ありふれたギャルは世界最狂【第一章完結】 作:バグッた左スティック
その年の春、とある高校には女神が二人いた。
白崎香織と、八重樫雫。
誰が言い出したのかは分からない。入学式の翌週には一年の男子の間で、月の終わりには上級生の間でも、その呼び名がすっかり定着していた。
白崎さんは、いつも柔らかく笑っている。プリントを回す時も、日直の黒板消しを手伝う時も、相手の目を見て「ありがとう」と言う。膝の隠れるスカートに、一番上まで留めたブレザーのボタン。中学がよほど厳しかったのか、着こなしに一つの隙もない。
八重樫さんは、あまり笑わない。腰まで届く黒髪をきっちりと結い上げ、背筋をまっすぐに伸ばして座っている。話しかければ丁寧に答えてくれるのだが、その凛とした佇まいを前にすると、男子の大半は話しかける前に気後れしてしまう。
柔らかい方と、凛とした方。並べて、二大女神。
休み時間になると、教室の前の廊下を、用もない他クラスの男子や上級生がやけにゆっくり通り過ぎていく。
「うちのクラス、当たりだよな」
窓際の席で、坊主頭の男子がしみじみと言った。
「女神が二人に、天之河までいるんだぞ。顔面偏差値どうなってんだよ」
隣の眼鏡の男子が、深々と頷く。
天之河光輝は、教室の真ん中の席で数人に囲まれていた。入学早々の実力テストでは名前が上の方にあり、中学では剣道で鳴らしたという噂もある。誰に対しても公平で、言うことがいちいち正しい。非の打ち所がないというのは、ああいう人間のことを言うのだろう。
「でもさ」
前の席のお調子者が、椅子を後ろに傾けて声を潜めた。
「うちの女神、教室に降臨しなくね?」
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
教科書を閉じる音が重なる中、白崎さんが真っ先に席を立った。八重樫さんがその後に続く。二人はいつものように教室を出て、隣のクラスへ消えていった。
廊下をうろうろしていた上級生が、空いた二つの席を覗き込み、露骨に肩を落として去っていく。
開いたままの扉の向こうから、甲高い声が響いてくる。
「香織〜! 雫〜! おっそ!」
廊下の窓から差す光を、金色の髪が跳ね返していた。入学式の日から学年中の噂になっている、派手なギャルだ。南雲、という名前だけは男子たちも知っている。
「……あれと、どういう繋がりなんだろうな」
「中学からの友達らしいぞ。白崎さんと八重樫さんは同中で、あのギャルだけ違うとこ」
「どこで知り合うんだよ、あの組み合わせ」
答えを知る者はいなかった。
坊主頭がふと教室の中央に目をやる。
天之河は囲んでいた数人の話に頷きながら、視線だけを開いた扉の方へ向けていた。笑顔はいつもと同じ形をしている。けれどシャープペンシルを握る指は、ノックの途中で止まったまま動いていなかった。
◇
四月の終わりには、別の噂も流れ始めた。
告白して、玉砕した男の数だ。
「三年のサッカー部のキャプテン、白崎さんに行ったらしいぞ」
「マジで? あの人、去年の文化祭でミスター取ったんだろ」
「秒で断られたって。『ごめんなさい』の後に、ちゃんと頭まで下げられたらしい」
月が変わる頃には、誰も数えなくなっていた。二年の生徒会役員。隣の隣のクラスのバスケ部。校門の前で待ち伏せていた他校の男子までいたという。誰もが同じ結末を迎え、同じように肩を落として帰っていった。
八重樫さんの方も、事情は変わらない。剣道部の二年が道場の裏に呼び出したところ、「今はそういうことを考えられないので」と、丁寧に、一分とかからず断られたらしい。
白崎さんの断り文句は、いつも決まっていた。
「ごめんなさい。好きな人がいるので」
その一言が、男子たちをさらにざわつかせた。
「……好きな人って、誰だよ」
「そりゃお前……」
眼鏡の男子が、ちらりと教室の中央を見る。天之河が、相変わらず数人に囲まれて笑っていた。
「幼馴染らしいぞ。白崎さんと八重樫さんと、天之河」
「あー……」
「なら、勝ち目ねぇわな」
坊主頭が深く頷き、それで話は終わった。誰も、それ以上確かめようとはしなかった。
お調子者だけが、さっきから一言も喋っていない。机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。
「……お前、まさか」
「…………行った」
くぐもった声だった。
「昨日、行った」
坊主頭と眼鏡の男子は、黙ってお調子者の背中を叩いた。
◇
最初に気づいたのは、眼鏡の男子だった。
五月の終わり。衣替えにはまだ少し早い、うっすらと汗ばむ日のことだ。
「……白崎さんのスカート、短くなってね?」
「は?」
「いや、なんか。前はもうちょい膝隠れてたような」
「気のせいだろ」
坊主頭は鼻で笑い、眼鏡の男子もそれ以上は言わなかった。二センチか三センチか、その程度の話だ。測ったわけでもない。
その日の昼休み、二人はたまたま購買の帰りに隣のクラスの前を通りかかった。
開いた扉の向こうで、白崎さんが例のギャルの前に立っている。ギャルが白崎さんの足元から頭のてっぺんまでをひと眺めして、何か言った。廊下のざわめきに紛れて、声までは届かない。
白崎さんの顔が、崩れた。
崩れた、としか言いようがなかった。教室で見せているいつもの笑顔とは、まるで別の筋肉が動いている。頬が緩み、目尻が下がり、両手で口元を押さえたまま、その場で小さく足踏みしていた。
二人とも、気づけば足が止まっていた。
「……今の、誰?」
「白崎さん……だよな」
◇
六月の合同体育で、もう一つ事件が起きた。
隣のクラスとの合同授業だった。見学用のベンチに、例のギャルが一人で座っている。
そこへ天之河が歩いていくのを、何人かが見ていた。何を言ったのかまでは聞こえない。ただ天之河にしては珍しく声が硬く、ギャルの方は青い顔のまま俯いていた。
直後、白崎さんと八重樫さんが血相を変えて駆け寄った。隣のクラスの女子たちも次々に集まってきて、天之河はあっという間に取り囲まれた。
何があったのか、男子たちには最後まで分からない。女子に聞いても「男子には関係ない」の一言で片づけられた。
それから数日後の休み時間。天之河が一人で隣のクラスへ入っていくのを、坊主頭が見た。
扉の隙間から覗くと、天之河があのギャルの前で深々と頭を下げていた。
「……あの天之河が?」
戻ってきた坊主頭の報告に、お調子者が目を丸くする。
「なにしたんだよ、あいつ」
「知らねぇ。けど、ギャルの方は笑ってたぞ。なんか軽く手ぇ振って」
◇
夏休みが明けると、白崎さんの耳が光っていた。
右耳に二つ、左耳に一つ。耳たぶに、銀色の小さなスタッドピアスが並んでいる。
白崎さんは、横髪を耳にかけていた。春にはなかった癖だ。落ちてきた髪を、細い指先がそのたびに律儀に耳の後ろへ戻していく。
隠す気は、どうやらないらしい。
教室の男子たちの間に、静かな動揺が走った。
「……女神が」
「穴、開けてる……」
「言うな。分かってる。俺にも見えてる」
校則で禁じられているわけではない。服飾コースのある私立だけあって、身だしなみの規定は他校よりずっと緩かった。耳にいくつも開けている上級生だって珍しくない。
それでも、入学式の日にボタンを一番上まで留めていた白崎さんを知っている身としては、受け止めるのに少し時間がかかった。
当の白崎さんは、相変わらず柔らかく笑っている。プリントを回す時も、変わらず「ありがとう」と言う。
ただ、その「ありがとう」の後に続く会話が、以前より少しだけ短くなった気がした。こちらが話を広げようとする頃には、白崎さんの視線はもう、時計か扉のどちらかに向いている。
八重樫さんは何も変わらなかった。
結い上げた黒髪も、まっすぐな背筋も、きっちり膝を隠すスカート丈も、春のままだ。白崎さんの耳元をちらりと見ては、小さく溜め息をつく。その横顔だけが、ほんの少し疲れて見えた。
天之河も、変わり始めていた。
変わった、と言えるほどはっきりしたものではない。相変わらず人に囲まれ、相変わらず誰に対しても公平だった。ただ、前ほど正論を口にしなくなった。誰かが揉めていても、すぐには割って入らない。その代わり、輪の中で一人、何かを考え込むように黙っている時間が増えた。
◇
秋になると、白崎さんの指先が色づいた。
淡いベージュのネイル。その指に、細いシルバーリングが一つ。
もう、誰も「女神が」とは言わなかった。
「……あれも、隣のギャルの影響なんかな」
窓際で、お調子者がぼそりと言った。
「影響っていうか」
眼鏡の男子が教室の扉の方を見る。
四時間目のチャイムが鳴り終わる前に、白崎さんはもう立ち上がっていた。足取りが春よりずっと軽い。廊下へ出る直前、スマホの暗い画面を鏡代わりにして、前髪を指先で整えている。
あれは、誰かに見せに行く顔だ。
八重樫さんが教科書を揃えてから、静かにその後を追った。
天之河は席に座ったままだった。
囲んでいる友人たちが、購買の話をしている。天之河はそれに相槌を打ちながら、目だけで二人の背中を追っていた。扉が閉まるまで、ずっと。
その視線の先にいるのが白崎さんなのか、八重樫さんなのか。それとも扉の向こうで待っている、金色の髪なのか。男子たちには分からなかった。
坊主頭が頬杖をついたまま呟く。
「……そういやさ」
「ん?」
「二大女神って、結局なんだったんだっけ」
答える者はいなかった。
いつから呼ばなくなったのか、誰も覚えていなかった。教室の前の廊下をやけにゆっくり歩いていく上級生の姿も、いつの間にか見かけなくなっていた。
◇
「――で、二大女神だってよ」
遠藤が、パックのコーヒー牛乳のストローを咥えたまま言った。
昼休みの教室。南雲の席と清水の席をくっつけた即席の島に、いつもの面子が集まっている。白崎と八重樫。谷口と中村。それから、いつからそこにいたのか分からない遠藤。
南雲だけがいない。四時間目が終わるなり「ヨークリ争奪戦行ってくる!」と叫んで、購買へすっ飛んでいった。
「……は?」
清水はコンビニのおにぎりの包装を剥がす手を止めた。
「何がだよ」
「白崎と八重樫。入学してすぐの頃、学校中でそう呼ばれてたんだと」
「なんでお前がそんなこと知ってんだよ」
「さっき廊下で、向こうのクラスの男子が喋ってんのが聞こえた。三人並んで歩いてて、俺がその真ん中にいたのに誰も気づかなかったからな」
遠藤は淡々と言って、ずず、とストローを鳴らした。
「……それもう盗み聞きじゃねぇだろ。会話に参加してんだよ」
「やめろ。自分で言ってて悲しくなってきた」
「二大女神ーっ!?」
谷口が椅子ごと身を乗り出した。
「なにそれなにそれ! カオリンとシズシズが女神!? ちょっと待って、鈴それ初耳なんだけど!」
「入学してすぐの頃の話らしいぞ。今はもう誰も呼んでねぇって」
「なんで過去形!? もったいない! 鈴、今日から布教するよ! 二大女神! 二大女神!」
「……やめて」
八重樫が即座に箸を置いた。
「そういうの、本当にやめて」
声は冷静だった。けれど耳の先が、うっすら赤い。
中村がくすりと笑って、弁当の卵焼きをつまむ。
「でも、分かる気はするかな。香織と雫、並んでると絵になるし」
「でしょー!? ほら恵里も言ってる!」
清水はおにぎりを一口かじった。
学校中で、と言われても、清水には覚えがない。考えてみれば当たり前の話だった。噂の女神は二人とも、入学してからこっち、休み時間のたびにこの島へ入り浸っていたのだ。噂の飛び交う廊下に、本人たちが一度もいなかった。
(……まぁ、呼ばれはするわな)
入学したての教室に、顔のいい女子が二人。片方は物腰が柔らかく、片方は凛としている。そういう二人を男子が勝手に並べて呼び名をつけるのは、漫画やラノベで何十回と見てきた光景だ。現実でもやるのかとは思うが、驚くほどの話でもない。
ただ。
清水は、向かいに座る白崎を見た。
自分のことが話題になっているというのに、白崎はさっきから一度も会話に入ってこない。スマホを片手に、何度も教室の扉の方を見ている。南雲がいつ戻ってくるか、それだけが気になっているらしい。
「で、白崎はどうなんだよ」
遠藤が白崎の方を向いた。
「女神って呼ばれてたの、知ってたか?」
白崎が、ようやくスマホから顔を上げた。少しだけ首を傾げる。
「ふーん」
それだけだった。
知っていたのか、知らなかったのか、それすら分からない。肯定でも否定でもない、本当にただの「ふーん」だった。言い終わる前に、白崎の視線はもう扉の方へ戻っている。
(……眼中にねぇな)
学校中が、半年かけて呼ばなくなった呼び名だ。当の女神は、そこに一ミリの興味も持っていなかった。
もう一人の女神の方は、耳を赤くしたまま黙々と弁当をつついている。話しかければちゃんと答えるが、知らない男子が気軽に声をかけられる相手かと言われると、まあ無理だろう。
「……そりゃ、廃れるわな」
おにぎりを飲み込んでから、清水は言った。
「白崎は南雲にしか笑わねぇし。八重樫は、向こうのクラスでも怖がられてんだろ」
「怖がられてないわよ」
「遠藤」
「怖がられてた。『八重樫さんに話しかけるには事前準備がいる』って言ってた」
「…………」
八重樫が無言で箸を握り直した。
「あとな」
遠藤がストローから口を離した。
「告った奴、山ほどいたらしいぞ。三年のサッカー部のキャプテンとか、二年の生徒会とか。全員玉砕」
「……マジか」
清水はおにぎりを持つ手を下ろした。
「そういうのって、マジであるんだな。ラノベの中だけだと思ってたぞ」
「俺も聞いててびびった」
遠藤はストローを咥え直して、それから、ふと眉を寄せた。
「……なあ。それ聞いてて、ずっと引っかかってんだけどさ」
「なんだよ」
「告った奴らって、白崎と喋ったことあんのか?」
清水は少し考えた。
「三年のキャプテンとか、他校の奴とかだろ。……ねぇんじゃねぇか」
「だよな」
遠藤は空になりかけたパックを指で潰した。
「じゃあ、何が好きなんだよ。喋ったこともねぇのに、どこ見て『いける』って思うんだ」
「顔だろ」
「顔だけで、知らねぇ奴に好きって言えるか?」
遠藤は真顔だった。
「俺なんか、同じクラスの奴にすら名前覚えられてねぇんだぞ。向こうは俺のこと知らねぇし、俺も向こうのことよく知らねぇ。そういう相手に、いきなり好きとか、意味分かんねぇ」
清水は、ほう、と少しだけ目を見開いた。遠藤の口から、こんなまともな疑問が出てくるとは思っていなかった。
「……ラノベだとな」
食べかけのおにぎりを机に置いて、清水は言った。
「ああいう告って振られる奴らは、だいたい名前もねぇんだよ。女神の人気を説明するための数合わせだ。振られた奴が多いほど、女神の格が上がる。で、振られた奴のことは誰も覚えてねぇ」
「…………」
遠藤の動きが、ぴたりと止まった。
「……なんか急に、他人事じゃなくなってきた」
「お前は告ってすらいねぇだろ」
「告ってなくても名前覚えられてねぇんだよ、こっちは」
清水は鼻を鳴らして、それから少しだけ真面目な声になった。
「現実でやる奴は、たぶん白崎に告ってねぇんだよ。『二大女神の白崎さん』に告ってんだ。顔と、噂と、廊下で見かけた笑顔にな。だから断られても、本人の何が駄目だったのか分かんねぇまま帰ってく」
「……じゃあ、振られて当然じゃねぇか」
「当然だな」
遠藤は潰したパックを机に置いた。
「呼ばれてる方は、たまったもんじゃねぇな」
「……本当に、困ったのよ」
ぽつりと、八重樫が言った。箸を持ったまま、弁当の隅の煮豆をじっと見つめている。
「名前も知らない先輩に、放課後、道場の裏まで呼び出されて。何を言われたのかも、半分くらい覚えてないわ」
「シズシズ、それ相手かわいそうなやつ」
谷口が、気の毒そうな顔で笑った。
中村が卵焼きを箸の先でつつきながら、小さく呟く。
「……でも、一回声をかけてもらっただけで、ずっと好きになっちゃうこともあるよ」
誰に向けたわけでもない声だった。清水がちらりと横を見ると、中村はにこりと笑った。
「一般論だよ?」
清水は、そこには何も返さなかった。
「白崎は?」
遠藤が、ついでのように聞いた。
「なんて断ったんだよ」
白崎はスマホから目を上げずに答えた。
「好きな人がいますって」
それだけ言って、また扉の方を見る。
島の全員が、一瞬だけ黙った。
誰の名前も出ない。出す必要もなかった。
(……その好きな人、今、購買でパン争奪戦やってんだけどな)
「てか清水くん、さっきからやけに詳しくない?」
谷口が感心したように言う。
「ラノベで履修済みだからな」
清水は食べかけのおにぎりを口に放り込み、二つ目に手を伸ばした。一度喋り出すと、もう口が止まらない。
「いいか。こういうのはな、クラスに女神って呼ばれてる奴がいて、文武両道のイケメンがいるんだよ。で、そこに冴えないオタクが一人混ざってる。なぜか女神がそのオタクにばっかり話しかけに来て、クラス中の男子から殺気を向けられる。そこまでがワンセットだ」
「なにそのワンセット」
遠藤が真顔で言った。
「様式美だよ。……まぁ、天之河だけはそれっぽいのにな。あいつ、まんま文武両道のイケメンだし」
隣で、中村が箸を止めた。
それから何も言わずに、深く、ゆっくりと頷いた。
一回。二回。三回目は、目を閉じていた。
「……中村?」
「なんでもないよ」
中村はにっこりと笑い、何事もなかったように卵焼きを口に運ぶ。
(……なんか今、すげぇ重いもん見た気がする)
清水は、見なかったことにした。
「ねえねえ、じゃあさ」
谷口が目を輝かせて身を乗り出す。
「冴えないオタクって、誰?」
島の全員の視線が、清水に集まった。
「……おい」
「お前じゃん」
遠藤が即答した。
「隣の席にギャル、昼休みになると女神が二人来る。条件揃いすぎだろ」
「揃ってねぇよ。殺気向けられてねぇし」
「清水くん」
向かいから、柔らかい声がした。
白崎だった。いつの間にかスマホを置いて、にこにこと笑っている。
「私が清水くんのところに来るのは、ハジメちゃんの隣の席だからだよ?」
笑顔のまま、目からすっと光が消えていた。
「……知ってるよ」
清水は二つ目のおにぎりの包装を剥がした。
殺気なら、向けられている。クラスの男子からではなく、女神本人から。
おにぎりを、ほとんど噛まずに飲み込む。米の塊が喉をごりごりと下りていった。
隣の空席の主は、授業のたびに居眠りしているギャル。向かいには目から光の消える女神。反対隣には、なぜか三回頷く委員長。そして話の流れで、冴えないオタクの席に勝手に座らされている自分。
(……ホント、マジで誰か助けてくれ……)
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
「――うっそでしょ……」
南雲が手ぶらで立っていた。
肩を落とし、とぼとぼと島へ戻ってくる。そのまま清水の隣の椅子に崩れ落ちるように座り、机に額を押しつけた。
「ヨークリ……売り切れてた……。目の前でラスイチ持ってかれた……。あーし今日、昼抜き……」
「はい、ハジメちゃん」
白崎が鞄から何かを取り出した。
ビニールに包まれた、ヨーグルトクリームパン。それも、二つ。
南雲ががばっと顔を上げた。
「え、うそ、なんで!?」
「なんでだろうね?」
白崎はにこにこと笑っている。
(……なんで好物把握してて、しかも二つあんだよ)
清水は、心の中だけで呟いた。口には出さない。出したら、たぶんまた白崎の目から光が消える。
「香織マジ女神〜!」
南雲は二つとも受け取ると、さっそく一つ目の袋を破いて頬張った。
白崎の顔が、崩れた。
両手を頬に当て、目尻を下げ、椅子の上で小さく身をよじっている。さっき二大女神の話を「ふーん」で流した人間と、同一人物とは思えない。
「……もがっ」
南雲の喉から、妙な音がした。
勢いよく頬張りすぎたらしい。胸をどんどんと叩いて、目に涙を浮かべている。
八重樫が深く溜め息をついた。
自分の水筒を開け、キャップのカップにお茶を注ぐ。そのまま黙って、南雲の前に置いた。
南雲はそれを一息で飲み干して、ぷは、と息をつく。
「雫も女神〜」
顔も上げずにそう言って、もう二口目のパンにかぶりついていた。
八重樫の動きが、止まった。
水筒のキャップを持ったまま固まっている。耳の先から始まった赤みが、頬へ、首筋へと、みるみるうちに広がっていった。
「……っ、べ、別に、詰まらせてたから渡しただけで」
誰も何も聞いていないのに、八重樫は早口でそう言った。
谷口が口を押さえて、肩を震わせている。中村は、そっと視線を窓の外へ逸らした。遠藤は、なぜか清水の方を見ていた。
南雲だけが、何も気づいていない。
両頬をパンで膨らませたまま、とろけている白崎と真っ赤な八重樫を順番に見て、首を傾げる。
「てか、なんの話してたん?」
「……なんでもねぇよ」
清水はおにぎりの最後の一口を口に放り込んだ。
学校中が、半年かけても呼べなくなった呼び名。それを南雲は、購買のパンが売り切れたついでに二回も口にした。本人はたぶん、言ったことすら覚えていない。
パックのお茶に、ストローを挿す。
窓の外で、銀杏の葉が一枚、ゆっくりと落ちていった。