宿の食堂の灯りは、とうに半分落とされていた。
入口に近いテーブルに、小さなランプが一つだけ残っている。油の焦げる匂いが昼に出た煮込みの残り香と混ざって、薄く漂っていた。
愛子はその前に座り、両手でカップを包んでいる。
紅茶はもう何杯目か分からない。冷めるたびに宿の女将が黙って新しいものに替えてくれて、そのたびにまた冷めていく。今カップの中にあるのも、とっくにぬるい。
(……遅いですね)
口に出すと何かが崩れそうで、心の中でだけ呟く。
帰りは早くても日が落ちてからになる、とメルドは言っていた。二十階層から六十五階層へ跳び、戦い、長い階段を上って戻ってくる。それだけの道のりがある、と。
だから、まだ遅くはない。
分かっていても、扉の向こうで風が鳴るたびに顔が上がってしまう。
表では、留守を預かる騎士たちが交代で立っている。さっき様子を見に出た時、そのうちの一人が「畑山殿も少しお休みになられては」と気遣ってくれた。愛子は笑って首を振った。休めるはずがない。
前の時は、王宮で待っていた。
待って、待って、玉座の間で報告を聞いた。そこから先のことは、今でもよく思い出せない。
カップの縁が、かちりと前歯に当たる。
(大丈夫。……大丈夫です)
約束したのだ。全員で帰ってくると。あの子たちは真っ直ぐにこちらを見て、頷いてくれた。
ランプの芯が、じじ、と小さく鳴る。
その時、表で騎士の声が上がった。
短く、弾むような声。続いて石畳を踏む足音が一つ、二つ。いや、もっとだ。重なり合いながら、こちらへ近づいてくる。
愛子は椅子を鳴らして立ち上がった。
扉が開く。
夜気と一緒に、迷宮の匂いが流れ込んできた。湿った石と、土と、何かが焦げたような匂い。
先頭はメルドだった。鎧のあちこちが煤け、頬に乾いた血の筋が一本走っている。その後ろから、生徒たちが次々に入ってきた。
龍太郎が扉の枠に肩をぶつけて「いって」と呻く。鈴は恵里の腕にぶら下がるようにして、半分目を閉じている。清水は杖を肩に担いだまま首を回し、優花のほどけた髪は汗で頬に張りついていた。
誰も彼も、泥だらけだ。
愛子は声も出せないまま、その顔を数えた。
一人、また一人。心の中で名前を呼びながら、指を折るように。
最後に扉をくぐったのは雫だった。その肩に、香織の腕が回されている。
香織の足取りはおぼつかない。顔は紙のように白いのに、目だけはちゃんと開いていて、愛子を見つけるとわずかに唇の端を持ち上げた。
「……ただいま、先生」
「白崎さん!? どこか怪我を――」
「魔力の使いすぎです」
答えたのは雫だった。
「しばらく休めば戻るって、メルドさんが」
愛子は香織の手を取った。冷たい。けれど指先は、弱々しくも握り返してくる。
数は、合っていた。
あの朝、この食堂から階段を駆け上がっていった数と、一人も違わない。
「先生」
光輝が一歩前に出た。煤で汚れた顔の中で、目だけがまっすぐにこちらを見ている。
「全員、帰ってきました」
何か言おうとして、言葉の代わりに息が漏れた。
聞きたいことが、一つだけあった。
喉の奥までせり上がってきたそれを、愛子は飲み込む。聞かなくても分かったからだ。
もし見つかっていたなら、扉が開くより先に、鈴の声が宿じゅうに響いていたはずだった。龍太郎なら階段を駆け上がって、全員の部屋の扉を叩いて回っていただろう。
誰も、何も言わない。
泥だらけの顔は、三週間前のように俯いてはいなかった。ただ、そのどの目の中にも、あの子の名前はない。
「……おかえりなさい」
それだけ言うのが、精一杯だった。
気がつけば、手の届く生徒を片っ端から抱きしめていた。小柄な愛子の腕では誰一人まともに抱えきれず、結局は龍太郎の腰にしがみつくような格好になる。
「ちょ、先生、痛ぇって」
周りから、疲れ切った笑い声が上がった。
笑われても、腕は離れない。
◇
生徒たちが部屋へ引き上げていくと、食堂には再びランプの小さな灯りだけが残った。
メルドはテーブルの横に立っていた。煤けた籠手を片方だけ外し、大きな手で首の後ろを揉んでいる。
今朝、同じ場所で下げられたまま、なかなか上がらなかった頭を、愛子は思い出していた。
「畑山殿」
低い声だった。
「全員、お返しいたします」
「……はい」
愛子は頷き、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございました、メルドさん」
顔を上げると、メルドはまだそこに立っていた。首を揉んでいた手が、いつの間にか止まっている。
「……ですが」
言いかけて、大柄な騎士団長は一度口を閉じた。ランプの灯りが、その頬の乾いた血の筋を照らしている。
「ハジメの手がかりは、今回は何一つ掴めませんでした。六十五階層の橋の下は、相変わらず底も見えん闇のままです。……重ねて、申し訳ない」
再び、頭が下がった。
愛子は、その頭をしばらく黙って見つめていた。
「……分かってます」
責める響きは、どこにもなかった。
「あの子たちが扉を開けた時に、顔を見て分かりました。だから、聞かなかったんです」
メルドがゆっくりと顔を上げる。愛子は冷めたカップを両手で包み直した。
「メルドさん。私、この三週間、あの子のことばかり考えていたんです」
ランプの芯が、小さく鳴る。
「城壁を直して、城下の道や石垣まで直して。東の荒地では、私と一緒に水路を引いてくれました。王宮の皆さんが身に着けているアクセサリーも、あの子が作ったものでしょう? 宝石も付いていないのに、気がついたら王宮じゅうの流行になっていて」
思い出すと、少しだけ口元が緩んだ。
「面倒な仕事を頼まれるたびに文句ばっかり言って。それなのに、手を抜いたことは一度もなかったんです」
行く先々で、自分にできることを全部やっていった。錬成師という、誰にも期待されなかった天職で。
「荒地で、おにぎりを食べながら言われたんです。誰だって向き不向きはあるんだから、自分で自分を下げなくていいって」
愛子はカップから顔を上げた。
「私は、迷宮には潜れません。前に立って、あの子たちを守ることもできません。……でも、土なら触れます」
その目に、もう迷いの色はなかった。
「村を回るお話、ちゃんとやり遂げます。この世界の畑を一つでも多く元気にして、今の私にできることを全部やります。あの子がそうしてきたみたいに」
小さな拳が、カップの横で握られる。
「そうじゃないと、あの子に笑われちゃいますから」
メルドはしばらく何も言わなかった。やがて外した籠手を脇に挟み直し、深く、長く息を吐く。
「……心強いお言葉です」
その声は、今朝よりずっと柔らかかった。
「あいつらが迷わず帰ってこられるのは、畑山殿がここで待っていてくださるからですな」
脇の籠手を嵌め直し、メルドは扉の方へ向き直った。
「王都へ早馬を出します。陛下方も、首を長くしてお待ちでしょうから」
大きな背中が扉の向こうへ消えていく。しばらくして、夜の通りを蹄の音が駆け抜けていった。遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
愛子はテーブルに残ったカップを持ち上げた。
紅茶は冷めきっている。
縁はもう、歯に当たって鳴ったりしなかった。
◇
ホルアドを発った早馬が王都の門をくぐったのは、翌日の夜更けのことだった。
夜の聖堂は、昼よりもなお冷たい。
燭台の火が、磨き上げられた石の床に細長く映り込んでいる。高い天井までは光が届かず、見上げても闇が溜まっているばかりだ。
その闇の底で、イシュタル・ランゴバルドは祭壇の前に膝をついていた。
老いた膝に、石の冷たさが沁みる。毎夜のことだった。痛みもまた祈りの一部であると、この身はもう何十年も前から知っている。
主よ。
唱えるべき言葉は、とうに唇が覚えている。だから心は、言葉の先へ行ける。
足音はしなかった。
ふと気づけば、背後に人が立っている。振り返らずとも分かった。衣擦れの音一つ立てず、息遣いすら感じさせない。そのような在り方をする者は、この聖堂に一人しかいない。
「猊下」
「……聞きましょう」
イシュタルは祈りの形を解かないまま答えた。
「ホルアドの騎士団より、王宮を経て報せが上がっております」
抑揚のない声が、石の天井に吸われていく。
「勇者御一行、二十階層より六十五階層へ転移。同階層にてベヒモスと交戦し、これを討伐。死者なし。負傷者はいずれも軽微とのことです」
組んだ指の内側で、老人の脈がひとつ強く打った。
「なお、討伐の決め手は治癒師、白崎香織の魔法である由」
「……治癒師が?」
「光属性の攻撃魔法を行使したとのことです。天職の適性外の術を身の丈に合わぬ規模で放ち、精神疲労にて昏倒。現在は回復に向かっております」
以上です、と声は結んだ。
伝えるべき事実だけが、過不足なく並べられている。明日の天候を告げるのと、何一つ変わらない調子で。
主が遣わされた者に、驚きも昂ぶりも要りはしない。イシュタルはそれをよく知っていた。
ゆっくりと、祭壇の奥を仰ぐ。
「……おお」
吐息が震えた。
三週間前のことが、瞼の裏に浮かんでいる。
勇者の一行は、打ちひしがれて迷宮から戻った。錬成師の娘が一人、奈落へ消えた。七日の後にこの聖堂で向き合った勇者殿は、若者らしい頑なさで追悼の儀を拒んだものだ。
その若者たちが、今度は一人も欠けることなく、あの魔獣を討ち果たして戻ってきたという。
欠けたものが、残された者を鍛える。
嘆きが刃を研ぎ、涙が足を前へと運ばせる。主はいつも、そのようにして御業をお示しになる。
あの娘がいた頃、王宮の空気はどこか浮ついていた。城壁を見上げた民は主ではなく一人の娘の名を口にし、貴婦人たちは祈りの言葉より先に銀細工の話をした。それを咎めようとは思わない。迷う者は、いつの世にもいる。
ただ、主はお見過ごしにならなかった。
そして、正された。
これ以上ないほど、慈悲深いやり方で。
「癒しの器に、裁きの光までお与えになったか」
イシュタルは両手を胸の前で組み直した。
治癒の天職を授かった娘が、その身に余る光を放って魔獣を討つ。人の理で量れば無謀でしかない。だが、無謀を奇跡へと変えるのが主の御業ではないか。
失われた一人の代わりに、主は残された者たちへ、これほどの恵みを注がれたのだ。
胸の奥に、温もりが灯る。
指先から肩へ、ゆっくりと広がっていく。冷えきっていたはずの膝さえ、今は痛まない。
燭台の火が、揺れた。
風はない。扉も閉ざされている。それなのに祭壇の左右に並んだ火が、一本残らず同じ向きへ傾いていた。
老人の、組まれた両手の方へ。
吸い寄せられるように細く長く伸びた炎が、皺だらけの指を下から照らしている。夜の聖堂の中で、祈る手の周りだけが昼のように白い。
(ああ――)
主の吐息だ、とイシュタルは思った。
この身が選ばれていることを、主は幾度でも、こうしてお示しくださる。
背後の気配は動かない。
振り返れば、伏し目がちに佇むシスターの姿があるだろう。燭台の火が傾こうと、老人の頬が恍惚に濡れようと、あの目は何一つ映しはしない。
それこそが、主の遣わした者の在り方だった。人の喜怒哀楽などに揺らがぬ、静謐そのもの。その静けさが、ただこの身の傍らに侍っている。
それ以上の証が、どこにあろう。
「ご苦労でしたな」
「恐れ入ります」
イシュタルはゆっくりと立ち上がった。老いた膝が小さく鳴る。けれど痛みは、もうどこにもない。
「……この恵みは、我らだけで抱えていてよいものではありませんな」
祭壇を見上げたまま、老人は穏やかに微笑んだ。
「民とも、分かち合わねば」
「御意に」
シスターが静かに頭を垂れる。
炎はまだ、老人の方へ傾いたままだった。
◇
一行が王都へ帰り着いたのは、早馬に遅れること二日。昼下がりのことだった。
馬車が王宮の門をくぐった時、光輝は窓の外を見て息を呑んだ。
正面の大階段に、人が並んでいる。
重臣たち。侍従たち。その中央、階段の最上段にエリヒド国王とルルアリア王妃が立っていた。すぐ傍らには、リリアーナ王女とランデル王子の姿もある。
玉座の間ではない。王族が揃って、外で待っていたのだ。
「……マジかよ」
隣で龍太郎が呟いた。
馬車が止まる。光輝は扉を開けて、石畳に降り立った。
膝をつこうとした。王の前ではそうするものだと、この世界に来て最初に教わっている。
その前に、階段を駆け下りてくる足音がした。
「――ランデル!」
リリアーナの声が追いかける。けれど小さな王子は止まらなかった。侍従の手をすり抜け、段を二つ飛ばしに駆け下りて、光輝の目の前で足を止める。
息が切れていた。
胸元で、銀のひし形が揺れている。
「見つかったのか」
挨拶も、労いもない。
ただそれだけを、少年は光輝の目を見上げて問うた。
光輝の喉がひくりと動く。
ホルアドからの馬車の中で、何度も考えていたはずだった。聞かれたら何と答えるか。どういう順番で、どういう言葉を選べばいいか。
そのどれもが、今は一つも出てこない。
「……見つかりませんでした」
口にした途端、それが本当のことになった気がした。
六十五階層の石橋の下に、底は見えなかった。降りる術も、確かめる術もない。ベヒモスを倒しても、あの暗闇は何一つ返してはくれなかった。
見つからなかった。
生きているとも死んでいるとも分からないまま、自分たちは帰ってきたのだ。
それでも、光輝は目を逸らさなかった。
「だから、次はもっと下まで潜ります」
少年の目を見返したまま、言葉を継ぐ。
「六十五階層より、さらに下の階層へ。見つかるまで、探しに行きます」
「……そうか」
ランデルの声が揺れた。
唇が震え、目の縁がみるみる赤くなっていく。小さな手が、胸元の銀のひし形を握りしめる。
泣く、と光輝は思った。
けれど、ランデルは泣かなかった。
奥歯を噛みしめる音が聞こえた気がした。少年は一度だけ大きく鼻をすすり、ぐいと顎を上げる。
「……ならば、まだ死んだと決まったわけではないのだな」
問いではなかった。自分に言い聞かせるような響きがあった。
ランデルは踵を返し、階段を上っていく。背筋を、痛いほど真っ直ぐに伸ばして。
入れ替わるように、リリアーナが階段を下りてきた。
弟とすれ違いざま、その肩にそっと手を置く。
光輝は、王女の礼に応えようと背筋を伸ばした。
けれどリリアーナは礼を取らなかった。裾を持ち上げることも、頭を下げることもしない。そのまま真っ直ぐに、こちらへ歩いてくる。
「リリっち!」
光輝の横を、小さな影が駆け抜けた。
鈴だった。ホルアドでは恵里の腕にぶら下がって半分寝ていたのが嘘のように、石畳を蹴ってリリアーナに飛びつく。
「きゃっ――鈴さん、もう」
よろけながらも、リリアーナは鈴を抱き留めた。王女の口から、くすくすと笑い声がこぼれる。
「ただいまー! 聞いて聞いて、鈴たちベヒモス倒したんだよ! ばーんって!」
「ええ、聞いています。おかえりなさい、鈴さん」
鈴の頭越しに、リリアーナの目が香織を探す。見つけた途端、その眉が下がった。
「香織さん。……無茶をなさったと、聞きました」
「えへへ。ちょっとだけだよ、リリィ」
「ちょっとどころじゃなかったわよ」
すかさず雫が言った。香織の半歩後ろで、呆れたように腕を組んでいる。
「橋の上で倒れるし、帰りの階段はずっと私の背中だったし」
「し、雫ちゃん、それは言わなくていいってば……!」
香織が慌てて雫の袖を引く。リリアーナは鈴を片腕で抱えたまま、もう一方の手で香織の手をそっと取った。まだ少し冷たいその手を、確かめるように握る。
「雫さんも、お疲れさまでした」
「……ええ。ほんとにね、リリィ」
雫の口元が、ようやく緩んだ。
少し離れた場所で、恵里が眼鏡の位置を直していた。輪に入るでもなく、外れるでもない、いつもの半歩の距離。
リリアーナはそちらへ顔を向けると、鈴の背に回していた腕をほどき、その手を差し出した。
「恵里さんも。おかえりなさい」
恵里は一瞬だけ目を瞬かせた。それから小さく笑って、その手を取る。
「……ただいま、リリィ」
鈴がリリアーナにしがみつき、香織は手を取られ、雫が呆れ顔で笑い、恵里が引き寄せられて輪の端に収まる。
階段の下に、いつの間にか小さな輪ができていた。
リリアーナはその真ん中で、光輝の方へ顔を上げた。
「お話、聞こえていました。探しに行ってくださって、ありがとうございます。……次も、よろしくお願いしますね」
「……はい」
光輝が頷くと、リリアーナは輪の中の友人たちを見回して、目を細めた。
「ハジメさんが一番見たかったのは、きっとこういう景色ですから」
首元で、ハート型の小さなチャームが陽を受けて光っていた。
「勇者殿」
階段の上から、エリヒド国王の声が降ってくる。
「そして皆々様。……よくぞ、戻られた」
深く、重い声だった。王は右手を、豪奢な王衣の胸元に押し当てている。
その隣で、ルルアリア王妃は階段の下を見つめていた。
娘が、友人たちの輪の中で笑っている。
王妃は安堵したように息をつき、自らの衿元に指を添えた。
けれどその指は、なかなかそこから離れない。布越しに何かを確かめるように、そっと押さえたままでいる。娘を見つめる目の奥に、ほんのわずか影が差した。
あの輪の中にいるはずだった、もう一人の少女を探すように。
重臣たちが、口々に戦果を称え始める。
六十五階層。ベヒモス。死者なし。
どれも正しく、どれも誇らしい言葉だった。けれどそのどれもが、最上段で唇を結んだまま立つ少年の横を、ただ通り過ぎていく。
その時、門の方から足音が聞こえてきた。
揃った足音だった。一歩の幅も、踏み下ろす強さも、寸分違わない。
振り返った光輝の目に、白が飛び込んでくる。
白地に金の縁取りを施した鎧が、午後の陽を跳ね返していた。擦り傷一つ、曇り一つない。胸には、教会の紋章が刻まれている。
騎士だ。
けれど光輝の見慣れた騎士とは、何かが違う。
メルドの部下たちの鎧は、迷宮帰りの煤も擦り傷もそのままになっている。この三週間、毎日のように訓練場で見てきた鎧だ。あちこちが凹み、革紐は汗を吸って色が変わっている。
目の前の鎧には、そのどれもがなかった。
「……神殿騎士か」
メルドが低く呟いた。その声に、いつもの豪快さはない。背後で、部下たちがわずかに身を固くするのが分かった。
神殿騎士は階段の下で足を止め、王族に向かって片膝をつく。
礼は、完璧だった。
そしてそのまま、王の言葉を待たずに立ち上がり、巻かれた羊皮紙を広げた。
「聖教教会、教皇イシュタル・ランゴバルド猊下の御名において申し上げる」
張りのある声が、前庭に響き渡る。
「此度の勇者御一行による六十五階層の突破、ならびに魔獣ベヒモスの討伐。これはひとえに、主エヒトの御加護の賜物である」
重臣たちの間に、小さなどよめきが走った。
「よって教会はこれを祝し、三日の後、王都城下にて祝賀の行進を執り行う。勇者御一行には、民の前にその御姿をお示し願いたい」
祝賀の、行進。
一瞬、意味が掴めなかった。隣で清水が小さく鼻を鳴らす。
「……パレードってことかよ」
聞こえるか聞こえないかの声だった。けれど、それが合図になった。
「――は?」
龍太郎の声が低く落ちた。
「なんだよそれ。祝い? パレード?」
一歩、前に出る。握り込まれた拳が白くなっていた。
「南雲がまだ見つかってねぇんだぞ。今さっき、見つかんなかったって話したとこだろうが。それで何がめでてぇんだよ」
「そ、そうだよ……」
鈴の声が震えている。さっきまでリリアーナにしがみついて笑っていた顔から、すっと色が抜けていた。
「ナグモンいないのに、鈴たちだけで手ぇ振って歩けって言うの……?」
ざわめきは、クラスの中だけに留まらなかった。
メルドの背後で、騎士の一人が「今それを言うか」と吐き捨てる。
「余は認めぬぞ!」
階段の上から、甲高い声が降ってきた。
ランデルだった。最上段から身を乗り出し、神殿騎士を指差している。
「あの女がどこにいるかも分からんのに、祝いの行進だと!? ふざけるな!」
「ランデル」
エリヒドが低く制した。
けれど、その隣で衣擦れの音がした。
ルルアリア王妃が、一歩前に出ている。
「お待ちなさい」
大きな声ではない。それなのに、前庭のざわめきがすっと引いていく。
「行方の知れぬ者が、まだ一人おります。その者を探しに、この子たちは命を懸けて潜ってきたのです」
王妃の指は、衿元をきつく押さえていた。
「その帰りを出迎えたその足で、祝いの行進をせよと。……教会は、民の心をどこに置いておいでなのですか」
静かな声だった。けれどその奥で、何かが震えている。
それが引き金になったように、重臣たちの列が揺れた。
「まったくだ。あまりにも性急ではないか」
「城下には、あの娘に道や石垣を直してもらった者が大勢おる。工房の連中など、捜索隊を出せと城門に押しかけてきたほどだぞ」
「そのような場で、何を祝えと申されるか」
口々に上がる声は、もはや囁きではなかった。
エリヒドが何か言葉を継ごうとして口を開き、そのまま閉じる。胸元に当てていた手が、ゆっくりと下りていった。
リリアーナの顔から、さっきまでの笑みが消えている。
神殿騎士は、眉一つ動かさなかった。
「異を唱えられると?」
騎士の口調は、少しも崩れない。
「これは教皇猊下の御意であり、主の御加護を民と分かち合うための場にございます。……それとも王家の皆様、そして勇者御一行は、主の御加護を拒まれるおつもりか」
さっきまでそこにあった温もりが、嘘のように冷えていく。
一拍の沈黙の後、クラスの後ろの方から声が弾けた。
「ふざけんなよ!」
「祝うことなんか何もねぇだろ!」
「南雲さんのこと、何だと思ってんのよ……!」
優花の声だった。誰かがそれに続き、また誰かが続く。一度火のついた声は、もう誰にも抑えられなかった。
その中で、声を上げない者もいた。
遠藤の右手が、腰の短剣へ伸びかける。指先が柄に触れる寸前で、止まる。しばらくそのまま宙に浮いていた手は、やがてゆっくりと拳に変わった。
恵里は、眼鏡の奥から光輝の横顔を見つめている。唇をきつく結んだまま、身じろぎ一つしない。
清水は、腕を組んだまま白い鎧を見ていた。
(……挑発じゃねぇな、これ)
あの騎士の顔には、嘲りも苛立ちもない。本気で、これが祝い事だと思っている。
(ここで蹴ったら、「主の御加護を拒んだ」って一文が教会の帳面に残る。それで終わりだ)
雫は、白い鎧から目を逸らさなかった。
腰の剣の柄に、いつの間にか手が掛かっている。握り込んだ指の関節が、軋むように鳴った。
(……何が、祝いよ)
見つからなかった。底も見えない闇の前で、何もできずに引き返してきた。その足で、笑って手を振れと言う。
(あの子がどんな思いで、あの橋に残ったと思ってるの)
気づけば雫の足も、龍太郎に並ぶように半歩前へ出ていた。
香織だけは、声を上げる誰の方も見ていなかった。
騒ぎの真ん中に立っているのに、そこにだけ音が届いていないかのように静かだ。まだ血の気の戻りきらない白い頬に、午後の陽が落ちている。
その指先が、手首のブレスレットに彫られた『H』の刻印をなぞる。一度、二度。刻まれた溝の形を確かめるように、ゆっくりと。
やがて、琥珀色の瞳が神殿騎士へ向いた。
怒りの色はない。責める色もない。ただ真っ直ぐに、白い鎧を見ている。
王妃の言葉にも眉一つ動かさなかった騎士の視線が、ほんの一瞬だけ、そこで揺れた。
龍太郎が、さらに一歩踏み出しかけた。
その腕を、光輝が掴む。
「龍太郎」
「光輝、けどよ――」
「分かってる」
振り返った龍太郎の目を、光輝は正面から受け止めた。
分かっている。自分だって同じことを思った。見つからなかったと口にしたばかりの舌で、祝いの言葉を受け取れと言われている。腹の底が煮えるようだった。
けれど。
聖堂の冷たい床が、脳裏に浮かぶ。喉元で止まった遠藤の刃。それを押さえた白い柄。何も映さない目。そして、形だけは完璧だった謝罪。
あの場所で叫んでも、何一つ変わらなかった。変わらないどころか、一歩間違えれば遠藤は――。
(……ここで噛みついても、教会は困らない)
困るのは自分たちの方だ。そして今、一緒に声を上げてくれた人たちの方だ。
光輝は龍太郎の腕を離し、神殿騎士へ向き直った。
「失礼しました」
静かな声が出た。自分でも驚くほど、震えていない。
「……謹んで、お受けします」
光輝は頭を下げた。
前庭が、しんと静まり返る。
頭を上げると、光輝は振り返った。
怒りを飲み込みきれない顔が、いくつも並んでいる。その一つひとつを見渡して、光輝は何も言わずに頷いた。
清水の片眉が上がった。いつものように鼻で笑うでもなく、ただ意外なものを見たという顔で、じっとこちらを見返してくる。やがて小さく息を吐き、組んでいた腕を下ろした。
雫は、息を呑んでいた。
剣の柄から、手がゆっくりと離れる。けれどその拳はほどけないまま、脇に下ろされた。
怒りが消えたわけではない。ただ、子供の頃から隣で見てきた幼馴染の顔を、初めて見るもののように見つめていた。
香織が、小さく頷き返した。何も言わない。ただ、それで合っている、とでも言うように。
龍太郎はしばらく拳を握ったままでいたが、やがて舌打ちを一つ落として、その手を開いた。
神殿騎士は満足げに目を細め、羊皮紙を巻き直す。
「猊下も、さぞお喜びになりましょう」
再び揃った足音を響かせて、白い鎧は門の方へ去っていった。
光輝は、その背中から目を離せずにいた。
陽を跳ね返す、傷一つない白。
それがなぜか、あの聖堂の床と同じ色に見えた。
――教会は、いつでも皆様の味方でございます。
耳の奥で、穏やかな声が蘇った。