「――動くな!!」
霧を裂くような声だった。
ひらひらと振られていたハジメの手が、胸の高さでぴたりと止まる。
声を上げたのは、六人の真ん中に立つ男――虎人族の警備隊長、ギルだった。他の者より頭ひとつ背が高く、縞の入った太い腕を胸の前で組んだまま、こちらを睨み据えている。頬から顎にかけて、古い爪痕が三本走っていた。
「何故、人間がここにいる!」
腰の後ろで、太い尾がばしりと地面を打った。
ハウリアの列が、揃って身を竦める。
先頭のカムは、まだ固まっていた。森に入って、ほんの数歩。気配を断つどころか、断つ前から、もう待ち構えられていた。何がどうなっているのか分からないまま、それでもカムは一歩前に出た。両手を胸の前で小さく掲げ、乾いた唇を開く。
「お、お待ちください、ギル殿。我らは決して、争いに来たわけでは――」
「ちょっと!!」
カムの言葉を、横から甲高い声が押し退けた。
ハジメだった。両手で自分の頭を抱えて、虎人族の方へ身を乗り出している。
「なんで!? なんで静かにしてんのにバレたん!? あーしずっと口押さえてたんだけど!?」
「ワンッ!」
「ワンワンッ!」
主の声の調子に乗っかるように、コテツとマロンが揃って吠えた。
その毛先から、ばちっ、ばちっ、と紫色の火花が弾ける。
虎人族の六人が、一斉に半歩下がった。
ギルの組んでいた腕が解けた。わなわなと震えながら、その指が真っ直ぐに二匹を指す。
「馬鹿か貴様!!」
腹の底からの怒鳴り声だった。
「そんな馬鹿デカくて! 目に見えるほど魔力を垂れ流してる狼を二匹も連れて歩いてて! バレない方がおかしいだろうがぁ!!」
森の木々が、びりびりと震えた気がした。
「――!?」
頭を抱えたまま、ハジメの口があんぐりと開いた。
◇
少し、時を遡る。
樹海の縁に近い木立の中を、虎人族の一隊が進んでいた。
先頭を行くギルは、もう何度目か分からない舌打ちをした。
「くそっ! どこへ行った!」
足跡は、とうに途切れている。ハウリアの一族が森を出てから、もうずいぶん経つ。それでも長老方からの命は変わらない。掟に背き、裁かれるはずの者を連れて逃げた一族だ。見つけ出して、連れ戻さなければならない。
兎人族は気配を断つのが上手い。おまけに、逃げることにかけては森の誰より長けている。
「森の外まで出てしまったとなると、厄介だな……」
ギルが苦々しく呟いた、その時だった。
「た、た、大変です隊長ぉ!!」
木立の向こうから、若い部下――ザムが、転がるように駆けてきた。
縞の尾が、根元から逆立っている。息は上がりきっていて、ギルの前で足を止めても、しばらくは肩で息をするばかりで言葉にならない。
「なんだ、騒々しい。ハウリアが見つかったか」
「み、見つかりました! 見つかったんですけど! それどころじゃなくて!」
「何がそれどころじゃないんだ」
「森の外から、ハウリアがこっちに向かってて! それを、に、人間が連れてて!」
「人間だと?」
「それと狼が! 狼が二匹! こんな、こんなでっかいのが!」
ザムは両腕をいっぱいに広げた。広げてもまだ足りないとばかりに、つま先立ちになって、さらに腕を上へ伸ばす。
「しかも、ばちばち光ってて! 紫色に! 毛が! あと人間の方も、なんか、なんか分かんないですけど、とにかく気配がおかしくて!」
ギルは、こめかみを押さえた。
「……貴様」
低い声だった。
「馬鹿にしているのか? 森の外から、人間が兎どもを引き連れて? 光る狼を二匹も従えて? そんな奴がこんなところをうろ――」
ギルの目が、部下の肩越しに森の外へ向いた。
「――なんじゃありゃぁぁぁぁぁぁ!!」
ギルの両目が、眼窩から飛び出さんばかりに見開かれた。
木立が途切れた先の荒れ地を、列が近づいてきていた。先頭に、遠目にも分かるほど大きな白銀の獣が二匹。その間に、背の高い白銀の髪の女と、金色の髪の小さな子供。後ろには、長い耳がずらりと連なっている。
女が、両腕を頭の上に伸ばして大あくびをした。
隣の狼が、それに合わせるように大あくびをした。
その口の中で、ばちりと紫電が弾けた。
「な、なんだ、あいつらは……!」
ギルと部下は、揃って木の幹にへばりついていた。幹の陰から半分だけ顔を出し、近づいてくる列を食い入るように見つめる。二人の額から、冷や汗がだらだらと流れ落ちていた。
「た、隊長……あれ、狼ですよね……? 狼で、いいんですよね……?」
「……あの、銀の毛並み」
ギルの喉が、ごくりと鳴った。
「あの、大きな体躯……もしや、あれは……あの、伝説の……」
そこで、言葉が止まった。
止まったまま、続かない。
ザムが、おそるおそるギルの横顔を見上げた。
「……隊長? 伝説の、なんですか?」
「そうだ。あの、伝説の……」
ギルの目が泳いだ。
「……えーっ、と……あー……」
右へ。左へ。もう一度、右へ。
「……なんだ?」
「えっ」
「と、とにかく!!」
ギルは部下の肩をがしりと掴んだ。
「あれはヤバい!! 全員を集めろ!! 今すぐだ!!」
「は、はいぃぃっ!!」
それから先のことは、あまり覚えていない。
近くにいた部下を片端から呼び集め、森の入り口まで走らせ、横一列に並ばせた。足を肩幅に開け。腕を組め。尾は下げるな。せめて威厳だけは見せておけ、と。
並び終えたのは、あの列が森へ足を踏み入れる、ほんの少し前のことだった。
◇
そして、今に至る。
ギルは大きく息を吸って、吐いた。吐いた息が、少し震えていた。
怒鳴ったせいで上がった肩が、なかなか下りてこない。額から頬へ、頬から顎の古傷へと、汗が筋を作って流れ落ちていく。拭おうと持ち上げかけた手を、ギルは途中で止めた。今ここで腕を解いたら、もう組み直せる気がしなかった。
組んだままの腕の内側で、指がぎりぎりと食い込んでいる。目だけが、さっきから二匹の狼の方を何度も窺っていた。
後ろの部下たちは、もっとひどかった。槍を構えている者も、構えているだけで、穂先がかたかたと震えている。誰かの喉が、ひゅう、と細く鳴った。尾の先が、揃って小刻みに揺れていた。
「……に、人間」
ギルが口を開いた。
一度、言葉が詰まる。乾いた唇を舐めて、もう一度。
「な、何が……目的で、ここへ来た」
「えっと、目的っていうか……」
ハジメが口を開きかけたところで、カムがもう一度、前に出た。
「ギ、ギル殿! わ、私から、ご説明を! ご説明させてください!」
声が、半分ほど裏返っていた。
ギルの目がカムへ動いた。
その目に、ほんの一瞬、刺すような色が浮かぶ。掟に背いた一族の長だ。本来なら、言葉を交わす前に縛り上げているはずの相手だった。
けれど、その刺すような色は、すぐに引っ込んだ。カムのすぐ後ろで、白銀の狼が首を傾げていたからだ。
ギルの喉が、ごくりと動いた。
「……は、話せ」
「は、はいっ!」
カムは勢いよく頭を下げ、下げすぎて前につんのめりかけ、慌てて姿勢を戻した。
「そ、その、我らは森を出た後……いえ、出る前から、いや、それはご存知かと思いますが……とにかく、出た後に帝国の兵に見つかりまして! 仲間を、何人も……それで、ライセンの谷に、逃げ込んで……」
言葉が、前へ後ろへと行ったり来たりする。そのたびに、カムの長い耳がばたばたと揺れた。話しながら、何度も後ろの狼の方を振り返る。振り返っては、また慌ててギルに向き直る。
「谷の、出口に! 帝国の兵が、三十人ほど陣を張っておりまして! それを、この方々が……お、追い返してくださったのです! ひ、一人の命も、奪わずに!」
ギルは動かなかった。動けなかった。
組んだ腕に、指がさらに深く食い込む。
「……て、帝国の兵を……お、追い返した、だと?」
押し殺そうとした声が、途中で掠れた。
帝国の亜人狩りは、ハウリアだけの話ではない。森の縁に近づいた者が、何人も戻らなかった。虎人族の中にも、連れて行かれた者がいる。
それを、三十人。殺しもせずに。
ギルの視線が、ゆっくりとハジメの方へ動いた。今度は狼ではなく、ハジメ本人の方へ。
二匹の狼の間に立つ、白銀の髪の女。武器らしい武器は、何も持っていない。持っていないのに、首筋の毛がさっきからずっと逆立ったまま、寝てくれない。
こめかみを伝う汗が、もう止まらなかった。顎の先から、ぽたり、ぽたりと地面に落ちていく。
「……つ、続け……ろ」
「は、はい! そ、それで、この方々は、我らがまた森で暮らせるよう、長老方にお願いしてくださると! それと、ハジメ殿は、た、大樹をご覧になりたいと……!」
「た、大樹だと!?」
ギルの耳が、根元から真っ直ぐに立った。
後ろの部下たちの間で、息を呑む音が重なる。誰かが「た、大樹って……」と言いかけて、隣の者に脇腹を小突かれて黙った。
カムはそこからも、しどろもどろに話し続けた。順番が前後し、同じことを二度言い、言いかけたことを途中で忘れる。
ギルは一度も口を挟まなかった。挟めなかった。汗まみれの顔で、ただ聞いていた。聞きながら、その目だけが、カムとハジメと二匹の狼の間を、何度も、何度も行き来していた。狼の毛先でぱちりと火花が散るたびに、組んだ腕がびくりと跳ねた。
後ろの部下たちも、誰一人として声を出さない。槍の穂先は下がったまま、けれど柄を握る手は、白くなるほど力がこもっていた。
その様子を、ハウリアの列の中ほどで、シアは呆然と眺めていた。
ギルが聞いている。
父の話を、汗だくの真剣な顔で、一言も聞き漏らすまいと聞いている。
ついこの間まで、自分たちを見つけ次第、縛り上げて長老方の前に引き据えるはずだった人が。
シアはそっと、隣にいた一族の女の袖を引いた。
「……あの」
小さな声で、囁く。
「私たちって……追われてる身、でしたよね……?」
女は何も答えなかった。答えられなかったらしい。長い耳を半分傾けたまま、ぎこちなく首を傾げただけだった。
周りのハウリアたちも、似たような顔で、互いの顔を見合わせていた。
やがて、カムの話が終わった。
ギルはしばらく、腕を組んだまま黙っていた。
ハジメを見る。狼を見る。ハウリアの列を見る。もう一度、ハジメを見る。
それから、長い息を一つ吐いた。吐き終わっても、肩の強張りは少しも抜けていなかった。
「……わ、私の一存で……決められる話じゃ、ない」
組んでいた腕を、ようやく下ろす。下ろした手のひらが、汗でじっとりと光っていた。
「長老方に、伝えてくる。わ、私が戻るまで……ここで、待っていろ」
それから、くるりと後ろの部下たちに向き直った。
「お前ら」
部下たちの背筋が、揃って伸びた。
ギルは部下たちの方へ顔を寄せ、声を落とした。落としすぎて、ほとんど掠れ声になっていた。
「……私が戻るまで、絶対に手を出すなよ。絶対にだ。何があっても、あの狼には触るな。目も合わせるな。……い、いいな」
「は、はいっ!」
返事が揃った。揃いすぎて、裏返っている声が一つ混じっていた。
ギルは最後にもう一度だけ二匹の方を振り返った。振り返った拍子に、マロンと目が合った。
マロンが、首を傾げた。
ぱちり。
ギルは何も言わずに背を向け、霧の奥へと駆けていった。来た時よりも、明らかに足が速かった。縞の尾が、木々の間に吸い込まれるように見えなくなる。
残された五人の虎人族が、槍を握り直した。
握り直しただけで、構えはしなかった。
◇
「……ねー、聞いた? 今の」
ハジメは苔むした地面にしゃがみ込んで、二匹の顔を両手で挟んでいた。
「目も合わせるな、だって。ひどくない?」
コテツの耳の付け根を、指先でわしわしと掻いてやる。コテツは目を細めて、気持ちよさそうにハジメの手のひらへ頭を押しつけた。反対側から、負けじとマロンが鼻先を割り込ませてくる。
「はいはい、アンタもね」
両手で二匹の首まわりを撫で回す。白銀の毛並みに指が沈み、撫でられるたびに、二匹の尻尾がぶんぶんと振られた。
振られるたびに、毛先からぱちぱちと紫電が散った。
五人の虎人族が、揃ってびくりと肩を跳ねさせた。
「こんなかわちぃのにさー」
ハジメは構わず、コテツの頬をむにむにと揉んだ。
「みんな怖がって。この子達のこと、なんだと思ってるわけ? ねー?」
「ワフッ」
コテツが嬉しそうに一声鳴いた。
その口の端から、ばちりと一つ、紫電が弾けた。
一番端にいたザムが、小さく「ひっ」と声を漏らして、一歩後ずさった。
ティアはその少し後ろで、木の根に腰を下ろしていた。
サングラスを額に押し上げて、二人と二匹と、怯えきった五人を順番に眺める。
「……そういうところ」
「え? 何が?」
「……なんでもない」
ハジメは首を傾げて、それからまた二匹の方へ向き直った。
「ねー、コテツもマロンも、いい子だもんねー」
ぱちり。
「ひっ」
また、ザムだった。後ずさった拍子に、隣の仲間の背中にぶつかっている。
ティアが、木の根から腰を上げた。
何も言わずにハジメの隣まで来て、しゃがみ込む。小さな手を、マロンの首元の毛並みに差し入れた。
「……ティアも撫でたかったんじゃん」
「……別に」
撫でる手は止まらなかった。
二人がかりで撫で回されて、二匹はとうとう脚を投げ出した。ごろん、と揃って横倒しになり、白い腹を見せて、四本の脚を宙にぶらぶらさせる。
「え、もっと撫でてほしい感じ?」
ハジメは笑って、白銀の横腹をわしゃわしゃと撫でた。
「アンタらめっちゃチルってて草ー」
コテツが目を閉じて、喉の奥でくぅんと鳴いた。マロンは舌を出したまま、半分夢の中にいるような顔をしている。
ハジメは手を止めずに、二匹を見下ろしていた。眼鏡の奥の赤い目が、ひどく柔らかく細められている。
「わぁっ!」
ハウリアの列から、小さな影が飛び出した。
一人が飛び出すと、もう止まらなかった。親の伸ばした手をすり抜けて、子供たちが次々と駆け寄ってくる。転がった二匹の腹に顔を埋める子。尻尾を両腕で抱え込む子。宙に浮いた肉球を、指でつんつんとつつく子。
「もふもふー!」
「おなか、あったかい!」
二匹は嫌がる素振りも見せず、されるがままに転がっていた。
ハウリアの大人たちは、その場で固まっていた。
「……え」
「さ、さっきまでの、あれは……」
シアは両手で頬を押さえたまま、口をぱくぱくさせていた。
「さっきまでの緊張感、なんだったんですかぁ……!?」
答える者は、誰もいなかった。
一方、少し離れたところで、残された五人の虎人族が顔を寄せ合っていた。
「……おい」
一人が、ひそひそと囁く。
「ヤバいと思ったけどよ……なんかの間違いじゃないのか、あれ」
「馬鹿!」
隣の者が、その脇腹を肘で小突いた。
「あんなだらしねぇ犬みてぇな顔はしてるけどな、さっきの紫電見ただろ! あれは紛れもねぇ、伝説の……」
「……伝説の?」
「…………」
「だから、その伝説の先はなんなんだよ!?」
言い返す声は、なかった。
五人はもう一度、輪の方を見た。腹を出して転がる二匹と、その上に折り重なるようにじゃれつく兎の子供たち。目を細めたまま、されるがままになっている狼の顔。
しばらくして、一人が、おそるおそる一歩前に出た。
「お、おい……人間」
「ん?」
ハジメが顔を上げる。
「ほ、本当に……そいつ、大丈夫なんだろうな……?」
「大丈夫大丈夫、噛まないってw」
ハジメはからからと笑って、二匹と子供たちの方へ首を傾けた。
「ねー?」
「かまなーい!」
「もふもふー!」
子供たちが、意味の分からない返事を元気よく揃えた。
「ワフッ」
「ワフッ」
二匹も、転がったまま返事をした。何を聞かれたのかは、たぶん分かっていない。
ハジメは虎人族の方へ向き直って、にっと笑った。
「よかったら、アンタらも撫でてみる?」
五人が、揃って息を呑んだ。
顔を見合わせる。誰も動かない。槍を握る手に、また力がこもる。
その中から、一人が、ぎこちなく槍を地面に置いた。
ザムだった。
「ば、馬鹿! よせ!」
「殺されるぞ!!」
仲間の声を背に、ザムは一歩、また一歩と輪の方へ近づいていった。尾の先が、ぴんと張り詰めている。膝ががくがくと震えている。それでも、足は止まらなかった。
マロンの頭の前で、しゃがみ込む。
震える手を、そろそろと伸ばした。
指先が、白銀の毛並みに触れる。
マロンが、薄く目を開けた。
ザムの喉が、ひゅっと鳴った。
けれど、マロンは唸りもしなかった。触れた手のひらに、自分から頭を押しつけてくる。それから、気持ちよさそうに目を細めて、そのまま撫でられるに任せた。
「お……」
ザムの口から、声が零れた。
「おぉ……!」
手のひらが、ゆっくりと動く。耳の後ろ。首まわり。撫でるたびに、マロンの尻尾がぱたぱたと地面を打つ。
マロンが、寝転んだまま首だけをもたげた。
べろり。
ザムの顔を、大きな舌が一度、下から上へ舐め上げた。
ザムは、濡れた顔のまま固まった。固まったまま、口元がゆるゆると緩んでいく。
「ねっ?」
ハジメが、あっけらかんとはにかんだ。
「大丈夫っしょ?」
後ろの四人が、顔を見合わせた。
一人が、槍を地面に置いた。もう一人が、それに続いた。
それから先は、早かった。
気づけば、虎人族も輪の中にしゃがみ込んでいた。一人はコテツの前脚を両手で握って、その大きさに目を丸くしている。一人は膝に乗せられた尻尾を、恐る恐る撫でている。兎の子供に「おじさんのしっぽも、もふもふさせて!」とせがまれて、困った顔のまま自分の縞の尾を差し出している者までいた。
ハウリアの大人たちは、まだ固まったままだった。
追う者と追われる者が、同じ狼の腹を撫でている。
霧の薄い森の入り口に、子供たちの笑い声と、狼の尻尾が地面を打つ音が、のどかに響いていた。
◇
ギルが戻ってきたのは、木漏れ日の角度がずいぶん変わった頃だった。
霧の奥から、足音が二つ近づいてくる。一つは聞き覚えのある、せかせかとした重い足音。もう一つは、それよりずっとゆっくりとした、落ち着いた足音だった。
霧の中から、ギルが姿を現した。
「長老、こちらです! くれぐれもお気をつけください、あの狼は――」
ギルの足が、止まった。
森の入り口で、白銀の狼が二匹、腹を見せて転がっていた。
その周りに、兎の子供たちが群がっている。白銀の髪の女と金色の髪の子供が、狼の腹を撫でている。
そして、その輪の中に。
槍を地面に放り出した、自分の部下たちがしゃがみ込んでいた。一人は狼の前脚を握り、一人は狼の尻尾を膝に乗せ、さっきまで誰より震えていたザムに至っては、狼に顔を舐められてへらへらと笑っている。
「――なんで和んどんじゃぁぁぁぁぁぁ!!!」
ギルの両目が、眼窩から飛び出さんばかりに見開かれた。
五人の部下が、弾かれたように跳ね上がった。
「やべっ!?」
「た、隊長!? お、お早いお戻りで……!」
「ち、違うんです隊長! これは、その、なんというか……!」
「槍! 槍どこ置いた!?」
「お前が踏んでる!!」
慌てて槍を拾い、拾い損ね、もう一度拾い、誰かの尾を踏んで悲鳴が上がり、どうにか横一列に並び直す。並び直したザムの頬は、まだ狼の涎で濡れていた。
その騒ぎを背に、ハジメはのんびりと二匹の頭に手を置いた。
「よかったねー、二人とも。いっぱい撫でてもらえて」
腹を見せて転がったままの二匹が、揃って尻尾をぱたりと振った。
ギルの後ろに、もう一人いた。
森人族の長老――アルフレリック・ハイピストは、細身の老人だった。背は高くないが、背筋がまっすぐに伸びている。長い髪は色が抜けて白く、その間から、先の尖った細長い耳が覗いていた。皺の刻まれた顔の中で、深い色の目だけが、静かにこちらを見ている。
カムの耳が、根元からぴんと立った。
「……アルフレリック様」
ハウリアの列が、ざわりと揺れた。何人かが慌てて頭を下げ、下げたまま固まる。
老人は、まずハウリアの列を見た。それから、カムを見た。
カムの喉が、ごくりと鳴った。
けれど、老人の目はそこに長くは留まらなかった。カムの頭越しに、その先へ。地面にしゃがみ込んで狼の腹を撫でている、白銀の髪の娘の方へ。
それから、腹を見せて転がったままの二匹へ。
老人の眉が、ほんのわずかに上がった。
「……なるほど」
乾いた、穏やかな声だった。
「ギルがあれほど取り乱して駆け込んでくるのは、久しく見ておらなんだのでな。何事かと思うて、自分の足で来てみたが」
アルフレリックは、隣で肩を上下させているギルを横目で見た。
「……今も、取り乱しておるようだな」
ギルの耳が、ぺたりと後ろへ倒れた。
「……長老。それは、言わずとも」
「事実であろう」
老人は小さく息を吐いて、ハジメに向き直った。
「……人間の娘よ。話はギルから聞いた。ハウリアの者たちを帝国の兵から助け、長老会議に願い出たいと。それと、大樹を見たいと」
「あ、どもー。ハジメでーす」
ハジメが、しゃがんだまま片手を上げた。
アルフレリックの眉が、また少しだけ動いた。
「……大樹は、我らにとって聖地だ。なぜ、人間の娘がそれを見たがる」
「あー、えっとね」
ハジメは立ち上がって、膝の土を払った。
「あーしら、オルクスってとこの一番下から出てきたんだけどさ。そこにオスカーっていう眼鏡のイケメンがいて……いや、もう骨だったんだけど」
「……いけめん?」
シアが、首を傾げて繰り返した。長い耳が、ぴくりとハジメの方へ傾いている。
「……そういえば、前から気になってた」
ティアが、それに続いた。
「……いけめんって、なに?」
「え、知らんの?」
ハジメは目を丸くした。
「顔がいい男のこと! オスカーはマジでイケメンだったんよ。眼鏡めっちゃ似合ってたし」
「……骨だったのに?」
「映像の方!! アンタも見てたじゃん!!」
ハジメはぶんぶんと手を振ってから、アルフレリックに向き直った。
「で、その人の映像見たら、他にもおんなじような迷宮が六個あるって言ってて」
「…………」
「そんで地図見たら、ここにも丸ついてたの。シアパパに聞いたら大樹ってのがあるって言うから、それ説あるなーって思って」
アルフレリックは、しばらく何も言わなかった。
深い色の目が、じっとハジメを見ている。値踏みするのとは違う。遠い昔に聞いた話と、目の前のものを、一つずつ照らし合わせているような目だった。
「……オスカー」
ゆっくりと、その名を口にする。
「オスカー・オルクス、か」
「あ、そうそう。その人」
後ろの虎人族たちが、顔を見合わせた。その名が何を意味するのか、分かっていない顔だった。ギルも、眉を寄せている。
アルフレリックだけが、目を細めていた。
「長老の座に就いた者にだけ、古くから伝わる言葉がある」
静かな声だった。
「七つの大迷宮は、解放者と呼ばれる者たちによって創られた。迷宮の紋章を持つ者には、敵対せぬこと。その者を気に入ったならば、望む場所へ連れて行くこと、と」
アルフレリックは、そこで小さく首を振った。
「詳しいことは、何も知らん。ただ、そう言い伝えられてきただけだ」
アルフレリックは、ハジメの顔から目を離さないまま続けた。
「娘よ。そのオスカー・オルクスの紋章を、何か持ってはおらぬか」
「紋章?」
ハジメは首を傾げた。
それから、ああ、と声を上げる。
「え、これのこと?」
左手を、ぱっと顔の横に掲げる。
指に嵌まった指輪が二つ、木漏れ日を弾いた。一つは赤い石の指輪。もう一つは、細かな紋様が刻まれた指輪だ。
ハジメは紋様の方の指輪を、見せびらかすように、くるりと回してみせた。
「見て! かわちぃっしょ?」
森の入り口が、しんとした。
アルフレリックの目が、指輪に釘付けになっていた。
細かな線が幾重にも重なった紋様。口伝の中でしか知らなかったはずのものが、そこにある。数えきれないほどの年月を越えて、今、目の前で、ひらひらと揺れている。
揺らしているのは、白銀の髪の人間の娘だった。満面の笑みで。
「……かわ、ちぃ」
アルフレリックの口から、聞き慣れない音が零れた。
「……とは、何だ」
「え、かわいいってこと。これデザインめっちゃ良くない? 線の入り方とか、マジで天才なんだけど」
「…………」
アルフレリックは、指輪を見た。ハジメを見た。もう一度、指輪を見た。
何かを言おうとして、口を開く。開いたまま、言葉が出てこない。皺の刻まれた額に、深い溝が一本、ゆっくりと寄っていった。
口伝の言葉を、長老は長い間、胸の内で守り続けてきたのだろう。解放者の紋章。それを持つ者が、この森を訪れる日。
その日に、まさか「かわちぃ」と言われるとは、思ってもいなかったに違いない。
「……長老?」
ギルが、おそるおそる声をかけた。
アルフレリックは、目を閉じた。
長い息を、一つ吐く。
それから目を開けた時には、もう、いつもの静かな顔に戻っていた。少なくとも、戻そうとしていた。
「……本物だ」
ギルの目が見開かれる。
「紋章は、口伝にあるものと違わぬ。……ハジメ、と言ったな」
「うん」
「フェアベルゲンへ来るがいい。大樹のことも、ハウリアのことも、話はそこで聞こう」
ハウリアの列が、どよめいた。
カムが、信じられないものを見るように顔を上げる。シアの耳が、根元から真上に跳ね上がった。
「マジ? やった!」
ハジメは、ぱっと顔を輝かせた。
大樹の話をした時よりも、その声は少しだけ弾んでいた。
「みんな、行けるって!」
振り返って、ハウリアの列にぶんぶんと手を振る。
その後ろで、ティアが腰を上げた。指輪を嵌めた手を、ちらりと見る。
「……かわちぃ、で通った」
「通ったね!」
「……長老の顔、見てなかったの?」
「え、見てたよ? なんか難しい顔してた」
「…………」
ティアは、それ以上何も言わなかった。
◇
霧の中の道は、思っていたよりもずっと歩きやすかった。
木の根の間を縫うように、踏み固められた細い道が続いている。先頭をアルフレリックとギルが行き、その後ろにハジメたち、さらにハウリアの列。残りの虎人族たちは列の両脇を固めていた。コテツとマロンのすぐ隣を歩きたそうにしている者も何人かいたが、ギルにひと睨みされて、しぶしぶ距離を取っていた。
奥へ進むほど、霧は濃くなった。
少し前を歩くアルフレリックの背中さえ、時々ぼやけて見える。それでも、先を行く二人の足取りに迷いはなかった。
ハジメが、小走りでアルフレリックの隣に並んだ。
「ねぇ、えーっと……ア〜……アルファードさん、だっけ?」
「アルフレリックさんですよハジメさん!!」
後ろから、シアの悲鳴のような声が飛んできた。
「あ、それそれ」
アルフレリックは前を向いたまま、何も言わなかった。言わなかったが、その肩が、ほんのわずかに下がった気がした。
ギルが、横で何とも言えない顔をしている。
「てかさ、大樹ってどこにあるん? このまま行けば見える感じ?」
「いや」
アルフレリックは、霧の奥を見やった。
「大樹は、この森の最も深いところにある。その周りは、ここよりもさらに濃い霧に閉ざされておってな。我ら森の民であっても、方角を失う」
「え、じゃあ行けないじゃん」
「常に、ではない。霧には満ち引きがある。一定の周期で弱まる時があり、その時だけは、大樹のもとまで辿り着ける」
「ほーん。で、次っていつなん?」
「十日ほど先だ」
ハジメの足が、止まった。
「…………え」
「十日ほどかかるぞ」
「えーーーーー!?」
霧の中に、ハジメの声が響き渡った。
先を歩いていた虎人族が、何人か驚いて振り返る。コテツとマロンが、何事かとハジメの顔を覗き込んだ。
「十日!? なっが!! え、今日とかじゃないの!? 明日とかも!?」
「霧の満ち引きは、森の理だ。我らにもどうにもならん」
「えー……」
ハジメはがっくりと肩を落とした。落としたまま、とぼとぼと歩き出す。
その隣に、ティアが並んだ。
「……ハウリアの話もある。どうせ、すぐには行けない」
「それはそうなんだけどさー……」
口を尖らせたまま、ハジメはしばらく霧の向こうを睨んでいた。
けれど、それもほんの少しの間だけだった。後ろを振り返って、ハウリアの列が付いてきているのを確かめる。カムの姿を見つけ、シアの姿を見つけ、子供たちがコテツの尻尾を追いかけているのを見つける。
それから前を向いた時には、もう、尖っていた口元が元に戻っていた。
◇
霧が、晴れた。
晴れたというより、霧の方が道を譲ったようだった。白い帳が左右に分かれ、その向こうから、緑の光が溢れ出してくる。
ハジメは、足を止めた。
木があった。
いや、木というには、あまりにも大きい。一本一本が城の塔ほどもある巨木が、何本も天へ向かって伸びている。その幹に、枝に、絡み合う根に、家があった。木の皮をそのまま壁にしたような家。枝と枝の間に渡された、吊り橋のような通路。幹をぐるりと巻いて上へ続く階段。高いところでは、枝葉の間から洩れる光の中に、小さな窓の明かりがいくつも灯っている。
湿った土と、樹液と、焼いた木の実の匂いがした。
どこかで子供の笑い声がする。吊り橋の上を、獣の耳と尾を持った人々が行き交っている。その何人かが、こちらに気づいて足を止めた。
止めたまま、白銀の狼を見て、固まった。
「……ここが」
アルフレリックが振り返った。
「フェアベルゲンだ」
ハジメは、口を開けたまま、首を真上へ反らしていった。
反らして、反らして、反らしすぎて、またよろめいた。
後ろでティアが、その背中を片手で支える。
「……二回目」
「……いや、だってさ」
ハジメの赤い目が、眼鏡の奥できらきらと光っていた。
「ヤバくない? やっぱディズニーじゃん! エモッ!!」
「……ずっと思ってたけど」
ティアが、ハジメの背中を支えたまま小さくぼやいた。
「……ハジメの言葉は、時々分からない」
その後ろで、ハウリアの列が、一人、また一人と足を止めていった。
追われるように出てきた森の都だった。もう二度と見ることはないと思っていたはずの、懐かしい木々の匂いだった。
カムは何も言わずに、その光景を見上げていた。
シアは父の隣で、天幕の布を抱えていた時と同じように、両手をぎゅっと胸の前で握りしめていた。