最奥の扉は、少しだけ開いたままになっていた。
ハジメがランタンを掲げ、その隙間へ光を向ける。
「……行ってみよっか」
「……うん」
コテツが先に歩き出し、マロンが続く。二人も顔を見合わせて、その後を追う。
扉に手をかけると、あれほどの重量感がありながら、拍子抜けするほど滑らかに開いていく。
その向こうに広がっていたものを見て、ハジメの足が止まった。
「…………は?」
光が、あった。
奈落に落ちてから、ずっとランタンの緑の薄明かりしか見ていなかった目に、それは眩しすぎた。ハジメが思わず腕をかざす。
指の隙間から、少しずつ光景が入ってくる。
空間だった。
とてつもなく広い、ドーム状の空洞。天井は首が痛くなるほど高く、その一面に無数の光石が埋め込まれて、白く柔らかな光を降らせている。曇り空のような明るさ。
そして、音。
ごうごうと、遠くで水が鳴っている。
視線を追っていくと、向かい側の岩壁から、白い水の帯が落ちていた。滝だった。高さは、見上げても目測できない。落ちた水は岩肌を削って池を作り、そこから一本の川が、空洞の底をゆるやかに横切っている。
川べりには、緑。
背の低い草。低木。奥の方には、区画を切って整えられた畑まで見える。作物の姿はないが、畝の形だけがきちんと残っている。
そして川の手前、少し高くなった岩棚の上に、建物がひとつ。
石造りの、平屋の家。窓があり、扉があり、煙突まである。
「…………」
「…………」
ハジメの口が、ぽかんと開いたまま動かない。
ティアも、その隣で立ち尽くしている。
(……外みたい)
天井の光も、水の音も、風に揺れる草も。本物ではないと分かっているのに、身体の方が先に、外にいると錯覚する。
三百年ぶりに見る、地上のような景色だった。
「……なにこれ」
ようやく、ハジメの口から声が出た。
「なにこれ!? 滝!? 川!? えっ、畑!? 畑あんだけど!?」
叫びながら駆け出す。
コテツとマロンが、弾かれたようにその後を追った。二匹は川べりに着くなり、水に飛び込んで盛大に水飛沫を上げ、くるくると回り始める。
「アンタらいきなり! いや分かる! あーしも入りたい!」
ハジメが川の縁にしゃがみ込み、手を差し入れる。
「うっっっわ、きれい! 冷たっ!」
一口すくって飲み、目を丸くする。
「……普通に水じゃん。おいしい」
ティアも、ゆっくりとその隣まで歩いてくる。
水面に映る自分の顔を、しばらく見下ろす。
「……ここ、地の底」
「だよね。おかしいよね」
「……天井の、あれ」
ティアが見上げた先で、光石が静かに光っている。
「……昼と、同じ明るさ」
「わざわざそうしてんのかな。ここで暮らすために」
二人はしばらく、その光を見上げていた。
やがて、ハジメが岩棚の上の家に目を留める。
「……あそこ、住んでたとこじゃん」
岩棚を上がって扉に手をかける。鍵はかかっていない。
ハジメが押し開けた。
大きなテーブルと椅子。食器の並んだ棚。暖炉。
ハジメが、奥の扉を片っ端から開けていく。
「……うわ、ベッド。ベッドあるじゃん」
薄く埃をかぶった寝台が二つ。布も枠も、まだしっかりしている。
次の扉。
「なにこれお風呂!? お風呂じゃん!?」
石造りの浴槽に、壁から伸びた管が口を開けている。
その次。
「食べ物! 食べ物ぉぉぉ!」
棚一面の瓶詰めと乾物。ハジメが一つ手に取り、裏返して、鼻を近づける。
「……腐ってない。なんで? 絶対めっちゃ昔のやつじゃん」
「……たぶん、保存の魔法」
「そんなのあんの!?」
家を出て岩棚を下りると、作業台と道具の詰まった小屋があった。棚には鉱石と金属の塊。その隣は、床に円い印の刻まれた広場。壁際に武具が立てかけてある。
裏手の小屋を開けたハジメが、また声を上げた。
「すっご……本だらけじゃん」
コテツとマロンは川と草地を行ったり来たりして、その全部の匂いを嗅ぎ回っている。
ティアは、少し遅れてついて歩く。
(……暮らしていた)
それも、かなり長く。
ふと、居間のテーブルに目が留まる。
椅子は四脚。そのうち一脚だけが、テーブルから引き出されたままになっていた。
「……ねえ」
ティアが呼びかける。
「まだ、見てないところがある」
家の一番奥。他とは違う、装飾の施された扉。
ハジメが振り返り、その扉を見上げる。
「……ラスボスかな」
「……もう出てこないと思う」
「だよね」
それでも、ハジメの足取りは慎重だった。
扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
小さな部屋だった。
窓はない。中央の床に、円形の魔法陣が刻まれている。
そして、その奥。
壁を背にした古びた椅子に、人が座っていた。
「――ひぇっ!」
ハジメが飛び退く。
椅子の上にあったのは、白骨だった。
背を預け、両腕を肘掛けに乗せ、顎を少し引いた姿勢のまま。骨の上には、色褪せて崩れかけたローブと、眼鏡がひとつ。レンズの下側だけに細い縁の通った、四角い眼鏡。
眼鏡は、頭蓋骨の鼻梁のあたりに、まだ引っかかったままになっている。
「……ほ、骨……骨じゃん……」
「……座ったまま」
ティアが、静かに言う。
「……ここで、待ってたみたい」
「待ってたって、なにを」
その時。
床の魔法陣が、光った。
「わっ!?」
蒼白い光が立ち上り、部屋の中央に人の形を結んでいく。
現れたのは、若い男だった。
すらりとした体躯に、学者風の上下。整った目鼻立ちに、下縁だけの四角い眼鏡。その奥の目は穏やかで、どこか疲れた色をしている。
椅子の上の骨と、同じ眼鏡だった。
『試練を乗り越え、よくたどり着いた』
男が、口を開く。
『私の名はオスカー・オルクス。この迷宮を創った者だ。……反逆者、と言えば分かるかな』
「…………」
ハジメが、固まっている。
口が半開きのまま、映像の顔を見上げている。
「……え、イケメンじゃん」
「……」
「え、待って。眼鏡イケメンじゃん。普通にめっちゃ顔いいんだけど」
ティアが、無言でハジメの横顔を見上げる。
「――いやいやいや! 騙されないから!」
ハジメが我に返って首を振る。
「アンタか! アンタがここ作った奴!?」
『ああ、質問は許して欲しい。これはただの記録映像のようなものでね。生憎、君の問いには答えられない』
「先回りすんな! こっちの言い分聞けって!」
ハジメが映像に詰め寄る。
「非常口! なんで作んないの!?」
『ここにたどり着いた者に、世界の真実を知る者として、我々が何のために戦ったのか。それを残しておきたくてね』
「聞けって!」
『どうか聞いて欲しい。我々は反逆者であって、反逆者ではないということを』
「聞けぇ!!」
少し離れたところから、ティアはその光景を眺めていた。
(……本人の前で、言った)
しかも一言一句、あの時と同じ調子で。
『まずは、この迷宮について少しだけ』
「非常階段! 案内表示! 休憩所! ベンチ!」
『君が最初に潜ったであろう上の層――あれは、私が創った』
「あと水場――」
ハジメの指が、止まった。
「……え?」
『上の層は、篩だ。あそこを越えられぬ者に、この先へ進む資格はない。……そして下のこれが、本当の試練だ』
「……篩」
『そして君は、それを越えてここに立っている』
ハジメは、ぽかんと口を開けたまま固まっている。
ティアは、その横顔を見上げる。
自分はというと、さほど驚いてはいなかった。
(……そういう噂も、あった)
昔から、噂だけはいくらでもあったのだ。
『では、本題に入ろう』
映像の声が、少しだけ低くなる。
『神代の少し後の時代――世界は、争いで満ちていた』
『人と魔人、様々な亜人。今よりずっと細かく分かれていた種族と国が、それぞれに神を祀り、その神託に従って殺し合っていた。領土のため。価値観のため。支配欲のため。……そして何より、相手が「神敵」だからと』
『その争いを終わらせようとした者たちがいた。後に「解放者」と呼ばれた集団だ』
『我々には、ひとつの共通点があった。全員が、神代から続く神々の直系の子孫であったということだ』
「……子孫」
ティアの呟きに、映像は答えない。
『そのためだろうな。我々のリーダーは、あるとき偶然に、神々の真意を知ってしまった』
一拍、間が空いた。
『神々は、人を駒として遊んでいた』
『戦争も、災厄も、種族同士の憎しみも。すべては遊戯だ。人々は巧みに操られ、殺し合わされていた。それを知ったリーダーは耐えられず、志を同じくする者を集めた。私も、その一人だ』
『我々は神々のいる場所――神域を突き止め、中でも先祖返りと呼ばれる力を持つ七人を中心に、戦いを挑んだ』
『……だが、目論見は戦う前に破綻した』
映像のオスカーが、わずかに目を伏せる。
『神は、人々を操って我々を「世界に破滅をもたらす神敵」に仕立て上げた。我々を討ったのは神ではない。守るべき人々自身だ』
『その人々に、力を振るうわけにはいかなかった』
『解放者は討たれていった。神の恩恵を忘れ、世界を滅ぼそうとした反逆者――そう呼ばれながらね』
ハジメの唇が、動いた。声にはならなかった。
『最後に残ったのは、中心の七人だけだった。我々だけでは、もう神には届かない』
『だから、大陸の果てに、ばらばらに迷宮を創った。そこへ潜み、試練を用意し――それを越えた者に、我々の力を譲ることにした』
『いつか、神の遊戯を終わらせる誰かが現れることを願って』
床の魔法陣が、強く光った。
『君に、私の力を授ける。……生成魔法。鉱物に魔法を宿し、新たな性質を持つ鉱物を生み出す神代の魔法だ』
「――ちょ、待っ」
ハジメが一歩下がろうとした時には、遅かった。
光が、足元から駆け上がる。
「――っ、あ゛っ……!」
ハジメが頭を抱えて膝をつく。
「ハジメ!」
ティアが駆け寄る。
「あ、たまっ……に、なんか、入って……っ、多い、多い多い多い――!」
こめかみを両手で押さえ、歯を食いしばる。額に脂汗が浮き、鼻から一筋、血が垂れた。
光が、ゆっくりと収まっていく。
床に両手をついて、ハジメが荒い息を吐く。
「……はぁっ……はぁっ……なにこれ……」
「……大丈夫?」
「……頭いった……めっちゃ痛い……」
手の甲で鼻血を拭い、ハジメが顔を上げる。
その目が、自分の掌に落ちた。
「……あ」
「……なに?」
「……分かる」
ハジメが立ち上がり、床に転がっていた岩の欠片を拾い上げる。
「これ。鉱石とか金属とかに、魔法そのものをくっつけられる。くっつけたら、そういう性質を持った別の鉱物になる」
「……くっつける?」
「うん。たとえば、この石に炎の魔法くっつけたら、熱を持つ石になる。光くっつけたら、勝手に光る石になる。そういうのを、自分で作れるってこと」
ティアの目が、わずかに見開かれる。
「……それ、失われた技術」
「みたいだね」
「……どうやるか、分かるの?」
「分かる。どの石にどの魔法が乗るかも、どう組み合わせたらどうなるかも、全部頭ん中にある。……なんか勝手に知ってることになってる。気持ち悪っ」
岩の欠片を手のひらで転がして、放り投げる。
「……ま、やってみないと分かんないけどね」
映像のオスカーは、その様子を見てなどいない。ただ、最後の言葉を続けていた。
『君が何者で、何の目的でここにたどり着いたのかは分からない。神殺しを強要するつもりもない』
『ただ、知っておいて欲しかった。我々が何のために立ち上がったのか』
『授けた力を、どのように使うも君の自由だ。だが、願わくば――悪しき心を満たすためには振るわないで欲しい』
『話は以上だ。聞いてくれて、ありがとう』
『君のこれからが、自由な意志の下にあらんことを』
映像が、揺らいだ。
輪郭がほどけ、光の粒になって、静かに消えていく。
部屋に、静寂が戻った。
---
しばらく、誰も何も言わなかった。
コテツとマロンが、部屋の入口でそわそわと足踏みをしている。中には入ってこない。
ハジメは、床に座り込んだまま動かない。
やがて、ぽつりと零す。
「……あーしさ」
「……うん」
「帰りたいんだよね。元の世界に」
ティアは黙って、その隣に腰を下ろす。
「でも、あーしらをここに呼んだの、その神様なんだよね」
「……そうなる」
「じゃあ、帰る方法持ってんのも、そいつじゃん」
ハジメが、両手で顔をこする。
「結局そこ行くしかないんじゃん。帰りたいなら」
「それにさ」
ハジメが、膝を抱える。
「リリィとか、団長とか、工房のおっちゃんたちとか」
「……」
「あの人たち、今もあの盤の上にいるってことじゃん」
「……」
「知っちゃったし。もう、放っとけないっしょ」
その声に、迷いはなかった。
ティアは、横顔を見上げる。
「……じゃあ、何を迷ってるの?」
ハジメの肩が、少し揺れた。
「……分かる?」
「……顔に、出てる」
「マジか」
苦笑して、膝に顎を乗せる。
「……みんなに、言うかどうか」
「……クラスの人たちに?」
「うん」
「あーしが勝手に首突っ込むのはいいの。あーしが決めたことだし」
「……」
「でも、これ喋ったらさ。みんなも同じとこ行くことになるじゃん」
「香織も、雫も、光輝君も。……みんな」
「……黙っていたら?」
「……なんも知らないまま、迷宮潜って、教会の言うこと聞いて」
言いかけて、口を噤む。
「……分かってんだけどさ」
そこで、声が途切れた。
ティアは、答えを持っていなかった。
隣に座ったまま、肩を寄せるだけにする。
小さな体温が、服越しに伝わる。
ハジメが、少しだけ笑った気配がした。
「……ありがと」
---
顔を上げたハジメの視線が、椅子の上の骨に向いた。
しばらく、じっとそれを見ている。
「……この人さ」
「……うん」
「ずっと昔に、これ知っちゃったんだよね」
「……そう」
「んで、負けて。こんな穴の底で、仕掛けだけ作って待ってたわけじゃん」
ハジメが立ち上がり、椅子の前まで歩いていく。
「……誰が来るかも分かんないのに」
骨の上の眼鏡が、光石の明かりを鈍く返している。
「あーしさっき、非常口ないって文句言ったけど」
「……言ってた。本人の前で」
「うっさい」
ハジメは、そっと骨の肩のあたりに手を伸ばし――触れる直前で止めた。
それから、ゆっくりと床に膝をつく。
「……埋めよっか。外の、明るいとこに」
「……うん」
慎重に、骨を抱え上げる。
その腕が、一瞬だけ強張る。
崩れないように抱えたまま、家を出る。
天井の光が、柔らかく降っていた。滝の音が遠くで鳴っている。岩棚を下りて、川べりの、畑の見える草地まで歩いたところで、ハジメは足を止めた。
「……ここでいっか。景色いいし」
骨をそっと草の上に下ろし、地面に両掌を当てる。
蒼い光が走った。
土が静かに沈み込み、人ひとりぶんの窪みが口を開ける。
ゆっくりと、その中へ横たえた。
崩れかけたローブを整え、両手を胸の上で組ませる。
最後に、ずれた眼鏡へ手を伸ばし――そこで、ハジメの指が止まった。
「……ん?」
そっと外して、光にかざす。
下縁だけの細い枠と、四角いレンズ。その縁にも、レンズの表面にも、髪の毛ほどの細さで、びっしりと何かが刻まれていた。
「……これ、模様じゃないわ。術式じゃん」
「……見えるの?」
「見えるっていうか、分かる。頭ん中のやつが勝手に教えてくる」
眉を寄せて、レンズに指を這わせる。
「めっちゃ入ってる。何個入ってんのこれ。遠く見るやつと、暗いとこ見るやつと、眩しいの抑えるやつと……あとよく分かんないのが山ほど」
試しに、こわごわと顔にかける。
指先から、わずかに魔力を流す。
「――うわぁっ!?」
ハジメが仰け反る。
「近っ! ちょ、滝が目の前にあるんだけど! 岩のヒビまで見えるんだけど!」
「……」
「やば……やばいってこれ。あの人、こんなん自分用に作ってたの……?」
はしゃぎかけて、ハジメの声が途中で止まった。
眼鏡を外し、掌の上に載せる。
窪みの中の骨を、しばらく見下ろしていた。
「……ねえ、アンタ」
「……」
「これ、もらってもいい?」
返事は、当然なかった。
少しの間そのまま待って、それから小さく頭を下げる。
「……借りてく。大事にするから」
眼鏡を、自分の襟元に引っ掛ける。
蒼い光が、もう一度走った。
土が、静かに閉じていく。
その上に、飾りのない四角い石板が立ち上がる。
指先が、文字を刻んでいく。
オスカー・オルクス。
その下で、指が少し止まって、それからもう一行。
――「ここまで来たよ」
立ち上がって、埃を払う。
両手を合わせ、目を閉じ、しばらくそうしてから、口を開いた。
「……おつかれ。長かったっしょ」
滝の音に混じって、その声だけが静かに落ちた。
「非常口の件はマジで許さないけど。……あとは、任せてよ」
家の前で待っていたコテツとマロンが、いつの間にかついてきていた。石碑の前を一回りしてから、ハジメの隣に行儀よく座る。
ティアも、その隣に並んだ。
小さな手を、そっと合わせる。
(……私よりも、ずっと前から)
自分は石の中で眠っていただけだ。この男は、ここで待っていた。
(……お疲れさま)
---
本の小屋に戻ったのは、それからしばらく経ってからだった。
ハジメは適当に一冊引き抜いては開き、すぐに顔をしかめて戻す。
「……むず。なにこれ、全部鉱石の話じゃん」
「……こっちは、魔法陣」
「うわ、数式びっしり。無理」
ティアが棚から抜き出した数冊を、机の上に並べていく。
その中の一冊、他より薄く、表紙の擦り切れた本を開いたところで、ティアの手が止まった。
「……これ」
「なに?」
「……日記。たぶん、あの人の」
ハジメが横から覗き込む。
「なんて書いてあんの」
ティアが、頁をめくる。
並んでいたのは、どこにでもある日常だった。
誰かが工房を勝手にいじって腹を立てた話。誰かに愚痴をこぼして、笑われた話。みんなで食事をして、騒がしくて疲れた、という話。
「……ふつうじゃん」
ハジメが、覗き込んだまま呟く。
「もっとこう、すごい人たちのすごい会議みたいなの想像してたし。なにこれ、飯食って疲れたとか書いてるじゃん」
笑っていた。少しだけ、困ったように。
「……なんか、急に近くなったんだけど。この人」
ティアは頁をめくり続けた。
その中に、混ざるように。
「……ここ」
ティアの指が、一節で止まった。
「……『それぞれの地に、それぞれのものを遺すことに決まった。大峡谷に。火山に。樹海に。海に。雪原に。山に。……そして私は、この穴の底に』」
「…………」
「……『六つと、ひとつ。ばらばらの場所に、ばらばらの試練を。誰かがすべてを集める日まで』」
ハジメが、ゆっくりと顔を上げた。
「……七つ」
「……七つ」
「さっき映像が言ってたやつじゃん。迷宮創ったって」
「……すべてを集める日まで、って」
「集めたら、神様に届くってこと?」
「……たぶん」
「じゃあ、帰る方法もその先にあるってことじゃん」
ハジメは頭を抱えた。
「いや多すぎでしょ!? 一個潜るのに何ヶ月かかってると思ってんの!?」
その時、机の端に積まれた本の山が、ハジメの肘に押されて崩れた。
ばさばさと床に散らばる本の間から、折り畳まれた大判の紙が滑り出す。
「……ん?」
ハジメが拾い上げ、机の上で広げる。
地図だった。
大陸の輪郭。山脈。河川。都市の名。
その上に、インクの丸が七つ。それぞれの横に、名前が添えてある。
ハジメが、順に読んでいく。
「オルクス。……は、ここね。で、ライセン大峡谷? グリューエン大火山? ハルツィナ樹海?」
首を傾げる。
「……全然知らん」
「……有名な場所。昔から」
「え、そうなの。王宮で習ったかな……習ったかも……寝てたかも……」
指が、海の上の丸に移る。
「メルジーネ?」
「……それは、知らない」
北の果ての雪原。
「シュネー」
「……知らない」
最後の丸は、山の頂についていた。
「バーン。……ん?」
ハジメの指が、丸の上で止まる。
丸のすぐ麓に、見覚えのある都の名前があった。
「――ちょ、待って。ここ、あーしらのいた王宮の近くじゃん!」
「……王宮」
「そう! あーしら召喚されたとこ! え、この山!? あの教会のでっかい山!?」
地図に顔を近づけて、ハジメは何度も丸と都の名前を見比べる。
「……なんで、ここに?」
「知らないって! てか住んでたのに全然気づかなかったんだけど!?」
ハジメは地図に手をついて、しばらくそれを見下ろしていた。
その指が、オルクスの丸の上で止まる。
「……みんな、今もここ潜ってんだよね」
「……クラスの人たち?」
「うん。強くなって、戦争に勝ったら帰れるって。そういう話で潜ってんの」
ハジメの指が、地図の上の七つの丸を順に辿っていく。
「……でも、ほんとに帰る方法があるのは、こっちじゃん」
「……」
「みんな帰りたいんだから。行き先がここなら、みんなも来る」
指が、止まる。
「だったら、合流して、一緒に回ればいいんだよ」
「……話すの? さっきのこと」
「……それは、会ってから考える」
ハジメが、へらっと笑う。
「とりあえず、先に顔見たいし」
それから、大きく息を吐く。
「……てかさ」
「……うん」
「風呂入っていい?」
「…………」
「だってあーし、何日風呂入ってないと思う!? もう限界なんだけど! 髪ゴワゴワなんだけど!」
ティアは少しの間ぽかんとしてから、肩を落とす。
「……好きにして」
「やったぁ!」
ハジメが両手を上げて駆け出す。コテツとマロンも、何が起きたか分からないまま、吠えながらその後を追いかけていく。
騒がしい足音が、遠ざかっていく。
残されたティアは、机の上の地図と、開いたままの手記を見下ろす。
手記をそっと閉じて、その表紙に手を置く。
それから、ゆっくりと、その足音を追いかけた。
眼鏡の下りは独自設定です