り、裾は床を擦っている。部屋の中を数歩歩くだけでも、ティアは何度か布を踏みかけていた。
ハジメはティアの前にしゃがみ込み、素手のまま裾に触れた。
淡い蒼の光が、指先から布へと広がる。
床に溜まっていた裾が、するすると持ち上がった。膝の少し下で揃い、左右に動きやすい切れ込みが入る。手の先まで垂れていた袖が縮んで、手首でぴたりと止まる。肩の余りが詰まり、胴回りが身体の線に沿って絞られていく。
ハジメの手に、迷いはほとんどなかった。肩に触れ、袖をなぞり、腰で止まる。触れた場所から順に、布が形を変えていく。
最後に、余った布を細く撚って紐にし、ティアの腰に回して結ぶ。ついでに床まで届く長い金髪を手櫛でまとめ、同じ紐の端で低い位置に括った。
「はい、おしまい」
ハジメは立ち上がって、ぱんぱんと手を払った。
ティアは、自分の身体を見下ろした。
膝下丈の、フード付きの一着になっていた。腕を持ち上げても、袖が引っかからない。一歩踏み出しても、裾を踏まない。括られた髪は、もう床に届いていなかった。
その場で、ゆっくりと一回転してみる。
裾がふわりと広がり、また落ちた。
袖口を指でつまむ。縫い目がどこにもないのに、ほつれひとつない。
「……すごい」
「でしょ」
「……どこで、学んだの」
ハジメは首を傾げた。
「学んだっていうか、ほぼ自己流? ちゃんと習ったことはないんだよね」
「……それで、これ」
「あーしのママ、漫画家なの。絵とお話描く仕事ね。ちっちゃい頃からそれ手伝ってて、ついでに絵の練習させてもらってたわけ。で、服のデザイン画ばっか描いてた」
ハジメは宙に指で四角を描いてみせる。
「描いたら作りたくなるじゃん? だから古着バラして、どうなってんのか調べて、縫い直して。失敗しまくったけどね。袖通んなくなったり、片っぽだけ長くなったり」
「……今のは、失敗してない」
「今は錬成あるから。縫わなくていいし、布切らなくていいし。マジでチートだよこれ」
からりと笑ってから、ハジメは少しだけ声の調子を変えた。
「でもさ、あーし、ちゃんと習いに行くつもりなんだよね」
「……どこに」
「アントワープってとこ。あーしの世界にある、服作る人の学校。世界で一番くらいすごいとこ」
「……遠いの」
「めっちゃ遠い。国違うし、言葉違うし、入るのもクソむずいらしいし」
指を折って並べる声は、むしろ楽しそうだった。
「でもそこ行って、ちゃんと勉強して、いつか自分のブランド作んの。あーしの名前がついた服を、世界中の人が着んの」
「……ぶらんど」
「自分のお店、みたいな感じ。あ、しかも今のあーしなら、自分でモデルもできるっしょ。この見た目だし」
白銀の髪をひと房つまんで、ハジメは胸を張った。
ティアは、その顔をじっと見上げた。
ついさっき、サソリの魔物と戦っていた時、この人が作っていたのは拳を覆う不格好な岩と、尖らせただけの石の槍だった。形になど、何のこだわりも見えなかった。
それが服の話になった途端、目の奥の光がまるで違う。
「……作ればいい。帰ったら」
「うん。作る」
即答だった。
「そんで、アンタが一着目のお客さんね。お代は出世払いでいいよ」
「……しゅっせばらい」
「偉くなったら払ってってこと」
「……私、元は王」
「え、じゃあもう出世してんじゃん。今払って」
「……今は、何も持ってない」
「知ってるw」
ハジメは笑いながら、足元で待っていた二匹の頭をわしわしと撫でた。
「よーし、コテツ、マロン、行くよ!」
二匹が弾かれたように立ち上がり、尻尾を振り回して駆け出していく。
ティアはもう一度だけ袖口を見て、それから、裾を持たずにその後を追った。
---
最初の魔物は、部屋を出てすぐの通路で現れた。
天井から、翼を広げた巨大なフクロウが音もなく舞い降りてくる。
「うわ、あいつ! 羽撃ってくるやつ! ティア、あーしの後ろ――」
ハジメが床に手をつくより早く。
ティアが、すっと右手を持ち上げた。
「――緋槍」
掌から、炎の槍が放たれた。
真紅の閃光が一直線に通路を貫き、フクロウの胴体に突き刺さる。
一拍遅れて、爆ぜた。
羽根が一枚残らず燃え上がり、フクロウは悲鳴を上げる間もなく、火の粉となって散った。
通路に、焦げた匂いだけが残る。
「…………」
ハジメは、床に手をついた姿勢のまま固まっていた。
ティアは右手を下ろし、振り返る。
「……終わった」
「…………え、ヤバ」
ハジメの口が、ぽかんと開いた。
「え、なに今の。一撃? 一撃で消し炭?」
「……うん」
「詠唱は!?」
「……いらない。前に言った」
「言ってたけど! 言ってたけども! あのフクロウ、あーし前に倒すのめっちゃ苦労したんだけど!?」
「……そう」
ティアは淡々と答えて、また歩き出した。
足取りが、ほんの少しだけ軽かった。
---
次に現れたのは、六本足の猫だった。
岩陰からしなやかに躍り出て、低く身構える。縦に裂けた瞳が、ぎらりと光った。
「あ、こいつもヤバいやつ――」
「――天灼」
猫の頭上に、ばちりと光が弾けた。
いくつもの雷の球が、宙に浮かんでいた。猫が飛びのくより早く、それらが一斉に降り注ぐ。
閃光と轟音が、通路を埋め尽くした。
光が収まった時、そこにはもう黒い焦げ跡しか残っていなかった。
「…………」
「……終わった」
ティアが振り返る。
ハジメは、両手で口元を覆っていた。
「え、待って。ヤバくない? え、ヤバくない!?」
「……」
「アンタめっちゃ強いじゃん! え、なに、アンタいれば道中楽勝じゃん!?www」
ハジメはその場でぴょんぴょん跳ねた。コテツとマロンが、つられて周りを跳ね回る。
「すごいすごい! ティア様最強! さすが元王様!」
「……それほどでも、ない」
ティアはそっぽを向いた。
表情は、いつもと何も変わらない。
けれど、括られた後ろ髪の先が、歩くたびにぴょこぴょこと弾んでいた。
(……もっと、言っていい)
---
それからは、ティアの独壇場だった。
岩陰から這い出てきた巨大なトカゲ。
「――緋槍」
爆散。
「うっわ強っ!」
天井に張りついていた、脚の長い蜘蛛。
「――破断」
細く絞られた水の光線が、天井を一閃した。蜘蛛は脚ごと真っ二つになって落ちてきた。
「ティア様ぁぁぁ!」
水溜まりから顔を出した、牙の生えた魚。
「――緋槍」
水溜まりごと蒸発。
「最強! 天才! 世界一!」
ハジメが褒めるたびに、ティアの手のかざし方が少しずつ大きくなっていく。
魔物が現れるより先に、ティアが前に出るようになった。
ハジメが床に手をついて道を探ろうとすると、ティアが「……いらない。燃やす」と先に進むようになった。
「いやもう、あーし何もすることないじゃんw 楽すぎw」
ハジメは頭の後ろで手を組み、コテツとマロンと並んで、のんびりとティアの後ろをついて歩いていた。
「これもう迷宮攻略じゃなくてお散歩でしょw ティア様の後ろ歩くだけの簡単なお仕事www」
「……任せて」
「任せる任せる!」
通路の先に、また影が動いた。
岩のような甲殻を持つ、猪ほどの大きさの魔物だった。
ティアは、迷いなく右手を掲げた。
これまでで一番大きく、腕を振りかぶる。
「――蒼天」
青白い太陽が、通路に生まれた。
直径数メートルの火球が轟音と共に放たれ、魔物を呑み込み、通路の奥の壁ごと焼き尽くす。
熱風が、ハジメの白銀の髪を激しく煽った。
光が引いた時、魔物は跡形もなく消えていた。壁には、赤く灼けた大穴が口を開けている。
「うおおおお! でっっっか! かっけぇ!!」
ハジメが両手を突き上げて叫んだ。
ティアが、ゆっくりと振り返る。
右手を下ろしたまま、まっすぐにハジメを見る。
「……どう」
「最強!!」
「……ん」
ティアは、小さく頷いた。
そして。
そのまま、ぐにゃりと。
溶けた。
膝が折れ、腰が落ち、上半身が前に崩れ、最後に頬がぺたりと岩の床にくっついた。
骨が抜けたような、見事な崩れ方だった。
「…………ぁ゛ー…………」
床に張りついた小さな口から、声が漏れた。
地の底から這い上がってくるような、濁った声だった。
「……ゔぁ゛ー……ぁ゛ぁ゛ー…………」
通路に、ゾンビのような呻きだけが響く。
コテツとマロンが、床に伸びたティアの匂いをふんふんと嗅ぎ、びくりと耳を伏せて一歩下がった。それから、揃って首を傾げる。
ハジメは、両手を突き上げた姿勢のまま、動かなかった。
その顔から、表情という表情が、すうっと抜け落ちていった。
「…………ティア?」
「……ぉ゛ぁ゛ー……」
「ティアさん?」
「……ゔ……ぅごけ、なぃ゛……」
床に頬をつけたまま、ティアが呻いた。
「……ま゛りょく……ぎれ゛だ……」
「…………」
「……も゛ぅ……ゔでな゛い゛……」
「…………」
ハジメは、ゆっくりと両手を下ろした。
虚無だった。
何もない顔で、床に溶けているティアを見下ろしていた。
「……アンタ、あとどんくらい撃てんの?」
「……ぜ゛ろ゛……」
「ゼロ!?」
「……ぁ゛ー……」
「返事してもらっていい?」
「…………」
ハジメは、天井を仰いだ。
その時だった。
コテツが、ぴくりと耳を立てた。
マロンが、低く唸る。
通路の奥――ティアが灼き抜いた大穴の向こうから、足音が響いてきた。
タタタタ、と。
軽く、速く、そして、たくさん。
ハジメが、ゆっくりと穴の方を見る。
闇の中から、それは現れた。
二本の脚で立つ、恐竜のような魔物だった。
細身の身体に、鋭い鉤爪。長い尾で釣り合いを取りながら、前傾姿勢でこちらを見据えている。
一体ではなかった。
二体、三体、五体、八体――穴の向こうから、次々と姿を現す。
そして、その全員の頭のてっぺんに。
ちょこん、と。
可憐な花が、咲いていた。
「…………」
「…………」
ラプトルの群れが、一斉にこちらを向いた。
先頭の一体が、甲高く鳴いた。
---
「――アンタイキってた割には全然じゃぁぁぁぁぁん!!!」
ハジメは、床に溶けていたティアを小脇に抱えて全力で駆け出していた。
背後から、無数の足音が迫ってくる。
「なにが任せてだし!? なにが楽勝だし!? あーしが言ったんだけど!! 言ったけども!!」
「……ゆれる」
「揺れるに決まってんでしょ!? 全力疾走中なんですけど!?」
小脇のティアは、手足をだらりと垂らしたまま、振り子のように揺れていた。抵抗する力も、文句を言い返す力も残っていないらしい。
コテツとマロンは、ハジメの左右を並走していた。
二匹とも耳をぴんと立て、口を開けて舌を出し、尻尾を千切れんばかりに振っている。
「アンタらなんでそんな楽しそうなの!? 追いかけっこじゃないからね!? あっちガチだからね!?」
背後を振り返る。
ラプトルの群れは、みるみる距離を詰めてきていた。
頭の花が、走る振動でふわふわと揺れている。
ハジメは、その花をまじまじと見た。
「……てか、なんであの子達、頭に花つけてんの!?」
「……」
「しかもなにあの配置! 全員ど真ん中! ど真ん中にちょこんって! アクセントのつもり!? 顔のラインと全然合ってないんですけど!?」
ハジメは走りながら、振り返っては叫ぶ。
「てか色! あの灰色の鱗にその薄ピンクはないでしょ!? くすむじゃん! 全体がぼやけるじゃん! 差し色にするならもっとビビッドにいかないと! あと全員お揃いなのもダサい! 制服じゃないんだから!」
「……」
「デザイナー誰だし!? 出てこい!! ダメ出ししてやる!!」
叫びながら、ハジメは踵で床を強く打った。
ブーツの刺繍が光る。
背後の床が、ばくりと口を開けた。
先頭を走っていた三体が、足場を失って穴の中に転げ落ちる。
後続は、器用に穴を跳び越えてきた。
「跳ぶの!? そりゃ跳ぶか! 脚長いもんね!」
もう一度、踵を打つ。
今度は床から石の壁がせり上がった。跳び越えてきた一体が、勢いのまま壁に激突してひっくり返る。
その時だった。
ハジメの腕に、ちくりと痛みが走った。
「――いっ!?」
見下ろす。
小脇に抱えたティアが、ハジメの二の腕に、しっかりと牙を突き立てていた。
ちゅう、と。
小さな喉が、動いていた。
「――アンタ何勝手に吸ってんだし!?」
「……ちょうど、いいところに、あった」
「ちょうどいいところに腕があったら吸うの!? 自販機か何か!?」
「……おいしい」
「今それどころじゃないんですけど!?」
叫びながらも、ハジメは足を止めなかった。
ちゅうちゅうと吸われながら、踵で床を打つ。穴。壁。穴。壁。
分かれ道に差しかかる。
ハジメは走りながら片手を壁にかすめ、蒼い光を一瞬だけ走らせた。
「――右!」
右の通路に飛び込み、振り返りざまに入口へ手を叩きつける。
岩壁がせり出し、入口を塞いだ。
壁の向こうで、ドン、ドン、と何かがぶつかる音。
甲高い鳴き声。
ハジメは、構わず走り続けた。
いくつもの分かれ道を曲がり、いくつもの壁を立てる。
やがて。
背後の足音が、聞こえなくなった。
「……はぁっ……はぁっ……」
ハジメはようやく足を緩め、壁に手をついた。
「……撒いた……? 撒いたよね……?」
コテツとマロンが、まだ尻尾を振りながら、ハジメを見上げている。
小脇のティアが、ぷはっと口を離した。
「……ごちそうさま」
「…………」
ハジメは、腕にくっきりと残った歯形を見下ろした。
それから、小脇のティアを見下ろした。
ティアの肌が、つやつやしていた。
ついさっきまで床に張りついてゾンビのような声を上げていたとは思えないほど、頬には血色が戻り、白い肌はランタンの光を受けてほんのりと輝いている。
ティアは小脇に抱えられたまま、満足げに目を細め、ぺろりと唇を舐めた。
手足はだらりと垂らしたまま。自分で歩く気配は、微塵もない。
「…………」
ハジメの頬が、ひくりと引きつった。
「……アンタ、めっちゃツヤツヤしてない?」
「……おいしかった」
「感想聞いてないんだけど」
「……いい運動にもなった」
「アンタ一歩も動いてないよね!? 運動したのあーしだよね!?」
「……揺れるから。ほどよく」
「ゆりかごじゃないのよ!?」
ティアは答えず、小脇に収まったまま、ふう、と満ち足りた息を吐いた。
「……こいつ……!!」
コテツとマロンが、何も分からないまま、嬉しそうにワンと吠えた。
---
ハジメが最後に飛び込んだ通路の先は、広い空洞に続いていた。
天井の高いその空間には、なぜか植物が生い茂っていた。
壁を這う蔦。床から伸びる、名前も分からない草。奈落の底とは思えないほど、青々とした緑が広がっている。
「……なにここ。植物園?」
ハジメは、ティアを空洞の入口近くの岩の前で下ろした。
ほとんど、放り出すように。
「はい到着! 終点でーす! お代は結構でーす!」
「……ん」
ティアは岩に背を預けて、ゆったりと座り込んだ。脚を投げ出し、両手をお腹の上で組んで、満腹の猫のように目を細めている。
「……くつろいでんじゃないよ」
「……休憩、でしょ」
「そうだけども!」
コテツとマロンが、空洞の中をふんふんと嗅ぎ回り始める。
ハジメも、辺りを見回した。
床に手をつこうとして――
ふと、空洞の奥に目が留まった。
緑の中に、ひときわ大きな花が咲いていた。
いや。
花ではなかった。
蔦と葉と花弁が絡み合って、人の形を作っていた。
女のような上半身。長い髪のように垂れる蔦。緑色の肌。その頭には、大輪の花が、冠のように咲き誇っている。
それが、にっこりと笑った。
「…………」
「…………」
「……ねえ、ティア」
「……なに」
「花の、デザイナー、いた」
植物の女が、腕を振った。
蔦の先から、何かが弾き出される。
小さな、種のようなもの。
それが一直線に飛んでくる。
ハジメは反射的に身体を捻った。種が頬を掠め、背後へと抜けていく。
背後。
岩にもたれて、すっかりくつろいでいる、ティアの方へ。
「――ティア!」
振り返った時には、遅かった。
満腹で目を細めていたティアの頭に、種が当たった。
ぽん、と。
軽い音と共に。
ティアの金髪のてっぺんに、可憐な花が咲いた。
「…………」
「…………」
ティアが、ぱちりと瞬きをした。
それから、自分の頭に手をやろうとして――その手が、止まった。
ティアの意思とは関係なく。
ゆっくりと、立ち上がる。
投げ出していた脚が、ティアの意思とは関係なく床を踏みしめる。まるで、見えない糸に吊り上げられるように。
「……え」
ティアの右手が、持ち上がった。
掌が、ハジメの方を向く。
「……ちがう」
ティアの口から、声が漏れた。
「……わたし、じゃない」
「え、ちょ、待って――」
「……からだ、かってに――」
掌に、真紅の光が灯った。
「――にげて」
緋槍が、放たれた。
---
「――っ!!」
ハジメは、床に両手を叩きつけた。
蒼い光が爆発的に広がる。
目の前の床が隆起し、岩の壁がせり上がる。
その壁に、緋槍が突き刺さった。
轟音。
岩が砕け、破片が飛び散る。壁の中央が赤熱し、どろりと溶け始める。
ハジメは手を離さなかった。
溶けた部分の裏側に、次の岩を錬成する。圧縮する。さらに圧縮する。薄く、固く、何層にも重ねていく。
炎が止んだ。
壁は、半分ほど溶け落ちて、それでも立っていた。
「……っぶな……!」
ハジメの額から、汗が伝い落ちた。
壁の向こうで、ティアの右手が、再び持ち上がる気配がした。
「……だめ……とまらない……」
ティアの声が、震えていた。
「――天灼」
壁の上に、ばちばちと光が弾けた。
雷の球がいくつも浮かび、真上から降り注いでくる。
「うわわわわっ!」
ハジメは壁の上に岩の屋根を張り出した。雷の球が屋根を叩き、弾け、焦がし、穴を穿つ。穿たれた端から、ハジメが埋めていく。
コテツとマロンが、ハジメの足元に飛び込んできた。二匹とも毛を逆立て、壁の向こうのティアに向かって唸り声を上げている。
「ダメ! ティアには噛みつかないで! あの子悪くないから!」
ハジメは二匹の首元を掴んで、自分の後ろに引き寄せた。
壁の隙間から、向こうを覗く。
ティアが、立っていた。
その頭の上で、可憐な花が揺れている。
その後ろ、空洞の奥で、植物の女がにこにこと笑っている。
ティアの紅い瞳は、ハジメをまっすぐに見ていた。
その瞳には、はっきりと意思があった。
焦りと、困惑と、それから――必死に抗おうとしている色が。
けれど、身体はそれに従わない。
右手が、また持ち上がる。
「――っ、また来る!」
三発目。緋槍。
ハジメは壁を錬成し直した。砕ける。溶ける。重ねる。圧縮する。
手のひらが、熱かった。魔力を注ぎ込むたびに、指先がじんと痺れる。
「……これ、ずっとは、無理……!」
壁越しに、ハジメは花の女を見た。
それから、その手前に立つティアを見た。
また花の女を見て、またティアを見る。
唇を噛んで、眉を寄せる。床についた両手が、何度か握られては開かれた。
「……どうしよ、これ……」
ティアの右手が、また光を帯びていく。
その腕が、小刻みに震えていた。
ハジメの視線が、その震える腕に留まった。
じっと、見つめる。
ハジメの動きが、止まった。
「…………あ」
ぽつりと、声が漏れた。
ハジメは壁に手をついたまま、ゆっくりと口の端を持ち上げた。
コテツとマロンが、ハジメの顔を見上げて、首を傾げた。
ハジメは、とても、とても悪い顔をしていた。
---
「――ねえー、金太郎ー!」
壁の向こうで、ティアの肩がびくりと跳ねた。
「金太郎ちゃーん! 聞こえてるー? あ、聞こえてるよね! 意識あるもんね!」
「…………」
ティアの紅い瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
「いやー、それにしても金太郎、さっきまでめっちゃイキってたよねー!」
ハジメは、壁の上からひょこりと顔を出した。
「『……任せて』キリッ! とか言っちゃってさー! ドヤ顔でクソでかいの撃って! 『……どう』とか聞いてきて! そのまま床に溶けて『ゔぁ゛ー』とか言ってたもんねー! ゾンビかと思ったわ!」
「…………っ」
「あんだけイキっといて、もう空っぽ! 燃費悪すぎでしょ! アンタ完全にフェラーリじゃん! すっごい速いけどガソリン馬鹿食いするやつ!」
「――――っ!!」
ティアの右手が、光った。
さっきまでとは、明らかに違う光だった。
「――緋槍ッ!!」
これまでで一番太い炎の槍が、壁に叩きつけられた。
轟音。
壁の上半分が、吹き飛んだ。
「うひゃっ!?」
ハジメは頭を引っ込めた。熱風が髪を焦がしかける。
すぐさま壁を錬成し直す。重ねる。圧縮する。
そして、また顔を出した。
「こっわ! 金太郎こっわ! でもその調子その調子ー!」
「――っ!!」
「コテツ、マロン! アンタらも応援して! はい、せーの!」
ハジメが両手を叩いて、弾んだ声で二匹を煽る。
二匹は、何が始まったのか分からないまま、ハジメの楽しそうな声につられて尻尾を振り回した。
ワンッ! ワンワンッ! ワオーンッ!
壁の向こうのティアに向かって、元気いっぱいに吠え立てる。
ティアの顔が、みるみる赤くなっていく。
(――――このいぬたちまで……ッ!!)
「ほらー、コテツとマロンも『金太郎がんばれー』って言ってるよー!」
「――いってないッ!!」
ティアが叫んだ。
操られているはずの口から、はっきりと。
「――破断ッ!!」
高圧の水の光線が、壁に叩きつけられた。
岩が削り取られ、切り裂かれ、破片が吹き荒れる。
ハジメは壁にしがみつくように両手をつき、錬成を注ぎ続けた。
「きんたろうじゃない! きんたろうじゃない! きんたろうじゃないッ!!」
「あっ、今三回言った! 三回言ったら金太郎確定ね!」
「――蒼天ッ!!」
青白い太陽が、空洞に生まれた。
「それはヤバいってぇぇぇぇ!!」
ハジメは、ありったけの魔力を床に叩き込んだ。
壁が、三重にせり上がる。
蒼天が、一枚目を呑み込んだ。
二枚目が溶ける。
三枚目が赤熱し、中央がどろりと垂れ下がり――
――そこで、止まった。
光が、引いていく。
熱風が、ゆっくりと収まっていく。
三枚目の壁は、穴だらけで、半分溶けて、それでも、かろうじて立っていた。
「……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
ハジメは、壁に額を押しつけて、荒い息を吐いた。
両手の指先が、小刻みに震えていた。
壁の向こうで、ティアの右手が、また持ち上がる気配がした。
だが。
その手は、途中で止まった。
ぷるぷると、震えている。
掌に、光が灯らない。
「…………」
ティアの膝が、かくんと揺れた。
操っている何かが、それでも無理やり立たせようとしているのか、身体はぎりぎりのところで崩れない。けれど、その脚はもう、生まれたての小鹿のように震えていた。
ハジメは、壁の穴から、そっと顔を出した。
「……もしかして、もう出ない感じ?」
「…………」
ティアは、答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
代わりに、その足が、一歩、前に出た。
ふらり、と。
また一歩。
操られた身体が、魔法を撃てないなら直接、とでも言うように、ハジメの方へと歩いてくる。
ティアは、ふらふらと壁を回り込み、ハジメの前に立った。
そして。
小さな両手を、振りかぶった。
ぽか。
ハジメの胸に、拳が当たった。
ぽかぽか。
ぽかぽかぽか。
「…………」
ハジメは、自分の胸を叩き続ける小さな拳を見下ろした。
力が、まったく入っていなかった。
羽毛で撫でられているような感触だった。
ぽかぽかぽかぽか。
「……え? なに?」
ハジメは、首を傾げた。
「マッサージ?」
「――――ッ!!!」
ティアの顔が、耳まで真っ赤に染まった。
ぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽか!!
「あ、ちょっと強くなった! いいね! そこそこ! 肩甲骨のあたりもお願いしていい?」
「――っ! ――っ!!」
「あー効くわー。金太郎マッサージ、お店出せるよこれ」
「――きんたろう、じゃ、ない……ッ!!」
ぽかぽかぽかぽか。
コテツとマロンが、二人の周りをぐるぐると回りながら吠えている。
空洞の奥で。
植物の女が、首を傾げていた。
さっきまで浮かべていた笑みが、消えている。
蔦の髪がゆらゆらと揺れ、緑の顔がティアとハジメを交互に見比べる。
操っているはずの獲物が、敵を殺すどころか、ぽかぽかと胸を叩いている。
叩かれている方は、なぜか気持ちよさそうにしている。
犬が吠えている。
植物の女は、もう一度、首を傾げた。
逆方向に。
困惑していた。
どう見ても、困惑していた。
ハジメの視線が、ティアの頭越しに、植物の女を捉えた。
その顔から、ふざけた笑みがすっと消えた。
「――コテツ、マロン!」
鋭い声だった。
二匹の耳が、ぴんと立った。
ハジメの右手が、真っ直ぐに空洞の奥を指差す。
「――行って!」
白銀の影が、二つ、弾けた。
紫電を纏った二匹が、床を蹴り、壁を蹴り、稲妻のような軌跡を描いて空洞の奥へと突っ込んでいく。
植物の女が、はっと我に返ったように蔦を振り上げた。
遅かった。
コテツの牙が、女の首元に食らいついた。
マロンの爪が、その胸の奥で脈打つ、赤い魔石を捉えた。
雷鳴が、空洞に轟いた。
二匹の全身から放たれた紫電が、植物の身体を内側から焼き焦がす。
魔石に、亀裂が走った。
そして――砕けた。
植物の女の身体が、ぐずぐずと崩れていく。蔦がしおれ、葉が枯れ、花弁が散る。
最後に、頭の大輪の花が、ぽとりと床に落ちた。
同時に。
ハジメの胸を叩いていた小さな拳が、止まった。
ティアの頭のてっぺんで、可憐な花が、しおしおとしおれていく。
茎が折れ、花びらが散り、ひらりと床に落ちた。
操り糸が、切れた。
「――あ」
ティアの身体から、力が抜けた。
ぐにゃり、と。
ハジメの胸にもたれかかったまま、ずるずると崩れ落ちていく。
ハジメは慌ててその身体を支えた。
「おっと。……はい、おかえり」
ティアは、答えなかった。
ハジメの腕の中で、完全に溶けていた。
---
空洞の奥から、コテツとマロンが誇らしげに駆け戻ってきた。
二匹ともハジメの足元に座り込み、尻尾を床にばたばたと打ちつけながら、きらきらした目で見上げてくる。
「アンタら最高! ナイス! 天才! 今日のMVP!」
ハジメは片腕でティアを支えたまま、もう片方の手で二匹の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
それから、腕の中のティアを見下ろした。
「……ティア? 大丈夫? 生きてる?」
「…………」
「おーい」
「…………ぜんぶ」
ぼそり、と。
ハジメの腕の中で、溶けたままのティアが言った。
「……ぜんぶ、きこえてた」
「…………」
ハジメの笑顔が、固まった。
「……い、いやー、あれは作戦だったっていうか? ほら、アンタのスタミナ切れさせないと止まんないじゃん? だから、ね? 必要な犠牲っていうか?」
「……いかってた」
「……え」
「……あなた、たのしそう、だった」
「…………」
「……すごく」
ハジメの額に、汗が一筋伝った。
「……それは、ちょっとだけ、否定できないかも……」
ティアは、しばらく黙っていた。
腕の中で、ぐったりと溶けたまま。ぴくりとも動かない。
ハジメは、その沈黙に耐えきれなくなったように、へらっと笑った。
「い、いやでもさ! 結果オーライじゃん? みんな無事だったし! 今日の金太郎、ほんとよく頑張ったよね! えらいえらい、金太郎――」
「――――」
溶けていたはずの小さな身体が、跳ねた。
腕の中から、弾丸のように。
「――え」
ガブゥッッ!!!
「いっっっだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」
ハジメの二の腕に、これまでで一番深く、牙が食い込んでいた。
「ちょ、ちょっと待って!? アンタ今の今まで溶けてたよね!? 動けないんじゃなかったの!?」
「……のこしてた」
「なんで!?」
「……このときの、ため」
「計画的犯行!?」
ちゅう、と。
小さな喉が、動いた。
「――しかも吸ってる!? またそれ!? 今日二回目なんですけど!?」
「……ちょうど、よかった」
「ちょうどよくない! 一言くらい聞いて!? あーし献血車じゃないから!」
「……きんたろうじゃ、ない」
「知ってるって! もう分かったから! ティア! ティア様! 世界一かわいいティア様――いだだだだだ吸ってる! めっちゃ吸ってる!! さっきより吸ってるってば!!」
腕にぶら下がったまま、ティアは一ミリも離れる気配を見せなかった。
振っても揺すっても、剥がれない。むしろ吸う勢いが増していく。
コテツとマロンが、また二人の周りを跳ね回り始めた。
植物の生い茂る空洞に、悲鳴と吠え声が、いつまでも響き渡っていた。