王都の片隅に整備された実験農園で、畑山愛子は額の汗を手の甲で拭いながら、深々とため息をついていた。
泥まみれのオーバーオールを着込み、手にはクワを持ったまま、愛子は遠くに見える王宮の巨大な石垣の方をぼんやりと眺める。
(……聞こえてくる噂だと、南雲さんが石造に悪戯したりとか、騎士団長を落とし穴に落としたとか……もう、本当にどうして私の生徒たちはじっとしていられないのでしょうか……)
異世界に召喚されてからというもの、愛子はクラスの担任として、生徒たちを守らなければという責任感に押しつぶされそうになりながら日々を過ごしてきた。自分自身も『作農師』という農耕向きの天職を授かり、王国の食糧事情を支えるために必死で土を耕し、作物を育てている。
だが、生徒たちの成長スピードとトラブルのスケールは、愛子の想像を遥かに超えていた。
特に、あの日から一気に錬成のコツを掴み、持ち前の魔力で周囲を巻き込み続けているハジメの噂は、王宮内のあちこちから耳に入ってくる。
(白崎さんや八重樫さん、それに清水君や遠藤君たちも、それぞれに自分の居場所や立ち回りを見つけて頑張っているようですが……私、本当に担任として、生徒たちの支えになれているのでしょうか……)
教師としての無力感と、生徒たちがどんどん自分から離れていくような寂しさが胸の奥をかすめ、愛子はキュッとクワの柄を握り締めた。みんながそれぞれの世界で必死にもがいているのに、自分だけがただオロオロしているように思えて仕方がなかったのだ。
「――って、愛ちゃん! そんな暗い顔してどうしたわけ?」
突然、背後からかけられた気だるげでよく通る声に、愛子はビクリと肩を跳ね上げた。
振り返ると、シュシュでラフにまとめた金髪のハジメが、ひょいと首を傾げながら立っていた。
「な、南雲さん……!? いつの間に……」
「いやすれ違いざまにめちゃくちゃ重いため息が聞こえたからさ。もしや農作業で腰やった? それともまた誰かに説教でもされた?」
「されたわけではありません! ……って、一体誰のせいでここで気苦労が絶えないと思っているのですか、もう……」
愛子が頬を膨らませてジト目を向けると、ハジメは「え〜、あーし何かしたっけ〜?」と全く反省の色を見せずにケラケラと笑う。
その時だった。
「――おや、愛子殿。少しよろしいか?」
柔らかな声とともに、農園の入り口から穏やかな笑みを浮かべた騎士が歩み寄ってきた。
「おっと、ハジメ殿もご一緒であられましたか。実は、お二人にお願いがあって参ったのです」
「私どもに……ですか?」
愛子がクワを置き、少し緊張した面持ちで聞き返す。騎士は穏やかにうなずき、説明を続けた。
「ええ。王国東部に広がる広大な『東方荒地』の開拓を計画しているのですが、あそこは土地全体の土壌の栄養素が完全に枯渇しており、作物を育てるためには畑山殿のお力による土壌改良が不可欠なのです。もちろん、最終的には近くの川から水源を引く水路も必要となりますので、荒れた大地に命を吹き込む愛子殿のお力と、そこへ至る水路を作るハジメ殿のお力を、ぜひ合わせてお借りしたいのです」
それを聞いたハジメは、「え~…まためんどくさい土木作業じゃん…」と露骨に眉をひそめた。
「そこを何とか! お二人の力を合わせてお力添えをいただけないでしょうか?」
「……ふぅ、分かりましたよ。そこまで低姿勢で頼まれたら、断るとこっちが悪者みたいになるじゃん。いーよ、あーしが協力してやっし」
ハジメがやれやれと肩をすくめながら引き受けると、騎士たちは「おお、さすがハジメ殿! 助かる!」と大喜びした。こうして、王宮公認の「東方荒地・大規模開拓プロジェクト」が急遽発足することになった。
だが、ここで終わらないのが南雲ハジメという奔放なギャルだ。
いざ出発の当日、王都の門の前に横付けされた大型馬車の前には、愛子やメルド団長だけでなく、なぜかクラスの面々がずらりと顔を揃えていた。
「なんで俺たちまでこんな早朝から馬車に乗せられなきゃいけないんだよ……」
仏頂面でボソボソと不満を垂れているのは清水だ。その隣では、光輝が「ええっと、その……自分もみんなと一緒に手伝おうと思って、その、少しでも役に立てれば……」と控えめに頷き、龍太郎が「おう、光輝! 俺たちがしっかり支えてやるぜ!」と豪快に腕を回している。
さらに、香織はハジメのそばをキープして嬉しそうに目を輝かせ、雫は呆れたようにため息をつき、遠藤は「腹痛くなってきた……」と青い顔をし、鈴は「面白そうだから来たっしょ!」と笑い、恵里が優しげな笑みを浮かべて控えている。
「ちょ、ちょっと待ってください南雲さん!? どうしてクラスの皆までここにいるのですか……!?」
愛子が慌てて詰め寄ると、ハジメは平然と言い放った。
「え? だって、こういう大規模な開拓作業って、やっぱ男手とか雑用とかいっぱい必要っしょ? 愛ちゃんとあーしだけじゃ手が足りないし、せっかくだからピクニック気分でみんなで行こうぜって話になってさぁ!」
「ピクニックって……ここから行くの、何もないただの荒地ですよ!?」
「細かいこと気にすんの無し無し! ほら、ボサッと突っ立ってないで、みんな乗り込んだ乗り込んだ!」
拒否権など一切与えられず、清水の絶望的な呟きを背景に、クラスメイトたちはぞろぞろと馬車に押し込まれていく。こうして、愛子の心配をよそに、ドタバタの開拓ツアーが発進したのだった。
馬車に揺られること数時間。
到着した東方荒地は、視界のすべてが乾ききった、栄養のない広大な大地だった。
現地に到着すると、まずは同行していた王国の土木技師や専門家、騎士団の面々を交えた簡単な打ち合わせが行われた。どのような順番で開拓を進めるべきか地図を広げて確認する中、愛子が「まずは私の作農師のスキルで土の栄養をしっかり戻して、その後に南雲さんに水路を引いてもらえば……」と方針を立てる。
それを聞いたハジメは、「え〜、なんかそこカクカクしててデザイン的にめっちゃダサくない? 服のドレープやシルエットを綺麗に見せるみたいにさ、こう、もっと流れるような美しい曲線で引かないと全体のバランスが台無しじゃん」と、なぜか専門家の地図を勝手にのぞき込んでダメ出しを始めた。「ほら、ここから裾をキュッと絞るみたいに滑らかなラインで引いた方が絶対映えるし、あーしがうまいこと形作ってやっからさ」
最初は「何を素人が……」と露骨に眉をしかめていた現地の土木技師や専門家たちだったが、ハジメがスラスラと描き加えたその流麗な図面を見た瞬間、目を見開いて息を呑んだ。
「な、なんだこの流線型は……! 無駄な乱流を防ぎつつ水圧を完璧に分散させる……まるで計算し尽くされたかのような、美しさと実用性を兼ね備えた完璧な水路デザイン……!」
専門家たちが「す、素晴らしい! まさに一石二鳥の天才的な設計だ!」となぜか目を輝かせてすんなり納得してしまい、愛子も「え、えぇ……?」とポカンと口を開けるのだった。
そのやり取りを見ていた、清水、雫、香織、鈴、恵里、遠藤といったハジメと普段から付き合いのある面々は、「まったく、相変わらずあいつは……」「うふふ、いざとなると結局面倒くさいことは自分でやっちゃうんだから」「口だけは一丁前でむかつくけど、妙なところで無駄に器用だから悔しいわね」と、それぞれのやり方で呆れたようにため息をついている。清水も「まったく、あいつのそういう要領の良さは昔から変わんねぇな……。ムカつくけど」と、腐れ縁ならではの呆れ混じりの悪態をつきつつ肩をすくめた。そうして、まずは愛子が土壌を整えるという段取りがスムーズに決まった。
作業の順番が決まれば、いよいよ愛子の作農師としての見せ所である。
「はいっ、お任せください……!」
愛子が両手で乾いた大地を捉え、温かな緑色の光を放つと、枯渇していた土地に豊かな栄養素がみるみるうちに満ちていった。作農師としての愛子のスキルが存分に発揮され、殺風景だった荒地の一角が、作物を育てることのできる極上の黒土へと劇的に生まれ変わっていく。
周囲の人々や専門家たちも、「さすが愛子殿……! これほどの土壌改良が一瞬で……!」と愛子の実力に目を見張る。
土壌がしっかりと整えられたのを確認し、愛子が「では南雲さんお願いします!」と合図する
ハジメは「おけまる水産よいちょまる」と、手際よく右手を軽く地面に下ろした。
地底で魔力が走り、愛子の整えた農地へと繋がる滑らかな水路の形が正確に削り出されていく。
「ふぅ、これで水もバッチリオッケーっと!」
一段落ついたところで、ハジメは周りで様子を伺っていたクラスメイトたちの方を振り返り、ひらひらと手を振って大声で声を張り上げた。
「――ってなわけで、ここから先は人手が必要っしょ! ホラホラー、力仕事はアンタらの仕事っしょー? 女子は向こうで炊き出しの準備やっから、男子はさっさと荷物運んでよーっ!」
「まったく、こういう人使いの荒い所もほんと中学からなんも変わってねぇなアイツ……」と清水が呆れたようにボソリと呟き、やれやれと首を振るやいなや、自ら進んで木材の方へと歩き出し、黙々と作業を始めようとする。その背中を見て、光輝や龍太郎、遠藤たち男子生徒も「まったく、しょうがないな……」と苦笑しながら動き出し、ハジメの指示に従って木材や石材の運搬へと元気に動き出していく。
「よし、それじゃあ私たちはお昼の準備に取り掛かろっか!」
鈴の元気な声を合図に、簡易的な調理場では香織や雫、恵里たち女子生徒たちがテキパキと動き始めていた。大きな鍋に水を張り、持ち寄った食材を切り分け、薪を組んで火を起こしていく。見慣れない異世界での生活をどうにかこうにかサバイブしてきた彼女たちの手際は、いつの間にかすっかり板についていた。
「なんかさ。こうやってみんなで外でご飯作ってるとさ、なんか日本の林間学校思い出さない?」
野菜の皮をむきながら、鈴がけらけらと笑って声を上げる。その言葉に、周りにいた女子生徒たちが「あー、確かに!」「懐かしい〜!」「あの時はカレー作りで大失敗して大騒ぎだったよね」と、次々に楽しげな声を重ねた。
「あの時は本当にどうなることかと思ったよね……。召喚されていきなりお城に放り出されて、はい戦争してくださいって、明日すらどうなるか分からなくてさ」
別の女子生徒が少し遠い目をしながら呟く。しかし、すぐにクスリと笑みをこぼした。
「でも、こうして見ると……最初はビクビクしてたけど、南雲さんたちが色々引っ張ってくれるおかげで、最近はなんだか少し気持ちが楽になってきたっていうか、やれる気もしてきたかも」
「それ、分かる! 南雲さん、口は悪いしマイペースだけどさ、いざって時にはめんどくさい仕事もなんだかんだ片付けちゃうもんね。それに清水君なんて、口では文句言いながら結局誰よりも率先して重い木材運んでたりするし、遠藤君も顔真っ青にしながら必死に頑張ってるし……」
「あハハ、分かる! 南雲っちが変に凝った水路の図面描いた時も、清水君が『くそ、あいつの言う通りに動くのが一番効率いいから腹立つ』ってボソボソ悔しがってたのウケたわ」
「ていうかさー!」と、別の女子生徒がふと別の話題を思いついたようにパッと顔を輝かせる。
「南雲さんと清水君と遠藤君って、いっつも一緒にいる感じしない? どっちかと付き合ってんのかなって気になっちゃうんだけど……ねえ、どう思う八重樫さん?」
突然そんな斜め上の組み合わせで話を振られた雫は、涼しい顔でひらりと聞き流し、「さあ、どうでしょうね。本人たちに直接聞いてみたらどう?」とさらりと返すのだった。
他の女子生徒たちも次々と賛同し、調理場には明るく和やかな笑い声が広がっていった。クラス全体に漂っていた重苦しい空気が、いつの間にかこうしてほぐされ、それぞれの居場所や絆が形作られ始めている。
その光景を、少し離れた場所から香織は静かに見つめていた。
クラスメイトたちが笑顔を取り戻し、前を向いて歩き始めていること。その中心に、いつもマイペースに振る舞いながらも周囲を動かしているハジメの存在があること。それが、香織にとっては少しだけ嬉しかった。みんなが救われていく姿は、担任である愛子だけでなく、香織にとってもどこか温かなものに感じられたからだ。
けれど――。
香織はスッと視線を伏せ、手元で動かしていたナイフの動きを止めた。
みんなが見ているのは、あくまで表向きの姿だ。あの奔放で、面倒くさそうにしながらもテキパキと仕事をこなすハジメ。
だが、香織は知っている。その笑顔や軽口の裏にある、ハジメの本当の心境を。
クラスが明るい未来へと進んでいく一方で、ハジメが抱えている本当の事情を知っているからこそ、香織はこの平和な空気の中に素直に溶け込むことができなかった。
(みんなは、笑っているのに……)
胸の奥がキュッと締め付けられるような、切なさを伴う痛み。
みんながクラスの輪の中で救われていくのとは対照的に、香織はどこか儚げな表情を浮かべるのだった。
一方その頃、少し離れた場所で、愛子は自分の作業が一段落し休憩がてらにぽつんと佇んでいた。
遠目に眺める先では、クラスメイトたちがそれぞれの持ち場で熱心に汗を流している。誰もが自分の足でしっかりと立ち上がり、前を向いて歩き出そうとしていた。そして、その輪の中心にはいつも――あの奔放で周囲を動かすハジメの姿があった。
(みんな、こんなにも強くなっている……。私が支えなきゃいけないはずなのに、いつの間にか、私は彼らに支えられてばかりですね……)
そんな感慨に浸りながら愛子がふと息を漏らした、まさにその時だった。
「――って、なにしてんの愛ちゃん?」
ひょいと現れたハジメが、炊き出しで作られたばかりのおにぎりをひょいと差し出した。
「これ、ウルっていう町の名物なんだって! あーしもまさか異世界来て米が食べられるなんて思ってなかったしw」
「っ……お米、ですか……っ?」
この世界では珍しいお米を目の当たりにして、愛子は目を丸くして驚きの声をあげる。ハジメが持ってきた湯気の立つおにぎりを受け取りながら、愛子は胸がいっぱいになった様子で言葉を続けた。
「南雲さんは本当にすごいです……私なんか、作農師のスキルがなければただオロオロしているだけで、担任なのに、みんなを引っ張るどころか支えてもらってばかりで……」
どこか自分を卑下するような愛子の言葉に、ハジメは呆れたようにふっと息を吐いた。
「えー、何言ってんの愛ちゃん。土の栄養をあそこまで完璧に戻せるのは愛ちゃんしかいないっしょ。誰だって向き不向きはあるんだしさ、そんな自分で自分を下げなくていいじゃん」
「南雲さん……」
励まされた愛子が少し驚いたように目を見張ると、ハジメはふとイタズラっぽい笑みを浮かべて、唐突に首を傾げた。
「とりあえず食べよ?冷めないうちにさ」
「あ、ありがとうございます……」
ハジメも一つおにぎりを手に取り、ふーふーと息を吹きかけながら一口かじる。愛子も恐る恐るおにぎりを口に運び、ほろほろと崩れる米の甘みと素朴な塩気が口いっぱいに広がるのを感じた。
「んまっ……! お米、すごく美味しいです……!」
「でしょ? 異世界来てからマジでパンか肉ばっかだったからさ、米のありがたみが染みるよね」
二人並んで緑が戻った大地を眺めながら、しばらくの間、おにぎりを味わってほっと一息をつく。そんな穏やかな空気が流れたあと、ハジメはふっと表情を緩め、唐突に話題を切り替えた。
「そーいやさ、愛ちゃんって彼氏とかおるん?」
「へっ!? な、急になんですかそんな質問……っ! い、いませんよ、そんな余裕ありませんし……!」
あまりの直球な問いかけに、愛子は顔を真っ赤にしてパタパタと手を振る。
「へぇ、いないんだぁ?じゃあさ、好きな人とかは?」
「す、好きな人、ですか……っ。べ、別に彼氏はいないですけど……昔から、ずっと仲のいい幼馴染なら、います、けど……」
しどろもどろになりながらも絞り出した愛子の答えに、ハジメは「おっ、マジで!?」と途端に目を輝かせた。
「どんなやつなの? 幼馴染ってことは結構長い付き合いっしょ? どんな関係?、ねえねえ、詳しく教えてよ!」
「ちょ、南雲さん、そんなにニヤニヤしながら根掘り葉掘り聞かないでくださいっ! はずかしいです……!」
愛子が真っ赤になって顔を隠すのを見て、ハジメはケラケラと愉快そうに笑う。そうして一しきりからかった後、ハジメはふっと表情を和らげ、どこか優しげな白い歯を見せてはにかんだ。
「どうなん? その人のこと好き?」
突然真剣味を帯びたハジメの問いかけに、愛子はドキリと心臓を跳ねさせながらも、恥ずかしそうに頬を染めて首を横に振った。
「……分からないです。でも、元の世界に戻ったら、ちゃんと逃げずに向き合いたいって思います」
その意外なほど真っ直ぐな答えに、ハジメは「へぇ、そっか」と少しだけ目を丸くし、それからいつも通りの笑みを浮かべた。
「じゃあ、しっかり生き残って帰んないとじゃん」
その言葉に、愛子はハッと目を見張り、それから胸のつかみがすっかり洗い流されたような、晴れやかな笑顔を浮かべる。
「はいっ! お互い、絶対に帰りましょうね!」
愛子は力強くうなずくと、水が行き渡り命を取り戻した豊かな土地を振り返りながら、楽しそうに働くクラスメイトたちのほうへと元気に駆け寄っていくのだった。