魔法少女ヨルティナ〜貴女に言えなかったこと〜 作:オーギュストめろん
何度目かのネムラの治療を受けた日の昼下がり、ヨルティナはエルシャの喫茶店へ向かっていた。
身体の奥にはまだ、ネムラの治療による青い魔力の名残があった。そのおかげなのか、神経の奥で蠢いていたような疼きは遠くなり、下腹部を支配していた熱も、今は水で冷やされたように落ち着いている。身体は驚くほど軽い。そのため、気持ちはずいぶんと楽だった。
角を曲がると、レンガ調の外壁に深い緑の蔦が絡んだ店が見えてきた。店の外に置かれた丸い鉢には、スイレンが太陽の光を細く照り返している。扉に手をかけると、磨かれた木のぬくもりが指先に伝わり、開いた扉の向こうで柔らかなベルの音が響く。
店内に入ると、焼き菓子とコーヒー、紅茶の香りがそれぞれ微かに感じられた。ホッとしたような気持ちが胸の奥から湧いてくる。食器を動かす音や客の話し声は賑やかで、大きな窓から差し込む光が木製のテーブルに艶めきを与えている。当然だが、ネムラの研究所の湿っぽさとは正反対の雰囲気だった。
「いらっしゃい、ヨルティナちゃん」
カウンターの奥で、エルシャが顔を上げた。赤みがかったハニーブロンドの髪が、店の照明を受けてサラリと光る。
「今日は一人なのかしら?」
「はい、社長は今も山積みの書類と格闘していると思われます」
「あはは、勝乗くんも大変みたいね。じゃあ、せっかくだから、ヨルティナちゃんは勝乗くんの分もゆっくりしていきなさい」
エルシャは楽しそうに笑った。
その笑みには、少しだけこちらを気遣うような柔らかいものが混じっていた。ヨルティナはそれに気づいたが、特に指摘しない。案内されたのは、周囲のテーブルから少し離れた窓際の席だった。他の客の視線が、時折こちらへ流れてくる気配がした。
「今日もネムラのところに行っていたんでしょう。アイツの魔法は効くけど、どうしても気疲れはしちゃうから、のんびり食事でもしながら休んでいってね」
エルシャの言葉にヨルティナは少しだけ目を細める。
どうやら、こちらの行動はお見通しらしい。金髪のエルフは軽く微笑んでから、厨房へ戻っていった。今日の店は以前のように貸し切りではない。そのため、店内は亜人の常連たちで賑わい、様々な亜人言語が飛び交っていた。その喧騒の中で、テーブル席から離れた窓際の席だけが少しだけ静かだった。
「おお、お待たせしました! ご、ごゆっくり──!」
しばらくすると、注文した料理を店員が持ってくる。
喫茶店の制服をきっちりと着こなした黒髪の少女が、見るからに緊張しながら料理の皿をテーブルに置いたかと思うと、厨房へと一目散に去っていった。ヨルティナはその姿を無言で見送った。勝乗とデートで来た時にもいた店員のような気がするが、あんな感じだっただろうか。
「まあ、いいでしょう。挙動不審な店員が一人いたところで、料理の味には関係ありませんし」
ヨルティナの目の前には、昼食のプレートとスープが置かれている。香草を利かせたチキンに、柔らかく煮込まれた温野菜、小さなパンが添えられていた。そして、きのこのクリームスープの器からは温かな湯気が立ち昇っている。
「社長も一緒に来れたら良かったのですが、こればっかりは仕方ありませんね。次は改めて、二人で来ることにしましょう」
そうして、ヨルティナが静かに食事を進めていると、店の扉が開いて、ベルの音が鳴った。また新しいお客が来たらしい。席は全て埋まっており、繁盛しているというのは本当のようだ。
すると、ざわざわと周りのテーブルが少しだけ騒がしくなる。
『おい、めちゃくちゃ可愛い魔法少女の次は……だ』
『たまにこの店で見かける子だよ。恐れ多くて、話しかけたことはないけど』
『店長だけじゃなくて、来る娘も皆レベル高いのな』
「……なんですか、騒がしいですね」
食事中とはいえ、気になったので入り口へと視線だけ送る。
店に入ってきたのは、小柄なエルフだった。身に着けているのは、白を基調にしたドレスのような服。良い生地を使っているのだろう。その純白は淡く透けるような印象を与え、見る者を惹きつける。
肩の部分は開いており、どう繋がっているのか、薄い布が袖の代わりのように腕へ流れている。透明な布地はエルフの白い肌を肘のあたりまで包み、広がった袖口だけがまるで氷の薄片のように揺れていた。
ふわふわとウェーブを描いた長い髪。左右から一房ずつ編み込まれ、後ろでまとめた結び目に白いリボンが一つ、こちらも可愛らしく付けられている。尖った耳が髪の隙間から覗き、耳の横には淡い紫のサングラスがかかっていた。離れた席からではレンズの奥の目元までは見えない。
「むぅ……やはりエルフはビジュアル的には強敵ですね。エルフの魔法少女がいないのが救いです。まあ、私は容姿でも人気でも負けるつもりはありませんが」
どこかの研究者のせいで忘れかけていたが、基本的にエルフは全員が美形である。魔力に溢れ、外見的には永遠の若さを保つ種族。亜人同士であれば、魔力を介して年齢が分かるそうだが、この世界の人間には判断できない。その気になれば、女性のエルフは全員が魔法少女として売り出せるのである。そんなことをされたら、人間の魔法少女業界はかなり苦しくなるだろう。
そんなことを考えながら、ヨルティナは手元の食事に戻る。
小柄なエルフは店内を一度だけ見渡し、カウンターへ寄った。カウンターにいたエルシャが何かを言い、ヨルティナの方を指さす。
小柄なエルフは肩をすくめ、窓際へ歩いてくる。ドレスの裾と、白い靴が昼下がりの光に輝いている。じっとヨルティナが見つめていると、そのエルフはヨルティナと同じテーブルの向かいの椅子を引き、断りもせずに腰を下ろした。その清楚な見た目からは遠い、沈み込むような座り方である。
そして、エルフの青い瞳がヨルティナに向けられる。サングラスをしていても、ここまで近ければ目の色は隠れない。
「なんだ、君もここに来てたのか」
「……?」
「いや、無視はひどいんじゃないかな」
ヨルティナは、フォークを持ったまま止まった。見知らぬエルフが自分に話しかけている。しかも、面識がある前提の口調である。だが、自分の記憶の中には、目の前にいるような上品な雰囲気のエルフはいない。
「……失礼ですが、どちら様ですか」
カウンターの向こうで、エルシャが楽しそうに目を細めている。その小柄なエルフは、エルシャを一瞥するとサングラスの奥で半眼になった。
「私だ」
「……私、とは?」
「ネムラだよ。さっき会ったところだろう、私の顔を忘却するには少しばかり早くないかい?」
「……はい?」
ヨルティナは、もう一度、目の前の少女を見た。
腰まで伸びた青い髪、眠たげな目元と小柄な体格。要素を並べると、確かに研究室の主と重なる。ただし、研究室で見た時には一度も櫛を入れたことがなさそうだった青髪は綺麗に整えられ、目元のクマも目立たず、薄汚れた白衣はシフォン生地のようなドレスに変わっている。
妙に育ちのよさそうな立ち姿と、あの研究室の中の姿を、頭の中で重ねるまでに、ヨルティナは時間がかかった。
「いえ、単純に詐欺では?」
「第一声がそれなのかい」
「ネムラは、もっとこう……研究室の奥で怪しげな液体を混ぜながら、『ふふ、興味深いねぇ』とおとぎ話の悪役魔女のような台詞を、平然と口にしている存在のはずです」
「君、私に対して本当に遠慮がないな」
ネムラは口元だけで笑った。
その笑い方だけは、間違いなく研究室で見たネムラと同じだった。ヨルティナは納得しきれない顔で腕を組むと、カウンターからエルシャが顔を出した。
「勝乗くんは何か言ってなかった? この店にネムラはよく来るから、彼はネムラと何度も顔を合わせているはずだけど」
ヨルティナはわずかに目を見開いた。
「むぅ、社長はネムラと顔見知りだったのですか」
「店員と客の関係、つまりはこの店で顔を合わせたことがある程度だがね。君が危惧するような繋がりはないよ」
ヨルティナは改めてネムラを見る。
先日、ヨルティナが勝乗に尋ねたときに、勝乗はネムラのことを知らないと言っていた。だが、勝乗は嘘をついたわけではないのだろう。この姿のネムラを見て、ヨルティナが説明した「ボサボサ髪の白衣の研究者であるネムラ」と結びつけろという方が無理だ。
エルシャは厨房の方へ軽く声をかけると、水の入ったグラスと紅茶を持ってくる。そして、当然のように二人と同じテーブルへ腰を下ろした。どうやら店をアルバイトに任せて、自分は話に混ざるつもりのようだ。
「どうどう? 白衣を脱ぐと、ネムラもちゃんと女の子に見えるでしょ?」
「ちゃんと、とはなんだ。私は普段から麗しき知性派エルフだよ」
「何を言ってんのよ。白衣の時は寝不足の怪しい地下研究者にしか見えないくせに。ねぇ、ヨルティナちゃん?」
「はい」
「ヨルティナ、君までエルシャ側につくのか」
「私は事実側についています」
「主観的な印象を事実認定するのは止めたまえ」
軽口を交わし合う魔法少女と青髪エルフ。背筋を伸ばして座るヨルティナに対して、ネムラは私服姿でも椅子に沈み込むような座り方をしている。その姿勢は研究室の回転椅子に座っている時と同じだった。当たり前のことだが、姿は違っても中身は変わっていない。ちらりと確認すると、先日の痛々しい腕の傷は無くなっていた。ヨルティナはそんなネムラを見て、少し安心する。
「それで、ネムラはどうしてここに?」
「エルシャに呼ばれたんだよ。たまには外の空気を吸え、だとさ。三日前にも外出はしてるのだけどね」
「正しい判断です。ネムラは放っておくと研究室で干からびてそうですから」
その間、近くの席に座っていた獣人の青年が、ちらりとこちらを見ていた。耳がわずかに動いている。たぶん、会話の半分くらいは聞こえているのだろう。隣の席の羽根のある女性が、青年の足を軽く蹴る。聞き耳を立てすぎるな、という合図らしい。青年は慌てて自分の皿に視線を戻した。
亜人が多く利用するこの店でもエルフと魔法少女は珍しい。そのため、ヨルティナとエルシャ、ネムラが同じテーブルについている光景はかなり目を引くらしい。しかも、それぞれが見目の麗しい女性であれば、尚更のことである。
エルシャだけはそんな周囲の視線に気づいていたが、反応を気にする様子もなく、ネムラの前に紅茶を置いた。
「そういえば、ネムラ。あの話は考えてくれた?」
ネムラの手がカップに伸びる途中で止まった。エルシャは先ほどまでと変わらず、にこにこと笑っている。だが、その笑みは先ほどまでのからかい混じりのものとは少し違った。柔らかいのに逃げ道を塞ぐような強さが見え隠れしている。ネムラは口元をひくつかせながら、ゆっくりと紅茶を手に取った。
「アレはもう断っただろう。今更、どういう風の吹き回しだ?」
「保留って聞いたけど?」
「君の耳は都合よくできているね。私の記憶では、かなり明確に断ったはずだ」
「そう? 『そんな話は考えられない』っていう返答は『断る』とは違うと思うけど」
「詭弁だな。その言葉の続きから肯定の意が出てくる可能性は限りなくゼロだ」
ヨルティナは二人を交互に見る。
ネムラは我関せずのような態度で紅茶を飲み、エルシャは顔に笑みを貼り付けている。話の内容は分からない。けれど、ネムラが露骨にエルシャから目を逸らしていることに、ヨルティナは気づいていた。
「それで、なんの話なのでしょうか?」
ヨルティナが尋ねると、ネムラはすぐにこちらを見た。
「聞かなくていいし、答えなくていい。君にはまったく関係のない話だ」
突き放すような声だった。ネムラの口調は、これまでの皮肉めいた雰囲気とは少し違う。かといって、雑に流そうとしているのではなく、積極的に話を切ろうとしている。よほど聞いてほしくない内容なのだろう。そんなネムラを眺めつつ、エルシャはどこか楽しそうに口にした。
「まだ部外秘なのだけど、ヨルティナちゃんになら話してもいいかな。私たちエルフは、魔法少女の事務所を作ることにしたのよ」
ヨルティナは瞬きをした。言葉の意味は分かる。分かるが、一拍、理解が追いつかなかった。それは、魔法少女業界にとってかなり危険な未来だったからだ。
「エルフで、魔法少女の事務所を……?」
「そうそう。エルフ主体の事務所。所属魔法少女も、運営も、広報も、できるだけエルフで固める予定なのよ」
「……なぜですか」
ヨルティナは思わず尋ねた。ほぼ不老で、強大な魔力を持つエルフは期限付きの人間の魔法少女たちとは違って、半永久的に魔法少女として活躍することができる。正確には『少女』ではないのだろうが、外見は歳を取らないのであまり問題にはならないだろう。内心で戦慄するヨルティナに対して、エルシャはまるで今日のおすすめメニューを説明するような気軽さで答えた。
「あの豚どもがやってるのに、私たちがやらないなんてあり得ないってね。こっちに来てるエルフのお偉いさん達が息巻いてるのよ」
「だから聞かなくてもいいと言ったろう、ヨルティナ……。つまりは一部の連中がどうでもいい対抗心で燃え上がった結果として、明後日の方向へ暴走しているんだ」
「そうそう、豚ごときが事務所を運営できるなら、エルフにできないはずがないもの。あっちが偉そうに看板を出して、人を集めて、テレビ番組やらCMやらで目立ってる。だったら、私たちはそれ以上に目立ってみせないとね。というか、できないと腹が立つじゃない」
「つまり、エルフは豚に対して、腹が立ったから事務所を設立するということですか?」
「そういうことだよ。我が同族ながら、実にくだらない。長く生き過ぎると、感情的な衝動が実利よりも先走ってしまうようになるのだろうさ」
ヨルティナの問いかけに、ネムラがげんなりした顔で答える。
さっきまで少し構えていたヨルティナは、拍子抜けしてしまった。もっと重々しい理由があるように思っていたが、事務所を設立するのは、オークに負けてたまるか、という極めて単純な対抗心が原因らしい。
「で、その創設メンバーの一人になるようにって、ネムラにも依頼が来てるのよ」
エルシャが言った。ヨルティナはネムラへと視線を送ると、青髪のエルフはカップを傾けたまま、とても嫌そうに目を細めていた。
「今の私は、ありがたいことに多忙でね。主な原因は、誰かさんから押しつけられた仕事のせいなのだが」
「誰かさんって、私のことかしら?」
「自覚があるなら話が早い」
ヨルティナの治療計画の調整、オーク事務所の焼け跡から出た怪しげな機材の解析、オークの関連企業の資金と技術の流れの把握。やらなければならないことはいくらでもある。
自分はあくまでも魔法生物の研究者であって、君たちの便利屋ではないのだが、とネムラはブツブツと呟きながら、紅茶のカップを口に運ぶ。その時、ヨルティナは先ほどから疑問に思っていたことを口にする。
「……ネムラも魔法少女になるんですか?」
「こふっ!?」
ヨルティナがそう言った途端、ネムラがむせた。カップの縁から紅茶が少し跳ね、青髪のエルフは咳き込みながら口元を押さえる。
「げほっ、こほっ……君、今、なんて言った?」
「ネムラも魔法少女になるのですか、と」
「冗談でもやめてくれ……」
ネムラは涙目になりながら、ヨルティナから差し出された布巾で口元を拭いた。
「まかり間違っても、私は運営スタッフ側だ。私が君たちみたいな魔法少女になって、ヒラヒラのドレスで空を飛んでいる姿が想像できるのか?」
近くの席の獣人の青年が、とうとう笑いを堪えきれずに肩を震わせた。
その向かいに座っていた羽根のある女性が、今度は蹴るのを諦めたように天井を見上げる。近くの席のハーフリングの年配男性も、新聞の向こうで小さく息を漏らしていた。常連ばかりの店内の空気はかなり緩い。
エルシャは、笑い出しそうになるのを必死に堪えるように、口元へ手を当てる。
「ふふっ、ちなみに言ってなかったけど、ネムラに来ている依頼は運営スタッフ、もしくは魔法少女のどちらかへの就任よ。よかったわね、好きな方を選べるわ」
ネムラの動きが止まった。一方でヨルティナの瞳が興味深そうに細くなる。
「ふむ……。まあ、ダウナーロリ系のネムラなら、私とファン層が被らなさそうです。競合はしなさそうなので、安心しました」
「いや、君はのんきに何を分析してるんだ……。あとエルシャ、魔法少女にするなら、私よりも適性のあるエルフがいくらでもいるだろう。派手好きで、目立ちたがり屋な連中だ。この世界にいるエルフの中なら、私が性格的に一番向いてない」
「アンタ以上に向いてるヤツはいないわよ。だって、この世界で『魔法少女』って呼べるような年齢のエルフはアンタしかいないじゃない」
ヨルティナがちらりとネムラを見ると、ネムラははっきりと視線を逸らした。それは、面白いほどに露骨な反応だった。思い出せば、コーヒーの苦さに涙目になっていたり、回転椅子で遊ぶように移動していたりと、ネムラの行動には幼さが見え隠れしていたように思える。ヨルティナは問いかける。
「で、何歳なんですか?」
「君の数十倍は生きてるよ。異種族の年齢を人間の基準に直して比較することに意味はない。それに、女性に対して気安く年齢を尋ねること自体が失礼だろう」
言いながら、しっかり目を逸らしているネムラ。
返答としては悪くないし、理屈も通ってはいたものの、隠したいことがある時の態度として、あまりにも分かりやすかった。
そんな二人のやりとりを見ていたエルシャは楽しそうに笑った。
「こんなに偉そうだけど、人間の年齢でいうなら、大目に見積もっても十三歳くらいなのよ、こいつ」
「エルシャ」
ネムラの声が一段と低くなった。しかし、効果はなかった。
ヨルティナは、ゆっくりとネムラを見直す。
「分かりました。ネムラのことは今後、年下として扱います」
「やめたまえ、何も分かってないだろ。私は君より長く生きているし、知識量も人生経験も上だ。年下扱いされる理由がない」
「しかし、人間換算で十三歳なら、この世界では中学生相当でしょう? 高校生相当の私のほうがお姉さんです」
「そこだけ切り取るな、中卒のくせに」
「む、魔法少女に学歴マウントを取るとはいい度胸ですね」
子供のようなやり取りを繰り返す二人。
聞き耳を立てていた近くの獣人の青年が、テーブルに額をつける寸前まで笑いを堪えている。隣の女性はもう諦めたらしく、静かに水を飲んでいた。ハーフリングの男性もまた新聞を畳み、完全に聞く体勢に入っている。どうやら店中の客が雑談をやめて、こちらに聞き耳を立てているようだ。
衆人環視の中で、エルシャはネムラのカップに紅茶を注ぎ足す。
「ネムラが魔法少女になるなら、マジカルドレスはどんな意匠にするべきかしら。ヨルティナちゃん、現役の魔法少女のアドバイスをもらえる?」
「ふむ、それならネムラのゴーグルが帽子に変形するのはどうですか?」
「私の魔導ゴーグルに何をする気だ。高いんだぞ、アレ」
ヨルティナはネムラを無視して目を閉じ、腕を組んで何かを考え込む。少ししてから、静かに口を開いた。
「そうですね。それなら変身後は、ゴーグルが白いベレー帽のような帽子へ。衣装は水色と白を基調、フリルは多め、ウエストには大きなリボンを追加しましょう。とても良いです」
「止めても無駄そうだな……。分かった、妄想くらいは好きにしてくれて構わない」
「ちなみにネムラ。仕事が忙しいくらいじゃ、エルフ事務所からのオファーは断れないわよ。アイツらはそれなりの権力を持ってるから、下手をすると首根っこを掴まれて、事務所まで連れて行かれるわ」
「そっちは好きにさせるわけにはいかないな。ヨルティナの治療を継続しないといけないし、どうしたものか……」
ネムラは椅子に沈み込んだ。
淡い色のドレスが、木製の椅子の上でふわりと広がる。その姿だけ見れば、可憐なエルフ少女が困っているようにも見える。口から出るのは、相変わらず気怠げな否定ばかりだったが。
店内のあちこちから、こらえきれない笑いがこぼれている。ネムラはそれに気づくと、両手で顔を覆った。白い耳の先がサングラスの横でわずかに赤くなる。
ヨルティナは眉一つ動かさずにそれを見ているし、エルシャは相変わらず笑いすぎないように口元を押さえている。店中の客たちは、聞いていないふりをしながら、明らかに耳だけこちらへ向けていた。
やがて、ネムラが顔を上げた。サングラスの奥の青い目が、据わっている。
「……決めた」
「何をですか?」
首を傾げるヨルティナに対して、ネムラは口元に不敵な笑みを浮かべている。
「どうあがいてもエルフの事務所に所属しろと言われるのなら、私は先にトワイライト事務所に入ることにする」
店内がざわつき、空気が変わる気配がした。
『トワイライト事務所?』
『どこの事務所なんだろ』
『ネムラさんが魔法少女になるのか?』
『いや、運営スタッフってことじゃね』
ひそひそとした声が、店内のあちこちからこぼれる。ネムラは、それに構わず話を続ける。
「トワイライト事務所に所属すれば、エルフの事務所に対しては断りを入れられるし、すぐ近くで君の体調管理もできる。ちょうどいいだろう」
名案だとでも言いたげなネムラをよそにして、ヨルティナは先日の勝乗との会話を思い出す。
魔力の出力を調整する能力があり、小回りの利く戦闘が可能。控えめな性格をしており、先輩たるヨルティナを立てる器量とヨルティナと並んでも脇役にならない程度の可愛さがある。あと、社長との距離感を守ること。それが『条件』だった。
「なにか問題があるのかい、ヨルティナ?」
「少し待ってください、検討中です」
ヨルティナは、向かいのネムラを見た。魔力の出力調整については、申し分ない。治療中の青い魔力の波紋を思い出せば、むしろ過剰なくらいである。
あれほどの魔力行使ができるなら、小回りの利く戦闘も恐らくは可能だろう。控えめな性格かどうかは大いに疑問が残るが、少なくとも前に出たがる性格ではない。先輩たるヨルティナを立てる器量については、触れないでおく。
可愛さについては、問題ない。白衣姿はともかく、私服姿ならば、ヨルティナと並んでも埋もれない程度の可愛さはある。そして、ダウナーかつ小柄、研究者属性の付いたエルフの少女であれば、ファン層でヨルティナと競合は起きにくい。棲み分け可能なのは大きい。
そして何より、ネムラが勝乗に色目を使う姿は想像できない。シルフィほど条件に合致しているわけではないが、最低限の条件はクリアしていると見るべきである。それに、新しい魔法少女の募集人数が一人だけだと決まっているわけでもない。
ヨルティナは静かに頷いた。
「ええ、構いませんよ。社長には私から話を通しておくので、折を見て事務所へ履歴書を持ってきてください」
「話が早くて助かるよ。そういうわけだ、エルシャ。私のことは諦めるように、連中には言っておいてくれ」
「えーと、それは構わないんだけど、二人とも話がどこかですれ違ってないかしら?」
「何の話ですか?」
「何のことだい?」
エルシャだけが違和感に気づいていた。
ネムラが言ったのは、トワイライトの運営スタッフとして所属するという意味だ。それも、エルフ事務所からのオファーが来なくなるまで、期間限定で社員になると言っている。一方のヨルティナは、ネムラが魔法少女としてトワイライトに所属することを希望していると解釈した。当然、長期雇用が前提である。どちらも必要な説明を省いたせいで、すれ違いはきれいに成立していた。
『トワイライトに履歴書を持っていく……?』
『あのネムラさんが?』
『マジで魔法少女になるの?』
『いや、本人は運営スタッフになるつもりなんじゃ』
『お、トワイライト事務所がホームページで新しい魔法少女の募集してるぞ』
『じゃあ、魔法少女で確定じゃん』
この店の常連たち、聞き耳を立てていた獣人の青年、新聞を畳んだ年配のハーフリング。水を飲みながら話の続きを待っているハーピーの女性。他にも多種多様な亜人たちの耳に今の会話はしっかり届いている。
この冗談のようなやり取りが翌日以降、彼ら彼女らによって、妙な噂となって一人歩きし始めることに、当の人物たちはまだ気づいていない。
ただ一人、カップの陰でにやにやしているエルシャを除いて。
被害者その一が誕生の予定。