すべての始まりは、中学時代にさかのぼる。
当時から一人で過ごすことが多かった清水は、放課後の教室の隅でよく携帯ゲーム機を弄っていた。周囲と交わることもなく、ただ一人で静かに画面に向き合う日常。
そんな清水の姿が、当時から天真爛漫で好奇心旺盛だったハジメの目に留まった。
「ん? 何してんの〜?」
ひょっこりと顔を覗き込み、純粋な興味だけで声をかけてきたハジメ。それが、清水とハジメの正真正銘、最初の接点だった。
突然話しかけられた清水は、ギクリと肩を跳ね上げ、おそるおそる携帯ゲーム機の画面を隠すようにして身構えた。
「っ……、げ、ゲームだけど……」
「へぇ、そっか」
ハジメはそれだけ言うと、「ふーん」と、驚くほどあっさりと興味を失い、そのまま何事もなかったように自分の席へと戻っていってしまった。
残された清水は、自分の手元に視線を戻し、得体の知れない猛獣でも目撃したかのような顔で遠ざかる背中を見つめた。
「……なんだ、アイツ。急に話しかけてきて、なんだったんだ……」
妙にハイテンションで、自分のテリトリーに土足で踏み込んでくるような、掴みどころのない危険な空気。当時の清水は「二度と関わらないようにしよう」と心に誓い、そっとゲームの続きに意識を戻したのだった。
――とはいえ、その時から劇的に仲が深まったわけでもない。
同じクラスになってからも、廊下ですれ違う時に適当な挨拶を交わす程度の関係が続いていた。
「うぃーっす」
「……うす」
清水から見た南雲ハジメという女子生徒は、端から見れば「住む世界が違う人間」そのものだった。
いつも派手な友人グループの中心でケラケラと笑い、流行りの話題や学校のイベントを全力で楽しむ、眩しすぎる陽キャの象徴。地味で目立たず、教室の隅で息を潜めるように生きている自分のような人間とは、会話の波長も交わるはずがない。向こう側の世界の住人――そう心の中で線を引き、適度な距離を保っていれば、自分に害が及ぶこともない。
お互いに深く踏み込むこともなく、ただの「同じクラスの奴」として流れていく日常。それ以上でもそれ以下でもない、害のない関係。それで終わるはずだった。
あの放課後が訪れるまでは。
夕暮れ特有の橙色と、誰もいない静寂に包まれた中学校の教室。
清水は一人、いつものように教室の隅で携帯ゲーム機の画面を眺めていた。特別そのゲームに熱中しているわけではない。好きか嫌いかで言えば好きではあったが、この時間を過ごしている最大の理由は別にあった。
――家に帰りたくない。
それが、清水の切実で冷めた現実逃避の理由だった。息の詰まる家庭環境から逃げるように、ただ帰宅を遅らせるためだけに時間を潰す作業。画面の中のキャラクターを動かしながら、ぼんぼん攻略を進めていく。
その時、画面内で突如として暴れ回る破天荒で不真面目なNPCを見て、清水はふと眉をひそめた。
(……こいつ、なんか見覚えあるな)
場の空気を一切読まず、謎のこだわりと強引さでストーリーを引っかき回していくキャラクター。その身も蓋もない性格に強烈な既視感を覚えた、まさにその瞬間だった。
「おん? 清水じゃん、またゲームしとんのか?」
ガラッと静寂を破ってドアが開き、無遠慮な声が飛び込んできた。
忘れ物を取りに来たらしいハジメだ。彼女は一切のパーソナルスペースを無視してズカズカと踏み込んでくると、清水の肩越しに画面を覗き込んできた。
「てかなんのゲームしてんの?」
「っ……!」
ちょうど脳内で「ハジメ」という存在とゲームキャラの既視感を照合していた最中だった清水は、あまりの距離の近さと噂の本人のエンカウントにキャパオーバーを起こし、リアクションを取る余裕すら失って完全にフリーズした。
しかし、ハジメはそんな清水のパニックなど知る由もない。画面を数秒見つめたあと、目を丸くして大声を上げた。
「あ! これあーしの出てるやつじゃん!」
「え? マジで……?」
現実逃避の避難所だったゲームの中に、目の前にいるクラスの不真面目ギャルが「中の人(モデル)」として存在しているという現実改変レベルの衝撃。清水が驚愕で固まっていると、ハジメは嬉しそうにさらに距離を詰めてきた。
「このゲームさぁ、あーしのパパがゲーム作ってる会社で働いててさ、なんか『もーしょんあくたー』?とかいうのを頼まれてさ〜。ちょうど今画面に映ってるキャラ、あーしが動きとか色々担当したやつなんだよね!」
「…………」
(……嘘だろ……)
清水の脳内で、乾いた音がして何かが崩壊した。
家から逃げ出し、誰とも交わらないための防音壁のつもりで開いていたゲームの画面。その中で自由奔放に暴れ回る破天荒なキャラクターと、目の前で悪びれもせずニカッと笑っている本物のギャルが、脳内で重なり合う。
――逃げ場所が、ない。
息の詰まる家庭から逃れてたどり着いたはずの自分だけの聖域にまで、あろうことか、あの「住む世界が違う面倒くさい女」の爪痕が深く刻まれていたという事実。学校の教室という現実だけでなく、引きこもった先の世界の奥底に至るまで、この台風のような女の存在が侵食しているという現実改変レベルの理不尽。
自分のプライベートな領域にまで土足で踏み込んできたその事実に、清水は眩暈すら覚えた。
関わらないように距離を取り、住む世界の違う人間だと線を引いていたはずなのに、よりによって自分の趣味の領域でこんなバグを叩きつけられるとは夢にも思わない。
(神様、俺の人生のセーブデータ、最初からこの女に汚染されてましたけど……?)
生気のない瞳のまま、清水はゆっくりと携帯ゲーム機の画面から目を逸らし、天井を仰いで盛大に深いため息をついた。人生の逃げ場を完全に断たれた少年の背中には、この世の終わりのような重苦しい暗雲が立ち込めていた――。
だが、ハジメはそんな清水の絶望など露知らず、嬉しそうに続ける。
「ねぇ、ちょい感想聞かせてよ!」
グイグイと迫るハジメに、人と喋り慣れていない清水は再び言葉に詰まる。気遣いやお世辞といった高度なコミュニケーション能力を持ち合わせていない清水の脳内から、濾過されていない本音がそのまま口から漏れ出た。
「……なんか、うるさくて面倒な奴って感じがした。まぁ、キャラ性能はいいから使ってるって感じ」
「はぁ!?」
ハジメは身も蓋もない直球ディスに、分かりやすく不満げに頬を膨らませた。
「ていうか、そもそもこのキャラの動き、いちいちウゼェんだよ...。 戦闘中も無駄にピョンピョン跳ね回って隙だらけだし」
「は!? それあーしが実際にやったキレッキレのモーションをそのままデータ化したんだけど!? 文句あるわけ!?」
「あぁ、納得だわ。本人そのまま頭の悪そうな動きしてやがる」
「ちょっと待って、それ超失礼じゃない!? あーしの華麗なスタイリッシュアクションをバカにするとかマジありえないんだけど!」
「どこがスタイリッシュだよ、ただのゴリ押し脳筋の暴れ馬だろ。お前絶対このステージの初見殺しボスで何回もゲームオーバーになってコントローラー放り投げたろ」
「ぐっ……!? な、なんでそれ知ってんだし……!」
「図星かよ。ゲームの腕も中身も小学生かよお前」
「なっ……! ムカつく! 陰キャのくせに口だけは一丁前だし、てか超腹立つんだけど!」
「お前が聞いてきたんだろ。だいたい、性能のおかげで使われてるだけ感謝しろよ」
「そこは『ハジメちゃんすごーい!』でしょーが!」
最初は困惑していた清水だったが、あまりにも素でキーキーと喚き立ててくるハジメを見て、次第に毒気が抜けていった。見た目は華やかなギャルだが、中身はやっぱり小学生レベルの残念さだ。
ワーワーと子供のように突っかかってくるハジメと、冷静に正論で煽り返す清水。放課後の教室に、噛み合わないレスバが盛大に響き渡る。
「もういいわ! あーしマジでキレたから! アンタ明日からあーしの舎弟ね!」
「ハァァァ!? 何を勝手に!」
プンプンと肩を怒らせ、大股で教室を去っていくハジメ。
一人取り残された清水は、静かになった教室で深々とため息をついた。
「……何だ、アイツ」
それが、清水にとって嵐のような「最悪のファーストコンタクト」だった。
――そして、この事件を境に、清水の中学生活は静かに、だが確実に変化し始めた。
翌朝、教室に入った清水に、クラスの男子が気さくに声をかけてきたのだ。
「よお清水! お前昨日ハジメと揉めたんだって?w 朝からハジメが『清水が生意気!』って大騒ぎしてたぞ」
「あのハジメ相手にハキハキ言い返したらしいじゃん。お前意外と度胸あんのな」
「え……いや、あいつが勝手に絡んできただけで……」
困惑しながらもボソボソと答える清水。これまでの清水は「話しかけづらい大人しい奴」として壁を作っていたが、ハジメという台風に揉まれたことで、周囲から「実は喋ると面白い普通の奴」として見られるようになったのだ。
それからというもの、朝登校すればクラスメイトから「清水、おはよー」「今日のプリント見せて〜」と当たり前のように挨拶や会話が飛んでくるようになり、休み時間にも自然と会話の輪に混ざる機会が増えていった。
(……なんか、前より喋りやすくなったな)
壁を一枚隔てていた周りの人間に対して、清水自身も少しずつ心を開き、気負わずに会話ができるようになっていった。ハジメ本人はまったくの無自覚だろうが、あいつの理不尽な暴風が、清水を覆っていた孤独の殻を破ってくれたことだけは確かだった。
――もっとも、その恩義を台無しにするレベルの災難が、この後に待っていたのだが。
通知をオフにして放置していたはずのクラスLINE経由で、ハジメが個人アカウントを特定し、容赦なく電話をかけてくるようになった。
『あ、舎弟〜? 今ヒマっしょ? コンビニでアイス買ってきてー!』
『ジュース奢ってくれたらこの前話してたゲームの裏話教えたる!』
『ヒマ! 〇〇公園集合! 15分な!』
電話越しに響く、脈絡も空気感もゼロの身勝手な呼び出し。
もちろん断る選択肢もあった。だが、清水にとって「息が詰まる家にいる時間」に比べれば、ハジメのウゼー絡みを適当にいなしている方が遥かにマシだった。
「チッ……面倒くせぇな」
吐き捨てながらも、清水は家に居たくないがための消去法として、毎回その理不尽な呼び出しに付き合ってしまっていた。そうして気づけば、「ハジメから急に呼び出されて嫌々顔を出す」という謎の習慣がすっかり出来上がっていたのだ。
そしてある日、いつものように雑な電話で指定されたファミレスに向かった時のことだった。
いつものハジメ一人だと思ってボックス席を探した清水は、そこにいたメンツを見て足が止まった。ハジメの隣と向かいに、見知らぬ他校の女子二人――香織と雫が座っていたのだ。
「……いや、これなんの集まりだよ……」
思わず引き気味に小さく呟く清水。完全なアウェー空間に放り込まれ、ハジメ経由でクラスメイトとは喋れるようになったものの、他校の見知らぬ女子との会話には慣れていない清水は、あからさまに居心地の悪そうな顔で席の端に腰を下ろした。
そんな清水の様子などお構いなしに、ハジメが胸を張る。
「コイツ、あーしの舎弟の清水!」
誇らしげに雑すぎる紹介をするハジメ。見知らぬ他校の中学ギャルたちに囲まれ、どう反応していいか分からず清水がフリーズしていると、香織がすっと目を細めた。
香織はこの頃から、ハジメに対してどこか歪で仄暗い執着を抱いていた。
いつの間にかハジメの周りをウロウロしている見知らぬ男子(清水)に対し、彼女はテーブル越しに身を乗り出すと、口元に笑みを浮かべつつも瞳の奥にドロリとしたプレッシャーを宿して距離を詰めてきた。
「……君は、ハジメちゃんのなんなのかな? かな?」
笑顔の裏にある強烈な牽制と圧。急に至近距離で詰め寄られた清水は、思わず背もたれに体を預け、目を泳がせた。
「っ……、な、なんすかいきなり……」
引き気味に身を引く清水の背中に冷や汗が流れる。香織の放つ異質なプレッシャーにどう対処していいのか本気で困惑していた。
(待て待て……なんだこの女。関わったらマジで命が危ねえ……!)
だが次の瞬間、その重苦しい雰囲気をぶち破るように雫が叫んだ。
「ちょっと香織! 急に詰め寄って脅かすのやめなさいよ! 怖がられてるでしょ!?」
「だって雫ちゃん! ハジメちゃんが勝手に変な男連れてきて『舎弟』とか言ってるんだよ!? 意味分かんないじゃん!」
香織は今度はハジメに向き直ると、がっしりとハジメの肩を掴んでガクガクと激しく揺さぶり始めた。
「ハジメちゃん! なにこの人!? なんで舎弟なの!? ちゃんと説明して! ねぇ!?」
「うわっ、ガクガク揺さぶんなって香織〜! 脳みそ溶ける〜! だから言ったじゃん、あーしのゲームのキャラを『うるさくて面倒』って言った生意気な舎弟!」
「理由も意味不明なんだけどー! ていうかアンタも調子乗って適当に男呼び出してんじゃないわよバカハジメ!!」
「え〜? 雫だってさっきドリンクバー奢ってくれたら何でも聞くって言ってたじゃ〜ん? 別にいいっしょ〜」
「それはアンタがしつこいからでしょーーー!!」
激怒してキャーキャー叫び始める雫、ハジメの肩を揺さぶりながら必死に問い詰める香織、そして煽るようなヘラヘラ顔でとぼけ続けるハジメ。
ファミレスのボックス席で始まった大騒ぎに、周囲の客が一斉にこちらを振り返る。
するとそこへ、引きつった笑顔を浮かべた店員が、トレーを抱えておずおずと近づいてきた。
「あ、あのぉ〜、お客様ぁ……? 他の周りのお客様のご迷惑になりますのでぇ、もう少しだけお声を抑えていただけますと……」
「あ! すみませ〜ん! こいつら頭沸いてて! あーしが注意しておきますね〜!」
「アンタのせいでしょうがーーーっ!!」
店員の前でも懲りずにワーワーと大声を上げる3人。店員は「ひっ」と肩をすくめ、困惑しきった顔で退散していった。
「…………」
ボックス席の端っこで、清水はそのカオスすぎる光景をただただ死んだような目で眺めていた。ドリンクバーのグラスに手を伸ばす気力すら湧かない。
女子中学生3人がファミレスでワーワーと騒ぎ立て、店員にまで注意されている惨状。関わったら間違いなく巻き込まれて命を削られる。
清水はゆっくりと身体を席の奥へ沈め、完全に心を無にした。
(……女って、こんなのしかいないのか?)
思考ゼロで理不尽に巻き込んでくる暴風雨のようなハジメ。
笑顔の裏にドロドロした情念を隠し持ち、突然爆発する香織。
そしてキャーキャーと怒鳴り散らす雫。
同世代の女子に対する強烈な拒絶反応とトラウマが植え付けられたこの瞬間、清水の理想のタイプは完全に固定されたのだった。
(……なんか、こんな意味わからん奴らじゃなくて。包容力があって、こんな俺を優しく包み込んでくれる年上のお姉さん……いねぇかな……)
そしてそれから月日が流れても。
お互いに甘い雰囲気など1ミリも持ち合わせないまま、この「最悪のファーストコンタクト」から始まったバカみたいな腐れ縁だけは、今も変わらずズルズルと続いている。