目を覚ますと、隣が空だった。
寝台の反対側で、布がくしゃくしゃに丸まっている。その上ではコテツとマロンが、空いた場所を占領して、腹を出して眠っていた。
「……また」
ティアは、目を擦りながら寝台を降りた。
廊下に出ると、歌が聞こえた。
「――♪ ♪♪ ♪〜」
聞いたことのない歌だった。同じ短い言葉を跳ねるように繰り返す、妙に耳に残る節回し。二拍ごとに、ハジメの肩が小さく弾んでいる。
ティアが居間を覗くと、床一面に布が広げられていた。
白。黒。生成り。箪笥から引っ張り出してきたらしい反物が、色ごとに分けて並べられている。その真ん中に、ハジメが膝をついていた。
鼻歌まじりに、布の上へ掌を滑らせている。
蒼い光が走るたびに、布が形を変えていく。裁つのでも、縫うのでもない。触れた場所から、そのまま服になっていく。
「……何、してるの」
「あ、起きた? おはよー」
ハジメは顔も上げずに答えた。手は止まらない。
「服作ってんの」
「……服」
「だってこれ見てよ」
ハジメが、足元に放り出してあった布の塊を顎でしゃくった。
奈落に落ちてから、ずっと着たきりだった服。何度も洗ったせいで色が抜け、繕った跡だらけで、袖口も裾も擦り切れている。魔物の爪で裂けた場所は、当て布の上にさらに当て布が重なっていた。
「もう限界。ほぼ雑巾。これで外歩いたら、ガチで物乞いだと思われるって」
「……私のも」
ティアは、自分の膝下丈の一着を見下ろした。ハジメが奈落で仕立て直した一着も、裾はほつれ、あちこちがくすんでいる。
「分かってるって。ちゃんと二人分作るから」
◇
一刻ほどして。
「――どう!?」
朝食を終えた居間に、ハジメが飛び込んできた。
ティアは、その姿を見上げて、動きを止めた。
白いシャツだった。
襟の立った、張りのある白。袖は手首できっちりと留められ、胸元の釦は喉元まで閉じている。
脚は、身体の線に沿った黒のスラックスに包まれていた。長い脚が、余計に長く見える。腰から肩へと、細い黒のサスペンダーが二本、白い胸の上を真っ直ぐに走っていた。
足元は、見慣れたブーツ。刺繍の模様はそのままに、汚れが落とされ、革に艶が戻っている。
両手には、薄い黒の手袋。
そして顔には、下縁だけの四角い眼鏡。
白銀の髪が、その上で柔らかく光っていた。
「ねえ、どう!? どうよ!?」
ハジメが、くるりと一回転してみせる。サスペンダーの黒が、白いシャツの上でぴしりと線を描いた。
「眼鏡がさ、いい感じじゃん? だからそこに寄せた」
それだけ言って、ハジメは眼鏡のブリッジを中指でくいっと押し上げた。
ティアは、しばらく黙っていた。
目の前の人を、上から下まで、もう一度見る。
色は、白と黒しかなかった。
飾りも、模様も、余計な釦の一つもない。ただ、襟の高さも、袖の長さも、サスペンダーの幅も、そのすべてが白銀の髪と深紅の目を引き立てるためだけに置かれていた。眼鏡の四角い縁と、サスペンダーの直線と、シャツの襟の角度が、同じ一本の線の上で揃っている。
ついさっきまで、当て布だらけの雑巾のような服を床に放り出していた人と、同じ人間だとは思えなかった。
「……誰」
「ハジメだけど!? 誰だと思ったの!?」
「……知ってる。……でも、誰」
「え、それ褒めてる!? 褒めてるよね!?」
褒めていた。
悔しいことに、似合っていた。白銀も、深紅も、長い脚も、全部その服のためにあったみたいに収まっている。
「……ハジメ」
「なに!」
「……あなた、一生喋らない方がいい」
「は!?」
「……黙ってれば、完璧だから」
「はぁ!? なにそれ!! せっかく徹夜で作ったのに一言目それ!?」
「……徹夜したの」
「してない!! ……ちょっと早起きしただけだし!!」
「……」
「てか黙ってればって何!? あーしの喋り、そんな台無しにしてる!?」
「……台無し」
「言い切った!!」
◇
「よし、じゃあ次ティアね!」
外の草地に、ハジメの声が弾んだ。
ティアは、箪笥から借りた生成りのシャツ一枚で、草の上に立っていた。奈落から着てきた一着は、洗って岩の上に干してある。
ハジメは背中に何かを隠して、にこにこしている。
にこにこ、というより、にやにやしていた。
「……何、その顔」
「え? 普通の顔だけど?」
「……普通じゃない」
「まあまあ。ほら、まずこれ着てみて。試作一号」
ハジメが背中から取り出したのは、一枚の赤い布だった。
菱形の、前掛けのような形。首の後ろと腰の後ろで紐を結ぶようになっていて、真ん中に、金色の糸で大きく一文字、見慣れない模様が縫い取られている。
「……これ、何」
「前掛け。お腹冷やさないようにね」
「……この模様は?」
「お守り」
即答だった。
ティアは、赤い布と、その真ん中の金色の模様を見下ろした。
読めない。見たことのない形だった。けれど、角が多くて、どこかどっしりとした、強そうな形をしている。
お守り、と言われれば、そんな気もした。
ティアは、ハジメの服を見た。
白いシャツと、黒いスラックス。襟の高さも、袖の長さも、一分の隙もなく決まっている。
あれを作った手が、これを作ったのだ。
ティアは赤い布を受け取ると、シャツの上から首に紐をかけ、腰の後ろで結んだ。
「……こう?」
顔を上げる。
ハジメが、口元を片手で押さえて、ぷるぷると震えていた。
「……ハジメ?」
「……っ、……い、いいじゃん……」
声が、震えていた。
「……に、似合ってる……めっちゃ、似合ってる……っ」
「……本当?」
「ほ、ほんと……ほんとに……っ、……ふっ……」
ハジメは、ぎゅっと目を瞑って、顔を背けた。肩が小刻みに跳ねている。口元を押さえた指の隙間から、ひゅっ、ひゅっ、と変な息が漏れていた。
「……?」
「……あ、あとね……っ、それに合う小物、あるから……っ」
ハジメが、震える手を足元の地面に当てた。
蒼い光が、ぶるぶると揺れながら走る。
地面から、何かがせり上がってきた。
長い柄。その先に、分厚い刃。
ティアの背丈ほどもある、巨大な石の鉞だった。
「……は、はい……っ」
ハジメが、顔を背けたまま、ぷるぷる震える両手でそれを差し出してくる。
ティアは、首を傾げながら受け取った。
ずしり、と重い。
小さな身体が、鉞の重みで少しよろめく。両手で柄を握りしめ、どうにか支えて、ティアは顔を上げた。
赤い前掛け。金の一文字。巨大な鉞。
草地に吹いた風が、床まで届く金色の髪を、ふわりと揺らした。
ハジメが、そろりと振り向いた。
目が合った。
一秒。
二秒。
「――ブハハハハハハハハ!!!! ギャハハハハ!!!」
堪えていたものが、全部決壊した。ハジメが、草の上を転げ回った。
「き、金!! 金って書いてある!! ほんとに着た!! 疑わずに着たぁぁぁ!! しかも鉞!! 鉞も持った!! ガチ!! ガチのやつ!! ガチ金太郎!! 鉞担いだ金太郎とか草!! 熊!! あと熊いたら完璧――」
その時。
鉞を抱えてよろめいていたティアの足元に、白銀の大きな影が、ぬっと潜り込んだ。
コテツだった。
笑い転げるハジメを見て、何かの遊びだと思ったらしい。尻尾をぶんぶん振りながら、ティアの股の下に頭を突っ込み、そのまま、ぐいっと身体を持ち上げる。
「……っ!?」
ティアの足が、草から離れた。
気づけば、ティアはコテツの背中の上に、鉞を抱えたまま、ちょこんと跨がっていた。
コテツが、得意げに胸を張る。二本の尻尾が、ぱたぱたと揺れている。
赤い前掛け。金の一文字。巨大な鉞。そして、白銀の大きな獣。
「――――――――」
ハジメの笑い声が、一瞬、完全に止まった。
「…………く、」
「…………」
「…………くま、」
「…………」
「――熊ぁぁぁぁぁぁぁ!!!! 熊に乗ったぁぁぁぁぁぁ!!!!」
ハジメが、草の上で痙攣し始めた。
「コテツ天才!! 天才すぎる!! 完成した!! 今完成した!! 足柄山!! ここ足柄山!! ひーっ、ひーっ、死ぬ、死ぬ、写真!! スマホないのが人生最大の損失ぅぅぅ!!」
マロンまで、何が楽しいのか分からないまま、コテツの周りをぐるぐると跳ね回り始めた。
ティアは、コテツの背中の上で、自分の胸元の金色の模様を見下ろした。
キンタロウ。
あの時、ハジメが言った名前。
熊。鉞。前掛け。
全部、繋がった。
ティアは、鉞を草の上に落とした。
それから、コテツの背中から、音もなく滑り降りた。
右手を、ゆっくりと掲げる。
その掌の上に、小さな太陽のような、青白い火球が灯った。
一つでは、済まなかった。二つ、三つと数を増やして、ティアの周りをゆっくりと回り始める。
草地の空気が、ひやりと冷えた。
ハジメの笑い声が、途中で止まった。
転がったまま、そろそろと顔を上げる。
コテツの尻尾が、止まった。
マロンの跳ね回る脚が、止まった。
三つの顔が、同時に、小さな金太郎を見た。
ティアの唇が、ほんの少しだけ動いた。
「…………コロス」
「「「――――!!」」」
ハジメと、コテツと、マロンが、同時に跳ね起きて、同時に走り出した。
その背中めがけて、青白い火球が飛んだ。
チュドォォォン!!
真後ろで、草地が爆ぜた。
爆風に背中を押されたハジメが、前のめりに吹っ飛びながら、地面を転がって受け身を取る。土と草の破片が、頭の上から降ってきた。
「うわっ!! ちょ、加減!! 加減して!!」
チュドォォォン!! チュドォォォン!!
立ち上がった足元の、一歩後ろ。また一歩後ろ。
走るハジメを追いかけるように、爆発が次々と地面を掘り返していく。振り返らずに全力で走る白いシャツの背後で、土煙の柱が、等間隔にいくつも立ち上がった。
ハリウッド映画のワンシーンみたいだった。
「なんで後ろ!? なんでいっつも一歩後ろなの!? 狙ってる!? 絶対狙ってるでしょ!!」
チュドォォォン!!
「ぎゃああああ!!」
その、すぐ横を。
白銀の影が二つ、舌を出して並走していた。
コテツが、嬉しそうに耳を伏せて加速する。マロンが、尻尾を二本とも振り回しながら跳ねている。二匹とも、爆風で毛を逆立てながら、ハジメの周りをぐるぐると回り、時々飛び上がってはハジメの顔を舐めようとした。
「アンタら楽しんでるでしょ!?」
チュドォォォン!!
「絶対楽しんでるじゃん!! これ鬼ごっこじゃないからね!? 命懸けだからね!?」
コテツが、ワンッ! と元気よく吠えた。
「返事すな!!」
マロンが、ハジメの前に回り込んで、遊びに誘う時の姿勢で伏せた。前脚を伸ばして、尻尾を高く上げる。
「止まらせようとしないで!! 死ぬ!! 今止まったら死ぬから!!」
チュドォォォン!!
すぐ後ろで、マロンの伏せていた場所が吹き飛んだ。マロンは間一髪で跳ね起きて、また嬉しそうにハジメの横に並ぶ。
「……アンタらほんと、いい性格してるわ!!」
その全部の後ろを、赤い前掛けの小さな影が、無表情のまま歩いて追ってくる。
走ってはいない。歩いているだけだった。
それなのに、距離が縮まっていく。
「金太郎様ぁぁぁ!! 許してぇぇぇ!!」
チュドォォォン!!
◇
静かになったのは、しばらく後だった。
穴だらけに掘り返され、あちこちから煙を上げる草地の真ん中に、白と黒だったはずの人影が、大の字で倒れていた。
新しいシャツは、袖が片方焦げ落ちて、背中が煤で真っ黒になっていた。サスペンダーは片方が外れ、スラックスの裾は裂けている。眼鏡だけが、奇跡的に無傷だった。
その隣に、赤い前掛けの小さな影が、うつ伏せで倒れていた。
その横では、煤だらけのコテツとマロンが、舌を出して座っていた。二匹とも、尻尾がまだ機嫌よく揺れている。
「…………」
「…………」
「…………ティア」
「…………」
「…………生きてる?」
「…………溶けた」
うつ伏せのまま、くぐもった声が返ってきた。
大きな魔法を立て続けに撃ちすぎたのだ。赤い前掛けを着た小さな身体は、草の上にでろんと伸びて、ぴくりとも動かない。
ハジメは、焦げた袖のまま、ずるずると這っていって、ティアの横に座り込んだ。
片方だけ残った袖を、まくる。
「……はい」
ティアの顔の前に、腕を差し出す。
ティアが、うつ伏せのまま、首だけを動かした。
かぷ。
「いっ……たぁ……」
ちゅう、と吸われる。
「……今日は、いつもより痛い」
「……わざと」
「だよね……」
ハジメは、穴だらけになった草地を見渡した。
それから、袖の落ちた新品のシャツを見下ろした。
最後に、赤い前掛けを着たまま自分の腕に噛みついている、小さな金太郎を見下ろした。
「……ごめんって。ちょっと、調子乗りすぎた」
「……ちょっと?」
「……だいぶ」
ティアの牙が、少しだけ深く食い込んだ。
「いだだだだ!! ごめん!! ほんとごめん!! ちゃんとしたの作るから!! 今度はほんとにちゃんとしたやつ!!」
◇
夕方。
寝室の扉が、勢いよく開いた。
「はい、できた!」
寝台に腰かけていたティアが、顔を上げた。
ハジメは、焦げたシャツを直し終えていた。袖も、サスペンダーも、スラックスの裾も、どこが焦げていたのか分からない。
その腕には、きちんと畳まれた布が抱えられている。
「はい、ティアの。着てみて着てみて」
鼻歌まじりだった。
数時間前、草地に穴を十個以上開けられて、シャツの袖を焦がされて、泣きながら「許してぇぇぇ」と逃げ回っていた人間の顔ではなかった。
「……」
ティアは、ハジメの顔をじっと見た。
それから、布の方を見た。
それから、もう一度ハジメの顔を見た。
「……お守り、ついてない?」
「ついてないついてないww」
「……鉞は」
「出ないって。さすがに二回はやんないっしょ」
けろりとしていた。
ティアは、しばらくその顔を見上げてから、ゆっくりと手を伸ばして、布を受け取った。
◇
姿見の前に立ったティアは、しばらく動かなかった。
黒のワンピースだった。
小さな丸襟のついた、ハイネックの身頃。袖だけが、肌がうっすら透けるほど薄い黒の生地でできていて、肩から手首へ、ふわりと膨らみながら流れている。腰の高い位置で、細い黒のベルトがきゅっと締められ、その下から、細かく折り目の入ったプリーツのスカートが、膝下まで真っ直ぐに落ちていた。
脚は、黒の薄手のタイツ。足元は、底の厚い、艶のある黒のローファー。
「袖のとこ、シアーね。透け感、今めっちゃ来てるから」
後ろで、ハジメが得意げに言った。
ティアは、半分も分からなかった。
ハジメが、ティアの後ろに屈み込んだ。
その手に、錬成で作った細身の鋏が光っている。
「……それ、何」
「髪。ちょっと切ろ。床まであると、絶対どっかで踏むもん。椅子にも挟むし、寝る時も下敷きになってるし」
ティアは、姿見の中で、床に広がる自分の髪を見下ろした。
「……ん」
しゃき、と軽い音がした。
腰の少し下で、金色がまっすぐに切り揃えられていく。ハジメの指が、毛先を何度か梳いて、長さを整えては、また鋏を入れる。床に、金色の束が静かに落ちていく。
最後に、ハジメは頭のてっぺんに、黒いリボンをひとつ、ふわりと結んだ。
「ティアの髪、金じゃん。いちばん映えるの、黒なんだよね。だから全部黒。主役は髪だから」
リボンの形を指先で整えて、ハジメは立ち上がった。
「……どう?」
ティアは、姿見の中の自分を見つめた。
黒一色の中に、金色だけがあった。
頭の黒いリボンから、腰まで流れ落ちる金色の髪。黒いワンピースの上を、光石の明かりを受けて、一本の川のように光りながら流れていく。その中に、赤い瞳が二つ。
「…………」
ティアは、ワンピースの裾を、そっとつまんだ。
くるりと、一度だけ回ってみる。
裾が、ふわりと広がった。
金色の髪が、黒の上で、大きく弧を描いて舞った。
「……いい」
小さな声だった。
「……すごく、いい」
ハジメが、ほっと息を吐いた。
それから、にかっと笑った。
「でしょ」
その時、寝室の扉が、ぎいっと押し開けられた。
鼻先が二つ、隙間から差し込まれる。続いて、白銀の大きな頭が二つ。
「あ、いたいた。ちょうどいい、アンタらもおいで」
ハジメが手招きすると、二匹はいそいそと部屋に入ってきた。姿見の前に、ぎゅうぎゅうに並んで座る。それだけで、部屋の半分が埋まった。
「はい、これ」
ハジメが取り出したのは、二本の革の首輪だった。
幅広で、厚みのある黒い革。縁には細かな縫い目模様が走り、正面に小さな金具が一つ。その金具に、それぞれ一本ずつリボンが結ばれていた。
コテツのには、淡い水色。
マロンのには、柔らかいピンク。
「お揃い。色だけ変えた」
ハジメは、まずコテツの首に手を回した。分厚い毛並みを掻き分けて、首輪を留める。水色のリボンが、白銀の胸元でふわりと揺れた。
「うわ、似合う。ヤバい」
次にマロンの首へ。ピンクのリボンが、二本の尻尾と一緒に揺れる。
二匹は、しばらくきょとんとしていた。
それから、鏡の中の自分に気づいた。
コテツが、鏡に向かって首を傾げる。リボンが揺れる。もう一度傾げる。また揺れる。しっぽが、ぶんぶんと勢いを増していった。
マロンは、自分の胸元のリボンを見ようとして、顎を引きすぎて寄り目になっていた。
「あはは、なにそれ。見えないって」
ハジメは、二匹の首をまとめて撫でて、リボンの端を指で整えた。それから、当たり前みたいに言った。
「はぐれても分かるじゃん。この子達、あーしらの連れですって」
ティアは、鏡の中を見た。
白と黒の長身。黒のワンピースの自分。その後ろで、水色とピンクのリボンを揺らす、二匹の大きな獣。
「…………」
ティアは、何も言わなかった。
ただ、頭のリボンに、もう一度そっと触れた。
ハジメは、ぐっと伸びをした。
窓の外で、光石の明かりが、ゆっくりと夕暮れの色に変わり始めている。
「服もできたし、これで準備はだいたい終わりかな」
ハジメは、姿見の中のティアの横に並んだ。
白と黒の自分と、黒いワンピースのティア。その後ろから、コテツとマロンがまた顔を割り込ませてくる。二つの大きな頭と、水色とピンクのリボンが鏡に入って、ティアの姿が半分隠れた。
「じゃあ、そろそろ出発しないとね」
ティアは、姿見の中のハジメを見上げた。
それから、小さく頷いた。
「……ん」
窓の外の明かりが、もう一段、色を落とした。
奈落を落ちてきた時、着るものも、髪を乾かすものも、腹に入れるものも、何ひとつ持っていなかった。それが今は、鏡の中に四つ並んでいる。白と黒。黒とリボン。水色とピンク。
明日には、この明かりの下を出ていく。
鏡の中で、コテツが大きな欠伸をした。