ありふれたギャルは世界最狂【第一章完結】 作:バグッた左スティック
名前を呼ばれて、返事をする。
それだけのことが、遠藤浩介にとっては昔から少しだけ難しかった。
声が小さいわけではない。手を挙げるのが遅いわけでもない。ただ、呼ぶ側の目がいつも自分の席を素通りしていく。教卓から見て廊下側の一番後ろ。今日から一年間座ることになる机は、窓からの春の光がちょうど届かない位置にあった。
「遠藤くん。……遠藤浩介くん」
挙げかけた手が、中途半端な高さで止まる。
担任の視線が教室をひと巡りして、自分の上を一度も止まらずに通り過ぎていった。小学校でも、中学校でも、何度も見てきた景色だ。
(……まあ、こうなるよな)
腹は立たない。立てるのは、とうにやめていた。数秒後には欠席扱いになり、名簿に印が付き、休み時間にでも職員室へ訂正しに行く。それで終わる。三年間の始まりとしては、いつも通りの始まり方だった。
「遠藤くんは、欠席かな」
ペン先が、名簿へ下りていく。
「いるじゃん、そこ」
教室の真ん中から、声がした。
椅子の脚が床を擦る音。振り返った金色の髪が、窓の光を跳ね返している。入学式の朝から机の上に腰掛けて、片足をぶらぶらさせていたギャルだ。その指先が、真っ直ぐにこちらを差していた。
迷いのない指だった。探した素振りすらない。最初からそこにいるのを知っていたみたいに。
「……あ、すみません。います」
自分の声が、少し上擦った。
担任が慌てて印を消す。教室の何人かが、今初めて気づいたような顔で後ろを振り返る。いくつもの視線が刺さって、遠藤は思わず身を縮めた。慣れていない種類の痛さだった。
ギャルはもう前に向き直っていた。今の一言が何でもないことだったように頬杖をついている。
南雲ハジメ。さっきの出席でそう呼ばれていた名前だ。
遠藤は挙げかけたままの手をゆっくりと下ろし、その後ろ姿からしばらく目を離せずにいた。
◇
それが、受難の始まりだった。
「遠藤ーっ!」
翌日も、その翌日も、ハジメは遠藤を呼んだ。
教室の端から端まで届く声で。廊下の向こうから。朝の昇降口の人混みの中から。そのたびに周りの生徒が一斉に振り返り、「誰?」という顔で声の行き先を探す。いくつもの視線が遠藤の顔の上を三往復くらいして、ようやく焦点が合う。
「購買行くんなら、パン買ってきてくんない? メロンパンね!」
「自分で行けよ」
「あーし今忙しいんよ!」
ハジメは机の上に布切れを広げて、何かを縫っていた。
「……それ、さっきの授業中もやってたよな」
「え、バレてたん?」
「隣の清水がずっと手刀構えてたぞ」
握らされた小銭は、ちょうどメロンパン一個分だった。
廊下を歩きながら、遠藤は深く溜め息をついた。
影が薄いことには、生まれてこの方ずっと悩んできた。悩みすぎて、悩むのにも飽きていたくらいだ。いっそ誰にも気づかれないまま三年間をやり過ごせれば楽だろうと、半分本気で思ってもいた。
それが、どうだ。
気づかれた途端に、これである。名前は大声で呼ばれる。パシられる。購買の列で売り子のおばちゃんに三回スルーされて戻れば、「おっそ!」と文句を言われる。
(……ここまで振り回されるのは、聞いてねぇぞ)
◇
四月の半ばの昼休みに、ハジメは教室の後ろの二人にあだ名を付けた。
永おじ。ノムケン。
一際大きな体の永山重吾は、数秒の沈黙のあとに「……好きにしろ」と頷いた。その隣の野村健太郎は、最後まで困り果てた顔をしていた。ハジメはついでのように窓際の女子にも「ぱっつん」と名付け、満足げに自分の席へ帰っていった。
教室中が呆気に取られる中、遠藤だけは少し違う顔で見ていた。
(……あれ、俺だけじゃねぇんだな)
昼休みが終わりかけた頃、遠藤は意を決して教室の後ろへ向かった。
永山と野村が、並んで弁当箱を片付けている。
「……あの」
返事はない。
野村は弁当箱に輪ゴムを掛け、永山は水筒の蓋を閉めている。
「……あの。ちょっと」
「うわっ!?」
野村が椅子ごと跳ねた。
「い、いつからいた!?」
「最初から。……なんなら、お前らが弁当食い始める前から、ずっと斜め後ろにいた」
「嘘だろ……」
永山がゆっくりと顔を上げる。驚いた様子はなかった。ただじっと、遠藤の顔を見ている。
「……遠藤、だったか」
「ああ。……出席の時の」
「覚えてる」
それだけ言って、永山は水筒を鞄に仕舞った。
たった四文字の返事が、妙に耳に残った。
「その……さっきの。大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
野村が即答した。
「ノムケンだぞ、ノムケン。初めて喋った相手に。なんなんだよ、あの人」
「俺なんか毎日呼ばれてる。廊下の端から」
「……毎日?」
「毎日。で、パシられてる」
野村が絶句した。永山の眉がほんのわずかに動く。
「……永おじは、まあ、いい」
「いいのかよ」
「親戚のおじさんに似ていると言われたのは、初めてじゃない」
「初めてじゃねぇのかよ」
遠藤と野村の声が揃った。
一拍置いて、三人同時に吹き出していた。
◇
それから、移動教室の道すがらや放課後の渡り廊下で、三人で集まってハジメへの愚痴をこぼすのが習慣になった。
名前を付けたのは野村だった。南雲被害者の会。会長は不在、会則もなし。活動内容は、愚痴。
四人目は、いつの間にか増えていた。
「……おい」
渡り廊下の自販機の前で、缶コーヒーを片手にした清水幸利が、死んだ目で三人を見下ろしていた。
「なんで俺まで頭数に入ってんだよ」
「お前、中学から被害受けてんだろ。最古参じゃん」
「だから嫌なんだよ。認めたら負けな気がすんだよ……」
ぶつぶつ言いながら、清水は自販機の横の壁にもたれた。もたれたまま、帰ろうとはしない。
「……で。今日は何やられたんだよ」
その日から、遠藤は清水と並んで歩くことが増えた。
好きなラノベの話をすれば、清水は三倍の熱量で返してくる。ハジメに振り回された話をすれば、清水は中学時代の、もっとひどい話で上書きしてくる。張り合うつもりはないのに、気づけばどちらの被害が上かで言い合っていた。
「お前のは、まだかわいいもんだろ」
「パシリにかわいいもクソもあるかよ」
「俺は中学の三年間、舎弟扱いだったんだぞ」
「……それは、ちょっと勝てねぇな」
清水が勝ち誇ったように鼻を鳴らした。勝ち誇るところではないと、たぶん本人も分かっていた。
◇
九月。
体育祭の種目決めのロングホームルームは、始まる前から空気が重かった。
「どうせ天之河のとこが勝つだろ」
誰かがぼそりと言った。
隣のクラスには、天之河光輝がいる。成績は学年の上の方、中学では剣道で鳴らしたという。おまけに運動部の主力がやけに揃っていた。
黒板に書かれた種目の横は、いつまで経っても白いままだ。押し付け合いの気配だけが、教室の中を薄く漂っていた。
遠藤は、一番後ろの席からそれを眺めていた。
教室の誰も、こちらを見ない。こういう時、遠藤の席はいつも都合よく空気の外にあった。手を挙げなければ、名前を書かれることもない。
「――は?」
窓際から、声がした。
ハジメが椅子の上に片膝を立てて、教室中を見回していた。
「てかさ、まだ何もやってないのに負けた顔すんの、もったいなすぎん?」
誰も答えない。
「高一の体育祭とか一回しかないんだが? どうせ負けるんなら、全力で負けた方がぜったい楽しいって。あーしは香織と雫のクラスに勝つ気でいくんで」
言うだけ言って、ハジメは黒板の前まで歩いていった。チョークを取り、リレーの欄の横に、自分の名前を書く。
それから、振り返った。
教室は静まり返っている。乗るか乗らないか、誰もが互いの顔色を窺う中、がたんと椅子が鳴った。
立ち上がったのは、永山だった。
大きな体が、のそりと教室の後ろから前へ歩いていく。黙ってチョークを受け取り、綱引きの欄に「永山」と書いた。
「……やるか」
それだけだった。
教室の空気が、目に見えて揺れた。
「わ、私も……」
小さな声が続いた。窓際の、ハジメの斜め前の席の子だ。普段は授業で当てられても、聞き取れないくらいの声でしか答えない。六月の合同体育で、あの天之河に向かって声を荒げた子だった。
その子が黒板の前に立つと、あとは早かった。一人、二人と腰が上がり、白かった欄がみるみる名前で埋まっていく。
窓際の前の方の席で、吉野がぽかんと口を開けていた。
「……南雲さんって、ああいうこと言う人なんだ」
「ね」
隣の辻が、小さく頷く。
二人の声は、一番後ろの席までちゃんと届いていた。誰も、そこに人がいるとは思っていないからだ。
黒板の前では、ハジメが残りの欄を確かめながら、チョークで名前を書き足していた。
迷う素振りもなく、さらさらと。
障害物競走の欄に、「遠藤」とあった。
本人の確認は取っていない。けれど他の誰の名前よりも、その字は大きかった。
◇
体育祭の当日、ハジメはリレーのアンカーを走った。
バトンを受け取った瞬間の姿勢が、やけに綺麗だった。地面を蹴る足の置き方に、一切の無駄がない。前を走る隣のクラスの背中が、見る間に近づいていく。
「南雲さーんっ! いけーっ!!」
クラスのテントで一番大きな声を張り上げていたのは、吉野だった。
隣のクラスのテントからも、聞き覚えのある声が飛んでいた。
「ハジメちゃーん! 頑張ってーっ!!」
「なんで敵の応援してるのよ!? 香織、あなたはこっちのクラスでしょ!!」
「だってハジメちゃんが走ってるんだよ!?」
遠藤は、クラスのテントの一番端で、膝を抱えてそれを見ていた。
障害物競走では、網をくぐっている間にゴール係に見失われ、危うく失格になりかけた。抗議しても気づいてもらえず、最終的には遠くから飛んできたハジメの「いるじゃん、そこ!」で記録が付いた。
(……結局、これかよ)
ぼやいた口の端が、自分でも分からないうちに緩んでいた。
◇
十月。
文化祭の出し物決めで、ハジメが手を挙げた。
その瞬間、教室の空気が一斉に、ある色に染まった。
――またか。
「メイド喫茶やろ! 衣装はあーしが全部作るんで!」
誰かが机に突っ伏した。誰かが天井を仰いだ。誰かが、深々と溜め息をついた。
「……しょうがねぇなあ」
そう言ったのが誰だったのかは、もう分からない。分からないくらい、あちこちから同じ声が上がっていた。
体育祭の時のように、黙り込む者はいなかった。
それから一ヶ月の騒ぎを、遠藤は後になっても順番通りに思い出せない。
放課後の被服室で、ハジメはひたすらミシンを回していた。型紙を引き、布を裁ち、縫い、また次の布を手に取る。迷いがない。針が布を噛む音が、一定のリズムで途切れずに続いていく。
気づけば、手の空いたクラスの半分くらいが被服室の入り口に集まっていた。
誰も喋らない。ただ、ハジメの手元を見ている。
「……ボタンの時も思ったけど」
吉野がぽつりと呟いた。
「南雲さんの手って、なんでああなの」
答えられる者はいなかった。
被服室の扉の小窓に、別の顔が張り付いていた。
隣のクラスの白崎香織だった。ハンカチの端を、ぎりぎりと噛んでいる。
「ハジメちゃんの手作りのお洋服……よそのクラスの子が着るのに……私は着られないのに……っ」
「違うクラスなんだから、仕方ないでしょ」
隣で八重樫雫が、心底疲れた顔で香織の肩を叩いていた。
その扉のすぐ横の壁際で、遠藤と清水は並んで固まっていた。両腕に抱えた布の束を被服室に運び込みに来たところで、二人とも一歩も動けなくなっている。
ハンカチを噛む音が、ぎり、ぎり、と廊下に響いていた。
「……こえーよ」
清水が、唇をほとんど動かさずに言った。
「こえーな」
遠藤も、同じくらい小さな声で返した。
夏休みの少し前から、遠藤は昼休みを窓際の島で過ごすようになっていた。ハジメと清水の机をくっつけた島に、隣のクラスから香織と雫がやって来る。そのうち谷口鈴と中村恵里も加わって、窓際はいつも騒がしくなった。
最初は、場違いだと思っていた。
女子が四人とギャルが一人、それに清水。自分がそこに座っている理由が、遠藤にはよく分からなかった。
けれど、誰もそれを不思議がらなかった。焼きそばパンの袋を開ければ、鈴が「遠藤くん、またそれ?」と覗き込んでくる。黙ってパンを齧っていても、話の流れでいつの間にか名前が出てくる。ハジメに振り回された愚痴をこぼせば、雫が溜め息まじりに頷いてくれる。
香織の目から光が消える瞬間にも、すっかり慣れてしまった。慣れたくはなかった。
島の椅子が一つ増えたことを、誰も数え直したりはしなかった。最初からそこにあったみたいに。
小窓の向こうで、香織がゆっくりとこちらを向いた。ハンカチを咥えたまま、目だけが笑っていない。
目が合った。
二人は同時に、すっと視線を天井へ逸らした。何も見ていない顔で布の束を抱え直し、そそくさと被服室の中へ逃げ込む。背後で、雫の深い溜め息が聞こえた。
ハジメが暴走を始めたのは、その翌週からだった。
まず、看板にダメが出た。
「この看板のフォント、ダサすぎん?」
ほぼ完成していた看板が、一から描き直しになった。ついでに内装の配色にも口が出て、クラス全体の作業が丸一日止まった。
「おい、誰か止めろ」
「誰が止められんだよ」
清水と遠藤の会話は、そこで終わった。
次に、生地が足りなくなった。
フリルを増やし、裏地を付け、袖口にレースを足した。完成度が上がるたびに、予算と時間が削れていった。気づけばメイド服は、文化祭で着るにはあまりにも本格的な何かになりかけていた。
「被害者の会の皆さーん、出番でーす!」
なぜ知っているのかを聞く暇もなく、四人は雨の中、駅前の手芸店まで走らされた。
残りの裾上げは、持ち帰り作業になった。
夜中の一時。遠藤は自室の机でフリルと格闘しながら、三回目に指を針で刺したところで天井を仰いだ。
(……俺、なんでメイド服の裾縫ってんだ)
答えは出なかった。手は、止めなかった。
そして最後に、とどめが来た。
「てかさ、男子もやるっしょ」
ハジメがメジャーを片手に、四人の前に立った。
「なんで俺らなんだよ」
「だってアンタら、なんか仲良くない? 暇そうだし」
「暇じゃねぇよ! 誰のせいで夜中まで裾縫ってると思って――」
清水の抗議を無視して、ハジメは永山の胴回りにメジャーを回した。永山は腕を少し上げて、されるがままになっている。
「……永山、いいのかよ」
「好きにしろ」
「お前それ、なんでも言えば済むと思ってんだろ」
◇
文化祭の当日、遠藤は腹を括った。
フリルの付いた黒のワンピース。白いエプロン。頭にはカチューシャ。鏡に映った自分の姿から三秒で目を逸らし、それでも教室の真ん中に立った。
逃げも隠れもしない。どうせ着たのだ。笑われるなら、堂々と笑われてやる。
誰も、笑わなかった。
誰も、気づかなかった。
「すみませーん、注文いいですかー」
客が手を挙げる。遠藤がお盆を持って一番近くにいるのに、客の目は遠藤を通り越して、奥にいる女子の方を向いていた。伝票を差し出しても受け取られない。テーブルの横に立ち続けても、会話は途切れない。
開店から閉店まで、一人の客にも認識されなかった。
暗幕の陰に隠れていた清水と野村の方が、まだ見つかっていた。永山に至っては、その堂々とした立ち姿を見た子供の客が三人泣いた。
清水と野村を見つけたのは、よりにもよってハジメだった。
「ちょ、待って待って待って!!」
暗幕の陰から二人を引きずり出すなり、ハジメが腹を抱えて崩れ落ちた。
「アンタら全然似合ってなくて草!! 清水のカチューシャ斜めってんだが!? ノムケンは顔が死んでるし!!」
入り口では、様子を見に来た香織と雫が口元を押さえて肩を震わせていた。雫は顔を背けたまま、耳の先まで赤くなっている。
その足元で、鈴が床を転げ回っていた。
「あははははっ!! 無理! 無理無理! 清水くんのフリル!! お腹痛い!!」
恵里は鈴の横にしゃがみ込み、眼鏡を押さえたまま必死に唇を噛んでいる。
「お前が作って着せたんだろうが!!」
清水と野村の声が、きれいに揃った。
「てか、お前らも何笑ってんだクソが!!」
清水の怒鳴り声に、鈴の笑い声がもう一段大きくなった。
閉店後、メイド服のまま教室の隅でうなだれていると、頭の上から声が降ってきた。
「遠藤ー! 似合いすぎなんだが!」
ハジメだった。何の迷いもなく、遠藤の前に立っている。
「……見えてたのかよ」
「は? ずっとそこいたじゃん」
ハジメは不思議そうに首を傾げてから、片付けの方へ駆けていった。
「え、遠藤くんも着てたの!?」
すぐ近くで、吉野が目を丸くしていた。
「……着てた。最初から」
「嘘、全然気づかなかった……ごめん」
吉野が気まずそうに笑う。
遠藤は、何も言い返さなかった。
気づかれていなかったことより、名前を呼ばれたことの方が、なぜか少しだけ耳に残った。
◇
十二月。
球技大会の朝は、白い息が出るほど冷え込んでいた。
男子のサッカーで、遠藤は前線に立たされた。
「浩介、前な」
「……俺でいいのか」
「いいから行け」
野村が背中を押した。いつからか、呼び方は下の名前になっていた。
試合が始まって、すぐに異変が起きた。
永山が、明後日の方向へボールを蹴った。
相手チームの誰もいない、がら空きの右サイド。グラウンドの脇から失笑が漏れた。
「どこ蹴ってんだよ!」
「誰もいねぇぞ!」
そこに、遠藤がいた。
最初からいた。誰にも見えていなかっただけだ。
ボールが足元に収まる。顔を上げると、ゴールまで遮るものが何もなかった。キーパーは、まだボールの行方を探して首を振っている。
蹴った。
ネットが揺れて、ようやくキーパーが振り返った。
「……は?」
一点目。
二点目は、野村からだった。またしても明後日の方向へのパスに、見物の列がざわつく。三点目の時には、もう誰も笑っていなかった。相手チームの守備が、見えない何かを探して右往左往していた。
ハットトリック。
決勝まで、ほとんど同じ形で勝ち進んだ。気づけば優勝していた。
「……納得いかねぇ」
表彰の列に並びながら、遠藤は低く呟いた。
「何がだよ。ハットトリックだぞ」
「俺は何もしてねぇ。見えてないだけだ」
「見えてないのに入れたんだから、すげぇだろ」
野村が遠藤の肩をばしばし叩いた。
「浩介、お前マジですげぇって!」
隣で、永山が黙って遠藤の頭に大きな手を置いた。二回、ぽんぽんと叩く。
「……よくやった」
「重吾までやめろって……」
グラウンド脇の最前列では、清水が腹を抱えて笑い転げていた。卓球の一回戦で、ろくにラケットも振らずに負けてきた男だ。
「ギャハハハハ! お前、それもう才能だろ!! 影の薄さで点取るやつ初めて見たわ!!」
「笑ってんじゃねぇ!!」
◇
試合が早々に終わったので、四人で隣のグラウンドへ移った。
女子のソフトボールが、決勝戦を迎えていた。相手は一学年上の二年生。
マウンドには、ハジメが立っていた。
肩まで届く金色の髪を、水色のシュシュで一つに結んでいる。投げるたびに、その尻尾が冬の光の中で揺れた。
フェンスの外側に、四人で並ぶ。冷たい金網に指を掛けると、手袋越しにも冷たさが伝わってきた。
試合は、最終回までもつれ込んでいた。
同点の最終回、裏。ツーアウト、ランナー二塁。
ハジメが振りかぶる。
乾いた音がした。
打球が、右中間を抜けていく。二塁ランナーが三塁を蹴った。バックホームの送球が、わずかに逸れる。
ランナーの足が、ホームベースに滑り込んだ。
サヨナラだった。
相手のベンチから歓声が上がる。
マウンドの上で、ハジメがしゃがみ込んだ。グラブで顔を覆ったまま、しばらく動かない。
それから、立ち上がった。
悔しそうに唇を噛んで、それでも真っ直ぐにマウンドを駆け下りる。集まってきたチームメイトの前で、深々と頭を下げた。
「マジでごめん!! あーしが打たれたせいで……!」
一瞬、チームの誰もが固まった。
最初に口を開いたのは、あの大人しい子だった。
「な、南雲さんのせいじゃないよ!」
「そうだよ!」
吉野がハジメの肩を掴んで顔を上げさせた。
「てか、決勝まで来れたの南雲さんのおかげじゃん! ずっと投げてたの南雲さんだし!」
「みんなで負けたんだよ」
辻が柔らかく笑った。
「だから、謝らなくていいよ」
一人、また一人と、チームの皆がハジメの周りに集まっていく。肩を叩く手。背中をさする手。冗談めかして頭を小突く手。
「……みんな、優しすぎん?」
ハジメの声が、少しだけ鼻にかかっていた。
「大丈夫だよ、ハジメちゃん。ハジメちゃんはなんにも悪くないからね」
輪の真ん中で、誰かがハジメの頭を胸に抱え込んで、よしよしと撫でていた。
チームの全員が、その顔を二度見した。
「――なんで白崎さんがここにいるの!?」
吉野の叫びを皮切りに、輪の中がどよめいた。隣のクラスのジャージを着た香織が、何食わぬ顔でハジメを抱きしめている。いつから混ざっていたのか、誰にも分からなかった。
「え? ハジメちゃんが泣いてたから」
「泣いてないんだが!?」
人垣を割って、雫が息を切らしながら飛び込んできた。結い上げた黒髪が、走ってきた勢いのまま大きく揺れている。
「ちょっと香織!! 何やってるのよあなたは!? 次うちのクラスの試合なのよ!? なんでよそのクラスの輪の中にいるの!!」
「待って雫ちゃん、まだハジメちゃんの涙拭いてない――」
「拭かなくていいの!! ほら戻るわよ!! ――ご、ごめんなさいね、みんな! すぐ連れて帰るから!!」
雫は真っ赤な顔でチームの全員に頭を下げながら、香織のジャージの襟首をひっ掴んだ。
香織は、ハジメに向かって両手を伸ばしたまま、ずるずると引きずられていった。運動靴の踵が、グラウンドの土に二本の線を引いていく。
少し離れたベンチの陰で、鈴が腹を抱えて笑い転げていた。
「カオリン、それもう瞬間移動じゃん! あははははっ、お腹痛い!」
その隣で恵里が、困ったように眉を下げながら、それでも口元を押さえて肩を震わせていた。
フェンスの外側から、遠藤はそれを見ていた。
四月のことを思い出していた。
入学したばかりの頃、ハジメの周りにはほんの少しだけ空白があった。根も葉もない噂のせいで、誰もがどこか遠巻きにしていた。本人だけが、それに気づいていなかった。遠藤は気づいていた。誰にも見えない場所からは、そういうものがよく見える。
その空白が、今はどこにもない。
隣で野村が、金網越しに小さく手を振っていた。永山は腕を組んだまま、黙ってグラウンドを見ている。清水はポケットに両手を突っ込んで、白い息を長く吐いていた。
足元の土の上に、四つの影が並んで伸びていた。
「――あ!」
グラウンドの向こうで、ハジメがこちらに気づいた。
赤くなった目元を袖で擦ってから、大きく手を振る。
「遠藤ー! 聞いたよー! 誰にも見えてないままハットトリックとか、影薄いのもう才能なんだが!?w」
「だろ!?」
隣で、清水が金網から身を乗り出した。
「俺もさっきそれ言ったんだよ! 見えてねぇのに点だけ入ってくんの、マジで怪奇現象だったからな!」
「マジで草! 遠藤アンタ、レアル・マドリードの入団テスト受けてきたらw」
「ギャハハハハッ!」
ベンチの陰から、鈴の笑い声が弾けた。
「やばい、さっきの遠藤くん見てたら、マジで受かりそうでウケるんだけど!!」
「ギャハハハ! 遠藤、お前マジでエムバペ超えてバロンドール取れるぞ!!」
清水が金網をばしばし叩く。
三人揃って、腹を抱えて笑っている。
チームの何人かが、つられてこちらを振り返った。遠藤の顔の上を三往復くらいして、ようやく焦点が合う。
「うるせぇ!! てか、なんでもう知ってんだよ!!」
叫んだ声が、冬の空に白く抜けていった。
◇
二年生になっても、朝の廊下は相変わらず明るかった。
大きな窓から差し込む光の中を、遠藤は一階の自販機へ向かっていた。教室に上がる前に、喉を潤しておきたかった。
「よっ、遠藤。どこ行くっちゃ?」
背中から、少しハスキーな声が飛んでくる。
振り返ると、ハジメがちょうど登校してきたところだった。肩まで届く金髪の毛先をゆるく巻き、制服を少し着崩している。右手首の水色のシュシュが、歩調に合わせて小さく揺れていた。
「あ、南雲。ちょっと自販機に飲み物を……」
「あ、じゃああーしの分もよろー! ミルクティーね!」
ハジメはスクールバッグをごそごそと探り、財布から百円玉を二枚つまみ出すと、遠藤の手のひらにチャリンと握らせた。そのまま足を止めずに、廊下を歩いていく。
「おい南雲、一本にしてはちょっと多いぞ」
ハジメは振り返らなかった。細い手をひらひらと振りながら、肩越しに言う。
「アンタの分☆」
「おはよー香織〜!」と、軽やかな声が教室の方へ消えていった。
遠藤は、手のひらの二百円を見下ろした。
「……足りねぇよ」
自販機は、一本百五十円前後が当たり前だ。二本買うには、どう考えても足りない。
結局、自分の財布から小銭を足して、ミルクティーを一本だけ買った。
残った百円玉を、指先で一度だけ転がす。
アンタの分。
自分の分を買おうと思えば、あと五十円足せば買えた。けれど、なんとなく使う気になれなかった。それを喉に流し込んで、空き缶にして捨ててしまうのは、何かが釣り合わない気がした。
この一年、ずっと振り回されてばかりだった。
名前を大声で呼ばれ、パシられ、メイド服の裾を夜中まで縫わされ、誰にも見えないまま点を取った。気づけば渡り廊下の自販機の前には、一緒に愚痴をこぼす相手がいた。
悪くない、と思う。
一年前の自分なら、きっとそうは思わなかった。誰にも見つからないまま三年間をやり過ごせれば、それでいいと思っていたのだから。
今は、そう思える。
遠藤は百円玉を、制服のポケットに突っ込んだ。
口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
◇
愛ちゃん親衛隊が王都を発って、幾日かが過ぎた。
王宮の訓練場の端、回廊の柱が落とす影の中に、遠藤は一人で立っていた。
夜のうちに、聖堂の裏手を一巡りしてきたところだった。変わった動きはない。神殿騎士の巡回の間隔も、昨日と同じだった。
掌を開く。
百円玉が一枚、乗っていた。
この世界では、何の価値もない硬貨だ。縁が少しだけ擦り減って、ずっとポケットに入れていたせいで、体温がそのまま移っている。
訓練場には、朝の光が斜めに差し込んでいた。石畳に撒かれた水の匂いと、木剣を打ち合わせる乾いた音。どこかで誰かが気合いの声を上げて、別の誰かがそれに笑っている。
あの日、教室の後ろから見ていた景色に、どこか似ていた。
「何してんだ浩介、そろそろ訓練始まるぞ」
訓練場の向こうから、声がした。
野村だった。その隣で永山が腕を組んで立っている。辻が小さく手を振り、吉野が「遠藤くーん、早くー!」と声を張り上げていた。
四人とも、真っ直ぐにこちらを見ていた。柱の影の中にいる遠藤を、探す素振りもなく。
「――今行く」
遠藤は百円玉をポケットに仕舞って、影の中から歩き出した。
四人のところへ辿り着くより先に、訓練場の反対側から、光輝が歩いてくるのが見えた。龍太郎と雫が、その後ろに続いている。
光輝は遠藤の前で足を止めると、真剣な顔で手合わせを申し込んできた。気配を消して懐に入られる感覚を、身体にもう一度叩き込んでおきたいのだという。龍太郎がその横から、次は自分だと割り込んでくる。雫が呆れたように、順番を決めなさいと二人をたしなめた。
遠藤は面食らって、永山たちの方を振り返った。
野村が肩をすくめる。吉野が、行ってこいと手で追い払う仕草をした。永山は黙ったまま、顎で訓練場の真ん中を示した。
朝の光の中に、いくつもの影が並んで伸びている。
遠藤はその中へ、一歩踏み出した。
ポケットの中の百円玉が、今日も少しだけ重かった。