ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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#35 湯けむりの極楽と、封じた味の記憶

 

足音を追って家に戻ると、奥の扉の隙間から、白い湯気がもくもくと漏れ出していた。

 

「ティアー! 早く早く! これガチでヤバいって!」

 

中からハジメの声が弾んでくる。

 

ティアが扉を押し開けると、湯気が顔にまとわりついた。

 

石造りの浴室。その真ん中に、浴槽があった。

 

浴槽、と呼んでいいのか分からない大きさだった。人が十人は並んで寝そべれそうな広さの湯船に、なみなみと湯が張られて、表面からゆらゆらと湯気が立ち上っている。

 

「……大きい」

 

「でしょ!? マジでスパ銭レベルで草」

 

「すぱせん…?」

 

ハジメはとっくに服を脱ぎ捨てて、洗い場の床にしゃがみ込んでいた。その両脇に、コテツとマロンがきちんと並んで座っている。

 

手には、木の桶。

 

「はーい、二人ともじっとしててねー」

 

桶で湯船の湯をすくい、コテツの背中にざばっとかける。

 

白銀の毛並みがぺたりと寝て、湯が筋になって床へ流れ落ちていく。コテツは一瞬びくりと耳を伏せたが、すぐに目を細めて、ふーっと長い鼻息を吐いた。

 

「おっ、きもちい? きもちいよねー。はい次マロン」

 

ざばっ。

 

マロンは最初から目を閉じていた。湯を浴びるたびに、二本の尻尾がゆらゆらと床を掃く。

 

「あはは、とろけてんじゃん。かわちぃ」

 

ハジメは鼻歌まじりに湯をかけ続ける。毛の奥に溜まった土埃を、指でわしわしとかき出していく。流れていく湯が、みるみる濁っていった。

 

「うっわ、きったな!! アンタらこんな汚れてたん!? まあ、あーしも人のこと言えんけど」

 

ざばっ。わしわし。ざばっ。

 

ティアは入口に立ったまま、その光景を眺めていた。

 

三百年ぶりの湯気が、頬に触れている。

 

「ほら、ティアも脱いで脱いで。風邪ひくよ」

 

「……引かない」

 

「いいから」

 

促されるまま、ティアは腰の紐をほどいた。

 

括っていた髪もほどく。床に届くほど長い金色が、背中を滑り落ちた。

 

その間にも、ハジメの手は止まらない。棚にあった石鹸を二匹の背中で泡立てては、揉んで、流して。白銀の毛並みが、泡に埋もれて雪だるまのように膨らんでいく。

 

やがて、その手がふと止まった。

 

「……ん?」

 

ハジメが、並んで座る二匹を見比べる。

 

それから立ち上がって、コテツの横に並んだ。

 

コテツの背中が、ハジメの胸のすぐ下にあった。

 

「……ねえ。アンタら、なんかちょっと大きくなってない?」

 

コテツが、首を傾げる。

 

「前ってさ、あーしの腰くらいだったよね? え、今ここなんだけど。胸なんだけど」

 

自分の胸元を手でとんとんと叩いて、それから二匹の背中の高さに手のひらを当てる。

 

「え、いつの間に?」

 

マロンが、濡れた鼻先をハジメの手に押しつけた。

 

「……毎日一緒だと、分かんないもんだね」

 

ハジメが、二匹の頭をまとめて抱え込むように撫でる。

 

「……ママ狼が見たら、びっくりするよ。アンタら」

 

小さな声だった。湯気の中で、すぐに溶けて消えた。

 

それから、ハジメはぱっと顔を上げる。

 

「よし、次! ティア!」

 

「……え」

 

振り向いたハジメの手には、泡のついた石鹸と桶。

 

ティアは、一歩下がった。

 

「……自分で、洗える」

 

「いいからいいから。はいここ座って」

 

「……いい。自分で――」

 

言い終わる前に、両脇に手が差し込まれていた。

 

ひょい、と。

 

足が床から離れる。

 

「……っ」

 

次の瞬間には、洗い場の小さな腰掛けに、すとんと座らされていた。

 

「はーい、お客様ー。本日はどのようなスタイルにされますかー?」

 

「……降ろして」

 

「もう降りてるじゃん」

 

ざばっ。

 

頭のてっぺんから、湯が降ってきた。

 

「……!」

 

「はい目ぇ閉じてー」

 

ティアが抗議の声を上げる前に、細い指が髪に潜り込んでくる。泡が、頭皮の上でもこもこと膨らんでいく。

 

わしわし。

 

わしわしわしわし。

 

「……っ、……ぅ」

 

「あ、ここ? ここ気持ちいい? ここでしょ」

 

「……ち、違……」

 

「はい正直ー。肩の力ぬけてますー」

 

抜けていた。

 

頭のてっぺんを揉まれるたびに、首の後ろから力が逃げていく。抵抗しようと思っても、身体の方が言うことを聞かない。

 

「てかさ、この長さでノーケアでこの艶ってなに? ヤバくない? あーしはこうなる前は毎晩トリートメント二種類使ってたんだけど!」

 

床まで届く金色を、ハジメが両手ですくい上げる。毛先まで丁寧に泡を行き渡らせ、指で梳いて、また泡立てる。

 

「うわ、長っっ。終わんないんだけど。これ一人で洗うの無理でしょ、物理的に。やっぱあーしがやって正解じゃん」

 

「……自分で……」

 

「はい流しまーす」

 

ざばぁっ。

 

泡が、髪を伝って床へ流れ落ちていく。

 

ティアは、腰掛けの上で、ただ湯を浴びていた。

 

もう、何も言わなかった。

 

言っても無駄だと、分かった。

 

「はい次、背中ー」

 

「……」

 

「腕上げてー」

 

「……」

 

「はい反対ー」

 

言われるがまま、腕が上がる。反対の腕も上がる。

 

ざばっ。

 

最後の湯を浴びた時、ティアの顔は、すっかり無の境地に達していた。

 

隣では、泡を流されたばかりのコテツとマロンが、同じ顔をして座っていた。

 

「はい完成! ピッカピカ!」

 

「よし! 入ろ! みんなで入ろ!」

 

言うが早いか、二匹を引き連れて湯船に踏み込んでいく。コテツとマロンは縁で一瞬足を止め、それからざぶざぶとハジメの後を追った。

 

ティアも、そっと湯に足を入れる。

 

熱い。

 

爪先から、じんわりと熱が這い上がってくる。膝。腰。胸元。肩まで沈んだところで、ティアの口から、小さく息が漏れた。

 

「……ぁ」

 

その時、隣で。

 

「あ゛ぁ〜〜〜〜〜〜…………」

 

地の底から響くような声がした。

 

ティアがびくりと振り向く。

 

ハジメが、肩まで湯に浸かり、浴槽の縁に後頭部を預けていた。目は閉じられ、口は半開きのまま、眉間からすべての力が抜けている。

 

「……ぎもぢぃぃ……」

 

「……」

 

「……無理……しんど……あーしいま、しんどすぎて無理……」

 

「……死なない」

 

「……溶ける……溶けてる……骨が……骨がお湯になってく……」

 

言葉の通り、ハジメの身体がずるずると湯の中に沈んでいく。肩が沈み、首が沈み、顎まで湯に浸かったところで、ようやく止まった。

 

「……ふぃ〜〜〜……」

 

泡がぷくぷくと浮かぶ。

 

コテツとマロンは、そのすぐ横で顎を縁に乗せ、同じように目を閉じていた。

 

ティアは少しの間、その三つの顔を眺めていた。

 

それから、自分も縁に背中を預ける。

 

湯が、身体を包んでいる。

 

石の中では、何も感じなかった。暑さも、寒さも。そもそも身体があることさえ、途中から分からなくなっていた。

 

今は、指の先まで温かい。

 

(……お風呂)

 

ただそれだけのことが、胸の奥まで沁みていく。

 

ティアは、ゆっくりと目を閉じかけて――

 

ふと、隣に視線が流れた。

 

湯に浮かぶように仰向けになった、ハジメの身体。

 

その胸元に。

 

湯面から、ふたつ。

 

「…………」

 

ぷかりと、浮いていた。

 

浮いている。

 

湯に。

 

ティアの目が、そこから動かなくなった。

 

ゆっくりと、視線を自分の胸元に落とす。

 

湯の中。

 

まっすぐだった。

 

どこまでも、まっすぐだった。

 

もう一度、隣を見る。

 

浮いている。

 

自分を見る。

 

まっすぐ。

 

「…………」

 

(……おかしい)

 

同じ湯に浸かっているのに。同じように肩まで沈んでいるのに。

 

どうしてあちらだけ、浮くのか。

 

(……背も、高い)

 

(……顔も、いい)

 

(……それで、これ)

 

ティアの眉間に、じわじわと皺が寄っていく。

 

さっきまで指の先まで満ちていた温かさが、すっと引いていくような気がした。

 

(……やっぱり)

 

湯の中で、小さな拳がぎゅっと握られる。

 

(……ムカつく)

 

「……ん〜……?」

 

視線に気づいたのか、ハジメが片目を開けた。

 

隣で、ティアが口元まで湯に沈んでいた。赤い目だけを湯面から出して、じっとこちらを睨んでいる。

 

ぶくぶくぶく。

 

泡が、ティアの口元から立て続けに浮かんでくる。

 

「……え、なに」

 

「……」

 

ぶくぶくぶく。

 

「え、なに!? なんで睨んでんの!? あーし何かした!? 何もしてなくない!?」

 

「……別に」

 

「絶対なんかあるじゃん! その目! 完全にキレてる時の目じゃん!」

 

ティアは答えず、湯に沈んだまま、すいーっとハジメから離れていった。浴槽の反対側まで泳いでいき、そこで背を向ける。

 

「ちょ、なんで離れんの!? ねえってば! ティアさーん!?」

 

コテツとマロンが、顎を縁に乗せたまま、揃って片耳だけを動かした。

 

---

 

湯から上がると、腹が鳴った。

 

ぐうぅぅぅ、と。

 

浴室を出て居間に戻ったところで、盛大に。

 

「…………」

 

ハジメが、自分の腹を見下ろす。

 

濡れた髪をタオル代わりの布で包み、寝室の箪笥から拝借した生成りのシャツを着ている。自分の服は、洗って暖炉の前に干してあった。

 

「……めっちゃ鳴った」

 

「……鳴った」

 

少し離れた椅子に座ったティアが、頷く。機嫌はまだ半分ほどしか直っていない。

 

「いや、でもさ。考えたらあーし、最近あの果物しか食べてなくない?」

 

「……そうかも」

 

「神水ももうないし。あれ飲んでりゃお腹空いても平気だったけど、もう一滴もないじゃん」

 

ハジメが、ぽんと手を打った。

 

「よし。ご飯作ろ」

 

そう言って、迷いなく食料庫の扉を開ける。

 

ティアの眉が、わずかに上がった。

 

「……作れるの?」

 

「任せなさいって」

 

ハジメは棚の瓶や乾物の袋を腕いっぱいに抱えて、食料庫の隣の扉を開けた。台所だった。石の調理台に焜炉、壁には鍋や包丁が整然と吊るされている。

 

焜炉の縁に指を触れると、術式が淡く光って火が灯る。

 

「おー、便利。IHじゃんこれ」

 

鍋をかけ、壁から包丁を下ろす。

 

とん、とん、とん、と小気味いい音が響き始めた。

 

ティアは入口の柱に寄りかかって、その背中を眺めていた。

 

手際が、いい。刻まれていく野菜は、どれも同じ大きさに揃っている。

 

(……器用なのは、知ってる)

 

自分の着ている服を見下ろす。縫い目のない、膝下丈の一着。

 

あの手が作ったものだ。

 

鼻歌が、湯気と一緒に台所を満たしていく。

 

しばらくして、火が止められた。

 

深皿に取り分けられ、刻んだ葉がひとつまみ、真ん中にふわりと乗せられる。皿の縁に垂れた汁は布で拭われ、最後に向きがくるりと整えられた。

 

「はい、完成!」

 

居間のテーブルに、皿が二つ並んだ。

 

ティアは、その皿を見下ろした。

 

「…………」

 

綺麗だった。

 

とろりとした赤褐色の汁の中に、揃った大きさの豆と肉と野菜が、ばらばらではなく、ある種の秩序をもって沈んでいる。白い筋が渦を描くように浮かび、真ん中に鮮やかな緑がひとつまみ。湯気と一緒に、香辛料の匂いが立ちのぼっていた。

 

王宮の食卓に出されても、おかしくない見た目だった。

 

「どう? 映えてない? ここの皿もいい感じだし、器と盛り付けでだいぶ化けんだよね」

 

「……すごい」

 

素直に、そう思った。

 

「でしょ? ほら食べて食べて。冷めちゃう」

 

ハジメは向かいの椅子に座り、頬杖をついてにこにこしている。

 

コテツとマロンも、テーブルの脇に寄ってきた。鼻をひくつかせて、皿の方に首を伸ばす。

 

ティアは匙を取った。

 

赤褐色の汁と、豆をひとつ、肉をひとかけ。

 

口に運ぶ。

 

「――――」

 

一拍。

 

ティアの動きが、止まった。

 

匙を口に入れたまま、赤い目が、ゆっくりと見開かれていく。

 

舌の上に、何かが広がっていた。

 

辛い、ではなかった。苦い、でもなかった。しょっぱい、酸っぱい、甘い。そのどれでもあって、そのどれでもない。舌の奥から喉へ、喉から胃へ、胃から背骨を伝って頭のてっぺんまで、ありとあらゆる不快が一斉に駆け上がってくる。

 

三百年、石の中にいた。

 

その間、何も感じなかった。

 

――何も感じない方が、よかった。

 

「……ティア?」

 

ハジメが首を傾げる。

 

ティアの顔から、みるみる血の気が引いていく。

 

小さな肩が、ぶるぶると震え始める。

 

そして。

 

「――ボォウェ!!」

 

ティアが、椅子ごと横に倒れ込んだ。

 

「オロロロロロロロ!!」

 

「…………え」

 

ハジメは、頬杖をついたにこにこ顔のまま、固まっていた。

 

「……え……? え……⁉」

 

コテツとマロンが、弾かれたように部屋の隅まで跳んで逃げた。二匹は壁際に身を寄せ合い、耳を後ろに倒して、テーブルの上の皿から全力で顔を背けている。

 

魔物の肉を生で食いちぎってきた二匹が、だった。

 

「……え、ちょ、……だ、大丈夫……?」

 

床に手をついたまま、ティアは肩で息をしている。口元を押さえた手が、まだ小刻みに震えていた。

 

「……な……」

 

「な?」

 

「……なに……これ……」

 

「なにって、ご飯だけど……」

 

ハジメは、テーブルの上の皿を見た。

 

湯気が、まだ立っている。赤褐色の汁。揃った具材。白い渦。真ん中の緑。

 

どこからどう見ても、完璧な一皿だった。

 

「……え、嘘でしょ?」

 

ハジメは自分の皿に匙を入れた。

 

「そんな、吐くほどって。いくらなんでも大げさ――」

 

口に運ぶ。

 

「――――」

 

ハジメの動きが、止まった。

 

匙を咥えたまま、目が見開かれる。

 

白磁の肌から、さらに血の気が引いていく。

 

舌の上に、何かが広がっていた。

 

――知っている。

 

この味を、知っている。

 

「――ボォウェ!!」

 

「オロロロロロロロ!!」

 

ハジメが、テーブルの反対側に崩れ落ちた。

 

床に這いつくばり、肩で息をしながら、その脳裏に、ある光景がフラッシュバックしていく。

 

中学の頃だった。

 

---

 

「ねえ清水。男子ってさ、何したら喜ぶ?」

 

放課後の教室。窓際で携帯ゲーム機を弄っていた清水は、画面から目も離さずに答えた。

 

「……男は胃袋っつーだろ。知らねーけど。つーか邪魔、あっち行け」

 

「……胃袋」

 

ハジメの頬が、じわじわと緩んでいった。

 

一つ上の先輩だった。

 

バスケ部で、背が高くて、笑うと目尻に皺が寄る。購買で最後のメロンパンを譲られたその日から、ハジメの首は廊下ですれ違うたびにそっちを向くようになった。

 

ハジメは、面食いだった。

 

小学校の頃から、クラスで一番顔のいい男子は大体好きになってきた。バレンタインにチョコを渡したこともあるし、渡せなかったこともある。

 

ただ、今回のはちょっと違った。名前を呼ばれるだけで耳が熱くなって、先輩の前だと「あ、ども」しか出てこない。

 

その夜、ハジメは台所に立った。母親には「友達に」と言い張った。ニヤニヤされた。

 

完成した弁当は、雑誌の表紙みたいだった。

 

翌日の昼休み。中庭のベンチ。

 

「こ、これ! 作ったんで! よ、よかったら……っ」

 

声は裏返って、顔は上げられなかった。

 

「え、マジで? ……ありがとう」

 

先輩は目尻に皺を寄せて笑い、蓋を開けて「うわ、店のやつみたい」と目を丸くした。

 

卵焼きを、ひとつ。

 

口に運ぶ。

 

先輩の動きが、笑顔のまま止まった。

 

笑顔のまま、顔色だけが白くなっていく。

 

「――ボォウェ!!」

 

「オロロロロロロロ!!」

 

「…………え」

 

ハジメは、両手を胸の前で握りしめたまま、立ち尽くしていた。

 

「……え……? え……⁉」

 

何が起きたのか、分からなかった。

 

先輩は、そのまま保健室に運ばれた。

 

担架で。

 

---

 

放課後。

 

ゲーム機を弄る清水の机に、反対側から、ハジメの頭がごとりと落ちてきた。

 

「……吐いた。……先輩が。……担架で運ばれた」

 

長い沈黙があった。

 

清水は気まずそうに目を逸らして、ぼそりと言った。

 

「……まぁ……ドンマイ」

 

先輩は三日で元気に復帰した。

 

そして、ハジメと目が合うたびに額からぶわっと冷や汗を噴き出して、曲がり角の向こうへ消えるようになった。階段で鉢合わせた時は、壁に背中を張りつけて道を譲り、ハジメが通り過ぎるまで無言で汗を流し続けていた。

 

その夜。

 

ハジメはベッドの上に正座して、空っぽの弁当箱を膝に乗せ、固く誓った。

 

「……もう、二度と。包丁は握らない……」

 

更にこの頃からイケメンに積極的にアプローチを仕掛けるのをハジメはやめたのだった…。

 

---

 

「――忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろぉぉぉ!!」

 

ドゴォン!!

 

ドゴォン!! ドゴォン!! ドゴォン!!

 

居間の床が、揺れた。

 

ティアは、口元を手の甲で拭ったまま、固まっていた。

 

ハジメが、床に額を打ちつけていた。

 

四つん這いのまま、何度も、何度も。

 

「なんで! なんで忘れてたの! あーしのバカ! バカバカバカ! 誓ったじゃん! ベッドの上で正座して誓ったじゃん!!」

 

ドゴォン!! ドゴォン!!

 

「――え、あ、え、何、何してるの、待って、ハジメ待って」

 

ティアが、床から跳ね起きた。

 

「待って、待って待って、頭、頭だよそれ、頭はそうやって使うものじゃない、ねえ、ハジメ、聞こえてる? ねえってば」

 

「先輩担架で運ばれたんだよ!? 担架だよ!? 中学で担架って何!? そのあと卒業までずっと避けられたし!! 清水にドンマイとか言われたし!!」

 

ドゴォン!!

 

「センパイって誰、タンカって何、シミズは聞いたことある、でも今はそういう話じゃない、とにかくやめて、やめてってば……!」

 

ティアが両手を伸ばす。ハジメの肩を掴む。

 

引っ張る。

 

びくともしない。

 

ドゴォン!! の反動で、小さな身体の方が前後にがくがくと揺さぶられた。

 

「ゆ、揺れ、揺れる、私が揺れる、なんで、なんで私が揺れるの……っ」

 

手を離す。

 

ハジメの周りを、右へ回る。左へ回る。どこを掴めば止まるのか分からず、両手が宙でぱたぱたと泳ぐ。

 

「どこ、どこ持てばいいの、髪? 髪引っ張ったら怒る? 怒るよね、ハジメ髪大事って言ってた、じゃあ肩? 肩はもう駄目だった、じゃあどこ、どこならいいの……!」

 

「うわぁぁぁぁ!! 顔がいい人に吐かせたぁぁぁ!!」

 

ドゴォン!!

 

「顔がいい人? 誰? 私? 今私の話? 私は確かに吐いたけど、でもそれはあなたのご飯のせいで――」

 

「しかも二回目ぇぇぇ!!」

 

ドゴォン!!

 

「やっぱり私の話だ……!」

 

ティアは、ばっと部屋の隅を振り向いた。

 

「コテツ、マロン、助けて、お願い、あなたたちの方が力強い、引っ張って、ねえ……!」

 

身を寄せ合った二匹が、揃って、すっと目を逸らした。

 

「――なんで!?」

 

ドゴォン!!

 

石の床に、ぴしりと罅が走った。

 

「床っ、床が割れた、床が割れるなら頭も割れる、駄目、駄目駄目駄目……っ!」

 

ティアは半泣きで床に膝をつくと、振り下ろされかけた白銀の頭の前に、両手を差し込んだ。

 

ぺち。

 

額が、小さな両手に受け止められる。

 

ハジメの動きが、止まった。

 

四つん這いのまま、そろそろと顔を上げる。

 

額が、真っ赤になっていた。

 

「…………」

 

「…………」

 

ティアは、肩で息をしながら、その赤い額をまっすぐ見つめた。

 

「……もう、台所に入らないで」

 

「…………はい」

 

---

 

結局、ティアが台所に立った。

 

焜炉の前で背伸びをしても、鍋の縁がようやく目の高さに届く程度だった。

 

居間の入口から顔だけ出していたハジメが、それを見て、床に手をつく。蒼い光が走り、ティアの足元に、小さな踏み台がせり上がった。

 

「……入ってない。今の、入ってないから。床触っただけだから」

 

「……」

 

ティアは踏み台に乗り、焜炉の術式に指を触れた。火が灯る。

 

さっきの鍋は、中身ごと片付けてある。

 

新しい鍋に、瓶詰めのスープを一つ開けて注ぐ。棚にあった硬いパンを薄く切り、焜炉の縁で炙る。

 

それだけだった。

 

味見をする。

 

普通だった。

 

少し塩気が強くて、少し薄い。どこにでもある味。

 

ティアは首を傾げながら、それを二つの器に注いだ。パンを添える。それから少し考えて、平たい皿にもスープを注ぎ、冷ますために床に置いた。部屋の隅から二匹がそろそろと寄ってきて、慎重に鼻を近づけ、それから夢中で舐め始める。

 

居間のテーブルに、器が二つ並んだ。

 

さっきの皿とは比べものにならない。色は薄い茶色一色で、具も不揃いで、盛り付けも何もない。

 

ハジメは、その器の前に座った。

 

額はまだ赤い。

 

匙を取る。

 

おそるおそる、口に運ぶ。

 

「…………」

 

ハジメの動きが、止まった。

 

ティアが、身構える。

 

ハジメの目に、じわりと涙が浮かんだ。

 

「…………うっま」

 

「……え」

 

「うっまぁぁぁ……! なにこれ……! うますぎなんだけど……!」

 

ぼろぼろと涙をこぼしながら、ハジメは匙を動かし続ける。

 

「温かいし……ちゃんと味するし……食べ物の味するし……吐かないし……!」

 

「……温めただけ」

 

「天才じゃん……ティア天才すぎ……」

 

「……瓶の、温めただけ」

 

「一生ついてく……マジで……」

 

ハジメはパンを浸して頬張り、また泣いた。

 

ティアは自分の器に匙を入れた。

 

口に運ぶ。

 

やっぱり、普通の味だった。

 

少し塩気が強くて、少し薄い。

 

それでも、さっきのあれの後では、身体の奥の方まで染みていく気がした。

 

向かいでは、額の赤い人が、泣きながらスープを啜っている。

 

(……馬鹿みたい)

 

ティアは黙って、パンをちぎった。

 

---

 

天井の光が、ゆっくりと翳っていった。

 

白く柔らかかった光石の明かりが、少しずつ色を落としていく。やがてそれは、夕暮れのような橙を経て、深い藍色に沈んだ。遠くの滝の音だけが、昼と変わらずに鳴り続けている。

 

「……夜、あるんだ」

 

寝室の窓から外を覗いて、ハジメが呟いた。

 

「……ここで、暮らすためかも」

 

「かもね」

 

寝台は二つあった。

 

埃を払い、シーツ代わりの布を広げると、ハジメは右の寝台に、そのまま仰向けに倒れ込んだ。

 

ぼふっ、と。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………やっば。やわら」

 

ハジメの声が、少し震えた。

 

「……ベッドじゃん。ベッドだよ、ティア。地面じゃないの。岩じゃないの」

 

「……ん」

 

「背中痛くないんだよ……石ころ刺さんないんだよ……エモ……」

 

ハジメが、枕に顔を埋める。

 

ティアも、左の寝台に腰を下ろした。

 

手のひらで布を押す。沈む。離すと、ゆっくり戻ってくる。

 

その感触を確かめるように、何度か押してから、そっと横になった。

 

身体が、沈んでいく。

 

「……」

 

コテツとマロンが、二つの寝台の間に座って、交互にそれを見比べていた。尻尾が、床の上でそわそわと揺れている。

 

ハジメが、枕から顔を上げた。

 

「……なに、アンタらも乗りたいの?」

 

コテツの耳が、ぴんと立つ。

 

「よし。おいで」

 

ハジメがぽんぽんと布を叩いた瞬間、二匹は床を蹴っていた。

 

コテツがハジメの寝台に飛び乗る。マロンが続く。寝台が、みしりと大きく軋んだ。

 

「おっと、ちっさ。無理か」

 

ハジメは一度起き上がると、寝台の脚を掴んで、ずりずりと左へ引きずり始めた。

 

「……何、してるの?」

 

「くっつけんの。ほら、ちょっと寄って」

 

ティアの寝台に、ハジメの寝台がごとんと横付けされる。二つの寝台が、一つの大きな寝床になった。

 

「はい、完成!」

 

ハジメがその真ん中に倒れ込む。コテツとマロンが、すかさずその両脇に滑り込んでくる。

 

その結果。

 

ティアは、いつの間にか、マロンの背中とハジメの腕の間に挟まれていた。

 

「……」

 

「あー……いいわこれ……もふもふ……」

 

「……狭い」

 

「あったかいからいいじゃん」

 

「……狭い」

 

「はいはい、おやすみー」

 

ハジメは聞いていなかった。コテツの首に片腕を回し、もう片方の腕をマロンの背中に乗せて、すっかり目を閉じている。その腕の下で、マロンが満足そうに鼻を鳴らした。

 

ティアは、ハジメの腕とマロンの毛並みの間で、身動きが取れなかった。

 

押しのけようとして、やめる。

 

片方は温かくて、片方はふかふかしている。

 

しばらく、誰も何も言わなかった。

 

窓の外で、藍色の光が静かに滲んでいる。

 

「……ティア」

 

「……何」

 

「……さっきの、ありがと」

 

「……スープ?」

 

「……それもだけど」

 

ハジメが、自分の額をさすった。

 

「……手。床と頭の間に入れてくれたやつ」

 

「……うるさかったから」

 

「あはは。……だよね」

 

ハジメが、小さく笑う。

 

それから、長く息を吐いた。

 

「……明日から、ちゃんとさ。練習しなきゃね。あの、なんとか魔法」

 

「……生成魔法」

 

「それ。あと、ここにあるもんもっと見て……」

 

語尾が、ゆるゆるとほどけていく。

 

「……いろいろ……準備、して……みんなのとこ……」

 

そこで、声が途切れた。

 

代わりに、すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえ始める。

 

ティアは、首だけを横に向けた。

 

すぐ目の前で、ハジメが眠っていた。

 

コテツの首を抱えたまま。もう片方の腕は、ティアの肩の上を越えて、マロンの背中に乗っている。

 

額には、まだうっすらと赤みが残っていた。

 

ティアは、しばらくその横顔を見ていた。

 

湯の中で浮いていたもののことを、少しだけ思い出す。眉間に皺が寄りかける。

 

それから、あの皿の味を思い出して、眉間の皺がさらに深くなる。

 

それから、泣きながらスープを啜っていた顔を思い出して――

 

ティアは、ふっと息を吐いた。

 

窓の外を見上げる。

 

藍色の光が、ずっと高いところで、静かに瞬いている。

 

三百年、闇の中で目を開けていた。朝も夜もなかった。眠っているのか起きているのか、それさえ分からなかった。

 

今は、夜が来て、すぐそばで誰かが寝息を立てている。

 

背中にはふかふかの毛並みがあって、肩の上には重たい腕が乗っている。

 

……狭い。

 

狭くて、温かい。

 

瞼が、重たくなっていく。

 

(……明日も)

 

何を思おうとしたのか、自分でもよく分からなかった。

 

その先を探しているうちに、ティアの意識は、柔らかい温もりの中へ、ゆっくりと沈んでいった。

 

寝床の端で、コテツの尻尾が一度だけ、ぱたんと鳴った。

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