ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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#34 遥かな告白と、閉じた瞼

 

最奥の扉は、少しだけ開いたままになっていた。

 

ハジメがランタンを掲げ、その隙間へ光を向ける。

 

「……行ってみよっか」

 

「……うん」

 

コテツが先に歩き出し、マロンが続く。二人も顔を見合わせて、その後を追う。

 

扉に手をかけると、あれほどの重量感がありながら、拍子抜けするほど滑らかに開いていく。

 

その向こうに広がっていたものを見て、ハジメの足が止まった。

 

「…………は?」

 

光が、あった。

 

奈落に落ちてから、ずっとランタンの緑の薄明かりしか見ていなかった目に、それは眩しすぎた。ハジメが思わず腕をかざす。

 

指の隙間から、少しずつ光景が入ってくる。

 

空間だった。

 

とてつもなく広い、ドーム状の空洞。天井は首が痛くなるほど高く、その一面に無数の光石が埋め込まれて、白く柔らかな光を降らせている。曇り空のような明るさ。

 

そして、音。

 

ごうごうと、遠くで水が鳴っている。

 

視線を追っていくと、向かい側の岩壁から、白い水の帯が落ちていた。滝だった。高さは、見上げても目測できない。落ちた水は岩肌を削って池を作り、そこから一本の川が、空洞の底をゆるやかに横切っている。

 

川べりには、緑。

 

背の低い草。低木。奥の方には、区画を切って整えられた畑まで見える。作物の姿はないが、畝の形だけがきちんと残っている。

 

そして川の手前、少し高くなった岩棚の上に、建物がひとつ。

 

石造りの、平屋の家。窓があり、扉があり、煙突まである。

 

「…………」

 

「…………」

 

ハジメの口が、ぽかんと開いたまま動かない。

 

ティアも、その隣で立ち尽くしている。

 

(……外みたい)

 

天井の光も、水の音も、風に揺れる草も。本物ではないと分かっているのに、身体の方が先に、外にいると錯覚する。

 

三百年ぶりに見る、地上のような景色だった。

 

「……なにこれ」

 

ようやく、ハジメの口から声が出た。

 

「なにこれ!? 滝!? 川!? えっ、畑!? 畑あんだけど!?」

 

叫びながら駆け出す。

 

コテツとマロンが、弾かれたようにその後を追った。二匹は川べりに着くなり、水に飛び込んで盛大に水飛沫を上げ、くるくると回り始める。

 

「アンタらいきなり! いや分かる! あーしも入りたい!」

 

ハジメが川の縁にしゃがみ込み、手を差し入れる。

 

「うっっっわ、きれい! 冷たっ!」

 

一口すくって飲み、目を丸くする。

 

「……普通に水じゃん。おいしい」

 

ティアも、ゆっくりとその隣まで歩いてくる。

 

水面に映る自分の顔を、しばらく見下ろす。

 

「……ここ、地の底」

 

「だよね。おかしいよね」

 

「……天井の、あれ」

 

ティアが見上げた先で、光石が静かに光っている。

 

「……昼と、同じ明るさ」

 

「わざわざそうしてんのかな。ここで暮らすために」

 

二人はしばらく、その光を見上げていた。

 

やがて、ハジメが岩棚の上の家に目を留める。

 

「……あそこ、住んでたとこじゃん」

 

岩棚を上がって扉に手をかける。鍵はかかっていない。

 

ハジメが押し開けた。

 

大きなテーブルと椅子。食器の並んだ棚。暖炉。

 

ハジメが、奥の扉を片っ端から開けていく。

 

「……うわ、ベッド。ベッドあるじゃん」

 

薄く埃をかぶった寝台が二つ。布も枠も、まだしっかりしている。

 

次の扉。

 

「なにこれお風呂!? お風呂じゃん!?」

 

石造りの浴槽に、壁から伸びた管が口を開けている。

 

その次。

 

「食べ物! 食べ物ぉぉぉ!」

 

棚一面の瓶詰めと乾物。ハジメが一つ手に取り、裏返して、鼻を近づける。

 

「……腐ってない。なんで? 絶対めっちゃ昔のやつじゃん」

 

「……たぶん、保存の魔法」

 

「そんなのあんの!?」

 

家を出て岩棚を下りると、作業台と道具の詰まった小屋があった。棚には鉱石と金属の塊。その隣は、床に円い印の刻まれた広場。壁際に武具が立てかけてある。

 

裏手の小屋を開けたハジメが、また声を上げた。

 

「すっご……本だらけじゃん」

 

コテツとマロンは川と草地を行ったり来たりして、その全部の匂いを嗅ぎ回っている。

 

ティアは、少し遅れてついて歩く。

 

(……暮らしていた)

 

それも、かなり長く。

 

ふと、居間のテーブルに目が留まる。

 

椅子は四脚。そのうち一脚だけが、テーブルから引き出されたままになっていた。

 

「……ねえ」

 

ティアが呼びかける。

 

「まだ、見てないところがある」

 

家の一番奥。他とは違う、装飾の施された扉。

 

ハジメが振り返り、その扉を見上げる。

 

「……ラスボスかな」

 

「……もう出てこないと思う」

 

「だよね」

 

それでも、ハジメの足取りは慎重だった。

 

扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。

 

小さな部屋だった。

 

窓はない。中央の床に、円形の魔法陣が刻まれている。

 

そして、その奥。

 

壁を背にした古びた椅子に、人が座っていた。

 

「――ひぇっ!」

 

ハジメが飛び退く。

 

椅子の上にあったのは、白骨だった。

 

背を預け、両腕を肘掛けに乗せ、顎を少し引いた姿勢のまま。骨の上には、色褪せて崩れかけたローブと、眼鏡がひとつ。レンズの下側だけに細い縁の通った、四角い眼鏡。

 

眼鏡は、頭蓋骨の鼻梁のあたりに、まだ引っかかったままになっている。

 

「……ほ、骨……骨じゃん……」

 

「……座ったまま」

 

ティアが、静かに言う。

 

「……ここで、待ってたみたい」

 

「待ってたって、なにを」

 

その時。

 

床の魔法陣が、光った。

 

「わっ!?」

 

蒼白い光が立ち上り、部屋の中央に人の形を結んでいく。

 

現れたのは、若い男だった。

 

すらりとした体躯に、学者風の上下。整った目鼻立ちに、下縁だけの四角い眼鏡。その奥の目は穏やかで、どこか疲れた色をしている。

 

椅子の上の骨と、同じ眼鏡だった。

 

『試練を乗り越え、よくたどり着いた』

 

男が、口を開く。

 

『私の名はオスカー・オルクス。この迷宮を創った者だ。……反逆者、と言えば分かるかな』

 

「…………」

 

ハジメが、固まっている。

 

口が半開きのまま、映像の顔を見上げている。

 

「……え、イケメンじゃん」

 

「……」

 

「え、待って。眼鏡イケメンじゃん。普通にめっちゃ顔いいんだけど」

 

ティアが、無言でハジメの横顔を見上げる。

 

「――いやいやいや! 騙されないから!」

 

ハジメが我に返って首を振る。

 

「アンタか! アンタがここ作った奴!?」

 

『ああ、質問は許して欲しい。これはただの記録映像のようなものでね。生憎、君の問いには答えられない』

 

「先回りすんな! こっちの言い分聞けって!」

 

ハジメが映像に詰め寄る。

 

「非常口! なんで作んないの!?」

 

『ここにたどり着いた者に、世界の真実を知る者として、我々が何のために戦ったのか。それを残しておきたくてね』

 

「聞けって!」

 

『どうか聞いて欲しい。我々は反逆者であって、反逆者ではないということを』

 

「聞けぇ!!」

 

少し離れたところから、ティアはその光景を眺めていた。

 

(……本人の前で、言った)

 

しかも一言一句、あの時と同じ調子で。

 

『まずは、この迷宮について少しだけ』

 

「非常階段! 案内表示! 休憩所! ベンチ!」

 

『君が最初に潜ったであろう上の層――あれは、私が創った』

 

「あと水場――」

 

ハジメの指が、止まった。

 

「……え?」

 

『上の層は、篩だ。あそこを越えられぬ者に、この先へ進む資格はない。……そして下のこれが、本当の試練だ』

 

「……篩」

 

『そして君は、それを越えてここに立っている』

 

ハジメは、ぽかんと口を開けたまま固まっている。

 

ティアは、その横顔を見上げる。

 

自分はというと、さほど驚いてはいなかった。

 

(……そういう噂も、あった)

 

昔から、噂だけはいくらでもあったのだ。

 

『では、本題に入ろう』

 

映像の声が、少しだけ低くなる。

 

『神代の少し後の時代――世界は、争いで満ちていた』

 

『人と魔人、様々な亜人。今よりずっと細かく分かれていた種族と国が、それぞれに神を祀り、その神託に従って殺し合っていた。領土のため。価値観のため。支配欲のため。……そして何より、相手が「神敵」だからと』

 

『その争いを終わらせようとした者たちがいた。後に「解放者」と呼ばれた集団だ』

 

『我々には、ひとつの共通点があった。全員が、神代から続く神々の直系の子孫であったということだ』

 

「……子孫」

 

ティアの呟きに、映像は答えない。

 

『そのためだろうな。我々のリーダーは、あるとき偶然に、神々の真意を知ってしまった』

 

一拍、間が空いた。

 

『神々は、人を駒として遊んでいた』

 

『戦争も、災厄も、種族同士の憎しみも。すべては遊戯だ。人々は巧みに操られ、殺し合わされていた。それを知ったリーダーは耐えられず、志を同じくする者を集めた。私も、その一人だ』

 

『我々は神々のいる場所――神域を突き止め、中でも先祖返りと呼ばれる力を持つ七人を中心に、戦いを挑んだ』

 

『……だが、目論見は戦う前に破綻した』

 

映像のオスカーが、わずかに目を伏せる。

 

『神は、人々を操って我々を「世界に破滅をもたらす神敵」に仕立て上げた。我々を討ったのは神ではない。守るべき人々自身だ』

 

『その人々に、力を振るうわけにはいかなかった』

 

『解放者は討たれていった。神の恩恵を忘れ、世界を滅ぼそうとした反逆者――そう呼ばれながらね』

 

ハジメの唇が、動いた。声にはならなかった。

 

『最後に残ったのは、中心の七人だけだった。我々だけでは、もう神には届かない』

 

『だから、大陸の果てに、ばらばらに迷宮を創った。そこへ潜み、試練を用意し――それを越えた者に、我々の力を譲ることにした』

 

『いつか、神の遊戯を終わらせる誰かが現れることを願って』

 

床の魔法陣が、強く光った。

 

『君に、私の力を授ける。……生成魔法。鉱物に魔法を宿し、新たな性質を持つ鉱物を生み出す神代の魔法だ』

 

「――ちょ、待っ」

 

ハジメが一歩下がろうとした時には、遅かった。

 

光が、足元から駆け上がる。

 

「――っ、あ゛っ……!」

 

ハジメが頭を抱えて膝をつく。

 

「ハジメ!」

 

ティアが駆け寄る。

 

「あ、たまっ……に、なんか、入って……っ、多い、多い多い多い――!」

 

こめかみを両手で押さえ、歯を食いしばる。額に脂汗が浮き、鼻から一筋、血が垂れた。

 

光が、ゆっくりと収まっていく。

 

床に両手をついて、ハジメが荒い息を吐く。

 

「……はぁっ……はぁっ……なにこれ……」

 

「……大丈夫?」

 

「……頭いった……めっちゃ痛い……」

 

手の甲で鼻血を拭い、ハジメが顔を上げる。

 

その目が、自分の掌に落ちた。

 

「……あ」

 

「……なに?」

 

「……分かる」

 

ハジメが立ち上がり、床に転がっていた岩の欠片を拾い上げる。

 

「これ。鉱石とか金属とかに、魔法そのものをくっつけられる。くっつけたら、そういう性質を持った別の鉱物になる」

 

「……くっつける?」

 

「うん。たとえば、この石に炎の魔法くっつけたら、熱を持つ石になる。光くっつけたら、勝手に光る石になる。そういうのを、自分で作れるってこと」

 

ティアの目が、わずかに見開かれる。

 

「……それ、失われた技術」

 

「みたいだね」

 

「……どうやるか、分かるの?」

 

「分かる。どの石にどの魔法が乗るかも、どう組み合わせたらどうなるかも、全部頭ん中にある。……なんか勝手に知ってることになってる。気持ち悪っ」

 

岩の欠片を手のひらで転がして、放り投げる。

 

「……ま、やってみないと分かんないけどね」

 

映像のオスカーは、その様子を見てなどいない。ただ、最後の言葉を続けていた。

 

『君が何者で、何の目的でここにたどり着いたのかは分からない。神殺しを強要するつもりもない』

 

『ただ、知っておいて欲しかった。我々が何のために立ち上がったのか』

 

『授けた力を、どのように使うも君の自由だ。だが、願わくば――悪しき心を満たすためには振るわないで欲しい』

 

『話は以上だ。聞いてくれて、ありがとう』

 

『君のこれからが、自由な意志の下にあらんことを』

 

映像が、揺らいだ。

 

輪郭がほどけ、光の粒になって、静かに消えていく。

 

部屋に、静寂が戻った。

 

---

 

しばらく、誰も何も言わなかった。

 

コテツとマロンが、部屋の入口でそわそわと足踏みをしている。中には入ってこない。

 

ハジメは、床に座り込んだまま動かない。

 

やがて、ぽつりと零す。

 

「……あーしさ」

 

「……うん」

 

「帰りたいんだよね。元の世界に」

 

ティアは黙って、その隣に腰を下ろす。

 

「でも、あーしらをここに呼んだの、その神様なんだよね」

 

「……そうなる」

 

「じゃあ、帰る方法持ってんのも、そいつじゃん」

 

ハジメが、両手で顔をこする。

 

「結局そこ行くしかないんじゃん。帰りたいなら」

 

「それにさ」

 

ハジメが、膝を抱える。

 

「リリィとか、団長とか、工房のおっちゃんたちとか」

 

「……」

 

「あの人たち、今もあの盤の上にいるってことじゃん」

 

「……」

 

「知っちゃったし。もう、放っとけないっしょ」

 

その声に、迷いはなかった。

 

ティアは、横顔を見上げる。

 

「……じゃあ、何を迷ってるの?」

 

ハジメの肩が、少し揺れた。

 

「……分かる?」

 

「……顔に、出てる」

 

「マジか」

 

苦笑して、膝に顎を乗せる。

 

「……みんなに、言うかどうか」

 

「……クラスの人たちに?」

 

「うん」

 

「あーしが勝手に首突っ込むのはいいの。あーしが決めたことだし」

 

「……」

 

「でも、これ喋ったらさ。みんなも同じとこ行くことになるじゃん」

 

「香織も、雫も、光輝君も。……みんな」

 

「……黙っていたら?」

 

「……なんも知らないまま、迷宮潜って、教会の言うこと聞いて」

 

言いかけて、口を噤む。

 

「……分かってんだけどさ」

 

そこで、声が途切れた。

 

ティアは、答えを持っていなかった。

 

隣に座ったまま、肩を寄せるだけにする。

 

小さな体温が、服越しに伝わる。

 

ハジメが、少しだけ笑った気配がした。

 

「……ありがと」

 

---

 

顔を上げたハジメの視線が、椅子の上の骨に向いた。

 

しばらく、じっとそれを見ている。

 

「……この人さ」

 

「……うん」

 

「ずっと昔に、これ知っちゃったんだよね」

 

「……そう」

 

「んで、負けて。こんな穴の底で、仕掛けだけ作って待ってたわけじゃん」

 

ハジメが立ち上がり、椅子の前まで歩いていく。

 

「……誰が来るかも分かんないのに」

 

骨の上の眼鏡が、光石の明かりを鈍く返している。

 

「あーしさっき、非常口ないって文句言ったけど」

 

「……言ってた。本人の前で」

 

「うっさい」

 

ハジメは、そっと骨の肩のあたりに手を伸ばし――触れる直前で止めた。

 

それから、ゆっくりと床に膝をつく。

 

「……埋めよっか。外の、明るいとこに」

 

「……うん」

 

慎重に、骨を抱え上げる。

 

その腕が、一瞬だけ強張る。

 

崩れないように抱えたまま、家を出る。

 

天井の光が、柔らかく降っていた。滝の音が遠くで鳴っている。岩棚を下りて、川べりの、畑の見える草地まで歩いたところで、ハジメは足を止めた。

 

「……ここでいっか。景色いいし」

 

骨をそっと草の上に下ろし、地面に両掌を当てる。

 

蒼い光が走った。

 

土が静かに沈み込み、人ひとりぶんの窪みが口を開ける。

 

ゆっくりと、その中へ横たえた。

 

崩れかけたローブを整え、両手を胸の上で組ませる。

 

最後に、ずれた眼鏡へ手を伸ばし――そこで、ハジメの指が止まった。

 

「……ん?」

 

そっと外して、光にかざす。

 

下縁だけの細い枠と、四角いレンズ。その縁にも、レンズの表面にも、髪の毛ほどの細さで、びっしりと何かが刻まれていた。

 

「……これ、模様じゃないわ。術式じゃん」

 

「……見えるの?」

 

「見えるっていうか、分かる。頭ん中のやつが勝手に教えてくる」

 

眉を寄せて、レンズに指を這わせる。

 

「めっちゃ入ってる。何個入ってんのこれ。遠く見るやつと、暗いとこ見るやつと、眩しいの抑えるやつと……あとよく分かんないのが山ほど」

 

試しに、こわごわと顔にかける。

 

指先から、わずかに魔力を流す。

 

「――うわぁっ!?」

 

ハジメが仰け反る。

 

「近っ! ちょ、滝が目の前にあるんだけど! 岩のヒビまで見えるんだけど!」

 

「……」

 

「やば……やばいってこれ。あの人、こんなん自分用に作ってたの……?」

 

はしゃぎかけて、ハジメの声が途中で止まった。

 

眼鏡を外し、掌の上に載せる。

 

窪みの中の骨を、しばらく見下ろしていた。

 

「……ねえ、アンタ」

 

「……」

 

「これ、もらってもいい?」

 

返事は、当然なかった。

 

少しの間そのまま待って、それから小さく頭を下げる。

 

「……借りてく。大事にするから」

 

眼鏡を、自分の襟元に引っ掛ける。

 

蒼い光が、もう一度走った。

 

土が、静かに閉じていく。

 

その上に、飾りのない四角い石板が立ち上がる。

 

指先が、文字を刻んでいく。

 

オスカー・オルクス。

 

その下で、指が少し止まって、それからもう一行。

 

――「ここまで来たよ」

 

立ち上がって、埃を払う。

 

両手を合わせ、目を閉じ、しばらくそうしてから、口を開いた。

 

「……おつかれ。長かったっしょ」

 

滝の音に混じって、その声だけが静かに落ちた。

 

「非常口の件はマジで許さないけど。……あとは、任せてよ」

 

家の前で待っていたコテツとマロンが、いつの間にかついてきていた。石碑の前を一回りしてから、ハジメの隣に行儀よく座る。

 

ティアも、その隣に並んだ。

 

小さな手を、そっと合わせる。

 

(……私よりも、ずっと前から)

 

自分は石の中で眠っていただけだ。この男は、ここで待っていた。

 

(……お疲れさま)

 

---

 

本の小屋に戻ったのは、それからしばらく経ってからだった。

 

ハジメは適当に一冊引き抜いては開き、すぐに顔をしかめて戻す。

 

「……むず。なにこれ、全部鉱石の話じゃん」

 

「……こっちは、魔法陣」

 

「うわ、数式びっしり。無理」

 

ティアが棚から抜き出した数冊を、机の上に並べていく。

 

その中の一冊、他より薄く、表紙の擦り切れた本を開いたところで、ティアの手が止まった。

 

「……これ」

 

「なに?」

 

「……日記。たぶん、あの人の」

 

ハジメが横から覗き込む。

 

「なんて書いてあんの」

 

ティアが、頁をめくる。

 

並んでいたのは、どこにでもある日常だった。

 

誰かが工房を勝手にいじって腹を立てた話。誰かに愚痴をこぼして、笑われた話。みんなで食事をして、騒がしくて疲れた、という話。

 

「……ふつうじゃん」

 

ハジメが、覗き込んだまま呟く。

 

「もっとこう、すごい人たちのすごい会議みたいなの想像してたし。なにこれ、飯食って疲れたとか書いてるじゃん」

 

笑っていた。少しだけ、困ったように。

 

「……なんか、急に近くなったんだけど。この人」

 

ティアは頁をめくり続けた。

 

その中に、混ざるように。

 

「……ここ」

 

ティアの指が、一節で止まった。

 

「……『それぞれの地に、それぞれのものを遺すことに決まった。大峡谷に。火山に。樹海に。海に。雪原に。山に。……そして私は、この穴の底に』」

 

「…………」

 

「……『六つと、ひとつ。ばらばらの場所に、ばらばらの試練を。誰かがすべてを集める日まで』」

 

ハジメが、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……七つ」

 

「……七つ」

 

「さっき映像が言ってたやつじゃん。迷宮創ったって」

 

「……すべてを集める日まで、って」

 

「集めたら、神様に届くってこと?」

 

「……たぶん」

 

「じゃあ、帰る方法もその先にあるってことじゃん」

 

ハジメは頭を抱えた。

 

「いや多すぎでしょ!? 一個潜るのに何ヶ月かかってると思ってんの!?」

 

その時、机の端に積まれた本の山が、ハジメの肘に押されて崩れた。

 

ばさばさと床に散らばる本の間から、折り畳まれた大判の紙が滑り出す。

 

「……ん?」

 

ハジメが拾い上げ、机の上で広げる。

 

地図だった。

 

大陸の輪郭。山脈。河川。都市の名。

 

その上に、インクの丸が七つ。それぞれの横に、名前が添えてある。

 

ハジメが、順に読んでいく。

 

「オルクス。……は、ここね。で、ライセン大峡谷? グリューエン大火山? ハルツィナ樹海?」

 

首を傾げる。

 

「……全然知らん」

 

「……有名な場所。昔から」

 

「え、そうなの。王宮で習ったかな……習ったかも……寝てたかも……」

 

指が、海の上の丸に移る。

 

「メルジーネ?」

 

「……それは、知らない」

 

北の果ての雪原。

 

「シュネー」

 

「……知らない」

 

最後の丸は、山の頂についていた。

 

「バーン。……ん?」

 

ハジメの指が、丸の上で止まる。

 

丸のすぐ麓に、見覚えのある都の名前があった。

 

「――ちょ、待って。ここ、あーしらのいた王宮の近くじゃん!」

 

「……王宮」

 

「そう! あーしら召喚されたとこ! え、この山!? あの教会のでっかい山!?」

 

地図に顔を近づけて、ハジメは何度も丸と都の名前を見比べる。

 

「……なんで、ここに?」

 

「知らないって! てか住んでたのに全然気づかなかったんだけど!?」

 

ハジメは地図に手をついて、しばらくそれを見下ろしていた。

 

その指が、オルクスの丸の上で止まる。

 

「……みんな、今もここ潜ってんだよね」

 

「……クラスの人たち?」

 

「うん。強くなって、戦争に勝ったら帰れるって。そういう話で潜ってんの」

 

ハジメの指が、地図の上の七つの丸を順に辿っていく。

 

「……でも、ほんとに帰る方法があるのは、こっちじゃん」

 

「……」

 

「みんな帰りたいんだから。行き先がここなら、みんなも来る」

 

指が、止まる。

 

「だったら、合流して、一緒に回ればいいんだよ」

 

「……話すの? さっきのこと」

 

「……それは、会ってから考える」

 

ハジメが、へらっと笑う。

 

「とりあえず、先に顔見たいし」

 

それから、大きく息を吐く。

 

「……てかさ」

 

「……うん」

 

「風呂入っていい?」

 

「…………」

 

「だってあーし、何日風呂入ってないと思う!? もう限界なんだけど! 髪ゴワゴワなんだけど!」

 

ティアは少しの間ぽかんとしてから、肩を落とす。

 

「……好きにして」

 

「やったぁ!」

 

ハジメが両手を上げて駆け出す。コテツとマロンも、何が起きたか分からないまま、吠えながらその後を追いかけていく。

 

騒がしい足音が、遠ざかっていく。

 

残されたティアは、机の上の地図と、開いたままの手記を見下ろす。

 

手記をそっと閉じて、その表紙に手を置く。

 

それから、ゆっくりと、その足音を追いかけた。




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