岩陰から、影が跳んだ。
狼ほどの大きさの、牙を剥いた魔物。通路の角で息を潜めていたそれが、先頭を行くハジメの喉元めがけて一直線に飛んでくる。
「――っと!」
足元で紫電が弾ける。
ハジメの身体が横に滑り、牙が空を噛んだ。行き場をなくした魔物が、勢いのままハジメの脇を通り過ぎていく。
その着地点には、もう白銀の影が二つ、待ち構えている。
コテツの牙が首を、マロンの牙が脇腹を捉えた。
バヂィッ!
紫電が炸裂する。魔物は短く鳴いて、それきり動かなくなった。
「ナイス!」
ハジメが指を鳴らす。二匹は誇らしげに尻尾を振って、その足元へ駆け戻ってくる。
少し後ろから、ティアはその一連の流れを眺めていた。
(……速くなってる)
ついこの間まで、この人は紫電を走らせるたびに、どこかしら軸がぶれていたはずだ。止まりきれずによろけたり、壁に手をついたり。
今の横滑りは、ぶれていない。
---
分かれ道の先で、天井から大きな甲虫が落ちてきた。
ハジメが踏み込みの瞬間だけ紫電を灯して懐に入り、岩を纏わせた拳で腹を打ち上げる。ひっくり返ったその柔らかい腹へ、コテツとマロンが同時に食らいついた。
指が鳴り、二匹が戻ってくる。
---
水の滴る広間では、巨大なカエルが舌を伸ばしてきた。
ハジメが錬成の壁でそれを受け止める。壁に貼りついた舌を、二匹が左右から裂いた。
指が鳴り、二匹が戻ってくる。
踏み込む。止める。跳ぶ。仕留める。
三つの影の間に、言葉はほとんど要らないらしい。
---
狭い通路を抜けた先で、足音が聞こえた。
ひとつではない。
カサカサカサカサ、と。
闇の奥から、膝の高さほどの蜘蛛が、壁も天井も埋め尽くす勢いで湧き出してくる。数えるのも嫌になる数だ。
「うっわキモっ! 無理無理無理、あれ全部相手すんの無理!」
ハジメが一歩下がる。
入れ替わるように、ティアが前に出た。
「……私の番」
「お願いしまっす!」
右手を掲げる。
「――天灼」
通路の天井に、無数の光が灯った。
雷の球が蜘蛛の群れの頭上を埋め尽くし、次の瞬間、一斉に降り注ぐ。
閃光。轟音。通路が真っ白に塗り潰される。
光が引いたあとには、焦げた匂いだけが残っていた。
「……終わった」
「さすが!」
ぱちぱちと手を叩きながら、ハジメが袖をまくる。もう慣れた手つきだった。
「はい」
「……まだ、いける」
「いや、今のデカかったじゃん。先に入れとこ」
「……ん」
差し出された腕を両手で取って、小さく牙を沈める。
ハジメの肩は、もう跳ねなくなっていた。
---
いくつもの階層を下った。
少数に襲われればハジメと二匹が迎え撃ち、群れに襲われればティアが薙ぎ払う。撃てばハジメが腕を出す。
誰が決めたわけでもないのに、いつの間にかそういう形になっていた。
通路の曲がり角から、大柄な猿のような魔物が二体、同時に飛び出してきた時のことだ。
ハジメの全身を、紫電が包んだ。
踏み込みの一瞬だけではない。紫電はまとわりついたまま消えず、ぱちぱちと音を立て続けている。
一体目の拳をかわして顎を打ち抜く。振り返りざま二体目の腕を払い、脇腹に膝を叩き込む。よろめいたところへ、二匹が飛びかかった。
その間、紫電は一度も途切れなかった。
二体が倒れてから、ようやく光がふっと消える。
「……っはぁ。今の、ちょっと長く保てたっしょ」
肩で息をしながら、ハジメが自分の手のひらを見下ろす。
「前は一瞬しかつけてらんなかったのに。目が慣れてきたのかな」
「……長かった」
「でしょ!? 何秒くらい? 数えてた?」
「……数えてない」
「数えといてよー」
唇を尖らせて、それからすぐにけろりと笑う。
---
そうして、どれほど下っただろうか。
通路の先が、急に開けた。
「……うわ」
ハジメの足が止まる。
天井が見えない。左右には太い石柱が等間隔に並び、その列が奥までずっと続いている。磨かれた床が、ランタンの光を鈍く照り返していた。
柱の列の終わり、最奥に、巨大な扉が見える。
見上げるほどの両開きで、表面には見たこともない精緻な紋様が刻まれていた。
「……扉」
「なんか、ラスボス前って感じの部屋じゃない?」
周囲を見回しながら、ハジメがそろそろと足を踏み出す。柱の間を進むたび、足音が高い天井に反響した。
部屋の中ほどまで来た、その時。
足元の床が、光った。
「――え」
紅い線が床一面を走っていく。円、その中に円、さらにその内側にびっしりと刻まれた文字と図形。
部屋いっぱいに広がる、巨大な魔法陣。
「ちょ、なにこれ、なにこれ!?」
コテツとマロンが同時に唸った。
魔法陣の中心から光の柱が立ち上がり、その中で何かが形を成していく。
最初に見えたのは胴だった。小さな家ほどもある、鱗に覆われた巨体。
そこから首が伸びる。
ひとつ。ふたつ。みっつ――
赤、青、緑、黄、黒、白。六本の長い首が、それぞれ違う色の鱗を纏って鎌首をもたげた。
十二の瞳が、一斉に見下ろしてくる。
「…………」
ハジメの口が、半開きのまま固まる。
「……デカくない?」
「……大きい」
「首多くない?」
「……六本」
「数えなくていいから!」
赤い首が大きく口を開けた。喉の奥で炎が渦を巻く。
「――散って!!」
叫びと同時に、灼熱の奔流が床を舐めた。
---
紫電を纏ったハジメが、ティアを抱えて横に跳ぶ。
さっきまでいた場所が焼き払われ、石の床が赤く溶けた。コテツとマロンは、すでに左右へ散っている。
着地と同時にティアを降ろし、ハジメはまた飛び出した。
青い首が冷気を吐く。床が凍りつき、氷の刃が石柱を削った。その下を、ハジメは身を沈めて滑り抜ける。
緑の首が風の刃を撒き散らす。走りながら床に手をつき、立てた岩の壁でそれを受ける。壁が切り刻まれる頃には、もう別の場所にいた。
赤い首の、真下へ。
「――バリバリ……ロケットぉぉぉッ!!」
背後で紫電が炸裂する。
岩を纏った両拳ごと、ハジメの身体が真上へ射出された。
赤い首の顎を、下から打ち抜く。
ゴガァッ!!
赤い首が大きくのけぞる。鱗が砕け、牙が飛んだ。
「……効いてる」
後方で、ティアが呟く。
サソリの時とは違う。あの甲殻はこの人の拳をまるで受け付けなかったが、今、赤い首の顎は確かにひしゃげている。
コテツとマロンが左右から青い首に飛びかかった。雷を帯びた牙が鱗に食い込む。振り払おうと暴れる首に、二匹はしがみついて離れない。
ティアも右手を掲げる。
「――緋槍」
炎の槍が、緑の首の付け根を貫いた。
「ナイス、ティア!」
着地したハジメが、のけぞった赤い首の根元へ踏み込む。雷を引きずった回し蹴りが、付け根へ叩き込まれた。
赤い首がぐらりと傾ぎ、そのまま床へ倒れ伏す。
「よし、一本――」
白い首が、口を開けた。
歌うような、澄んだ声が響く。
白い光が、倒れた赤い首を包み込んだ。
砕けた鱗が元に戻り、ひしゃげた顎が音を立てて形を取り戻していく。
赤い首が、何事もなかったように鎌首をもたげた。
「――――は?」
ハジメの顔が引きつる。
ティアが焼いた緑の首の傷も、二匹が刻んだ歯形も、同じように消えていった。
「治した、じゃないんだけど!? ずるくない!? 今の完全に落としたよね!?」
叫びながら、振り下ろされた噛みつきを横に跳んでかわす。
「――あの白いの! ティア、先にあれ!」
「……ん」
ティアの手が白い首に向く。
「――緋槍」
炎の槍が飛ぶ。
その前に、黄色い首が割り込んだ。
光の壁が展開され、緋槍は弾かれて霧散する。
「――守ってる」
「うっそでしょ!?」
ハジメが黄色い首へ駆け出し、紫電の乗った拳を壁へ叩きつける。
ガィンッ!
硬い音。壁はわずかに揺らいだだけで、砕けない。
左右から赤と青の首が挟みにくる。ハジメは床を蹴って後ろへ跳んだ。
「……っ、硬っ……」
着地したその正面で、赤い首が大きく口を開けていた。
喉の奥に、光が収束していく。さっきの炎とは違う。目を焼くほどに凝縮された、白い光。
「――やばっ」
床に両手を叩きつける。
岩の壁がせり上がる。
赤い首の口から、光線が放たれた。
壁に、直撃。
轟音とともに、壁ごと爆ぜた。
閃光と爆風が広間を揺らし、砕けた岩が四方に飛び散る。その爆炎の中から、白銀の影が弾き飛ばされた。
宙を舞ったハジメの身体が床を何度も跳ね、石柱に背中から叩きつけられる。
「――が、はっ……!」
ずるずると、柱の根元へ崩れ落ちた。
服のあちこちが焦げて裂け、左肩の下の肌が赤黒く焼け爛れている。額が切れ、血が目の上を伝っていた。
「……っ、い、ったぁ……」
柱に手をついて、歯を食いしばりながら身体を起こす。左腕が、うまく上がらない。
ティアが、その隣に駆け寄った。
焼けた肩を見て、思わず息を呑む。
「……平気。まだ、動く」
手の甲で額の血を拭って、ハジメが首の群れを睨んだ。
「……白いのを、先に」
「分かってる。……でも、黄色いのが邪魔で――」
首の群れの中で、黒い首だけが動いていない。
他の首の陰から、じっとこちらを見ている。
その瞳が、ティアを捉えた。
黒い瞳の奥で、何かが、ゆらりと揺れる。
ティアの視界が、歪んだ。
---
暗い。
柱も、扉も、首の群れもない。ただ、暗い。
その暗闇の中に、白銀の髪が見えた。
背中を向けて、立っている。
声が、出ない。
ハジメが、振り返る。
その顔には何の表情もなかった。冷たくて、遠くて、汚いものでも見るような目。
「――化け物じゃん」
「……ちが」
「ごめん。あーし、もう無理」
背を向けて、歩き出す。足元に寄り添う二匹も、振り返らない。
「……まって」
足が動かない。見下ろせば、足首から冷たい石が這い上がってきている。
三百年前と、同じだ。
叔父の顔。家臣たちの顔。「化け物」と囁く声。閉ざされていく光。
それが全部、あの人の顔で繰り返される。
「……おいて、いかないで……」
石が、首まで来た。
光が、閉じていく。
また、ひとりで。
また、三百年――
---
ティアは、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。
紅い瞳はどこも見ていない。見開かれたまま焦点を失い、唇だけが小刻みに震えている。
「……いや……おいて、いかないで……」
赤い首が、動かないその小さな身体に向かって口を開けた。
「――っ!」
ハジメが紫電を爆ぜさせて飛び込む。ティアを抱えて転がった直後、炎がその場所を焼き払った。
鋭い指笛。ハジメの指が首の群れを差す。
二匹が左右から跳び、赤い首と青い首に食らいついた。首の注意が、一瞬だけそちらへ逸れる。
ハジメは、腕の中を見下ろした。
紅い瞳は、まだどこも見ていない。
「……いや……いかないで……ひとりに、しないで……」
小さな唇が、同じ言葉をぶつぶつと繰り返している。
頬を、涙が伝った。
ハジメの手が、止まる。
首の群れの奥で、黒い首がじっとこちらを見ていた。
その首を、ハジメは一瞬だけ睨む。
それから、焼けた左腕ごと、腕の中の小さな身体を胸に引き寄せた。
何も言わずに。
強く、抱きしめる。
しばらくして、ティアの耳元に、小さな声がぽつりと落ちた。
「……大丈夫。……大丈夫だから」
---
暗闇の中で。
石に呑まれかけていた身体に、何かが触れた。
温かい。
冷たい石の上から、ぎゅっと包み込んでくる。
「……大丈夫。……大丈夫だから」
声が聞こえる。
遠ざかっていったはずの、あの声だ。
けれど、さっきとはまるで違う響きをしていた。
小さくて、低くて、少しだけ震えた声。
首元まで這い上がっていた石に、ぴしりと亀裂が走る。
---
ティアの瞳に、光が戻った。
最初に見えたのは、白銀の髪。
頬に、柔らかいものが当たっている。ハジメの胸だ。
抱きしめられている。
「……ぁ」
小さな声が漏れると、頭の上でハジメが息を吐いた。腕の力が、さらに強くなる。
ティアは、その腕の中でじっとしていた。
背中に回された腕が、震えている。
小刻みに、ずっと。
抱きしめる力は強いのに、その奥で何かが震え続けている。
(……ふるえてる)
この人も、怖いのだ。あの首の群れが。治る敵が。守られる敵が。
それでも、腕は離れない。
そして――温かかった。
胸から、腕から、全身から伝わってくる。三百年、冷たい石の中にいた身体に、じんわりと染み込んでくる。
その温かさの、ずっと奥に。
何かが、ぼんやりと浮かび上がってきた。
小さな自分。誰かの腕の中。柔らかくて、温かくて、いい匂いがして。
頭を撫でる手。
「大丈夫よ」と囁く声。
――顔は、思い出せない。
声も、もうはっきりとは聞こえない。
ただ、温かかったことだけを覚えている。
ずっと昔。王になるよりも、ずっと前。
(……おかあ、さま)
目から、涙が一筋こぼれた。
さっきとは違う涙だった。
ティアは、ハジメの服を小さな手でぎゅっと握りしめる。
---
「……ティア、戻った?」
腕の中で、ティアが小さく頷く。
「……黒いの。あれが、見せた」
ハジメの目が、すっと細くなる。
背後でコテツが振り払われ、床を転がった。マロンが青い首の冷気を跳んでかわしている。
ハジメは腰の水筒を確かめた。一本は空。一本は半分。一本は、底にわずか。
それから、ティアに背中を向けてしゃがみ込む。
「――乗って」
「……え」
「背中で撃って。撃ったら吸って。あーしが走るから」
「……あなたが、もたない」
「もたす。早く!」
ティアは、その背中に身体を預けた。
両腕を首に回すと、ハジメの腕が脚を下から抱え込む。
背中が、温かい。
さっき抱きしめられた時と、同じ温度だった。
「コテツ、マロン! 黄色いのと黒いの、邪魔して!」
ハジメの全身を、紫電が包む。背中のティアにまで、ぴりぴりと痺れが伝わってきた。
「――行くよ、ティア!」
「……ん」
ハジメが、床を蹴った。
---
首の群れが、一斉にこちらを向く。
赤い首が炎を吐いた。ハジメは光を纏ったまま横へ跳ぶ。炎が脇を掠めていく。
跳んだ先で、ティアが右手を掲げた。
「――緋槍」
炎の槍が青い首の目を貫き、悲鳴が上がる。
ハジメはすでに走り出している。
緑の首が風の刃を放つ。走りながら片手を床につき、岩の壁を立てる。削られる音を背中で聞きながら、さらに加速した。
「――天灼」
首の群れの頭上に、雷の球が浮かぶ。降り注いだそれに打たれ、赤と緑の首が激しく痙攣した。
白い首が歌い始める。黄色い首が、その前に光の壁を張った。
その目元へ、コテツが飛びついた。雷を帯びた牙が瞼に食い込み、悲鳴とともに光の壁が揺らぐ。
黒い首の喉元には、マロンが食らいついている。暴れても、離れない。
「――破断」
揺らいだ壁の隙間を縫って、水の光線が白い首をかすめる。白い鱗が裂け、歌が途切れた。
そこで、ティアの腕から力が抜けた。
首に回していた腕が、わずかに緩む。
「――吸って!」
その声と同時に、ティアは目の前の首筋へ牙を沈めた。
「……っ」
ハジメの肩が一瞬だけ強張る。
それでも、足は止まらない。赤い首の噛みつきを身を沈めてかわし、青い首の冷気を柱を蹴って飛び越える。
その間も、ティアは吸い続けた。
温かいものが喉を流れ、空になりかけていた身体の奥に力が戻ってくる。
走りながら、ハジメが半分残った水筒を掴んだ。蓋を歯で開けて、大きくあおる。
喉が、ごくごくと鳴った。
焼け爛れていた左肩が、じわじわと塞がっていく。
「――っぷは! ティア、いける!?」
牙を抜く。
「……いける」
「よっしゃ!」
口元を拭って、ハジメがまた加速する。
「――凍柩」
放たれた冷気が赤い首を包み、分厚い氷が首全体を閉ざした。
「――緋槍」
緑の首の付け根に、炎の槍。
「――緋槍」
もう一本。
白い首がまた歌い出す。凍った赤い首が内側から光を帯び、氷を溶かし始めた。
「――天灼」
雷の雨が白い首に降り注ぎ、歌が途切れる。
黄色い首がコテツを振り払い、白い首の前へ壁を張り直した。
「……っ」
ティアの腕が、また震える。
首筋に、もう一度牙が沈んだ。
「――いいよ、吸って吸って!」
ハジメは柱の間を縫って走り続ける。
さっきの水筒の残りを、あおる。
肩で息をしている。額から汗が流れ落ちる。首筋に滲んだ血は、神水を飲むたびに塞がっていく。塞がったそのすぐ隣へ、また牙が沈む。
ティアは、その背中にしがみついていた。
揺れる。跳ぶたび、かわすたび、曲がるたび、身体が大きく揺さぶられる。
それでも、一度も落ちそうにならなかった。
脚を抱え込む腕は、どれだけ揺れても緩まない。
(……落とさない)
この人は、落とさない。
どれだけ跳んでも。どれだけかわしても。どれだけ血を吸われても。
背中から伝わる体温が、ずっと同じ温かさのままだ。
ティアは牙を抜き、右手を掲げる。
「――緋槍」
「――天灼」
「――破断」
撃つ。撃つ。撃つ。
吸う。
撃つ。撃つ。
吸う。
ハジメが、最後の一本をあおった。
底に残っていた、わずか数口。
空になった水筒が、床を転がっていく。
---
首の群れの動きが、鈍り始めていた。
白い首の歌が途切れ途切れになっている。何度も焼かれ、何度も打たれて、回復が追いついていない。
赤い首は片目が潰れたまま。青い首は鱗の半分が焦げ、緑の首は付け根から力なく垂れ下がり始めている。黒い首は、マロンに喉を噛まれ続けてぐったりと床に伏していた。
残るは、黄色い首の光の壁。
その奥で、白い首が最後の力を振り絞るように歌っている。
「……あいつ、まだ治す気だ」
荒い息の合間に、ハジメが呟く。
足が、ふらついていた。背中のティアにも、それが伝わってくる。
「……もう、一発」
ティアが言う。
「……壁が、なければ」
ハジメが黄色い首を睨んだ。
「――コテツ! マロン!」
叫ぶ。
「黄色いの! 全力で!」
首の群れの左右から、白銀の影が二つ弾けた。
コテツが左から。マロンが右から。
二匹の全身が、これまでで一番激しい紫電に包まれている。ばちばちと空気の焼ける音がした。
床を蹴る。
左右から、交差するように。
雷光の軌跡が、黄色い首の前で×の字を描いた。
バヂヂヂィィィッ!!!
二つの雷撃が、同時に光の壁へ突き刺さる。
壁が軋み、ひびが走った。
「――今!」
ハジメが足を止め、背中に手を回して、ティアをそっと床に降ろす。
「……ここで、撃って」
「……うん」
ティアの足が床に着いた。
ハジメは振り返らない。
全身の紫電が一気に膨れ上がり、右脚へと集中していく。
跳んだ。
高く。ひびの入った光の壁の、真正面へ。
空中で身体を捻る。回転。白銀の髪が弧を描く。
紫電の尾を引いて、右脚が振り抜かれた。
「――どっ、せぇぇぇぇぇいッッ!!!」
踵が、光の壁に叩き込まれる。
ガシャァァァンッ!!!
壁が、砕け散った。
砕けた光の破片の向こうで、蹴りの勢いのまま、踵が黄色い首の横面を打ち抜く。黄色い首が横殴りに吹き飛んだ。
ハジメの身体は、止まらない。
蹴りの勢いのまま、空中でさらに一回転。
回転の先に、吹き飛んだ黄色い首の頭がある。その脳天が、すぐ目の前に迫っていた。
右腕に、紫電が奔る。
焼けた左腕ではなく、まだ動く方の腕。全身の紫電が、右の拳一点へと集まっていく。
「――もう、いっぱぁぁぁつッッ!!!」
回転の勢いをそっくり乗せて、雷の拳が黄色い首の脳天へ叩き込まれた。
ドゴォォォンッ!!!
黄色い首が、頭から床にめり込む。
衝撃が首を伝って胴体まで突き抜け、六本の首が一斉に痙攣した。白い首の歌が、ぶつりと途切れる。
反動で弾かれたハジメの身体が、宙を舞って床に転がった。
守るものが、なくなった。
白い首が、剥き出しになる。
その奥の、動きを止めた巨大な胴体も。
ティアは、床に立ったまま両手を掲げていた。
掌に、魔力が集まっていく。
さっき吸った血が、身体の奥で熱に変わる。
背中に残った温かさが、まだ消えていない。
(――これで、終わらせる)
青白い光が灯り、膨れ上がっていく。
小さな身体を覆い隠すほどに。部屋の柱に届くほどに。
太陽のような、青白い炎の球。
「――蒼天」
放たれた。
青白い太陽が、剥き出しの白い首を呑み込み、そのまま巨大な胴体へと突き刺さる。
轟音。
熱風が部屋全体を吹き荒れ、石柱が赤く灼け、床が溶け、天井から岩の欠片が降り注ぐ。
光が、部屋を白く塗り潰した。
――やがて。
光が、引いていく。
部屋の中央に、黒く焼け焦げた巨大な塊があった。
六本の首は、どれも力なく床へ投げ出されている。
白い首は、もう歌わなかった。
動くものは、何もない。
---
「…………」
静寂が、部屋を満たしていた。
ハジメは床に大の字で転がっていた。最後の一撃のあと、着地しきれずにそのまま寝転がったらしい。手足を投げ出して天井を見上げている。
胸が、大きく上下していた。
「…………お、わった……?」
掠れた声。
ティアは、撃った時の姿勢のまましばらく立ち尽くしていた。
やがて膝がかくんと折れて、その場にぺたりと座り込む。
「……おわった」
コテツとマロンが、ふらふらとした足取りで戻ってきた。二匹とも毛並みが焦げ、息が荒い。それでも尻尾を振りながら、倒れたハジメの顔を舐め、座り込んだティアの頬を舐める。
「……はは……アンタら……最高……」
仰向けのまま、ハジメが二匹の頭をわしゃわしゃと撫でる。
腕が上がるたび、あちこちの筋肉が悲鳴を上げているらしく、そのたびに情けない呻きが漏れた。
ティアは周りを見回す。
床に、水筒が三本転がっていた。
どれも、空だ。
「……ぜんぶ、のんだ」
「……の、んだ……」
「……わたしも、ぜんぶ、つかった」
「……だよ、ね……」
天井を見上げたまま、ハジメがへらっと笑う。
「……マジで疲れた……」
「……わたしも」
「……ちょっと休も。ちょっとだけ」
「……うん」
コテツとマロンが、二人の間に丸くなった。
温かい毛並みが、身体に触れる。
ティアはずるずると横に倒れて、マロンの背中に頭を預けた。
目の前に、ハジメの横顔がある。
汗まみれで、髪はぐしゃぐしゃで、首筋には噛み跡がいくつも残っていて。
ティアはそれをぼんやりと見つめる。
抱きしめられた時の温かさを、思い出す。
背負われていた時の、落ちなかった腕を、思い出す。
(……ムカつく)
金太郎って呼ぶし。うるさいし。調子に乗るし。変なことばっかり言うし。
(……ムカつく、けど)
(……きらいには、なれない)
ティアは、そっと口を開いた。
「……ハジメ」
天井を見上げていた白銀の頭が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと、こちらを向く。
「……え。今、なんて?」
「……なんでもない」
「いや言った! 名前! 初めて呼んだじゃん! ねえ! もっかい! もっかい言って!」
「……ねむい」
「寝るな! 起きて! あーし今ので一気に元気出たんだけど! ねえティア! ティアさん!」
「……」
ティアは目を閉じて、マロンの背中に顔を埋めた。
耳の先が、じんわりと熱い。
隣で、マジで疲れたと言っていたはずの人が、まだ騒いでいる。
焼け焦げた部屋の中で、二人と二匹は折り重なったまま、しばらくそうしていた。
部屋の最奥で、巨大な扉が、音もなく少しだけ開いていた。