ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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# 第44話 擦り切れた踵と、硝子越しの陽炎

# 第44話 擦り切れた踵と、硝子越しの陽炎

 

谷底に、静けさが戻ってきていた。

 

もっとも、静かになったのは人間だけだ。

 

二匹の狼は引き具に繋がれたまま、シアのすぐそばに居座っている。思い出したように首を伸ばしては、べろりと頬を舐めていく。そのたびに、シアの肩は小さく跳ねた。

 

少し先の岩陰では、白銀の髪の人と金色の髪の女の子が、並んで砂の上にしゃがみ込んでいる。

 

二人とも膝を抱え、足元の一点をじっと見つめたまま動かない。白銀の髪の人は時々「うぇ……」と喉の奥で呻き、金色の髪の女の子は呻きもせず、虚ろな目で黒い袖を口元に当てているだけだった。

 

さっきのものは、白銀の髪の人がのろのろと砂をかけて埋めてある。埋め終わるまで、二人とも一言も喋らなかった。

 

シアは舐められて湿った頬を手の甲でそっと拭い、一歩だけ、前に出た。

 

「あ、あのぉ……」

 

二つの頭が、ゆっくりとこちらを向く。顔色は、まだ青いままだ。

 

「……だ、大丈夫、ですかぁ……?」

 

白銀の髪の人は口元を手の甲で押さえたまま、しばらくシアを見上げていた。鼻の上の四角い眼鏡は、まだ少しだけ斜めにずれている。

 

「……ぜんっぜん大丈夫じゃない」

 

「で、ですよねぇ……」

 

「てか、ごめんね。初対面でいきなりアレ見せて」

 

「い、いえっ、そんな……」

 

謝られるとは思っていなかった。慌てて首を振ると、その勢いで伏せていた耳がぴょこんと立ち上がる。両手で押さえつけてから、今さら隠しても仕方がないことに気がついた。

 

一つ、息を吸う。

 

「わ、私、シア・ハウリアといいます。兎人族ですぅ」

 

膝の前で、両手をぎゅっと握り合わせる。

 

「あの……お願いがあって、来たんですぅ。……助けて、ほしいんです」

 

一度口に出してしまうと、言葉はもう止まらなかった。

 

「私たち、一族みんなで逃げてきて、それで、谷の出口には――あっ、ええと、その前に、私たちは――」

 

両手が、勝手に動いていた。胸の前で握り、大きく広げ、谷の向こうを指差して、また胸の前に戻る。そのたびに、さっき押さえつけるのを諦めた二本の長い耳も、一緒になってぴょこぴょこと揺れた。

 

白銀の髪の人は、しゃがみ込んだまま、ぐったりとシアを見上げている。顔色はまだ青い。半分しか開いていない赤い目は、けれど、シアの顔を見てはいなかった。

 

もう少し、上を見ている。

 

「――だから、どうか――」

 

ぴょこ。

 

ぴょこぴょこ。

 

揺れる耳を追って、赤い目が右へ、左へと動く。

 

その目が、ゆっくりと見開かれていく。

 

「――ちょっと待って」

 

白銀の髪の人が、がばりと立ち上がった。

 

ずいぶん背が高い。見上げるには、首を少し反らさなければならなかった。

 

「アンタのそのうさ耳って、ホンモノなん?」

 

「え?」

 

予想していた、どの言葉とも違う。

 

「あっ、はい……こんな耳ですので、音もよく拾えますけど……」

 

「え!? マジ!? ヤバっ!? ちょっと触っていい!?」

 

「え、あの、それは――」

 

返事をするより先に、白い指が耳の付け根に触れていた。

 

ほにほに。

 

ほにほにほに。

 

「ひゃあっ!?」

 

「うわ、あったか! ふわっふわなんだけど! え、今ピクッてした! ピクッてしたよね!?」

 

ついさっきまで砂の上で呻いていた人と、同じ人間とは思えない。青かったはずの顔色まで、いつの間にかすっかり元に戻っている。

 

「な、な、何なんですかアナタはぁ!?」

 

べろり。

 

耳を揉まれて身をよじったシアの頬を、すかさずコテツが舐め上げる。反対側からは、マロンも負けじと首を伸ばしてきた。

 

べろり。べろり。ほにほに。

 

「ひぃぃぃぃっ!?」

 

「てかこの世界、ユニバとディズニー融合してる感じ!? マジでエモない!?」

 

「えも……!? な、何を言ってるのか全然分かりませぇぇん!!」

 

ほにほにほにほに。

 

べろべろべろべろ。

 

「だ、誰か……誰か助けてくださぁぁぁい!!」

 

助けを求めに来たはずの谷の底で、シアは涙目で叫んでいた。

 

その輪から少し離れた岩陰で、金色の髪の女の子だけが、まだ膝を抱えてしゃがみ込んでいる。

 

「……うぷっ」

 

袖で口元を押さえたまま、半分閉じた目で、二人と二匹の騒ぎを眺めていた。

 

(……なんで、あんなに元気なの)

 

止めに入る気力は、どうやら残っていないらしい。

 

ひとしきり揉み倒して気が済んだのか、白い指がようやく耳から離れたのは、それからしばらく経ってのことだった。

 

「はー、満足。……あ、ごめんごめん。とりま話は聞く」

 

「は、はいぃ……」

 

揉みくちゃにされた耳を両手で押さえながら、シアはぐすっと鼻を鳴らして頷いた。

 

「あとさ」

 

ずれた眼鏡が、中指で押し上げられる。

 

「さっき、魔法出なかったんだけど。あーしのも、この子のも。……ここって、そういう場所?」

 

シアは、こくこくと頷いた。

 

「ライセン大峡谷では、魔力が散っちゃうんですぅ。使えないことはないんですけど、何倍も魔力を持っていかれちゃって……だから、この谷では魔法はまともに使えないって」

 

「……それ、もっと早く知りたかったんだが」

 

「す、すみませんっ」

 

「いや、アンタに言ってない。今会ったばっかだし」

 

白銀の髪の人は細長い空を見上げて長いため息をつき、それから急に表情を緩めて、シアに向き直った。

 

「あーしは南雲ハジメ。ハジメでいいよ」

 

言いながら、シアの両脇に居座っている二匹の頭に、ぽんぽんと順番に手を置く。

 

「んで、この子達がコテツとマロン。水色のリボンがコテツで、ピンクがマロンね」

 

名前を呼ばれたのが分かったのか、二匹が揃ってハジメの方を振り返り、尻尾をぶんと一つ大きく振る。

 

「コテツさんと、マロンさん……」

 

小さく繰り返したシアの頬を、マロンがまたべろりと舐めた。

 

その横で、金色の髪の女の子が膝を払って立ち上がる。

 

背は、シアの胸のあたりまでしかない。黒い服の裾を軽く払い、黒いリボンの片側がほどけたままの頭を、少しだけ上げて――

 

「……私は――」

 

「んで、このちっこいのが金太郎ね?」

 

ぽん、とハジメの手がその金色の頭の上に乗り、女の子の動きがぴたりと止まった。

 

「……ちが――」

 

「キンタローさんですね!」

 

シアは、ぱっと顔を明るくした。

 

ようやく、ちゃんとした挨拶ができる。そう思ったら、自然と笑顔になっていた。

 

「これからよろしくお願いしますぅ、キンタローさん!」

 

谷底を、乾いた風が吹き抜けていく。

 

金色の髪の女の子は、頭にハジメの手を乗せたまま動かない。深紅の瞳だけが、ゆっくりと、頭の上の手の持ち主を見上げる。

 

ハジメは、さっと目を逸らした。

 

「…………コロス」

 

ひどく静かな声だった。

 

「ひぃっ!? な、なんでですかぁ!? わ、私、何か間違えましたぁ!?」

 

訳も分からないまま、シアの背中の毛が逆立つ。

 

その時、コテツの耳がぴんと立った。

 

マロンも舐めかけていた舌を引っ込め、二匹の鼻先が揃って西を向く。コテツの喉の奥で、低い唸り声が鳴った。

 

足の裏に、覚えのある振動が伝わってくる。

 

ずん。

 

ずん。

 

西の曲がり角から、赤黒い首が二本、ぬっと覗いた。

 

「……うわっ」

 

ハジメの口元が、引きつる。

 

「アイツまだ諦めてなかったの!? しつこくて草生えるんだけど!?」

 

「……そんなんで、草は生えない」

 

「ダ、ダイヘドア!? ヤバいですぅ!!」

 

シアの耳が、根元から真っ直ぐに立った。

 

この谷に逃げ込んでから、何度も遠くで聞いた咆哮。岩陰に身を寄せ合い、息を殺してやり過ごしてきた相手だ。

 

二つの頭がそれぞれ別の方向をぎょろりと見回し、それから、揃ってこちらを向く。

 

ハジメは、引き車の方を見た。

 

引き具に繋がれたままの二匹は、まだ舌を出して肩で息をしている。

 

ハジメの目が、ふとシアの足元へ落ちた。

 

擦り切れて、もう靴の形をなしていない靴。その破れ目から覗く踵に、乾きかけた血がこびりついている。

 

ほんの一瞬のことだった。

 

「……あーもう」

 

首をこきりと鳴らし、ハジメは引き車の脇へ回った。二匹の留め具をぱちん、ぱちんと外していき、外し終えるとそのまま、ダイヘドアの方へ歩き出す。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいぃ!? 魔法は、使えないんですよぉ!?」

 

「でも、何倍も出せばちょっとは出るんでしょ?」

 

「で、でもそれ、すっごくたくさん魔力が――」

 

「じゃあ、霧散しきれないくらいの魔力出せばいい話っしょ?」

 

振り返らないまま拳を握り、足を開いて腰を落とす。

 

「――フンっ!!」

 

空気が、裂けた。

 

さっきの静電気のような音とは、まるで違う。ハジメの全身から噴き出した紫電が砂を叩き、岩を舐め、谷底の影を一瞬だけ真っ白に塗り潰した。

 

その外側から、紫電はほどけていく。

 

湯気のように、陽炎のように、端から端から空へ溶けていく。けれど溶けた分を上回る勢いで、内側からまた新しい光が噴き出してくる。白銀の髪がばさりと逆立ち、足元の砂粒がふわりと宙に浮いた。

 

焦げたような匂いが、シアの鼻をつく。

 

「……ん」

 

いつの間にか、ティアがハジメの隣に並んでいた。

 

キンタローさん、と呼びかけそうになって、シアは慌てて口を押さえる。

 

「……中くらいのなら、練れば撃てる」

 

小さな手のひらが、真っ直ぐ前に突き出される。その手の先で空気がゆっくりと冷えていくのが、離れていても分かった。

 

自由になった二匹が、ハジメの両脇に並んで吠える。

 

白銀の毛並みが一斉に逆立ち、二匹の身体から散る紫電もまた、さっきまでとは比べものにならないほど太い。

 

ハジメが、ちらりと二匹を振り返った。

 

「――よし」

 

ダイヘドアが、地面を蹴った。

 

最初に飛び出したのは、コテツだ。

 

白銀の身体が弾けるように右へ駆け、一拍遅れて、マロンが左へ。

 

二つの頭が、それぞれ別の獲物を追う。右の頭はコテツを、左の頭はマロンを。巨大な胴体が二つの方向へ同時に引っ張られて、ぐらりとよろめいた。

 

その隙を、コテツは逃さない。

 

岩を蹴って跳び、振り回される太い尻尾に真横から牙を立てる。牙を伝って紫電が流れ込み、ダイヘドアの全身がばちんと跳ねた。二つの喉から、同時に濁った悲鳴が上がる。

 

右の頭が尻尾の方へ首をひねった瞬間には、もうマロンがその背中に飛び乗っていた。肩の付け根に噛みつき、四肢で鱗を掴んだまま、ありったけの紫電を流し込む。

 

また、悲鳴。

 

二つの頭は、もう、どっちを見ればいいのか分からなくなっていた。

 

その足元に、白い霜が這い寄っていく。

 

ティアの手の先から伸びた冷気が砂の上を走り、ダイヘドアの二本の脚に絡みついた。霜はたちまち氷になり、氷は脛を這い上がって、膝まで呑み込んだところで止まる。

 

本来なら、敵の身体を丸ごと棺のような氷に閉じ込める魔法だ。

 

しかしこの谷の底では、脚を二本、膝まで縫い止めるのが精一杯だった。

 

ティアの額に、汗が浮かんでいる。

 

それでも、十分だ。

 

脚を止められた巨体がもがき、もがけばもがくほど、尻尾のコテツと背中のマロンが離すものかと牙を食い込ませる。

 

ハジメが、駆けた。

 

紫電が谷底に一本の線を引き、ダイヘドアの足元まで一気に距離が詰まる。最後の一歩で、ハジメは踵を砂の上に叩きつけた。

 

靴底から、蒼白い光が地面へ走る。

 

その光もまた、端からちりちりとほどけていく。ほどけながら、それでも砂の下の岩を掴んで――

 

踏み込んだ足の真下から、石柱が突き上がった。

 

錬成の勢いのまま、石柱の天辺がハジメの身体を空へと打ち上げる。白銀の髪が紫電の尾を引いて舞い上がり、細長い空を背に、その身体がくるりと回った。

 

左の頭の真横。

 

ぎょろりと見開かれた目が宙のハジメを見つけた時には、もう遅い。

 

「どりゃぁぁぁぁぁぁ!!」

 

反時計回りに振り抜かれた右脚が、紫電を纏ったまま側頭部にめり込んだ。

 

蹴り抜かれた左の頭が、真横へ吹っ飛ぶ。

 

吹っ飛んだ先には、右の頭があった。

 

ごっ。

 

鈍い音が谷に響き、額と額をぶつけ合った二つの頭が、そのままぴたりと止まる。四つの目玉が、それぞれ別の方向へくるりと回った。

 

膝を縫い止めていた氷が、ぱきりと割れる。

 

巨体はゆっくりと傾き、そのまま横倒しに崩れ落ちた。舞い上がった砂煙が、しばらくのあいだ谷底を白く覆う。

 

すたん、と。

 

その砂煙の中に、ハジメが着地した。

 

「――っしゃあ!!」

 

尻尾から牙を離したコテツと、背中から飛び降りたマロンが、一直線にハジメへ駆け寄っていく。両腕を広げて、ハジメは二匹の首にまとめて抱きついた。

 

「ナイス!! アンタ達マジでナイス!! 尻尾ガブってやつ天才すぎ!! え、てか背中乗るとか聞いてないんだけど!? 最高かよ!!」

 

わしゃわしゃと撫で回す両手に、二匹は尻尾を千切れんばかりに振って、ハジメの顔を舐め返す。

 

シアは、その場から一歩も動けずにいた。

 

砂煙の向こうで、ダイヘドアが倒れている。

 

この谷に入ってから、ずっと怯えてきた相手だ。遠くで咆哮が聞こえるたびに、一族みんなで息を殺してきた。

 

それが、倒れている。

 

魔法がまともに使えないはずの、この谷の底で。

 

「……凄い」

 

声が、自然と零れていた。

 

「あのダイヘドアを……あんな、いとも簡単に……」

 

ハジメが、くるりと振り返る。

 

「ティアもナイスぅ! うぇ~い!!」

 

満面の笑みで、片手を高々と掲げる。手のひらを向けて、ぱちんと打ち合わされるのを待つ構えだ。

 

その手の先には、誰もいなかった。

 

「……あれ?」

 

掲げた手をそのままに、ハジメはきょろきょろと辺りを見回す。さっきまでティアが立っていた場所には、小さな足跡が残っているだけだ。

 

「どこ行ったんあの子? ティアー?」

 

岩陰。いない。二匹の後ろ。いない。

 

その背後に、小さな影がすっと忍び寄っていた。

 

かぷり。

 

「――――っ!?」

 

ハジメの背筋が、びんっと伸びた。

 

「いっっっだぁぁぁぁぁぁぁ!!?」

 

谷に、悲鳴が響き渡る。

 

噛みつかれていたのは、尻だった。

 

「ちょ、なんで!? なんでそこ!? 今うぇ~いの流れだったじゃん!! 完全にハイタッチの流れだったじゃん!!」

 

「……ひんはほー」

 

「は!?」

 

「……ひんはほー」

 

「それまだ根に持ってんの!? てかめっちゃ吸ってない!? ねえ吸ってるよね!? お尻から!? ちょ、ストップ、ストーップ!!」

 

尻を押さえて、ハジメが走り出す。ティアは噛みついたまま離れない。黒い服の裾をなびかせて、小さな身体がずるずると砂の上を引きずられていく。引きずられながらも、小さな喉はごく、ごく、と規則正しく動いていた。

 

何かの遊びだと思ったらしいコテツとマロンが、わんわんと吠えながらその後ろを追いかけ始める。

 

「アンタ達も参加しないの!! 痛い痛い痛い痛い!!」

 

尻にティアをぶら下げたハジメと、それを追う二匹が、谷底をぐるぐると回っていく。

 

シアは、その光景を黙って見つめていた。

 

ついさっき、自分は「凄い」と思ったのだ。心の底から。

 

その「凄い」人が今、小さな女の子にお尻を噛まれて、半泣きで走り回っている。

 

(……本当に、この人たちで、合ってますぅ……?)

 

砂煙が、晴れていく。

 

その向こうで、倒れていたダイヘドアの片目がぱちりと開いた。

 

左の頭の目玉が、ぐるりと動いてこちらを見る。

 

尻を押さえて走り回る、白銀の髪の女。その尻に食らいついたまま引きずられていく、金色の髪の小さな生き物。後ろから嬉しそうに追い回す、白銀の狼が二匹。

 

右の頭の目も開き、二つの頭が無言で顔を見合わせた。

 

巨体が、そろりと起き上がる。

 

音を立てないように、ゆっくりと。尻尾を地面に擦らないよう、低く持ち上げて。

 

それから、くるりと背を向けて、一目散に西へ駆け出した。

 

ずんずんずんずん、と遠ざかっていく振動に、ハジメが足を止めて振り返る。尻にティアをぶら下げたまま、ぶんぶんと大きく手を振った。

 

「もう絡んでくんなしー!!」

 

二つ首の背中は、一度も振り返らなかった。

 

◇

 

「――では、本当はティアさん、というんですね」

 

「……ん」

 

短く、けれどはっきりと、ティアは頷いた。

 

平たい岩の上に、三人で腰を下ろしている。コテツとマロンは岩の影に並んで伏せ、まだ少し上がった息を整えていた。ハジメだけは腰を半分浮かせたまま、尻にくっきりと残った小さな歯形を、恨めしそうにさすっている。

 

「……このおバカが、勝手に呼んだだけ」

 

「辛辣で草」

 

「……反省して」

 

じとりと流れてくるティアの視線を、ハジメは知らん顔で細い空を見上げてやり過ごした。

 

シアは膝の上で手を握り直し、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

ハウリアは、ハルツィナ樹海に暮らす兎人族の一族であること。

 

亜人は普通、魔力を持たずに生まれてくること。

 

自分は、そうではなかったこと。

 

「髪の色も、こんなで。……それに、時々、見えちゃうんですぅ。先のことが」

 

「先のこと?」

 

「未来、っていうんでしょうか。勝手に、見えちゃうんです」

 

一族はそれを、ずっと隠してくれていた。けれど、隠し通せなかった。樹海の掟では、魔力を持って生まれた亜人を生かしておくわけにはいかない。

 

だから一族は、シアを連れて樹海を出たのだ。

 

「でも、樹海を出てすぐに、帝国の兵隊に見つかっちゃって。……何人か、連れて行かれちゃいました」

 

握った手に、力が入る。

 

「残ったみんなで、この谷に逃げ込んだんです。谷の中までは、兵隊も追ってこないから。……でも、出口でずっと待ってて。谷の中には、魔物がいて。どっちにも、行けなくなっちゃって」

 

「それで、見えたんだ」

 

「……はい。助けてくれる人が、西にいるって」

 

シアはハジメとティアと、岩の影の二匹を、順番に見た。

 

見えた通りの人たちだ。見えた時に思っていた様子とは、少し、いや、だいぶ違ったけれど。

 

「えー、それヤバない?」

 

膝の上に頬杖をついたまま、ハジメが言った。

 

軽い声だった。天気の話でもするような。

 

シアは、ぎゅっと唇を結ぶ。

 

軽く聞こえるのは当たり前だ。見ず知らずの兎人族の、見ず知らずの事情なのだから。帝国の兵隊を相手にしてくれなんて、頼まれる方が困るに決まっている。

 

だから、差し出せるものを、差し出さなければいけない。

 

岩から降りて、砂の上に膝をつき、両手をつく。

 

「お、お礼は、なんでも――なんでも、しますから! 私にできることなら、本当に、なんでも――だから、どうか――」

 

「んで、そのていこく? の人って何処にいるわけ?」

 

声は、頭の上から降ってきた。

 

顔を上げると、ハジメはもう岩の上に立っていた。両腕を頭の上で組んで、ぐうっと伸びをしている。眼鏡の奥の赤い目はシアではなく、谷の東の方へ向けられていた。

 

「出口って、あっち? 上に出る道とかあんの?」

 

「……え」

 

口を開けたまま、シアは固まった。

 

「え、あの……い、いいん、ですか……? 私、まだ、何も……」

 

「いやいや」

 

伸びをしたまま、ハジメはからからと笑う。

 

「目の前に困ってる子いるのに見捨てるとか、ヤバいでしょw」

 

その笑い声を、ティアは隣で聞いていた。

 

暗い部屋。

 

首から下を石の中に埋められて、三百年、誰の声も聞かなかった部屋。

 

そこへ、壁を壊してうるさく入ってきた人がいた。必死に「たすけて」と言った自分に、ためらいもなく腕を差し出して、難しい理由なんか要らないと、今と同じ顔で笑った人が。

 

あの時と、何も変わっていない。

 

ティアの口元が、ほんの少しだけ緩む。

 

「……ふふ」

 

「え、ティア今笑った?」

 

「……笑ってない」

 

「いや笑ったじゃん! 今、ふふって言ったじゃん!」

 

「……言ってない」

 

ぷいと顔を背けるティアと、食い下がるハジメ。そのやり取りを、シアは砂の上に膝をついたまま見上げていた。

 

鼻の奥が、つんと痛んだ。

 

◇

 

「いい? さっきみたいなのはナシね」

 

コテツとマロンの前に、ハジメはしゃがみ込んでいた。

 

両手で二匹の顔を左右から挟み、自分の顔の高さまで引き寄せる。眼鏡の奥から、一匹ずつ、じっと目を合わせて。

 

「……ゆっくり。ゆっくりだよ」

 

いつもより低い声だった。

 

コテツの耳が、少しだけ後ろへ倒れる。マロンが、くぅん、と鼻を鳴らし、振り回されていた尻尾の振り幅が、ほんの少しだけ小さくなった。

 

「よし。いい子」

 

二匹の額にそれぞれ自分の額をこつんと当ててから、ハジメは立ち上がる。

 

問題は、座席だった。

 

引き車の座席は二人がけで、ハジメとティアが並べばちょうど埋まってしまう。

 

「詰めればいけるっしょ」

 

端にハジメ。

 

その隣にティア。

 

その隣に、シア。

 

三人並ぶと座席は端から端までぎゅうぎゅうで、真ん中のティアの顔の左右の高さに、ちょうど、ハジメの胸とシアの胸があった。

 

引き車が、走り出す。

 

今度は、ちゃんとゆっくりだった。二匹は時々ちらりと後ろを振り返りながら、軽い足取りで谷底を進んでいく。岩壁がのんびりと流れていき、乾いた風が、シアの長い耳をそよそよと撫でていった。

 

それでも、車輪が小石を一つ踏むたびに、座席は小さく揺れる。

 

揺れるたびに、左右から、柔らかいものがティアの頬を挟み込む。

 

むぎゅ。

 

むぎゅ。

 

むぎゅ。

 

ティアは何も言わず、前を向いたまま、ただ目から光を消していた。

 

(……やっぱり、ムカつく)

 

左を見ても、右を見ても、同じものがある。

 

(……二人とも)

 

「あぁ……めっちゃ快適。これでええんよ、これで」

 

手すりに肘を乗せて、ハジメは気持ちよさそうに目を細めた。

 

「キン……あっ、ティアさん! だ、大丈夫ですかぁ? 苦しくないですかぁ?」

 

「…………」

 

「ティアさん?」

 

「……揺れるたび、殺意が湧く」

 

「なんでですかぁ!?」

 

「てかさ、シア」

 

肘を乗せたまま、ハジメがひょいと首を伸ばしてくる。ティアの頭越しに、赤い目がシアを覗き込んだ。

 

「その帝国ってさ、どんな感じの集まりなわけ? ダースベイダーとかおるん?」

 

「だ、だーす……べいだー……?」

 

聞いたこともない名前だった。どこかの将軍だろうか。

 

シアは少し困ったように眉を下げてから、膝の上で手を握り直した。

 

「ヘルシャー帝国は……強い人が一番偉い、っていう国なんですぅ。昔、傭兵さんたちが建てた国だって、父様から聞きました」

 

「ほーん。脳筋の国ってこと?」

 

「の、のうきん……? えっと、それで……帝国では、亜人を捕まえて、奴隷にするんです」

 

握った手に、少しだけ力が入る。

 

「兎人族は、その……見た目がいいからって、高く売れるんだそうで。だから、ずっと狙われてて」

 

ハジメは、何も言わなかった。

 

ただ、肘を乗せていた手すりを、指先でとん、と一度だけ叩いた。

 

◇

 

裂け目の入り口に、男が一人、立っていた。

 

シアの父――カム・ハウリアは、もう長いこと谷の西の方を見つめ続けている。

 

娘が裂け目を飛び出していったのは、朝の光が差し始めた頃のことだ。止める間もなく、追いかけようにも、眠っている子供たちを置いていくわけにはいかなかった。

 

見えた、と言っていた。

 

助けてくれる人が、西に、と。

 

あの子の見たものが外れたことはない。それは、誰より自分が知っている。

 

それでも待つ間に、何度も最悪の景色が頭を過る。遠くでダイヘドアの咆哮が聞こえた時には、膝から力が抜けかけた。

 

カムは、乾いた唇を噛んだ。

 

その時だった。

 

「――とうさまぁぁぁぁぁ!!」

 

遠くから、声がした。

 

長い耳が、ぴんと立つ。聞き間違えるはずのない声だった。

 

張り詰めていた肩から、ゆっくりと力が抜けていく。

 

「シア……戻ってきた、か――」

 

振り向いた先で、白銀の狼が二匹、谷底に姿を現していた。

 

大きい。遠目にも分かるほど大きい。牙を剥き、舌を垂らし、全身からぱちぱちと紫色の火花を散らしながら、一直線にこちらへ向かってくる。

 

その後ろに、何か、車輪の付いたものが繋がれていて。

 

その上に、人影が三つ。

 

真ん中の一つは小さく、両側の二つに挟まれてほとんど見えない。右端の一つが、こちらに向かってぶんぶんと手を振っている。

 

娘だった。

 

「――ドワァァァァァァァ!?」

 

カムの両目が、眼窩から飛び出さんばかりに見開かれた。顎が外れそうなほど口が開き、頭の上の長い耳は、根元から天に向かって一直線に突き立っている。

 

その悲鳴が、裂け目の奥まで響き渡った。

 

眠っていた子供たちが、一斉に跳ね起きる。

 

「お、狼だぁぁぁ!!」

 

「なんで!? なんで狼が車引いてるの!?」

 

「シアが! シアが狼に連れてかれてる!!」

 

「違う、乗ってる! 乗って手振ってる!!」

 

「余計に分かんないよぉぉぉ!!」

 

大人たちが子供を抱きかかえ、子供たちは大人の脚にしがみつき、誰かが誰かの耳を踏んで悲鳴が増え、誰かが腰を抜かしてその場にへたり込む。裂け目の中は、一瞬で蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 

ざっ、と。

 

二匹の狼が、カムの目の前でぴたりと止まる。

 

鼻先が、顔のすぐ前にあった。

 

ふんふん、と匂いを嗅がれ、それから、べろり、と舐められる。

 

カムは直立不動のまま、動かなかった。動けなかった。

 

車の上から、娘がぴょんと飛び降りてくる。

 

「父様! 助けてくれる人、連れてきましたぁ!」

 

「…………そ、そうか……」

 

「ハジメさんと、ティアさんと、コテツさんとマロンさんですぅ!」

 

顔を舐められながら、カムはゆっくりと車の上へ視線を移した。

 

白銀の髪の、背の高い娘が、片手をひらひらと振っている。

 

「どもー」

 

その隣で、金色の髪の小さな少女が、魂の抜けたような顔で座席からずり落ちていった。

 

狼に舐められ続ける顔のまま、それでもカムは背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。

 

「……む、娘が、お世話に、なりました……」

 

◇

 

谷の縁は、風が強い。

 

峡谷の上に広がる荒れ地の、ちょうど谷を見下ろせる場所に、帝国の兵たちは天幕を張っていた。

 

焚き火の燃えさしが、白い灰になって風に散っていく。何人かは天幕の陰で居眠りをし、何人かは石を賽子代わりに転がして暇を潰している。

 

もう何日も、こうしているのだ。

 

兎どもは谷の底に逃げ込んだ。谷の底には魔物がいて、魔法もまともに使えない。いずれ痺れを切らして上がってくるしかなく、上がってくれば、あとは捕まえるだけ。

 

楽な仕事のはずだった。ただ、少しばかり退屈なだけで。

 

「――おい、来たぞ」

 

見張りに立っていた兵が、谷の方を顎でしゃくる。賽子を転がしていた兵たちが、顔を上げた。

 

谷の岩壁に沿って、上へと続く道がある。荷車が一台やっと通れるほどの幅で、つづら折りに岩肌を這い上がってくる道だ。

 

その道を、兎の耳が登ってきていた。

 

一つ、二つ、十、二十。長い耳が列になって、ゆらゆらと揺れながら近づいてくる。

 

「はっ。ようやく出てきやがったか」

 

口の端を吊り上げて、隊長格の男が立ち上がる。腰の剣の柄に手をかけて谷の縁まで歩み出て、それから、眉を寄せた。

 

列の先頭に、何かいる。

 

白い。いや、白銀だ。

 

獣が二匹、並んで道を登ってくる。

 

狼に見えた。見えたが、狼にしては大きすぎる。背中の高さが大人の胸に届きそうなほどあり、陽の光を受けた毛並みが、時折ちかりと紫色に瞬いていた。

 

兎どもを襲っているわけではない。むしろ、先導しているように見える。

 

「……なんだ、ありゃ」

 

誰も答えない。

 

その二匹の間を、人が二人、並んで歩いていた。

 

一人は、女。

 

背が高く、手足が長い。白銀の髪を風になびかせ、襟の立った白いシャツに、黒いズボン。そのズボンを肩から吊っている細い帯が、陽の下でやけに目につく。

 

目元は、黒い硝子に覆われていた。

 

鼻の上に掛けた四角い枠の中で、二枚の硝子が真っ黒に染まり、空の光を跳ね返している。

 

もう一人は、子供に見えた。

 

金色の長い髪に、黒いリボン。黒い服。そしてその小さな顔にも、黒い硝子が乗っている。こちらは楕円の形をしていて、顔の半分を覆ってしまいそうなほど大きい。

 

女が歩きながら両腕を頭の上で組んで、大きく伸びをした。隣の子供は背筋を伸ばしたまま、とことこと女の歩幅についていく。

 

二人とも、これから帝国兵の待ち構える場所へ上がっていくとは思えないほど、のんびりとしていた。

 

「……なんだ、アイツら」

 

隊長格の男が、もう一度呟く。

 

その声に応えるように、谷を登ってくる女の顔が、ふと、こちらを向いた。

 

黒い硝子が、陽を弾いて、ちかりと光った。

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