魔法少女ヨルティナ〜貴女に言えなかったこと〜 作:オーギュストめろん
暗い、最初にそう思った。
何も見えない。目を開けているのか閉じているのかも分からない。闇がまぶたの裏まで染み込んでくるのを感じる。息を吸うたびに肺が縮こまるようだった。
やがて闇に目が慣れると、薄汚れた壁と床、部屋に置かれたベッドの輪郭が浮かび上がった。太ももにまとわりつく水気。淀んだ空気は古い脂と獣の体臭が入り混じっている。そして、喉の奥にこびりつくのは、甘く苦く腐った臭い。
薄暗い部屋の中で後ずさる。靴下も履いていない足の裏が床を擦り、ザリザリとした乾いた音が暗闇に響く。一歩、もう一歩と後ろへ下がったところで、何かを踏んだ気がした。ゼリーのような粘着性のある液体、それが何なのかを確かめる余裕はなかった。ただ、吐き気が込み上げてくる。
背中が何かにぶつかった。冷たく、硬く、逃げ道を塞いでいる平らな感触。それは扉だった。手探りでドアノブを掴むと、金属が汗ばんだ掌に張りつく。だが、力を込めても錆びついたような嫌な音がしただけで、扉はびくともしなかった。
「……出して」
声が震えている。自分の声のはずなのに、壁に反響するかのように遠くから聞こえるようだった。もう一度、力を込める。
「出して、くださいッ。私を、あの人の所へ帰してください……!」
ドアノブは回らない、扉は固く閉ざされている。少女は、ヨルティナは拳で扉を叩いた。
「……社長ッ!」
扉の向こうから返事はない。だが、背後の暗闇で、ぐちゃりと何かが先程の液体を踏みつけたような音がした。
「ひっ……!?」
怖気が身体中を駆け巡り、空いている手の爪先で扉を掻きむしる。
「……開けてッ、開けてください!!」
背後から重い足音が聞こえてくる。低く濁った息遣いが近づいてきている。振り向きたくない、見たくない。それなのに、自分の身体は勝手に振り返ってしまう。
暗闇の中に、歯が見えた。湿った唇の隙間から覗く黄ばんだ歯だ。そして、醜く吊り上がった口元と深緑色の肌が暗闇でおぞましく揺らめき、脂肪に埋もれた目が悪意に満ちた愉悦で細められる。
何がおかしいのかは、分かっている。抵抗する自分、怒りの声を上げる自分、怯える自分。情けなく喘がされる自分。そのすべてが、目の前の存在にとっての娯楽なのだ。その笑みが、暗闇よりも恐ろしかった。
太い腕が迫るたび、何をされるのか分からない恐怖が胸を締めつける。なぜ自分が、なぜ、こんなものに。
「この……ッ!」
声は掠れている、魔法契約で縛られた身では抵抗すらできない。そして、またアレがまた始まるのだ。その予感だけで、喉の奥から吐き気がせり上がる。そのはずなのに、もう身体は、自分ではどうすることもできないところまで蕩けていた。
「この、下劣な豚……ぁ゙あ゙あ゙あ゙ッ!」
それでも心だけは堕ちてないと、もがくために吐き捨てる。怒声が狭い空間に反響した。
「オ…ホ扱い……するなぁ……ぅ゙、ぎゅぅ゙ぅ゙ぅ゙ぅ゙ぅ゙ッ!!?」
声が掠れていく。物のように扱うな、たったそれだけの言葉は形にならず、オークによって獣のような呻き声に変えられる。
濁った水の音と豚のような笑い声が大きくなっていく。
「やめでッ、やめで、ぐだざ……ぃ゙ぃ゙ッ!!」
声が懇願へ変わる。腹の底から、壁から、天井から、耳元から、不快な音と声が押し寄せては重なり、濁った波になって頭に染み込んでくる。
パキッ、と何かの砕ける音がしたのは、その時だった。ヨルティナの胸元から、金色の光が零れ出す。
「……え?」
光は幾重もの亀裂になって衣装を走り、その筋は瞬く間に全身へ広がっていく。そして、金色だった長い髪から輝きが抜け落ち、夢が現実に塗り潰されるように、見慣れた茶色へと戻っていく。ヨルティナという魔法少女、その最後の輪郭が剥がれ落ちる。
「いや……いや、です」
やがて光は消え去り、そこにいたのは、ただの山田夜子という少女だった。喉が震えて、さっきまでの怒りすら、急速に萎んでいく。オークは笑っている。先ほどまでと同じ笑みのはずなのに、その目がひどく恐ろしく見えた。
「は、離してッ、離しなさい!!」
どうやって抜け出したのか。自分でも分からず夜子はオークの腕から逃れて、ドアにすがりつく。いくら押しても、引いても、びくともしないドアの向こう側に夜子は叫ぶ。
「社長ッ……来てくださいッ、ここを開けてくださいッ、助けてくださいッ! 必ず助けてくれるって約束したじゃ、ないですかッ!」
こんなことを言う自分を夜子は知らない。「助けて」と口にした自分自身に、夜子は一瞬だけ怯んだ。魔法少女になってから、その言葉を誰かへ向けたことなど、ほとんどなかった。自分は完璧な魔法少女なのだから、助けられるのではなく、助けるためにあるのだから。そんなプライドも投げ捨てて、今はみっともなく扉を叩く。一度、二度、三度、それでも返事はない。
「お願い、ですから……」
何度呼んでも、ドアの向こう側は静かなままだった。その沈黙が、何よりも恐ろしい。散らかった事務所で困ったように笑う人、自分の名前を呼んでくれる人、こんな自分を受け入れてくれた人。あの人への想いと、背後のオークへの恐怖が入り混じり、指が震え、涙で視界が滲む。
「こんな私を、見捨てないで……かつのり、さん」
必死の呼びかけも虚しく、おぞましい吐息が、背後から首筋に触れた気がした。
「――ッ!!?」
その映像を最後にして、夜子は跳ね起きる。肺が空気を求めて、何度も深い呼吸を繰り返す。心臓の音がうるさい、まだ夢の中の足音が鼓膜にへばりついている。
ここは、あの部屋ではない。見上げた白い天井には見慣れた照明がぶら下がり、清潔なベッドの上で、自分は仰向けになっている。大丈夫だ、ここは自分の借りているマンションの一室で間違いない。
「……はっ……はっ……はぁッ」
額から嫌な汗が流れている。寝間着がべったりと背中に張りつく。足の裏には濡れた床の感触が残っているようで、掌は扉を叩いた痛みを実際の出来事のように覚えている。
「……夢、ですか」
声に出して確認する。あそこに自分はもういない。オーク事務所にも、あの部屋にも。もう戻らなくていい。分かっているはずなのに、身体が震えた。腹の奥から、じわりと寒気が広がってくる。自分で自分の身体を両腕で抱きしめる。
ネムラの治療を受けてから数日が経っている。身体の調子は確かに上向いていた。身体を蝕んでいた熱は薄れ、魔力の流れも穏やかになった。体調ははっきりと良い、それなのに夢で見た閉ざされた扉のイメージが消えない。肉体の回復に精神が追いついていないのだろうか。
「……困りましたね。もう眠れそうもありません」
夜子は両手で顔を覆った。ただの悪夢だと、そう片づければいい。それなのに、胸の奥に残るものだけは誤魔化せなかった。傷は治せばいいが、刻みつけられた記憶までは魔法で洗い流せない。あの恐怖が頭の奥にこびりついている。
ベッドから起き上がり、夜子は膝を抱えて、時計を見た。窓の向こうには、マンションの灯りが暗闇の中に並んでいる。一人きりの部屋の中はひどく静かだった。以前なら何とも思わなかった静けさが、今だけは恐ろしい。もう一度眠れば、またオーク事務所の夢を見てしまう気がした。ふるふると頭を振ってから夜子は、スマートフォンを手に取る。
「……勝乗さん」
連絡先を開き、その名前を見つけたところで指が止まった。こんな時間に何を連絡するというのか。怖い悪夢を見ました、とでも伝えるのか。勝乗はヨルティナがオーク事務所にいた期間に、何をされたのかを知らないはずだ。その後遺症で、自分が今もネムラの治療を受けていることも、伝えていないのだ。
「……言えるはずがありませんね。これ以上、あの人に余計なものを背負わせる必要はありません」
夜子は電話のアイコンから指を離した。画面には、まだ宮坂勝乗の名前が残っている。少しの間、それを見つめてから、やがて逃げるように画面をスクロールした。
夜子の連絡先に登録されている番号は多くない。仕事関係の人間と数少ない知人くらいだ、もともと交友関係が広い方ではない。指先でゆっくりと名前を追っていく。すると、意外な人物の名前で指が止まった。
なぜ、その相手なのか。自分でも分からなかった。別れ際に見た顔が、心の中に強く残っていたからかもしれない。一瞬だけ見えた、寂しそうな笑顔だった。夜子はしばらく迷った末、その番号を押した。
呼び出し音が鳴る。二回、三回と鳴らすが、出ない。
「…………」
構わずに続ける。六回、九回、やはり出ない。固定電話しか持っていないらしいので、外出しているのかもしれない。切ろうかと思ったが、指が動かなかった。十回を過ぎても、コール音だけが続く。夜子はスマートフォンを耳に当てたまま、膝へと視線を落とした。
「……寝ているのかもしれませんね」
それでも、切れなかった。いつもなら、こんなことはしないのに今夜の自分はおかしい。やがて二十回目だっただろうか。ぷつり、と音が変わった。
『うぅむ……。こんな時間にどうしたんだい』
ひどく気怠そうな声だった。電話の向こうから、小さな欠伸と、布団の中で身じろぎするような衣擦れの音まで聞こえてくる。どうやら本当に寝ていたらしい。しかも、起き上がる気配すらない。夜子はわずかに眉をひそめた。
『君にしては珍しいじゃないか、エルシャ?』
「…………」
夜子は一度だけ息を吸った。
「エルシャさんではなく、私ですよ。ネムラ」
『…………』
一瞬、電話の向こうが静まり返る。
「もしもし?」
『いや、少し驚いただけだよ。君から電話が来るとは思わなかったからね、ヨルティナ』
衣擦れの音がした。ソファかベッドなのかは分からないが、ネムラがようやく身体を起こしたらしい。
「……私も、掛けるとは思っていませんでした」
『くくっ、それはまた奇妙な話だね』
「笑わないでください」
『ああ、すまない』
わずかにネムラの声が楽しげだった。きっと、電話の向こうではいつもの気怠げな笑みを浮かべているのだろう。寝起きだというのに、返ってくる言葉には淀みがない。どこか気怠く、それでいて妙に理路整然としている。いつものネムラだった。その変わらぬ様子が、今は不思議とありがたかった。
『それで、何があったんだい?』
「……その、えっと」
口を開いたが、すぐには言葉が出なかった。なぜ、ネムラに連絡したのか、自分でも分からない。だが、せっかく繋がったのだから、少しでも気になっていることがあれば、確認しておいてもいいだろう。
「そうですね、次の治療日は決まりましたか?」
『……次の、治療日かい?』
少し間を置いて、意外そうな声が返ってきた。こんな時間に電話をしてきた理由としては、いささか唐突に感じたのだろう。少し疑問を感じたようだったが、ネムラは聞き返すこともなく、そのまま話を進める。
『おおよそは決めているが、正式な日程はまだだよ。魔法による治療を施した後は、ある程度の期間を空けた方がいいからね』
「そうなのですか?」
『立て続けに術式を施せば、君の身体への負担が増える。魔法による治癒も、本人の回復能力を土台にしているのは変わらないんだ。急げばいいというものでもないさ』
「そうですか」
説明を聞きながら、夜子は空いた手で自分の腹部を押さえた。服越しでは何も分からない。
「……私の生殖機能を回復させる方法は、どのようなものになるのでしょう?」
『ん、基本的には魔法薬を使うつもりだよ』
今度は、ほとんど間を置かずに答えが返ってきた。すでに今後の治療方針として考えていた内容なのだろう。ネムラは眠たげな声のまま、決めていた手順を説明するように続けた。
『実のところ、エルフ用の治療薬は未完成ながら既に存在している。今はそれをベースに、人間用へ改良している途中だ』
「そのままでは使用できないのですか?」
『理論上は有効な可能性もある。だが、安全性を確認していない薬を君に使う気はない。種族が違えば、身体構造も魔力の循環経路も違う。既存の薬をそのまま君に試すほど、私は無責任なエルフではないよ』
「……分かりました」
会話は再び途切れる。治療について尋ねたいことは、もうない。それでも電話を切りたくなかった。耳元から誰かの声が聞こえなければ、また部屋の静けさに震えなければならなくなる。それが嫌だった。夜子は纏まらない考えを巡らせながら、口を開く。
「ネムラ」
『次はなんだい?』
「今は、何をしているのですか?」
夜子が問いかけた直後、電話の向こうで、かすかに続いていた物音が止まった。紙をめくる音も消え、ほんの短い沈黙だったが、ネムラが手を止めたことだけは分かった。
「ネムラ?」
『ヨルティナ、君……』
何かを確かめるように、ネムラはゆっくりと夜子の名を呼んだ。先ほどまでの軽い調子とは違い、ネムラの声にはわずかに訝しむような響きが混じっている。
『まさかとは思うが、人の声が恋しくて、私へ電話を掛けてきたわけじゃないだろうね?』
ピクリと、スマートフォンを持つ夜子の手が動いた。そんなつもりはない、とは言い返せなかった。質問事項が尽きたはずなのに通話を切らず、どうでもいいことまで訊ねているのだ。ネムラの問いに対して、上手く取り繕う言葉が見つからない。
『その長い沈黙は、肯定だと受け取っておこう』
電話口の向こうで、小さくため息をつく音がした。呆れたようでもあり、困ったようでもある気配だ。ネムラはそのまま一拍置いてから、少しだけ声の調子を落とす。
『すまないが、私も暇ではないんだ。誰かの声を聞きたいだけなら、別に私である必要はないだろう?』
「ッ……そう、ですね」
当たり前のことを、当たり前のように指摘される。思っていたよりも、淀みない言葉は胸に刺さった。自分でも意外なほど、返答代わりに漏れた声は小さい。やはり迷惑だったのだろう。当然のことである、夜中にわざわざ電話するような用事ではないのだ。夜子は俯いたまま、電話を切ろうとしたが、その前にネムラが言葉を続ける。
『……そもそもだ。君が本当に声を聞きたかった相手は、私ではないのだろう?』
「――!」
夜子の瞳が大きく開かれる。ネムラの声を聞いて、少しだけ落ち着けたのは本当だった。こうして話している間は悪夢の残滓からも遠ざかっていた。けれど、ネムラに言葉にされて、自分で見ないふりをしていた答えが形を持った気がした。夢の中で必死に呼んだ名前は一人だけで、自分が本当に聞きたかった声は、やはりあの人の声なのだ。
『まあ、今日のところは特別に君が眠れるまで、私がこのまま話し相手になってもいいけどね。それで、どうする?』
「……いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
『どういたしまして。ああ、電話をするのが億劫なら、君たちの事務所を訪ねてみるといい。まだ部屋の灯りは落ちていないようだ、彼は今も事務所にいるかもしれないよ』
電話の向こうで、雫が水面に落ちたような音が鳴っている。静かな夜でなければ、聞き逃していたような小さな音。ネムラが探知系の魔法を使ったのかもしれない。もしそうなら、遠く離れた事務所の気配を探ったのだろうか。プライバシーも何もあったものではないが、今の夜子にはありがたかった。
『じゃあね、ヨルティナ。お大事に、だ』
「ええ、またね、です。ネムラ」
数日前の別れの挨拶をお互いに入れ替える。くすり、と電話口でネムラが笑ったような声がして電話が切れる。先ほどまで身体の奥にこびりついていた冷たいものが、ほんの少しだけ薄れていた。スマートフォンを下ろし、画面を見る。画面をスクロールすれば、すぐに彼の名前が出てくるだろう。だが、今度も電話は掛けなかった。
代わりに、夜子はベッドの脇のハンガーラックに掛けてあった服へ手を伸ばした。勝乗に何を話すかは、まだ分からない。そもそも、会ってどうしたいのかさえ、はっきりしていない。ただ、声を聞きたかった。
たったそれだけの思いを胸にして、静かな部屋をあとにした。向かう先は、トワイライト事務所だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ネムラの言ったとおり、トワイライト事務所には、まだ明かりがついていた。階段を上がり、事務所のドアから漏れる光を確認した瞬間、夜子は小さく息を吐いた。
あの人がいる、その事実だけで胸の奥がほのかに温かくなる気がした。少しだけ、話をしてから帰ろうと廊下を歩く。彼には働きすぎだと注意して、自分は何でもない顔をして、いつも通りの話をすればいい。そう思って、夜子がドアノブへ手を伸ばすと、部屋の中から勝乗の声が聞こえてきた。
「この願いが……どうか、僕の愛する人が未来へと進むための力になりますように」
心臓が高鳴った。ドアノブに触れる寸前で指が止まる。愛する人という言葉が、その単語だけが頭の中で何度も反響する。聞き間違いではない。勝乗の声を、夜子が聞き間違えるはずがなかった。こんなところで、あの人は何を言っているのだろう。頬が熱くなっていく。耳まで熱を持っているのが、自分でも分かった。
けれど、そんな感情とは裏腹に、今の言葉がそもそも自分に向けられたものなのだろうかと弱った心が疑っている。勝乗が愛している人間が自分だという保証など、どこにもないのだ。都合よく、自分に向けられた言葉だと思い込んでいるだけではないのか。傷ついた心はまばゆい光を見つけた瞬間ほど、その裏側を探ってしまう。
「……そして、ヨルティナが独りで戦わなくていいようにしてみせる」
「ーーーーッ!」
肩が跳ねて、夜子は俯いていた顔を反射的に上げる。立ち聞きしていることに気づかれたと、そう思った。だが、扉の向こうから足音は近づいてこない。勝乗はただ、独り言の続きを口にしただけのようだった。
夜子の瞳が揺れる。さっきまで膨らんでいた疑念が胸の中で消えていくのを感じる。あの人が口にしたのは自分の名前だった、魔法少女としての、自分の名前だった。
「今度こそ、僕が夜子を守らないと……。そのためにも、新しい子が事務所に来てくれるように、明日からも頑張らないとなぁ……」
夜子は胸元で、両手をぎゅっと握りしめる。
「かつのり、さん……」
視界が滲み、一筋の涙が頬を伝うのを感じる。慌てて指先で拭ったが、次から次へと目から溢れてくる。悲しいわけではない。むしろ、胸の奥にあった冷たいものが、ゆっくりと溶けていくような雪解けの涙だった。
ヨルティナと夜子、あの人はその両方を呼んでくれた。魔法少女として戦う自分だけではない。ただの夜子のことまで守りたいと、そう言ってくれた。
『こんな私を、見捨てないで』
悪夢の中で、閉ざされていた扉を思い出す。何度叩いても開かなかった、どれほど名前を呼んでも、答えてくれなかった。あのとき必死に求めた人が、今は扉一枚向こうにいる。それだけで、胸がいっぱいになった気がする。あの人はずっと、ヨルティナも夜子も見捨てずに戦ってくれていたのだ。声が漏れそうになり、夜子は口元を手で押さえた。
このまま帰ろうかとも思った。今なら、勝乗は自分がここにいることを知らない。この温かさだけを持ち帰っても、自分は十分に満たされている。
けれど、ドアを見つめたまま、夜子は動かなかった。もう少しだけ声を聞きたいと思った。今度は扉越しではなく、あの人の声を同じ部屋で聞きたかった。こんな時間にわがままだろうか。
「……そんなこと、知りません。私があの人と話したいんですから、それ以外に理由は必要ありません」
夜子は頬に残った涙を丁寧に拭った。表情を整えて、ゆっくりと息を吐く。大丈夫、何も聞いていなかったことにすればいい。何も知らない顔をして、いつものように冷静を装って、あの人の目を見ればいい。
夜子はドアノブへ手を伸ばす。今度は止まらなかった。扉が開いた。事務所の明かりが、廊下へ細長く伸びる。
「よ、夜子!?」
「はい、夜子です。こんな時間まで残業ですか? 仕事のしすぎですよ、勝乗さん」
こちらへと振り返った勝乗の顔に浮かんだ驚きを見て、夜子はほんの少しだけ安心した。やはり、気づかれていなかったらしい。自分が今夜ここに来た理由も、扉の前で泣いていたことも、この人は知らなくていい。
勝乗は、しばらく呆けたような顔で夜子を見ていた。
「む、何ですか?」
「いや、その……。こんな時間に来るなんて、珍しいなと思って」
「今夜はそういう気分だったんです。せっかく私が来たわけですし、残りの仕事は明日にして、少しだけお話しませんか?」
「うん、構わないよ。ちょうど僕も一区切りついたところだし」
「一区切り、ですか?」
夜子が小さく首を傾げる。
「ああ。ちょっと待ってて」
勝乗は机の方へ戻ると、置いてあったノートパソコンを持ち上げた。その外装の角に、夜子は見覚えのない傷を見つける。細く削れたような跡、以前にはなかったはずだ。いつの間についたのだろう。少し気になったが、今は訊かなかった。
勝乗はノートパソコンを抱えたままソファへ腰掛ける。それから、空いている隣の座面を手のひらで、ぽんぽんと軽く叩いた。
「ええ、分かりました」
夜子は迷わず隣へ向かう。そして、そのまま勝乗のすぐ隣へ腰を下ろした。肩と肩が、自然に触れ合う。
勝乗の身体が、ほんの一瞬だけ固くなった。夜子が横目で見ると、頬がわずかに赤い。
「どうしました?」
「いや、何でもないよ」
「そうですか」
夜子はそれ以上追及しなかった。それ以上何も言わず、触れた肩をそのままにした。そのまま肩を触れ合わせたまま、勝乗が開いたノートパソコンの画面を二人で覗き込む。表示されていたのは、トワイライト事務所の広告ページだった。
「新人募集の広告を更新してたんだ。さっき、ようやく掲載できてさ」
勝乗は少しだけ照れたように笑った。
「よければ、一緒に見てくれないか?」
「もちろん、構いませんよ」
夜子はそう答えて、画面へ視線を戻す。二人並んで、同じ広告を見る。新しい魔法少女を迎えるための文面、勝乗が画面をスクロールするたび、夜子も隣から覗き込み、ときおり小さく相槌を打った。
肩は触れたままだった。どちらからも離れようとはしなかった。窓の外では、夜の街が静かに眠り始めている。雲の切れ間から差し込んだ月の光が、ソファに並ぶ二人を淡く照らしていた。
いつもと変わらない様子の勝乗を見て、夜子はほんの少しだけ口元を緩めた。
怖くなったときに、思い出す声がある。戻ってきたいと思える場所がある。扉の向こうに、いてほしい人がいる。
今夜はそれだけで十分だった。室内灯の暖かな色と、窓から差し込む淡い月明かりが、二人の姿を重ねるように照らしていた。