火の粉がひとつ、夜の中へ昇っていった。
帝国の兵たちが置いていった天幕は、思っていたよりも上等だった。厚手の布は夜風をよく防ぎ、杭も地面に深く打ち込まれている。焚き火の跡には薪の束まで残っていて、それを足してやると、消えかけていた火はすぐに勢いを取り戻した。
その明かりが届くぎりぎりのところで、白銀の毛並みが二つ、ゆっくりと上下している。
コテツとマロンは並んで横たわっていた。その腹のあたりに、小さな身体がいくつも埋もれている。昼間、マロンの背中によじ登って胸を張っていた男の子。尻尾を追いかけて回っていた子。最初に顔を舐められて笑い出した、片耳の折れた女の子。どの子も毛並みに顔を半分沈めて、口を少しだけ開けたまま眠っていた。
時折、マロンの耳がぴくりと動く。誰かの寝言に応えているのかもしれない。それでも、身体の方は身じろぎひとつしない。
ティアは焚き火の前で膝を抱えていた。
鍋の底に残ったスープの匂いが、煙に混じって漂っている。兵たちの荷から出てきた干し肉と、谷の縁に生えていた香りの強い草。鍋をかき回したのはティアだが、ハウリアの女たちが横から塩を足し、草の刻み方まで教えてくれた。おかげで、子供たちは二杯ずつおかわりをしてから眠った。
焚き火の向こうには、カムが座っている。その隣にシア。
そして、ティアの隣には、ハジメがいた。
手頃な枝を一本拾って、さっきから焚き火の端をつついている。燃えさしを転がしては、また元の場所へ戻す。それを、もう何度繰り返しているのか分からない。
夕方から、ハジメはあまり喋っていなかった。
スープを受け取った時に「あんがと」と言った。子供に袖を引っ張られて、頭を撫でてやった。それくらいだ。谷の底で耳を揉み倒していた時の声も、兵たちの前で手を振っていた時の声も、今夜はまだ一度も聞いていない。
ぱちり、と薪が爆ぜた。
「……ハジメ殿。ティア殿」
カムが居住まいを正した。
膝の上で組んでいた手をほどき、背筋を伸ばす。焚き火の明かりが、こけた頬の影を濃くしていた。
「お話ししておかねばならぬことがございます」
ティアは顔を上げた。ハジメの枝は、燃えさしをつついたままだった。
「あなた方が助けてくださったのが、どういう者たちなのか。……それを黙ったまま、お世話になり続けるわけには参りません」
カムは隣の娘に、ちらりと目をやった。
「この子は、魔力を持って生まれました」
静かな声だった。
「亜人は、魔力を持たずに生まれるものです。我らの森では、魔力を持って生まれた子は、魔物と同じに扱われる。……掟です。古くからの」
シアの耳が、ほんの少しだけ下がった。
「我らは、長い間、この子を隠して育ててまいりました。一族の皆で口を閉ざし、髪を隠し、他の部族の目に触れぬように」
薪がまた、小さく爆ぜる。
「ですが、隠し通せるものではありませんでした。他の部族に知られ、フェアベルゲンの長老方の耳にも入り……裁きが下るのは、時間の問題でした」
カムの指が、膝の上でゆっくりと握り込まれていく。
「ですから、裁きが下る前に、森を出たのです。一族、全員で」
シアの耳が、また少し下がった。
「誰かに命じられたわけではありません。皆が、そう選んだ。北の山脈を目指しておりました。人の来ない土地で、静かに暮らせればと。……その途中で帝国の兵に見つかり……あとは、娘からお聞きになったとおりかと」
伏せていく耳の上に、カムの大きな手がそっと置かれた。
シアは何も言わなかった。父の手の下で、じっと焚き火を見つめている。
「掟に背き、裁かれるはずの者を連れて逃げた一族です。森の者たちにとって、我らはもう、追われる側の者なのです」
カムはまっすぐにこちらを見た。
「我らには、もう帰る場所がございません。あなた方が助けてくださったのは、そういう一族です」
ティアは黙って聞いていた。
樹海の掟のことは、知らなかった。三百年前にも、そんな話を耳にした覚えはない。
(……そう)
「……じゃあ、あなたも魔力を直接操れたりするの?」
シアの耳がぴくりと動いた。父の手の下から、おずおずとティアを見上げる。
「は、はい……できます。それと……」
シアは少しだけ言い淀んでから、続けた。
「谷でお話しした、先のことが見えちゃうのも……私だけの魔法みたいで。未来視、って呼んでます」
父の手の下で、長い耳がもぞもぞと動く。
「こうしたらどうなるかな、って思うと、その先が見えるんです。あと、危ないことが起きそうな時は、勝手に見えちゃったりもして……。ハジメさんたちが来てくれるのが見えたのも、それで」
「……」
「ただ、一回使うと、魔力をごっそり持っていかれちゃうので……あんまり何回もは、使えないんですけど」
「……ん」
それ以上は聞かずに、ティアは隣を見た。
ハジメの枝が、止まっていた。
燃えさしの上に先を置いたまま、動いていない。眼鏡の奥の赤い目は焚き火に向いているのに、火を見ているようには見えない。カムが話している間、ハジメは一度も頷かず、相槌ひとつ打たなかった。
カムの話も、シアの話も、もう終わっている。
焚き火のはぜる音と、子供たちの寝息だけが続いていた。
「……ハジメ、聞いてる?」
ハジメの肩が小さく跳ねた。
「……え?」
何度か瞬きをして、ようやくこちらを向く。
「……なんて?」
ティアは小さく息を吐いた。
カムの耳が、ほんの少しだけ傾いた。怒っているふうではなかった。むしろ、どこか困ったように、口元を緩めている。
「いえ。……長い話でしたので」
「父様のお話、いつも長いんです」
シアが、父の手の下から小さく言った。少しだけ、いつもの声に近かった。
カムはわずかに苦笑して、それから、もう一度背筋を伸ばした。
「ただ、これだけは。改めて、申し上げておきたいのです」
カムは両手を膝について、深く頭を下げた。
「昼間、あの兵に。……我らのために、怒ってくださった」
ハジメの手の中で、枝がかすかに軋んだ。
「会って間もない、亜人の我らのために。……人間族のお方が、です。そのようなことを、私は生まれてこのかた見たことがございませんでした」
顔を上げたカムの目尻の皺が、火に照らされて深く見えた。
「ありがとうございました。ハジメ殿」
ハジメはすぐには答えなかった。
枝を膝の上に置く。それから少しだけ俯いた。白銀の髪が肩から零れて、横顔を半分隠す。
左手が、ゆっくりと右の手首へ伸びていった。
指先が、手首の内側をなぞる。何も着けていない、白い肌の上を。何かを探すように、一度、二度。
ティアはその仕草を、知っていた。
奈落の底、封印の部屋で。上の階層から落ちてきた時のことを話しながら、ハジメは同じように、自分の右手首を撫でていた。
あの時も、今も。その指が何を探しているのかは、ティアには分からない。
焚き火が揺れる。
俯いたままのハジメの唇が、小さく動いた。
「……まぁ」
誰に向けた声でもなかった。
「見てて嫌なもんは、嫌だしね……」
右手首から、指が離れる。
「……今は、それでいいじゃん……」
ひとりごとだった。たぶん、すぐ隣にいるティアにしか聞こえていない。
ハジメは顔を上げた。膝の上の枝を拾い、ひょいと焚き火の中へ放り込む。乾いた枝はすぐに火を移して、ぱちぱちと明るく燃え始めた。
「……あぁ、ゴメン。考え事してた」
カムに向かって、ハジメは小さく頭を下げた。カムは黙って首を横に振る。
それから、ハジメはティアの方を向いた。
「ねぇ、ティア」
「……なに?」
「ティアさ、言ってたじゃん。亜人の人たちは人間から人として見られてないから、こういうのはこの世界じゃ普通だって」
昼間、あの兵の前で、ティア自身が口にした言葉だった。
「……ん」
ティアが短く返すと、ハジメは焚き火に目を戻した。
燃え始めた枝の先で、火が小さく踊っている。
「あーし、思ったんよ」
火の中で、枝がぱちりと鳴った。
「だから何? って」
ハジメの声は軽かった。
「あーしは、あーしのやりたいようにやる。……今、そう決めた」
その肩から、さっきまでの強張りが抜けていた。
やりたいようにやる、の中身までは、ティアは聞かなかった。聞かなくても、たぶん困らない気がした。
ティアは抱えていた膝に、顎を乗せた。
(……なら、いい)
火の粉がひとつ、また夜の中へ昇っていった。
◇
荒れ地の朝は、冷たかった。
夜のうちに冷えきった空気が地面に溜まり、天幕の布にはうっすらと露が降りている。焚き火の跡からは灰の匂いがして、その上を、東から差し込んだ低い光がまっすぐに渡っていった。
ハウリアたちは天幕を畳み始めていた。
大人たちが杭を抜き、子供たちが布の端を持って走り回る。走り回るうちに布を引きずり、引きずった布に別の子が足を取られて転び、転んだ子をマロンが心配そうに舐め回す。その横では、コテツが抜かれた杭を一本くわえて、得意げに尻尾を振っていた。
「コテツ、それ遊び道具じゃないし。返しなー」
寝癖で髪の一房が跳ねたまま、ハジメが手を伸ばす。コテツは杭をくわえたまま、ひらりと身をかわした。
「あ、こら」
ハジメはそれ以上追わなかった。
「あ、あの……」
声がして振り返ると、畳みかけの布を胸に抱えたシアが立っていた。
ハジメの顔と、その隣で黙々とサングラスを磨いていたティアの顔を、交互に見る。長い耳が、半分だけ伏せられていた。
「……もしかして、ハジメさん達も、魔力を直接操れるんですか?」
ハジメは瞬きをした。
「え、なんで?」
「谷でダイヘドアと戦ってた時も、兵隊さん達の時も……お二人とも、詠唱してなかったので。それに、昨日の夜、ティアさんが『あなたも』って……」
ティアがサングラスを磨く手を止めた。
「……ん。言った」
「え、待って」
ハジメの首がぐりんとシアへ向いた。
「『も』ってことは、シアも直接魔力操れるってこと?」
シアの耳がぴんと跳ねた。
「は、はい……」
シアは布を抱えたまま、昨夜ティアに話したことを、今度はハジメに話した。魔力を直接操れること。先のことが見える、自分だけの魔法のこと。こうしたらどうなるかと思えばその先が見えて、危ない時には勝手に見えてしまうこと。一度使うと、魔力をごっそり持っていかれること。
ハジメは途中から、目をきらきらさせて聞いていた。
「え、未来見えるとか強すぎん?」
「そ、そうですか……?」
「んで、さっきのやつね。魔力直接操れんのなんか、あーしとティアもだし!」
「や、やっぱり……!」
シアの腕の中で、畳みかけの布がずり落ちかけた。
「ほら」
ハジメが指を一本立てる。その先で、ちりっと小さな紫電が跳ねた。隣ではティアが、手のひらの上に小さな氷の粒をひとつ転がしてみせる。どちらも、詠唱はなかった。
「ね? だから全然普通だって」
「……別に、普通じゃない」
「言葉の綾じゃん!」
ティアは手のひらの氷の粒を、指先で軽く弾いた。
「……でも、シアと同じような人が、少なくともここに二人いる」
シアの耳が、根元からゆっくりと持ち上がっていった。
胸に抱えた布を、ぎゅっと抱きしめる。何か言おうとして唇が動き、けれど言葉にならないまま、目の縁だけがじわりと赤くなっていく。
「……ふ、二人も……」
「ちょっ、コテツとマロンも忘れんなし!」
名前を呼ばれた二匹が、天幕の陰からひょいと顔を出した。コテツは杭をくわえたまま、マロンはその後ろから。二匹揃って尻尾を振るたびに、毛先からぱちりと紫色の火花が散る。
「……コテツとマロンは、そもそも魔物」
「いいじゃん! 入れてあげても!」
ハジメが両腕を広げると、それを合図にしたように二匹が駆け寄ってきた。コテツの口から杭がからんと落ちる。左右から同時に飛びつかれて、ハジメは「ちょ、重っ、重いって!」と喚きながら、そのまま砂の上に尻もちをついた。大きな舌が両側から顔を舐め回し、白銀の髪がみるみるもみくちゃになっていく。
ティアは呆れたように息を吐いた。けれど、サングラスをかけ直すその口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
シアはその光景を見つめていた。
人間族の少女と、金色の髪の小さな女の子と、白銀の狼が二匹。生まれも姿も、まるで違う。それなのに、砂の上でもみくちゃになって、呆れて、笑い合っている。
詠唱もなしに魔力を扱える者なんて、自分の他にはいないと思っていた。森にも、一族の中にも。この先もずっと、自分一人だけなのだと。
(……あそこなら)
シアは布を抱え直して、父の背中の方へ目をやった。杭を抜いている、大きな背中。その向こうで天幕を畳んでいる、一族のみんな。
それから、もう一度、砂の上の二人と二匹を見た。
シアは何も言わなかった。
ハジメは二匹の下からどうにか這い出して、立ち上がった。砂を払い、腰に手を当てて、天幕を畳むハウリアたちをぐるりと見渡す。それから、大きく一つ頷いた。
「よし、決めた!」
あちこちで作業の手が止まった。
「みんなさ、森の偉い人たちのとこ行って、もっかい森に住めるようにお願いしよ!」
荒れ地を、風が吹き抜けていった。
杭を抜こうとしていた男が、杭を握ったまま固まっている。布を抱えていた女が、布を抱えたまま首を傾げる。子供たちだけが、意味も分からずに「おねがいー!」と声を揃えた。
カムがゆっくりと口を開いた。
「……森の、偉い……フェアベルゲンの、長老方に、ということでしょうか」
「それそれ! フェア……なんとか」
「フェアベルゲン、です」
「それ!」
カムの耳が、根元から少しずつ傾いていく。
昨夜、確かに話したはずの名前だった。
「……ハジメ殿。お気持ちは、本当に、ありがたく思います」
カムは一歩前に出て、深く頭を下げた。
「ですが、そこまでしていただくわけには参りません。我らはもう、十分すぎるほど助けていただきました。これ以上、ご迷惑をおかけするわけには」
「えー、迷惑とかじゃないって」
「それに……」
カムの目が、ほんの一瞬だけ、隣の娘へ動いた。
「長老方の前に、この子を連れて行くということは……」
その先は、言葉にならなかった。
シアは父の隣に立っていた。
畳みかけの天幕の端を、両手で握っている。耳は伏せていなかった。立てたまま、じっと動かない。目は足元の灰に落ちていて、何かを考えているようにも、何も考えていないようにも見えた。
布を握る指先にだけ、少し力がこもっていた。
カムはそれに気づかなかった。
ハジメはカムの視線を追って、シアを見た。それから、カムに目を戻す。
「シアのことなら、あーしらも一緒に行くし。一人で前に出したりしないって」
軽い声だった。けれど、カムの目から逸らさずに言った。
「それにさ、あーしも樹海に用事あんだよね。あそこって迷宮あるっしょ? それちょっと見ときたくて」
「……迷宮、ですか」
カムが聞き返した。
「樹海は……樹海そのものが、大迷宮であると。我らは、そう伝え聞いておりますが」
周りのハウリアたちが、揃ってこくこくと頷く。
ハジメは首を傾げた。
「え、そうなん?」
腕を組んで、少し考える。
「いや、あーしらさ、オルクスってとこの一番下から出てきたんだけど」
一拍、間があった。
「……オルクス?」
「人間族の町にあるっていう、あの……?」
「一番、下……?」
ハウリアたちが、ひそひそと顔を見合わせる。噂でしか聞いたことのない名前だった。人間族が潜る、深い穴。どこまで続いているのか、誰も知らない場所。その一番下から出てきた、と目の前の少女は言ったのだ。朝ごはんの献立でも話すような顔で。
シアの耳が、ぴんと真上に跳ね上がった。
カムは口を開いたまま、閉じる場所を見失っていた。
当のハジメは周りの反応にはまるで構わず、腕を組んだまま眉を寄せていた。
「うーん……みんなが住めるくらいの森が、迷宮になるん?」
首を、反対側へ傾ける。
「まぁ、それならそれで楽でええやんってなるけど……なんか違うと思うんよねぇ……」
「……あそこにいたような魔物が樹海にいたら、亜人は住めない」
ティアがぽつりと言った。
ハジメの隣で、サングラスを額に押し上げたまま、天幕を畳むハウリアたちを眺めている。
「森で暮らしてるなら、たぶん違う」
「それな!」
ハジメがぱちんと指を鳴らした。
「とにかく迷宮ってね!」
両手が大きく広がった。
「なんかこう、穴がドーンってあって! 下にズゴゴゴって、めっちゃ続いてて!」
手のひらが、地面に向かってぐるぐると渦を巻きながら下りていく。
「ほんで、デカいのがグワーって来て! こっちはギャーってなって! 逃げたらまたデカいのがグワーって来て! またギャーってなって!」
両腕を振り上げ、振り下ろし、その場で二、三歩逃げる真似までしてみせる。
「で、一番下まで行くと、なんかこう……エモい部屋がフワッとあんの!」
最後に両手をふわりと広げて、ハジメは満足げに頷いた。
しんとしていた。
ハウリアの大人たちが、誰一人として瞬きをしていない。カムの耳は右と左で別々の角度に傾いていた。
「……ずごごご?」
「ぐわー!」
「ぎゃー!」
子供たちだけが、楽しそうに真似をし始めた。両手を広げてぐるぐる回る子に、マロンが嬉しそうに吠えながらついて回る。
シアがおずおずと手を挙げた。
「あ、あの……えもいって、昨日も言ってませんでしたか……?」
「言ったかも」
「け、結局、なんなんですか……?」
「エモいはエモいじゃん」
「……余計、分からない」
ティアが額に手を当てた。
カムはしばらく、何も言わなかった。
傾いていた耳が、ゆっくりと元に戻っていく。それから、何かを手繰り寄せるように、視線が遠くなった。
「……お二人の仰る迷宮かどうかは、分かりませんが」
ハジメとティアが、揃ってカムを見た。
「樹海の、最も奥に。大樹がございます」
カムは東の空を見やった。その向こうに、自分たちが出てきた森がある。
「ウーア・アルト、と。我らはそう呼んでおります。森の者たちにとっては、聖地です。……ですから、近づく者は、滅多におりません」
ハジメの目が少しずつ見開かれていく。
「……それじゃん」
「……かもしれない」
「絶対それじゃん! え、めっちゃそれっぽくない!?」
ハジメはぐるりとカムに向き直った。
「ほらね。あーしはそのウーなんとか見に行きたいし、みんなはお願いしに行くし。行き先一緒なら、一緒に行けばよくない?」
「……ハジメ殿」
カムはまだ何か言いかけて、そのまま口をつぐんだ。
迷うように、隣の娘を見る。
シアは顔を上げていた。
握っていた天幕の端をそっと離して、父の目をまっすぐに見返す。
「父様。行きましょう」
いつもの、どこか頼りなげな声ではなかった。
カムはしばらく、娘の顔を見つめていた。それから目を伏せ、もう一度、ハジメに向かって深く頭を下げた。
「……よろしく、お願いいたします」
「おけまる! 任しときー!」
ハジメが親指を立てる。
「……帝国の兵の時も、似たようなこと言って失敗した」
ティアがぼそりと呟いた。
「それ言わんでいいから!!」
頭を下げたままのカムの耳が、ぴくりと揺れた。
その横で、いつの間にか杭をくわえ直していたコテツが、わけも分からずに尻尾を振った。
◇
樹海は、遠くからでも分かった。
荒れ地の果てに、緑の壁がそびえている。
一本一本の木が、とてつもなく高い。幹は大人が何人も手を繋いでようやく囲めるほどに太く、その根元を、白い霧が這うように流れていた。霧は森の奥へ行くほど濃くなって、少し先の木の幹さえ、ぼんやりと輪郭を溶かしている。
湿った土と、苔と、知らない花の匂いがした。
乾いた荒れ地をずっと歩いてきた鼻に、それはやけに濃く感じられた。
「……でっか」
ハジメが首を真上に反らした。反らしすぎて、後ろによろめいた。
その森の手前で、カムが足を止めた。
一族もそれに倣って止まる。
「……ハジメ殿、ティア殿。ここから先は、お願いがございます」
カムは振り返って、声を落とした。
「我ら兎人族は、気配を断つのが得手でして。樹海の中では、他の部族に見つからぬに越したことはございません。……できれば、お二人にも、気配を消していただければと」
ハジメは瞬きをした。
「気配って、消せるもんなん?」
「……え」
カムの耳が、ぴたりと止まった。
「……私は、できる」
ティアが小さく手を挙げた。
「マジ!? ずっる!」
「……でも」
ティアは手を下ろして、ハジメを見た。
それから、ハジメの両脇に目をやる。
背中の高さが大人の胸に届く、白銀の狼が二匹。森の湿気が肌に障るのか、その毛先から時々、紫色の小さな火花がぱちりと散っている。マロンが鼻をひくつかせ、コテツが大きなあくびをした。あくびの口の中でも、ぱちりと一つ散った。
「……ハジメと、この子達が丸見えなら、私だけ消えても意味ない」
ハジメは二匹を見た。
二匹はハジメを見上げて、尻尾を振った。
ぱちり。
カムの耳が、根元からゆっくりと垂れていった。
「……ま、まぁ。静かにしてれば、ワンチャン?」
「……そう、ですね」
カムの声には、もう何も残っていなかった。
一行は霧の中へ足を踏み入れた。
足元の土が柔らかい。木の根が地面を這い、その上を苔が覆っている。霧が頬にまとわりついて、ひんやりと湿っていた。ハジメは口を両手で押さえて、言われたとおりに声を殺している。押さえた指の隙間から、見たことのない形の花を見つけるたびに、「……っ」と何かが漏れかけていた。
最初の木の間を抜けた。
二本目の木の間を抜けた。
霧が、ふっと薄くなった。
先頭を歩いていたカムの足が、止まった。
森の入り口を塞ぐように、誰かが立っていた。
一人ではない。五人、六人。両足を肩幅に開き、腕を胸の前で組んで。霧の中から浮かび上がるように、こちらを真正面から見据えている。
頭の上に、丸みを帯びた耳があった。黄色と黒の、縞の入った耳。その腰の後ろで、同じ縞の太い尾が、ゆらりと一度だけ揺れた。
虎人族だった。
待ち構えていた。そうとしか思えない立ち方だった。
ハウリアの列が、一番後ろまでぴたりと固まる。シアの耳が根元から真っ直ぐに立ち、カムは息をするのも忘れている。コテツとマロンが、揃って首を傾げた。
ハジメは口を押さえていた両手を、そろそろと下ろした。
それから、片手を胸の高さまで上げて、ひらりと振った。
「……ど、どもー?」
霧の向こうで、虎の尾がもう一度、ゆらりと揺れた。