ありふれたギャルは世界最狂【第一章完結】 作:バグッた左スティック
入学式の日、私はこのクラスで一番関わりたくない人間を見つけた。
教室の真ん中で、金色の髪が揺れていた。
肩まで伸ばした毛先をゆるく巻いている。制服は入学初日とは思えないほど着崩されていて、ブレザーの袖からは水色のシュシュが覗いていた。机の上に腰掛けて、片足をぶらぶらさせている。
声が大きい。笑い声がもっと大きい。
教室の扉が開いて、男子が一人入ってきた。前髪の長い、いかにも教室の隅が好きそうな男子だ。
金髪が机から飛び降りた。
「あっ! 清水ぁー! アンタもこの高校だったの!? マジウケるんだけど!!」
男子の足が、扉のところでぴたりと止まる。
それから彼は無言のまま自分の席まで歩き、鞄を下ろし、そのまま机に突っ伏した。
「……おわった……」
地の底から湧いたような声だった。
隣の席の女子が「え、知り合い?」と小声で囁く。私は答えずに、窓の外へ視線を逃がした。
最初のホームルームで、担任が出席を取った。
名簿順に名前が呼ばれ、それぞれが返事をしていく。
「遠藤くん。……遠藤浩介くん」
返事はなかった。
担任が顔を上げて、教室を見回す。誰も手を挙げない。
「遠藤くんは、欠席かな」
担任が名簿に印を付けかけた、その時だった。
「いるじゃん、そこ」
南雲さんが椅子ごと後ろを振り返っていた。指差した先は、廊下側の一番後ろの席だ。
そこに、男子が一人座っていた。
さっきから、ずっとそこにいたらしい。片手を中途半端に挙げたまま、驚いたように目を丸くしている。
「……あ、すみません。います」
担任が慌てて印を消す。教室の何人かが、今初めて気づいたような顔で後ろを向いた。私もその一人だった。
南雲さんはもう前に向き直って、何事もなかったように机に頬杖をついている。
廊下側の一番後ろで、遠藤くんだけがしばらく南雲さんの後ろ姿を見つめていた。
ああいう人とは、三年間、目を合わせずに過ごそう。
そう決めたのが、入学式の朝だった。
◇
噂は、思っていたよりずっと早く回ってきた。
私の席は窓際の後ろから二番目で、前の席と斜め前の席には辻さんと吉野さんが座っている。二人は中学からの友達らしく、休み時間になると椅子を後ろ向きにして、私の机の端に肘を乗せて喋り始める。
私が話の輪に入るわけではない。ただ、席が近いせいで全部聞こえてしまう。
「ねえ聞いた? 南雲さんの家、ヤクザらしいよ」
吉野さんが身を乗り出して声を潜めた。潜めた割には、私の耳まではっきり届く。
「え、うそ」
「ほんとほんと。朝、校門のとこで上級生が騒いでたんだって。黒いスーツの男の人たちがバイクで送ってきて、全員で九十度のお辞儀してたって。『いってらっしゃいませ、お嬢』って」
「お嬢……」
辻さんが困ったように眉を下げた。
廊下側の席では、男子が三人で固まって、同じ話で盛り上がっていた。名前はまだ覚えていない。入学三日目にして、すでにクラスで一番うるさい集団になっている。
声の大きい男子が机を叩いた。
「マジだって! 俺も見たもん! スーツの奴ら、全員グラサンだったし!」
「グラサンはしてなかっただろ」
茶髪の男子が冷静に訂正する。
「してたことにしとけって、その方が面白ぇじゃん!」
ああやって、噂は大きくなっていくのだ。シャープペンシルを回しながら、私はそう思った。
それでも、その日から南雲さんの周りには、ほんの少しだけ空白ができた。
同じ教室にいるのだから、本人に聞けば一言で済む話だった。けれど、誰も南雲さんに確かめようとはしなかった。
私も含めて。
本人は、気づいていないらしい。
◇
その空白を、南雲さんは自分から踏み越えてきた。
四月の半ば、昼休みのことだった。
教室の後ろで、一際大きな男子が黙々と弁当を食べていた。永山くんという。入学したばかりなのに妙な落ち着きがあって、誰ともあまり喋らない。
そこへ、南雲さんが箸を片手にずかずかと歩いていく。
「ねえ、アンタさ」
永山くんが箸を止めて顔を上げる。
「なんか、親戚のおじさんみたいな安心感あるよね。永おじって呼んでいい?」
教室が、静まり返った。
初めて喋る相手に、それを言うのか。
永山くんは数秒、南雲さんの顔をじっと見つめていた。それから、ゆっくりと頷く。
「……好きにしろ」
いいんだ。
南雲さんは満足げに笑って、今度は永山くんの隣の男子を見た。野村くんだ。
「で、アンタは野村……ケンタロウだっけ? ノムケンね」
「えっ」
「ノムケン。よろー」
「いや、えっ、よろって……」
野村くんが困り果てた顔で永山くんを見る。永山くんは黙って卵焼きを口に運んでいた。
それで終わりかと思った。
南雲さんの目が教室をぐるりと一周して、窓際の後ろから二番目の席で止まる。
私の席だ。
「アンタは……前髪ぱっつんだから、ぱっつんね!」
「…………は?」
言い返す前に、南雲さんはもう自分の席へ戻っていた。
前の席で、吉野さんが肩を震わせている。辻さんは口元を押さえて、申し訳なさそうに私を見た。
私は前髪に指で触れた。
中学の卒業式の前に、自分で切りすぎた前髪だ。誰にも何も言われなかったから、気にしないようにしていたのに。
うるさい。距離が近い。勝手にあだ名を付ける。
関わりたくない理由が、一日で三つになった。
◇
噂は、その後も増えた。
「南雲さんって、清水くんと付き合ってるのかな」
五月の連休明け、吉野さんがまた机の端に肘を乗せた。
「いっつも一緒にいるじゃん。休み時間も昼休みも」
「中学から一緒なんだって。……でも、付き合ってる感じじゃなくない? 清水くん、いつも死んだ顔してるし」
辻さんが首を傾げると、吉野さんは人差し指を立てた。
「それがいいんじゃん、ギャルと陰キャ」
廊下側では、例の男子たちがまた何か言っている。
「つーか南雲、男二人侍らせてんだろ。清水と……あと、もう一人いなかったっけ?」
「いたいた。なんか、地味な奴」
「名前なんだっけ」
三人が揃って首を傾げた、その真後ろで。
「いるよ」
声がした。
三人が同時に飛び上がる。振り返った先に、男子が一人立っていた。いつからそこにいたのか、誰にも分からなかった。
「遠藤。最初からここにいた」
遠藤くんは、ひどく疲れた顔でそう言った。
名前を聞いて、私はようやく思い出した。入学式の日、出席で一人だけ見落とされかけていた男子だ。あれから一ヶ月、一度も意識に上らなかった。たぶん、クラスの半分くらいはそうだったと思う。
南雲さんだけが、窓際から「遠藤ーっ! 購買行こうぜー! あーし奢ったげっからw」と、当たり前のように彼の名前を呼んでいた。
遠藤くんの肩が、ぴくりと揺れる。
「……え、マジで?」
さっきまでの疲れた顔が、少しだけほどけていた。
「マジマジ! ほら早く、パンなくなるって!」
「ちょ、待て、引っ張んなって! ……てか奢るとか言って、レジ前で財布忘れたとか言うなよ!?」
「言わない言わない。たぶん」
「たぶんってなんだよ!」
南雲さんが遠藤くんを引きずるようにして教室を出ていくと、窓際には清水くんだけが残った。漫画を広げて、こちらには背を向けている。
声の大きい男子が、にやにやしながら近寄っていく。
「なあ清水。お前さ、南雲と付き合ってんの?」
清水くんが漫画から顔を上げた。
露骨に嫌な顔だった。眉間に皺を寄せ、口の端を下げて、虫でも見るような目で声の大きい男子を見上げている。
「……は? 何言って――」
そこで、言葉が途切れた。
清水くんの顔から、すっと血の気が引いていく。
彼は首を巡らせて、教室を見回した。窓の外。後ろの扉。前の扉。開いたままの扉の向こうの廊下。隣のクラスの方角で、視線が一瞬止まる。
誰もいない。
それでも清水くんは、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
両手で、声の大きい男子の肩を鷲掴みにする。
「いいか」
低い声だった。指が、制服の上から肩に食い込んでいる。
「二度とそんなこと口走るんじゃねぇ。……マジで殺すぞ」
声の大きい男子は、口を半開きにしたまま固まっている。
脅しているのは清水くんの方なのに、よほど怯えた顔をしているのも清水くんだった。額にうっすらと汗が浮かび、言い終わってからも、ちらちらと廊下の方を気にしている。
「……え、あ、はい」
「声がでけぇ」
「……はい」
清水くんは肩から手を離すと、もう一度だけ廊下の方を確かめてから、椅子に座り直した。漫画を開く。けれどページは、いつまで経ってもめくられなかった。
前の席で、吉野さんがそっと振り返った。
「……今の、なに?」
「さあ……」
辻さんも首を傾げている。
私にも分からなかった。
清水くんが何に怯えていたのか。廊下の向こうに、何がいると思ったのか。
ただ、付き合っているという噂だけは、その日のうちに教室から消えた。
◇
一番信じてもらえなかった噂は、廊下側の背の高い男子が、部活の先輩から仕入れてきた。
「なあ、南雲ってゲームのキャラのモデルやってるらしいぞ」
「は?」
「なんか、親の会社がゲーム作ってて、キャラの動きとか南雲が演じてるとか」
「いやいやいや」
声の大きい男子が手を振った。
「ヤクザの娘がゲーム会社って。さすがにねぇわ」
三人は声を揃えて笑い、その噂はそれきり誰も口にしなかった。
前の席で、辻さんだけが少し首を傾げている。
「……でも、南雲さんって、たまにすごく綺麗に立つよね」
「え?」
「なんかこう、体育の時とか。足の置き方っていうか」
「辻ちゃん、よく見てんね」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
辻さんは照れたように笑って、それ以上は言わなかった。
私は、窓の外を見ていた。
◇
南雲さんは、授業中によく寝る。
英語でも数学でも、だいたい三時間目あたりから首がかくんと落ち始める。隣の清水くんが、先生に気づかれる前に手刀で起こす。それでもまた落ちる。
「南雲さんって、サボり魔らしいよ」
六月の初め、吉野さんが言った。
「他のクラスの子が言ってた。中学の時もほとんど学校来てなくて、ここでも留年しかけてるって」
「入学二ヶ月で留年はないでしょ……」
「噂だって、噂。……でも、授業中ずっと寝てるのはほんとじゃん」
噂だ。噂だけれど、私は否定しなかった。
授業中に寝る。大声で笑う。勝手に人にあだ名を付ける。
ああいう人は、たぶんそういう人なのだ。私とは、違う種類の人間なのだ。
その週の金曜日に、全校集会があった。
体育館へ向かう列に並ぼうとしたところで、ブレザーの前がふっと軽くなった。見下ろすと、一番上のボタンが床を転がっていくところだった。
糸が切れたらしい。
拾い上げて、私は途方に暮れた。前を開けたまま、全校生徒の並ぶ体育館に入るのはどうにも落ち着かない。かといって、今から保健室に行く時間もない。
「ぱっつん、どしたん?」
頭の上から、声が降ってきた。
南雲さんだった。
私の手の中のボタンと、前の開いたブレザーを見比べて、「あー」と声を上げる。
「ボタン取れたんだ。貸して」
「え、いや、いい……」
言い終わる前に、南雲さんはもうブレザーのポケットに手を突っ込んでいた。
出てきたのは、手のひらほどの小さなソーイングセットだった。使い込まれて角が擦り切れた、布張りのケース。集会に行くだけなのに、そんなものを持ち歩いているらしい。
南雲さんは私の手からボタンを摘まみ上げると、私のブレザーの襟元を引き寄せた。
距離が近い。
金色の髪から、甘い匂いがした。
針に糸を通すのに、一秒もかからなかった。ボタンを当て、表から裏へ、裏から表へ。指先が、私には目で追えない速さで動く。最後に糸の根元をくるくると巻いて、玉止めをして、糸切り鋏でぱちんと切った。
二分も経っていなかったと思う。
「はい、完璧」
南雲さんはボタンを指先で軽く弾いて、ソーイングセットをポケットに戻した。
「てか、ここの糸もほつれかけてたから、ついでに締めといた。しばらく取れないっしょ」
それだけ言って、彼女は列の前の方へ駆けていく。
「香織ーっ! 雫ーっ! 集会だるくない!?」
隣のクラスの列に向かって、大きく手を振っている。
私はブレザーの襟元を見下ろした。
一番上のボタンが、きっちりと留まっていた。引っ張っても、びくともしない。最初に付いていた時よりも、ずっとしっかりしている。
お礼を、言っていなかった。
言う暇がなかった。
前の列で、吉野さんがこちらを振り返って、目を丸くしていた。
◇
六月の合同体育で、事件が起きた。
準備運動の列に、南雲さんの姿がない。
グラウンドの隅のベンチに、彼女は一人で座っていた。ジャージの上着を膝にかけて、背中を丸めている。
そこへ、隣のクラスの天之河くんが歩いていった。
何を言ったのかまでは、聞こえなかった。ただ、天之河くんの声がいつもより硬いのは分かったし、南雲さんが一度も顔を上げないのも見えた。
遠目にも、南雲さんの顔は青白かった。
最初に駆け出したのは、白崎さんと八重樫さんだった。それから、うちのクラスの女子が一人、二人と後に続く。
吉野さんが走っていった。辻さんも、少し遅れて後を追った。
私は、その場に立っていた。
ベンチの方で、天之河くんが女子たちに取り囲まれていく。何人もの声が重なって、責めるような響きだけが風に乗って届く。
その中で一つだけ、はっきりと聞き取れる声があった。
「南雲さん、今日すごく体調悪いんだから! 先生に許可もらって見学してるだけなのに、勝手に決めつけて……天之河くん、流石にそれはないよ」
うちのクラスの、南雲さんの斜め前の席の子だった。普段は大人しくて、授業中に当てられても小さな声でしか答えない子だ。その子が、あの天之河くんに向かって声を荒げていた。
南雲さんは、サボり魔なんじゃなかったのか。
授業中に寝て、大声で笑って、勝手にあだ名を付ける、ああいう人なんじゃなかったのか。
私は、ジャージの襟元に手をやった。
そこにボタンはない。それなのに、指先は一番上のボタンの硬さを探していた。
気がつくと、足が動いていた。
私が輪の一番外側にたどり着いた時には、体育の先生が人垣を割って入ってきたところだった。先生はベンチの南雲さんを一瞥し、それから天之河くんの肩を軽く叩く。
「……天之河。少し話そう。教官室まで来い」
天之河くんは何か言いかけて、結局何も言わないまま、先生に背中を押されて校舎の方へ歩いていった。
輪の真ん中で、さっき声を荒げていた子がベンチの前にしゃがみ込む。
「南雲さん、大丈夫? 保健室行く?」
南雲さんは、膝のジャージを握ったまま顔を上げた。
「……ごめん」
いつもの大きな声ではなかった。
「なんか、めっちゃ大ごとにしちゃって。みんな授業あんのに……マジでごめん」
「謝んなくていいって!」
「いや、でも、あーしのせいで天之河くんも連れてかれちゃったし……」
青い顔のまま、申し訳なさそうに眉を下げている。教室で大声で笑っている時とは、別人みたいな顔だった。
私は輪の一番外側に立ったまま、何も言えなかった。何を言えばいいのかも、分からないままだった。
◇
その週、私は日直だった。
放課後、出席簿を職員室に返しに行く途中で、ふと思った。
南雲さんは、授業中はほとんど寝ている。けれど、朝の教室にあの金色の頭がなかった日を、私は一日も思い出せなかった。
寝坊した日でさえ、例のバイクで、始業前には校門に滑り込んでくるらしい。
気がつくと、私は出席簿を開いていた。
四月から六月までの、細かい升目が並んでいる。欠席の斜線、遅刻の印、早退の記号。
南雲ハジメの欄には、何も書かれていなかった。
一つも。
四月の始めから、今日まで。欠席も、遅刻も、早退も。
合同体育のあの日の升目も、白いままだった。あんなに青い顔をしていたのに、彼女は早退すらしていなかった。
私は出席簿を閉じた。
サボり魔の噂は、その日、私の中だけで消えた。
◇
「ねえ見て、また来てる」
七月の初め、吉野さんが教室の扉の方を顎で示した。
昼休みになると、隣のクラスから白崎さんと八重樫さんがやってくる。入学してからずっとそうだった。二人とも学校中で女神と呼ばれている人たちで、その二人が毎日、南雲さんの席まで通ってくる。
「南雲さん、あの二人を手下にしてるって噂もあるよね」
「あー、隣のクラスの男子たちが言ってたやつ。女神が毎日いなくなるって」
廊下側で、例の男子たちが南雲さんの席の方を盗み見ていた。
「毎日呼びつけてんだよ、絶対。女神を顎で使ってんだって」
その時、南雲さんが白崎さんに何か言った。声までは聞こえない。白崎さんの耳元を指差して、何か一言。
白崎さんの顔が、崩れた。
両手で頬を押さえて、目尻を下げて、その場で小さく足踏みしている。女神と呼ばれている人の顔とは、とても思えなかった。
男子たちが、三人揃って固まった。
「……手下っていうか」
茶髪の男子が、ぽつりと言った。
「逆じゃね?」
誰も、否定しなかった。
◇
噂が出回り始めてから半年。南雲さんが自分の噂を知ったのは、二学期も半ばに差し掛かった、十月のことだった。
昼休みの窓際には、いつもの顔ぶれが集まっていた。南雲さんの机と清水くんの机をくっつけて、清水くん、遠藤くん、それに隣のクラスから来た白崎さんと八重樫さん。夏休みの前あたりからは、そこに小柄でよく笑う子と、眼鏡をかけた大人しそうな子も加わるようになった。南雲さんが「鈴」「恵里」と呼んでいるから、名前だけは私も知っている。
私の席からは、その島の会話がほとんど聞こえる。聞きたいわけではない。
「そういや南雲」
遠藤くんが、焼きそばパンの袋を開けながら言った。
「お前、ヤクザの娘ってことになってるらしいぞ」
南雲さんの箸が止まった。
「…………は?」
「よそのクラスの奴らが言ってた。もう学年中で広まってんぞ。お前が寝坊するたびに、スーツの奴らがバイクで送ってきて『いってらっしゃいませ、お嬢』ってやってるからって」
一拍置いて、島が爆発した。
「ヤクザ!? ナグモンがヤクザ!?」
小柄な子――鈴さんが、机を叩いて笑い転げた。
「組長! ナグモン組長だ! あはははっ、お腹痛い!」
「ヤクザとか草!! なにそれ、あーしの家そんな感じになってんの!? ウケる!!」
南雲さん本人も、お腹を抱えて笑っていた。目尻に涙まで浮かべている。
眼鏡の子――恵里さんは口元を押さえて肩を震わせていたが、やがて堪えきれずに吹き出した。
「ごめ、でも、確かに……あれ見たら、そう思うかも……っ」
「むしろ今まで誰も言ってなかったのが不思議だわ」
清水くんが、呆れた顔で紙パックのジュースを啜る。
「あの見送り、初めて見た奴は百パー勘違いすんだろ」
「……正直、私も最初は何事かと思ったもの」
八重樫さんが、溜め息まじりに言った。
「違う違う、あれパパの会社の人たちだし! 中学の時にコロッケ奢ったら、なんか懐かれちゃって!」
「その説明で余計に分かんなくなってんのよ」
「なんで!?」
八重樫さんと南雲さんのやり取りに、また島が沸いた。
その中で、白崎さんだけが笑っていなかった。
にこにこと口元は笑っている。けれど、目だけが笑っていない。
「……遠藤くん」
穏やかな声だった。
「ハジメちゃんのこと、ヤクザ呼ばわりしてるのって……誰かな?」
遠藤くんの顔から、さっと血の気が引いた。
「お、おい白崎、目」
清水くんが、慌てて白崎さんと遠藤くんの間に割って入る。
「目がやべぇって。光戻せ光」
「えー? なんのこと?」
「なんのことじゃねぇよ!」
「香織、ステイ」
八重樫さんが白崎さんの頭に手を置くと、白崎さんは「はーい」と素直に引き下がった。それでも、廊下側の席の方をちらりと見たのを、私は見逃さなかった。
廊下側では、例の男子たちが固まって、こちらの話に聞き耳を立てていた。
「……パパの、会社の人たち」
声の大きい男子が、真顔で呟いた。
「…………それって」
三人が顔を寄せ合う。
「……組のことか……?」
「組のことだろ……」
「コロッケって、なんかの隠語か……?」
島の誰にも、その声は聞こえていなかった。
「てかぱっつんも聞いてよ、あーしヤクザにされてたんだけど!」
南雲さんが、笑いすぎて涙の浮いた目で、私の机の方に手を振っていた。
私は、返事をしなかった。
◇
翌朝、私は珍しく家を出るのが遅れた。
始業ぎりぎりの校門の前に、人だかりができていた。
爆音を上げて、バイクが一台、校門の前に横付けされる。後ろからヘルメットを抱えた金色の髪が飛び降りて、校舎へ向かって全力で駆けていく。
「サンキュー! じゃね!」
その背中に向かって、黒いスーツの男の人たちが一列に並んだ。
背筋を伸ばし、九十度の角度で、深々と頭を下げる。
「「「いってらっしゃいませ、お嬢!!!!」」」
「だからヤクザ呼びすんなって言ってんでしょーーっ!?」
振り返って叫ぶ南雲さんの声が、朝の空に響いた。
人だかりの中で、例の男子たちが三人並んで、静かに頷いている。
「……確定だな」
「確定だわ」
昨日の弁明は、一晩で跡形もなく消えた。
私は人だかりの横をすり抜けて、昇降口へ向かった。
ブレザーの一番上のボタンは、あの日からずっと取れていない。
南雲さんは、やっぱり苦手だ。うるさいし、距離が近いし、人の前髪を勝手にあだ名にする。
それでも。
次に「ぱっつん」と呼ばれたら、返事くらいはしてやってもいいかもしれない。
下駄箱の扉を開けながら、私はそう思った。