ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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2章開幕です


二章 紫電纏し銀爛の魔女
# 第43話 細き空の下、駆け抜けるは嵐の轍


 

光が収まると、暗かった。

 

足の裏に、ひやりとした岩の感触がある。鼻をつくのは湿った土と、長いあいだ誰にも掻き回されていない空気の匂い。数歩先も見えない闇の奥で、どこかの水滴がぽたりと一つ落ちた。

 

ハジメは、ゆっくりと左を見た。

 

岩。

 

右を見た。

 

岩。

 

上を見る。低い天井から、細い鍾乳石が何本も垂れ下がっている。

 

「…………」

 

「……ハジメ」

 

「…………は?」

 

眼鏡の奥で、深紅の目が据わった。

 

「は? え、洞窟なんだが。外じゃないんだが。……ねえ、普通に洞窟なんだけど!?」

 

声が岩肌に跳ね返り、何重にも重なって闇の奥へ転がっていく。コテツとマロンの耳が同時に立ち、返ってきた主の声に向かって、二匹が一斉に吠え出した。その吠え声がまた反響して、狭い洞窟の中は一瞬で祭りのような騒ぎになる。

 

「出口って言ったらフツー外じゃん!? 洞窟から洞窟に飛ばすとか意味わからんすぎるんだけど!? あの眼鏡!? やっぱ性格終わってるし!! これ詐欺だからね!? 出口詐欺!!」

 

ティアは、両耳を手のひらで塞いでいる。

 

「……うるさい」

 

「だってさぁ!!」

 

「……三人とも、うるさい」

 

ワンワンワン、と二匹が律儀に続ける。ハジメは「アンタ達も便乗しないの!」と言いかけて、口を閉じた。

 

ティアが塞いでいた片手を離し、闇の一方を指差していた。

 

「……風」

 

反響が、少しずつ遠ざかっていく。

 

その向こうから、空気が流れてきていた。乾いている。隠れ家の湿った風とも、奈落の淀んだ風とも違う。頬を撫でる温度が、ほんの少しだけ高い。

 

指差された先の闇は、よく見れば、ほかよりわずかに薄かった。

 

「……あっち、明るくない?」

 

「……ん」

 

ハジメは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

 

「……それ早く言ってくんない?」

 

「……言った。今」

 

◇

 

歩くほどに、足元の岩が白っぽくなっていく。

 

湿り気が消え、靴底に砂が噛む音が混じり始めた。先を行くコテツが何度も鼻を鳴らし、そのたびに尻尾の振り幅が大きくなる。マロンに至っては、もう半分くらい駆け足だ。

 

「てかさ、こういうとこって案内表示あるべきじゃない? 緑の、人が走ってるやつ」

 

「……また、それ」

 

「大事なことだから何回でも言うんですー」

 

角を一つ曲がる。

 

白い光が、目を刺した。

 

洞窟の口が、すぐそこで四角く切り取られている。その向こうは眩しすぎて、輪郭も色も分からない。

 

二匹が先に飛び出していき、ハジメが手で庇を作りながらその後を追う。ティアは一番後ろから、洞窟の口をくぐった。

 

外は、谷の底だった。

 

赤茶けた岩壁が左右から高くせり上がり、見上げた遥か先で、空を細長い一本の帯に切り取っている。帯の色は、薄い青。東の縁から差し込んだ朝の光が岩壁の上の方を金色に染め、谷底にはまだ青い影が溜まっている。その影の中に、一筋だけ、斜めに光が落ちていた。

 

ちょうど、洞窟の口の前に。

 

一歩踏み出したところで、ティアの足が止まった。

 

頬に、温度が乗っている。光石の明かりにはなかった、肌の上にそっと重みを預けてくるような温かさ。黒い袖から覗いた白い指先が、光の中でほんのりと色を帯びている。ティアはしばらくのあいだ、自分の手の甲を、ただ見下ろしていた。

 

「――そ」

 

すぐ隣で、息を吸い込む音がした。

 

「空だぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

ハジメが駆け出した。

 

両腕を広げて、谷底の砂を蹴散らしながら、光の筋の中へ飛び込んでいく。白銀の髪が光を弾いて、一瞬、燃えたように見えた。

 

「太陽!! 本物!! 光石じゃないやつ!! え待って、あったか!! 太陽あったかすぎなんだけど!! 知ってたけど!!」

 

コテツとマロンが、その周りをぐるぐると駆け回る。

 

開けた場所を走れることが、それだけで嬉しくて仕方ないらしい。尻尾を高く上げ、耳を後ろに倒し、意味もなく急に方向を変えては砂を巻き上げる。二匹で体をぶつけ合い、転がり、また跳ね起きて走り出す。白銀の毛並みに時折ぱちりと紫電が走っては、弾けた端から、湯気のように薄れて消えた。

 

砂の上に背中から倒れ込んで、ハジメは大の字になって細長い空を見上げた。すかさず二匹がその上にのしかかり、顔を舐め回し始める。

 

「あははははっ! ちょ、重っ、おもいって! アンタ達もう子犬サイズじゃないの自覚して!? ちょ、眼鏡! 眼鏡はやめて!」

 

笑い声が、岩壁に何度も跳ね返って、空へ抜けていく。

 

ふと、ハジメががばりと身体を起こした。

 

「……待って」

 

「……?」

 

「あーし、日焼け止め持ってなくない?」

 

「…………」

 

「この肌だよ!? 毛穴ゼロの白磁肌だよ!? シミできたら普通に泣くんだけど!?」

 

自分の手の甲を太陽にかざし、真剣な顔で睨んで――

 

それから、ぱっと笑った。

 

「……ま、いっか! 今日はノーカンで!」

 

そしてまた、二匹を巻き込んで砂の上を転がり始める。

 

ティアは光の筋の中に立ったまま、その様子を眺めていた。

 

ついさっきまで、洞窟の中で顔を真っ赤にして、大昔に死んだ男に詐欺だなんだと喚いていた人と、同じ人間のはずだ。

 

「……さっきまで、怒ってたのに」

 

「それはそれ! これはこれ!」

 

「……情緒、どうなってるの?」

 

「バイブスぶち上がりってこと!」

 

「……ばい……ぶす……?」

 

聞き返した時には、ハジメはもう二匹と一緒に砂の上を転がっていた。

 

ティアは、小さく息を吐いた。

 

吐いた息が、乾いた風にさらわれていく。頬の上の温かさは、まだそこに残っていた。

 

◇

 

岩の裂け目の奥は、狭くて、暗かった。

 

兎人族の少女――シア・ハウリアは、膝を抱えて身体を小さく丸めている。

 

頭の上の兎の長い耳は、髪に沿わせるようにぺたりと伏せたまま。そうしていないと、自分の鼓動の音まで拾ってしまいそうだった。擦りむいた膝が、じくじくと痛む。唇は乾いて、端が少し切れている。

 

すぐ隣で、父の浅い寝息が聞こえる。その向こうでは、幼い子たちが互いの身体にしがみつくようにして眠っている。誰も、楽な寝顔をしていない。

 

谷の出口には、帝国の兵が待っている。

 

谷の中には、魔物がいる。

 

どちらへ行っても、行き止まり。もう何人かは、連れて行かれてしまった。

 

自分のせいだ、という言葉を、シアはもう何度飲み込んだか分からない。飲み込むたびに、喉の奥がざらついた。

 

――その時だった。

 

視界が、白く裏返った。

 

いつもそうだ。前触れもなく、勝手にやってくる。瞼を開けているのか閉じているのかも分からなくなって、ここではない景色が、目の奥へ流れ込んでくる。

 

谷の底。

 

白銀の髪の、背の高い女の人。

 

その隣に、金色の髪の、小さな女の子。

 

白銀の毛並みの、大きな狼が、二匹。

 

場所は――西。

 

そして、その人たちの後ろで。

 

父様が、笑っていた。

 

景色が、ぷつりと途切れた。

 

目を見開いたまま、シアは浅い息を繰り返す。指先が震えている。けれどそれは、さっきまでの震えとは、違う種類のものだった。

 

「……シア?」

 

父が、薄く目を開けていた。

 

「どうした。また、見えたのか」

 

膝の上で固く握っていた手を、シアはゆっくりとほどいた。

 

「……見えたんですぅ」

 

声が、かすれる。

 

「助けてくれる人が。……西に」

 

父が何かを言いかける。その前に、シアはもう立ち上がっていた。

 

痛む膝を伸ばし、裂け目の外へ這い出す。崖の上から差し込んだ朝の光に、青みがかった白い髪が透けた。

 

振り返らなかった。

 

振り返ったら、きっと足が止まってしまう。

 

シアは、西へ向かって走り出した。

 

◇

 

「で、今いるのがライセン大峡谷ってとこでしょ?」

 

平たい岩の上に、ハジメはオスカーの地図を広げていた。

 

四隅を小石で押さえ、その上に二人で額を寄せる。コテツとマロンは遊び疲れたのか、岩壁の影に並んで伏せ、舌を出してはあはあと息を整えている。

 

地図の上には、大陸を東西に裂くように、一本の長い谷が描かれている。その谷の線の上に、インクの丸が一つ。

 

「迷宮、このへんにあるっぽいんよね」

 

ハジメの指が、丸の上をとんとんと叩いた。

 

「……近い?」

 

「たぶん? どのへんかは知らん。てか谷なっが」

 

ティアが、地図を覗き込む。

 

ハジメの指は丸から離れて、北へと滑っていく。谷を越え、平地を越え、山の頂に付いたもう一つの丸の、その麓へ。

 

「みんなのとこは、こっち」

 

「……遠い」

 

「遠いよね。上に出る道探して、こう、ずーっと北」

 

指が、地図の上で止まる。

 

「……でもさー、迷宮すぐそこなんよ。ついでに寄っとく説ある?」

 

ティアは少し考えてから、ぽつりと言った。

 

「……迷宮って、オルクスみたいなの?」

 

「……うーん、どうなんだろ。多分そうなんじゃね? 知らんけど」

 

二人とも、黙った。

 

頭の上の細い空を、鳥が一羽、ゆっくりと横切っていく。

 

奈落の闇。爪熊。サソリ。ヒュドラ。六本の首。空になった水筒。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……いったん保留で」

 

「……ん」

 

その時、岩壁の影で、コテツが顔を上げた。

 

マロンも、一拍遅れて首をもたげる。二匹の耳が、揃って同じ方へ向いた。

 

西だった。

 

コテツの喉の奥で、低い唸り声が鳴る。

 

「……コテツ?」

 

ハジメが顔を上げた、その瞬間。

 

足元の砂が、跳ねた。

 

ずん、と。

 

腹の底に響く振動が、岩を伝ってくる。地図を押さえていた小石が、ころりと転がり落ちた。岩壁の上から、細かな砂がさらさらと降ってくる。

 

ずん。

 

ずん。

 

ずん。

 

西の岩壁の曲がり角から、首が覗いた。

 

一本。

 

もう一本。

 

二本の首が、一つの胴から生えている。

 

谷の高さの半分に届こうかという、巨大な二本足の蜥蜴だ。赤黒い鱗が朝日を鈍く照り返し、短い前脚の先で、鉤爪が岩を掻いている。二つの頭が、それぞれ別の方向をぎょろりと見回して――

 

同時に、こちらを向いた。

 

「…………」

 

ハジメの口が、半開きのまま固まった。

 

「……え、ユニバにいる奴じゃん」

 

「……ゆにば?」

 

「でもユニバの奴、首一本だったんだが!?」

 

二つの顎が、同時に開く。

 

咆哮が、谷を揺らした。

 

ティアが、前に出た。

 

ハジメが「ティア!」と叫ぶより早く、小さな身体が岩の上に立ち、白い片手を真っ直ぐに突き出す。

 

掌の先に、熱が渦巻いた。

 

紅蓮の穂先。緋槍。サソリの甲殻すら焼いてきた炎が、槍の形を結びかけて――

 

ほどけた。

 

ふわり、と。

 

形になりかけた炎が、端から火の粉になって散っていく。綿毛が風に吹かれるように、ひらひらと宙を舞って、消えた。

 

後には、何も残らない。

 

「…………」

 

「…………」

 

谷底に、静寂が降りた。

 

二つ首の蜥蜴まで、片方の首を少し傾げている。

 

ハジメのこめかみを、汗がひと筋、伝い落ちた。

 

ティアの首筋にも、同じものが光っている。

 

「……ティア?」

 

「……出ない」

 

「……もっかい」

 

ティアがもう一度手を突き出すと、掌の先で、ぽす、と小さな音がした。マッチを擦り損ねた時のような、頼りない煙が一筋だけ上がって、消える。

 

「…………」

 

「…………」

 

ハジメが、ティアの前に出た。

 

拳を握り、足を開いて腰を落とす。

 

「――フンっ!」

 

全身に、紫電が奔った。

 

奔って、ぱちぱちと肌の上で弾けて――冬場のドアノブに触れた時の静電気みたいな音を最後に、しゅん、と消えた。

 

白銀の髪の先が、ほんの数本だけ、ふわりと逆立っている。

 

「…………」

 

ハジメは、握った拳を見下ろした。

 

もう一度、握り直す。何も起きない。

 

「……え、あーしのも出なくない?」

 

「…………」

 

「…………」

 

汗が、止まらなかった。

 

二人の顔から、ぼたぼたと砂の上に落ちていく。

 

二つ首の蜥蜴が、傾げていた首を戻し――

 

それから、地面を蹴った。

 

「「――――っ!!!」」

 

声にならない悲鳴が、二人分重なった。

 

ハジメが岩から飛び降りる。地図を引っ掴んで懐に押し込み、左手を突き出した。赤い石の指輪が光る。何もなかった砂の上に、がしゃん、と引き車が転がり出た。

 

「コテツ! マロン! こっち!! 早く早く早く!!」

 

二匹が弾かれたように駆け寄ってくる。ハジメは引き具を掴み、コテツの胴に回して、留め具を――

 

「ハマんない!! え、なんで!? さっきハマったじゃん!! ありえんて!!」

 

「……ハジメ」

 

「待ってって!!」

 

「……ハジメ、ハジメ、ハジメ」

 

ティアの手が、ハジメのサスペンダーを掴んで、ぐいぐいと引っ張っている。顔は無表情のまま、引っ張る力だけがどんどん強くなっていく。

 

ずん。ずん。ずんずんずんずん。

 

振動の間隔が、短くなっていく。

 

ぱちん、と留め具が嵌まった。

 

「ハマった!! マロン!!」

 

二つ目。ぱちん。

 

ハジメはティアの腰を抱えて、ほとんど放り投げるように座席へ乗せた。自分も飛び乗る。背後で、影が膨れ上がった。

 

「走ってぇぇぇぇぇぇぇぇ!!! ガンダで!!!」

 

二匹が、跳んだ。

 

◇

 

速かった。

 

速すぎた。

 

谷底の砂が、二本の白い線になって後ろへ吹き飛んでいく。車輪が岩を噛み、跳ね、宙に浮き、また叩きつけられる。そのたびに、座席の上の二人の身体が軽々と放り上げられた。

 

そして、風が来た。

 

正面から叩きつけてくる風に、ハジメの頬が後ろへ引っ張られる。唇がめくれ上がり、歯茎まで剥き出しになる。閉じようとした瞼も風にこじ開けられ、眼鏡はレンズごと顔面に押しつけられて、鼻の頭が潰れている。白銀の髪は一本残らず真後ろへ流れ、額が全開だ。

 

隣のティアも、似たようなものだった。

 

小さな顔の柔らかい頬が、波打つようにぶるぶると震えている。口は半開きのまま閉じられず、黒いリボンが頭の後ろで千切れんばかりにはためき、腰まである金髪は、もはや一枚の旗と化していた。

 

谷底を爆走する引き車の上に、ひどい顔が二つ、並んでいた。

 

「ひぃぃぃぃっ!! はやひ、はやひはやひはやひ!!」

 

口を開けた途端、風がその中へ容赦なく流れ込んでくる。頬は膨らみ、舌は押し戻され、唇は言うことを聞かない。

 

前を走るコテツとマロンの尻尾は、ぴんと高く上がっている。

 

耳は後ろに倒れ、口の端からは舌がはみ出している。全身の毛並みから紫電がぱちぱちと散っては、散った端から、陽炎のように薄れていく。

 

後ろから追ってくる咆哮など、二匹の耳には入っていないらしい。

 

開けた場所を、思い切り、どこまでも走れる。それがもう、楽しくて楽しくて仕方がない、という走り方だった。

 

「はひめっ!!」

 

座席の手すりにしがみついたまま、ティアが叫んだ。ぶるぶると波打つ頬のせいで、声まで震えている。

 

「おひり!! いはくならないっへ、いっへは!?」

 

「おひりはいはくない!! おひりいがいが、ぜんぶひんでる!!」

 

車輪が大きめの岩に乗り上げ、引き車がまるごと宙を舞う。二人の悲鳴が、谷に長く尾を引いた。

 

着地。跳ねる。また着地。

 

手すりを握りしめたまま、ハジメは首だけで後ろを振り返った。

 

二つ首の蜥蜴の姿が、さっきより小さくなっている。

 

もう一度見る。もっと小さい。

 

「……ひきはなひた!?」

 

「はなれへる!!」

 

「よっひゃ!!」

 

ハジメは、前を向いた。

 

「もういい!! ふはりとも、とまっへ!! ふとっぷ!! ふとーーーっぷ!!」

 

二匹は止まらなかった。

 

止まるどころか、コテツがマロンに肩をぶつけ、マロンがやり返し、二匹揃って右へ大きく膨らんだ。引き車が尻を振る。座席が、ほとんど横倒しになりかけた。

 

「なんへとまんないの!? ねえ!! たのひんでんひゃないよ!!」

 

マロンが、走りながら嬉しそうに一声鳴く。

 

ティアの顔から、だんだんと色が抜けていく。

 

谷底は、どこまで行っても平らにならない。

 

転がった岩。ひび割れた段差。砂に隠れた窪み。そのすべてを、二匹は避けもせずに全速力で踏み越えていく。引き車はそのたびに跳ね、傾き、宙に浮き、また叩きつけられ、身体が持ち上がるたびに、胃の中身が少し遅れてついてくる。

 

「……うぷ」

 

ハジメが、手すりから片手を離して口元を押さえた。

 

隣のティアは、もう何も言わない。半開きの口のまま、ただ一点を見つめて、揺さぶられるままになっていた。

 

◇

 

足が、痛い。

 

裸足に近い靴の底はとっくに擦り切れて、尖った石を踏むたびに、鋭い痛みが踵から頭の先まで突き抜ける。息が苦しい。喉が焼けるようだ。

 

それでも、シアは走っていた。

 

西へ。

 

見えたのは、谷の底。この谷の、どこか。白銀の髪の人と、金色の髪の女の子と、白銀の狼が二匹。

 

あの人たちに会えれば。

 

あの人たちに、会えさえすれば。

 

ずずず、と。

 

前の方から、地鳴りのような音が近づいてくる。

 

シアの長い耳が、ぴんと立った。

 

谷の先に、砂煙が上がっている。それが、ものすごい速さでこちらへ向かってくる。

 

砂煙の先頭に、白銀が見えた。

 

狼だった。

 

白銀の毛並みの、大きな狼が、二匹。

 

――見えた、通りだ。

 

シアの胸が、一瞬、跳ねた。

 

それから、それが狼だということが、遅れて頭に届いた。

 

走るたびに、全身で紫色の火花がちかちかと瞬いては、すぐに消える。開いた口から覗く牙が、朝日にぎらりと光った。

 

狼だった。

 

兎人族のシアの前に、狼が、二匹。

 

「ひ」

 

足が、勝手に止まった。

 

止まりたくて止まったわけではない。身体の奥の、もっと古いところが、動くなと命じている。耳がぴんと立ったまま、指一本動かせない。

 

狼の後ろに、何かが繋がれている。

 

車輪の付いた、椅子のような何か。その上で、人影が二つ、手すりにしがみついて悲鳴を上げている。

 

「とまっへっへいっへんへひょぉぉぉぉ!!」

 

何を言っているのかは、さっぱり分からない。

 

風に巻き上げられた、白銀の髪。

 

その隣で、声も出せずに揺さぶられている、金色の髪の小さな女の子。

 

先頭の狼の耳が、ぴくりと動いた。

 

二匹の頭が、揃ってこちらを向く。

 

目が、合った。

 

その目が、きらきらと輝いた。

 

「ひぃっ」

 

二匹が、進路を変えた。

 

真っ直ぐ、シアの方へ。

 

「ひょ、どこいくの!? ほっひ、ひといる!! ひといるっへ!! こへふ!! まろん!!」

 

シアは、ぎゅっと目を瞑った。

 

地鳴りが、目の前まで迫ってくる。

 

食べられる、と思った。

 

ざざざざざっ、と。

 

砂を抉る音が、すぐ足元で鳴った。

 

風が、止む。

 

おそるおそる、片目を開ける。

 

白銀の毛並みが、すぐそこにあった。

 

二匹の狼が、四本の脚を突っ張って、シアの目の前で止まっている。その足元から後ろへ、砂の上に四本の深い溝が真っ直ぐ伸びていた。

 

止まれなかったのは、その後ろの車だ。

 

がっくん、と。

 

狼に引かれていた勢いのまま、車が大きくつんのめる。座席の上の二つの身体が前へ放り出されかけ、手すりに引っかかり、今度は後ろへ叩きつけられる。二つの首が、かくん、かくん、と揃って二往復して――

 

それきり、車の上は静かになった。

 

シアは、目の前の狼を見上げていた。

 

見上げなければ、顔が見えない。

 

遠くから見えていたよりも、ずっと大きい。背中の高さが、シアの肩のあたりまである。白銀の毛並みの一本一本が朝日に透け、その下で太い脚の筋肉が、まだ走り足りないとでも言うようにひくひくと動いていた。

 

その顔が、ゆっくりと下りてくる。

 

ふんふん、と鼻が鳴った。

 

大きな鼻先が、シアの髪に突っ込まれる。耳の付け根を嗅がれる。それから、生温かいものが、べろりと頬を撫でた。

 

「ひゃあああ!? た、食べないでくださいですぅぅ!!」

 

べろり。べろり。

 

二匹の尻尾が、ぶんぶんと揺れている。舐められるたびにシアの身体はびくりと跳ねるが、牙は、いつまで経っても立てられなかった。

 

その向こうで、車の上の影が、ゆっくりと動いた。

 

白銀の髪の人が、手すりを支えに身体を起こす。続いて、金色の髪の小さな女の子が。

 

二人は、車から降りた。

 

降りた、というより、ずり落ちた。砂に足がついた途端に膝が折れかけ、互いの肩に掴まって、どうにか踏みとどまる。

 

白銀の髪は、一本残らず後ろへ撫でつけられたまま、あちこちに跳ねている。鼻の上の四角い眼鏡は、斜めにずれていた。金色の髪の女の子の頭では、黒いリボンが片側だけほどけて垂れ下がっている。

 

そして二人とも、顔が青かった。

 

白いのではない。青かった。

 

二人が、こちらを向いた。

 

のろり、と。

 

一歩、踏み出してくる。

 

「……ひ」

 

シアの喉が鳴った。

 

のろり。のろり。

 

肩を寄せ合ったまま、二人が近づいてくる。足取りは重く、揺れていて、まるで糸の切れかけた人形のよう。焦点の合っていない目が、それでも真っ直ぐ、シアを捉えている。

 

見えた通りの人たちだ。

 

背が高くて、脚が長くて、肌は雪みたいに白くて、目はきれいな赤色で。その隣に、金色の髪の小さな女の子。

 

見えた景色の中では、もっと、ずっと、頼もしく見えていたはずだった。

 

「な、な、なんですかぁ……?」

 

下がろうにも、背中には狼がいる。尻尾をぶんぶん振りながら、シアの背中にぴったりと鼻をくっつけている。

 

のろり。

 

二人が、シアの目の前で立ち止まった。

 

手を伸ばせば届く距離。見上げた先で、白銀の髪の人が、ゆっくりと口を開いた。

 

何かを言おうとしている。

 

息を詰めて、シアはその言葉を待つ。

 

その人の頬が、ぷくりと膨らんだ。

 

隣の女の子の頬も、同時に。

 

「「オエェェェェェェェェェェ!!!」」

 

「キャアアアアアアアアアアア!!!」

 

シアの悲鳴が、谷の岩壁に何度も跳ね返っていく。

 

その残響の向こう、遥か西の方で、二つ首の咆哮が小さく応えた。

 

マロンが、シアの頬をべろりと舐めた。

 

「……この人たちで、合ってますぅ……?」

 

誰に聞いたわけでもないその問いに、答える者はいなかった。

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総合評価:2147/評価:7.81/連載:78話/更新日時:2026年10月18日(日) 22:38 小説情報

転移したらスライムと一緒だった件:REY(作者:びよんど)(原作:転生したらスライムだった件)

▼なんてことはありません。▼ゴジラを人型に圧縮したような理不尽極まる怪物が、悪くないスライムと同じ場所に居たってだけの話です。


総合評価:1060/評価:8.61/連載:94話/更新日時:2026年10月19日(月) 12:15 小説情報


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