ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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#33 背中の温度と、六つ首の咆哮

 

岩陰から、影が跳んだ。

 

狼ほどの大きさの、牙を剥いた魔物。通路の角で息を潜めていたそれが、先頭を行くハジメの喉元めがけて一直線に飛んでくる。

 

「――っと!」

 

足元で紫電が弾ける。

 

ハジメの身体が横に滑り、牙が空を噛んだ。行き場をなくした魔物が、勢いのままハジメの脇を通り過ぎていく。

 

その着地点には、もう白銀の影が二つ、待ち構えている。

 

コテツの牙が首を、マロンの牙が脇腹を捉えた。

 

バヂィッ!

 

紫電が炸裂する。魔物は短く鳴いて、それきり動かなくなった。

 

「ナイス!」

 

ハジメが指を鳴らす。二匹は誇らしげに尻尾を振って、その足元へ駆け戻ってくる。

 

少し後ろから、ティアはその一連の流れを眺めていた。

 

(……速くなってる)

 

ついこの間まで、この人は紫電を走らせるたびに、どこかしら軸がぶれていたはずだ。止まりきれずによろけたり、壁に手をついたり。

 

今の横滑りは、ぶれていない。

 

---

 

分かれ道の先で、天井から大きな甲虫が落ちてきた。

 

ハジメが踏み込みの瞬間だけ紫電を灯して懐に入り、岩を纏わせた拳で腹を打ち上げる。ひっくり返ったその柔らかい腹へ、コテツとマロンが同時に食らいついた。

 

指が鳴り、二匹が戻ってくる。

 

---

 

水の滴る広間では、巨大なカエルが舌を伸ばしてきた。

 

ハジメが錬成の壁でそれを受け止める。壁に貼りついた舌を、二匹が左右から裂いた。

 

指が鳴り、二匹が戻ってくる。

 

踏み込む。止める。跳ぶ。仕留める。

 

三つの影の間に、言葉はほとんど要らないらしい。

 

---

 

狭い通路を抜けた先で、足音が聞こえた。

 

ひとつではない。

 

カサカサカサカサ、と。

 

闇の奥から、膝の高さほどの蜘蛛が、壁も天井も埋め尽くす勢いで湧き出してくる。数えるのも嫌になる数だ。

 

「うっわキモっ! 無理無理無理、あれ全部相手すんの無理!」

 

ハジメが一歩下がる。

 

入れ替わるように、ティアが前に出た。

 

「……私の番」

 

「お願いしまっす!」

 

右手を掲げる。

 

「――天灼」

 

通路の天井に、無数の光が灯った。

 

雷の球が蜘蛛の群れの頭上を埋め尽くし、次の瞬間、一斉に降り注ぐ。

 

閃光。轟音。通路が真っ白に塗り潰される。

 

光が引いたあとには、焦げた匂いだけが残っていた。

 

「……終わった」

 

「さすが!」

 

ぱちぱちと手を叩きながら、ハジメが袖をまくる。もう慣れた手つきだった。

 

「はい」

 

「……まだ、いける」

 

「いや、今のデカかったじゃん。先に入れとこ」

 

「……ん」

 

差し出された腕を両手で取って、小さく牙を沈める。

 

ハジメの肩は、もう跳ねなくなっていた。

 

---

 

いくつもの階層を下った。

 

少数に襲われればハジメと二匹が迎え撃ち、群れに襲われればティアが薙ぎ払う。撃てばハジメが腕を出す。

 

誰が決めたわけでもないのに、いつの間にかそういう形になっていた。

 

通路の曲がり角から、大柄な猿のような魔物が二体、同時に飛び出してきた時のことだ。

 

ハジメの全身を、紫電が包んだ。

 

踏み込みの一瞬だけではない。紫電はまとわりついたまま消えず、ぱちぱちと音を立て続けている。

 

一体目の拳をかわして顎を打ち抜く。振り返りざま二体目の腕を払い、脇腹に膝を叩き込む。よろめいたところへ、二匹が飛びかかった。

 

その間、紫電は一度も途切れなかった。

 

二体が倒れてから、ようやく光がふっと消える。

 

「……っはぁ。今の、ちょっと長く保てたっしょ」

 

肩で息をしながら、ハジメが自分の手のひらを見下ろす。

 

「前は一瞬しかつけてらんなかったのに。目が慣れてきたのかな」

 

「……長かった」

 

「でしょ!? 何秒くらい? 数えてた?」

 

「……数えてない」

 

「数えといてよー」

 

唇を尖らせて、それからすぐにけろりと笑う。

 

---

 

そうして、どれほど下っただろうか。

 

通路の先が、急に開けた。

 

「……うわ」

 

ハジメの足が止まる。

 

天井が見えない。左右には太い石柱が等間隔に並び、その列が奥までずっと続いている。磨かれた床が、ランタンの光を鈍く照り返していた。

 

柱の列の終わり、最奥に、巨大な扉が見える。

 

見上げるほどの両開きで、表面には見たこともない精緻な紋様が刻まれていた。

 

「……扉」

 

「なんか、ラスボス前って感じの部屋じゃない?」

 

周囲を見回しながら、ハジメがそろそろと足を踏み出す。柱の間を進むたび、足音が高い天井に反響した。

 

部屋の中ほどまで来た、その時。

 

足元の床が、光った。

 

「――え」

 

紅い線が床一面を走っていく。円、その中に円、さらにその内側にびっしりと刻まれた文字と図形。

 

部屋いっぱいに広がる、巨大な魔法陣。

 

「ちょ、なにこれ、なにこれ!?」

 

コテツとマロンが同時に唸った。

 

魔法陣の中心から光の柱が立ち上がり、その中で何かが形を成していく。

 

最初に見えたのは胴だった。小さな家ほどもある、鱗に覆われた巨体。

 

そこから首が伸びる。

 

ひとつ。ふたつ。みっつ――

 

赤、青、緑、黄、黒、白。六本の長い首が、それぞれ違う色の鱗を纏って鎌首をもたげた。

 

十二の瞳が、一斉に見下ろしてくる。

 

「…………」

 

ハジメの口が、半開きのまま固まる。

 

「……デカくない?」

 

「……大きい」

 

「首多くない?」

 

「……六本」

 

「数えなくていいから!」

 

赤い首が大きく口を開けた。喉の奥で炎が渦を巻く。

 

「――散って!!」

 

叫びと同時に、灼熱の奔流が床を舐めた。

 

---

 

紫電を纏ったハジメが、ティアを抱えて横に跳ぶ。

 

さっきまでいた場所が焼き払われ、石の床が赤く溶けた。コテツとマロンは、すでに左右へ散っている。

 

着地と同時にティアを降ろし、ハジメはまた飛び出した。

 

青い首が冷気を吐く。床が凍りつき、氷の刃が石柱を削った。その下を、ハジメは身を沈めて滑り抜ける。

 

緑の首が風の刃を撒き散らす。走りながら床に手をつき、立てた岩の壁でそれを受ける。壁が切り刻まれる頃には、もう別の場所にいた。

 

赤い首の、真下へ。

 

「――バリバリ……ロケットぉぉぉッ!!」

 

背後で紫電が炸裂する。

 

岩を纏った両拳ごと、ハジメの身体が真上へ射出された。

 

赤い首の顎を、下から打ち抜く。

 

ゴガァッ!!

 

赤い首が大きくのけぞる。鱗が砕け、牙が飛んだ。

 

「……効いてる」

 

後方で、ティアが呟く。

 

サソリの時とは違う。あの甲殻はこの人の拳をまるで受け付けなかったが、今、赤い首の顎は確かにひしゃげている。

 

コテツとマロンが左右から青い首に飛びかかった。雷を帯びた牙が鱗に食い込む。振り払おうと暴れる首に、二匹はしがみついて離れない。

 

ティアも右手を掲げる。

 

「――緋槍」

 

炎の槍が、緑の首の付け根を貫いた。

 

「ナイス、ティア!」

 

着地したハジメが、のけぞった赤い首の根元へ踏み込む。雷を引きずった回し蹴りが、付け根へ叩き込まれた。

 

赤い首がぐらりと傾ぎ、そのまま床へ倒れ伏す。

 

「よし、一本――」

 

白い首が、口を開けた。

 

歌うような、澄んだ声が響く。

 

白い光が、倒れた赤い首を包み込んだ。

 

砕けた鱗が元に戻り、ひしゃげた顎が音を立てて形を取り戻していく。

 

赤い首が、何事もなかったように鎌首をもたげた。

 

「――――は?」

 

ハジメの顔が引きつる。

 

ティアが焼いた緑の首の傷も、二匹が刻んだ歯形も、同じように消えていった。

 

「治した、じゃないんだけど!? ずるくない!? 今の完全に落としたよね!?」

 

叫びながら、振り下ろされた噛みつきを横に跳んでかわす。

 

「――あの白いの! ティア、先にあれ!」

 

「……ん」

 

ティアの手が白い首に向く。

 

「――緋槍」

 

炎の槍が飛ぶ。

 

その前に、黄色い首が割り込んだ。

 

光の壁が展開され、緋槍は弾かれて霧散する。

 

「――守ってる」

 

「うっそでしょ!?」

 

ハジメが黄色い首へ駆け出し、紫電の乗った拳を壁へ叩きつける。

 

ガィンッ!

 

硬い音。壁はわずかに揺らいだだけで、砕けない。

 

左右から赤と青の首が挟みにくる。ハジメは床を蹴って後ろへ跳んだ。

 

「……っ、硬っ……」

 

着地したその正面で、赤い首が大きく口を開けていた。

 

喉の奥に、光が収束していく。さっきの炎とは違う。目を焼くほどに凝縮された、白い光。

 

「――やばっ」

 

床に両手を叩きつける。

 

岩の壁がせり上がる。

 

赤い首の口から、光線が放たれた。

 

壁に、直撃。

 

轟音とともに、壁ごと爆ぜた。

 

閃光と爆風が広間を揺らし、砕けた岩が四方に飛び散る。その爆炎の中から、白銀の影が弾き飛ばされた。

 

宙を舞ったハジメの身体が床を何度も跳ね、石柱に背中から叩きつけられる。

 

「――が、はっ……!」

 

ずるずると、柱の根元へ崩れ落ちた。

 

服のあちこちが焦げて裂け、左肩の下の肌が赤黒く焼け爛れている。額が切れ、血が目の上を伝っていた。

 

「……っ、い、ったぁ……」

 

柱に手をついて、歯を食いしばりながら身体を起こす。左腕が、うまく上がらない。

 

ティアが、その隣に駆け寄った。

 

焼けた肩を見て、思わず息を呑む。

 

「……平気。まだ、動く」

 

手の甲で額の血を拭って、ハジメが首の群れを睨んだ。

 

「……白いのを、先に」

 

「分かってる。……でも、黄色いのが邪魔で――」

 

首の群れの中で、黒い首だけが動いていない。

 

他の首の陰から、じっとこちらを見ている。

 

その瞳が、ティアを捉えた。

 

黒い瞳の奥で、何かが、ゆらりと揺れる。

 

ティアの視界が、歪んだ。

 

---

 

暗い。

 

柱も、扉も、首の群れもない。ただ、暗い。

 

その暗闇の中に、白銀の髪が見えた。

 

背中を向けて、立っている。

 

声が、出ない。

 

ハジメが、振り返る。

 

その顔には何の表情もなかった。冷たくて、遠くて、汚いものでも見るような目。

 

「――化け物じゃん」

 

「……ちが」

 

「ごめん。あーし、もう無理」

 

背を向けて、歩き出す。足元に寄り添う二匹も、振り返らない。

 

「……まって」

 

足が動かない。見下ろせば、足首から冷たい石が這い上がってきている。

 

三百年前と、同じだ。

 

叔父の顔。家臣たちの顔。「化け物」と囁く声。閉ざされていく光。

 

それが全部、あの人の顔で繰り返される。

 

「……おいて、いかないで……」

 

石が、首まで来た。

 

光が、閉じていく。

 

また、ひとりで。

 

また、三百年――

 

---

 

ティアは、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。

 

紅い瞳はどこも見ていない。見開かれたまま焦点を失い、唇だけが小刻みに震えている。

 

「……いや……おいて、いかないで……」

 

赤い首が、動かないその小さな身体に向かって口を開けた。

 

「――っ!」

 

ハジメが紫電を爆ぜさせて飛び込む。ティアを抱えて転がった直後、炎がその場所を焼き払った。

 

鋭い指笛。ハジメの指が首の群れを差す。

 

二匹が左右から跳び、赤い首と青い首に食らいついた。首の注意が、一瞬だけそちらへ逸れる。

 

ハジメは、腕の中を見下ろした。

 

紅い瞳は、まだどこも見ていない。

 

「……いや……いかないで……ひとりに、しないで……」

 

小さな唇が、同じ言葉をぶつぶつと繰り返している。

 

頬を、涙が伝った。

 

ハジメの手が、止まる。

 

首の群れの奥で、黒い首がじっとこちらを見ていた。

 

その首を、ハジメは一瞬だけ睨む。

 

それから、焼けた左腕ごと、腕の中の小さな身体を胸に引き寄せた。

 

何も言わずに。

 

強く、抱きしめる。

 

しばらくして、ティアの耳元に、小さな声がぽつりと落ちた。

 

「……大丈夫。……大丈夫だから」

 

---

 

暗闇の中で。

 

石に呑まれかけていた身体に、何かが触れた。

 

温かい。

 

冷たい石の上から、ぎゅっと包み込んでくる。

 

「……大丈夫。……大丈夫だから」

 

声が聞こえる。

 

遠ざかっていったはずの、あの声だ。

 

けれど、さっきとはまるで違う響きをしていた。

 

小さくて、低くて、少しだけ震えた声。

 

首元まで這い上がっていた石に、ぴしりと亀裂が走る。

 

---

 

ティアの瞳に、光が戻った。

 

最初に見えたのは、白銀の髪。

 

頬に、柔らかいものが当たっている。ハジメの胸だ。

 

抱きしめられている。

 

「……ぁ」

 

小さな声が漏れると、頭の上でハジメが息を吐いた。腕の力が、さらに強くなる。

 

ティアは、その腕の中でじっとしていた。

 

背中に回された腕が、震えている。

 

小刻みに、ずっと。

 

抱きしめる力は強いのに、その奥で何かが震え続けている。

 

(……ふるえてる)

 

この人も、怖いのだ。あの首の群れが。治る敵が。守られる敵が。

 

それでも、腕は離れない。

 

そして――温かかった。

 

胸から、腕から、全身から伝わってくる。三百年、冷たい石の中にいた身体に、じんわりと染み込んでくる。

 

その温かさの、ずっと奥に。

 

何かが、ぼんやりと浮かび上がってきた。

 

小さな自分。誰かの腕の中。柔らかくて、温かくて、いい匂いがして。

 

頭を撫でる手。

 

「大丈夫よ」と囁く声。

 

――顔は、思い出せない。

 

声も、もうはっきりとは聞こえない。

 

ただ、温かかったことだけを覚えている。

 

ずっと昔。王になるよりも、ずっと前。

 

(……おかあ、さま)

 

目から、涙が一筋こぼれた。

 

さっきとは違う涙だった。

 

ティアは、ハジメの服を小さな手でぎゅっと握りしめる。

 

---

 

「……ティア、戻った?」

 

腕の中で、ティアが小さく頷く。

 

「……黒いの。あれが、見せた」

 

ハジメの目が、すっと細くなる。

 

背後でコテツが振り払われ、床を転がった。マロンが青い首の冷気を跳んでかわしている。

 

ハジメは腰の水筒を確かめた。一本は空。一本は半分。一本は、底にわずか。

 

それから、ティアに背中を向けてしゃがみ込む。

 

「――乗って」

 

「……え」

 

「背中で撃って。撃ったら吸って。あーしが走るから」

 

「……あなたが、もたない」

 

「もたす。早く!」

 

ティアは、その背中に身体を預けた。

 

両腕を首に回すと、ハジメの腕が脚を下から抱え込む。

 

背中が、温かい。

 

さっき抱きしめられた時と、同じ温度だった。

 

「コテツ、マロン! 黄色いのと黒いの、邪魔して!」

 

ハジメの全身を、紫電が包む。背中のティアにまで、ぴりぴりと痺れが伝わってきた。

 

「――行くよ、ティア!」

 

「……ん」

 

ハジメが、床を蹴った。

 

---

 

首の群れが、一斉にこちらを向く。

 

赤い首が炎を吐いた。ハジメは光を纏ったまま横へ跳ぶ。炎が脇を掠めていく。

 

跳んだ先で、ティアが右手を掲げた。

 

「――緋槍」

 

炎の槍が青い首の目を貫き、悲鳴が上がる。

 

ハジメはすでに走り出している。

 

緑の首が風の刃を放つ。走りながら片手を床につき、岩の壁を立てる。削られる音を背中で聞きながら、さらに加速した。

 

「――天灼」

 

首の群れの頭上に、雷の球が浮かぶ。降り注いだそれに打たれ、赤と緑の首が激しく痙攣した。

 

白い首が歌い始める。黄色い首が、その前に光の壁を張った。

 

その目元へ、コテツが飛びついた。雷を帯びた牙が瞼に食い込み、悲鳴とともに光の壁が揺らぐ。

 

黒い首の喉元には、マロンが食らいついている。暴れても、離れない。

 

「――破断」

 

揺らいだ壁の隙間を縫って、水の光線が白い首をかすめる。白い鱗が裂け、歌が途切れた。

 

そこで、ティアの腕から力が抜けた。

 

首に回していた腕が、わずかに緩む。

 

「――吸って!」

 

その声と同時に、ティアは目の前の首筋へ牙を沈めた。

 

「……っ」

 

ハジメの肩が一瞬だけ強張る。

 

それでも、足は止まらない。赤い首の噛みつきを身を沈めてかわし、青い首の冷気を柱を蹴って飛び越える。

 

その間も、ティアは吸い続けた。

 

温かいものが喉を流れ、空になりかけていた身体の奥に力が戻ってくる。

 

走りながら、ハジメが半分残った水筒を掴んだ。蓋を歯で開けて、大きくあおる。

 

喉が、ごくごくと鳴った。

 

焼け爛れていた左肩が、じわじわと塞がっていく。

 

「――っぷは! ティア、いける!?」

 

牙を抜く。

 

「……いける」

 

「よっしゃ!」

 

口元を拭って、ハジメがまた加速する。

 

「――凍柩」

 

放たれた冷気が赤い首を包み、分厚い氷が首全体を閉ざした。

 

「――緋槍」

 

緑の首の付け根に、炎の槍。

 

「――緋槍」

 

もう一本。

 

白い首がまた歌い出す。凍った赤い首が内側から光を帯び、氷を溶かし始めた。

 

「――天灼」

 

雷の雨が白い首に降り注ぎ、歌が途切れる。

 

黄色い首がコテツを振り払い、白い首の前へ壁を張り直した。

 

「……っ」

 

ティアの腕が、また震える。

 

首筋に、もう一度牙が沈んだ。

 

「――いいよ、吸って吸って!」

 

ハジメは柱の間を縫って走り続ける。

 

さっきの水筒の残りを、あおる。

 

肩で息をしている。額から汗が流れ落ちる。首筋に滲んだ血は、神水を飲むたびに塞がっていく。塞がったそのすぐ隣へ、また牙が沈む。

 

ティアは、その背中にしがみついていた。

 

揺れる。跳ぶたび、かわすたび、曲がるたび、身体が大きく揺さぶられる。

 

それでも、一度も落ちそうにならなかった。

 

脚を抱え込む腕は、どれだけ揺れても緩まない。

 

(……落とさない)

 

この人は、落とさない。

 

どれだけ跳んでも。どれだけかわしても。どれだけ血を吸われても。

 

背中から伝わる体温が、ずっと同じ温かさのままだ。

 

ティアは牙を抜き、右手を掲げる。

 

「――緋槍」

 

「――天灼」

 

「――破断」

 

撃つ。撃つ。撃つ。

 

吸う。

 

撃つ。撃つ。

 

吸う。

 

ハジメが、最後の一本をあおった。

 

底に残っていた、わずか数口。

 

空になった水筒が、床を転がっていく。

 

---

 

首の群れの動きが、鈍り始めていた。

 

白い首の歌が途切れ途切れになっている。何度も焼かれ、何度も打たれて、回復が追いついていない。

 

赤い首は片目が潰れたまま。青い首は鱗の半分が焦げ、緑の首は付け根から力なく垂れ下がり始めている。黒い首は、マロンに喉を噛まれ続けてぐったりと床に伏していた。

 

残るは、黄色い首の光の壁。

 

その奥で、白い首が最後の力を振り絞るように歌っている。

 

「……あいつ、まだ治す気だ」

 

荒い息の合間に、ハジメが呟く。

 

足が、ふらついていた。背中のティアにも、それが伝わってくる。

 

「……もう、一発」

 

ティアが言う。

 

「……壁が、なければ」

 

ハジメが黄色い首を睨んだ。

 

「――コテツ! マロン!」

 

叫ぶ。

 

「黄色いの! 全力で!」

 

首の群れの左右から、白銀の影が二つ弾けた。

 

コテツが左から。マロンが右から。

 

二匹の全身が、これまでで一番激しい紫電に包まれている。ばちばちと空気の焼ける音がした。

 

床を蹴る。

 

左右から、交差するように。

 

雷光の軌跡が、黄色い首の前で×の字を描いた。

 

バヂヂヂィィィッ!!!

 

二つの雷撃が、同時に光の壁へ突き刺さる。

 

壁が軋み、ひびが走った。

 

「――今!」

 

ハジメが足を止め、背中に手を回して、ティアをそっと床に降ろす。

 

「……ここで、撃って」

 

「……うん」

 

ティアの足が床に着いた。

 

ハジメは振り返らない。

 

全身の紫電が一気に膨れ上がり、右脚へと集中していく。

 

跳んだ。

 

高く。ひびの入った光の壁の、真正面へ。

 

空中で身体を捻る。回転。白銀の髪が弧を描く。

 

紫電の尾を引いて、右脚が振り抜かれた。

 

「――どっ、せぇぇぇぇぇいッッ!!!」

 

踵が、光の壁に叩き込まれる。

 

ガシャァァァンッ!!!

 

壁が、砕け散った。

 

砕けた光の破片の向こうで、蹴りの勢いのまま、踵が黄色い首の横面を打ち抜く。黄色い首が横殴りに吹き飛んだ。

 

ハジメの身体は、止まらない。

 

蹴りの勢いのまま、空中でさらに一回転。

 

回転の先に、吹き飛んだ黄色い首の頭がある。その脳天が、すぐ目の前に迫っていた。

 

右腕に、紫電が奔る。

 

焼けた左腕ではなく、まだ動く方の腕。全身の紫電が、右の拳一点へと集まっていく。

 

「――もう、いっぱぁぁぁつッッ!!!」

 

回転の勢いをそっくり乗せて、雷の拳が黄色い首の脳天へ叩き込まれた。

 

ドゴォォォンッ!!!

 

黄色い首が、頭から床にめり込む。

 

衝撃が首を伝って胴体まで突き抜け、六本の首が一斉に痙攣した。白い首の歌が、ぶつりと途切れる。

 

反動で弾かれたハジメの身体が、宙を舞って床に転がった。

 

守るものが、なくなった。

 

白い首が、剥き出しになる。

 

その奥の、動きを止めた巨大な胴体も。

 

ティアは、床に立ったまま両手を掲げていた。

 

掌に、魔力が集まっていく。

 

さっき吸った血が、身体の奥で熱に変わる。

 

背中に残った温かさが、まだ消えていない。

 

(――これで、終わらせる)

 

青白い光が灯り、膨れ上がっていく。

 

小さな身体を覆い隠すほどに。部屋の柱に届くほどに。

 

太陽のような、青白い炎の球。

 

「――蒼天」

 

放たれた。

 

青白い太陽が、剥き出しの白い首を呑み込み、そのまま巨大な胴体へと突き刺さる。

 

轟音。

 

熱風が部屋全体を吹き荒れ、石柱が赤く灼け、床が溶け、天井から岩の欠片が降り注ぐ。

 

光が、部屋を白く塗り潰した。

 

――やがて。

 

光が、引いていく。

 

部屋の中央に、黒く焼け焦げた巨大な塊があった。

 

六本の首は、どれも力なく床へ投げ出されている。

 

白い首は、もう歌わなかった。

 

動くものは、何もない。

 

---

 

「…………」

 

静寂が、部屋を満たしていた。

 

ハジメは床に大の字で転がっていた。最後の一撃のあと、着地しきれずにそのまま寝転がったらしい。手足を投げ出して天井を見上げている。

 

胸が、大きく上下していた。

 

「…………お、わった……?」

 

掠れた声。

 

ティアは、撃った時の姿勢のまましばらく立ち尽くしていた。

 

やがて膝がかくんと折れて、その場にぺたりと座り込む。

 

「……おわった」

 

コテツとマロンが、ふらふらとした足取りで戻ってきた。二匹とも毛並みが焦げ、息が荒い。それでも尻尾を振りながら、倒れたハジメの顔を舐め、座り込んだティアの頬を舐める。

 

「……はは……アンタら……最高……」

 

仰向けのまま、ハジメが二匹の頭をわしゃわしゃと撫でる。

 

腕が上がるたび、あちこちの筋肉が悲鳴を上げているらしく、そのたびに情けない呻きが漏れた。

 

ティアは周りを見回す。

 

床に、水筒が三本転がっていた。

 

どれも、空だ。

 

「……ぜんぶ、のんだ」

 

「……の、んだ……」

 

「……わたしも、ぜんぶ、つかった」

 

「……だよ、ね……」

 

天井を見上げたまま、ハジメがへらっと笑う。

 

「……マジで疲れた……」

 

「……わたしも」

 

「……ちょっと休も。ちょっとだけ」

 

「……うん」

 

コテツとマロンが、二人の間に丸くなった。

 

温かい毛並みが、身体に触れる。

 

ティアはずるずると横に倒れて、マロンの背中に頭を預けた。

 

目の前に、ハジメの横顔がある。

 

汗まみれで、髪はぐしゃぐしゃで、首筋には噛み跡がいくつも残っていて。

 

ティアはそれをぼんやりと見つめる。

 

抱きしめられた時の温かさを、思い出す。

 

背負われていた時の、落ちなかった腕を、思い出す。

 

(……ムカつく)

 

金太郎って呼ぶし。うるさいし。調子に乗るし。変なことばっかり言うし。

 

(……ムカつく、けど)

 

(……きらいには、なれない)

 

ティアは、そっと口を開いた。

 

「……ハジメ」

 

天井を見上げていた白銀の頭が、ぴくりと動いた。

 

ゆっくりと、こちらを向く。

 

「……え。今、なんて?」

 

「……なんでもない」

 

「いや言った! 名前! 初めて呼んだじゃん! ねえ! もっかい! もっかい言って!」

 

「……ねむい」

 

「寝るな! 起きて! あーし今ので一気に元気出たんだけど! ねえティア! ティアさん!」

 

「……」

 

ティアは目を閉じて、マロンの背中に顔を埋めた。

 

耳の先が、じんわりと熱い。

 

隣で、マジで疲れたと言っていたはずの人が、まだ騒いでいる。

 

焼け焦げた部屋の中で、二人と二匹は折り重なったまま、しばらくそうしていた。

 

部屋の最奥で、巨大な扉が、音もなく少しだけ開いていた。

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