砦の見張り台から、その列が見えたのは昼過ぎのことだった。
最初、見張りの兵は商隊か何かだと思った。それにしては荷車がない。馬もいない。よろよろと街道を歩いてくる人影が、二十と少し。
近づくにつれて、人影の着ている鎧の形が見えてきた。
帝国の鎧だった。
「……第三連隊の、亜人狩りの隊じゃないか」
隣の兵が、目を細めて呟いた。
覚えている。
しばらく前、この砦を荷車が何台も通っていった。荷台には木の檻が積まれ、檻の隙間から長い耳がいくつも覗いていた。泣き声は聞こえない。車輪の軋む音と、檻が揺れるたびに鳴る閂の音だけが、門の前をゆっくりと過ぎていく。
見張りは、それを見送った。いつもの荷だ。帳面に台数を書き付けて、それで終わりだった。
荷車を送り出した後、残りの兵たちはこの砦で一晩休んでいった。ライセンの谷に逃げ込んだ残りの兎を、出口で網を張って根こそぎ攫ってくるのだと、酒を呷りながら大声で笑っていた。一人で十匹は捕まえてやると息巻く若いのもいた。
その若いのが、列の中ほどを歩いている。
仲間の肩に腕を回して、引きずられるようにして。鎧は、胸当てしか残っていなかった。
列の先頭には、毛布を一枚頭から被った男がいる。毛布の裾から裸の脛が覗き、足には何も履いていない。
「……な、何があったんだ」
門の前まで出ていった見張りの声に、答える者はいなかった。
男たちは誰も、見張りの顔を見ようとしなかった。見ようとしないまま、ぞろぞろと門をくぐっていく。剣を提げている者が、一人もいない。鞘だけを腰に吊るした者が何人かいて、中身のない鞘が歩くたびに腿に当たり、かたかたと乾いた音を立てる。
最後の一人が門をくぐった時、毛布の男がその場にしゃがみ込んだ。
毛布の中で、膝を抱える。
「……帰って、きた」
震える声だった。
見張りは、出ていった時の連中の笑い声を思い出そうとした。思い出せたのに、目の前の男たちとは、どうしても重ならなかった。
◇
「――で」
砦の一室で、上官が机の縁を指で叩いた。
「先に送ってきた分で、手柄は十分だったろう。残りの兎を出口で待つだけの仕事で、何をどうしたらこうなる」
上官は、机の上の書き付けを指で弾いた。
「三十人で網を張って、女一人とガキ一人に追い返された、と」
鼻で笑う音が、部屋に響いた。
机の前には、隊長格の男が直立していた。その後ろに、比較的まともに口のきける兵が五人並んでいる。全員が、汗をかいていた。部屋は寒いくらいなのに、額から首筋へ、汗が筋を作って流れていく。
「……正確には、女一人と、ガキ一人と、狼が二匹です」
「狼ぐらいで、帝国の兵が逃げ帰ったのか」
「デカいんです」
後ろの兵の一人が、絞り出すように言った。
「ただの狼じゃ、ありません。肩の高さが、俺の胸くらいあって。それが、紫に光るんです。毛の先から、雷みたいなのがバチバチって」
「雷の狼、か」
上官の口の端が、また上がった。
「お前ら、谷で妙な茸でも食ったんじゃないのか」
誰も、笑わなかった。
隊長格の男が、黙って腰の後ろに手を回した。何かを取り出して、机の上に置く。
剣の柄だった。
鍔から先が、ない。折れたのではなかった。断面がどこにもない。刃があったはずのところが、ざらりとした灰色の砂粒で、まだうっすらと汚れている。
「……私の部下の剣です」
隊長格の男が言った。
「女が、こう、刃の腹を撫でました。それだけで、砂になりました。こいつだけではありません。十本以上、同じように」
上官は柄を見下ろした。
指先で、鍔の砂を拭う。指の腹に、細かな砂粒がつく。
「鎧もです」
別の兵が言った。
「触られたら、継ぎ目から崩れて。……外に、一人おります。下穿き一枚で帰ってきた奴が」
上官の指が、止まる。
窓の外から、毛布の男の啜り泣く声が、かすかに聞こえている。
「……続けろ」
上官の声から、笑いが消えていた。
兵たちは、ぽつりぽつりと話し始めた。
剣を向けた兵が、素手で殴りかかって吹き飛ばされたこと。囲めば、女の周りに一瞬で岩の壁が生えて、その壁にまで雷が走ったこと。尻に噛みつかれ、噛まれたまま全身を痺れさせられたこと。金色の髪のガキが、手をかざしただけで地面を吹き飛ばしたこと。吹き飛ばされた者は何人もいたのに、一人も死ななかったこと。
話している間、兵たちの膝は、ずっと小刻みに震えている。隊長格の男の拳は、太腿の横で白くなるほど握られていた。
上官はもう一度、柄に目を落とす。
「……魔物を、使役していたと言ったな」
声が、低くなっていた。
「その女。魔人族じゃねぇだろうな?」
「いえ」
隊長格の男が、すぐに首を振った。
「肌は、浅黒くありませんでした。耳も、尖ってはいなかった。……白い肌に、銀色の髪の、女でした」
少しだけ、言葉が詰まる。
「……美しい、女でした。目だけが、赤くて」
部屋が、しんとした。
「――それと」
列の端にいた兵が、口を開いた。
若い、下っ端の兵だった。声が掠れている。
「俺、あの女に、言ったんです。帝国に来ないかって。あんたなら、亜人狩りの隊なんて一晩で隊長だって」
上官の目が、その兵に向く。
「……そしたら、雷が」
兵の喉が、ごくりと鳴った。
「亜人の話をした途端です。その前までは、ただ、俯いてるだけだったのに。亜人狩りって言った途端、全身から、雷が溢れて。それで、言ったんです。『はやく、あーしの前から消えてくんない?』って」
兵の唇が、震えている。
「怒鳴ったんじゃ、ありません。静かでした。静かなのに……あの目が」
その後は、言葉にならなかった。
上官はしばらく黙っていた。
帝国では、亜人を狩るのは仕事だ。捕らえて、首輪を付けて、売る。売れないものは、捨てる。それを咎める者など、この国にはいない。
その仕事を、邪魔された。
強いだけの人間なら、金で雇えばいい。だが、その女は、帝国に来いという誘いを蹴った。蹴ったうえで、亜人のために怒った。
「……亜人の側に立つ、人間か」
上官が、低く呟く。
その時だった。
「……魔女だ」
誰かが、零した。
さっきの、下っ端の兵だった。自分でも、何を言ったのか分かっていないような顔をしていた。
「あれは……魔女だ」
隣の兵が、ゆっくりと頷く。
その隣も、頷く。隊長格の男も、目を伏せたまま、小さく顎を引いた。
紫の雷を纏った、銀の髪の女。
誰も、それ以上の言葉を持っていなかった。けれど、その一言だけは、部屋にいた兵の全員の胸に、すとんと収まったようだった。
◇
その日のうちに、砦から早馬が一騎、駆け出していった。
先に送った獲物の分の稼ぎは、もう出ている。だが、残りを取り逃がしたうえ、亜人狩りの部隊が事実上潰された。帝国の生業に、真正面から牙を剥く者が現れた。それだけで、皇帝に知らせるには十分な理由だった。
それに、と上官は思う。
あの方は、強い者の話がお好きだ。
行き先は、ハイリヒ王国。勇者を一目見ると言って国を発った、皇帝のもとだった。
早馬の土煙が街道の向こうへ消えていく頃には、砦の兵舎で、その噂はもう歩き始めていた。
紫の雷を纏った、銀の髪の魔女がいる。帝国の兵を、三十人まとめて叩き返したらしい。狼の魔物を、二匹も従えていたらしい。
日が沈む頃には、三十人が百人になっていた。
夜が更ける頃には、魔女は雷を一つ落としただけで、谷の出口ごと吹き飛ばしたことになっていた。
夜が明ける頃には、狼は三匹に増え、魔女の赤い目に見つめられた男は、魂を抜かれて二度と戻らないことになっていた。
◇
帝国領の街道は、どこまでも乾いていた。
背の低い草が、風に煽られて同じ方向へ寝ている。遠くに見える丘の稜線は、空との境目がぼやけるほど白っぽい。轍の跡が幾筋も重なった土の道が、その丘の向こうまでまっすぐに延びている。
その道の途中で、金属のぶつかる音が鳴った。
がぎん、と一つ。続けて、もう一つ。
怒号が上がる。馬のいななきが、それに重なる。乾いた土埃が、街道の真ん中から舞い上がる。
相川の盾が、鈍い音を立てて打ち鳴らされた。
横転しかけた幌馬車を背に、相川が大盾を構えて立っている。その後ろには、腰を抜かした行商人と、行商人の肩を支える愛子。
盗賊たちの目が、一斉に相川へ吸い寄せられた。
「てめぇ、ガキが!」
一人が、剣を振りかぶって突っ込んでくる。
相川は、退かなかった。
振り下ろされる刃の軌道に、盾の縁をすっと合わせる。打ち合わせるのではない。刃が盾に触れたその瞬間、手首を返して、刃の腹を外へ払う。
剣が、盗賊の手から弾け飛んだ。勢いを殺しきれなかった盗賊の身体が、前のめりにたたらを踏む。
「菅原!」
「はいはーい」
おっとりとした声と一緒に、鞭が空を切った。
しなる革の先が、体勢を崩した盗賊の足首に絡みつく。妙子が手首を返すと、盗賊の脚がすくい上げられて、背中から地面に叩きつけられた。
その上を、玉井が飛び越えていく。
二本の曲刀が、陽の光を弾いた。
奥から斧を構えて出てきた盗賊の懐に、玉井が滑り込む。一本目の刀身で斧の柄を受け止めながら、二本目の曲刀を手の中でくるりと返す。刃ではなく峰が、がら空きの脇腹に叩き込まれた。盗賊が、くの字に折れて膝をつく。
「……一丁上がり」
玉井は短く息を吐いて、返した曲刀を握り直した。
街道の脇の茂みが、がさりと揺れた。
一人の盗賊が、馬車の裏へ回り込もうとしていた。愛子と行商人のいる、相川の背中の側へ。
その足元に、白い冷気が走った。
奈々の詠唱が、短く終わったところだった。盗賊の足首から下が、地面ごと凍りついている。走りかけた勢いのまま、盗賊は前に倒れ、凍った足を引き抜こうとして悲鳴を上げた。
「そっち行かせないってー」
奈々が、指先を下ろしながらぼやく。
仁村は、もう弓を引いていた。
気だるげに細められていた目が、街道の向こうの木立を捉えている。遠い。普通なら、葉の重なりしか見えない距離だった。その葉の隙間で、弓を構えた男の指先が、ちらりと動く。
仁村が、矢を放った。
一本だけだった。
矢は木立の間をまっすぐに抜けて、構えられていた弓の弦を、根元から断ち切った。
木立の奥で、男の間抜けな声が上がる。
「……はい、終わり」
仁村は、もう次の矢をつがえていなかった。
清水は、杖を構えている。
目の前に、盗賊が一人いる。この中では一番体格がよく、一番場数を踏んでいそうな男だった。振り下ろされる剣を、清水は杖で受け止めた。
重い。腕が痺れる。王宮の訓練場で、雫に何度も杖を叩き落とされてきた腕だった。
受け止めたまま、押し込まれる。杖と剣が噛み合い、二人の顔が近づいた。
鍔迫り合いの距離で、盗賊の目と、清水の目が合った。
清水の瞳の奥に、黒いものが揺れた。
盗賊の目から、焦点が抜けた。
剣を押し込んでいた腕から、力が消える。そのまま、膝から崩れるようにして、盗賊は街道に倒れ込んだ。
清水は杖を下ろして、大きく息を吐いた。
「……詠唱、間に合わねぇんだよ。近すぎて」
誰に言うでもなく、ぼやく。
最後に残ったのは、一人だけだった。
街道沿いの大木に背中を押しつけるようにして、短剣を構えている。仲間が次々と倒れていくのを見て、それでも逃げなかったのは、逃げ道がどこにもなかったからだろう。
「く、来るなぁ! 来たら、刺すぞ!」
優花は、その盗賊の正面で立ち止まった。
右手を、軽く振る。
腰の革帯から、細身の投擲用のナイフが何本も、ふわりと宙に浮かび上がった。
盗賊の顔から、血の気が引いた。
たん。
一本目が、盗賊の頬の横の幹に突き立った。
たん。たん。
二本目が首の横に。三本目が、短剣を握る手の、指の間の幹に。
たん、たん、たん、たん。
脇の下。腰の横。膝の脇。股の間。
幹に突き立ったナイフが、盗賊の身体の輪郭を、ぐるりとなぞっていく。一本も、肌に触れてはいなかった。触れていないのに、もう、どこにも動けなかった。
盗賊の手から、短剣が落ちた。
「……まだ、やる?」
優花が、首を傾げた。
盗賊は、幹に背中をつけたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
優花が手を引くと、幹に突き立っていたナイフが一斉に抜けて、宙を滑って革帯へ戻っていった。
その頃になって、ようやく白い鎧が四つ、剣を抜いて駆けつけてきた。
「愛子、下がっていろ! ここは我らが――」
デビッドが、剣を構えたまま、言葉を止めた。
街道には、もう立っている盗賊が一人もいなかった。
後ろの三人の神殿騎士も、剣を構えたまま固まっている。構えた剣の切っ先が、行き場を失ったように、ゆっくりと下がっていった。
◇
行商人の馬車が、街道で盗賊に囲まれていたのは、ほんの少し前のことだ。
最初に気づいたのは、御者台にいた相川だった。止めようとした仁村の手を振り切って、真っ先に馬車を降りたのは愛子の方だ。
「助けましょう!」
小さな身体で駆け出そうとした担任を、親衛隊の全員が慌てて追い越す。追い越して、愛子の前に立ち塞がる。
それが、戦いの始まりだった。
人を相手に、本気で武器を振るうのは初めてだった。
迷宮で魔物とは何度もやり合ってきた。けれど、言葉を話し、怒鳴り、刃を向けてくる人間は、魔物とはまるで違う。盾を構えた相川の指先は白くなっていたし、玉井は曲刀を抜く前に一度、柄を握り直した。奈々の詠唱も、最初の一節で少しだけ声が裏返っている。
ただ、蓋を開けてみれば、あっけなかった。
王宮にいた頃から、毎日のように組手をしてきた。相手は騎士団の騎士だったり、光輝や雫や龍太郎だったり。実戦ではない。けれど、どれも自分たちよりずっと速く、ずっと重い相手だった。
それに比べれば、街道で行商人を囲む程度の野盗は遅い。剣の振りは大きく、足運びはばらばらで、仲間との呼吸も合っていない。
気づいた時には、もう終わっていた。
「……え、終わり?」
玉井が、抜いたままの曲刀を下ろしながら呟いた。
「終わった、っぽい……?」
奈々が、指先を宙に上げたまま固まっている。次の詠唱を、もう頭の中で組み立てていたらしい。
相川は、盾を構えた格好のまま、しばらく動かなかった。動かないまま、自分の盾の表をまじまじと見下ろしている。傷一つ、ついていない。
「……緊張して、損した」
仁村が、弓を肩に担ぎ直して、欠伸を一つ噛み殺した。
◇
「怪我、ない?」
優花が、馬車の脇にしゃがみ込んでいた。
行商人は、まだ腰が抜けたままだった。白髪混じりの、痩せた男だ。優花はその腕を取って、袖を少しまくる。擦り傷が一つ。血は、もう止まりかけていた。
「これくらいなら平気そう。……荷は?」
「え、ええ……少し、崩れたくらいで……」
優花は立ち上がって、荷台の幌をめくった。木箱がいくつか横倒しになっている。蓋を開けて、中を確かめる。干した果物と、塩漬けの肉と、小麦の袋。袋が一つ破れて、白い粉が少しこぼれていた。
「小麦、一袋だけダメかも。他は大丈夫」
「あ、ありがとうございます……! 本当に、何とお礼を……」
行商人が、地面に手をついて頭を下げようとする。優花は、その肩を掴んで止めた。
「いいって、そういうの。先生が助けるって言ったんだし」
ぶっきらぼうな声だった。
それから、少しだけ声を落とす。
「次の町まで、まだ結構あるんでしょ。この辺、まだ他にもいるかもしんないから。気をつけて行きなよ」
行商人が、目を瞬かせる。
それから、もう一度深く頭を下げた。今度は、優花も止めなかった。
◇
縛り上げた盗賊たちが、街道の脇に一列に並べられていた。
全部で七人。気絶している者が三人、まだ足が凍りついている者が一人、残りはうなだれたまま、ぴくりとも動かない。
親衛隊の面々が、その列を囲んで見下ろしていた。
「……で、どうする、こいつら」
玉井が、曲刀を鞘に収めながら言った。
「どうするって言われてもなー」
奈々が、首を傾げる。
「置いてくわけにもいかないしねー」
妙子が、のんびりと続けた。
「み、みなさん!」
行商人の傍を離れて、愛子が小走りに駆け寄ってきた。
一人ずつ、顔を覗き込んでいく。相川の盾を持つ腕。玉井の曲刀を握っていた手。奈々の指先。優花の頬。背伸びをして、背の高い者の顔まで、確かめるように見上げる。
「怪我は、ありませんか!? どこか、切られたりは……!」
「ないない。誰も」
奈々が、ひらひらと手を振った。
愛子は、全員の顔を見終わってから、ようやく胸を撫で下ろした。
それから、少しだけ肩を落とす。
「……すみません。私の、わがままで」
小さな声だった。
「みなさんを、危ない目に遭わせてしまって。先生なのに、守られてばかりで……」
「わがままじゃないでしょ」
優花が、腕を組んだまま言った。
「先生が言わなかったら、うちらが言ってたし」
「つーか、先生が真っ先に飛び出してったのにビビったわ」
相川が、盾を背負い直しながら笑った。
「止める暇もなかったもんな」
玉井が続ける。
「……戦うのは、俺らに任せてくださいよ」
杖にもたれていた清水が、ぼそりと言った。
「先生は先生で、やることあるでしょ。そのための旅なんすから」
愛子は全員の顔を、もう一度見回した。
目の縁が、少しだけ赤くなっていた。
「……はい」
輪の後ろで、がしゃりと鎧の鳴る音がした。
「愛子!」
デビッドだった。
構えたまま固まっていた剣をようやく鞘に収め、輪を押し分けるようにして、まっすぐに愛子の前へ詰め寄る。後ろの三人の神殿騎士も、それに続いた。四人がかりで、小さな担任を取り囲む。
「怪我はないか!? どこか、痛むところは!?」
「お、お顔に、泥が……!」
「お手が、少し赤くなっておられる! まさか、どこかで……!」
愛子は四方から覗き込んでくる整った顔を、順番に見上げた。
それから、小さく頷いた。
「……あっ、はい」
それだけだった。
デビッドたちは、なおも愛子の周りでおろおろしている。愛子の目は、もうそちらを向いていなかった。縛られた盗賊たちの方を、心配そうに眺めている。
少し離れたところで、清水がその光景を眺めていた。
杖にもたれて、腕を組む。
王宮の裏門で、白い鎧が朝靄を割って入ってきた日のことを思い出す。教会を調べに行く隊に、教会の騎士が付く。どう考えても、見張りか、それ以上の何かだ。
あの日から、ずっと警戒していた。夜の見張りの時も、食事の時も、白い鎧の背中から目を離さなかった。
その白い鎧が今、一人の作農師の周りで、顔に泥が付いただの、手が赤いだのと騒いでいる。
剣を抜いて駆けつけた時には、もう何もかも片付いていた。それなのに、真っ先に気にしたのは、愛子の手が少し赤いことだった。
清水は、長い息を吐く。
「……マジで、杞憂だったな」
隣で、仁村が首を傾げた。
「何が?」
「なんでもねぇよ」
清水は組んでいた腕をほどいた。
その時、相川がデビッドの背中に声をかけた。
「デビッドさん、こいつらどうします?」
デビッドの肩が、びくりと跳ねる。
振り返る。縛られた盗賊たちを見る。それから、自分たちが愛子を四方から取り囲んでいたことに、ようやく気づいたような顔をした。
「――あ、ああ」
咳払いを一つ。背筋を伸ばす。後ろの三人も、慌てて愛子から一歩ずつ離れた。
「こ、この先に、帝国が管理している詰め所がある。そこへ引き渡しに行こう」
「了解っす」
相川は何事もなかったように頷いた。
◇
詰め所は、街道沿いの小高い丘の上にあった。
石を積んだ低い壁と、木造りの兵舎が二棟。見張り台の上で、帝国の旗が風に煽られている。
門の前まで来たところで、早馬が一騎、親衛隊の馬車の横を駆け抜けていった。
土煙が、幌の隙間から吹き込んでくる。
「うわっ」
相川が顔を背けた。
門の内側も、慌ただしい。
兵が、何人も行き来している。鎧を着込みながら走っていく者。兵舎から木箱を運び出している者。厩の方では、馬に鞍を載せている兵が、もたもたしている同僚を怒鳴りつけている。
引き渡しの手続きは、デビッドたちが引き受けた。
詰め所の兵に盗賊の列を見せ、教会の紋章を示し、何やら書き付けに署名している。帝国の兵は、聖教教会の騎士に愛想よくもなく、かといって邪険にもせず、淡々と盗賊を受け取っていく。
親衛隊は、門の脇でそれを待った。
清水の目は、門の内側に向いている。
さっきの早馬とは別に、もう一騎、馬に鞍が載せられている。兵舎の窓から、怒鳴り声が漏れてくる。見張り台の兵が、ずっと街道の向こうを睨んでいる。
「……やけに帝国兵が慌ただしいな」
清水が、ぽつりと零した。
その声が聞こえたのかどうか、手続きを終えたデビッドが、詰め所の兵に声をかけた。
「何かあったのか?」
兵が、書き付けを丸めながら肩をすくめる。
「亜人狩りの隊が、どこぞでやられたらしい」
ぞんざいな口調だった。
「誰にやられたかまでは、こっちにはまだ降りてきてねぇ。上が騒いでるだけだ」
それから、親衛隊の方へちらりと目をやる。
「アンタらも、気をつけるんだな」
「……亜人絡みか」
デビッドの口から、小さな声が漏れた。
ほとんど、溜め息のような声だった。わざわざ騒ぐほどのことか、と言いたげな。害獣がどこかで暴れた、という話を聞いた時の顔だった。
優花の眉が、ぴくりと動く。
奈々が、妙子の袖をそっと引いた。妙子は、笑顔のまま何も言わなかった。玉井が、腰の曲刀の柄に置いていた手を、ゆっくりと下ろした。
愛子は、デビッドの横顔を、少しの間だけ見つめている。
何も言わなかった。
◇
詰め所を離れて、馬車はまた街道に戻った。
御者台では、相川が手綱を握っている。その隣に清水。幌の中では、残りの面々が荷物にもたれかかって、思い思いに揺られていた。神殿騎士たちは、馬車の両脇を馬で並走している。
しばらく、誰も喋らなかった。
車輪が小石を踏む音だけが、からからと続いていく。
「……てかさ」
荷台の奥で、玉井が口を開く。
「次の目的地、どこだっけ?」
一拍、間があった。
「……どこだっけ?」
相川が、手綱を握ったまま首を傾げる。
「どこだっけ」
仁村も、荷物の上で寝転がったまま繰り返した。
「おい」
幌の外から、清水の声が刺さった。
「確か、ブルックって町だったはずだけど……」
優花が、膝を抱えたまま言う。少し自信がなさそうだった。
「そうそう、ブルック! なんか響きかわいいとこ!」
奈々が、指を鳴らす。
「かわいいかなー」
「かわいいって。ブルックだよ? ぷるぷるしてそうじゃん」
「しないと思うなー」
幌の中で、ようやく笑い声が上がった。
御者台の清水は、膝の上に地図を広げていた。
親衛隊の出発前に、遠藤から押しつけられるようにして受け取った地図だ。王宮の資料室から、どうやってか持ち出してきたらしい。端が擦り切れ、何度も折り畳まれた跡がついている。
街道を、指でなぞる。今いる辺り。ブルックの町。
指が、ブルックの少し東で止まった。
大陸を引き裂くように、細く長く延びた谷の線。
ライセン大峡谷。
「……近いな」
清水の呟きは、車輪の音に紛れて、誰の耳にも届かなかった。
◇
三日が経った。
フェアベルゲンから少し離れた、あの開けた場所に、今日も朝から声が響いていた。
「――違う。握りが浅い」
虎人族の男が、ハウリアの男の手を取っていた。
短剣の柄を握る指を、一本ずつ開かせ、握り直させる。親指の位置を少しずらし、小指に力を込めさせる。
「刃は、腕の延長だ。手首で振るな。肘から先を、一本の棒だと思え」
「は、はい……!」
ハウリアの男が、言われたとおりに短剣を構え直す。虎人族の男は、少し離れたところからその構えを眺めて、小さく頷いた。
その向こうでは、もっと騒がしい声が上がっていた。
「オラオラぁ!! そんなんじゃ守りたいモンも守れねぇぞ!!」
熊人族の大男が、ハウリアの若者と組み合っていた。
熊人族の――レギンは、長老ジンの右腕と呼ばれる男だった。ジンの次に熊人族の長老の座に就くのは、この男だろうと言われている。その男が、兎人族の若者の肩をがっちりと掴み、力任せに押し込んでいた。
若者の足が、苔の上を滑る。
「腰ぃ落とせぇ! 足で地面掴め! 兎の脚は飾りかぁ!?」
「く、ぅ……っ!」
若者の足が、止まった。
滑っていた踵が、苔の下の土を噛む。押し込まれていた身体が、ぴたりと止まって、動かなくなる。
レギンの口の端が、にやりと吊り上がった。
「――そうだ。それでいい」
三日前、木陰から覗いていただけの虎人族と熊人族は、気づけば二匹に追い回される側に混ざっていた。ハウリアと一緒に苔の上を転がされ、ティアの魔法の爆風に煽られ、日が暮れる頃には揃って泥だらけ。
その晩は、広場で同じ鍋を囲んだ。ハウリアの女たちが煮込んだ汁をすすり、熊人族が獲ってきた肉を焼いて、虎人族が兎の子供の皿に切り分けてやる。
翌朝、ティアが彼らに言ったのは、ただ一言だけだった。
「……あなたたちも、手伝って」
それだけで、彼らはなし崩しに教官役に収まった。断る理由を探しているうちに、もう教えていた。昨夜同じ鍋の汁をすすった相手に背を向ける理由が、どうにも見つからなかったのかもしれない。
教え始めた日、ハウリアたちは武器を握るだけで精一杯だった。
短剣を構えれば腰が引け、棍を振れば自分の足を打ち、向かっていけば軽くあしらわれて苔の上を転がる。熊人族の若い衆に片手で放り投げられ、虎人族に足を払われ、何度も、何度も転がった。
それが、三日でこうなった。
まだ、上手いとは言えない。けれど、構えた足が地面に着いている。転がされても、すぐに起き上がって、また構える。
訓練場の端では、コテツとマロンが、ハウリアの一団と向き合っていた。
五人がかりで、二匹を囲んでいる。正面の二人が注意を引き、その隙に左右から一人ずつ回り込む。最後の一人は、木の陰に気配を消して潜んでいる。
コテツが、正面の二人へ一歩踏み出す。
左右の二人が、同時に飛びかかった。
コテツが身を翻し、二人の棒が空を切る。マロンが横から割って入り、二人まとめて体当たりで弾き飛ばした。
その瞬間、木の陰から最後の一人が飛び出した。
マロンの背中に、木の棒が届く。
ぺしり、と軽い音がした。
マロンが、きょとんと振り返った。それから、嬉しそうに尻尾を振った。
「……あ、当たった……!」
棒を握ったまま、ハウリアの男が呆然と呟く。周りの四人が、わっと声を上げて駆け寄っていった。
ティアは、木の根に腰を下ろして、それを眺めていた。
膝の上で頬杖をつく。
構えの基礎は虎人族が教え、力の使い方はレギンたち熊人族が叩き込み、魔物を相手にした立ち回りはコテツとマロンが身体で覚えさせる。
悪くない、と思った。
◇
訓練場の端を、小さな影が跳ねていた。
ぴょん。ぴょん。ぴょこん。
ハウリアの男の子だった。まだ、訓練に加わるような歳ではない。それでも、大人たちが組手をしている横で、拾った木の枝を握りしめて、何やら跳ね回っている。
ぴょん、と右へ。ぴょん、と左へ。時々、着地しかけた足を空中で引っ込めて、もう一度跳び直す。
ギルが、その影に気づいた。
組手を見て回っていた足を止める。しばらく、男の子の動きを目で追っていた。
「……む?」
眉が寄った。
「そこのお前、何をしている?」
男の子が、びくりと跳ねた。
跳ねたまま着地しようとして、慌てて足を引っ込め、尻もちをつく。尻もちをついた場所を振り返って、ほっと息を吐いた。
それから、おずおずとギルを見上げる。
「パ、パルです……」
ハウリアの男の子――パルは、そう名乗ってから、慌てて木の枝を背中に隠した。
「名前は聞いていない。何をしているのかと聞いている」
「そ、その……」
パルが、自分の足元を指差す。
苔の間に、小さな花が咲いていた。白いのと、薄い黄色いのと、紫の。訓練場のあちこちに、点々と散らばっている。
「お花、踏まないように……」
ギルは、口を開きかけた。
呆れたような顔だった。訓練場の端で、子供が花を避けて遊んでいる。それだけのことだ。
けれど、その口は、言葉を出さないまま止まった。
ギルの目が、パルの足元を見ていた。さっきまで跳ね回っていた跡。苔の上に残った、小さな足跡。
花と花の、わずかな隙間にだけ、踏み込んだ跡がある。一つも、花を踏んでいない。跳んでいる最中に花を見つけて、空中で足を引っ込め、着地点を変えていた。
組手で教えている踏み込みより、よほど軽い。
「……その足」
ギルが、ぽつりと言った。
「悪くない」
パルの耳が、ぴんと立った。
木の根に腰を下ろしていたティアが、それを見ていた。
立ち上がって、パルのそばまで歩いてくる。しゃがみ込んで、一番近くに咲いていた白い花の根元に、指先を触れた。
苔の下の土が、ほんの少しだけ、ふわりと持ち上がった。
花が、土ごと浮く。根を包んだ土の塊が、そのまま宙を滑って、訓練場の脇の木の根元に、そっと降りた。
ティアは、次の花に指を触れた。
一つ、また一つ。訓練場に散らばっていた花が、土ごと脇へ移されていく。最後の一つが木の根元に収まった時には、訓練場の苔の上に、もう花は一つも残っていなかった。
「……これで、踏まない」
パルは、ぽかんと口を開けていた。
それから、木の根元に並んだ花を見て、ティアを見て、もう一度花を見た。
「あ……ありがとう、ございます……!」
ぺこりと、頭を下げる。長い耳が、ぺたりと前に垂れた。
ギルはその様子を、しばらく黙って見ている。
それから、パルの前に片膝をついた。
「……花を踏まぬ心は、美徳だ」
低い声だった。
「それは、認める。だが、覚えておけ。戦いの場で、花を避けて足を止めれば、その間に斬られるのはお前だ」
パルの耳が、少しだけ下がる。
「まずは、自分の命だ。自分の命と、仲間の命。花は、その後でいい」
パルは黙って、ギルを見上げている。
「……なら」
ティアの声だった。
ギルとパルが、揃って振り返る。
ティアの目は、木の根元に並んだ花に向いている。
「花も、皆も、丸ごと守れるくらい。……強くなればいい」
淡々とした声だった。
当たり前のことを言うような顔で、ティアは言った。
ギルが、ティアを見る。
片膝をついたまま、口を半分開けて、しばらくティアの横顔を見ている。それから、目を閉じて、小さく首を振った。
パルは、ティアを見ていた。
それから、握りしめていた木の枝に目を落とす。
細い指が、枝を握り直す。もう一度、強く。
パルは、木の根元に並んだ花を一度だけ振り返った。それから、くるりと背を向けて、組手をしている大人たちの輪の方へ、ぴょんと跳ねていった。
◇
日が高くなった頃、休憩になった。
ハウリアたちは苔の上にへたり込み、水筒を回し合っている。虎人族も熊人族も、その間に混ざって腰を下ろしていた。ほんの数日前まで、同じ場所で休むことなどなかったはずの顔ぶれだった。
カムは、少し離れた木の根元に立っていた。
休憩の間も、手から短剣を離していない。虎人族に教わった握りを、一人で何度も確かめている。握って、開いて、また握る。親指の位置を少しずらす。小指に力を込める。
その前に、影が二つ落ちた。
ギルと、レギンだった。
「長がそれでは、下の者が落ち着いて休めんだろう」
ギルが言う。
カムは、少し驚いたように顔を上げた。
「ギル殿。レギン殿」
ギルは何も言わずに、カムの隣の木の根に腰を下ろした。レギンも、どかりとその向かいに座り込む。カムは少し迷ってから、短剣を握ったまま、二人の間に腰を下ろした。
しばらく、三人とも黙っていた。
遠くで、誰かが水筒を取り合って笑っている。
「……お前のところの者たちから、話を聞いた」
ギルが、口を開いた。
カムの手が、短剣の柄の上で止まった。
「帝国の兵に、仲間を連れて行かれたと。売れそうにない年寄りは、その場で殺されたと」
カムは、何も言わなかった。
短剣を握る指に、少しだけ力がこもる。
「……虎人族からも、連れて行かれた者がいる」
ギルの目は、正面の木々の間に向いていた。
「森の縁を見回っていた者が、何人か戻らなかった。帝国の兵の仕業だと分かったのは、ずいぶん後になってからだ」
「うちもだ」
レギンが、低く言った。
さっきまで組手で怒鳴っていた声とは、まるで違う声だった。
「女と子供が、ほとんどだ。木の実を採りに、森の外れまで出た時にな」
大きな手が、膝の上で、ゆっくりと握り込まれる。
「お前らだけじゃねぇ」
カムは、二人の顔を見た。
ギルの横顔は、表情を変えていない。けれど、膝の上に置かれた拳が、固く握られていた。
「……長老の孫娘も、だ」
ギルが言った。
カムが、息を呑んだ。
「森の外れで、攫われた。帝国のどこかにいる、ということまでは分かっている。……分かっているだけだ」
梢の影が、三人の上でまだらに揺れた。
カムは、何も言えなかった。
祭りの夜、篝火の傍らでアルフレリックがハジメ殿に語っていた言葉を、思い出す。帝国の亜人狩りは、今も続いておる。森の縁に近づいた者が、戻らなかった話は珍しくない。
あの老人は、自分の孫娘の話をしていたのだ。それを、一言も口に出さずに。
「……正直に言おう」
ギルが、また口を開いた。
「私は、兎人族を臆病者だと思っていた。逃げることしか能のない、弱い一族だと」
カムは、黙って聞いている。
「だが、我々も同じだった」
ギルの拳が、さらに固く握られた。
「連れて行かれた者を、取り返しに行けたことは、一度もない。長老の孫娘でさえ、だ。……森を守る、と言いながら、森の外へは一歩も出られなかった」
風が、梢を揺らした。
レギンは、腕を組んだまま地面を睨んでいる。
カムは、手の中の短剣を見下ろした。
三日前より、少しだけ様になった握り。虎人族に教わった親指の位置。レギンに叩き込まれた、腰の落とし方。
「……ギル殿」
カムが、静かに言った。
「我らは、強くなりたいのです」
短剣を、握り直す。
「いつか、連れて行かれた仲間を、取り返しに行けるくらいに」
ギルが、カムの方を見た。
「ハジメ殿には、谷の縁で頭を下げさせてしまいました」
カムの声が、少しだけ低くなる。
「助けていただいたのは、我らの方です。それなのに、あの方に、あのような悲しいお顔をさせてしまった。……その上、処刑まで取り下げていただいた」
短剣の刃に、木漏れ日が一筋、白く走った。
「与えていただいてばかりです。我らは、ずっと」
カムが、顔を上げる。
いつもの、どこか困ったような顔ではなかった。
「これ以上、与えていただくばかりではいられません。……兎人族にも、意地がございます」
ギルはしばらく、カムを見ている。
それから、正面の木々へ目を戻した。
短い沈黙があった。
「……その時は」
ギルが言う。
「我らも、行く」
カムの目が、見開かれる。
レギンが、膝を叩いて立ち上がった。
「だったら!」
大きな手が、カムの背中をばしんと叩く。カムの身体が、前につんのめった。
「もっと強くなんねぇとな!!」
それは、訓練場のどこにいても聞こえる声だった。
へたり込んでいたハウリアたちが、一人、また一人と顔を上げる。虎人族も、熊人族も、水筒を下ろして振り返った。
レギンは、振り返って手を叩いた。
「おら、休憩終わりだぁ!! 立てぇ!!」
一拍。
それから、訓練場のあちこちで、苔を踏む音が重なった。
ハウリアが立ち上がる。虎人族が立ち上がる。熊人族が立ち上がる。誰一人、文句を言わなかった。
カムも、短剣を握ったまま立ち上がった。
ギルが、最後にゆっくりと腰を上げた。
◇
ティアは、木の根に腰を下ろしたまま、それを見ていた。
聞こえていた。全部。
兎と、虎と、熊。森の掟の上では、追う者と追われる者だった者たち。
それが今、同じ苔の上に立って、同じ汗を拭っている。
(……最初から、こうしていれば)
少しだけ、そう思った。
自分と、コテツとマロンだけで鍛えていたら、きっとこうはならなかった。逃げ方は教えられても、構え方は教えられない。隠れ方は教えられても、踏み止まり方は教えられない。
けれど、最初からこうしよう、と誰かが言ったわけではなかった。
掟も、種族も、関係なく。なし崩しに、わらわらと集まって、気づいたらこうなっていた。
その始まりを辿っていくと、いつも同じところに行き着く。
谷の底から一族を連れ出したのも。長老たちの前で、紫電を纏ったのも。祭りの火を焚いたのも。
本人は、そんなつもりなんてまるでなかったのだろうけれど。
ふっと、口元が緩んだ。
「……本当に、不思議な人」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
それから、少しだけ間を置いた。
「……馬鹿だけど」
膝の上から頬杖を外して、ティアは立ち上がった。
両脇に、コテツとマロンが寄ってくる。二匹とも、もう尻尾を振っていた。
ティアは訓練場を見渡した。
構えを直している者。組み合っている者。枝を握りしめて、大人たちの輪の端で跳ねている子供。
「……じゃあ、次」
淡々とした声だった。
「いつもの」
訓練場が、一瞬で静まり返った。
兎の耳が、根元から凍りつく。虎の尾が、ぴんと伸びたまま止まる。熊の丸い耳が、ぺたりと後ろへ倒れる。
レギンの顔から、さっきまでの威勢が音を立てて抜け落ちていった。
「ワオォォォン!!」
二匹が、同時に吠えた。
「ひぃぃぃ〜!! またかぁぁぁ!!」
悲鳴が、森に響き渡った。
ハウリアが逃げる。虎人族が逃げる。熊人族が逃げる。その背中を、白銀の狼が二匹、紫電を散らしながら追いかけていく。
どこかで、轟音が鳴った。
そこかしこで、絶叫が上がった。
◇
森の別の開けた場所で、シアは拳を握っていた。
「――やぁっ!」
踏み込んで、右の拳を突き出す。
目の前のハジメが、ひょいと首を傾けた。拳が、白銀の髪の横を空振る。
「はい、惜しい」
「まだですっ!」
左の拳。躱される。右の蹴り。半歩下がって躱される。
ハジメは、両手を背中で組んだままだった。
三日間、ずっとこうだった。
ハジメは、一度も手を出さない。シアが攻め、ハジメが躱す。躱しながら、時々「肩に力入りすぎ」「目線で次バレてるって」と言う。言われたとおりに直すと、今度は別のところを言われる。
最初の日は、拳が掠りもしなかった。
二日目も、掠りもしなかった。
それでも、昨日の夕方くらいから、少しずつ分かってきた。ハジメの躱す幅が、ほんの少しずつ小さくなっていること。最初は大きく跳んで避けていたのが、半歩になり、首を傾けるだけになっていること。
自分の拳が、ハジメに近づいている。
「――っ、ここ!」
シアは、思い切り踏み込んだ。
右の拳を、ハジメの胸元めがけて突き出す。さっきまでより、半拍だけ早く。目線を、拳の先ではなく、ハジメの肩に置いたまま。
ハジメの眉が、ぴくりと動いた。
背中で組まれていた手が、ほどけた。
左の手のひらが、シアの拳を横から受け流す。拳が、ハジメの胸元を逸れていく。
初めてだった。
三日間で、初めて、ハジメが手を使った。
「お?」
ハジメの声が、少しだけ弾んでいる。
シアの胸が、どくんと跳ねる。
当たらなかった。けれど、手を使わせた。
もう一度、と思う。左の拳を引き絞る。
その左の拳の先から、ハジメの姿が消えた。
「はい、ざんねーん」
声は、すぐ後ろからだった。
首の後ろに、指先がちょんと触れる。
ばちっ。
「あばばばばばばば!?」
視界が、紫に弾けた。
全身の毛という毛が逆立ち、長い耳が真上にぴんと伸びる。膝から、力が抜けていく。
苔の地面が、ゆっくりと近づいてきた。
◇
泣いていた。
小さな手で、膝を抱えて。家の裏の、大きな木の根元で。
隠れていたつもりだった。けれど、すぐに見つかった。足音が近づいてきて、隣に誰かが腰を下ろして、そっと、膝の上に頭を乗せられた。
柔らかい膝だった。
少しだけ、甘い匂いがする。干した布のような、陽だまりのような。
細い指が、頭を撫でていた。
長い耳の付け根から、髪の流れに沿って、ゆっくりと。耳の付け根のところで、指がほんの少しだけ止まって、くすぐるように動く。
「……どうして、泣いてるの」
柔らかい声だった。
「……わたし、化け物なのかな」
しゃくり上げながら、言った。
髪の色が、みんなと違う。みんなにできないことが、できてしまう。見えなくていいものが、見えてしまう。だから、隠れていなさいと言われる。だから、外で遊んではいけないと言われる。
撫でる指が、止まらなかった。
「シアは、人と違うことができるのね」
頭の上から、声が降ってくる。
少しだけ、笑っているような声だった。
「羨ましいわ」
顔を上げようとした。
けれど、撫でる手が気持ちよくて、上げられなかった。
細い指が、何度も、何度も、髪を梳いていく。木漏れ日が揺れている。どこかで鳥が鳴いている。
ずっと、このままでいたかった。
◇
瞼の裏が、明るくなった。
シアは、ゆっくりと目を開けた。
逆さまの顔が、こちらを見下ろしていた。
白銀の髪が、肩から零れて垂れている。眼鏡の奥の赤い目が、二、三度瞬きをする。
「あ、気づいた?」
ハジメだった。
シアは、自分がハジメの膝の上に頭を乗せていることに気づいた。気づいた瞬間、頭を撫でていた手の正体にも思い当たる。
まだ、撫でていた。
長い耳の付け根から、髪の流れに沿って、ゆっくりと。
「マジゴメンねー」
ハジメは、ばつが悪そうに笑った。
「ちょっと、やりすぎちったw」
「……い、いえ……」
シアは何度か瞬きをした。
夢の中の膝と、今の膝が、まだ少しだけ重なっていた。
「てか、膝。擦りむいてんじゃん」
ハジメの視線が、シアの脚へ落ちる。
言われて初めて、膝がひりひりと痛みだした。倒れる時に、苔の下の石で擦ったらしい。薄く血が滲んでいる。
「もー。無理しすぎ」
ハジメは、シアの頭をそっと膝から下ろした。それから左手を軽く振る。赤い石の指輪が光って、指の間に石の瓶と、畳んだ布が現れた。
瓶の水で布を湿らせて、膝の傷にそっと当てる。
「しみる?」
「ちょ、ちょっとだけ……」
「我慢ね」
傷の周りの泥を、丁寧に拭き取っていく。拭き取り終わると、別の布を細く裂いて、膝にくるくると巻きつけた。結び目は、ほどけないように、それでいて締めつけないように。巻き終わった布は、縫い付けたように、ぴたりと膝に沿っていた。
「はい、おけ」
「あ、ありがとうございます……」
「あとさ、顔」
「え」
ハジメは、湿らせた布の綺麗な面を折り返した。
シアの頬に、そっと当てる。
泥を拭う。額。鼻の頭。顎。拭う手つきに、迷いがない。
それから、指輪がもう一度光った。ハジメの手の中に、目の細かい櫛が一本現れる。
「髪もぐっちゃぐちゃだし。じっとしてな」
櫛の歯が、シアの髪に入った。
絡まったところで一度止まり、指先でほぐしてから、また通す。耳の付け根を避けて、髪の流れに沿って、上から下へ。ゆっくりと。
シアは、じっとしていた。
じっとしていることしか、できなかった。
髪を梳かれるのは、いつ以来だろう。
自分で梳くようになったのは、いつからだったろう。
「……よし」
最後に、ハジメはシアの前髪を指先で整えて、少し離れて眺めた。
「うん、かわちぃ。完璧」
満足げに頷いて、櫛と布を指輪の中へしまう。
シアは、自分の頬にそっと触れた。泥のざらつきが、もうない。耳の付け根に手をやると、髪がさらりと指の間を流れていった。
胸の奥が、じんわりと温かかった。
「……あの、ハジメさん」
「ん?」
「なんだか……」
シアは、膝に巻かれた布を見下ろした。
「なんだか、母様を思い出しました」
ハジメの動きが、止まった。
「……は?」
一拍。
「はぁ!? それあーしがババアってこと!?」
「えっ」
シアの耳が、ぴんと跳ねた。
「ち、違います違います違います!! そういう意味じゃなくてですね!?」
「じゃあどういう意味!? あーしまだ十七なんだけど!?」
「え、えっと、その、母様は、母様っていうのは、その、お婆さんっていう意味じゃなくて! あ、いえ、母様がお婆さんだったわけでもなくて! 若かったです! たぶん! あれ、でも私が小さい頃だから、今のハジメさんよりはずっと年上で……あっ、違う、そうじゃなくて……!」
「余計分からんくなってるって!!」
「わ、私も分からなくなってきましたぁ……!」
シアは両手で顔を覆った。長い耳が、根元からへなへなと垂れていく。
ハジメはしばらく、シアを睨んでいた。
それから、ぷっと噴き出した。
「……まぁ、いいけどさ」
がしがしと、自分の頭を掻く。
「ほら、もう立てる? 続きやるよ」
「は、はい……」
ハジメが、先に立ち上がった。膝の土を払って、くるりと背を向ける。数歩、歩いて離れていく。
シアは座り込んだまま、その背中を見ている。
白銀の髪が、歩くたびに背中で揺れていた。
――シアは、人と違うことができるのね。
あの朝、天幕を畳んでいた時のことを思い出した。
詠唱もなしに魔力を扱えるのは、自分だけだと思っていた。この先もずっと、一人だけなのだと思っていた。そう話した自分に、あの人は指先で小さな紫電を跳ねさせて、笑って言ったのだ。
全然、普通だって。
膝に巻かれた布に、そっと手を置く。
まだ、少しだけ温かかった。
シアは、立ち上がった。
ハジメが、振り返った。両手を背中で組み直す。それから、ほんの少しだけ、腰を落とした。
さっきまでとは、構えが違った。
「それじゃ、ちょっとペース上げるから」
赤い目が、まっすぐにシアを見る。
「ちゃんとついてきなよ」
シアは拳を握った。
「――はい!」
踏み込んだシアの足が、苔の下の土を、しっかりと噛んだ。
木漏れ日の中で、白銀の髪と、長い耳が、交互に揺れていた。