足音を追って家に戻ると、奥の扉の隙間から、白い湯気がもくもくと漏れ出していた。
「ティアー! 早く早く! ヤバいよこれ!」
中からハジメの声が弾んでくる。
ティアが扉を押し開けると、湯気が顔にまとわりついた。
石造りの浴室。その真ん中に、浴槽があった。
浴槽、と呼んでいいのか分からない大きさだった。人が十人は並んで寝そべれそうな広さの湯船に、なみなみと湯が張られて、表面からゆらゆらと湯気が立ち上っている。
「……大きい」
「でしょ!? マジでスパ銭レベルで草」
「すぱせん…?」
ハジメはとっくに服を脱ぎ捨てて、洗い場の床にしゃがみ込んでいた。その両脇に、コテツとマロンがきちんと並んで座っている。
手には、木の桶。
「はーい、二人ともじっとしててねー」
桶で湯船の湯をすくい、コテツの背中にざばっとかける。
白銀の毛並みがぺたりと寝て、湯が筋になって床へ流れ落ちていく。コテツは一瞬びくりと耳を伏せたが、すぐに目を細めて、ふーっと長い鼻息を吐いた。
「おっ、気持ちいい? 気持ちいいかー。はい次マロン」
ざばっ。
マロンは最初から目を閉じていた。湯を浴びるたびに、二本の尻尾がゆらゆらと床を掃く。
「あはは、とろけてる。かわい」
ハジメは鼻歌まじりに湯をかけ続ける。毛の奥に溜まった土埃を、指でわしわしとかき出していく。流れていく湯が、みるみる濁っていった。
「うっわ、きたな! アンタらこんな汚れてたの!? まあ、あーしもだけど」
ざばっ。わしわし。ざばっ。
ティアは入口に立ったまま、その光景を眺めていた。
三百年ぶりの湯気が、頬に触れている。
「ほら、ティアも脱いで脱いで。風邪ひくよ」
「……引かない」
「いいから」
促されるまま、ティアは腰の紐をほどいた。
括っていた髪もほどく。床に届くほど長い金色が、背中を滑り落ちた。
その間にも、ハジメの手は止まらない。棚にあった石鹸を二匹の背中で泡立てては、揉んで、流して。白銀の毛並みが、泡に埋もれて雪だるまのように膨らんでいく。
やがて、その手がふと止まった。
「……ん?」
ハジメが、並んで座る二匹を見比べる。
それから立ち上がって、コテツの横に並んだ。
コテツの背中が、ハジメの胸のすぐ下にあった。
「……ねえ。アンタら、なんかちょっと大きくなってない?」
コテツが、首を傾げる。
「前ってさ、あーしの腰くらいだったよね? え、今ここなんだけど。胸なんだけど」
自分の胸元を手でとんとんと叩いて、それから二匹の背中の高さに手のひらを当てる。
「……いつの間に?」
マロンが、濡れた鼻先をハジメの手に押しつけた。
「……毎日一緒だと、分かんないもんだね」
ハジメが、二匹の頭をまとめて抱え込むように撫でる。
「……ママ狼が見たら、びっくりするよ。アンタら」
小さな声だった。湯気の中で、すぐに溶けて消えた。
それから、ハジメはぱっと顔を上げる。
「よし、次! ティア!」
「……え」
振り向いたハジメの手には、泡のついた石鹸と桶。
ティアは、一歩下がった。
「……自分で、洗える」
「いいからいいから。はいここ座って」
「……いい。自分で――」
言い終わる前に、両脇に手が差し込まれていた。
ひょい、と。
足が床から離れる。
「……っ」
次の瞬間には、洗い場の小さな腰掛けに、すとんと座らされていた。
「はーい、お客様ー。本日はどのようなスタイルにー?」
「……降ろして」
「もう降りてるじゃん」
ざばっ。
頭のてっぺんから、湯が降ってきた。
「……!」
「はい目ぇ閉じてー」
ティアが抗議の声を上げる前に、細い指が髪に潜り込んでくる。泡が、頭皮の上でもこもこと膨らんでいく。
わしわし。
わしわしわしわし。
「……っ、……ぅ」
「あ、ここ? ここ気持ちいい? ここでしょ」
「……ち、違……」
「はい正直ー。肩の力抜けてますー」
抜けていた。
頭のてっぺんを揉まれるたびに、首の後ろから力が逃げていく。抵抗しようと思っても、身体の方が言うことを聞かない。
「てかさ、この長さでノーケアでこの艶ってなに? ヤバくない? あーしはこうなる前は毎晩トリートメント二種類使ってたんだけど!」
床まで届く金色を、ハジメが両手ですくい上げる。毛先まで丁寧に泡を行き渡らせ、指で梳いて、また泡立てる。
「うわ、長っ。終わんない。これ一人で洗うの無理でしょ。やっぱあーしがやって正解じゃん」
「……自分で……」
「はい流しまーす」
ざばぁっ。
泡が、髪を伝って床へ流れ落ちていく。
ティアは、腰掛けの上で、ただ湯を浴びていた。
もう、何も言わなかった。
言っても無駄だと、分かった。
「はい次、背中ー」
「……」
「腕上げてー」
「……」
「はい反対ー」
言われるがまま、腕が上がる。反対の腕も上がる。
ざばっ。
最後の湯を浴びた時、ティアの顔は、すっかり無の境地に達していた。
隣では、泡を流されたばかりのコテツとマロンが、同じ顔をして座っていた。
「はい完成! ピッカピカ!」
「よし! 入ろ! みんなで入ろ!」
言うが早いか、二匹を引き連れて湯船に踏み込んでいく。コテツとマロンは縁で一瞬足を止め、それからざぶざぶとハジメの後を追った。
ティアも、そっと湯に足を入れる。
熱い。
爪先から、じんわりと熱が這い上がってくる。膝。腰。胸元。肩まで沈んだところで、ティアの口から、小さく息が漏れた。
「……ぁ」
その時、隣で。
「あ゛ぁ〜〜〜〜〜〜…………」
地の底から響くような声がした。
ティアがびくりと振り向く。
ハジメが、肩まで湯に浸かり、浴槽の縁に後頭部を預けていた。目は閉じられ、口は半開きのまま、眉間からすべての力が抜けている。
「……ぎもぢぃぃ……」
「……」
「……むり……しぬ……あーしいま、しぬ……」
「……死なない」
「……溶ける……溶けてる……骨が……骨がお湯になってく……」
言葉の通り、ハジメの身体がずるずると湯の中に沈んでいく。肩が沈み、首が沈み、顎まで湯に浸かったところで、ようやく止まった。
「……ふぃ〜〜〜……」
泡がぷくぷくと浮かぶ。
コテツとマロンは、そのすぐ横で顎を縁に乗せ、同じように目を閉じていた。
ティアは少しの間、その三つの顔を眺めていた。
それから、自分も縁に背中を預ける。
湯が、身体を包んでいる。
石の中では、何も感じなかった。暑さも、寒さも。そもそも身体があることさえ、途中から分からなくなっていた。
今は、指の先まで温かい。
(……お風呂)
ただそれだけのことが、胸の奥まで沁みていく。
ティアは、ゆっくりと目を閉じかけて――
ふと、隣に視線が流れた。
湯に浮かぶように仰向けになった、ハジメの身体。
その胸元に。
湯面から、ふたつ。
「…………」
ぷかりと、浮いていた。
浮いている。
湯に。
ティアの目が、そこから動かなくなった。
ゆっくりと、視線を自分の胸元に落とす。
湯の中。
まっすぐだった。
どこまでも、まっすぐだった。
もう一度、隣を見る。
浮いている。
自分を見る。
まっすぐ。
「…………」
(……おかしい)
同じ湯に浸かっているのに。同じように肩まで沈んでいるのに。
どうしてあちらだけ、浮くのか。
(……背も、高い)
(……顔も、いい)
(……それで、これ)
ティアの眉間に、じわじわと皺が寄っていく。
さっきまで指の先まで満ちていた温かさが、すっと引いていくような気がした。
(……やっぱり)
湯の中で、小さな拳がぎゅっと握られる。
(……ムカつく)
「……ん〜……?」
視線に気づいたのか、ハジメが片目を開けた。
隣で、ティアが口元まで湯に沈んでいた。赤い目だけを湯面から出して、じっとこちらを睨んでいる。
ぶくぶくぶく。
泡が、ティアの口元から立て続けに浮かんでくる。
「……え、なに」
「……」
ぶくぶくぶく。
「え、なに!? なんで睨んでんの!? あーしなんかした!?」
「……別に」
「絶対なんかあるじゃん! その目! めっちゃ怒ってる時の目じゃん!」
ティアは答えず、湯に沈んだまま、すいーっとハジメから離れていった。浴槽の反対側まで泳いでいき、そこで背を向ける。
「ちょ、なんで離れんの!? ねえ! ティアさん!?」
コテツとマロンが、顎を縁に乗せたまま、揃って片耳だけを動かした。
---
湯から上がると、腹が鳴った。
ぐうぅぅぅ、と。
浴室を出て居間に戻ったところで、盛大に。
「…………」
ハジメが、自分の腹を見下ろす。
濡れた髪をタオル代わりの布で包み、寝室の箪笥から拝借した生成りのシャツを着ている。自分の服は、洗って暖炉の前に干してあった。
「……めっちゃ鳴った」
「……鳴った」
少し離れた椅子に座ったティアが、頷く。機嫌はまだ半分ほどしか直っていない。
「いや、でもさ。考えたらあーし、最近あの果物しか食べてなくない?」
「……そうかも」
「神水ももうないし。あれ飲んでりゃお腹空いても平気だったけど、もう一滴もないじゃん」
ハジメが、ぽんと手を打った。
「よし。ご飯作ろ」
そう言って、迷いなく食料庫の扉を開ける。
ティアの眉が、わずかに上がった。
「……作れるの?」
「任せなさいって」
ハジメは棚の瓶や乾物の袋を腕いっぱいに抱えて、食料庫の隣の扉を開けた。台所だった。石の調理台に焜炉、壁には鍋や包丁が整然と吊るされている。
焜炉の縁に指を触れると、術式が淡く光って火が灯る。
「おー、便利。IHみたいなもんじゃん」
鍋をかけ、壁から包丁を下ろす。
とん、とん、とん、と小気味いい音が響き始めた。
ティアは入口の柱に寄りかかって、その背中を眺めていた。
手際が、いい。刻まれていく野菜は、どれも同じ大きさに揃っている。
(……器用なのは、知ってる)
自分の着ている服を見下ろす。縫い目のない、膝下丈の一着。
あの手が作ったものだ。
鼻歌が、湯気と一緒に台所を満たしていく。
しばらくして、火が止められた。
深皿に取り分けられ、刻んだ葉がひとつまみ、真ん中にふわりと乗せられる。皿の縁に垂れた汁は布で拭われ、最後に向きがくるりと整えられた。
「はい、完成!」
居間のテーブルに、皿が二つ並んだ。
ティアは、その皿を見下ろした。
「…………」
綺麗だった。
とろりとした赤褐色の汁の中に、揃った大きさの豆と肉と野菜が、ばらばらではなく、ある種の秩序をもって沈んでいる。白い筋が渦を描くように浮かび、真ん中に鮮やかな緑がひとつまみ。湯気と一緒に、香辛料の匂いが立ちのぼっていた。
王宮の食卓に出されても、おかしくない見た目だった。
「どう? 映えてない? ここの皿もいい感じだし、器と盛り付けでだいぶ化けるんだよね」
「……すごい」
素直に、そう思った。
「でしょ? ほら、食べて食べて。冷めちゃう」
ハジメは向かいの椅子に座り、頬杖をついてにこにこしている。
コテツとマロンも、テーブルの脇に寄ってきた。鼻をひくつかせて、皿の方に首を伸ばす。
ティアは匙を取った。
赤褐色の汁と、豆をひとつ、肉をひとかけ。
口に運ぶ。
「――――」
一拍。
ティアの動きが、止まった。
匙を口に入れたまま、赤い目が、ゆっくりと見開かれていく。
舌の上に、何かが広がっていた。
辛い、ではなかった。苦い、でもなかった。しょっぱい、酸っぱい、甘い。そのどれでもあって、そのどれでもない。舌の奥から喉へ、喉から胃へ、胃から背骨を伝って頭のてっぺんまで、ありとあらゆる不快が一斉に駆け上がってくる。
三百年、石の中にいた。
その間、何も感じなかった。
――何も感じない方が、よかった。
「……ティア?」
ハジメが首を傾げる。
ティアの顔から、みるみる血の気が引いていく。
小さな肩が、ぶるぶると震え始める。
そして。
「――ボォウェ!!」
ティアが、椅子ごと横に倒れ込んだ。
「オロロロロロロロ!!」
「…………え」
ハジメは、頬杖をついたにこにこ顔のまま、固まっていた。
「……え……? え……⁉」
コテツとマロンが、弾かれたように部屋の隅まで跳んで逃げた。二匹は壁際に身を寄せ合い、耳を後ろに倒して、テーブルの上の皿から全力で顔を背けている。
魔物の肉を生で食いちぎってきた二匹が、だった。
「……え、ちょ、……だ、大丈夫……?」
床に手をついたまま、ティアは肩で息をしている。口元を押さえた手が、まだ小刻みに震えていた。
「……な……」
「な?」
「……なに……これ……」
「なにって、ご飯だけど……」
ハジメは、テーブルの上の皿を見た。
湯気が、まだ立っている。赤褐色の汁。揃った具材。白い渦。真ん中の緑。
どこからどう見ても、完璧な一皿だった。
「……え、嘘でしょ?」
ハジメは自分の皿に匙を入れた。
「そんな、吐くほどって。いくらなんでも大げさ――」
口に運ぶ。
「――――」
ハジメの動きが、止まった。
匙を咥えたまま、目が見開かれる。
白磁の肌から、さらに血の気が引いていく。
舌の上に、何かが広がっていた。
――知っている。
この味を、知っている。
「――ボォウェ!!」
「オロロロロロロロ!!」
ハジメが、テーブルの反対側に崩れ落ちた。
床に這いつくばり、肩で息をしながら、その脳裏に、ある光景がフラッシュバックしていく。
中学の頃だった。
---
「ねえ清水。男子ってさ、何したら喜ぶ?」
放課後の教室。窓際で携帯ゲーム機を弄っていた清水は、画面から目も離さずに答えた。
「……男は胃袋っつーだろ。知らねーけど。つーか邪魔、あっち行け」
「……胃袋」
ハジメの頬が、じわじわと緩んでいった。
一つ上の先輩だった。
バスケ部で、背が高くて、笑うと目尻に皺が寄る。購買で最後のメロンパンを譲られたその日から、ハジメの首は廊下ですれ違うたびにそっちを向くようになった。
ハジメは、面食いだった。
小学校の頃から、クラスで一番顔のいい男子は大体好きになってきた。バレンタインにチョコを渡したこともあるし、渡せなかったこともある。
ただ、今回のはちょっと違った。名前を呼ばれるだけで耳が熱くなって、先輩の前だと「あ、ども」しか出てこない。
その夜、ハジメは台所に立った。母親には「友達に」と言い張った。ニヤニヤされた。
完成した弁当は、雑誌の表紙みたいだった。
翌日の昼休み。中庭のベンチ。
「こ、これ! 作ったんで! よ、よかったら……っ」
声は裏返って、顔は上げられなかった。
「え、マジで? ……ありがとう」
先輩は目尻に皺を寄せて笑い、蓋を開けて「うわ、店のやつみたい」と目を丸くした。
卵焼きを、ひとつ。
口に運ぶ。
先輩の動きが、笑顔のまま止まった。
笑顔のまま、顔色だけが白くなっていく。
「――ボォウェ!!」
「オロロロロロロロ!!」
「…………え」
ハジメは、両手を胸の前で握りしめたまま、立ち尽くしていた。
「……え……? え……⁉」
何が起きたのか、分からなかった。
先輩は、そのまま保健室に運ばれた。
担架で。
---
放課後。
ゲーム機を弄る清水の机に、反対側から、ハジメの頭がごとりと落ちてきた。
「……吐いた。……先輩が。……担架で運ばれた」
長い沈黙があった。
清水は気まずそうに目を逸らして、ぼそりと言った。
「……まぁ……ドンマイ」
先輩は三日で元気に復帰した。
そして、ハジメと目が合うたびに額からぶわっと冷や汗を噴き出して、曲がり角の向こうへ消えるようになった。階段で鉢合わせた時は、壁に背中を張りつけて道を譲り、ハジメが通り過ぎるまで無言で汗を流し続けていた。
その夜。
ハジメはベッドの上に正座して、空っぽの弁当箱を膝に乗せ、固く誓った。
「……もう、二度と。包丁は握らない……」
更にこの頃からイケメンに積極的にアプローチを仕掛けるのをハジメはやめたのだった…。
---
「――忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろぉぉぉ!!」
ドゴォン!!
ドゴォン!! ドゴォン!! ドゴォン!!
居間の床が、揺れた。
ティアは、口元を手の甲で拭ったまま、固まっていた。
ハジメが、床に額を打ちつけていた。
四つん這いのまま、何度も、何度も。
「なんで! なんで忘れてたの! あーしのバカ! バカバカバカ! 誓ったじゃん! ベッドの上で正座して誓ったじゃん!!」
ドゴォン!! ドゴォン!!
「――え、あ、え、何、何してるの、待って、ハジメ待って」
ティアが、床から跳ね起きた。
「待って、待って待って、頭、頭だよそれ、頭はそうやって使うものじゃない、ねえ、ハジメ、聞こえてる? ねえってば」
「先輩担架で運ばれたんだよ!? 担架だよ!? 中学で担架って何!? そのあと卒業までずっと避けられたし!! 清水にドンマイとか言われたし!!」
ドゴォン!!
「センパイって誰、タンカって何、シミズは聞いたことある、でも今はそういう話じゃない、とにかくやめて、やめてってば……!」
ティアが両手を伸ばす。ハジメの肩を掴む。
引っ張る。
びくともしない。
ドゴォン!! の反動で、小さな身体の方が前後にがくがくと揺さぶられた。
「ゆ、揺れ、揺れる、私が揺れる、なんで、なんで私が揺れるの……っ」
手を離す。
ハジメの周りを、右へ回る。左へ回る。どこを掴めば止まるのか分からず、両手が宙でぱたぱたと泳ぐ。
「どこ、どこ持てばいいの、髪? 髪引っ張ったら怒る? 怒るよね、ハジメ髪大事って言ってた、じゃあ肩? 肩はもう駄目だった、じゃあどこ、どこならいいの……!」
「うわぁぁぁぁ!! 顔がいい人に吐かせたぁぁぁ!!」
ドゴォン!!
「顔がいい人? 誰? 私? 今私の話? 私は確かに吐いたけど、でもそれはあなたのご飯のせいで――」
「しかも二回目ぇぇぇ!!」
ドゴォン!!
「やっぱり私の話だ……!」
ティアは、ばっと部屋の隅を振り向いた。
「コテツ、マロン、助けて、お願い、あなたたちの方が力強い、引っ張って、ねえ……!」
身を寄せ合った二匹が、揃って、すっと目を逸らした。
「――なんで!?」
ドゴォン!!
石の床に、ぴしりと罅が走った。
「床っ、床が割れた、床が割れるなら頭も割れる、駄目、駄目駄目駄目……っ!」
ティアは半泣きで床に膝をつくと、振り下ろされかけた白銀の頭の前に、両手を差し込んだ。
ぺち。
額が、小さな両手に受け止められる。
ハジメの動きが、止まった。
四つん這いのまま、そろそろと顔を上げる。
額が、真っ赤になっていた。
「…………」
「…………」
ティアは、肩で息をしながら、その赤い額をまっすぐ見つめた。
「……もう、台所に入らないで」
「…………はい」
---
結局、ティアが台所に立った。
焜炉の前で背伸びをしても、鍋の縁がようやく目の高さに届く程度だった。
居間の入口から顔だけ出していたハジメが、それを見て、床に手をつく。蒼い光が走り、ティアの足元に、小さな踏み台がせり上がった。
「……入ってない。今の、入ってないから。床触っただけだから」
「……」
ティアは踏み台に乗り、焜炉の術式に指を触れた。火が灯る。
さっきの鍋は、中身ごと片付けてある。
新しい鍋に、瓶詰めのスープを一つ開けて注ぐ。棚にあった硬いパンを薄く切り、焜炉の縁で炙る。
それだけだった。
味見をする。
普通だった。
少し塩気が強くて、少し薄い。どこにでもある味。
ティアは首を傾げながら、それを二つの器に注いだ。パンを添える。それから少し考えて、平たい皿にもスープを注ぎ、冷ますために床に置いた。部屋の隅から二匹がそろそろと寄ってきて、慎重に鼻を近づけ、それから夢中で舐め始める。
居間のテーブルに、器が二つ並んだ。
さっきの皿とは比べものにならない。色は薄い茶色一色で、具も不揃いで、盛り付けも何もない。
ハジメは、その器の前に座った。
額はまだ赤い。
匙を取る。
おそるおそる、口に運ぶ。
「…………」
ハジメの動きが、止まった。
ティアが、身構える。
ハジメの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「…………うっま」
「……え」
「うっまぁぁぁ……! なにこれ……! めっちゃ美味しいんだけど……!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、ハジメは匙を動かし続ける。
「温かいし……ちゃんと味するし……食べ物の味するし……吐かないし……!」
「……温めただけ」
「天才じゃん……ティア天才じゃん……」
「……瓶の、温めただけ」
「一生ついてく……」
ハジメはパンを浸して頬張り、また泣いた。
ティアは自分の器に匙を入れた。
口に運ぶ。
やっぱり、普通の味だった。
少し塩気が強くて、少し薄い。
それでも、さっきのあれの後では、身体の奥の方まで染みていく気がした。
向かいでは、額の赤い人が、泣きながらスープを啜っている。
(……馬鹿みたい)
ティアは黙って、パンをちぎった。
---
天井の光が、ゆっくりと翳っていった。
白く柔らかかった光石の明かりが、少しずつ色を落としていく。やがてそれは、夕暮れのような橙を経て、深い藍色に沈んだ。遠くの滝の音だけが、昼と変わらずに鳴り続けている。
「……夜、あるんだ」
寝室の窓から外を覗いて、ハジメが呟いた。
「……ここで、暮らすためかも」
「かもね」
寝台は二つあった。
埃を払い、シーツ代わりの布を広げると、ハジメは右の寝台に、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
ぼふっ、と。
「…………」
「…………」
「…………やわらか」
ハジメの声が、少し震えた。
「……ベッドだ。ベッドだよ、ティア。地面じゃないの。岩じゃないの」
「……うん」
「背中痛くないんだよ……石ころ当たんないんだよ……」
ハジメが、枕に顔を埋める。
ティアも、左の寝台に腰を下ろした。
手のひらで布を押す。沈む。離すと、ゆっくり戻ってくる。
その感触を確かめるように、何度か押してから、そっと横になった。
身体が、沈んでいく。
「……」
コテツとマロンが、二つの寝台の間に座って、交互にそれを見比べていた。尻尾が、床の上でそわそわと揺れている。
ハジメが、枕から顔を上げた。
「……なに、アンタらも乗りたいの?」
コテツの耳が、ぴんと立つ。
「よし。おいで」
ハジメがぽんぽんと布を叩いた瞬間、二匹は床を蹴っていた。
コテツがハジメの寝台に飛び乗る。マロンが続く。寝台が、みしりと大きく軋んだ。
「おっと、ちっさ。無理か」
ハジメは一度起き上がると、寝台の脚を掴んで、ずりずりと左へ引きずり始めた。
「……何、してるの?」
「くっつけんの。ほら、ちょっと寄って」
ティアの寝台に、ハジメの寝台がごとんと横付けされる。二つの寝台が、一つの大きな寝床になった。
「はい、完成!」
ハジメがその真ん中に倒れ込む。コテツとマロンが、すかさずその両脇に滑り込んでくる。
その結果。
ティアは、いつの間にか、マロンの背中とハジメの腕の間に挟まれていた。
「……」
「あー……いいわこれ……もふもふ……」
「……狭い」
「あったかいじゃん」
「……狭い」
「はいはい、おやすみー」
ハジメは聞いていなかった。コテツの首に片腕を回し、もう片方の腕をマロンの背中に乗せて、すっかり目を閉じている。その腕の下で、マロンが満足そうに鼻を鳴らした。
ティアは、ハジメの腕とマロンの毛並みの間で、身動きが取れなかった。
押しのけようとして、やめる。
片方は温かくて、片方はふかふかしている。
しばらく、誰も何も言わなかった。
窓の外で、藍色の光が静かに滲んでいる。
「……ティア」
「……何」
「……さっきの、ありがと」
「……スープ?」
「……それもだけど」
ハジメが、自分の額をさすった。
「……手。床と頭の間に入れてくれたやつ」
「……うるさかったから」
「あはは。……だよね」
ハジメが、小さく笑う。
それから、長く息を吐いた。
「……明日から、ちゃんとさ。練習しなきゃね。あの、なんとか魔法」
「……生成魔法」
「それ。あと、ここにあるもんもっと見て……」
語尾が、ゆるゆるとほどけていく。
「……いろいろ……準備、して……みんなのとこ……」
そこで、声が途切れた。
代わりに、すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえ始める。
ティアは、首だけを横に向けた。
すぐ目の前で、ハジメが眠っていた。
コテツの首を抱えたまま。もう片方の腕は、ティアの肩の上を越えて、マロンの背中に乗っている。
額には、まだうっすらと赤みが残っていた。
ティアは、しばらくその横顔を見ていた。
湯の中で浮いていたもののことを、少しだけ思い出す。眉間に皺が寄りかける。
それから、あの皿の味を思い出して、眉間の皺がさらに深くなる。
それから、泣きながらスープを啜っていた顔を思い出して――
ティアは、ふっと息を吐いた。
窓の外を見上げる。
藍色の光が、ずっと高いところで、静かに瞬いている。
三百年、闇の中で目を開けていた。朝も夜もなかった。眠っているのか起きているのか、それさえ分からなかった。
今は、夜が来て、すぐそばで誰かが寝息を立てている。
背中にはふかふかの毛並みがあって、肩の上には重たい腕が乗っている。
……狭い。
狭くて、温かい。
瞼が、重たくなっていく。
(……明日も)
何を思おうとしたのか、自分でもよく分からなかった。
その先を探しているうちに、ティアの意識は、柔らかい温もりの中へ、ゆっくりと沈んでいった。
寝床の端で、コテツの尻尾が一度だけ、ぱたんと鳴った。