「白崎さんは、いつも完璧だね」
誰かが言ったその言葉に、私は今日も張り付いたような笑顔で「そんなことないよ」と返していた。
周囲から勝手に期待され、押し付けられる「理想の優等生」という偶像。誰も本当の私なんて見てくれない。嫌われないよう、失望されないよう、他人の目を伺って「いい子」を演じ続ける毎日に、私の心は静かにすり減っていた。
——あの日、あの路地裏で『彼女』に出会うまでは。
◇
そんなある日の放課後。商店街の路地裏で、香織は息をのんだ。
ガラの悪いチンピラ数人が、怯える老婆と小さな幼子を壁際に追い詰め、怒鳴り散らしていたのだ。
「おいババア! ぶつかっておいてタダで済むと思ってんのかぁ!?」
「ひ、ひぃっ……! ご、ごめんなさいね……っ!」
「うえぇぇん、おばあちゃん、こわいよぉ……っ!」
壁際に追い詰められ、孫を抱きかかえて小さく震えるおばあさんと、必死に泣きじゃくる幼い男の子。関わりたくない通行人は誰もが見て見ぬふりをし、香織もまた恐怖で足がすくみ、警察を呼ぶべきか怯えて固まることしかできなかった。
自分はなんて無力で、惨めなのだろう。己の弱さに絶望しかけた、まさにその時だった。
「——ちょっとぉ、そこどいてくんね?」
少し間延びした、だけど凛とした声が響いた。
人混みを割って進み出たのは、制服を着崩し、派手なアクセサリーをジャラジャラと鳴らした他校のギャルだった。彼女は手に持っていた清涼飲料水の缶をゴミ箱に放り投げると、一切の躊躇なく、怯えるおばあさんと孫の前に割り込んだ。
「あ? なんだお前。関係ねぇ女はすっこんでろ」
「は? 関係なくないし。ていうかさ〜、おばあちゃんと子供相手に群れてイキってんのウケるんだけど! ダサすぎて見てらんないから言いに来たの!」
「あんだとゴラぁっ!?」
威嚇するチンピラに対し、少女はビビるどころかズイと距離を詰めて爆風のようなマシンガントークを開始した。
「てかお兄さん、そのリーゼント気合い入れすぎて横スカスカじゃん! スプレーの匂いきつくておばあちゃんもこの子も鼻曲がりそうになってんだけど! ほら、ボクも『お兄さんの頭ヘン!』って言ってやりな!」
「えっ……お、おにいたんのあたま、ヘン……?」
「言わせてんじゃねぇよ! つーかぶつかってきたのはこのババアだろーが!」
「はぁ? おばあちゃんの足元見なよ、シルバーカー押してんだからスピード出せるわけないじゃん! お兄さんが脇見運転で突っ込んで自爆しただけでしょ! ほらおばあちゃんも『若者なら前見て歩きな』って言ってやって!」
「え、あ、はい……前を見て歩きなさいねぇ……」
「ババアまで乗っかるな! 俺らはイライラしてんだよ!」
「あーもううるさい! 腹減ってっから余計にイライラしてんでしょ!? わかる〜、あーしも腹減ると超機嫌悪くなるし! だったら全員で商店街のコロッケ食べに行こ! あーしの奢りで! おばあちゃんもボクも行こー! 揚げたてめっちゃ美味いから!」
「はぁ!? なんで俺らがコロッケ——」
「いいから行くの! ほらボク、お姉ちゃんと手繋ご!」
ハジメはチンピラの反論を豪快にスルーすると、さっさと泣き止んだ男の子の手を引き、腰が抜けていたおばあさんを気さくに抱え起こした。
気づけば、威圧的だったはずのチンピラたちも毒気を抜かれて「え、マジで奢ってくれんの……?」と顔を見合わせ、ハジメの後ろを大人しくついて行き始めている。
「お兄さんたちも早くしなよー! 売り切れるし!」
「お、おう……待てよ……」
「お姉ちゃん、コロッケ楽しみー!」
「ほっほっ、親切なギャルさんじゃのお……」
一秒前まで殺伐としていたはずの路地裏が、一瞬で和気あいあいとした謎の一行に早変わりした。チンピラも、おばあさんも、孫も、全員が揃ってハジメを中心に楽しげに商店街の奥へと消えていく。
そして精肉店の前で、ハジメに奢られた熱々のコロッケを全員で完食した後のこと。
口元を拭いながら、すっかり毒気の抜けたチンピラたちがポカンと顔を見合わせていた。
「……あれ? 俺たち、何しにここ来たんだっけ……?」
「さあ……なんか、コロッケ美味かったな……」
すっかり毒気を抜かれた彼らは、ふとおばあさんと孫に視線を向けた。そして自分たちの行いを恥じるように頭を掻くと、「……さっきは大声出して悪かったな、ばあさん、坊主」「気をつけて帰りなよ」と、なんと素直に頭を下げて謝罪したのだ。
「いいのよ、美味しいコロッケも食べられたしねぇ」
「お兄ちゃんたち、ばいばーい!」
おばあさんと男の子が笑顔で手を振り、チンピラたちも気まずそうに手を振り返す。
そんな光景を少し離れた場所から眺めていたハジメは、腕を組んで「うんうん」と満足そうに、自慢げに頷いていた。
毒気どころか悪意そのものをギャルのノリとペースで洗浄し、改心までさせて自分の世界に塗り替えてしまう圧倒的なカリスマ性と凄まじさ。
だが、その一部始終を陰から呆然と見送っていた香織の脳裏に鮮烈に焼き付いていたのは、まさにあの口論の最中のハジメの姿だった。
チンピラに凄まじい勢いでマシンガントークを叩きつけていたその時——ハジメは、相手から隠すように自分の背中に右手を回していた。
相手の視界から遮られたハジメの背後で、ぎゅっと握り締められた小さな拳が、小さく、けれど激しく震えていたのだ。
少女は怖かったのだ。大人数を前に、本当は心臓が潰れそうなほど怯えていた。それでも彼女は恐怖を必死に隠し、見知らぬ誰かのために身体を張り続けていた。
その事実を理解した瞬間、香織の胸を強烈な衝撃が貫いた。
あまりにも健気で、あまりにも愛おしい「弱さ」。自分の中に芽生えた感情は、雷に打たれたような衝撃とともに、ドロリとした重く深い情熱へと形を変えていった。
(ああ……なんて愛おしい人……。あの子は無理をしてる。私が守ってあげなきゃダメなんだ)
あの少女がどこの誰なのか、香織は何も知らなかった。だが、問題はなかった。
その日から香織の異常な追跡が始まった。制服や立ち寄り先、聞き込み——持ち前の観察眼と執拗な調査能力(ストーキング)を発揮し、香織はわずか数日でその少女の素性を突き止めた。
隣町の学校に通う、不真面目なギャル。名前は——南雲ハジメ。
「南雲ハジメちゃんって言うんだ……」
写真を指で優しく撫でながら、香織はうっとりと呟いた。あの震える手に気づけたのは世界で私だけ。ハジメちゃんの本当の弱さも尊さも、私だけが理解していればいい。
素性を特定した香織は、雨の日の放課後、高架下で「偶然」を装ってハジメを待ち伏せした。あの日のお礼を伝え、運命の出会いを果たすはずだった。
「あの……私、白崎香織って言います。覚えているかな? この前、商店街の路地裏で……おばあさんとお孫さんを助けてくれたでしょう? 私、あの時ずっと見ていて——」
初対面を装い、意を決して可憐に微笑みながら準備していた言葉を口にしようとした香織。
ハジメはぽかんと香織の顔を見つめ、前髪をかき上げながら「ん〜……?」と首を傾げた。
「商店街……あー! あの時のコロッケの時のギャラリーの子!?」
ポンと手を打ち、ハジメは「うわ懐かし〜!」と表情を輝かせた。
「てか顔良っっ! めっちゃリアル美少女じゃん! え、てか傘ちっちゃくない? あーしの傘に入んなよ! 立ち話もアレだしさ、なんか奢ってあげるから行こー!」
思い出してくれた感動に浸る暇もなく、ハジメは持ち前のギャル特有の軽いノリとパーソナルスペースゼロの距離感でぐいぐいと詰め寄ってきた。
「えっ、あ、え……!? あのっ……!?」
自分の肩が触れそうなほど近くに寄られ、腕を引かれそうになり、香織の思考回路は完全にキャパオーバーを起こした。数百回に及ぶ脳内シミュレーションのどれにも存在しないハジメの爆発的な勢いに、香織は目を白黒させてただただ動揺するしかない。
(えっ、待って、恩着せがましくないように照れ隠しで『別に大したことしてねぇし』って渋い顔をする予定じゃ……!? なんでこんなにフレンドリーなの!? 距離、距離が近いよハジメちゃん……っ!)
パニックになりかけた香織だったが、至近距離で見つめてくるハジメの真っ直ぐな瞳に射抜かれ、すぐに(……そっか! あんなにかっこよく助けてくれたのに、恩着せがましくしないために、あえてギャルっぽくおどけて見せてるんだ……!)と、ひとまず脳内変換して自分を落ち着かせようとした。
……しかし、それからのふたりの交流を通して、香織は知ることになる。
「白崎ちゃんって案外抜けててウケる〜! もっと自分に自信持ちなよ!」
カフェでドリンクを飲みながら、まったく悪びれもせず、作られた「優等生」ではないありのままの自分にゲラゲラ笑いかけてくるハジメ。
(……あっ、これ……照れ隠しでも演技でもなんでもない……! 素でこの性格なんだ……っ! 私、なんであんな重苦しいシミュレーションばっかり重ねてたんだろう……!?)
己の壮大な勘違いに気づき、香織は内心で恥ずかしさのあまり悶絶した。
だが、同時に心の中の重い呪縛がガラガラと崩れ落ちていくのも感じていた。
周囲から勝手に「完璧な美少女」という偶像を押し付けられ、拝まれるばかりだった自分を、ハジメは拍子抜けするほど自然体に、ただの「ひとりの女の子」として気さくに扱ってくれる。裏も表もないそのカラッとした明るさと温かさに、触れれば触れるほど香織の心は救われていったのだ。
出会ってしばらく経った頃、最初は「白崎ちゃん」だったハジメの呼び方が、自然と「香織」へと変わった。
何気なく名前を呼び捨てにされたその日、香織は嬉しさのあまり一晩中ベッドで悶々として眠れなかったほどだ。壁を取り払い、本当の自分を名前で呼んでくれた。ハジメと自分の心が、確かに深く繋がったのだと感じた瞬間だった。
そんなある日、人込みで賑わう駅前の雑踏を歩いていたときのことだった。
「あ、香織迷子になんじゃないよー」
ハジメがごく自然に、キュッと手を握ってきた。
その瞬間、香織の背筋を甘い電撃が駆け抜けた。
ふにゃりと柔らかく、触れた手があの日見つめた通り小さくて温かいことを知った。こんなにも小さく華奢な手で、あの日ハジメは恐怖と戦いながら誰かを守ろうとしていたのだ。
(ああ……好きだ。私、ハジメちゃんのことが好き……。ハジメちゃんの特別になりたい)
勝手な偶像視ではなく、ハジメの「素の魅力」と「隠された弱さ」のギャップに真に撃ち抜かれた想いは、いつしかドロドロとした深い執着へと変わっていった。
そんな折、ハジメと一緒にいる姿を見かけられたことで「白崎さんが夜遊びをしている」という大げさで不穏な噂が学校に流れてしまった。大慌てした光輝の早合点から親友の雫に心配されてしまったが、香織はハジメの素晴らしさを熱弁。後日、雫にハジメを直接紹介した。
最初は警戒していた雫だったが、ハジメの破天荒で裏表のない人柄と真っ直ぐな根っこに触れ、「なるほど、良い子じゃない」とあっという間に意気投合。それからは香織、ハジメ、雫の3人で集まる放課後が日常となっていった。
ハジメの適当でマイペースな言動に雫が容赦なくツッコミを入れ、香織がハジメへの愛を爆発させる——そんな賑やかで少し呆れつつも温かい交流をしばらく続けていた香織たち。親友にもハジメの良さが伝わり、これでハジメの特別な存在になる準備は完璧だと、香織は大満足していた。
——そしてある日。
いつものファミレスで、ハジメと雫と3人でテーブルを囲んでいたときのことだ。
ハジメが「あ、そういえばもう一人来るから〜」と軽い調子で言った直後、ボックス席の前で脚を止める影があった。
ハジメの視線の先を見やると、そこにはだるそうに頭を掻き、「……いや、これなんの集まりだよ……」と呆れ顔で呟く、見知らぬ同い年くらいの男子生徒が立っていた。
(……誰、この男……?)
香織の思考が瞬時に冷え切っていく。
ハジメの凄さも、あの日に見せた「震える手の愛おしさ」も、自分が苦心して調べ上げたストーキングの労力も、雫を通してじっくり築いてきた今の日常すら何一つ知らなさそうな、どこにでもいるただの男。
ハジメはその男を「清水」と親しげに呼び、当たり前のように自分たちの空間へ招き入れようとしている。
自分が必死で築き上げてきた完璧な聖域に、土足で足を踏み入れようとする不確定要素。
香織の胸の底から、暗く冷たい嫉妬と狂気がふつふつと湧き上がってきた。
香織は貼り付けたような完璧な笑顔を浮かべたまま、瞳からスッと光を消した。
消え失せた温度とともに、テーブル越しにその男——清水へ向かってぬるりと身を乗り出し、静かに問いかけたのだ。
「……君は、ハジメちゃんのなんなのかな? かな?」