篝火の輪は、日が落ちてもほどけなかった。
むしろ、広がっていた。巨木の上から降りてきた者が一人、また一人と輪に吸い込まれ、吸い込まれた端から手を取られて回り出す。太鼓を叩く土人族は、いつの間にか三人に増えていた。
その輪の中に、ティアとシアがいた。
ハウリアの女に右手を、狐人族の子供に左手を取られて、ティアは輪と一緒に回っている。回ってはいるが、足が拍子に合っていない。右へ出すべき足を左へ出し、左へ出すべき足を出しそびれ、そのたびに両側から引っ張られて、小さな身体がかくんかくんと揺れる。
「……これ、どうやるの」
「わ、私にも分かりませんよぉ!」
隣のシアも、似たようなものだった。長い耳だけが先に拍子を覚えたらしく、ぴょこぴょこと楽しそうに跳ねている。足の方は、まるで追いついていない。虎人族の若い男の足を踏み、慌てて謝り、謝っている間に後ろの子供に踏まれていた。
それでも、二人とも輪から抜けようとはしなかった。
輪から少し外れたところに、焼き台が据えられていた。
串に刺さった肉が、炭の上でじゅうじゅうと脂を落としている。その前に、白銀の塊が三つ並んでいた。
「んまっ」
ハジメは串を両手に一本ずつ持って、交互にかぶりついていた。
「え、これマジでうまい。何の肉なんこれ。ねぇ、何の肉?」
答える者はいなかった。焼き台の番をしている狐人族の男は、ハジメの両脇に陣取った狼から目を離せずにいる。
コテツとマロンは、焼き台の前にお座りしていた。背筋を伸ばして、行儀よく。行儀よく座ったまま、口の端からとめどなく涎を垂らしている。
「はい、アンタらも」
ハジメが串から肉を外して放ると、二匹は揃って首を伸ばし、空中でぱくりと受け止めた。狐人族の男の喉から、小さく「ひっ」と声が漏れる。
「――楽しんでおるようだな」
穏やかな声がした。
振り返った先に、アルフレリックが立っていた。篝火の明かりが、皺の深い顔を片側だけ赤く照らしている。
「あ、アル……アルフ……」
ハジメの眉間に、皺が寄った。
「……アルフリックさん!」
「……惜しいな」
老人は、小さく笑った。
ハジメの隣に並んで、輪の方へ目をやる。兎と虎と狐と、翼の生えた子供たちが、一つの火の周りを回っている。その中で、金色の頭と、長い耳が二本、かくんかくんと揺れていた。
「長老として、礼を言わねばならん」
「え?」
「この森に、今夜の光景をもたらしてくれたことにだ」
ハジメは、串をくわえたまま瞬きをした。
それから、串を口から抜いて、首を傾げる。
「いや、なんかさ。処刑耐えたってシアと一緒にみんなに報告しに行ったら、なんかこうなっちゃったw」
「……ほう」
「ハウリアのみんなめっちゃ泣いてさ、シアのことぎゅーってして。そしたら虎の人たちが『何事だ』って寄ってきて、事情話したらその人らも『よかったなぁ』って一緒に泣き出して。んで誰かが『祝いだ』って言い出して、気づいたら誰かが太鼓持ってきてて」
ハジメは、輪の方を指差した。
「で、気づいたらこう」
アルフレリックは、輪を見た。
それから、ハジメの横顔を見た。
何か言おうとしたのかもしれない。けれど、それより先に、目の前に串が一本突き出された。
「てかアル、アル……あ〜、アルファロメオさんも食べる? これめっちゃうまいよ」
脂が滴って、炭の上でじゅっと鳴る。
「……遠ざかったぞ」
アルフレリックの口から、小さな溜め息が漏れた。
「……まぁ、よい」
突き出された串の前に、皺の深い手のひらがそっと立てられる。
「それと、その肉の脂は、年寄り故に少々重くてな」
「えー、もったいな」
ハジメはあっさりと串を引っ込めて、自分でかぶりつく。
コテツの目が、その串をじっと追っている。
しばらく、二人は黙って輪を眺めていた。太鼓の音と、笑い声と、肉の焼ける音。篝火から昇った火の粉が、巨木の枝の間に吸い込まれて消えていく。
「……処刑は、取り下げた」
アルフレリックが、静かに口を開いた。
「ハウリアは、再びこの森で暮らせる。……だが、娘よ」
声の調子が、ほんの少しだけ変わる。
「兎人族は、もとより争いを好まぬ。気配を断ち、逃げ、隠れることで生き延びてきた一族だ。戦う術を、ほとんど持たぬ」
ハジメの口が、止まった。
「帝国の亜人狩りは、今も続いておる。森の縁に近づいた者が、戻らなかった話は珍しくない。……ハウリアの者たちも、それはよく知っておるはずだ」
老人の目が、輪の中のハウリアたちへ向けられる。
子供を肩車して笑っている男。手を叩いて拍子を取っている女。その誰もが、谷の底で帝国の兵に追い立てられていた者たちだった。
「そなたらが森を去った後、あの者たちはどうなる」
ハジメは、何も言わなかった。
手の中の串から、脂が一滴、地面に落ちた。
串を握る指に、少しだけ力がこもる。
コテツが、鼻先をハジメの手の甲に押しつけた。
「――ハジメ殿」
声がした。
二人が振り返ると、カムが立っていた。
輪から抜けてきたらしい。額に汗を浮かべ、肩で息をしている。けれど、その顔は笑っていなかった。
「……お話、聞こえておりました」
カムは、アルフレリックに一礼した。それからハジメに向き直り、深く頭を下げる。
「ハジメ殿。お願いがございます」
「え、なになに」
「我らを、鍛えていただけませんか」
ハジメの目が、丸くなった。
カムは、頭を下げたまま続けた。
「谷の縁で……ハジメ殿は、我らに謝られました。仲間を助けられなかったと」
ハジメの肩が、小さく跳ねた。
「助けていただいたのは、我らの方です。それなのに、あのようなお顔をさせてしまった」
カムの拳が、膝の横で握り込まれる。
「我らが弱いからです。逃げることしかできぬから、連れて行かれた。連れて行かれても、取り返しに行くこともできなかった」
篝火の向こうで、太鼓がひときわ大きく鳴った。
「もう二度と、ハジメ殿にあのようなお顔をさせたくはありません。それに……」
カムは、顔を上げた。
その目が、輪の中へ向けられる。拍子の取れない足で、それでも笑いながら回っている娘の方へ。
「あの子が、いつかこの森に帰ってきた時に。帰る場所を、自分たちの手で守れる一族でありたいのです」
ハジメは、カムを見ていた。
それから、輪の中のシアを見た。長い耳が、篝火の明かりの中でぴょこぴょこと跳ねている。
ハジメは、串の最後の一切れを口に放り込んだ。噛んで、飲み込んで、空になった串をくるりと指で回す。
「おけまる! 任しときー!」
「……ハジメのおけまるは、当てにならない」
真横から、声がした。
「ちょ、ティアいつの間に!?」
いつの間にか輪を抜けてきたティアが、ハジメの隣に立っていた。踊り疲れたのか、前髪が少しだけ額に張りついている。
「さっき」
「てか当てにならんって何!?」
「帝国の兵の時も、そう言った」
「それはもう言わんでって言ったじゃん!!」
カムが、思わず噴き出した。噴き出してから、慌てて口元を押さえる。
アルフレリックは、何も言わずに目を細めていた。
◇
翌朝の森は、霧が低かった。
フェアベルゲンから少し離れた、木々の開けた場所だった。巨木の根が地面を這い、その間を苔が埋めている。霧は膝の高さあたりに溜まっていて、歩くたびに白い渦が足元で巻いた。
大樹の霧が晴れるまで、十日。
その十日を使って、訓練をすることになった。ハウリアの一族はハジメが、シアはティアが受け持つ。
「――遅い」
ティアの指先から、小さな氷の粒が三つ、続けざまに飛んだ。
シアは一つ目を横に跳んで躱し、二つ目を身を屈めて躱し、三つ目を額に食らった。
「いったぁ!?」
ぺしり、と軽い音がする。氷の粒は、額に当たった端から砕けて霧に溶けた。
「……二つ目で、屈みすぎ。だから三つ目が見えない」
「そ、そんなこと言われましてもぉ……!」
シアは額を押さえて、その場にへたり込んだ。
朝から、ずっとこの調子だった。ティアが撃ち、シアが避ける。避けきれずに当たり、また立ち上がって避ける。氷の粒はどれも小さく、当たっても痛いだけで怪我にはならない。それでも、もう何十発食らったか分からなかった。
前髪が、汗で額に張りついている。長い耳は力なく垂れ、脚が小刻みに震えていた。
ティアは、しばらくシアを見下ろしていた。
「……休憩」
「た、助かりましたぁ……」
シアは苔の上に仰向けに倒れ込んだ。胸が大きく上下している。
ティアも、近くの根に腰を下ろした。
霧の向こうで、鳥が一羽鳴いた。木漏れ日が斜めに差し込んで、膝の高さの霧を白く光らせている。
しばらくして、シアが仰向けのまま口を開いた。
「……父様たち、大丈夫でしょうか」
「…………」
「ハジメさんが見てくれてるのは、分かってるんです。分かってるんですけど……」
シアの目は、霧の向こうへ向いている。一族が訓練をしているはずの方角だった。
「みんな、戦うのとか、本当に苦手なので……」
ティアは、少し考える。
それから、根から腰を上げた。
「……様子、見に行こう」
◇
霧の向こうから、声が聞こえてきた。
すすり泣く声だった。
ティアとシアは、顔を見合わせた。足を速める。木々の間を抜け、根を一つ跨いで、開けた場所に出る。
ハウリアの一族が、輪になって座り込んでいた。
輪の真ん中に、小さな獣がいた。
栗鼠に似ている。丸い目をして、ふさふさした尾を背中に巻きつけ、両手で木の実を抱えている。逃げようともせず、自分を囲む大勢の顔を、きょとんと見上げていた。
その獣の正面に、ハジメがしゃがみ込んでいた。
手に、錬成したらしい石の短刀を握っている。握ったまま、ぶるぶると震えていた。
「……ごめん……」
ハジメの目から、ぼろぼろと涙が零れていた。
「……ごめんね……! ごめんねぇ……! あーし、アンタのこと、狩るとか……っ、無理……!」
「ハジメ殿ぉ……!」
「我らも……我らも、無理ですぅ……!」
周りのハウリアたちも、泣いていた。大の大人が、揃って顔をくしゃくしゃにして、鼻をすすっている。カムに至っては、両手で顔を覆っている。
栗鼠のような獣が、首を傾げる。
それから、抱えていた木の実をひとつ、ハジメの膝の上に置いた。
「……っ、くれるの……? え、いい子すぎん……?」
ハジメは、短刀を放り出した。
両手で顔を覆って、その場に突っ伏す。
「ごめんねぇぇぇ……!!」
「ごめんなさいぃぃぃ……!!」
ハウリアたちの声が、揃った。
獣は、もう一つ木の実を置いて、ちょこちょこと茂みの中へ帰っていった。
ハジメはしばらく突っ伏したままでいた。それから、ずびっと鼻をすすって顔を上げる。
目の前の苔の間に、小さな花が咲いていた。
「……え、待って」
ハジメの涙が、ぴたりと止まった。
「見て、これ。めっちゃかわちぃ」
薄い紫の、指先ほどの花だった。五枚の花びらの縁だけが、白く透けている。
「わぁ……」
「本当ですね……」
「こんなところに……」
ハウリアたちが、わらわらと花の周りに集まった。泣き腫らした顔のまま、膝を抱えて、小さな花を覗き込む。
「ね? この縁のとこの透け感、エモくない?」
「えもい……」
「えもいですね……」
「あ、こっちにもある」
「本当だ……」
全員が、苔の上に座り込んで、花を眺めていた。霧の中に、穏やかな沈黙が落ちる。少し離れた木の根元では、コテツとマロンが丸くなって寝息を立てていた。
木漏れ日が、のどかに揺れている。
「――な」
シアの声が、震えた。
「な、何も進んでないじゃないですかぁ!?」
全員が、一斉に振り返る。
ハジメが、花を指差した格好のまま固まる。
「あ、シア。ティアも。見て見て、ここめっちゃかわちぃ花あってさ――」
ハジメの声が、途中で止まった。
ティアの足元から、霜が広がっていた。
ぱき、ぱき、と小さな音を立てて、苔の上に白い筋が伸びていく。膝の高さの霧が、ティアの周りだけ凍りついて、細かな氷の粒になってきらきらと落ちていく。
ティアは、何も言っていない。
表情も、変わっていない。
ただ、赤い目だけが、まっすぐにハジメを見ている。
ハジメの額に、汗が一筋浮く。
二筋になる。
ハウリアたちが、そろそろと後ずさる。コテツとマロンが、寝ていたはずの耳をぴんと立てた。
「…………ハジメ」
「は、はい」
「……朝から、何してたの」
「え、えっと……狩りの、練習……?」
「…………」
「を、しようとしたんだけど……あの子が、木の実くれて……」
「…………」
霜の筋が、ハジメの足元まで届いた。
ハジメは、ゆっくりと立ち上がった。膝の土を払う手が、少しだけ震えている。
「……なんか、ゴメン」
ティアは、答えなかった。
ハジメの横をすり抜けて、ハウリアたちの前に立つ。それから、振り返らずに言った。
「……シアは、ハジメが見て」
「え」
「こっちは、私がやる」
「は、はいっ! 喜んで!!」
ハジメはシアの手を掴んだ。シアが「え、えっ?」と目を白黒させる間に、そのまま霧の向こうへ引っ張っていく。
「ちょ、ハジメさん!? 父様たちは!?」
「今のティアの前にいたら、あーしらも凍るから!!」
「え、えぇぇぇ!?」
二人の声が、霧の向こうへ遠ざかっていった。
ティアは、残されたハウリアたちを見渡した。
全員が、泣き腫らした目のまま、身を寄せ合っている。カムだけが、一歩前に出ていた。
「……ティア殿」
ティアは、少しの間カムを見ていた。
谷の縁で、ハジメが頭を下げた時のことを思い出していた。紫電が引いた後も、ほどけなかった右の拳。助けられなかったと謝る、あの声。
隣で、それを見ていた。
「……コテツ。マロン」
木の根元から、二匹が起き上がった。
「……借りる」
ハジメの声ではなかった。けれど二匹は、尻尾を一度だけ振って、ティアの両脇に並んだ。
◇
「……逃げるのは、得意?」
ティアの問いに、ハウリアたちが顔を見合わせる。
それから、おずおずと頷いた。
「……なら、逃げて」
ティアの目が、両脇の二匹へ移る。
「この子たちから」
一拍、間があった。
「ワオォォォン!!」
二匹が、同時に吠えた。
ハウリアたちの悲鳴が、森に響き渡った。
蜘蛛の子を散らすように、一族が四方へ逃げていく。その背中を、白銀の狼が二匹、紫電を散らしながら追いかけていく。速い。逃げ足には自信のある兎人族が、見る間に距離を詰められていく。
「ひぃぃぃっ!?」
一人が、コテツに襟首をくわえられて、ひょいと持ち上げられた。持ち上げられたまま、ぶらんぶらんと揺れている。噛まれてはいない。ただ、くわえられているだけだった。
「……捕まった。最初から」
ティアの声が、霧の中に通る。
「……逃げるだけじゃ、また捕まる」
コテツが、くわえていた男を地面に下ろした。男は腰を抜かしたまま、ぺたりと座り込んでいる。
「隠れるのが得意なら、隠れて、待つ。待って、背中が見えたら……」
ティアは、少しだけ言葉を探す。
「……その時に、何をするか。考えて」
ハウリアたちは、肩で息をしながらティアを見ている。
それから、もう一度、散った。
今度は、ただ走るだけではない。木の陰に飛び込む者。根の窪みに身を伏せる者。霧の中に、気配が溶けていく。
マロンが、鼻をひくつかせて立ち止まる。
その背後の茂みから、一人の男が飛び出した。手に持った木の枝を、振りかぶって――
マロンが、振り返りもせずに尻尾で男をはたき落とした。
「……惜しい」
ティアが、指先を一本立てる。
小さな光が灯る。それが、霧の向こうの、誰もいない地面に向かって飛んだ。
轟音。
土と苔が、高く舞い上がった。爆風が霧を吹き飛ばし、近くの木陰に隠れていた三人が、ころころと転がり出てくる。
「……隠れる場所、近すぎ。風で分かる」
転がり出た三人は、白目を剥いていた。怪我はない。爆発は、三人のいた場所から十歩も離れたところで起きていた。
ティアは、表情一つ変えなかった。
「……次」
日が高くなっても、訓練は続いた。
逃げ、隠れ、待ち、飛び出して、はたき落とされる。時々、どこかで轟音が鳴り、誰かが転がり出てくる。そのたびに、ハウリアたちは泥まみれの顔で立ち上がった。
泣き言を言う者は、いなかった。
カムが、根に足を取られて転んだ。
起き上がる前に、マロンの鼻先が目の前に迫る。カムは、転がったまま横に跳んだ。跳んで、木の陰に滑り込んだ。
マロンが、首を傾げた。
さっきまで、そこにあったはずの気配が、ない。
ティアの眉が、ほんの少しだけ動いた。
◇
その様子を、木陰から覗いている者たちがいた。
「……おい、本当にやってるぞ」
「兎どもが、狼に追い回されてる……」
縞の尾が、いくつか。ギルと、その部下たちだった。巡回の途中で轟音を聞きつけ、何事かと様子を見に来たのだ。
その隣には、もっと大きな影が並んでいた。
丸い耳。焦げ茶色の硬い毛並み。熊人族の若い男たちが、四、五人。こちらも、木の幹に身を隠すようにして、訓練の方を窺っている。
「……族長の言ってた、気味の悪い人間ってのは、どいつだ」
「見当たらんな」
「あの金色のちびか?」
「いや、あれは違うだろ。族長は、白銀の髪のでかい女だと言ってたぞ」
「耳を触らせろと迫ってきたらしい」
「……なんだそれは」
熊人族の男たちが、顔を見合わせる。
ジンが長老会議から戻るなり、どかりと座り込んで「白銀の髪のでかい女がいた。耳を触らせろと迫ってきた。……気味が悪い」とだけ吐き捨てた。それ以上は何も言わず、一晩中、耳をしきりに押さえていた。何があったのか、誰も聞けなかった。
だから、見に来たのだ。どんなものか、と。
「見つからんうちに、帰った方がいいのではないか」
ギルが、低く言った。
「あの狼は、鼻が利く。森の入り口でも――」
その時だった。
訓練場の真ん中で、コテツが足を止める。
鼻が、ひくりと動く。
マロンも、足を止める。
二匹の首が、ゆっくりと、こちらへ向いた。
木陰の全員が、凍りつく。
「…………」
「…………」
「……目が、合った気がする」
ザムの声が、裏返った。
二匹の尻尾が、ぶんぶんと振られ始める。
新しい獲物を見つけた時の、嬉しそうな振り方だった。
「ワオォォォン!!」
「うわぁぁぁ!! なんかこっちにも来たぞぉぉ!!」
木陰が、爆発したように散った。
虎人族も熊人族も、ハウリアと同じ方向へ逃げ出した。逃げ出して、ハウリアと一緒になって、森の中を走り回る羽目になった。
「な、なんで我々まで追われてるんだ!?」
「知るかぁ!! 走れ!!」
「隊長ぉぉ!! 隊長が一番速いです!!」
「黙って走れぇぇ!!」
轟音が鳴った。
逃げる熊人族の十歩先で、土と苔が舞い上がった。爆風に煽られて、熊人族の大きな身体が二つ、ころころと転がる。
「……あなたたちも、隠れる場所、近すぎ」
ティアの声が、どこからか聞こえた。
◇
しばらくして、訓練場の真ん中に、泥まみれの山ができていた。
兎人族と、虎人族と、熊人族。種族の区別もつかないほど泥にまみれて、全員が仰向けに転がり、ぜぇぜぇと胸を上下させている。
その周りを、コテツとマロンがのんびりと歩いていた。満足げに、尻尾を揺らしながら。
ティアが、山の前に立つ。
見下ろす。泥まみれのハウリア。泥まみれの虎人族。泥まみれの熊人族。
それから、虎人族と熊人族の方を指差した。
「……暇なら、そこに並んで」
淡々とした声だった。
ギルが、何か言おうとして口を開いた。
ティアの赤い目と、目が合う。
ギルは、口を閉じた。
起き上がって、ハウリアの列の端に並ぶ。
部下たちが、それに続く。熊人族の男たちも、顔を見合わせてから、黙ってその隣に並んだ。
「……逃げて。この子たちから」
「ワオォォォン!!」
列が、また散った。
◇
日が、傾き始めていた。
何度目か分からない爆風に吹き飛ばされて、熊人族の若い男が一人、苔の上に大の字になっていた。
荒い息を吐きながら、木々の隙間から覗く空を見上げる。橙色に染まりかけた雲が、ゆっくりと流れていく。
隣に、虎人族の若い男が転がってきた。ザムだった。泥で縞模様がほとんど見えなくなっている。
その向こうに、ハウリアの男が転がってきた。
三人並んで、しばらく空を見上げている。
「……なぁ」
熊人族の男が、ぽつりと言った。
「……あれ?」
「……ん?」
「なんで、俺たちまで一緒に訓練してんだ?」
ザムが、空を見上げたまま瞬きをした。
ハウリアの男も、瞬きをする。
少し離れたところで、ギルが泥まみれの顔を手で拭っている。拭いながら、低く言った。
「……私に聞くな」
◇
夜になった。
フェアベルゲンの広場に、また火が焚かれていた。昨夜の篝火ほど大きくはない。代わりに、火の上に大きな鍋が一つ、吊るされていた。
鍋をかき回しているのは、ハウリアの女たちだった。森で摘んだ香草と、干した茸と、木の実が煮込まれている。湯気と一緒に、柔らかい匂いが広場に広がっていく。
その隣では、熊人族の男たちが、獣の脚を火に翳していた。訓練の帰り道に獲ってきたものだった。虎人族の若い衆が、焼けた端から切り分けて、木の皿に盛っていく。
ハウリアの子供が、切り分けられた肉を受け取った。
受け取って、隣にいた熊人族の大男を見上げる。
「……あ、ありがと」
大男は、何も言わずに頷いた。泥を落としきれていない顔のまま、ほんの少しだけ口の端を緩めていた。
ティアは、鍋の脇で木の椀を抱えている。
汁を一口すする。香草の匂いが、鼻に抜けていく。
広場のあちこちで、泥を落とした者たちが車座になっていた。兎の耳と、縞の尾と、丸い耳が、同じ火を囲んでいる。昼間の訓練の話をしているのか、時々誰かが身振り手振りで何かを語り、周りがどっと笑った。
「爆発がな、こう、十歩先で」
「十歩先で、なんで俺たちが転がるんだ」
「風だ、風」
「隠れる場所が近すぎると言われた」
「お前もか」
ティアは、黙ってそれを聞いていた。
広場の入り口の方から、聞き慣れた声が近づいてきた。
「つっかれたぁ〜……! ねぇシア、生きてる?」
「い、生きて、ます……たぶん……」
泥だらけのシアが、同じく泥だらけのハジメに肩を借りて、よろよろと歩いてくる。ハジメの方は、汚れているわりにけろりとしていた。
ハジメは、広場を見渡した。
車座になった兎と虎と熊。鍋の湯気。焼けた肉の匂い。
「……え、なんかめっちゃ増えてない!?」
ティアは、椀から顔を上げた。
「……増えた」
「なんで!?」
ティアは、答えなかった。
もう一口、汁をすする。
鍋の向こうで、ギルが熊人族の男に肉を勧められて、断りきれずに受け取っていた。
コテツとマロンが、ハジメの姿を見つけて駆け寄っていく。泥だらけの二匹に左右から飛びつかれて、ハジメが「重いって!!」と悲鳴を上げた。
広場の火が、ぱちりと爆ぜた。