石の橋を蹴る足音の中で、香織の唇が動いていた。
「天恵よ、雨となりて遍く降り注げ。我が友の傷に、倒れぬ力を――〝潤天〟」
頭上で光が弾ける。
細かな光の粒が、雨のように降ってきた。駆ける生徒たちの肩に、髪に、握りしめた武器の柄に落ちては、音もなく肌へ染みていく。濡れはしない。雨上がりの陽だまりに似た温度だけが、体の芯に残る。
「……あったけぇ」
龍太郎が走りながら呟く。
「香織、これ……」
「しばらく続くから。ちょっとした怪我なら、勝手に塞がるよ」
香織は前を向いたまま答えた。
光輝が聖剣を握り直す。
「――手筈通りだ! 行くぞ!」
その一声で一団が二つに割れた。
光輝、雫、龍太郎、鈴、永山、香織、そしてメルド。七つの背中が、橋の先で唸りを上げる巨獣へと駆けていく。
残りの全員は踵を返した。
◇
振り返った先で、骨の軍勢が波のように押し寄せてくる。
錆びた剣。欠けた盾。空っぽの眼窩の奥で揺れる、青白い光。からから、からからと、乾いた骨の擦れる音が石橋を埋め尽くしていく。
三週間前、この橋の上で腰を抜かした。泣いて、叫んで、逃げ道を探して、誰かに手を引かれてやっと立った。
その時と同じものが、同じ数だけ並んでいる。
「――右寄りに厚い」
最後尾から清水の声が飛んだ。
赤く染まった両目が、骨の群れの奥を見据えている。
「前から三列が固まって来る。その後ろはバラけてる。広場の魔法陣、まだ四つ光ってんぞ。止まんねぇ」
「上等だ」
騎士団副団長のアランが剣を抜いて前に出た。
「騎士団、生徒たちの両翼を固めろ! 正面は――」
「正面は俺らでやります」
清水が遮る。アランは一瞬だけ眉を上げ、それから短く頷いた。
「……任せた」
「中村」
名前を呼ばれた。
恵里は眼鏡の縁を指で押し上げ、一歩前に出る。
「うん。分かってる」
骨の軍勢の先頭は、もう二十歩の先まで迫っていた。
恵里が杖を掲げる。
「地を這う枷よ、彼の者らの足を捕らえ、その力を削げ――〝枷呪〟」
石畳に黒い紋様が滲んだ。
墨を垂らしたように広がった影が、先頭の骨たちの足首に絡みつく。派手な光も音もない。ただ骨の足が、急に泥の中を歩くように重くなる。
前列がつんのめった。
後ろから押し寄せる骨が、止まった前列にぶつかる。ぶつかった骨にまた後ろの骨がぶつかって、幅十メートルほどの石橋の上に、みるみるうちに骨の団子ができあがっていく。
(……地味だなぁ)
自分で撃っておいて、恵里は少しだけ可笑しくなった。
前にこの橋に立った時も、同じような呪いを撃っている。ベヒモスの足を鈍らせるための、後ろからの足止め。誰の目にも留まらない、縁の下の術。
それでよかった。
天職が降霊術師だと分かった日のことを覚えている。死者の魂を扱う、少し不気味な天職。王宮の降霊術の部屋に初めて入った後、みんなの前で「妙におどろおどろしい空気で、ちょっと怖かったかな」と言った。眉を下げて、困ったように笑って。
あの時、自分が本当に怖かったのかどうか、恵里はもう覚えていない。
ただ、この天職は委員長の顔の裏にしまっておくべきものだと、それだけは分かっていた。可憐で、真面目で、誰からも好かれる中村恵里に、死人の匂いは似合わないから。
「――野村!」
清水の声で、意識が戦場に戻る。
「おうよ!」
野村が杖の石突きで橋を叩き、短く詠唱した。
杖の先から砂が溢れ出す。
どこにも砂などなかった石橋の上に、さらさらと乾いた音を立てて、黄土色の流れが湧き出してくる。流れは見る間に嵩を増し、うねり、這い、団子になった骨の群れの足元へと雪崩れ込んだ。
骨の脛が埋まる。膝が埋まる。もがくほどに砂が噛みつき、錆びた剣を振り上げた腕まで呑み込んでいく。
「……えっぐ」
後方で誰かが引きつった声を漏らした。
「園部!」
「分かってるわよ!」
優花の周りに、十本を超えるナイフが浮かび上がった。
指の一本も動かさない。刃先を揃えて宙に並んだナイフへ、優花は短く告げる。
「雷よ、奔れ」
ばちり、と刃という刃が青白い火花を散らす。
「――いけっ!」
放たれた。
雷を纏った刃の雨が、砂に埋まった骨の群れへと突き刺さる。一本目が錆びた剣の腹を打った瞬間、電光が弾けた。剣から隣の盾へ。盾から隣の剣へ。錆びた鉄の武具を伝って、雷が群れ全体を舐めるように駆け抜けていく。
骨が震える。震えた端から関節が弾けて、ばらばらと崩れ落ちた。
優花が指を振ると、突き刺さったナイフが一斉に抜けて手元へ戻ってくる。
(……当たった)
前はこの場所で尻もちをついた。目の前に振り下ろされる刃を、ただ見上げることしかできなかった。
優花は戻ってきたナイフを指の間で鳴らし、もう一度宙に並べた。
その背中の少し後ろで、恵里の唇はずっと動き続けていた。
「此岸と彼岸は、一つの輪」
左手首で、小さな銀のチャームが揺れている。
刻まれているのは、メビウスの輪。表を辿っていくと、いつの間にか裏にいる。裏を辿っていくと、また表に還ってくる。どこにも継ぎ目のない、たった一つの輪。
「表を辿りて裏へ至り、裏を辿りて表へ還れ」
詠唱の言葉を初めて読んだ時、恵里は少しだけ手を止めた。
夜の回廊。月明かり。膝を抱えて、醜いものを全部吐き出した後に、あの子は何でもないような顔で言った。
――そんなのどっちも本当の恵里ってことでいいじゃん。
光輝を想って狂いそうになる自分も。みんなと馬鹿みたいに笑っている自分も。委員長の顔をした自分も、その裏で死人の魂に手を伸ばす自分も。
(……どっちも、私)
「彼方に眠る猛き者よ、我が声を道標とせよ――〝招魂〟」
橋の上の空気が、ひやりと冷えた。
誰かの吐く息が白くなる。恵里の周りに、淡い燐光がいくつも浮かび上がった。蛍のようにゆらゆらと漂い、けれど蛍よりもずっと静かに、恵里の呼びかけを待っている。
遥か昔に、どこかの戦場で剣を振るった者たちの魂。
「清水君」
「ああ」
清水の赤い両目が、砂の中でもがく骨の群れを捉える。
恵里は杖を群れへと向けた。
「器に巣食う魂よ、その座を明け渡せ」
同時に、清水の瞳の奥で黒い光が瞬く。詠唱はない。魔眼が見据えた骨の群れの中心に、不可視の何かが滑り込んでいく。
「彼方の英霊よ、空きし器に宿りて、我が軍門に降れ――〝換魂〟」
燐光が一斉に飛んだ。
群れの中の骨の兵士へ、一つ、また一つと吸い込まれていく。空っぽの眼窩で揺れていた青白い光がふっと消えて、代わりに淡い金色の光が灯る。
そして、群れが割れた。
最初に動いたのは、清水の〈惑心〉を受けた骨だった。
さっきまでと同じ、ぎこちない骨の動き。同じ錆びた剣の、同じ力任せの振り下ろし。ただ、その刃が向く先だけが変わっている。隣の骨の頭蓋へ。背中へ。今の今まで肩を並べて押し寄せていた仲間へ。
骨が骨を叩き、叩かれた骨がまた別の骨を叩き返す。
その混乱の中を、金色の眼をした骨が歩いていた。
歩き方からして違う。腰が据わり、踵が浮かない。欠けた盾を半身に構え、錆びた剣の切っ先がぴたりと相手の喉元で止まっている。
踏み込む。
一閃で、骨の首が飛んだ。返す刃で、横から来た一体の腕を肩口から落とす。盾で受け、流し、そのまま体を入れ替えて、また斬る。
少し離れた場所では、別の金色の眼の骨が、槍の穂先の欠けた柄を棍のように回していた。また別の一体は、背中合わせに立った金色の骨と呼吸を合わせ、群がる骨を二人がかりで捌いていく。
同じ姿をした骨の兵士が、同じ群れの中で、まるで別の生き物のように動いている。
「……うわ」
遠藤が呆れたように声を漏らした。
「同じ骨なのに、中身違うとあんな動きになんのかよ」
「英霊ってのは伊達じゃねぇな」
清水も魔眼を細めたまま息を吐く。
恵里は、自分の呼んだ魂たちが剣を振るうのを見ていた。
型がある。誇りがある。遥か昔に死んだ誰かが、骨の器の中で、生きていた頃と同じように戦っている。
不気味だと思っていた。
死者の魂を扱うなんて、人に言えるような力じゃないと思っていた。
――なんかミステリアスでカッケーw
天職が分かった日。首をひねっていた自分の横で、金髪のギャルは何の迷いもなくそう言って笑った。あの時は、曖昧に笑い返すことしかできなかった。
金色の眼をした骨が、背中合わせの相棒と剣を交差させ、正面の骨をまとめて薙ぎ払う。
(……うん)
恵里の口元が、ほんの少しだけ緩む。
(ちょっと、カッケーかも)
「中村! まだいけるか!」
「いけるよ」
恵里は杖を握り直した。
呼び寄せた燐光が、まだいくつか恵里の周りで揺れている。
「清水君、遠藤君。二人とも、前に出て」
「あ?」
「……俺も?」
遠藤が首を傾げる。清水は一瞬だけ恵里を見て、それから杖を構え直した。
「――何すんのか知らねぇが、乗った」
「古の英霊よ、その技を貸し与えよ」
燐光が二つ、ふわりと浮き上がる。
「我が友の腕に宿り、刃に宿り、共に戦場を駆けよ――〝憑英〟」
一つが清水の背に。一つが遠藤の背に。溶けるように吸い込まれていく。
「っ――」
清水の肩が跳ねた。
体の奥に、自分のものではない何かが入り込んでくる。重さはない。ただ、腕の置き方、膝の曲げ方、重心の落とし方。そういうものを、誰かが後ろから手を添えて直していくような感覚があった。
踏み込んだ。
踏み込んでから、清水は自分が踏み込んだことに気づく。
上体が浮かない。腰から前に出ている。三週間、訓練場で雫に何十回となく叩き直されて、それでも最後までできなかった踏み込みが、勝手に出ていた。
振った杖が、骨の顎を正確に打ち抜く。返す石突きで、横の一体の膝を砕く。
「……勝手に動く!?」
「ははっ、なにこれすげぇ!」
少し先で遠藤の姿が消えた。
元々、影のように動く男だった。その影が、さらに一段深くなる。現れた時には骨の首の継ぎ目に短剣が走っていて、崩れる骨の向こうにはもう誰もいない。三体。四体。七体。どこから斬られているのか、斬られている骨にも分かっていない。
清水の魔眼がその先を読む。
「遠藤、左奥! 金色のは味方だ、斬るなよ!」
「分かってるって!」
読む目と、動ける体。
二つが初めて、同じ一人の中で噛み合っていた。
前に出ていく二人の背中を、恵里は見つめる。
自分の力が、仲間の背中を押している。
誰にも見せられないと思っていた力が。人に言えないと思っていた天職が。
(……貸してあげる)
眼鏡の奥で、恵里は小さく目を細めた。
(私の、自慢の力)
「――っしゃあ! 俺らも行くぞ!」
その脇を、四つの背中が駆け抜けていく。
檜山たちだった。
「ここに焼撃を望む――〝火球〟!」
檜山の放った火球が、崩れかけた骨の塊に叩き込まれる。爆ぜた炎の中へ、近藤が剣を振りかぶって飛び込んでいった。斎藤が盾ごと骨に体当たりし、よろけた一体を中野が横から斬り飛ばす。
「大介、右!」
「見えてる!」
型も何もない。ただ力任せに剣を振り回し、魔法をぶっ放し、目の前の骨を片っ端から叩き壊していく。
前にこの橋に来た時、四人は青い顔をして縮こまっていた。金髪のギャルに「そこの4バカ!」と怒鳴られて、「うるせー!」と言い返して、それでようやく剣を抜いた。
今は、誰にも何も言われていない。
その背中をアランは見ていた。
あの時、この橋の上で泣きじゃくる生徒たちを庇い、引きずるようにして階段へ逃がしたのは騎士団だった。守るべき子供たちだった。
その子供たちが、今、自分たちより前にいる。
アランの口の端が吊り上がる。
「――騎士団ッ!」
腹の底から声を張り上げる。
「いつまで後ろで突っ立っている! 子供らに遅れを取って、ハイリヒの騎士を名乗れるか!」
「「「応ッ!!」」」
鋼の擦れる音が、一斉に鳴った。
両翼を固めていた騎士たちが、盾を構えたまま前へ雪崩れ込む。訓練で叩き込まれた隊列の動きで、砂と雷と同士討ちで崩れかけた骨の群れを、端から押し潰していく。
「うおっ、騎士団来た!」
「負けてらんねぇぞお前ら!」
檜山たちがさらに前へ出る。張り合うように、生徒の剣と騎士の剣が並んだ。
最後の一体が砂の中で崩れ落ちるまで、それほど時間はかからなかった。
石橋の上には、砂と骨の欠片が小山のように積もっている。その中で、金色の眼をした骨たちが役目を終えたように一体、また一体と崩れ、燐光になって散っていく。
◇
――からり。
広場の奥で、魔法陣の一つが光った。
石畳の上に浮かんだ紋様の中から、骨の手が一本、にゅっと突き出してくる。続いて肩。頭蓋。空っぽの眼窩の奥で、青白い光が揺れて――
ごしゃっ。
真上から振り下ろされた杖が、頭蓋を粉々に砕いた。
「……次」
光の消えた魔法陣を見下ろしたまま、清水が呟く。
少し離れた別の魔法陣が光る。這い出しかけた骨の頭に、今度は優花のナイフが突き刺さる。その隣の魔法陣からは、出てきた瞬間に四人組の剣が四本まとめて振り下ろされた。
「おい! それ俺のだったろ!」
「早いもん勝ちだろ!」
「なんで骨の取り合いしてんのよあんたたち……」
広場のあちこちで、光っては叩かれ、光っては叩かれる。いつの間にか騎士たちまで、剣を構えて魔法陣の周りに陣取っていた。
ベヒモスが倒れるまで、湧きは止まらない。止まらないなら、出てきた端から叩けばいい。
「……いってぇ」
清水が杖に体重を預けて顔をしかめた。
「なんだこれ。脇腹の……裏? が痛ぇ」
「脇腹に裏とかあんの?」
魔法陣の横にしゃがみ込んで次を待っていた遠藤が振り返る。
「あと太腿の裏も痛ぇ。あと背中の、なんか、変なとこ」
「英霊の動きに体ついてってなかったんだろ。お前、普段そこの筋肉使ってねぇんだよ」
「うるせぇ……」
憑依はもう解けていた。英霊の技は借り物で、借り物の動きをさせられた体の方は、清水のものだ。
光った魔法陣に、清水は顔をしかめたまま杖を振り下ろす。ごしゃ。
「……明日、絶対動けねぇ」
そう呟きながら、清水はちらりと橋の先へ目をやった。
巨獣と戦う七つの影の中に、杖を抱えた後ろ姿がある。
前衛の少し後ろ、橋の真ん中。さっきから、そこを動いていない。
◇
時間は少しだけ遡る。
骨の軍勢へと踵を返した仲間たちの足音を背中で聞きながら、光輝たちは橋の先へ駆けていた。
ベヒモスが頭を下げる。
捻じれた二本の角に、ぼう、と炎が灯った。熱で空気が揺らぎ、赤く光る眼がこちらを捉える。
来る。
地鳴りのような足音が石橋を震わせる。十メートルを超える巨体が、角の炎を尾のように引いて、真っ直ぐに突っ込んでくる。
三週間前、あの突進を止めたのは騎士三人がかりの結界だった。魔法陣を描いた紙と四節の詠唱で、一度きり、一分だけの壁。
鈴が一人で前に出る。
口の中で転がし続けていた詠唱を、最後の一節まで吐き切った。
「全ての敵意と悪意を拒絶する、神の子らに絶対の守りを、ここは聖域なりて、神敵を通さず――〝聖絶〟!!」
純白の障壁が、橋の幅いっぱいに立ち上がる。
ベヒモスの角が、正面からそれに激突した。
轟音。衝撃波が橋を走り、足元の石が軋む。
障壁は揺らがない。
ただ、巨体も退かなかった。
角を障壁に押しつけたまま、ベヒモスが四肢を踏ん張る。爪が石橋に食い込み、ぎちぎちと嫌な音を立てる。角の炎が膨れ上がって、障壁の表面を舐めるように這い広がっていく。
「っ、ぐ……!」
鈴の両足が石の上を滑った。
杖を握る手が震えている。押されていた。障壁ごと、じりじりと後ろへ。
「鈴っ!」
「だい、じょうぶ……っ! まだ、いける……!」
(重い……っ、重い重い重いっ!)
障壁越しに伝わってくる圧が、腕の骨を軋ませる。
――防御は鈴に任せた!
天職が分かった日、そう言って背中をばしんと叩かれた。「まかしときー、ナグモン!」と、はしゃいで返したのを覚えている。
この橋の上では「すぐ片付けて助けに来るから!」と叫んで――助けには、行けなかった。
手首で、星を刻んだチャームが揺れている。「鈴には☆マーク彫ってー」とねだったら、あの子は二つ返事で彫ってくれた。
(任されたんだもん)
笑っていれば、一人にならずに済む。ずっとそう思って、笑顔を貼りつけて生きてきた。あの子の隣にいるうちに、いつの間にか、貼りつける必要がなくなっていた。
(まかしときって、言ったんだもん……!)
歯を食いしばったまま、鈴は笑った。
貼りつけた方じゃない顔で。
その隣で、香織が杖を掲げる。
「光よ、その腕を伸べよ」
静かな声だった。
「彼の者を抱き留め、二度と離すな――〝縛煌〟」
光が走る。
杖の先から伸びた幾筋もの細い光の帯が、宙で輪を描いた。輪はベヒモスの角に、首に、前脚の付け根に絡みついて、きゅうっと締まる。
巨体が止まった。
障壁に押しつけられていた角が、引き剥がされるように浮き上がる。首に巻きついた光の輪が、暴れる頭を後ろへと引き戻していく。
(――離さない)
香織は杖を握る指に力を込めた。
あの日、この橋の上で手を伸ばした。崩れていく足場の向こうに、金色の髪があった。指先が届くまで、あと数センチ。
その数センチが、届かなかった。
光の輪の先で、あの日と同じ化け物が吼えている。
(今度は、絶対に)
光の帯が軋む。ベヒモスが首を振るたびに、ぎりぎりと鳴る。それでも、ほどけない。
その隙を、龍太郎は見逃さなかった。
十五階層で、あの化け物がもう出てこないかもしれないと気づいた時は本気で青ざめた。この三週間、あれを殴るためだけに拳を振ってきたのだ。
手首で、『拳』の一文字を刻んだチャームが揺れている。
最初に彫られたのは『☆ゴリ☆』だった。キレた自分を見て、あいつは腹を抱えて笑っていた。
(……見てろよ)
障壁の脇から飛び出す。縛られてのけぞったベヒモスの鼻面が、目の前にある。
金剛を纏った拳を、腰の後ろまで引き絞った。
「約束通り、一番前だぜ――ッ!!」
踏み込みの音が、橋を揺らす。
叩き込まれた拳が、ベヒモスの顔面にめり込んだ。甲殻が軋み、巨大な頭が真横に弾かれる。
「永山ァ!」
「おう」
浮いた右の前脚に、永山が組みつく。巨漢の腕が丸太のような脚を抱え込み、腰を落として石橋に踏ん張る。反対の脚には、殴った勢いのまま龍太郎が取りついていた。
ベヒモスが吼える。
首に絡んでいた光の輪が、ぶつりと千切れた。
自由になった頭が暴れ、角の炎が二人の腕を掠める。皮膚の焼ける嫌な臭いが立ちのぼった。焼け爛れた跡は、見ている間にじわじわと薄れていく。降り注いだ光の雨が、まだ体の中で生きていた。
「熱っちぃな、おい!」
「離すな」
「分かってるって!」
巨体が身をよじるたびに、二人の足が石を削るように滑っていく。一歩。また一歩。引きずられていく先に、手すりのない橋の縁がある。
「龍太郎! 永山!」
光輝の叫びに被せるように、ベヒモスが後脚で立ち上がった。
振りほどかれる。
二人の体が宙に浮き、石の上に転がった。見上げた先で、小山のような巨体が影になって覆い被さってくる。振り上げられた前脚が、二人をまとめて押し潰そうと――
「――今だッ!」
叫んだのが龍太郎だったのか永山だったのか、誰にも分からなかった。
転がった勢いのまま、二人は同時に跳ね起きている。
永山は口数の多い男ではない。考えるより先に体が動く方だ。
それでも踏み込む寸前、ふいに間の抜けた呼び名が頭をよぎった。
――永おじ。
(……同い年だっての)
巨体の向こうで、龍太郎と目が合う。
それだけで足りた。
左右から、同じ一歩で踏み込む。
龍太郎の拳が、顎の下へ。
永山の掌底が、胸元へ。
二つの衝撃が、寸分違わず同じ瞬間に突き刺さる。
ドゴォンッ!!
立ち上がりかけていた巨体が、さらに高く浮いた。仰け反ったまま、振り上げた前脚が宙を泳ぐ。
その一瞬を、雫はずっと待っていた。
最初から、腰を落としたまま動いていない。左手が鞘を握り、親指が鍔にかかっている。とうに切ってあった鯉口から、刃はいつでも滑り出せた。
それでも抜かなかった。
暴れる脚の関節は、狙おうとするたびに位置を変える。龍太郎の「まだか!」という声を、一度だけ聞いた気がする。答えなかった。
膝の裏が冷たい。
この橋に足を乗せた時から、ずっとそうだった。石の継ぎ目を踏むたびに、足の下にある闇の深さが、靴底から這い上がってくる。
(……怖い)
分かっていた。香織にも、そう言った。
息を細く吐き、肩を落とし、臍の下に重心を沈める。幼い頃から道場で叩き込まれてきた通りに、怖いと思う自分を腹の底へ押し込めようとする。八重樫の跡取りは、刀を握っている間、震えない。
押し込めきれなかった。
膝の裏の冷たさが、消えない。
柄に添えた指に力がこもる。淡い桜色の意匠が入った柄。重心が、手の内のちょうど真ん中にある。あの子が一晩かけて、この手のためだけに打った刀。
(……ハジメ)
謝ってもいない。許してもらってもいない。どの口で、と思う。
それでも。
(お願い……力を、貸して)
宙を泳いだ前脚の関節が、刃の軌道の上に来た。
雫は息を止めた。
――一閃。
音は、後から来た。
鞘から抜けた刃が光の線を引き、浮いた右の前脚の関節を、真横に走り抜けていく。
雫が刀を鞘に戻すのと、ベヒモスの右前脚が根元から滑り落ちるのは、ほとんど同時だった。
かちん、と鍔鳴りが響く。
支えを失った巨体が、前のめりに崩れた。橋を揺るがして、頭が石の上に叩きつけられる。
「……うそ、斬れた」
鈴がぽかんと呟く。
雫は何も言えずにいた。
掌の中で、柄がまだ微かに震えている。刃が甲殻の継ぎ目を抜け、肉を断ち、骨を断っていった感触が、そのまま手の内に残っている。
引っかかりが、どこにもない。
あの時は、どれだけ打ち込んでもこの脚一本落とせなかった。王宮で借りていた剣は、斬るたびに手の中で暴れた。
この刀は暴れない。
握り方の癖も、どこが痛むのかも、全部知っている刀。
お遊戯みたいなおもちゃ。みんなの前で、そう言った。
その刀に縋った。
刀は、応えた。
淡い桜色の意匠が、指の隙間から覗いている。完璧に斬れたことが、そのまま、あの日の自分の声になって返ってくる。
雫は柄を握る指に、少しだけ力を込めた。
崩れ落ちた巨体は、それでも止まらない。
伏せたまま、ベヒモスが頭を振り回した。捻じれた角が円を描き、纏った炎が橋の上に撒き散らされる。
炎の壁が前衛を薙ぐ。
「散れッ!」
メルドの声に弾かれて、全員が四方へ飛ぶ。龍太郎と永山が後ろへ転がり、鈴が悲鳴を上げながら障壁を張り直す。
角の先が、着地したばかりの雫を捉えかけた。
鋼が鳴る。
割って入ったメルドの剣が、角を真横から受けていた。受けきれずに弾かれて、メルドの体が石の上を滑る。それでも剣は手放さない。
「メルドさんっ!」
「構うな! ――光輝!」
メルドが角を受けた一瞬、ベヒモスの背が無防備に晒されていた。
光輝は、もう跳んでいた。
この橋の上で膝をついたまま、考えたことがある。南雲さんなら、こんな時どうするんだろう、と。
今は、考えるより先に体が動いている。
鈴が止め、香織が縛り、龍太郎と永山が浮かせ、雫が斬り、メルドさんが隙をこじ開けた。自分はそこへ飛び込めばいい。それだけでいいのだと、体の方が先に知っていた。
聖剣を振りかぶり、詠唱を叩きつける。
「万翔羽ばたき、天へと至れ――〝天翔閃〟ッ!!」
光の斬撃が、曲線を描いてベヒモスの背を走った。
どれだけ打ち込んでも、弾かれるだけだった甲殻だ。
光が、甲殻を裂く。
深く。肉まで届く手応えが、聖剣を通して光輝の掌に返ってくる。裂けた甲殻の奥から、熱い血が噴き上がった。
ベヒモスが、耳を裂くような絶叫を上げる。
(――通る)
着地した石の上で、光輝は聖剣を握り直した。
通る。今の自分たちなら、このまま押し切れる。
もう一度、全員で畳みかける。龍太郎と永山で押さえ込み、雫が残りの脚を落とし、そこへもう一度天翔閃を――
号令のために、息を吸い込んだ。
「光輝くん」
すぐ後ろで、声がした。
振り返ると、香織が立っていた。杖を胸の前に抱いて、真っ直ぐに光輝を見上げている。
「最後は、私にやらせて」
吸い込んだ息が、喉で止まる。
「……何を言ってるんだ、香織?」
香織の天職は治癒師だ。最後を任せろというのは、治癒師の口から出る言葉ではない。それに、あと一押しなのだ。今ここで流れを止める理由が、どこにもない。
「このまま押せば――」
「お願い」
遮った声は小さかった。
「……お願い、光輝くん」
光輝は香織の顔を見た。
笑っていない。泣いてもいない。琥珀色の瞳が、ただ真っ直ぐに光輝を見上げている。
香織が何をするつもりなのか、光輝には分からなかった。
分からないまま、それでも一つだけ分かった。
この顔は、できもしないことを頼む顔ではない。
「……いけるんだな?」
香織は何も言わなかった。
ただ一度、力強く頷く。
「少しだけ、時間を稼いで」
光輝は聖剣を構え直した。
「――分かった」
振り返らずに、前へ出る。
「龍太郎、永山、もう一回押さえるぞ! 鈴、角の炎に気をつけろ! 雫、残りの脚を狙え!」
「おうよ!」
「任せてっ!」
指示は、それだけだった。
香織が何をしようとしているのか、光輝は誰にも言わなかった。言えば、全員の意識がそちらに向く。それだけの隙を、この巨獣に与えるわけにはいかない。
◇
ベヒモスは、まだ死んでいなかった。
三本の脚で石橋を掻き、裂けた背から血を撒き散らしながら、巨体を起こそうとする。龍太郎と永山が、左右から全体重をかけてそれを押さえつけた。
その後ろで、香織が杖を掲げる。
「天恵よ、その慈悲を裏返したまえ」
囁くような声だった。
ベヒモスの遥か頭上、空洞の闇の高みに、小さな光の円が一つ灯る。
白い紋様が、ゆっくりと回っている。戦場の喧騒の中で、それに目を向けた者はいない。
「癒しの光よ、今ひとたび牙となれ」
一つ目の円の上に、もう一つ、光の円が重なって開いた。
メルドの耳が、詠唱を拾う。
治癒の詠唱ではない。三十年、戦場で耳にしてきたどの詠唱とも、響きが違う。
メルドはちらりと後ろを振り返った。
香織が、目を閉じて杖を掲げている。
一週間目の訓練場で、一人黙々と光の輪を編んでいた少女の横顔と、それが重なった。汗ひとつかかず、周りの喧騒から少し離れた場所で。
あの時、何かが引っかかった。
その何かを、メルドはまだ言葉にできていない。
「祈りを閉ざし、赦しを捨てよ」
三つ目の円が開く。
祈ったことがある。
崩れていく橋の上で、伸ばした指先の向こうへ。お願いだから届いて、と。
届かなかった。
(……だから、もう祈らない)
閉じた瞼の裏で、香織は言葉を一つずつ編んでいく。癒しのために覚えた光の編み方を、一目ずつ裏返しながら。
ベヒモスの眼が動いた。
押さえつける二人を見ていない。刀を構える雫も、聖剣を構える光輝も見ていない。赤く光る二つの眼は、一度だけ頭上の光を仰ぎ、それから前衛の肩越しに、その後ろの一点を捉えた。
目を閉じて詠唱を続ける、香織を。
獣の勘だった。今この橋の上で、何が一番危ないのかを、この化け物は分かっている。
ベヒモスが吼えた。
残った三本の脚が、一斉に石を蹴る。
「うおっ――!?」
龍太郎と永山が、まとめて弾き飛ばされた。血を撒き散らしながら、巨体が前衛の隙間を割って突っ込んでくる。頭上の光の円が、その動きを追うようにゆっくりと滑った。
「させないっ!」
鈴が障壁を張る。
角が激突した。
障壁に、蜘蛛の巣のような罅が走る。一拍も保たずに、甲高い音を立てて砕け散った。
光の破片の向こうで、角の炎が膨れ上がる。
香織は、動かなかった。
杖を掲げたまま、目を閉じたまま、詠唱の声は一音も揺れない。
「涙を焼き、嘆きを灼け」
四つ目の円が開いた。
涙は、王宮の自室で一人きりで流したあの夜を最後に、一度も出ていない。
出ないのか、出さないのか。香織自身にも、もう分からなかった。
香織の前に、光輝が割り込んだ。
聖剣を横に構え、角の真正面に体ごと飛び込む。
「――〝限界突破〟ッ!!」
全身から光が噴き上がった。
角と聖剣が、正面から噛み合う。
衝撃が、腕から肩へ、肩から背骨へと突き抜けた。足が石を削って後ろへ滑る。一歩。二歩。背中のすぐ後ろで、香織の詠唱が続いている。
(……重い)
角の炎が、頬を焼く。
あの日、この眼の前に一人で立っていた背中があった。
錬成で巨体を縛りつけ、足場を削りながら、全員が逃げきるまでたった一人でここに立っていた。
(こんなものを、一人で)
光輝は歯を食いしばった。
三歩目は、滑らなかった。
「――光輝ぃッ!!」
龍太郎が横から角にしがみつく。反対側から永山が巨体の肩に組みつき、雫の刀が残った前脚の腱を斬り払う。メルドの剣が、角の付け根に叩き込まれる。
巨体が止まった。
一人ではなかった。
「……ね、ねぇ」
障壁を張り直した鈴が、上を見たまま声を震わせた。
「上……なに、あれ」
龍太郎が顔を上げる。永山も、雫も、メルドも。
ベヒモスの真上の闇に、光の円が四つ、重なって浮かんでいる。白い紋様がそれぞれ別の速さで回りながら、互いの縁を擦り合わせるように少しずつ位置を揃えていく。
「おい、なんだありゃ!?」
「構うな!」
角と噛み合ったまま、光輝が叫んだ。
「押さえろ! 今は押さえることだけ考えろ!」
誰も、それ以上は聞かなかった。
ただ、全員の目が、その後も何度か頭上へと流れた。
◇
もぐら叩きの手を止めて、清水は顔を上げた。
魔眼の端で、何かが膨れ上がっている。
橋の先。巨獣と戦う七つの影の、少し後ろ。
杖を抱えた後ろ姿を中心に、魔力が集まっていく。周りの空気から、石橋から、闇の底から、見えない糸を手繰り寄せるように。細く、静かに、けれど途方もない量が、一点へと吸い込まれていく。
吸い込まれた魔力は、そのまま真上へ昇っていた。
橋の先の闇の高みに、光の円が浮かんでいる。四つ。重なって、回っている。
(……なんだ、あれ)
杖を握ったまま、清水は動けなくなった。
治癒の魔力の流れではない。拘束の魔法とも違う。三週間、毎日魔眼を開き続けてきて、一度も見たことのない濃さだった。
白崎は、前衛の少し後ろ、橋の真ん中に立っている。
動いていない。
縁の方へは、一歩も。
(……は? 飛び込むんじゃ、ねぇのか?)
いや、飛び込まれても困る。困るが、それならそれで止める算段はつけてあった。縁までの距離も、魔眼を撃ち込む間合いも、この階層に降りてからずっと測り続けてきた。
目の前のこれは、その算段のどこにも当てはまらない。
(おいおいおいおい……! アイツ、何しようとしてんだ!?)
「空を暴き、星を墜とせ」
五つ目の円が開いた。
遠すぎて声は聞こえない。けれど魔眼に映る魔力の渦は、一節ごとに膨れ上がっていく。
「遥かな天を裂き、その頂を崩せ」
六つ目。
「……清水?」
遠藤が怪訝そうに顔を上げ、清水の視線を追って固まった。
「おい……なんだよ、あれ」
「わかんねぇ!」
「は?」
「わかんねぇけど、なんかヤベェ!!」
広場のあちこちで、骨を叩いていた手が止まっていく。優花も、恵里も、檜山たちも、騎士たちも。全員が、橋の先の闇に積み上がっていく光を見上げていた。
魔眼に映る渦は、もう清水の視界の半分を埋めている。
◇
「九つの天、九つの門」
七つ目の円が開いた。
香織の足元から、風が巻き起こる。
衣の裾が大きくはためく。髪が舞う。杖の先に灯った光が、脈打つように明滅し始めた。
雫が振り返る。
「……香織?」
「この世の果ての、その果てまで――」
八つ目。
雫の声は届いていない。
香織の目が開いていた。真っ直ぐに巨獣を見ている。瞬きもせずに。
「何一つ、赦すな。何一つ、残すな」
九つ目の円が、最も高い場所に開く。
大きさの違う九つの魔法陣が、ベヒモスの真上に、一本の柱のように縦に連なっていた。
角と噛み合ったまま、光輝が吼える。
「――全員、下がれぇぇぇっ!!」
誰も、理由を聞かなかった。
聞く必要がない。全員が、頭上のそれを見ていた。
龍太郎と永山が同時に手を離し、後ろへ跳ぶ。雫が刀を収めて地を蹴る。鈴が転がるように退がる。光輝が角を聖剣で弾き上げて飛び退き、最後にメルドがベヒモスの鼻先から身を引いた。
香織だけが、その場から一歩も動かなかった。
拘束を解かれた巨獣が、残った脚で身を起こそうとする。
その頭上で、九つの門が回り始めた。
ばらばらだった回転が、一つに揃っていく。紋様の縁と縁が噛み合い、光が上から下へ、門から門へと流れ落ちていく。
「……は?」
龍太郎の口から、間の抜けた声が漏れた。
巨獣が、赤い眼で頭上を見上げる。
香織が杖を振り下ろした。
「この祈りが届かずとも、この光だけは、届かせよ」
あの日、あと数センチ届かなかった指先の、その先へ。
(――届け)
琥珀色の瞳から、一瞬だけ、温度が消えた。
「墜ちよ――〝九天墜〟」
◇
光が落ちた。
音はない。
少なくとも、最初の一瞬は。
九重の門を貫いて、真っ白な柱が真下へと突き立つ。巨獣の頭から、背から、残った脚の先まで、その全てが光の中に呑み込まれた。
香織の目と鼻の先だった。
遅れて、音が来た。
空洞そのものが鳴る。石橋が震え、天井から砂が滝のように降った。巻き起こった熱風が、飛び退いた光輝たちの髪を後ろへ引き千切るように撫でていく。
橋の反対側で、清水は杖を取り落としていた。
白い柱の根元に、あの巨獣がいた。いたはずだった。
光の向こうで、影がほどけていく。輪郭から、角から、何もかもが白に溶けていく。
やがて、柱が細くなり始めた。
九つの門が、内側から順番にほどけて闇の中へ消えていく。最後の一筋が糸のように細って途切れると、天井から降り続く砂の音だけが空洞に残った。
柱の立っていた場所が、遠目にもはっきりと見える。
石橋の上に、黒い円が一つ、焼きついている。
ついさっきまで、そこに小山のような巨獣がいた。角も、甲殻も、斬り落とされた脚の一本すらも、何も残っていない。
薄い煙が一筋、焦げた石の上から細く立ちのぼる。
それだけだった。
足元で、光りかけていた魔法陣がふっと消えた。
広場のあちこちで、紋様の光が一つ、また一つと落ちていく。
湧きが、止まった。
◇
橋の上では、誰も何も言わなかった。
からん、と乾いた音がする。
香織の手から、杖が落ちた音だった。
「――香織っ!」
膝から崩れ落ちる体を、雫が飛び込んで受け止めた。
抱き留めた体は、驚くほど軽い。腕も、首も、糸が切れたように力が入っていない。
「香織、香織っ!」
香織の目は開いていた。
焦点の合わない琥珀色の瞳が、ゆっくりと瞬く。浅い息を何度か繰り返してから、その目が雫を捉えた。
「……ごめんね、雫ちゃん」
掠れた声だった。唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がる。
「ちょっと……やりすぎちゃった、かも」
いつもの香織の声。三週間前と何も変わらない、雫のよく知る親友の声だった。
雫は返す言葉を見つけられない。
「……意識はある」
駆け寄ったメルドが、香織の顔を覗き込んで言った。
「精神疲労だ。魔力を一気に使い切るとこうなる。……まして治癒師が、本来適性のない攻撃魔法を、あれだけの規模で撃ったんだ。しばらくは、指一本動かせんだろうな」
言いながら、メルドは自分の声がわずかに上擦っているのに気づいていた。
訓練場で見たのは、光の輪だった。敵の足を止め、動きを縛るための拘束の魔法。治癒だけでは後手に回る。そう言われて、止める理由はどこにもなかった。
あんなものは、見ていない。
(いつの間に……こんな魔法を)
三十年、戦場に立ってきた。宮廷魔法師の大魔法も、幾度となく目にしてきた。そのどれとも、あの光は違う。
一週間目の訓練場で引っかかった何かが、腹の底で、ずしりと重さを増した。
雫は香織を抱いたまま顔を上げた。
光輝が、聖剣を下げたまま光の落ちた場所を見ている。
あと一押しだった。天翔閃の手応えは本物で、あのまま全員で畳みかけていれば倒せていたはずだ。
香織にも、それは見えていたはずだった。
それでも香織は、最後を自分に寄越せと言った。そして、あれを撃った。
――自分がこの目で確かめるまでは、ハジメちゃんの生存を信じたいの!
王宮の広場で、香織はそう言った。絶望に沈んだクラスの前に一人で歩み出て、揺るがない目で。
光輝は、その言葉に背中を押された。香織がこの迷宮に戻ってくる理由は、それなのだと思っていた。
それは、今も疑っていない。
けれど。
焦げた円の上で、薄い煙がまだ揺れている。
あの言葉だけで、人はあれほどの光を撃てるものなのだろうか。
(……それだけじゃ、ないのか)
答えは出なかった。何を問えばいいのかも、光輝にはまだ分からない。
龍太郎も。永山も。鈴も。
全員が、あの焦げた円を見ていた。
香織の瞳も、雫の腕の中から、そちらを向いていた。
◇
清水は足元の杖を拾い上げた。
広場は静まり返っている。骨を叩いていた手を止めたまま、誰もが橋の先を見ていた。優花は口を半開きにしたまま固まり、恵里は眼鏡の奥で目を見開いている。
「……今の、治癒師が撃つ魔法かよ」
遠藤が、誰にともなく呟いた。
清水は答えない。
魔眼を細める。
橋の先で、雫が誰かを抱きかかえている。その腕の中にある魔力は、さっきまでの渦が嘘のように空っぽだった。
縁までの距離。魔眼を撃ち込む間合い。
この階層に降りてから、ずっとそればかり測っていた。
――取り返さなきゃ。この世界から。
十八階層で聞いた温度のない声が、耳の奥で鳴った。
(……取り返すって、あいつ、もしかして……そういう……)
その先は、形にならなかった。
何かに気づきかけた気がする。けれど指先で触れる前に、それはするりと逃げていった。
ただ、魔眼が覚えていた。
あの光の中に渦巻いていたものは、巨獣一匹に向けるには、あまりにも大きすぎた。
縁ばかり見張っていた自分の目が、何かとんでもなく見当違いのものを見ていたような気がして、清水は拾ったばかりの杖を強く握りしめた。