ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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# 第46話 焚き火に溶けた問いと、朝露の向こうの答え

 

火の粉がひとつ、夜の中へ昇っていった。

 

帝国の兵たちが置いていった天幕は、思っていたよりも上等だった。厚手の布は夜風をよく防ぎ、杭も地面に深く打ち込まれている。焚き火の跡には薪の束まで残っていて、それを足してやると、消えかけていた火はすぐに勢いを取り戻した。

 

その明かりが届くぎりぎりのところで、白銀の毛並みが二つ、ゆっくりと上下している。

 

コテツとマロンは並んで横たわっていた。その腹のあたりに、小さな身体がいくつも埋もれている。昼間、マロンの背中によじ登って胸を張っていた男の子。尻尾を追いかけて回っていた子。最初に顔を舐められて笑い出した、片耳の折れた女の子。どの子も毛並みに顔を半分沈めて、口を少しだけ開けたまま眠っていた。

 

時折、マロンの耳がぴくりと動く。誰かの寝言に応えているのかもしれない。それでも、身体の方は身じろぎひとつしない。

 

ティアは焚き火の前で膝を抱えていた。

 

鍋の底に残ったスープの匂いが、煙に混じって漂っている。兵たちの荷から出てきた干し肉と、谷の縁に生えていた香りの強い草。鍋をかき回したのはティアだが、ハウリアの女たちが横から塩を足し、草の刻み方まで教えてくれた。おかげで、子供たちは二杯ずつおかわりをしてから眠った。

 

焚き火の向こうには、カムが座っている。その隣にシア。

 

そして、ティアの隣には、ハジメがいた。

 

手頃な枝を一本拾って、さっきから焚き火の端をつついている。燃えさしを転がしては、また元の場所へ戻す。それを、もう何度繰り返しているのか分からない。

 

夕方から、ハジメはあまり喋っていなかった。

 

スープを受け取った時に「あんがと」と言った。子供に袖を引っ張られて、頭を撫でてやった。それくらいだ。谷の底で耳を揉み倒していた時の声も、兵たちの前で手を振っていた時の声も、今夜はまだ一度も聞いていない。

 

ぱちり、と薪が爆ぜた。

 

「……ハジメ殿。ティア殿」

 

カムが居住まいを正した。

 

膝の上で組んでいた手をほどき、背筋を伸ばす。焚き火の明かりが、こけた頬の影を濃くしていた。

 

「お話ししておかねばならぬことがございます」

 

ティアは顔を上げた。ハジメの枝は、燃えさしをつついたままだった。

 

「あなた方が助けてくださったのが、どういう者たちなのか。……それを黙ったまま、お世話になり続けるわけには参りません」

 

カムは隣の娘に、ちらりと目をやった。

 

「この子は、魔力を持って生まれました」

 

静かな声だった。

 

「亜人は、魔力を持たずに生まれるものです。我らの森では、魔力を持って生まれた子は、魔物と同じに扱われる。……掟です。古くからの」

 

シアの耳が、ほんの少しだけ下がった。

 

「我らは、長い間、この子を隠して育ててまいりました。一族の皆で口を閉ざし、髪を隠し、他の部族の目に触れぬように」

 

薪がまた、小さく爆ぜる。

 

「ですが、隠し通せるものではありませんでした。他の部族に知られ、フェアベルゲンの長老方の耳にも入り……裁きが下るのは、時間の問題でした」

 

カムの指が、膝の上でゆっくりと握り込まれていく。

 

「ですから、裁きが下る前に、森を出たのです。一族、全員で」

 

シアの耳が、また少し下がった。

 

「誰かに命じられたわけではありません。皆が、そう選んだ。北の山脈を目指しておりました。人の来ない土地で、静かに暮らせればと。……その途中で帝国の兵に見つかり……あとは、娘からお聞きになったとおりかと」

 

伏せていく耳の上に、カムの大きな手がそっと置かれた。

 

シアは何も言わなかった。父の手の下で、じっと焚き火を見つめている。

 

「掟に背き、裁かれるはずの者を連れて逃げた一族です。森の者たちにとって、我らはもう、追われる側の者なのです」

 

カムはまっすぐにこちらを見た。

 

「我らには、もう帰る場所がございません。あなた方が助けてくださったのは、そういう一族です」

 

ティアは黙って聞いていた。

 

樹海の掟のことは、知らなかった。三百年前にも、そんな話を耳にした覚えはない。

 

(……そう)

 

「……じゃあ、あなたも魔力を直接操れたりするの?」

 

シアの耳がぴくりと動いた。父の手の下から、おずおずとティアを見上げる。

 

「は、はい……できます。それと……」

 

シアは少しだけ言い淀んでから、続けた。

 

「谷でお話しした、先のことが見えちゃうのも……私だけの魔法みたいで。未来視、って呼んでます」

 

父の手の下で、長い耳がもぞもぞと動く。

 

「こうしたらどうなるかな、って思うと、その先が見えるんです。あと、危ないことが起きそうな時は、勝手に見えちゃったりもして……。ハジメさんたちが来てくれるのが見えたのも、それで」

 

「……」

 

「ただ、一回使うと、魔力をごっそり持っていかれちゃうので……あんまり何回もは、使えないんですけど」

 

「……ん」

 

それ以上は聞かずに、ティアは隣を見た。

 

ハジメの枝が、止まっていた。

 

燃えさしの上に先を置いたまま、動いていない。眼鏡の奥の赤い目は焚き火に向いているのに、火を見ているようには見えない。カムが話している間、ハジメは一度も頷かず、相槌ひとつ打たなかった。

 

カムの話も、シアの話も、もう終わっている。

 

焚き火のはぜる音と、子供たちの寝息だけが続いていた。

 

「……ハジメ、聞いてる?」

 

ハジメの肩が小さく跳ねた。

 

「……え?」

 

何度か瞬きをして、ようやくこちらを向く。

 

「……なんて?」

 

ティアは小さく息を吐いた。

 

カムの耳が、ほんの少しだけ傾いた。怒っているふうではなかった。むしろ、どこか困ったように、口元を緩めている。

 

「いえ。……長い話でしたので」

 

「父様のお話、いつも長いんです」

 

シアが、父の手の下から小さく言った。少しだけ、いつもの声に近かった。

 

カムはわずかに苦笑して、それから、もう一度背筋を伸ばした。

 

「ただ、これだけは。改めて、申し上げておきたいのです」

 

カムは両手を膝について、深く頭を下げた。

 

「昼間、あの兵に。……我らのために、怒ってくださった」

 

ハジメの手の中で、枝がかすかに軋んだ。

 

「会って間もない、亜人の我らのために。……人間族のお方が、です。そのようなことを、私は生まれてこのかた見たことがございませんでした」

 

顔を上げたカムの目尻の皺が、火に照らされて深く見えた。

 

「ありがとうございました。ハジメ殿」

 

ハジメはすぐには答えなかった。

 

枝を膝の上に置く。それから少しだけ俯いた。白銀の髪が肩から零れて、横顔を半分隠す。

 

左手が、ゆっくりと右の手首へ伸びていった。

 

指先が、手首の内側をなぞる。何も着けていない、白い肌の上を。何かを探すように、一度、二度。

 

ティアはその仕草を、知っていた。

 

奈落の底、封印の部屋で。上の階層から落ちてきた時のことを話しながら、ハジメは同じように、自分の右手首を撫でていた。

 

あの時も、今も。その指が何を探しているのかは、ティアには分からない。

 

焚き火が揺れる。

 

俯いたままのハジメの唇が、小さく動いた。

 

「……まぁ」

 

誰に向けた声でもなかった。

 

「見てて嫌なもんは、嫌だしね……」

 

右手首から、指が離れる。

 

「……今は、それでいいじゃん……」

 

ひとりごとだった。たぶん、すぐ隣にいるティアにしか聞こえていない。

 

ハジメは顔を上げた。膝の上の枝を拾い、ひょいと焚き火の中へ放り込む。乾いた枝はすぐに火を移して、ぱちぱちと明るく燃え始めた。

 

「……あぁ、ゴメン。考え事してた」

 

カムに向かって、ハジメは小さく頭を下げた。カムは黙って首を横に振る。

 

それから、ハジメはティアの方を向いた。

 

「ねぇ、ティア」

 

「……なに?」

 

「ティアさ、言ってたじゃん。亜人の人たちは人間から人として見られてないから、こういうのはこの世界じゃ普通だって」

 

昼間、あの兵の前で、ティア自身が口にした言葉だった。

 

「……ん」

 

ティアが短く返すと、ハジメは焚き火に目を戻した。

 

燃え始めた枝の先で、火が小さく踊っている。

 

「あーし、思ったんよ」

 

火の中で、枝がぱちりと鳴った。

 

「だから何? って」

 

ハジメの声は軽かった。

 

「あーしは、あーしのやりたいようにやる。……今、そう決めた」

 

その肩から、さっきまでの強張りが抜けていた。

 

やりたいようにやる、の中身までは、ティアは聞かなかった。聞かなくても、たぶん困らない気がした。

 

ティアは抱えていた膝に、顎を乗せた。

 

(……なら、いい)

 

火の粉がひとつ、また夜の中へ昇っていった。

 

◇

 

荒れ地の朝は、冷たかった。

 

夜のうちに冷えきった空気が地面に溜まり、天幕の布にはうっすらと露が降りている。焚き火の跡からは灰の匂いがして、その上を、東から差し込んだ低い光がまっすぐに渡っていった。

 

ハウリアたちは天幕を畳み始めていた。

 

大人たちが杭を抜き、子供たちが布の端を持って走り回る。走り回るうちに布を引きずり、引きずった布に別の子が足を取られて転び、転んだ子をマロンが心配そうに舐め回す。その横では、コテツが抜かれた杭を一本くわえて、得意げに尻尾を振っていた。

 

「コテツ、それ遊び道具じゃないし。返しなー」

 

寝癖で髪の一房が跳ねたまま、ハジメが手を伸ばす。コテツは杭をくわえたまま、ひらりと身をかわした。

 

「あ、こら」

 

ハジメはそれ以上追わなかった。

 

「あ、あの……」

 

声がして振り返ると、畳みかけの布を胸に抱えたシアが立っていた。

 

ハジメの顔と、その隣で黙々とサングラスを磨いていたティアの顔を、交互に見る。長い耳が、半分だけ伏せられていた。

 

「……もしかして、ハジメさん達も、魔力を直接操れるんですか?」

 

ハジメは瞬きをした。

 

「え、なんで?」

 

「谷でダイヘドアと戦ってた時も、兵隊さん達の時も……お二人とも、詠唱してなかったので。それに、昨日の夜、ティアさんが『あなたも』って……」

 

ティアがサングラスを磨く手を止めた。

 

「……ん。言った」

 

「え、待って」

 

ハジメの首がぐりんとシアへ向いた。

 

「『も』ってことは、シアも直接魔力操れるってこと?」

 

シアの耳がぴんと跳ねた。

 

「は、はい……」

 

シアは布を抱えたまま、昨夜ティアに話したことを、今度はハジメに話した。魔力を直接操れること。先のことが見える、自分だけの魔法のこと。こうしたらどうなるかと思えばその先が見えて、危ない時には勝手に見えてしまうこと。一度使うと、魔力をごっそり持っていかれること。

 

ハジメは途中から、目をきらきらさせて聞いていた。

 

「え、未来見えるとか強すぎん?」

 

「そ、そうですか……?」

 

「んで、さっきのやつね。魔力直接操れんのなんか、あーしとティアもだし!」

 

「や、やっぱり……!」

 

シアの腕の中で、畳みかけの布がずり落ちかけた。

 

「ほら」

 

ハジメが指を一本立てる。その先で、ちりっと小さな紫電が跳ねた。隣ではティアが、手のひらの上に小さな氷の粒をひとつ転がしてみせる。どちらも、詠唱はなかった。

 

「ね? だから全然普通だって」

 

「……別に、普通じゃない」

 

「言葉の綾じゃん!」

 

ティアは手のひらの氷の粒を、指先で軽く弾いた。

 

「……でも、シアと同じような人が、少なくともここに二人いる」

 

シアの耳が、根元からゆっくりと持ち上がっていった。

 

胸に抱えた布を、ぎゅっと抱きしめる。何か言おうとして唇が動き、けれど言葉にならないまま、目の縁だけがじわりと赤くなっていく。

 

「……ふ、二人も……」

 

「ちょっ、コテツとマロンも忘れんなし!」

 

名前を呼ばれた二匹が、天幕の陰からひょいと顔を出した。コテツは杭をくわえたまま、マロンはその後ろから。二匹揃って尻尾を振るたびに、毛先からぱちりと紫色の火花が散る。

 

「……コテツとマロンは、そもそも魔物」

 

「いいじゃん! 入れてあげても!」

 

ハジメが両腕を広げると、それを合図にしたように二匹が駆け寄ってきた。コテツの口から杭がからんと落ちる。左右から同時に飛びつかれて、ハジメは「ちょ、重っ、重いって!」と喚きながら、そのまま砂の上に尻もちをついた。大きな舌が両側から顔を舐め回し、白銀の髪がみるみるもみくちゃになっていく。

 

ティアは呆れたように息を吐いた。けれど、サングラスをかけ直すその口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。

 

シアはその光景を見つめていた。

 

人間族の少女と、金色の髪の小さな女の子と、白銀の狼が二匹。生まれも姿も、まるで違う。それなのに、砂の上でもみくちゃになって、呆れて、笑い合っている。

 

詠唱もなしに魔力を扱える者なんて、自分の他にはいないと思っていた。森にも、一族の中にも。この先もずっと、自分一人だけなのだと。

 

(……あそこなら)

 

シアは布を抱え直して、父の背中の方へ目をやった。杭を抜いている、大きな背中。その向こうで天幕を畳んでいる、一族のみんな。

 

それから、もう一度、砂の上の二人と二匹を見た。

 

シアは何も言わなかった。

 

ハジメは二匹の下からどうにか這い出して、立ち上がった。砂を払い、腰に手を当てて、天幕を畳むハウリアたちをぐるりと見渡す。それから、大きく一つ頷いた。

 

「よし、決めた!」

 

あちこちで作業の手が止まった。

 

「みんなさ、森の偉い人たちのとこ行って、もっかい森に住めるようにお願いしよ!」

 

荒れ地を、風が吹き抜けていった。

 

杭を抜こうとしていた男が、杭を握ったまま固まっている。布を抱えていた女が、布を抱えたまま首を傾げる。子供たちだけが、意味も分からずに「おねがいー!」と声を揃えた。

 

カムがゆっくりと口を開いた。

 

「……森の、偉い……フェアベルゲンの、長老方に、ということでしょうか」

 

「それそれ! フェア……なんとか」

 

「フェアベルゲン、です」

 

「それ!」

 

カムの耳が、根元から少しずつ傾いていく。

 

昨夜、確かに話したはずの名前だった。

 

「……ハジメ殿。お気持ちは、本当に、ありがたく思います」

 

カムは一歩前に出て、深く頭を下げた。

 

「ですが、そこまでしていただくわけには参りません。我らはもう、十分すぎるほど助けていただきました。これ以上、ご迷惑をおかけするわけには」

 

「えー、迷惑とかじゃないって」

 

「それに……」

 

カムの目が、ほんの一瞬だけ、隣の娘へ動いた。

 

「長老方の前に、この子を連れて行くということは……」

 

その先は、言葉にならなかった。

 

シアは父の隣に立っていた。

 

畳みかけの天幕の端を、両手で握っている。耳は伏せていなかった。立てたまま、じっと動かない。目は足元の灰に落ちていて、何かを考えているようにも、何も考えていないようにも見えた。

 

布を握る指先にだけ、少し力がこもっていた。

 

カムはそれに気づかなかった。

 

ハジメはカムの視線を追って、シアを見た。それから、カムに目を戻す。

 

「シアのことなら、あーしらも一緒に行くし。一人で前に出したりしないって」

 

軽い声だった。けれど、カムの目から逸らさずに言った。

 

「それにさ、あーしも樹海に用事あんだよね。あそこって迷宮あるっしょ? それちょっと見ときたくて」

 

「……迷宮、ですか」

 

カムが聞き返した。

 

「樹海は……樹海そのものが、大迷宮であると。我らは、そう伝え聞いておりますが」

 

周りのハウリアたちが、揃ってこくこくと頷く。

 

ハジメは首を傾げた。

 

「え、そうなん?」

 

腕を組んで、少し考える。

 

「いや、あーしらさ、オルクスってとこの一番下から出てきたんだけど」

 

一拍、間があった。

 

「……オルクス?」

 

「人間族の町にあるっていう、あの……?」

 

「一番、下……?」

 

ハウリアたちが、ひそひそと顔を見合わせる。噂でしか聞いたことのない名前だった。人間族が潜る、深い穴。どこまで続いているのか、誰も知らない場所。その一番下から出てきた、と目の前の少女は言ったのだ。朝ごはんの献立でも話すような顔で。

 

シアの耳が、ぴんと真上に跳ね上がった。

 

カムは口を開いたまま、閉じる場所を見失っていた。

 

当のハジメは周りの反応にはまるで構わず、腕を組んだまま眉を寄せていた。

 

「うーん……みんなが住めるくらいの森が、迷宮になるん?」

 

首を、反対側へ傾ける。

 

「まぁ、それならそれで楽でええやんってなるけど……なんか違うと思うんよねぇ……」

 

「……あそこにいたような魔物が樹海にいたら、亜人は住めない」

 

ティアがぽつりと言った。

 

ハジメの隣で、サングラスを額に押し上げたまま、天幕を畳むハウリアたちを眺めている。

 

「森で暮らしてるなら、たぶん違う」

 

「それな!」

 

ハジメがぱちんと指を鳴らした。

 

「とにかく迷宮ってね!」

 

両手が大きく広がった。

 

「なんかこう、穴がドーンってあって! 下にズゴゴゴって、めっちゃ続いてて!」

 

手のひらが、地面に向かってぐるぐると渦を巻きながら下りていく。

 

「ほんで、デカいのがグワーって来て! こっちはギャーってなって! 逃げたらまたデカいのがグワーって来て! またギャーってなって!」

 

両腕を振り上げ、振り下ろし、その場で二、三歩逃げる真似までしてみせる。

 

「で、一番下まで行くと、なんかこう……エモい部屋がフワッとあんの!」

 

最後に両手をふわりと広げて、ハジメは満足げに頷いた。

 

しんとしていた。

 

ハウリアの大人たちが、誰一人として瞬きをしていない。カムの耳は右と左で別々の角度に傾いていた。

 

「……ずごごご?」

 

「ぐわー!」

 

「ぎゃー!」

 

子供たちだけが、楽しそうに真似をし始めた。両手を広げてぐるぐる回る子に、マロンが嬉しそうに吠えながらついて回る。

 

シアがおずおずと手を挙げた。

 

「あ、あの……えもいって、昨日も言ってませんでしたか……?」

 

「言ったかも」

 

「け、結局、なんなんですか……?」

 

「エモいはエモいじゃん」

 

「……余計、分からない」

 

ティアが額に手を当てた。

 

カムはしばらく、何も言わなかった。

 

傾いていた耳が、ゆっくりと元に戻っていく。それから、何かを手繰り寄せるように、視線が遠くなった。

 

「……お二人の仰る迷宮かどうかは、分かりませんが」

 

ハジメとティアが、揃ってカムを見た。

 

「樹海の、最も奥に。大樹がございます」

 

カムは東の空を見やった。その向こうに、自分たちが出てきた森がある。

 

「ウーア・アルト、と。我らはそう呼んでおります。森の者たちにとっては、聖地です。……ですから、近づく者は、滅多におりません」

 

ハジメの目が少しずつ見開かれていく。

 

「……それじゃん」

 

「……かもしれない」

 

「絶対それじゃん! え、めっちゃそれっぽくない!?」

 

ハジメはぐるりとカムに向き直った。

 

「ほらね。あーしはそのウーなんとか見に行きたいし、みんなはお願いしに行くし。行き先一緒なら、一緒に行けばよくない?」

 

「……ハジメ殿」

 

カムはまだ何か言いかけて、そのまま口をつぐんだ。

 

迷うように、隣の娘を見る。

 

シアは顔を上げていた。

 

握っていた天幕の端をそっと離して、父の目をまっすぐに見返す。

 

「父様。行きましょう」

 

いつもの、どこか頼りなげな声ではなかった。

 

カムはしばらく、娘の顔を見つめていた。それから目を伏せ、もう一度、ハジメに向かって深く頭を下げた。

 

「……よろしく、お願いいたします」

 

「おけまる! 任しときー!」

 

ハジメが親指を立てる。

 

「……帝国の兵の時も、似たようなこと言って失敗した」

 

ティアがぼそりと呟いた。

 

「それ言わんでいいから!!」

 

頭を下げたままのカムの耳が、ぴくりと揺れた。

 

その横で、いつの間にか杭をくわえ直していたコテツが、わけも分からずに尻尾を振った。

 

◇

 

樹海は、遠くからでも分かった。

 

荒れ地の果てに、緑の壁がそびえている。

 

一本一本の木が、とてつもなく高い。幹は大人が何人も手を繋いでようやく囲めるほどに太く、その根元を、白い霧が這うように流れていた。霧は森の奥へ行くほど濃くなって、少し先の木の幹さえ、ぼんやりと輪郭を溶かしている。

 

湿った土と、苔と、知らない花の匂いがした。

 

乾いた荒れ地をずっと歩いてきた鼻に、それはやけに濃く感じられた。

 

「……でっか」

 

ハジメが首を真上に反らした。反らしすぎて、後ろによろめいた。

 

その森の手前で、カムが足を止めた。

 

一族もそれに倣って止まる。

 

「……ハジメ殿、ティア殿。ここから先は、お願いがございます」

 

カムは振り返って、声を落とした。

 

「我ら兎人族は、気配を断つのが得手でして。樹海の中では、他の部族に見つからぬに越したことはございません。……できれば、お二人にも、気配を消していただければと」

 

ハジメは瞬きをした。

 

「気配って、消せるもんなん?」

 

「……え」

 

カムの耳が、ぴたりと止まった。

 

「……私は、できる」

 

ティアが小さく手を挙げた。

 

「マジ!? ずっる!」

 

「……でも」

 

ティアは手を下ろして、ハジメを見た。

 

それから、ハジメの両脇に目をやる。

 

背中の高さが大人の胸に届く、白銀の狼が二匹。森の湿気が肌に障るのか、その毛先から時々、紫色の小さな火花がぱちりと散っている。マロンが鼻をひくつかせ、コテツが大きなあくびをした。あくびの口の中でも、ぱちりと一つ散った。

 

「……ハジメと、この子達が丸見えなら、私だけ消えても意味ない」

 

ハジメは二匹を見た。

 

二匹はハジメを見上げて、尻尾を振った。

 

ぱちり。

 

カムの耳が、根元からゆっくりと垂れていった。

 

「……ま、まぁ。静かにしてれば、ワンチャン?」

 

「……そう、ですね」

 

カムの声には、もう何も残っていなかった。

 

一行は霧の中へ足を踏み入れた。

 

足元の土が柔らかい。木の根が地面を這い、その上を苔が覆っている。霧が頬にまとわりついて、ひんやりと湿っていた。ハジメは口を両手で押さえて、言われたとおりに声を殺している。押さえた指の隙間から、見たことのない形の花を見つけるたびに、「……っ」と何かが漏れかけていた。

 

最初の木の間を抜けた。

 

二本目の木の間を抜けた。

 

霧が、ふっと薄くなった。

 

先頭を歩いていたカムの足が、止まった。

 

森の入り口を塞ぐように、誰かが立っていた。

 

一人ではない。五人、六人。両足を肩幅に開き、腕を胸の前で組んで。霧の中から浮かび上がるように、こちらを真正面から見据えている。

 

頭の上に、丸みを帯びた耳があった。黄色と黒の、縞の入った耳。その腰の後ろで、同じ縞の太い尾が、ゆらりと一度だけ揺れた。

 

虎人族だった。

 

待ち構えていた。そうとしか思えない立ち方だった。

 

ハウリアの列が、一番後ろまでぴたりと固まる。シアの耳が根元から真っ直ぐに立ち、カムは息をするのも忘れている。コテツとマロンが、揃って首を傾げた。

 

ハジメは口を押さえていた両手を、そろそろと下ろした。

 

それから、片手を胸の高さまで上げて、ひらりと振った。

 

「……ど、どもー?」

 

霧の向こうで、虎の尾がもう一度、ゆらりと揺れた。

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