# 第43話 細き空の下、駆け抜けるは嵐の轍
光が収まると、暗かった。
足の裏に、ひやりとした岩の感触がある。鼻をつくのは湿った土と、長いあいだ誰にも掻き回されていない空気の匂い。数歩先も見えない闇の奥で、どこかの水滴がぽたりと一つ落ちた。
ハジメは、ゆっくりと左を見た。
岩。
右を見た。
岩。
上を見る。低い天井から、細い鍾乳石が何本も垂れ下がっている。
「…………」
「……ハジメ」
「…………は?」
眼鏡の奥で、深紅の目が据わった。
「は? え、洞窟なんだが。外じゃないんだが。……ねえ、普通に洞窟なんだけど!?」
声が岩肌に跳ね返り、何重にも重なって闇の奥へ転がっていく。コテツとマロンの耳が同時に立ち、返ってきた主の声に向かって、二匹が一斉に吠え出した。その吠え声がまた反響して、狭い洞窟の中は一瞬で祭りのような騒ぎになる。
「出口って言ったらフツー外じゃん!? 洞窟から洞窟に飛ばすとか意味わからんすぎるんだけど!? あの眼鏡!? やっぱ性格終わってるし!! これ詐欺だからね!? 出口詐欺!!」
ティアは、両耳を手のひらで塞いでいる。
「……うるさい」
「だってさぁ!!」
「……三人とも、うるさい」
ワンワンワン、と二匹が律儀に続ける。ハジメは「アンタ達も便乗しないの!」と言いかけて、口を閉じた。
ティアが塞いでいた片手を離し、闇の一方を指差していた。
「……風」
反響が、少しずつ遠ざかっていく。
その向こうから、空気が流れてきていた。乾いている。隠れ家の湿った風とも、奈落の淀んだ風とも違う。頬を撫でる温度が、ほんの少しだけ高い。
指差された先の闇は、よく見れば、ほかよりわずかに薄かった。
「……あっち、明るくない?」
「……ん」
ハジメは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「……それ早く言ってくんない?」
「……言った。今」
◇
歩くほどに、足元の岩が白っぽくなっていく。
湿り気が消え、靴底に砂が噛む音が混じり始めた。先を行くコテツが何度も鼻を鳴らし、そのたびに尻尾の振り幅が大きくなる。マロンに至っては、もう半分くらい駆け足だ。
「てかさ、こういうとこって案内表示あるべきじゃない? 緑の、人が走ってるやつ」
「……また、それ」
「大事なことだから何回でも言うんですー」
角を一つ曲がる。
白い光が、目を刺した。
洞窟の口が、すぐそこで四角く切り取られている。その向こうは眩しすぎて、輪郭も色も分からない。
二匹が先に飛び出していき、ハジメが手で庇を作りながらその後を追う。ティアは一番後ろから、洞窟の口をくぐった。
外は、谷の底だった。
赤茶けた岩壁が左右から高くせり上がり、見上げた遥か先で、空を細長い一本の帯に切り取っている。帯の色は、薄い青。東の縁から差し込んだ朝の光が岩壁の上の方を金色に染め、谷底にはまだ青い影が溜まっている。その影の中に、一筋だけ、斜めに光が落ちていた。
ちょうど、洞窟の口の前に。
一歩踏み出したところで、ティアの足が止まった。
頬に、温度が乗っている。光石の明かりにはなかった、肌の上にそっと重みを預けてくるような温かさ。黒い袖から覗いた白い指先が、光の中でほんのりと色を帯びている。ティアはしばらくのあいだ、自分の手の甲を、ただ見下ろしていた。
「――そ」
すぐ隣で、息を吸い込む音がした。
「空だぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ハジメが駆け出した。
両腕を広げて、谷底の砂を蹴散らしながら、光の筋の中へ飛び込んでいく。白銀の髪が光を弾いて、一瞬、燃えたように見えた。
「太陽!! 本物!! 光石じゃないやつ!! え待って、あったか!! 太陽あったかすぎなんだけど!! 知ってたけど!!」
コテツとマロンが、その周りをぐるぐると駆け回る。
開けた場所を走れることが、それだけで嬉しくて仕方ないらしい。尻尾を高く上げ、耳を後ろに倒し、意味もなく急に方向を変えては砂を巻き上げる。二匹で体をぶつけ合い、転がり、また跳ね起きて走り出す。白銀の毛並みに時折ぱちりと紫電が走っては、弾けた端から、湯気のように薄れて消えた。
砂の上に背中から倒れ込んで、ハジメは大の字になって細長い空を見上げた。すかさず二匹がその上にのしかかり、顔を舐め回し始める。
「あははははっ! ちょ、重っ、おもいって! アンタ達もう子犬サイズじゃないの自覚して!? ちょ、眼鏡! 眼鏡はやめて!」
笑い声が、岩壁に何度も跳ね返って、空へ抜けていく。
ふと、ハジメががばりと身体を起こした。
「……待って」
「……?」
「あーし、日焼け止め持ってなくない?」
「…………」
「この肌だよ!? 毛穴ゼロの白磁肌だよ!? シミできたら普通に泣くんだけど!?」
自分の手の甲を太陽にかざし、真剣な顔で睨んで――
それから、ぱっと笑った。
「……ま、いっか! 今日はノーカンで!」
そしてまた、二匹を巻き込んで砂の上を転がり始める。
ティアは光の筋の中に立ったまま、その様子を眺めていた。
ついさっきまで、洞窟の中で顔を真っ赤にして、大昔に死んだ男に詐欺だなんだと喚いていた人と、同じ人間のはずだ。
「……さっきまで、怒ってたのに」
「それはそれ! これはこれ!」
「……情緒、どうなってるの?」
「バイブスぶち上がりってこと!」
「……ばい……ぶす……?」
聞き返した時には、ハジメはもう二匹と一緒に砂の上を転がっていた。
ティアは、小さく息を吐いた。
吐いた息が、乾いた風にさらわれていく。頬の上の温かさは、まだそこに残っていた。
◇
岩の裂け目の奥は、狭くて、暗かった。
兎人族の少女――シア・ハウリアは、膝を抱えて身体を小さく丸めている。
頭の上の兎の長い耳は、髪に沿わせるようにぺたりと伏せたまま。そうしていないと、自分の鼓動の音まで拾ってしまいそうだった。擦りむいた膝が、じくじくと痛む。唇は乾いて、端が少し切れている。
すぐ隣で、父の浅い寝息が聞こえる。その向こうでは、幼い子たちが互いの身体にしがみつくようにして眠っている。誰も、楽な寝顔をしていない。
谷の出口には、帝国の兵が待っている。
谷の中には、魔物がいる。
どちらへ行っても、行き止まり。もう何人かは、連れて行かれてしまった。
自分のせいだ、という言葉を、シアはもう何度飲み込んだか分からない。飲み込むたびに、喉の奥がざらついた。
――その時だった。
視界が、白く裏返った。
いつもそうだ。前触れもなく、勝手にやってくる。瞼を開けているのか閉じているのかも分からなくなって、ここではない景色が、目の奥へ流れ込んでくる。
谷の底。
白銀の髪の、背の高い女の人。
その隣に、金色の髪の、小さな女の子。
白銀の毛並みの、大きな狼が、二匹。
場所は――西。
そして、その人たちの後ろで。
父様が、笑っていた。
景色が、ぷつりと途切れた。
目を見開いたまま、シアは浅い息を繰り返す。指先が震えている。けれどそれは、さっきまでの震えとは、違う種類のものだった。
「……シア?」
父が、薄く目を開けていた。
「どうした。また、見えたのか」
膝の上で固く握っていた手を、シアはゆっくりとほどいた。
「……見えたんですぅ」
声が、かすれる。
「助けてくれる人が。……西に」
父が何かを言いかける。その前に、シアはもう立ち上がっていた。
痛む膝を伸ばし、裂け目の外へ這い出す。崖の上から差し込んだ朝の光に、青みがかった白い髪が透けた。
振り返らなかった。
振り返ったら、きっと足が止まってしまう。
シアは、西へ向かって走り出した。
◇
「で、今いるのがライセン大峡谷ってとこでしょ?」
平たい岩の上に、ハジメはオスカーの地図を広げていた。
四隅を小石で押さえ、その上に二人で額を寄せる。コテツとマロンは遊び疲れたのか、岩壁の影に並んで伏せ、舌を出してはあはあと息を整えている。
地図の上には、大陸を東西に裂くように、一本の長い谷が描かれている。その谷の線の上に、インクの丸が一つ。
「迷宮、このへんにあるっぽいんよね」
ハジメの指が、丸の上をとんとんと叩いた。
「……近い?」
「たぶん? どのへんかは知らん。てか谷なっが」
ティアが、地図を覗き込む。
ハジメの指は丸から離れて、北へと滑っていく。谷を越え、平地を越え、山の頂に付いたもう一つの丸の、その麓へ。
「みんなのとこは、こっち」
「……遠い」
「遠いよね。上に出る道探して、こう、ずーっと北」
指が、地図の上で止まる。
「……でもさー、迷宮すぐそこなんよ。ついでに寄っとく説ある?」
ティアは少し考えてから、ぽつりと言った。
「……迷宮って、オルクスみたいなの?」
「……うーん、どうなんだろ。多分そうなんじゃね? 知らんけど」
二人とも、黙った。
頭の上の細い空を、鳥が一羽、ゆっくりと横切っていく。
奈落の闇。爪熊。サソリ。ヒュドラ。六本の首。空になった水筒。
「…………」
「…………」
「……いったん保留で」
「……ん」
その時、岩壁の影で、コテツが顔を上げた。
マロンも、一拍遅れて首をもたげる。二匹の耳が、揃って同じ方へ向いた。
西だった。
コテツの喉の奥で、低い唸り声が鳴る。
「……コテツ?」
ハジメが顔を上げた、その瞬間。
足元の砂が、跳ねた。
ずん、と。
腹の底に響く振動が、岩を伝ってくる。地図を押さえていた小石が、ころりと転がり落ちた。岩壁の上から、細かな砂がさらさらと降ってくる。
ずん。
ずん。
ずん。
西の岩壁の曲がり角から、首が覗いた。
一本。
もう一本。
二本の首が、一つの胴から生えている。
谷の高さの半分に届こうかという、巨大な二本足の蜥蜴だ。赤黒い鱗が朝日を鈍く照り返し、短い前脚の先で、鉤爪が岩を掻いている。二つの頭が、それぞれ別の方向をぎょろりと見回して――
同時に、こちらを向いた。
「…………」
ハジメの口が、半開きのまま固まった。
「……え、ユニバにいる奴じゃん」
「……ゆにば?」
「でもユニバの奴、首一本だったんだが!?」
二つの顎が、同時に開く。
咆哮が、谷を揺らした。
ティアが、前に出た。
ハジメが「ティア!」と叫ぶより早く、小さな身体が岩の上に立ち、白い片手を真っ直ぐに突き出す。
掌の先に、熱が渦巻いた。
紅蓮の穂先。緋槍。サソリの甲殻すら焼いてきた炎が、槍の形を結びかけて――
ほどけた。
ふわり、と。
形になりかけた炎が、端から火の粉になって散っていく。綿毛が風に吹かれるように、ひらひらと宙を舞って、消えた。
後には、何も残らない。
「…………」
「…………」
谷底に、静寂が降りた。
二つ首の蜥蜴まで、片方の首を少し傾げている。
ハジメのこめかみを、汗がひと筋、伝い落ちた。
ティアの首筋にも、同じものが光っている。
「……ティア?」
「……出ない」
「……もっかい」
ティアがもう一度手を突き出すと、掌の先で、ぽす、と小さな音がした。マッチを擦り損ねた時のような、頼りない煙が一筋だけ上がって、消える。
「…………」
「…………」
ハジメが、ティアの前に出た。
拳を握り、足を開いて腰を落とす。
「――フンっ!」
全身に、紫電が奔った。
奔って、ぱちぱちと肌の上で弾けて――冬場のドアノブに触れた時の静電気みたいな音を最後に、しゅん、と消えた。
白銀の髪の先が、ほんの数本だけ、ふわりと逆立っている。
「…………」
ハジメは、握った拳を見下ろした。
もう一度、握り直す。何も起きない。
「……え、あーしのも出なくない?」
「…………」
「…………」
汗が、止まらなかった。
二人の顔から、ぼたぼたと砂の上に落ちていく。
二つ首の蜥蜴が、傾げていた首を戻し――
それから、地面を蹴った。
「「――――っ!!!」」
声にならない悲鳴が、二人分重なった。
ハジメが岩から飛び降りる。地図を引っ掴んで懐に押し込み、左手を突き出した。赤い石の指輪が光る。何もなかった砂の上に、がしゃん、と引き車が転がり出た。
「コテツ! マロン! こっち!! 早く早く早く!!」
二匹が弾かれたように駆け寄ってくる。ハジメは引き具を掴み、コテツの胴に回して、留め具を――
「ハマんない!! え、なんで!? さっきハマったじゃん!! ありえんて!!」
「……ハジメ」
「待ってって!!」
「……ハジメ、ハジメ、ハジメ」
ティアの手が、ハジメのサスペンダーを掴んで、ぐいぐいと引っ張っている。顔は無表情のまま、引っ張る力だけがどんどん強くなっていく。
ずん。ずん。ずんずんずんずん。
振動の間隔が、短くなっていく。
ぱちん、と留め具が嵌まった。
「ハマった!! マロン!!」
二つ目。ぱちん。
ハジメはティアの腰を抱えて、ほとんど放り投げるように座席へ乗せた。自分も飛び乗る。背後で、影が膨れ上がった。
「走ってぇぇぇぇぇぇぇぇ!!! ガンダで!!!」
二匹が、跳んだ。
◇
速かった。
速すぎた。
谷底の砂が、二本の白い線になって後ろへ吹き飛んでいく。車輪が岩を噛み、跳ね、宙に浮き、また叩きつけられる。そのたびに、座席の上の二人の身体が軽々と放り上げられた。
そして、風が来た。
正面から叩きつけてくる風に、ハジメの頬が後ろへ引っ張られる。唇がめくれ上がり、歯茎まで剥き出しになる。閉じようとした瞼も風にこじ開けられ、眼鏡はレンズごと顔面に押しつけられて、鼻の頭が潰れている。白銀の髪は一本残らず真後ろへ流れ、額が全開だ。
隣のティアも、似たようなものだった。
小さな顔の柔らかい頬が、波打つようにぶるぶると震えている。口は半開きのまま閉じられず、黒いリボンが頭の後ろで千切れんばかりにはためき、腰まである金髪は、もはや一枚の旗と化していた。
谷底を爆走する引き車の上に、ひどい顔が二つ、並んでいた。
「ひぃぃぃぃっ!! はやひ、はやひはやひはやひ!!」
口を開けた途端、風がその中へ容赦なく流れ込んでくる。頬は膨らみ、舌は押し戻され、唇は言うことを聞かない。
前を走るコテツとマロンの尻尾は、ぴんと高く上がっている。
耳は後ろに倒れ、口の端からは舌がはみ出している。全身の毛並みから紫電がぱちぱちと散っては、散った端から、陽炎のように薄れていく。
後ろから追ってくる咆哮など、二匹の耳には入っていないらしい。
開けた場所を、思い切り、どこまでも走れる。それがもう、楽しくて楽しくて仕方がない、という走り方だった。
「はひめっ!!」
座席の手すりにしがみついたまま、ティアが叫んだ。ぶるぶると波打つ頬のせいで、声まで震えている。
「おひり!! いはくならないっへ、いっへは!?」
「おひりはいはくない!! おひりいがいが、ぜんぶひんでる!!」
車輪が大きめの岩に乗り上げ、引き車がまるごと宙を舞う。二人の悲鳴が、谷に長く尾を引いた。
着地。跳ねる。また着地。
手すりを握りしめたまま、ハジメは首だけで後ろを振り返った。
二つ首の蜥蜴の姿が、さっきより小さくなっている。
もう一度見る。もっと小さい。
「……ひきはなひた!?」
「はなれへる!!」
「よっひゃ!!」
ハジメは、前を向いた。
「もういい!! ふはりとも、とまっへ!! ふとっぷ!! ふとーーーっぷ!!」
二匹は止まらなかった。
止まるどころか、コテツがマロンに肩をぶつけ、マロンがやり返し、二匹揃って右へ大きく膨らんだ。引き車が尻を振る。座席が、ほとんど横倒しになりかけた。
「なんへとまんないの!? ねえ!! たのひんでんひゃないよ!!」
マロンが、走りながら嬉しそうに一声鳴く。
ティアの顔から、だんだんと色が抜けていく。
谷底は、どこまで行っても平らにならない。
転がった岩。ひび割れた段差。砂に隠れた窪み。そのすべてを、二匹は避けもせずに全速力で踏み越えていく。引き車はそのたびに跳ね、傾き、宙に浮き、また叩きつけられ、身体が持ち上がるたびに、胃の中身が少し遅れてついてくる。
「……うぷ」
ハジメが、手すりから片手を離して口元を押さえた。
隣のティアは、もう何も言わない。半開きの口のまま、ただ一点を見つめて、揺さぶられるままになっていた。
◇
足が、痛い。
裸足に近い靴の底はとっくに擦り切れて、尖った石を踏むたびに、鋭い痛みが踵から頭の先まで突き抜ける。息が苦しい。喉が焼けるようだ。
それでも、シアは走っていた。
西へ。
見えたのは、谷の底。この谷の、どこか。白銀の髪の人と、金色の髪の女の子と、白銀の狼が二匹。
あの人たちに会えれば。
あの人たちに、会えさえすれば。
ずずず、と。
前の方から、地鳴りのような音が近づいてくる。
シアの長い耳が、ぴんと立った。
谷の先に、砂煙が上がっている。それが、ものすごい速さでこちらへ向かってくる。
砂煙の先頭に、白銀が見えた。
狼だった。
白銀の毛並みの、大きな狼が、二匹。
――見えた、通りだ。
シアの胸が、一瞬、跳ねた。
それから、それが狼だということが、遅れて頭に届いた。
走るたびに、全身で紫色の火花がちかちかと瞬いては、すぐに消える。開いた口から覗く牙が、朝日にぎらりと光った。
狼だった。
兎人族のシアの前に、狼が、二匹。
「ひ」
足が、勝手に止まった。
止まりたくて止まったわけではない。身体の奥の、もっと古いところが、動くなと命じている。耳がぴんと立ったまま、指一本動かせない。
狼の後ろに、何かが繋がれている。
車輪の付いた、椅子のような何か。その上で、人影が二つ、手すりにしがみついて悲鳴を上げている。
「とまっへっへいっへんへひょぉぉぉぉ!!」
何を言っているのかは、さっぱり分からない。
風に巻き上げられた、白銀の髪。
その隣で、声も出せずに揺さぶられている、金色の髪の小さな女の子。
先頭の狼の耳が、ぴくりと動いた。
二匹の頭が、揃ってこちらを向く。
目が、合った。
その目が、きらきらと輝いた。
「ひぃっ」
二匹が、進路を変えた。
真っ直ぐ、シアの方へ。
「ひょ、どこいくの!? ほっひ、ひといる!! ひといるっへ!! こへふ!! まろん!!」
シアは、ぎゅっと目を瞑った。
地鳴りが、目の前まで迫ってくる。
食べられる、と思った。
ざざざざざっ、と。
砂を抉る音が、すぐ足元で鳴った。
風が、止む。
おそるおそる、片目を開ける。
白銀の毛並みが、すぐそこにあった。
二匹の狼が、四本の脚を突っ張って、シアの目の前で止まっている。その足元から後ろへ、砂の上に四本の深い溝が真っ直ぐ伸びていた。
止まれなかったのは、その後ろの車だ。
がっくん、と。
狼に引かれていた勢いのまま、車が大きくつんのめる。座席の上の二つの身体が前へ放り出されかけ、手すりに引っかかり、今度は後ろへ叩きつけられる。二つの首が、かくん、かくん、と揃って二往復して――
それきり、車の上は静かになった。
シアは、目の前の狼を見上げていた。
見上げなければ、顔が見えない。
遠くから見えていたよりも、ずっと大きい。背中の高さが、シアの肩のあたりまである。白銀の毛並みの一本一本が朝日に透け、その下で太い脚の筋肉が、まだ走り足りないとでも言うようにひくひくと動いていた。
その顔が、ゆっくりと下りてくる。
ふんふん、と鼻が鳴った。
大きな鼻先が、シアの髪に突っ込まれる。耳の付け根を嗅がれる。それから、生温かいものが、べろりと頬を撫でた。
「ひゃあああ!? た、食べないでくださいですぅぅ!!」
べろり。べろり。
二匹の尻尾が、ぶんぶんと揺れている。舐められるたびにシアの身体はびくりと跳ねるが、牙は、いつまで経っても立てられなかった。
その向こうで、車の上の影が、ゆっくりと動いた。
白銀の髪の人が、手すりを支えに身体を起こす。続いて、金色の髪の小さな女の子が。
二人は、車から降りた。
降りた、というより、ずり落ちた。砂に足がついた途端に膝が折れかけ、互いの肩に掴まって、どうにか踏みとどまる。
白銀の髪は、一本残らず後ろへ撫でつけられたまま、あちこちに跳ねている。鼻の上の四角い眼鏡は、斜めにずれていた。金色の髪の女の子の頭では、黒いリボンが片側だけほどけて垂れ下がっている。
そして二人とも、顔が青かった。
白いのではない。青かった。
二人が、こちらを向いた。
のろり、と。
一歩、踏み出してくる。
「……ひ」
シアの喉が鳴った。
のろり。のろり。
肩を寄せ合ったまま、二人が近づいてくる。足取りは重く、揺れていて、まるで糸の切れかけた人形のよう。焦点の合っていない目が、それでも真っ直ぐ、シアを捉えている。
見えた通りの人たちだ。
背が高くて、脚が長くて、肌は雪みたいに白くて、目はきれいな赤色で。その隣に、金色の髪の小さな女の子。
見えた景色の中では、もっと、ずっと、頼もしく見えていたはずだった。
「な、な、なんですかぁ……?」
下がろうにも、背中には狼がいる。尻尾をぶんぶん振りながら、シアの背中にぴったりと鼻をくっつけている。
のろり。
二人が、シアの目の前で立ち止まった。
手を伸ばせば届く距離。見上げた先で、白銀の髪の人が、ゆっくりと口を開いた。
何かを言おうとしている。
息を詰めて、シアはその言葉を待つ。
その人の頬が、ぷくりと膨らんだ。
隣の女の子の頬も、同時に。
「「オエェェェェェェェェェェ!!!」」
「キャアアアアアアアアアアア!!!」
シアの悲鳴が、谷の岩壁に何度も跳ね返っていく。
その残響の向こう、遥か西の方で、二つ首の咆哮が小さく応えた。
マロンが、シアの頬をべろりと舐めた。
「……この人たちで、合ってますぅ……?」
誰に聞いたわけでもないその問いに、答える者はいなかった。