ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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#51 一本の重さと、紡がれた絆の道標

大樹の霧が晴れる、前日の朝だった。

 

訓練場の苔の上に溜まる霧は、いつもより薄い。

 

訓練場の端に、見慣れない顔ぶれが並んでいる。

 

森人族の長老アルフレリック。その隣に、狐の耳をした細身の長老が、扇子のような葉を指先で弄びながら立っている。翼人族、虎人族、土人族、熊人族の長老たちも、少しずつ間を空けて木の根に腰を下ろしていた。

 

六人の長老が、一つ所に揃っている。

 

その前に一度見ておこう、ということになったらしい。言い出したのが誰なのかは、誰も知らなかった。

 

ティアは長老たちの少し手前の根に腰掛けている。コテツとマロンは、ティアの両脇で前脚を揃えて伏せていた。今日の相手は、二匹ではない。

 

訓練場の真ん中では、ハウリアの一団が霧の奥を睨んでいた。

 

がさり、と茂みが揺れる。

 

続けて、地面を蹴る重い音。一度、二度。近づいてくる。

 

霧が裂ける。

 

猪だった。肩の高さが、大人の兎人族の胸ほどもある。口の両脇から突き出した牙は、短剣より太い。鼻息で霧を吹き散らしながら、まっすぐに突っ込んでくる。

 

「来るぞ! 正面、引きつけろ!」

 

ハウリアの男が叫んだ。

 

正面に二人が立つ。短剣を構えた腰は引けていなかった。虎人族に何度も直された握りのまま、足の裏で苔の下の土を噛んでいる。

 

左右から、二人ずつが音もなく回り込んでいく。

 

コテツとマロンを相手に、何度も転がされながら覚えた動きだった。

 

猪の目が、正面の二人を捉える。

 

その瞬間、猪の脚が地面を蹴り損ねた。苔に足を取られたのか、突進の軸が横へぶれる。正面の二人の脇を、牙が掠めるようにすり抜けていく。

 

その先に、小さな影がいた。

 

訓練の輪の端で、鈍い色の棒を握りしめている。

 

「――パルッ!」

 

誰かの声が裏返る。

 

ティアの両脇で、二匹の耳が跳ね上がった。腰を浮かせかけたコテツの首筋に、ティアの手がそっと置かれる。

 

パルは動けなかった。

 

迫ってくる。牙が。鼻息が。足の下の地面が、猪の蹄に合わせて震えている。

 

「ふぅーーーっ……」

 

パルは深く息を吐いた。

 

◇

 

数日前の夕方のことだった。

 

鍋の底で、汁がことことと鳴っている。

 

広場の篝火はまだ小さい。日が傾いて、木々の影が苔の上に長く伸びている。ハウリアの女たちがよそった椀が、兎の手から虎の手へ、虎の手から熊の手へと回っていく。

 

ハジメは鍋の脇にしゃがみ込んで、二杯目の汁をすすっていた。

 

その両隣では、コテツとマロンが腹這いになって、熊人族の獲ってきた肉の骨にかじりついている。ばりっ、ぼりっ、と骨の砕ける音がするたびに、二本の尻尾が苔の上を掃いた。

 

「あ、あの……!」

 

声がした。

 

振り返ると、小さな影が立っていた。拾った木の枝を胸の前で両手に握りしめて、長い耳を緊張でぴんと立てている。

 

パルだった。

 

「ん?」

 

「ど、どうやったら……」

 

パルは枝を握る手に力を込めた。

 

「どうやったら、お姉さんみたいに、強くなれますか?」

 

ハジメの椀が、口元で止まった。

 

「……お姉さん?」

 

一拍。

 

ハジメの首が、ぐりんと横を向いた。

 

「ねぇティア聞いた!? お姉さんだって!」

 

コテツの向こうで椀を抱えていたティアは、汁を一口すすってから答えた。

 

「……聞いてた」

 

「やばー、お姉さんとか言われたのいつぶりだろ。てかパル君いい子すぎん?」

 

ハジメは椀を置いて、パルの頭をわしわしと撫で回した。パルの耳が、撫でられるたびに右へ左へ倒れる。

 

少し離れたところで、椀を受け取ったばかりのシアの手が止まっていた。

 

ハジメと、ハジメに撫でられているパルの方を見ている。何か言いかけたように唇が動いて、けれど何も出てこない。眉の端が、ほんの少しだけ下がる。

 

それから、黙って椀へ目を戻した。

 

「あの、それで……つ、強く……」

 

撫で回されながら、パルが言い直す。

 

「あーそれね!」

 

ハジメは撫でる手を止めて、ぽんと膝を打った。

 

「えっとね、ヤバって思ったら横にピョンってして、そんでバチーンってやんの!」

 

身振りつきだった。片手が横へ跳ね、もう片方の手が空中をはたく。

 

パルは口を半開きにしてそれを見ていた。

 

「ぴょん……ばちーん……」

 

「そうそう!」

 

ティアが椀を膝に下ろした。

 

「……説明になってない」

 

「なってるって!」

 

それから、ハジメの目がパルの手元に止まった。

 

「てか、それでバチーンってやんの?」

 

パルが握りしめている、拾った木の枝だった。

 

「枝じゃ秒で折れるって。ちょい待ち」

 

ハジメが左手を軽く振る。赤い石の指輪が光って、手のひらに鈍い色の鉱石がひと塊、ころりと転がり出た。

 

両手で包む。指の隙間から、青白い光が漏れた。

 

光が収まった時には、ハジメの手の中に細長い棒が一本あった。握りが細く、先へいくほど少しずつ太くなっている。表面はつるりと磨かれて、篝火の明かりを鈍く跳ね返す。

 

「はい、バット。パル君用に軽めにしといたから」

 

「ば、ばっと……?」

 

「バチーンってやるならバットっしょ」

 

パルは差し出されたそれを両手で受け取った。

 

思っていたより、ずっと軽い。握りが、小さな手のひらにぴたりと収まる。

 

「これなら戦えるし遊べるしで、一石二鳥じゃん!」

 

ハジメが得意げに親指を立てた。

 

「あそべるの!?」

 

鍋の向こうから、甲高い声が上がる。

 

ハウリアの子供たちだった。椀を放り出して、わらわらと駆け寄ってくる。あっという間にハジメの周りを囲んで、パルの手のバットを覗き込んだ。

 

「それ、なあに?」

 

「どうやってあそぶの?」

 

「パルだけずるーい!」

 

「お、いいとこ聞くじゃん」

 

ハジメは鍋の脇の小石を一つ拾い上げた。手の中で青白く光らせて、丸い玉に変える。

 

「これが野球ってやつね。投げる人がピッチャーで、このボール投げんの。で、バット持ってる人がバッター。それを打つ!」

 

「うつ!」

 

「打ったら走る! 地面に四つ印つけといて、ぐるーって一周して戻ってきたら一点ね。三回空振ったらアウトで、アウト三つで攻守交代!」

 

「こうしゅこうたい!」

 

子供たちは意味も分からないまま、最後の言葉だけを元気よく繰り返していく。

 

「あーし、ガッコでピッチャーやってたからね。こう、下からぐるんって」

 

ハジメは立ち上がって、腕を大きく一回転させてみせた。下手から放たれた小石の玉が、ひゅっと夕暮れの空気を裂いて、鍋の向こうの木の幹にこつんと当たる。

 

子供たちの口から、おお、と声が漏れた。

 

いつの間にか、虎人族の若い衆まで輪の外から首を伸ばしている。熊人族の男が腕を組んで、真顔で口を開いた。

 

「つまり、その玉を相手にぶつけたら勝ちなのか」

 

「ちっがう! 当てたらダメなやつ!」

 

「当てるとどうなる」

 

「打つ人がタダで一個目の印まで歩けんの」

 

「……なぜだ。当てた方が強いだろう」

 

「そういうスポーツじゃないの!!」

 

「よく分からんが、要は投げて当てる遊びだな」

 

「全然違うって!! ちょ、一回やってみよ! 口で言うより早いから!」

 

ハジメが熊人族の男の腕を掴んで引っ張っていく。子供たちが、歓声を上げながらその後に続いた。

 

ティアが空になった椀を膝に置いた。

 

「……強くなる話は?」

 

誰も聞いていなかった。

 

広場の真ん中で、ハジメが地面に印を描き始めていた。熊人族の男が、その場で錬成された大人用のバットを持たされて首を傾げている。子供たちの歓声が、篝火の煙と一緒に夕空へ昇っていく。

 

パルはその輪に混ざらなかった。

 

自分のバットを、両手で握りしめたまま見下ろしている。

 

それから小さな声で、もう一度だけ繰り返した。

 

「……ぴょん。ばちーん」

 

◇

 

牙が、目の前に迫っていた。

 

(ヤバって思ったら……)

 

頭の中で、声がした。

 

(ヤバって思ったら、横にピョンっ。そんで、バチーン……)

 

牙が近い。

 

(ヤバって思ったら、横にピョンっ。そんで、バチーン……)

 

もっと近い。

 

(ヤバって思ったら、横に――)

 

パルの足が、苔を蹴った。

 

花を避けていた時と、同じ跳び方。着地しかけた足を空中で引っ込めて、もう一段だけ横へずらす。猪の牙が、さっきまでパルの膝があった空間を抉っていく。

 

すれ違う。

 

猪の鼻面が、パルの目の前を流れていく。

 

(――バチーン!)

 

握っていたバットを、思い切り振り抜いた。

 

かぁん、と甲高い音が鳴る。

 

バットの先が、猪の鼻面を真横から叩いていた。突進の勢いを、そのまま返すように。

 

猪が悲鳴を上げた。鼻先を振り回しながら、たたらを踏む。蹄が苔の上で滑り、巨体が大きく傾いだ。

 

「今だ!」

 

カムの声だった。

 

左右に回り込んでいた四人が、同時に飛び込んだ。前脚の付け根と、首の横。短剣が深く入る。正面にいた二人も駆け寄って、傾いた巨体を肩で押さえ込んだ。

 

猪が、もう一度だけ脚をばたつかせる。

 

それきり、動かなくなった。

 

霧の中に、荒い息遣いだけが残る。

 

パルはバットを振り抜いた格好のまま固まっていた。握った両手が、まだじんと痺れている。

 

「……で、できた……」

 

ぽつりと呟いた声に、周りのハウリアたちが振り返った。

 

一拍。

 

それから、わっと声が上がった。

 

若者たちがパルに駆け寄って、頭を撫で、肩を叩き、背中から抱え上げる。パルの足が宙に浮いて、長い耳がぱたぱたと揺れた。倒れた猪の周りでは、仕留めた四人が自分の手を見下ろしている。短剣を握ったままの指が、まだ小刻みに震えていた。

 

訓練場の端で、熊人族のレギンが顎を撫でている。

 

「……おいおい。あの臆病な兎どもが、魔物を仕留めやがった」

 

隣で、ギルが腕を組んでいる。

 

その目は、仕留めた四人ではなく、若者たちに抱え上げられているパルの方に向いていた。

 

「……あの足は、教えていない」

 

アルフレリックは黙って訓練場を眺めていた。

 

兎が騒いでいる。その輪の中に、虎人族の若い衆が混ざって、パルの頭を乱暴に撫でている。熊人族の男が、仕留めた四人の背中を順番に叩いて回る。

 

種族の色が、ばらばらだった。ばらばらのまま、一つの輪になっている。

 

「……話には聞いていたが、これほどとはな」

 

長老の目元が、わずかに緩む。

 

それから、ふと首を傾げて、手前の根に腰掛けているティアを見下ろした。

 

「しかし、あの娘が見ているものと思っていたのだが」

 

ティアは訓練場から目を離さずに答えた。

 

「……初日は、ハジメが見ていた」

 

「ほう?」

 

「……様子を見に行ったら、小さい獣を囲んで、一族と一緒に泣いてた」

 

アルフレリックの眉が、ゆっくりと上がっていく。

 

「……最後は、皆で花を見てた」

 

一拍。

 

「あっはっは!」

 

狐人族の長老――ルアが、葉を取り落として笑い出した。

 

「なんだいそりゃ。獣を囲んで泣いて、花を眺めて終わりかい」

 

「……ん」

 

「あっはっはっは!」

 

アルフレリックも、喉の奥で小さく笑っていた。肩が、ほんの少しだけ揺れている。

 

ティアは表情を変えないまま、付け足した。

 

「……だから、交代した」

 

「――で」

 

低い声が割り込んだ。

 

熊人族の長老、ジンだった。木の根に腰を下ろしたまま、太い腕を組んでいる。

 

「その本人は今、何をしている?」

 

ティアは少しだけ考える。

 

それから、根から腰を上げた。

 

「……見に行く?」

 

◇

 

森の奥から、轟音が鳴っていた。

 

一度ではない。どん、と腹に響く音が、間を置かずに何度も続く。そのたびに足の下の地面が揺れて、梢から霧の雫がぱらぱらと降ってくる。

 

「な、なんだぁ!?」

 

レギンが足を止める。

 

ティアは止まらなかった。音のする方へ、迷いなく木々の間を抜けていく。長老たちとハウリアと、虎人族と熊人族が、慌ててその後に続く。

 

開けた場所に出た。

 

地面から、石の棘が突き出している。

 

人の背丈の倍はある。それが一本ではない。地面を割って、どど、どど、と列を成して生えていく。生えた端から紫の雷が這い上がり、棘の先端で火花が散る。

 

その棘の列の上を、白い影が跳んでいる。

 

シアだった。

 

棘の先端を、足裏で蹴る。次の棘へ。そのまた次へ。一本目が生えきる前に、二本目の先にはもう足が乗っている。棘の列が途切れたところで、そのまま脇の大木の幹を蹴って、さらに高く跳ぶ。

 

長い耳が、風を切ってなびいていた。

 

棘の列の根元に、ハジメが立っている。

 

右の拳を地面に押し当てたまま、空を跳ぶシアを目で追っていた。全身に、紫電が纏わりついている。白銀の髪の毛先で、ばちばちと細かな火花が弾ける。

 

ハジメが中指で眼鏡を押し上げた。

 

「――フンっ!」

 

拳が、地面を叩いた。

 

ハジメを中心に、地面が盛り上がる。石の柱が、四方へ一斉に生えた。雷を纏った柱が、シアの着地点を塞ぐように林立していく。

 

「まだまだですっ!」

 

シアは柱の一本の側面に着地した。

 

そのまま柱を蹴って、真横へ跳ぶ。柱と柱の隙間を、身体を捻ってすり抜けていく。

 

着地した先に、倒木があった。

 

人が三人で抱えても腕が回らないような、太い丸太だった。

 

シアはその丸太の下に両手を差し込んだ。

 

持ち上がった。

 

見物していた全員の口が、揃って開く。

 

「丸太!?」

 

ハジメの声と同時に、丸太が宙を飛んだ。

 

ハジメの姿が掻き消える。一瞬遅れて、さっきまでハジメが立っていた場所に、丸太が叩きつけられた。石の柱が二本、まとめて砕けて、破片が苔の上に散らばる。

 

紫の残光が、少し離れた場所で止まった。

 

ハジメが砕けた柱を振り返る。

 

その背中へ、シアが踏み込んでいた。

 

丸太を投げた体勢から、着地と同時に。間が、なかった。

 

ハジメの目が、わずかに見開かれる。

 

「――っ、これヤバ」

 

ハジメが飛び退く。考えるより先に、身体が後ろへ跳んでいた。

 

その直後だった。

 

さっきまでハジメの立っていた地面に、シアの拳が叩き込まれる。

 

地面が、割れた。

 

拳を中心に、苔ごと土が陥没する。放射状に走った亀裂が、見物人たちの足元近くまで伸びてきて、ようやく止まった。

 

ハジメが着地した格好のまま亀裂を見下ろしている。

 

「は!? 地面割れたんだけど!?」

 

シアは割れた地面から拳を引き抜いて、もう構え直している。

 

ハジメの口の端が、ゆっくりと吊り上がった。

 

纏った紫電が、一段濃くなる。

 

次の瞬間、ハジメの姿が消えた。

 

右。

 

シアが振り向いた時には、もういない。

 

左。

 

拳が空を切る。紫の残光だけが、視界の端を流れていく。

 

背後。

 

振り向きざまの蹴りも、また空を切る。

 

速すぎた。見物していた者たちの目にも、ほとんど何も映らない。紫の線が、シアの周りをぐるぐると巡っている。その線のどこかから、ハジメの声だけが聞こえた。

 

「はい、ざんねーん。こっちこっち」

 

シアの拳が、また空を切る。

 

肩が上下していた。額から汗が流れて、顎の先から落ちていく。

 

それでも、シアの目は止まっていなかった。

 

一度だけ、シアは大きく息を吸う。

 

構えを解く。

 

拳を下ろして、紫の線の真ん中に、ただ立った。

 

見物人たちが、息を呑む。

 

紫の線が、シアの背後へ回り込んでいく。

 

シアの瞳の奥で、何かが揺れた。

 

ほんの一瞬先の光景が、目の前の景色に重なる。紫電を纏ったハジメが、右斜め後ろから、低く滑り込んでくる姿。

 

シアが振り向く。

 

まだ、そこには誰もいなかった。

 

誰もいない空間へ、拳を突き出す。

 

「――ここですっ!」

 

紫の線が、そこへ飛び込んできた。

 

ハジメの顔の、拳一つ分手前で。

 

シアの拳が、ぴたりと止まっていた。

 

静寂が落ちる。

 

ハジメは滑り込んできた体勢のまま、目の前の拳を見つめていた。纏っていた紫電が、ぱちり、と一つだけ弾けて消える。

 

「……え」

 

シアも、自分の拳を見つめていた。

 

「…………あ」

 

拳が、震え出す。

 

それから、シアの顔がくしゃりと崩れた。

 

「と、取りました……!」

 

拳を引いて、両手で握りしめる。長い耳が、根元から跳ね上がった。

 

「一本、取りましたぁぁ!!」

 

叫んだ拍子に、膝が揺れた。ごっそりと何かを持っていかれたように、シアはその場にぺたんと尻もちをつく。尻もちをついたまま、まだ両手を握りしめて、笑っていた。

 

ハジメが滑り込んだ体勢からゆっくりと身体を起こす。

 

「……てかさ」

 

唇が、少しだけ尖っていた。

 

「やっぱ未来見えんのズルない?」

 

「ず、ズルくないですっ!」

 

シアは尻もちをついたまま、ぶんぶんと首を振った。

 

「あれ使うと、魔力がごっそりなくなっちゃうんです。だから、ここぞって時にしか使えないんですよぉ……」

 

「……ふーん」

 

ハジメはそれだけ言ってそっぽを向いた。

 

◇

 

誰も、声を出さなかった。

 

割れた地面と、砕けた石の柱と、転がった丸太。その真ん中で、兎人族の少女が尻もちをついて笑っている。

 

レギンの口は、半開きのまま固まっていた。

 

「……兎、だよな? あれ」

 

誰も答えなかった。

 

ジンが腕を組んだまま低く唸る。

 

「……やはり、気味が悪い」

 

その声も、どこか力がなかった。

 

「シ、シアちゃん……?」

 

ハウリアの若者の声が、裏返っていた。

 

「わ、我らの訓練は、一体……」

 

その隣で、ハウリアの男が呆然と自分の短剣を見下ろしている。今朝、魔物を仕留めたばかりの短剣だった。

 

ハウリアの子供たちだけが、大人たちの空気も読まずに跳ね回っている。

 

「シアおねえちゃん、すごーい!」

 

「すごーい!」

 

カムは口を開けたまま立ち尽くしていた。

 

割れた地面を見る。尻もちをついた娘を見る。もう一度、割れた地面を見る。

 

「……あれが、うちの娘……」

 

それから、カムの目が、ハジメの背中に止まった。

 

紫電の名残が、まだ白銀の髪の先でちりちりと散っている。

 

谷の縁で見た背中だった。

 

帝国の兵に囲まれて、それでも誰一人殺さずに、自分たちの前に立っていた背中。兵が逃げ帰った後、自分たちに頭を下げた背中。

 

その背中に、娘が拳を届かせた。

 

カムの手が、腰の短剣の柄を握る。

 

「……我らも、まだまだだな」

 

小さな声だった。

 

周りのハウリアたちが、黙って頷く。今朝、猪を仕留めた四人も。パルを抱え上げていた若者たちも。誰も何も言わずに、それぞれの武器を握り直していく。

 

その横で、レギンが首をごきりと鳴らした。

 

「……チッ。兎に先越されてたまるかよ」

 

「ああ」

 

ギルが組んでいた腕をほどいた。

 

「……負けてはいられんな」

 

アルフレリックは何も言わず、目を細めて割れた地面を眺めている。

 

ティアだけが、口元をほんの少しだけ緩めていた。

 

その時、ハジメが振り返った。

 

「あ、ティアじゃん! てかみんな来てたん?」

 

さっきまでの紫電が嘘のように、けろりとした顔だった。眼鏡を押し上げながら、大股でこちらへ歩いてくる。

 

「ねぇ見てた!? この子フィジカル鬼でマジヤバいんだけど!」

 

親指で、背後のシアを指差す。シアはまだ尻もちをついたまま、ぶんぶんと手を振っている。

 

ティアはハジメを見上げた。

 

「……見てた」

 

ティアの両脇から、コテツとマロンが飛び出していった。ちぎれそうなほど尻尾を振りながら、ハジメの胸元へ左右から鼻先を突っ込んでくる。

 

「おわっ、ちょ、二人とも!」

 

ハジメはよろけながらも、二匹の首を両腕で抱え込んだ。

 

「アンタ達も、シアパパたちの訓練手伝ってくれてたんでしょ? マジありがとねー」

 

わしゃわしゃと、首元の毛をかき回す。二匹は目を細めて、代わる代わるハジメの頬を舐め上げた。

 

◇

 

翌朝、霧が晴れた。

 

晴れたと言っても、消えたわけではない。足元にうっすらと白いものが残り、遠くの木々は輪郭が淡く滲んでいる。それでも、昨日までは十歩先も見えなかった森の奥が、ずっと遠くまで見通せた。

 

森の最奥に、それは立っている。

 

大樹ウーア・アルト。

 

見上げても、梢が見えない。幹は途中から霧に溶けて、どこまで続いているのか分からなかった。根元の太さは、フェアベルゲンの家がいくつ収まるか見当もつかない。地面を這う根の一本一本が、それだけでそこらの大木より太い。

 

けれど、葉が一枚もなかった。

 

幹は乾いて、深いひび割れが縦に走っている。触れれば、そのまま剥がれ落ちてしまいそうな樹皮だった。周りの森がこれほど青々としているのに、この木の周りだけ、色が抜け落ちたように白っぽい。

 

「でっか……」

 

ハジメが首を真上に反らしていた。

 

「てか、枯れてない? これ」

 

「……昔から、この姿だ」

 

アルフレリックが答える。

 

その後ろに、大所帯が続いていた。ハウリアの一族。長老たち。虎人族と熊人族の若い衆。誰もが大樹を見上げて、口を閉ざしている。

 

根元の、根と根が絡み合った窪みに、石碑がある。

 

人の背丈ほどの、平たい石だった。表面に、七つの紋章が刻まれている。どれも形が違う。長い年月で角が丸くなり、苔がところどころ溝を埋めていた。

 

真っ先に近づいたのは、コテツとマロンだった。左右から石碑に鼻先を寄せて、ふんふんと匂いを嗅いでいる。苔の生えた溝をなぞるように鼻を滑らせ、一度だけ顔を見合わせて、また嗅ぎ始めた。

 

「あ、これこれ」

 

ハジメが石碑の前にしゃがみ込んだ。

 

「アルファ……アル……長老さんが言ってたやつ」

 

アルフレリックが溜め息まじりに目を閉じた。

 

「……もう、それでよい」

 

ハジメは石碑の紋章を、一つずつ指でなぞっていった。

 

七つ目に差し掛かる手前で、指が止まる。

 

「あった」

 

指にはめた指輪を、石碑に近づける。オスカーの指輪だった。指輪に刻まれた紋様と、石碑の紋章の一つが、同じ形をしている。

 

指輪が、石に触れる。

 

紋章の溝に、光が灯った。

 

苔の下から、青白い光が滲み出してくる。光は溝に沿って紋章の形をなぞり、それから石碑の表面へと広がっていった。光の筋が絡み合い、ほどけ、やがて文字の形を作っていく。

 

背後で、長老たちがざわめいた。

 

「……石碑が光るのを見るのは、初めてだ」

 

アルフレリックの声が、わずかに掠れている。

 

ハジメは浮かび上がった文字に顔を近づけた。

 

「えっと……」

 

指で、一文字ずつ追っていく。

 

「四つの証……再生の力……紡がれた絆の、どうひょう?」

 

「……みちしるべ」

 

すぐ後ろから、ティアの声がした。

 

「ふりがな振っといてよ……」

 

ハジメはぶつぶつ言いながら、最後の一行を読んだ。

 

「全てを有する者に、新たな試練の道は開かれるだろう……だって」

 

光が、ゆっくりと薄れていく。

 

文字が消え、紋章の溝に灯っていた光も、苔の下へ沈んでいった。石碑は、元の古びた石に戻っていく。

 

「てか、再生の力って何?」

 

ハジメが首を傾げる。それから、ぱっと顔を上げた。

 

「……あ、ティアのアレじゃん!」

 

「……私のは、生まれつき。たぶん、違う」

 

「違うん?」

 

「オスカーの所で、生成魔法をもらったみたいに。……どこかの迷宮にあるのかも」

 

「えー、じゃあそれも取ってこいってこと?」

 

ハジメはしゃがみ込んだまま、自分の指輪を見下ろした。

 

「で、証って、これのことっしょ?」

 

指輪を、くるりと回す。

 

「……あと三つ、持ってこいってこと?」

 

「……たぶん」

 

ティアが答える。

 

ハジメはしばらく黙って、指輪と石碑を交互に見ていた。

 

それから、膝に手をついて立ち上がった。

 

「あぁ〜、そういう感じねー」

 

石碑の前で、大きく伸びをする。

 

その後ろで、兎と虎と熊が、長老たちの肩越しに石碑を覗き込んでいた。背の低いハウリアの子供が、熊人族の若い衆の肩に担ぎ上げられている。虎人族の男が、黙ってカムに場所を譲る。

 

誰も、そのことを口にはしなかった。

 

「てか、ここから一番近い迷宮って……」

 

ハジメが腕を下ろしながら呟く。

 

その言葉が終わらないうちに、ハジメとティアとシアの視線が、同じ方角へ向いていた。

 

森を抜けた、その先。空が細く切り取られた、あの谷。

 

「……ま、まさか」

 

シアの耳が、根元からじわじわと下がっていく。

 

ハジメは遠い目をしていた。

 

「……やっぱライセン行かんとダメじゃん」

 

「あそこですかぁ!?」

 

シアの悲鳴が、大樹の根元に響き渡る。

 

双頭の魔物に追い回され、命からがら逃げ回った谷だった。

 

「しゃーない」

 

ハジメは頭をがしがしと掻いた。

 

「一応、行ってみっか」

 

「……そのつもりなら」

 

アルフレリックが口を開いた。

 

「一度、ブルックへ寄っていくとよい」

 

ハジメが振り返る。

 

「ぶるっく?」

 

「谷の近くにある、人間族の町だ。あの谷に入るのなら、先に食料や水を整えておけ」

 

ハジメの目が、きらりと光った。

 

「え、町あんの!? 行く行く!」

 

さっきまでの遠い目が、どこかへ消えていた。両手を握りしめて、その場で小さく跳ねる。

 

ティアがその横顔を見上げた。

 

「……遊びに行くんじゃない」

 

大樹の梢の方から、霧の雫が一つ、ぽたりと落ちてきた。

 

枯れた幹を伝って、根元の石碑の上に落ちる。苔の上で小さく弾けて、それきり、静かになった。

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