ハジメたちが、オスカーの隠れ家で一息ついている頃。
◇
あの夜から、二週間が経っていた。
清水が羊皮紙を広げ、光輝が問いを投げ、龍太郎が「散る前に全員でベヒモスにリベンジしよう」と言い出した、あの夜から。
この二週間、クラスは訓練場に籠もりきりだった。夜明け前から剣を振り、日が落ちても魔法を撃ち、泥のように眠ってはまた振った。メルドと騎士団が交代で付き合い、途中からは王宮の騎士たちの方が音を上げるほどだった。
そして愛ちゃん親衛隊が愛子の農村行脚に同行して王都を発つ日が、目前に迫っていた。
散り散りになる前にやるべきことが一つ残っている。
一行は訓練を切り上げ、メルドたちと共に迷宮の街ホルアドへ向かった。
◇
「私も行きます!!」
ホルアドの宿の食堂に愛子の声が響き渡った。
朝の食卓を囲んでいた生徒たちが、揃って手を止める。
「先生……」
「だって、みんなが行くんですよ!? 前の時だって、私は王宮で待ってただけで……! また待ってるだけなんて、そんなの――」
「畑山殿」
メルドが静かに口を挟んだ。
「お気持ちは分かります。ですが、あなたの天職は作農師だ」
「わ、分かってます! 戦えないのは分かってます! でも、補助魔法だって覚えました! 後ろでみんなの魔力を回復するくらいなら――」
「訓練は、拝見しておりました」
メルドは一度頷いてから、続けた。
「ですが、その後ろを守るために、前に立つ者が一人減ります」
愛子の口がぱくぱくと動いて、止まった。
「……うっ」
「先生、気持ちだけで十分だから」
雫が困ったように微笑む。
「愛ちゃん先生、ほんとに大丈夫だって! 鈴たち、めっちゃ強くなったもん!」
「そうそう。つーか先生が潜ったら、俺ら先生のことばっか気にして戦えねぇし」
龍太郎が頭を掻く。
愛子はテーブルを囲む生徒たちの顔を一人ずつ見回した。
誰も、目を逸らさなかった。
三週間前、泣き腫らした目で俯いていた顔たちだった。
「…………分かりました」
愛子は両手で自分の頬をぱちんと叩いた。
「先生は、ここで待ってます。騎士の皆さんと一緒に、ちゃんと待ってます」
それから、ぐっと身を乗り出した。
「その代わり、約束です。絶対に、全員で帰ってくること。一人でも欠けたら、先生、一生許しませんからね!!」
「……はい」
光輝が真っ直ぐに頷いた。
「全員で、帰ってきます」
生徒たちがばたばたと席を立っていく。装備を取りに部屋へ戻る者、水筒を満たしに厨房へ走る者。騒がしさが階段の上へと遠ざかっていった。
テーブルには食べかけの皿がいくつも残っていた。
愛子がそれを重ねようと手を伸ばした時、向かいに大きな影が差した。
「畑山殿」
メルドだった。
大柄な騎士団長は椅子の横に立ったまま、深く頭を下げた。
「三週間前のことを、まだ、きちんとお詫びしておりませんでした」
「え……」
「お預かりした生徒を、一人、お返しすることができませんでした。……申し訳ありません」
下げられた頭は、なかなか上がらなかった。
愛子は皿に伸ばしかけた手を、膝の上に戻した。
あの日、玉座の間で報告を聞いてから先のことは、よく覚えていない。目が覚めた時にはもう誰もが泣き疲れていた。
「……頭を、上げてください」
声が思ったより掠れた。
「メルドさんは、あの子たちと一緒に戦ってくれたじゃないですか。……謝らなきゃいけないのは、私の方です」
メルドが顔を上げる。愛子はその目を見られずに、両手で包んだカップへ視線を落とした。朝に淹れてもらった紅茶はとっくに冷めていた。
「私、先生なんです」
「……」
「あの子たちを守るのが、私の仕事なのに。危ないところへ送り出して、帰ってくるのを待って。……帰ってこなかったって聞いて、倒れて。それで今日も、ここで待ってるんです」
カップの縁がかすかに震えた。
「……分かってるつもりなんです。自分が、不甲斐ないことくらい」
メルドは、何も言わなかった。慰めの言葉を探すような顔もしなかった。ただ黙って、そこに立っていた。
階段の上から、生徒たちの声が降ってくる。誰かが誰かを急かす声。笑い声。三週間前には、聞こえなかった声だった。
(……しょげてる場合じゃ、ないですよね)
愛子は冷めた紅茶を一息に飲み干した。渋みが舌の奥に残る。
もっと、ちゃんと役に立てるように。あの子たちが帰ってきた時、胸を張って「おかえりなさい」と言えるように。
「……私も、頑張らないと」
カップを置く小さな音が、がらんとした食堂に響いた。
◇
オルクス大迷宮の入口は三週間前と何も変わっていなかった。
冒険者たちの喧騒。露店の呼び込み。魔石を換金する窓口の長い列。石造りの大きな門の向こうにぽっかりと暗い口が開いている。
一行はその口の中へと潜っていった。
一階層。二階層。三階層。
最初に襲ってきたのは、見覚えのある魔物だった。
鼠に似た、小型の獣。三週間前、初めてこの迷宮に潜った時、真っ先に飛びかかってきた奴と同じ姿、同じ動き。
違ったのは、こちら側だった。
「――ふっ」
雫の刀が閃く。
鼠が声もなく二つに分かれた。
後続の群れが龍太郎の拳で壁まで吹き飛ぶ。飛び散った破片を鈴の結界が弾く。優花の投げたナイフが、逃げようとした最後の一匹の眉間に吸い込まれた。
「……おぉ」
後方でその様子を見ていた騎士の一人が、思わず声を漏らした。
メルドは腕を組んだまま黙っていた。
口の端だけがほんの少し上がっていた。
五階層。八階層。十二階層。
どの階層でも出てくる魔物は三週間前と同じだった。同じ種類、同じ数、同じ場所。そしてどの階層でも三週間前より遥かに早く片付いた。
十五階層を過ぎた頃だった。
「……なあ」
前衛を歩いていた龍太郎がふと足を止めた。
「どうした、龍太郎」
「いや、今さらなんだけどよ」
龍太郎が珍しく歯切れ悪く頭を掻く。
「俺、あんだけ啖呵切ったじゃん。『次ベヒモスに会ったら一番前で殴り倒す』って」
「言ってたな」
「……アイツさ。南雲と一緒に、奈落に落ちてったよな?」
一行の足が揃って止まった。
「…………」
「…………」
「……え、じゃあ、まさか。もう出てこねぇんじゃねぇの?」
龍太郎の顔がじわじわと青ざめていく。
「待て待て待て。俺らこの三週間、何のために振ってきたんだよ。アイツぶん殴るために振ってきたんだぞ。六十五階層まで行って、いませんでしたーって、それ――」
「……確かに」
光輝が顎に手を当てた。
「考えてなかった。ベヒモスが、あの一体だけだったとしたら……」
「え、え、じゃあ鈴たち、何しに行くの!?」
「ちょ、今さらそれ言う!?」
ざわめきが一行の中に広がっていく。
その中で。
「――いや、多分大丈夫だろ」
後方から、気だるげな声がした。
清水だった。
「……清水?」
「迷宮の魔物ってのは、大体湧き直すもんなんだよ。リポップっつってな」
「りぽっぷ?」
「倒しても、時間が経ったら同じ場所に同じ奴がまた湧く。ゲームだと大体そうだ」
「いや、ゲームって」
「根拠ならある」
清水は顎で後ろの通路をしゃくった。
「今日ここまで倒してきた奴ら、全部三週間前と同じだったろ。同じ種類が、同じ数、同じ場所に。俺らが前に潜った時に倒した奴らが、きっちり元通りになってた」
「……あ」
雫が小さく声を上げた。
「それに、ここは冒険者の稼ぎ場だ。入口の換金所、見たろ。あの行列」
清水はつまらなそうに肩をすくめた。
「魔物が湧き直さねぇなら、とっくに狩り尽くされて、稼ぎ場なんて成立してねぇよ。何百年も前からあの賑わいってことは、何百年も前から湧き続けてるってことだ」
「…………」
「ベヒモスも同じだろ。あの橋の上に、また同じ奴がいる。……多分な」
一行がしんと静まり返った。
それから。
「――清水ぅぅぅぅ!!」
龍太郎が清水の肩をばしばしと叩いた。
「お前天才か!? 天才だろ!? さすがオタク!!」
「痛ぇ。あとオタクは褒め言葉じゃねぇ」
「褒めてんだって!!」
「……清水君、ゲームでそういうの詳しいもんね」
鈴がほっとしたように笑う。
後ろで話を聞いていたメルドが、ぼそりと呟いた。
「……その通りだ。同じ奴ではない。だが、同じ化け物だ」
「メルドさん、知ってたなら先に言ってくださいよ……」
「聞かれなかったのでな」
光輝が肩を落とし、その背中を龍太郎がまたばしばしと叩いた。
一行の足が再び動き出す。
さっきより、ほんの少しだけ軽くなっていた。
◇
十八階層の広間で短い休憩を取った。
壁際に腰を下ろした生徒たちが、水筒を回し、干し肉を齧る。龍太郎は座るなり床に大の字になり、鈴に「お行儀」と小突かれていた。
そして誰からともなく、各自が自分の得物を膝に乗せ始めた。
砥石を出す者。刃こぼれを指でなぞって溜息をつく者。緩んだ柄の巻きを見様見真似で締め直そうとして、余計に歪ませる者。
「……あー、これ絶対曲がってるわ」
「俺のも刃止まってる。硬ぇ骨ばっか叩いたからな」
「なあ、これどっちに研ぐんだっけ」
「知らねぇよ。騎士さんに聞け」
騎士たちの周りに小さな行列ができていた。メルドの部下たちが、慣れた手つきで生徒たちの武器を見てやっている。それでも二十人以上の面倒を数人で見るのは限界があって、順番を待つ間は手持ち無沙汰の生徒たちが壁にもたれていた。
「……前は、こんなことしてなかったよな」
遠藤が刃の潰れた短剣を膝の上で回しながら呟いた。
広間の空気が少しだけ止まった。
前は、必要がなかった。
戦闘が終わるたびにあの金髪が列の真ん中を歩いてきた。「はい次ー」と手を出して、刃こぼれた剣を受け取り、掌を当てる。蒼い光が走って、返ってくる頃には新品同然になっている。ついでに柄の巻きが手に合っていないと、勝手に直された。鎧の歪みも盾の罅も、水筒の蓋が緩いのまで直された。
順番を待つ列はいつも騒がしかった。
『ちょ、並んでよ! 押さないで! あーし一人しかいないんだけど!?』
『南雲ー、俺のもー』
『はいはい。……てかノムケン、また杖の握り方変えたっしょ? ここ減り方おかしいもん。直しとくね』
「……便利だったよなぁ、南雲」
斎藤がぼそりと言った。
「便利って言い方はやめなさいよ」
優花がナイフの刃先を布で拭いながら睨む。
「……悪ぃ」
「でも、分かるわ」
優花はすぐに視線を落とした。
「ナイフ、毎回全部直してくれてたもの。手元に戻した端から刃は潰れてくのに、戦闘終わって渡したら、次の日には全部新品みたいになってた」
優花は手の中のナイフの、欠けた刃先を指でなぞった。
(……結局、お礼言えなかったなぁ)
ざらついた刃先が指の腹に引っかかる。何度なぞっても引っかかったままだった。
優花はしばらくそうしてから、ナイフを鞘に戻し、いつもの顔に戻って立ち上がった。
輪から一歩外れた壁際で、光輝はその光景を見ていた。
誰かがハジメの名前を出すたびに、広間のあちこちから小さな声が上がる。あいつ、籠手の留め金まで勝手に替えてたよな。俺なんか、ブーツの紐まで結び直されたぞ。笑い声とも溜息ともつかない声が、ぽつぽつと重なっていく。
真ん中にいるはずの金髪はどこにもいない。
それなのに、輪はちゃんとそこにできていた。
(……南雲さんは、俺にとって、何だったんだろう)
最初に浮かんだのは、グラウンドの隅の日陰になったベンチだった。蹲るように座り込んだ背中と、そこへ投げつけた自分の正論。
次に訓練場で弾き飛ばされた模擬剣の、手首に残った痺れ。
自分がどれほど薄っぺらいものの上に立っていたのか。それを映してくれたのは、いつも彼女だった。歪んだ自分を覗き込むための、レンズのような人。
――それだけ、だったのだろうか。
教室の窓際であの輪が笑っていた昼休み。囲まれて食べていた購買のパンは、何の味だったか思い出せない。
答えのようなものが喉の手前まで上がってくる。けれど形になる前にほどけて、どこかへ沈んでいった。
気づけば、指先が自分の右肩に触れていた。
光輝はその手をそっと膝の上に戻した。
少し離れた場所でメルドが自分の剣を鞘に収めた。
「……錬成師というのは、本来そういう天職だ」
生徒たちが顔を上げる。
「前線に立つ職ではない。だが、装備の整備、足場の構築、罠の解除。長期の探索では、一人いるかいないかで、隊の生存率がまるで変わる。……騎士団でも、腕のいい錬成師は隊長格と同じだけ重んじられる」
そこでメルドは一度言葉を切った。
「その上で言うが。あれは、錬成師としても異常だ」
「……異常?」
「地形を読む速さ、壁を起こす精度。あんなものを当たり前にやる錬成師を、俺は他に知らん」
メルドは広間の入口の方へ目をやった。
「俺たちは、あれをちゃんと知っていた。だからこそ、前線に出すべきではないと何度も具申した。後方に置け、整備と支援に専念させろ、とな」
生徒たちが顔を見合わせた。
「……えっ、じゃあ、なんで南雲さん、あの日前に出て――」
「通らなかった」
メルドの声が低くなった。
「教会だ。勇者の隊は全員が前線に立つべきだと、あちらが譲らなかった。……総長も、俺も、何度か書面を出した。全部、突き返された」
砥石を擦る音が一つ、また一つと止まっていく。
清水が顔を上げていた。
魔眼の奥で、二週間前の夜に広げた羊皮紙の文字がちらりと重なる。
遠藤も短剣を握ったまま動きを止めていた。あの老人の喉に届かなかった刃の感触と、それを弾いた白い槍をまだ覚えている。
そして香織が杖を抱えたまま、静かにメルドを見ていた。
「……メルドさん」
「なんだ」
「教会の人たちは、どうしてそこまで、ハジメちゃんを前に出したかったんでしょうね」
穏やかな声だった。
メルドはすぐには答えなかった。
「……分からん。分からんが、いい気分はせんな」
メルドはそこで小さく鼻を鳴らした。
「……もっとも、だ。あの嬢ちゃんも、結局は前に出たがるタイプだったがな」
生徒たちが顔を上げる。
「後ろにいろと言えば返事だけは良かった。それで、次の戦闘では壁を作りに一番前まで出てくる。何度言っても直らん」
呆れたような、それでいてどこか眩しいものを見るような目だった。
「教会が何を言おうが言うまいが。あれは、どのみちあの場所に立っていただろうよ」
誰も、何も言えなかった。
砥石を擦る音だけが広間にしばらく響いていた。
◇
「……つーか清水。お前、さっきから目ぇ赤くね?」
沈黙を破ったのは、龍太郎だった。
壁に寄りかかって水を飲んでいた清水が、うるさそうに顔を上げる。
「……あ?」
「いや、ここ来てからずっとだろ。魔眼のやつ、出しっぱなしなんじゃねぇの?」
「出しっぱなしだが」
「は?」
龍太郎の手から、干し肉が落ちた。
「え、出しっぱなし!? お前それ、撃つ時だけのやつじゃなかったのかよ! 目ぇ潰れるって言ってたじゃん!」
「潰れねぇよ。撃たなきゃな」
清水はつまらなそうに水筒の蓋を閉めた。
「この三週間、暇さえあれば開けてた。最初は十分で頭痛がしてたが、そのうち慣れた。今は開けてるだけなら何ともねぇ」
「……何ともないって、お前」
「見えるだけだ。魔力の流れと、濃さ。それだけ」
そう言って、清水は通路の奥を顎でしゃくった。
「さっきの三階層の鼠。あれ、壁の向こうから三匹来るのが分かってた。だから八重樫に位置言っただろ」
「……言われた」
雫が手を止めた。
「あれ、そういうことだったの」
「何だと思ってたんだよ」
「勘かと」
「勘で階層の先が読めるか」
生徒たちが顔を見合わせる。
十八階層まで一度も不意打ちを食らっていない。先頭を歩く遠藤が気配を拾い、最後尾の清水が魔力の流れを見る。それが当たり前になりすぎて、誰も理由を考えていなかった。
「……すげぇじゃん、お前」
「別に。才能が開花しましたーってやつだろ。三週間毎日やってりゃ、誰でも多少は伸びる」
清水は肩をすくめた。
「他の連中だって、三週間前より全員強くなってんだろ。同じだよ」
そう言って、また水筒を傾ける。
その横顔をメルドが黙って見ていた。
闇術師が魔眼を常時開いたまま平然としている。騎士団の記録にもそんな例は聞いたことがなかった。
◇
雫は少し離れた岩に腰かけて、刀の手入れをしていた。
布で刃を拭う。三週間前より、手が震えていない。
刃こぼれはほとんどなかった。
「……雫ちゃん」
顔を上げると、香織が隣に立っていた。
「手、大丈夫?」
「え?」
「さっきの戦い。二十匹くらい、一人で捌いてたでしょ」
「ああ……うん。平気」
香織は雫の隣にちょこんと座った。
膝の上に杖を置いて、両手を重ねる。その手が汗ひとつかいていないことに、雫はなんとなく気づいた。
「……香織」
「なあに?」
「……怖くない?」
自分でも意外なほど素直な声が出た。
「あの橋に戻るの。……正直、私はちょっと怖い」
香織は少しだけ首を傾げた。
考えるような間があった。
「……怖い、っていうのとは、違うかも」
「え?」
「早く行きたい、の方が近いかな」
香織は真っ直ぐ前を向いたまま言った。
その目は広間の天井でぼんやりと光る石に向いていた。
「あの橋の下、まだ誰も見てないでしょ。……ハジメちゃん、まだあそこにいるの」
そこで、香織の声からふっと温度が消えた。
「――取り返さなきゃ。この世界から」
一瞬だった。
次の瞬間には、香織はいつもの顔で微笑んでいた。
「……だから、行かなきゃ」
言葉は、何も間違っていなかった。
声も表情も三週間前と何も変わらない、雫のよく知る親友のものだった。
それなのに。
「……香織」
「うん」
「ハジメのことなんだけど」
香織の睫毛がわずかに揺れた。
雫は膝の上の刀に目を落とした。
淡い桜色の意匠が入った柄。この世界に来て初めて握った、刀らしい刀だった。この三週間、ずっとこれを振ってきた。
「……この刀ね」
「うん」
「使いやすいのよ。びっくりするくらい」
指が柄の巻きをなぞる。
「重心が、私の手の内にぴったり合ってる。鍔の厚みも、柄の太さも。長く振っても、掌のどこにも当たらない。……三週間振って、血豆が一つもできてないの。王宮で借りてた剣じゃ、ありえなかった」
「……うん」
「稽古の後で気づいたの。ああ、この子、私の手をちゃんと見てたんだって」
雫の声が少しずつ低くなっていく。
「稽古を何度も見て、私の握り方を覚えて、どこが痛むのか分かった上で、全部直してくれてたのよ。……たった一晩で」
刃を拭く布が止まった。
「それを私は、お遊戯みたいなおもちゃだって言ったの。みんなの前で」
「……雫ちゃん」
「振るたびに、手に馴染むの。馴染むたびに、あの子がどれだけ考えて作ったかが分かるの」
雫は目を伏せた。
「……使いやすければ使いやすいほど、あの時の自分の声が、はっきり聞こえてくる」
雫は刃に映る自分の目を見た。
「だから私、確かめに行くの。ベヒモスを倒すのも、もちろんあるけど。……あの子が落ちた場所を、自分の目で見ておきたい」
「……うん」
「見ないまま『終わったこと』にしたら、私、一生あの子に謝れない気がする」
しばらく、二人とも黙っていた。
広間の反対側で、龍太郎の笑い声と優花の怒鳴り声が上がった。
「……雫ちゃんは、強いね」
香織がぽつりと言った。
「え?」
「ちゃんと、悲しめてる」
雫は香織の横顔を見た。
香織は真っ直ぐ前を向いていた。その目に涙の跡はなかった。三週間、一度も見ていない。
「……香織は」
「わたしは、大丈夫だよ」
即答だった。
「泣いてる暇があったら、動きたいの。回復役が泣いてたら、誰も安心して前に出られないでしょ?」
正しかった。
何も、間違っていなかった。
雫は口を開きかけて――
結局何も言えないまま、刀を鞘に収めた。
かちん、と乾いた音が広間に響いた。
「……そうね。じゃあ、背中は預けるわよ」
「まかせて」
香織が、ふふ、と笑う。
いつもの笑い方だった。
いつもの、笑い方だったのに。
雫の胸の奥で、小さな棘が抜けないまま残っていた。
◇
少し離れた壁際で、清水は水筒を傾けたまま動きを止めていた。
聞くつもりはなかった。ただ壁を背にして座っていたら、二人の声が勝手に耳に入ってきただけだ。
――取り返さなきゃ。この世界から。
あの一瞬だけ、声から何かが抜け落ちていた。
(……この世界から、ね)
教会から、でも、迷宮から、でもない。白崎は、この世界を丸ごと指していた。二週間前の夜に羊皮紙を広げた自分でさえ、そこまでの大きさで何かを憎んだことはない。
魔眼を使うまでもなかった。光輝に頭を下げられた時も、龍太郎に肩を叩かれた時も、あの少女は同じ顔で笑っていた。
(……正しいこと言ってんだよな、あいつ)
回復役が泣いてたら誰も前に出られない。その通りだ。正しいことしか言っていない。それが一番、気持ち悪かった。
清水は水筒の蓋を閉め、深く息を吐いて天井を見上げた。
何とも言えない顔のまま、しばらくそうしていた。
◇
二十階層。
広い石造りの大広間に出た。
三週間前、メルドが「ここを超えられれば一流だ」と言った場所だった。
「……いるな」
一行が足を踏み入れた瞬間、遠藤が短く言った。
「右の壁。岩が二つ、浮いてる」
「どこが」
「形が違う。三週間前と、全部同じ形のはずなんだ。あそこだけ、違う」
清水が魔眼を細める。
「……ああ。魔力の流れがある。岩じゃねぇな」
次の瞬間、右手の岩壁が膨れ上がった。
岩肌が割れ、四肢が生え、巨大な亀のような輪郭が起き上がる。ロックマウント。三週間前、女子組に飛びかかって肝を冷やさせた魔物が、二体。
「――鈴!」
「はいはいっ! 『聖絶』!」
雫の声より早く、鈴の結界が前衛と後衛の間に展開する。
一体目が突進した。
「野村!」
「おうよ!」
野村の杖が床を突く。石畳が波打ち、ロックマウントの前脚が膝まで沈んだ。巨体が自分の勢いで前のめりに転ぶ。
そこへ、光輝が滑り込んだ。
聖剣が二閃。転んだ巨体の、甲羅の継ぎ目を的確に走る。
「龍太郎!」
「いっけぇぇぇ!!」
踏み込みの音が大広間に響いた。
拳が継ぎ目に叩き込まれる。岩の甲羅が内側から弾けて、巨体が痙攣した。
二体目は逃げようとした。
壁に潜り込もうと、体を岩肌に沈め始める。
「逃がすかよ」
短い詠唱。清水の足元から、黒い泥が広がった。ロックマウントの後脚を捉えて、壁の手前で引き止める。
「――永山!」
優花が叫ぶと同時に四本のナイフが空を裂いた。刃が岩肌の隙間に突き刺さり、動きが一瞬止まる。
その一瞬に永山が入った。
低い姿勢からの踏み込み。腰の捻り。
叩き込まれた掌底が岩の甲羅を粉々に砕いた。
巨体が吹き飛ぶ。
三週間前、龍太郎が殴り飛ばしたのと同じ場所――大広間の奥の石壁に、猛烈な勢いで激突した。
ドガァァンッ!!
石壁が崩れ落ちる。
静寂が戻った。
「…………」
「…………」
誰も息一つ乱していなかった。
雫は刀を鞘に収めながら、周りを見回した。
三週間前、この魔物一体に全員で手こずった。悲鳴が上がり、指示が飛び交い、誰かが転び、誰かが庇われた。
今は、二体。
十数秒だった。
「……なあ」
龍太郎が拳を開いたり閉じたりしながら呟く。
「俺ら、けっこう強くなってね?」
「……みたいだな」
光輝が聖剣を鞘に戻した。
後方でメルドが顎を撫でていた。
騎士たちは剣を抜く暇さえなかった。
「……連携が、板についてきたな」
小さな呟きだった。
三週間前、この隊は個人の集まりだった。強い者が前に出て、弱い者が後ろで竦む。それだけだった。
今は、誰かが見つけ、誰かが止め、誰かが削り、誰かが仕留める。
――それを一番最初にやっていた者が、もういない。
メルドは崩れた壁の方へ目をやった。
舞い上がった石の粉の向こうから、淡く青い光が漏れ出していた。
◇
岩壁から突き出すように生えた、鉱石の塊。
グランツ鉱石。
三週間前、この石に触れた瞬間、全員が六十五階層へ飛ばされた。
「……またあるな」
清水が低く呟いた。
「罠も、湧き直すってことか」
「ああ。これで確定だ」
一行は壁の前で足を止めた。
誰もすぐには動かなかった。
青い光が全員の顔を下から照らしている。三週間前と同じ光。同じ石。同じ場所。
その中から、一人が前に出た。
檜山だった。
「……大介」
声をかけたのは、近藤だった。
その隣で斎藤と中野も檜山を見ている。いつものへらへらした顔ではなかった。
「行けるか」
「……ああ」
檜山はそれだけ返して歩き出した。石の前まで歩いていき、そこで立ち止まる。
右手を持ち上げかけて――
止めた。
振り返る。
全員の顔がそこにあった。光輝。雫。龍太郎。鈴。恵里。香織。永山。野村。遠藤。清水。園部。他のクラスメイトたち。メルドと、騎士たち。
檜山はその一つ一つを、ゆっくりと見た。
三週間前は、誰の顔も見なかった。
綺麗な石だと思った。高く売れると思った。自分のことしか、考えていなかった。
「…………なあ」
檜山の声は少し掠れていた。
「前は、俺が勝手に触った。誰にも何も言わねぇで。……それで、あいつが落ちた」
「……」
「だから、今度はちゃんと言う」
檜山は真っ直ぐに全員を見た。
「今から触る。……頼んだ」
短い言葉だった。
近藤が黙って頷いた。斎藤が拳を胸に当て、中野が短く口笛を吹いた。永山と野村も静かに頷いている。
「……ああ」
光輝が答えた。
「任せろ」
檜山はもう一度だけ石の方を向いた。
目を閉じる。
肩が大きく上下した。吸って。吐いて。
それから、目を開けた。
「――よし」
「全員、手筈通りにいくぞ」
清水の声が背中を押した。
檜山の右手が青い光に触れた。
足元に光の線が走った。
床一面に巨大な魔法陣が浮かび上がる。三週間前と同じ紋様。同じ光。
けれど、今度は誰も悲鳴を上げなかった。
雫が刀の柄に手をかけた。龍太郎が拳を握り直した。鈴が杖を胸の前に構えた。
光が、弾けた。
◇
浮遊感は一瞬だった。
足の裏に硬い石の感触が戻ってくる。
目を開ける。
巨大な空洞だった。
遥か下に底の見えない闇が口を開けている。その上を一本の石の橋が、真っ直ぐに渡っていた。幅は十メートルほど。手すりも何もない、剥き出しの大石橋。
六十五階層。
あの日と、何も変わっていなかった。
橋の中ほどに、ぽっかりと欠けたように修復された跡がある。崩れ落ちた足場の縁を、迷宮そのものが塞いだような、少しだけ色の違う石。
誰かが息を呑んだ。
あの場所で、あいつが落ちた。
――グルルルル……。
低い唸り声が空洞を震わせた。
橋の向こう側。闇の中から、それがゆっくりと姿を現す。
小山のような巨体。鎧のような甲殻。赤く光る眼。頭部から突き出した、捻じれた二本の角。
ベヒモス。
同時に背後で、からからと乾いた音が鳴り始めた。
振り返るまでもなかった。橋の手前の広場に次々と魔法陣が浮かび上がる。そこから這い出してくる、骨だけの兵士たち。錆びた剣。欠けた盾。空っぽの眼窩の奥で青白い光が揺れている。
トラウムソルジャー。
十、二十、五十――百を超えて、まだ増えていく。
前方にベヒモス。
後方に骨の軍勢。
三週間前と、同じ配置だった。
「……いたな」
龍太郎がにやりと笑った。
その声は、少しも震えていなかった。
三週間前、この橋の上で、誰もが震えていた。泣き叫ぶ者がいた。腰を抜かす者がいた。逃げ道を探して、ただ右往左往していた。
今、橋の上に並んでいるのは、違う顔だった。
雫の親指が刀の鯉口を静かに切る。唇を真一文字に結んだ鈴は結界の詠唱を口の中で転がす。遠藤の輪郭はもう半分ほど影に溶けかけていた。その隣で魔眼を細め、骨の軍勢の奥を見据える清水。優花の指の間には色とりどりに輝く四本のナイフ。檜山の両脇を永山と野村が固めている。
香織は杖を胸の前に抱いて、静かに橋の先を見つめていた。
その視線が、一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、橋の縁の向こう、底の見えない闇へと落ちた。
すぐに戻る。
橋の向こう、赤く光る二つの眼へ。
唇を引き結び、瞬きもせずに、真っ直ぐ。
杖を抱く指の関節が白く浮いていた。
――清水の魔眼だけが、その一瞬を捉えていた。
清水は、何も言わなかった。
ただ、香織の立ち位置と橋の縁までの距離を、頭の中に刻みつけた。
(……あいつ、どさくさに紛れて飛び降りる気じゃねぇだろうな)
――ゴアアアアアアアアアアッ!!!
ベヒモスが咆哮した。
空洞全体がびりびりと震える。天井から砂が降る。背後の骨の軍勢が一斉に剣を打ち鳴らした。
その真ん中で。
光輝が一歩前に出た。
光輝は胸に手を当てた。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。
足元から込み上げてくる恐怖を、震えを、力任せに押さえつけるように。
長く、深く、ひとつ息を吐き出した。
「――ふぅー……」
顔を上げる。
赤く光る、ベヒモスの眼。
三週間前、あの眼の前に一人で立っていた背中があった。
誰も、あの背中の隣には立てなかった。
今度は、全員がここにいる。
光輝は、聖剣を抜いた。
構えは低く。踏み込みは真っ直ぐに。三週間、訓練場で振り直してきた、自分の剣の構えで。
腹の底から、声を絞り出した。
「――いくぞぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
空洞を揺るがすほどの叫びだった。
ベヒモスの咆哮にさえ、負けていなかった。
「「「おおおおおおおおおおッ!!!」」」
全員の声がそれに応えた。
石の橋を蹴る音が一斉に鳴り響く。
前へ。
あの日、誰も進めなかった方へ。