ありふれたギャルは世界最狂【第一章完結】 作:バグッた左スティック
始業式の朝、昇降口の掲示板の前は人で埋まっていた。
新しいクラス表が張り出されている。俺は人垣の後ろから背伸びをして、自分の名前を探した。
三枚目の紙の、真ん中あたり。見知った名前がいくつかと、知らない名前がいくつか。可もなく不可もない、というやつだ。担任の欄には、去年もいた数学の先生の名前が書いてあった。
それで用は済んだはずだった。
隣の紙に目が移ったのは、たまたまだ。
天之河光輝。
白崎香織。
八重樫雫。
南雲ハジメ。
清水幸利。
「……うわ」
思わず声が出た。
一年の間、俺はこの名前のほとんどを、廊下越しの噂でしか知らなかった。
文武両道で、生徒会で、剣道部の天之河。入学した頃に「二大女神」なんて呼ばれていた、白崎さんと八重樫さん。それから、ヤクザの娘だとか、女神を顎で使ってるだとか、ろくでもない噂ばかり聞こえてきた金髪のギャル。
その全部が、一枚の紙に収まっている。
担任の欄には、畑山愛子とあった。去年、社会を教えていた先生だ。背が小さくて、廊下ですれ違うと生徒と見分けがつかない。
「なんだあのクラス」
隣で同じ紙を見上げていた村瀬が呟いた。一年の時から同じクラスで、今年もまた同じクラスになった奴だ。
「濃すぎだろ。先生、大丈夫かよ」
「さあ……」
その時、人垣の前の方で声が弾けた。
「え、待って待って待って! 全員一緒じゃん!?」
金色の髪が、紙の前で跳ねていた。
南雲ハジメだった。
肩まで伸びた毛先をゆるく巻いて、制服を着崩している。女子にしては背が高く、人垣の中でも金色の頭はよく目立った。
南雲は両腕を広げると、隣にいた二人の首にまとめて飛びついた。
「香織ーっ! 雫ーっ! やっと同クラ!! やっとだよ!?」
白崎さんの顔が、溶けた。
噂でしか知らなかった女神の顔が、目の前で溶けていく。目尻が下がり、頬が緩み、口元がふにゃりとほどけて、南雲の肩に額を押しつけたまま動かなくなった。
八重樫さんは、首に回された腕をほどこうともしない。
「……ちょっと、苦しいわよ」
そう言いながら、口元だけがほんの少し笑っている。黒髪の隙間から覗いた耳の先が、赤かった。
「ナグモーーンっ!!」
人垣の後ろから、甲高い声が突っ込んできた。
小柄な女子が、人と人の隙間を器用にすり抜けて、三人の塊に頭から飛び込んでいく。
「鈴も! 鈴も一緒だよ! カオリンとシズシズも! 全員じゃん、やばーい!」
「鈴ー! マジ!? え、恵里は!?」
「いるよ」
小柄な女子のすぐ後ろで、眼鏡の女子が小さく手を挙げていた。両腕に、自分の鞄ともう一つ鞄を抱えている。たぶん、飛び込んでいった方の鞄だ。
「鈴、走らないでって言ったのに……」
「恵里もおいでよー!」
「ううん、ここでいい」
眼鏡の女子は困ったように笑って、塊の外側に立った。それから張り紙を見上げて、ほんの一瞬だけ、紙の一番上のあたりで目を止める。
すぐに、何事もなかったように塊の方へ視線を戻した。
四人分の笑い声が、昇降口の天井に跳ね返っていた。
その横で、男子が一人、張り紙を見上げたまま固まっていた。前髪の長い、いかにも教室の隅が好きそうな男子だ。
彼はしばらく紙を見つめて、それから、ゆっくりと天を仰いだ。
「……おわった」
地の底から湧いたような声だった。
「清水ぁ! アンタも一緒じゃん! よろ〜!」
「よろじゃねぇよ……」
人垣を割って、やけに大きな男子が歩いてきた。
肩幅が、普通の男子の倍はある。その後ろから、ひょろりとした男子がついてくる。大きい方は清水の隣まで来ると、何もない空間に向かって、当たり前のように声をかけた。
「浩介。また同じだな」
「おう、重吾。健太郎も」
返事があった。
俺は、息を呑んだ。
清水のすぐ隣に、もう一人いた。さっきから、ずっとそこにいたらしい。俺の位置からなら、絶対に視界に入っていたはずなのに。
「良かった……今年も知ってる人いた……」
ひょろりとした方が、張り紙を見上げて胸を撫で下ろす。
その声に、金色の頭がくるりと振り向いた。
「あーっ! 永おじとノムケンじゃん! また一緒!? やば、一年の時と同じメンツじゃん!」
「……ああ」
大きい方が短く頷く。ひょろりとした方は「いや、だからノムケンって……」と力なく呟いて、結局、それ以上は言わなかった。
「てか遠藤もいるじゃん! ほらやっぱ全員いる!」
「……俺、最初からここにいたんだけど」
「知ってる知ってる! だから今言ったんじゃん!」
遠藤というらしいその男子は、何か言いたげに口を開いて、結局、諦めたように閉じた。隣で、重吾と呼ばれた大きい方が、黙ってその肩に手を置いている。
その輪の外から、女子が二人、おずおずと近づいてきた。
一人は髪を後ろで一つに束ねた大人しそうな子で、もう一人は、さっきから同じ張り紙を見上げて、にやにやと口元を緩めていた子だった。
「……南雲さん、また一緒だね」
にやにやしていた方が、照れ隠しみたいに口を尖らせて言った。
「え、二人もいんの!? やば、今年のクラス最強じゃん!」
「吉野さん、昨日の夜からずっと言ってたもんね。また同じクラスがいいって」
大人しそうな方が、くすりと笑う。
「辻ちゃん、それ言わないでって言ったじゃん!」
吉野と呼ばれた子が、慌てて辻と呼ばれた子の口を塞ごうとする。それから南雲の方に向き直って、急に小さな声になった。
「……あとさ。去年のヤクザの件、ごめんね。最初ちょっと信じてた」
「まだ言う!? それもう一年前じゃん!!」
南雲は大げさに頭を抱えて、それから二人の頭をまとめてわしゃわしゃと撫でた。
「今年もよろ〜! 席近かったら教科書見せてね!」
「南雲さん、また寝る気でしょ」
辻と呼ばれた子が、髪を撫でられたまま嬉しそうに目を細めた。
人垣の端に、天之河が立っていた。
周りの何人かに肩を叩かれ、笑顔で応えている。「天之河と同じクラスとか当たりじゃん」という声に、「よろしくな」と爽やかに返している。噂に聞いていた通りの、非の打ち所のない顔だった。
ただ、張り紙を見上げる時間だけが、少し長かった。
自分の名前から、少し離れたあたり。
「あ、光輝クン〜! 同クラじゃん、よろ〜」
南雲が通りすがりに、天之河の肩をぽんぽんと叩いていく。
「……ああ。よろしく、南雲さん」
返事が、半拍遅れた。周りにはすらすらと返していた「よろしく」が、その時だけ、一度喉に引っかかってから出てきたように聞こえた。
南雲の背中が人垣に消えてから、天之河の手が、叩かれた自分の肩にそっと触れる。
それが何なのか、俺には分からなかった。
人垣の反対側では、ギャルっぽい女子が三人、固まって張り紙を見ていた。そのうちの一人が、白崎さんたちと騒いでいる南雲の方を見て、すぐに目を逸らす。
それも、何なのか分からなかった。
「なあ」
村瀬が俺の袖を引いた。
「南雲って、近くで見ると普通に顔良くね?」
俺は答えなかった。
答えなかったのは、たぶん、同じことを考えていたからだ。
◇
隣のクラスは、毎日うるさかった。
壁一枚挟んでいるだけなのに、休み時間のたびに笑い声が筒抜けになる。一番よく聞こえるのは南雲の声で、その次が、たぶん清水という男子のツッコミだった。
「お前それ何回目だよ!」
「三回目〜」
「数えてんじゃねぇよ!」
どっと笑いが起きる。
昼休みになると、それがもっとひどくなった。
廊下を通るたびに、ついあの教室の中を覗いてしまう。窓際に机をいくつかくっつけて、いつも同じ顔ぶれが集まっていた。南雲、清水、遠藤。白崎さんと八重樫さん。小柄でよく笑う女子と、眼鏡の大人しそうな女子。
その輪の中心で、南雲が笑っている。
「愛ちゃん先生だ」
ある日の昼休み、隣の教室からそんな声が聞こえてきた。
扉の窓から覗くと、小柄な先生がプリントの束を抱えて、教壇の前で頬を膨らませていた。
「もう、先生をちゃん付けで呼ばないの!」
「えー、だって愛ちゃん先生は愛ちゃん先生じゃん」
「南雲さん!」
「はーい」
南雲の気の抜けた返事に、教室中がまた沸く。先生の抗議の声は、その笑い声の中にあっけなく埋もれていった。
担任になって一週間で、もうあだ名が定着しているらしい。去年の社会の授業では、誰もそんな呼び方はしていなかったはずだ。
◇
「なんで清水なんだよ」
昼休み、自分の教室で、村瀬が焼きそばパンを齧りながら言った。
壁の向こうから、また南雲の笑い声が聞こえてくる。
「あいつ、どう見ても陰キャじゃん。いっつも死んだ顔してるし」
「中学から一緒なんだって」
前の席の田代が、牛乳のパックを潰しながら答えた。田代は一年の時、南雲や清水と同じクラスだったらしい。
「中学からって……幼馴染みたいなもんか」
「いや、舎弟だって本人が言ってた」
「舎弟?」
「南雲がそう呼んでる。清水は毎回キレてるけど」
「いや、それもう実質付き合ってんだろ」
「それな」
田代が、急に真顔になった。
「一年の時、それ清水に直接聞いた奴がいたんだよ」
「マジで? で?」
「肩、両手でガッて掴まれて。『二度とそんなこと口走るんじゃねぇ。マジで殺すぞ』って」
村瀬が、ひゅう、と口笛を吹いた。
「こえー。照れ隠しかよ」
「それがさ、違ぇんだよ」
田代は、潰しかけの牛乳パックを握ったまま言った。
「脅してる清水の方が、真っ青なんだよ。額に汗かいてて、言い終わってからもずーっと廊下の方気にしてて。キョロキョロ、キョロキョロ。……なんか、俺じゃなくて、別の何かにビビってる感じだった」
「何にだよ」
「知らねぇよ。でもあの時、隣のクラスの方見てた気がする」
隣のクラス。
一年の時、清水たちの隣のクラスにいたのは、天之河と、白崎さんと、八重樫さんだ。
張り紙の前の、地の底から湧いたような「……おわった」を、俺はなんとなく思い出した。
「……で、聞いた奴って誰だよ」
村瀬が聞くと、田代は牛乳パックを机の上に置いた。
「……俺」
「お前かよ」
「その日のうちに、付き合ってるって噂は消えた。誰も二度と言わなかった」
村瀬はしばらく黙っていたが、やがて、パンを持つ手を止めた。
「……舎弟でいいから代わってくんねぇかな」
「お前、本気で言ってる?」
「本気だよ。だってあれだぞ。毎日あの距離で喋って、昼飯一緒に食って、ツッコミ入れて、肩小突かれて」
壁の向こうで、「清水ぁ、それ一口ちょうだい」という声がした。「やらねぇよ」「ケチ!」。
村瀬が天井を仰いだ。
「……いいなぁ」
「遠藤もずるくね?」
田代が言った。
「あいつ、しょっちゅう南雲にパシられてんだよ。メロンパン買ってこいとか」
「パシリじゃん。何がずるいんだよ」
「……俺、一年の時あいつに一回名乗られたのに、三学期までまた忘れてたんだぞ。体育祭なんか、障害物競走のゴール係まであいつのこと見失ってたし。南雲だけなんだよ。入学式の日から、あいつの名前、普通に呼んでたの」
田代は、潰した牛乳パックを机の上で転がした。
「俺もちょっと、影薄くなりてぇわ」
「無理だろ。お前、声でかいし」
「うるせぇ」
二人が笑う。
俺はそれを聞きながら、自分の足元を見ていた。
◇
南雲に話しかけられたのは、一度だけだ。
四月の半ば、朝の昇降口だった。下駄箱の前で上履きに履き替えていると、頭の上から声が降ってきた。
「え、待って。それAJ1じゃん」
顔を上げると、南雲が立っていた。
俺の足元を見ている。正確には、俺が脱いだばかりのスニーカーを。
エアジョーダン1。白地に、赤と黒の切り返しが入ったハイカット。
中学の頃からずっと欲しかった。発売のたびに抽選に申し込んで、外れて、また申し込んで、春休みにようやく当たった。お年玉と小遣いを全部かき集めても、少し足りなかった。足りない分は、親に頭を下げて前借りした。
学校に履いてくるか、三日迷った。誰にも何も言われなかったし、言われるとも思っていなかった。
南雲が、俺の横にしゃがみ込んでいた。
「ハイじゃん。え、これ抽選当たったの? ガチ勢じゃん」
「……あ、うん。何回も外れて」
「わかるー! あーしも何回も落ちてんの! ほんと当たんないよね、あれ」
南雲は、俺の手からスニーカーを取り上げそうな勢いで顔を近づけた。踵のあたりを覗き込み、つま先の革を見て、満足そうに頷く。
「しかもちゃんと履いてんの、えらい。こういうのって飾っとくより、履いてシワ入ってからの方が絶対いいし」
「……え、あ、どうも」
「でも手入れはしなよ? 白いとこ、汚れたら一瞬で目立つから」
それだけ言って、南雲はもう廊下の方へ歩き出していた。
「香織〜! おはよー!」
金色の髪が、角を曲がって消える。
俺は、手に持ったスニーカーを見下ろした。
あの人は、たぶん俺の名前を知らない。隣のクラスの、どこにでもいる男子の一人だ。明日になれば、今朝のことも忘れているだろう。
それでも、その日の帰り道、俺は家の近くのドラッグストアで靴用のクリーナーを買った。
村瀬には言っていない。
言ったら、たぶん殴られる。
◇
遠藤とぶつかったのは、四月の終わりの放課後だった。
一階の自販機の前で、何を買うか迷っていた。財布から小銭を出しながら一歩横にずれたところで、肩に何かが当たった。
ばしゃ、と音がした。
足元に、茶色い水たまりが広がっていく。缶が一本、床の上を転がっていった。
「うわ、ごめ――」
振り返って、俺は固まった。
男子が一人、空っぽの右手を宙に浮かせたまま立っていた。制服の袖口から、ぽたぽたと雫が落ちている。
遠藤だった。
いつからそこにいたのか、まるで分からない。自販機の前には誰もいないと思っていた。というか、さっきまで確かに誰もいなかったはずだ。
「……いや、いいよ」
遠藤は濡れた袖口を見下ろして、静かに溜め息をついた。
「慣れてるし」
その言い方が、あまりにも慣れていた。
「いや、よくないって。買い直すから。何だった?」
「……コーヒー。微糖の」
俺は小銭を自販機に入れて、同じ缶のボタンを押した。ごとん、と落ちてきた缶を取り出して手渡すと、遠藤は少しだけ目を丸くした。
「……悪いな」
「ぶつかったの俺だし」
二人で、ポケットティッシュを使い切って床を拭いた。拭き終わっても、遠藤はすぐには帰らない。自販機の横の壁にもたれて、買い直した缶のプルタブを開けている。
なんとなく、俺もその場を離れられなかった。
聞いてみたいことが、あった。
「……なあ。遠藤ってさ、南雲と仲いいよな」
「仲いいっていうか、巻き込まれてるっていうか」
「南雲って、どんな奴なの」
遠藤は、缶を口に運びかけた手を止めた。
「……どんなって」
「いや、なんか、噂ばっか聞くからさ。ヤクザの娘とか」
「ああ、あれ違うぞ。親父さんの会社の人たち」
「……会社の人が、お嬢って呼ぶのか?」
「呼ぶんだよ。俺も最初意味分かんなかった」
一度喋り出すと、俺の口は止まらなくなった。
授業中は本当に寝てるのか。寝てる。三時間目あたりから首が落ちる。隣の清水が起こす。
勉強はできるのか。できない。赤点ぎりぎり。でも欠席と遅刻は一回もない。
何が好きなのか。服。作るのも見るのも。あと可愛いものとイケメン。清水が言うには面食いらしい。
彼氏はいるのか。
そこで遠藤が、缶を持ったまま俺の顔をじっと見た。
「……お前、根掘り葉掘り聞くな」
「いや、別に、そういうんじゃなくて」
「そういうんじゃない奴は、そこまで聞かねぇんだよ」
返す言葉がなかった。
遠藤は呆れたように息を吐いて、それでも、ちゃんと答えてくれた。
「いねぇよ。少なくとも、俺が知ってる限りは」
「……そっか」
ほっとしたのが、たぶん顔に出ていた。遠藤がまた、何とも言えない目で俺を見る。
誤魔化そうとして、余計なことを口走った。
「じゃあさ、遠藤は?」
「は?」
「もし、南雲と付き合うってなったら。どうする?」
遠藤の動きが止まった。
缶を口元に当てたまま、眉間に皺が寄っていく。視線が宙をさまよい、何かを思い浮かべるように、ゆっくりと遠くへ向いていく。
その顔が、だんだん難しくなっていった。
難しくなって、それから、青くなっていった。
「…………」
「遠藤?」
「……やべぇ」
遠藤は、空いている方の手でそっと自分の腹を押さえた。
「想像したら、腹痛くなってきた」
「え」
「……悪い。帰るわ。コーヒーありがとな」
壁から背中を離して、遠藤はふらふらと廊下を歩き出した。片手に缶、片手で腹を押さえて、前屈みになったまま。
途中で一度、何かを確かめるように廊下の向こうを振り返る。それからまた、腹を押さえて歩いていった。
その背中が角を曲がると、もう、どこにいるのか分からなくなった。
俺は自販機の前に一人で残されて、しばらく立ち尽くしていた。
付き合うことを想像して、腹が痛くなる。
それが何なのか、俺にはやっぱり分からなかった。
◇
南雲は、白崎さんや八重樫さんみたいに、誰にでも好かれるタイプじゃない。
声はでかいし、派手だし、授業中は寝てるし、ヤクザの娘だなんて噂まである。廊下ですれ違うだけで、道を空ける奴もいる。
それでも、気にしている奴は意外といる。村瀬だけじゃない。田代に言わせれば、三年にもちらほらいるらしい。
ただ、誰も声をかけない。
本人がああだから、どこから話しかければいいのか分からない。隣にはいつも清水と遠藤がいるし、教室の後ろには、永山と野村が壁みたいに座っている。
そのうえ南雲の周りには、白崎さんと八重樫さん、小柄でよく笑う女子と眼鏡の女子が、いつも固まっている。あの輪の真ん中にいる一人に、外から声をかけられる奴はそういない。
二大女神と呼ばれて、上級生が列を作っていたらしい二人が、今はその輪の一部になっていた。
だから、あの日のことは、ちょっとした事件だった。
五月の連休明けの昼休み。廊下を歩いていると、隣の教室の前に、見慣れない男子が立っていた。
ネクタイの色で、三年だと分かった。背が高い。髪は短く整えていて、横顔だけでも顔がいいのがはっきり分かる。バスケ部の誰かだと、前に誰かが言っていた気がする。
その先輩は、一度深く息を吸ってから、教室の扉を開けた。
「あの……南雲さん、いる?」
教室の中が、しんとなった。
窓際の島で、金色の頭が振り向く。
「ん? あーし?」
南雲は箸を持ったまま立ち上がり、扉の方へやってきた。口の端に、ご飯粒が一つ付いている。先輩の顔を見上げて、ぴたりと止まる。
「……え、待って。顔良っ」
聞こえるか聞こえないかくらいの声だった。たぶん本人は、心の中で言ったつもりなんだと思う。
先輩の耳が、少し赤くなった。
「えっと……その、急にごめん。前から、ちょっと話してみたいと思ってて。よかったら、今日の放課後、駅前のカフェとか……」
「行く行くー!」
即答だった。
南雲は箸を握ったまま、目をきらきらさせている。
「え、どこのカフェ? 駅前の新しいとこ? あそこのパンケーキ、ずっと気になってたんだよね!」
先輩が、ほっとしたように笑いかけた。
その時だった。
「ハジメちゃん」
南雲のすぐ隣に、白崎さんが立っていた。
いつからそこにいたのか、分からなかった。さっきまで、窓際の島にいたはずだ。
白崎さんは、にこにこと笑っていた。笑ったまま、南雲のブレザーの袖をそっと摘まんでいる。
「今日の放課後は、私と雫ちゃんとお買い物の約束だよね?」
「え、そうだっけ?」
「そうだよ?」
声は柔らかかった。顔も、笑っていた。
目だけが、笑っていなかった。
白崎さんはそのままの目で、ゆっくりと先輩の方を向いた。
「先輩。ハジメちゃんに、何のご用でしたか?」
廊下の温度が、一度下がった気がした。
先輩の顔から、さっきまでの赤みがすっと引いていく。口を開きかけて、閉じて、もう一度開いた。
「あ、いや……その……また、今度で……」
「えー、今度っていつ?」
南雲が首を傾げて、一歩前に出ようとする。
その襟首を、後ろから伸びてきた手が掴んだ。
八重樫さんだった。
「……ハジメ、ステイ」
深い溜め息と一緒に、南雲の身体がずるずると教室の中へ引き戻されていく。
「ちょ、雫!? まだ話の途中なんだけど!?」
「途中でいいの」
「なんで!? イケメンだったのに!」
南雲の抗議が、教室の奥へ遠ざかっていく。白崎さんは最後にもう一度だけ先輩ににっこりと笑いかけると、静かに扉を閉めた。
ぱたん、と音がした。
先輩は、閉じた扉の前でしばらく立ち尽くしていた。それから、来た時よりずっと小さく見える背中で、三年の階へ戻っていった。
扉の窓から、教室の中が見える。
窓際の島で、清水が無言で天井を仰いでいた。その隣で、遠藤が腹を押さえている。教室の後ろでは、永山が黙って弁当を食べ続けていて、野村が気まずそうに目を逸らしていた。
白崎さんはもういつもの顔に戻って、何事もなかったように南雲の隣に座っている。
「……ああ」
声が出た。
清水が何にビビっていたのか。遠藤が、どうして腹を押さえたのか。
そういうことか、と思った。
三年の先輩でさえ、ああなのだ。
俺はそっと扉の前を離れて、自分の教室に戻った。
◇
それから少し経った、何でもない日の昼休みだった。
購買でパンを買って、自分の教室に戻る途中だった。隣の教室の前を通りかかると、いつものように笑い声が漏れている。
扉の窓から、ちらりと中が見えた。
窓際の輪の真ん中に、黒い漆塗りの箱が広げられていた。重箱というやつだ。それも三段。普通のスクールバッグに入る大きさじゃない。白崎さんがにこにこと笑っていて、南雲がその中身を頬張っていた。
なんだあれ、と思った。
後ろから、ガタイのいい男子が「あー、腹減ったー!」と言いながら追い越していった。そのすぐ後ろを、小柄な影がプリントの束を抱えて小走りについていく。
畑山先生だった。
二人が教室に入っていく。扉が閉まる。
「はーい、みんな席についてくださーい!」
「愛ちゃん先生だ」「先生、まだ昼休みだよー?」
「もう、先生をちゃん付けで呼ばないの! 午後の授業の連絡が――」
いつも通りだ、と思った。
俺は、そのまま扉の前を通り過ぎようとした。
足元が、白く光った。
最初は、窓から差し込む日差しが廊下の床に反射したのかと思った。違った。光は、隣の教室から漏れていた。床とのわずかな隙間から、扉の窓から、廊下側の小窓から。白い線になって、廊下の床に、反対側の壁に、這い出してくる。
教室の中から、悲鳴が上がった。
「な、なんだこれ……っ!?」
「香織、離れないで……!」
光が、強くなる。
扉の窓が、真っ白に塗り潰された。中がまるで見えない。俺の影が、廊下の反対側の壁に黒く長く焼き付いていた。
その白の向こうから、場違いなほど明るい声が聞こえた。
「待って……!? この床の模様、デザインめちゃくちゃ細かくない!? え、何これ、すっごい綺麗! 写真! 写真撮りたいんだけど携帯どこ!?」
「南雲、お前この状況で何言ってんだよ!?」
「写真撮ってる場合かアホギャル!! いいから早く逃げろっつの!!!」
光が、弾けた。
目を閉じた。瞼の裏まで、真っ白だった。
そして。
音が、消えた。
◇
目を開けた時、廊下はいつもの明るさに戻っていた。
壁に焼き付いていたはずの影は、どこにもない。俺の手から落ちたパンの袋が、足元に転がっていた。
隣の教室は、静かだった。
さっきまで、あんなにうるさかったのに。
扉の向こうから、何も聞こえない。笑い声も、ツッコミも、先生の抗議の声も。椅子を引く音すらしない。
廊下の向こうから、何人かが「今の何?」「光ったよな?」と顔を出し始めていた。
俺は、扉に手をかけた。
開けた。
誰も、いなかった。
窓から春の光が差し込んで、机の列を照らしている。椅子が何脚か、変な角度で引かれたままになっていた。教壇の前にプリントが散らばっている。最後の一枚が、まだゆっくりと床の上を滑っていた。
窓際の机の上に、さっきの重箱が広げられたままだった。
卵焼きが、一切れだけ残っている。箸が、重箱の縁に揃えて置いてある。隣の机には、飲みかけのコーラの缶が汗をかいて立っていた。その横に、細かく削られたスクリーントーンの切れ端と、刃の出たままのカッター。
カーテンが、少しだけ揺れていた。
窓は、閉まっていた。
◇
それから先のことは、あまりよく覚えていない。
先生たちが駆けつけてきて、俺たちは自分の教室に押し込まれた。午後の授業はなくなった。放課後になっても、誰も帰らせてもらえない。
警察が来た。
夕方には、校門の前にテレビ局の車が何台も並んでいた。
その夜のニュースで、うちの高校の名前が流れた。
二年生の一クラス、生徒と担任教師の全員が、昼休みの教室から忽然と姿を消した。目撃者の証言によれば、教室が強い光に包まれた直後のことだという。
目撃者というのは、たぶん俺のことだ。
翌日から、ワイドショーがその言葉を使い始めた。
集団神隠し。
テロだとか、カルトだとか、集団家出だとか、ありとあらゆる説が出ては消えた。ネットの掲示板には、もっとろくでもない書き込みが溢れている。どれも、本当のことは一つも書いていなかった。
隣の教室には、黄色いテープが張られた。
廊下を通るたびに、テープの向こうを覗いてしまう。窓際の机の上は、もう片付けられていた。重箱も、コーラの缶も、カッターもない。並んでいるのは、誰も座っていない机と椅子だけだ。
休み時間になっても、壁の向こうから何も聞こえない。
それがこんなにうるさいものだとは、知らなかった。
村瀬は、あれから一度も「なんで清水なんだよ」と言わなくなった。田代は、空っぽの教室の前を通るたびに、ほんの一瞬だけ足を止める。
朝、校門の前を通るたびに、なんとなく耳を澄ませてしまう。
寝坊した日の南雲を、バイクで送ってくる黒いスーツの人たちがいたらしい。爆音を上げて校門に横付けして、全員で頭を下げて、「いってらっしゃいませ、お嬢」と叫ぶのだと、田代が言っていた。
いつも早めに着いてしまう俺は、それを一度も見たことがない。
一度くらい、見てみたかった。
もう、聞こえない。
◇
下駄箱の前で、上履きに履き替える。
白地に、赤と黒の切り返しが入ったハイカット。何度も抽選に外れて、春休みにようやく当たったやつだ。
つま先には、履きジワが少しだけ入り始めている。白いところは、まだ白い。
毎晩、靴用のクリーナーで拭いている。
あの人は、たぶん俺のことなんか覚えていない。隣のクラスの、どこにでもいる男子の一人だ。
それでも。
隣の教室の扉が、いつかまた騒がしく開いた時に、この靴が汚れていたら、また何か言われそうな気がした。
俺はスニーカーを下駄箱にしまって、静かな廊下を歩き出した。