大樹の霧が晴れる、前日の朝だった。
訓練場の苔の上に溜まる霧は、いつもより薄い。
訓練場の端に、見慣れない顔ぶれが並んでいる。
森人族の長老アルフレリック。その隣に、狐の耳をした細身の長老が、扇子のような葉を指先で弄びながら立っている。翼人族、虎人族、土人族、熊人族の長老たちも、少しずつ間を空けて木の根に腰を下ろしていた。
六人の長老が、一つ所に揃っている。
その前に一度見ておこう、ということになったらしい。言い出したのが誰なのかは、誰も知らなかった。
ティアは長老たちの少し手前の根に腰掛けている。コテツとマロンは、ティアの両脇で前脚を揃えて伏せていた。今日の相手は、二匹ではない。
訓練場の真ん中では、ハウリアの一団が霧の奥を睨んでいた。
がさり、と茂みが揺れる。
続けて、地面を蹴る重い音。一度、二度。近づいてくる。
霧が裂ける。
猪だった。肩の高さが、大人の兎人族の胸ほどもある。口の両脇から突き出した牙は、短剣より太い。鼻息で霧を吹き散らしながら、まっすぐに突っ込んでくる。
「来るぞ! 正面、引きつけろ!」
ハウリアの男が叫んだ。
正面に二人が立つ。短剣を構えた腰は引けていなかった。虎人族に何度も直された握りのまま、足の裏で苔の下の土を噛んでいる。
左右から、二人ずつが音もなく回り込んでいく。
コテツとマロンを相手に、何度も転がされながら覚えた動きだった。
猪の目が、正面の二人を捉える。
その瞬間、猪の脚が地面を蹴り損ねた。苔に足を取られたのか、突進の軸が横へぶれる。正面の二人の脇を、牙が掠めるようにすり抜けていく。
その先に、小さな影がいた。
訓練の輪の端で、鈍い色の棒を握りしめている。
「――パルッ!」
誰かの声が裏返る。
ティアの両脇で、二匹の耳が跳ね上がった。腰を浮かせかけたコテツの首筋に、ティアの手がそっと置かれる。
パルは動けなかった。
迫ってくる。牙が。鼻息が。足の下の地面が、猪の蹄に合わせて震えている。
「ふぅーーーっ……」
パルは深く息を吐いた。
◇
数日前の夕方のことだった。
鍋の底で、汁がことことと鳴っている。
広場の篝火はまだ小さい。日が傾いて、木々の影が苔の上に長く伸びている。ハウリアの女たちがよそった椀が、兎の手から虎の手へ、虎の手から熊の手へと回っていく。
ハジメは鍋の脇にしゃがみ込んで、二杯目の汁をすすっていた。
その両隣では、コテツとマロンが腹這いになって、熊人族の獲ってきた肉の骨にかじりついている。ばりっ、ぼりっ、と骨の砕ける音がするたびに、二本の尻尾が苔の上を掃いた。
「あ、あの……!」
声がした。
振り返ると、小さな影が立っていた。拾った木の枝を胸の前で両手に握りしめて、長い耳を緊張でぴんと立てている。
パルだった。
「ん?」
「ど、どうやったら……」
パルは枝を握る手に力を込めた。
「どうやったら、お姉さんみたいに、強くなれますか?」
ハジメの椀が、口元で止まった。
「……お姉さん?」
一拍。
ハジメの首が、ぐりんと横を向いた。
「ねぇティア聞いた!? お姉さんだって!」
コテツの向こうで椀を抱えていたティアは、汁を一口すすってから答えた。
「……聞いてた」
「やばー、お姉さんとか言われたのいつぶりだろ。てかパル君いい子すぎん?」
ハジメは椀を置いて、パルの頭をわしわしと撫で回した。パルの耳が、撫でられるたびに右へ左へ倒れる。
少し離れたところで、椀を受け取ったばかりのシアの手が止まっていた。
ハジメと、ハジメに撫でられているパルの方を見ている。何か言いかけたように唇が動いて、けれど何も出てこない。眉の端が、ほんの少しだけ下がる。
それから、黙って椀へ目を戻した。
「あの、それで……つ、強く……」
撫で回されながら、パルが言い直す。
「あーそれね!」
ハジメは撫でる手を止めて、ぽんと膝を打った。
「えっとね、ヤバって思ったら横にピョンってして、そんでバチーンってやんの!」
身振りつきだった。片手が横へ跳ね、もう片方の手が空中をはたく。
パルは口を半開きにしてそれを見ていた。
「ぴょん……ばちーん……」
「そうそう!」
ティアが椀を膝に下ろした。
「……説明になってない」
「なってるって!」
それから、ハジメの目がパルの手元に止まった。
「てか、それでバチーンってやんの?」
パルが握りしめている、拾った木の枝だった。
「枝じゃ秒で折れるって。ちょい待ち」
ハジメが左手を軽く振る。赤い石の指輪が光って、手のひらに鈍い色の鉱石がひと塊、ころりと転がり出た。
両手で包む。指の隙間から、青白い光が漏れた。
光が収まった時には、ハジメの手の中に細長い棒が一本あった。握りが細く、先へいくほど少しずつ太くなっている。表面はつるりと磨かれて、篝火の明かりを鈍く跳ね返す。
「はい、バット。パル君用に軽めにしといたから」
「ば、ばっと……?」
「バチーンってやるならバットっしょ」
パルは差し出されたそれを両手で受け取った。
思っていたより、ずっと軽い。握りが、小さな手のひらにぴたりと収まる。
「これなら戦えるし遊べるしで、一石二鳥じゃん!」
ハジメが得意げに親指を立てた。
「あそべるの!?」
鍋の向こうから、甲高い声が上がる。
ハウリアの子供たちだった。椀を放り出して、わらわらと駆け寄ってくる。あっという間にハジメの周りを囲んで、パルの手のバットを覗き込んだ。
「それ、なあに?」
「どうやってあそぶの?」
「パルだけずるーい!」
「お、いいとこ聞くじゃん」
ハジメは鍋の脇の小石を一つ拾い上げた。手の中で青白く光らせて、丸い玉に変える。
「これが野球ってやつね。投げる人がピッチャーで、このボール投げんの。で、バット持ってる人がバッター。それを打つ!」
「うつ!」
「打ったら走る! 地面に四つ印つけといて、ぐるーって一周して戻ってきたら一点ね。三回空振ったらアウトで、アウト三つで攻守交代!」
「こうしゅこうたい!」
子供たちは意味も分からないまま、最後の言葉だけを元気よく繰り返していく。
「あーし、ガッコでピッチャーやってたからね。こう、下からぐるんって」
ハジメは立ち上がって、腕を大きく一回転させてみせた。下手から放たれた小石の玉が、ひゅっと夕暮れの空気を裂いて、鍋の向こうの木の幹にこつんと当たる。
子供たちの口から、おお、と声が漏れた。
いつの間にか、虎人族の若い衆まで輪の外から首を伸ばしている。熊人族の男が腕を組んで、真顔で口を開いた。
「つまり、その玉を相手にぶつけたら勝ちなのか」
「ちっがう! 当てたらダメなやつ!」
「当てるとどうなる」
「打つ人がタダで一個目の印まで歩けんの」
「……なぜだ。当てた方が強いだろう」
「そういうスポーツじゃないの!!」
「よく分からんが、要は投げて当てる遊びだな」
「全然違うって!! ちょ、一回やってみよ! 口で言うより早いから!」
ハジメが熊人族の男の腕を掴んで引っ張っていく。子供たちが、歓声を上げながらその後に続いた。
ティアが空になった椀を膝に置いた。
「……強くなる話は?」
誰も聞いていなかった。
広場の真ん中で、ハジメが地面に印を描き始めていた。熊人族の男が、その場で錬成された大人用のバットを持たされて首を傾げている。子供たちの歓声が、篝火の煙と一緒に夕空へ昇っていく。
パルはその輪に混ざらなかった。
自分のバットを、両手で握りしめたまま見下ろしている。
それから小さな声で、もう一度だけ繰り返した。
「……ぴょん。ばちーん」
◇
牙が、目の前に迫っていた。
(ヤバって思ったら……)
頭の中で、声がした。
(ヤバって思ったら、横にピョンっ。そんで、バチーン……)
牙が近い。
(ヤバって思ったら、横にピョンっ。そんで、バチーン……)
もっと近い。
(ヤバって思ったら、横に――)
パルの足が、苔を蹴った。
花を避けていた時と、同じ跳び方。着地しかけた足を空中で引っ込めて、もう一段だけ横へずらす。猪の牙が、さっきまでパルの膝があった空間を抉っていく。
すれ違う。
猪の鼻面が、パルの目の前を流れていく。
(――バチーン!)
握っていたバットを、思い切り振り抜いた。
かぁん、と甲高い音が鳴る。
バットの先が、猪の鼻面を真横から叩いていた。突進の勢いを、そのまま返すように。
猪が悲鳴を上げた。鼻先を振り回しながら、たたらを踏む。蹄が苔の上で滑り、巨体が大きく傾いだ。
「今だ!」
カムの声だった。
左右に回り込んでいた四人が、同時に飛び込んだ。前脚の付け根と、首の横。短剣が深く入る。正面にいた二人も駆け寄って、傾いた巨体を肩で押さえ込んだ。
猪が、もう一度だけ脚をばたつかせる。
それきり、動かなくなった。
霧の中に、荒い息遣いだけが残る。
パルはバットを振り抜いた格好のまま固まっていた。握った両手が、まだじんと痺れている。
「……で、できた……」
ぽつりと呟いた声に、周りのハウリアたちが振り返った。
一拍。
それから、わっと声が上がった。
若者たちがパルに駆け寄って、頭を撫で、肩を叩き、背中から抱え上げる。パルの足が宙に浮いて、長い耳がぱたぱたと揺れた。倒れた猪の周りでは、仕留めた四人が自分の手を見下ろしている。短剣を握ったままの指が、まだ小刻みに震えていた。
訓練場の端で、熊人族のレギンが顎を撫でている。
「……おいおい。あの臆病な兎どもが、魔物を仕留めやがった」
隣で、ギルが腕を組んでいる。
その目は、仕留めた四人ではなく、若者たちに抱え上げられているパルの方に向いていた。
「……あの足は、教えていない」
アルフレリックは黙って訓練場を眺めていた。
兎が騒いでいる。その輪の中に、虎人族の若い衆が混ざって、パルの頭を乱暴に撫でている。熊人族の男が、仕留めた四人の背中を順番に叩いて回る。
種族の色が、ばらばらだった。ばらばらのまま、一つの輪になっている。
「……話には聞いていたが、これほどとはな」
長老の目元が、わずかに緩む。
それから、ふと首を傾げて、手前の根に腰掛けているティアを見下ろした。
「しかし、あの娘が見ているものと思っていたのだが」
ティアは訓練場から目を離さずに答えた。
「……初日は、ハジメが見ていた」
「ほう?」
「……様子を見に行ったら、小さい獣を囲んで、一族と一緒に泣いてた」
アルフレリックの眉が、ゆっくりと上がっていく。
「……最後は、皆で花を見てた」
一拍。
「あっはっは!」
狐人族の長老――ルアが、葉を取り落として笑い出した。
「なんだいそりゃ。獣を囲んで泣いて、花を眺めて終わりかい」
「……ん」
「あっはっはっは!」
アルフレリックも、喉の奥で小さく笑っていた。肩が、ほんの少しだけ揺れている。
ティアは表情を変えないまま、付け足した。
「……だから、交代した」
「――で」
低い声が割り込んだ。
熊人族の長老、ジンだった。木の根に腰を下ろしたまま、太い腕を組んでいる。
「その本人は今、何をしている?」
ティアは少しだけ考える。
それから、根から腰を上げた。
「……見に行く?」
◇
森の奥から、轟音が鳴っていた。
一度ではない。どん、と腹に響く音が、間を置かずに何度も続く。そのたびに足の下の地面が揺れて、梢から霧の雫がぱらぱらと降ってくる。
「な、なんだぁ!?」
レギンが足を止める。
ティアは止まらなかった。音のする方へ、迷いなく木々の間を抜けていく。長老たちとハウリアと、虎人族と熊人族が、慌ててその後に続く。
開けた場所に出た。
地面から、石の棘が突き出している。
人の背丈の倍はある。それが一本ではない。地面を割って、どど、どど、と列を成して生えていく。生えた端から紫の雷が這い上がり、棘の先端で火花が散る。
その棘の列の上を、白い影が跳んでいる。
シアだった。
棘の先端を、足裏で蹴る。次の棘へ。そのまた次へ。一本目が生えきる前に、二本目の先にはもう足が乗っている。棘の列が途切れたところで、そのまま脇の大木の幹を蹴って、さらに高く跳ぶ。
長い耳が、風を切ってなびいていた。
棘の列の根元に、ハジメが立っている。
右の拳を地面に押し当てたまま、空を跳ぶシアを目で追っていた。全身に、紫電が纏わりついている。白銀の髪の毛先で、ばちばちと細かな火花が弾ける。
ハジメが中指で眼鏡を押し上げた。
「――フンっ!」
拳が、地面を叩いた。
ハジメを中心に、地面が盛り上がる。石の柱が、四方へ一斉に生えた。雷を纏った柱が、シアの着地点を塞ぐように林立していく。
「まだまだですっ!」
シアは柱の一本の側面に着地した。
そのまま柱を蹴って、真横へ跳ぶ。柱と柱の隙間を、身体を捻ってすり抜けていく。
着地した先に、倒木があった。
人が三人で抱えても腕が回らないような、太い丸太だった。
シアはその丸太の下に両手を差し込んだ。
持ち上がった。
見物していた全員の口が、揃って開く。
「丸太!?」
ハジメの声と同時に、丸太が宙を飛んだ。
ハジメの姿が掻き消える。一瞬遅れて、さっきまでハジメが立っていた場所に、丸太が叩きつけられた。石の柱が二本、まとめて砕けて、破片が苔の上に散らばる。
紫の残光が、少し離れた場所で止まった。
ハジメが砕けた柱を振り返る。
その背中へ、シアが踏み込んでいた。
丸太を投げた体勢から、着地と同時に。間が、なかった。
ハジメの目が、わずかに見開かれる。
「――っ、これヤバ」
ハジメが飛び退く。考えるより先に、身体が後ろへ跳んでいた。
その直後だった。
さっきまでハジメの立っていた地面に、シアの拳が叩き込まれる。
地面が、割れた。
拳を中心に、苔ごと土が陥没する。放射状に走った亀裂が、見物人たちの足元近くまで伸びてきて、ようやく止まった。
ハジメが着地した格好のまま亀裂を見下ろしている。
「は!? 地面割れたんだけど!?」
シアは割れた地面から拳を引き抜いて、もう構え直している。
ハジメの口の端が、ゆっくりと吊り上がった。
纏った紫電が、一段濃くなる。
次の瞬間、ハジメの姿が消えた。
右。
シアが振り向いた時には、もういない。
左。
拳が空を切る。紫の残光だけが、視界の端を流れていく。
背後。
振り向きざまの蹴りも、また空を切る。
速すぎた。見物していた者たちの目にも、ほとんど何も映らない。紫の線が、シアの周りをぐるぐると巡っている。その線のどこかから、ハジメの声だけが聞こえた。
「はい、ざんねーん。こっちこっち」
シアの拳が、また空を切る。
肩が上下していた。額から汗が流れて、顎の先から落ちていく。
それでも、シアの目は止まっていなかった。
一度だけ、シアは大きく息を吸う。
構えを解く。
拳を下ろして、紫の線の真ん中に、ただ立った。
見物人たちが、息を呑む。
紫の線が、シアの背後へ回り込んでいく。
シアの瞳の奥で、何かが揺れた。
ほんの一瞬先の光景が、目の前の景色に重なる。紫電を纏ったハジメが、右斜め後ろから、低く滑り込んでくる姿。
シアが振り向く。
まだ、そこには誰もいなかった。
誰もいない空間へ、拳を突き出す。
「――ここですっ!」
紫の線が、そこへ飛び込んできた。
ハジメの顔の、拳一つ分手前で。
シアの拳が、ぴたりと止まっていた。
静寂が落ちる。
ハジメは滑り込んできた体勢のまま、目の前の拳を見つめていた。纏っていた紫電が、ぱちり、と一つだけ弾けて消える。
「……え」
シアも、自分の拳を見つめていた。
「…………あ」
拳が、震え出す。
それから、シアの顔がくしゃりと崩れた。
「と、取りました……!」
拳を引いて、両手で握りしめる。長い耳が、根元から跳ね上がった。
「一本、取りましたぁぁ!!」
叫んだ拍子に、膝が揺れた。ごっそりと何かを持っていかれたように、シアはその場にぺたんと尻もちをつく。尻もちをついたまま、まだ両手を握りしめて、笑っていた。
ハジメが滑り込んだ体勢からゆっくりと身体を起こす。
「……てかさ」
唇が、少しだけ尖っていた。
「やっぱ未来見えんのズルない?」
「ず、ズルくないですっ!」
シアは尻もちをついたまま、ぶんぶんと首を振った。
「あれ使うと、魔力がごっそりなくなっちゃうんです。だから、ここぞって時にしか使えないんですよぉ……」
「……ふーん」
ハジメはそれだけ言ってそっぽを向いた。
◇
誰も、声を出さなかった。
割れた地面と、砕けた石の柱と、転がった丸太。その真ん中で、兎人族の少女が尻もちをついて笑っている。
レギンの口は、半開きのまま固まっていた。
「……兎、だよな? あれ」
誰も答えなかった。
ジンが腕を組んだまま低く唸る。
「……やはり、気味が悪い」
その声も、どこか力がなかった。
「シ、シアちゃん……?」
ハウリアの若者の声が、裏返っていた。
「わ、我らの訓練は、一体……」
その隣で、ハウリアの男が呆然と自分の短剣を見下ろしている。今朝、魔物を仕留めたばかりの短剣だった。
ハウリアの子供たちだけが、大人たちの空気も読まずに跳ね回っている。
「シアおねえちゃん、すごーい!」
「すごーい!」
カムは口を開けたまま立ち尽くしていた。
割れた地面を見る。尻もちをついた娘を見る。もう一度、割れた地面を見る。
「……あれが、うちの娘……」
それから、カムの目が、ハジメの背中に止まった。
紫電の名残が、まだ白銀の髪の先でちりちりと散っている。
谷の縁で見た背中だった。
帝国の兵に囲まれて、それでも誰一人殺さずに、自分たちの前に立っていた背中。兵が逃げ帰った後、自分たちに頭を下げた背中。
その背中に、娘が拳を届かせた。
カムの手が、腰の短剣の柄を握る。
「……我らも、まだまだだな」
小さな声だった。
周りのハウリアたちが、黙って頷く。今朝、猪を仕留めた四人も。パルを抱え上げていた若者たちも。誰も何も言わずに、それぞれの武器を握り直していく。
その横で、レギンが首をごきりと鳴らした。
「……チッ。兎に先越されてたまるかよ」
「ああ」
ギルが組んでいた腕をほどいた。
「……負けてはいられんな」
アルフレリックは何も言わず、目を細めて割れた地面を眺めている。
ティアだけが、口元をほんの少しだけ緩めていた。
その時、ハジメが振り返った。
「あ、ティアじゃん! てかみんな来てたん?」
さっきまでの紫電が嘘のように、けろりとした顔だった。眼鏡を押し上げながら、大股でこちらへ歩いてくる。
「ねぇ見てた!? この子フィジカル鬼でマジヤバいんだけど!」
親指で、背後のシアを指差す。シアはまだ尻もちをついたまま、ぶんぶんと手を振っている。
ティアはハジメを見上げた。
「……見てた」
ティアの両脇から、コテツとマロンが飛び出していった。ちぎれそうなほど尻尾を振りながら、ハジメの胸元へ左右から鼻先を突っ込んでくる。
「おわっ、ちょ、二人とも!」
ハジメはよろけながらも、二匹の首を両腕で抱え込んだ。
「アンタ達も、シアパパたちの訓練手伝ってくれてたんでしょ? マジありがとねー」
わしゃわしゃと、首元の毛をかき回す。二匹は目を細めて、代わる代わるハジメの頬を舐め上げた。
◇
翌朝、霧が晴れた。
晴れたと言っても、消えたわけではない。足元にうっすらと白いものが残り、遠くの木々は輪郭が淡く滲んでいる。それでも、昨日までは十歩先も見えなかった森の奥が、ずっと遠くまで見通せた。
森の最奥に、それは立っている。
大樹ウーア・アルト。
見上げても、梢が見えない。幹は途中から霧に溶けて、どこまで続いているのか分からなかった。根元の太さは、フェアベルゲンの家がいくつ収まるか見当もつかない。地面を這う根の一本一本が、それだけでそこらの大木より太い。
けれど、葉が一枚もなかった。
幹は乾いて、深いひび割れが縦に走っている。触れれば、そのまま剥がれ落ちてしまいそうな樹皮だった。周りの森がこれほど青々としているのに、この木の周りだけ、色が抜け落ちたように白っぽい。
「でっか……」
ハジメが首を真上に反らしていた。
「てか、枯れてない? これ」
「……昔から、この姿だ」
アルフレリックが答える。
その後ろに、大所帯が続いていた。ハウリアの一族。長老たち。虎人族と熊人族の若い衆。誰もが大樹を見上げて、口を閉ざしている。
根元の、根と根が絡み合った窪みに、石碑がある。
人の背丈ほどの、平たい石だった。表面に、七つの紋章が刻まれている。どれも形が違う。長い年月で角が丸くなり、苔がところどころ溝を埋めていた。
真っ先に近づいたのは、コテツとマロンだった。左右から石碑に鼻先を寄せて、ふんふんと匂いを嗅いでいる。苔の生えた溝をなぞるように鼻を滑らせ、一度だけ顔を見合わせて、また嗅ぎ始めた。
「あ、これこれ」
ハジメが石碑の前にしゃがみ込んだ。
「アルファ……アル……長老さんが言ってたやつ」
アルフレリックが溜め息まじりに目を閉じた。
「……もう、それでよい」
ハジメは石碑の紋章を、一つずつ指でなぞっていった。
七つ目に差し掛かる手前で、指が止まる。
「あった」
指にはめた指輪を、石碑に近づける。オスカーの指輪だった。指輪に刻まれた紋様と、石碑の紋章の一つが、同じ形をしている。
指輪が、石に触れる。
紋章の溝に、光が灯った。
苔の下から、青白い光が滲み出してくる。光は溝に沿って紋章の形をなぞり、それから石碑の表面へと広がっていった。光の筋が絡み合い、ほどけ、やがて文字の形を作っていく。
背後で、長老たちがざわめいた。
「……石碑が光るのを見るのは、初めてだ」
アルフレリックの声が、わずかに掠れている。
ハジメは浮かび上がった文字に顔を近づけた。
「えっと……」
指で、一文字ずつ追っていく。
「四つの証……再生の力……紡がれた絆の、どうひょう?」
「……みちしるべ」
すぐ後ろから、ティアの声がした。
「ふりがな振っといてよ……」
ハジメはぶつぶつ言いながら、最後の一行を読んだ。
「全てを有する者に、新たな試練の道は開かれるだろう……だって」
光が、ゆっくりと薄れていく。
文字が消え、紋章の溝に灯っていた光も、苔の下へ沈んでいった。石碑は、元の古びた石に戻っていく。
「てか、再生の力って何?」
ハジメが首を傾げる。それから、ぱっと顔を上げた。
「……あ、ティアのアレじゃん!」
「……私のは、生まれつき。たぶん、違う」
「違うん?」
「オスカーの所で、生成魔法をもらったみたいに。……どこかの迷宮にあるのかも」
「えー、じゃあそれも取ってこいってこと?」
ハジメはしゃがみ込んだまま、自分の指輪を見下ろした。
「で、証って、これのことっしょ?」
指輪を、くるりと回す。
「……あと三つ、持ってこいってこと?」
「……たぶん」
ティアが答える。
ハジメはしばらく黙って、指輪と石碑を交互に見ていた。
それから、膝に手をついて立ち上がった。
「あぁ〜、そういう感じねー」
石碑の前で、大きく伸びをする。
その後ろで、兎と虎と熊が、長老たちの肩越しに石碑を覗き込んでいた。背の低いハウリアの子供が、熊人族の若い衆の肩に担ぎ上げられている。虎人族の男が、黙ってカムに場所を譲る。
誰も、そのことを口にはしなかった。
「てか、ここから一番近い迷宮って……」
ハジメが腕を下ろしながら呟く。
その言葉が終わらないうちに、ハジメとティアとシアの視線が、同じ方角へ向いていた。
森を抜けた、その先。空が細く切り取られた、あの谷。
「……ま、まさか」
シアの耳が、根元からじわじわと下がっていく。
ハジメは遠い目をしていた。
「……やっぱライセン行かんとダメじゃん」
「あそこですかぁ!?」
シアの悲鳴が、大樹の根元に響き渡る。
双頭の魔物に追い回され、命からがら逃げ回った谷だった。
「しゃーない」
ハジメは頭をがしがしと掻いた。
「一応、行ってみっか」
「……そのつもりなら」
アルフレリックが口を開いた。
「一度、ブルックへ寄っていくとよい」
ハジメが振り返る。
「ぶるっく?」
「谷の近くにある、人間族の町だ。あの谷に入るのなら、先に食料や水を整えておけ」
ハジメの目が、きらりと光った。
「え、町あんの!? 行く行く!」
さっきまでの遠い目が、どこかへ消えていた。両手を握りしめて、その場で小さく跳ねる。
ティアがその横顔を見上げた。
「……遊びに行くんじゃない」
大樹の梢の方から、霧の雫が一つ、ぽたりと落ちてきた。
枯れた幹を伝って、根元の石碑の上に落ちる。苔の上で小さく弾けて、それきり、静かになった。