魔法少女ヨルティナ〜貴女に言えなかったこと〜 作:オーギュストめろん
もうすぐ日が暮れる。
夕暮れの街は昼間とはまた別の表情を見せていた。日差しは大きく傾き、ビルの影が道路へと長く垂れ下がる。夏の熱気はまだアスファルトの上に残っていたが、徐々に暗くなる空はワインのように鮮やかな紫色に染まりつつあった。
夜子は、喫茶店の店長から渡されたメモを片手に、駅前から少し外れた区域を歩いていた。喫茶店デートの翌日のことだ。
古い雑居ビルと小規模な建物、昔から営業していそうな薬局や骨董品の店が立ち並ぶ通りである。賑やかな商業施設の明るさからは一歩外れた、どこか時間の流れが緩やかな場所を少女は歩いていく。
メモに記された住所はその更に奥にあった。年季の入った三階建てのビルだ。外壁はくすんだ灰色で、ところどころに白い補修の痕跡が見られる。窓にはブラインドが下ろされている階もあれば、厚いカーテンによって完全に内部を遮断されている階もあった。建物の敷地には不自然なほど雑草が少なく、代わりに見慣れない植物が自生している。
葉がかすかに青く発光しているものや、小さな眼のようなものが茎に生えている不気味な草花が、こちらを見つめている。
「……まともな医療機関どころか、まともな人間のいる建物ではなさそうに思えますが、信用していいのでしょうか」
ビルの入口の脇には、古びた看板が掲げられていた。
塗装の一部が剥がれているが、そこにはやや判読しづらい字体で『魔法生物学研究所』と書かれていた。夜子は看板を見上げて、静かに息を吐く。
「……なるほど、そもそも医療機関ではないということですか。そういえば、あのエルフは友人が医師であるとはひと言も言っていませんでしたね。私としたことが迂闊でした」
誰に向けるでもなく呟く。
店長の言っていた魔法の研究者。その研究所は一般的な少女が単独で訪れる場所ではないように思える。夜子は少し思案した後、建物の陰へと身を移した。
ここにいる何者かに対して、どのみち夜子としての姿を晒すつもりはない。それにこの建物は何処となく『あの事務所』と似た気配がする、警戒は怠るべきではない。
「……変身」
短く呟いた瞬間、淡い光が身体を包み込んだ。
茶色の髪が星屑のようにほどけ、煌めく金髪へと変化する。私服は白と紺を基調とした魔法少女の装束へと置き換わっていく。
瞬きほどの時間の後、夜子は魔法少女ヨルティナへと姿を変えていた。
ヨルティナは衣装の裾を軽く整え、正面玄関へと向かう。インターホンを探したが、見当たらないのでドアの前に立つと、自動ドアが滑らかに開く。このご時世に鍵の一つも掛けてないらしい。
建物の内部へ足を踏み入れると、受付らしき空間が広がっていた。カウンターや来客用の椅子は古びており、受付には誰も座っていない。
それどころか、人の気配そのものが希薄だった。どこかで機械が低く唸るような音だけがフロアには満ちている。空調でも冷蔵設備の音でもない。建物の奥深くで何かが稼働しているような、不気味な駆動音だった。ヨルティナは冷静に周囲を見回す。
「入口には鍵が掛かっていない上に無人受付とは、ずいぶんと不用心ですね。正面玄関から入ったはずの私が不法侵入扱いされないかどうか、少し心配になってきました」
そんなことを呟いていると、ポーンという軽い音が玄関ホールに響く。音の方向に目をやると、奥のエレベーターが独りでに開いていた。不信感が高まり、その場で周囲を警戒するヨルティナ。しかし、まるで来訪者を誘導するかのように、エレベーターの扉は一向に閉まる気配がない。
建物の主がこちらを知覚して動かしているのか、あるいは建物自体が訪問者を認識しているのか。いずれにせよ、ここは通常の施設ではないのだろう。ヨルティナの瞳が少しだけ揺れる。勝乗がいれば、それが怯えの感情であると気づいただろう。だが、彼はこの場にはいない。
そっと少女は自分の下腹部に手を当てる。触れた箇所、その奥から甘く痺れるような感覚が走る。
「……ここで引き返す選択肢はありえません。何に縋ることになっても私は先に、進まないと」
自分を奮い立たせ、魔法少女はエレベーターへ乗り込んだ。
階層のボタンは3つあり、店長から貰ったメモには目的地は2階の一室と記されている。だが、ヨルティナがボタンに触れる前に勝手に2階のランプが点灯し、扉が閉まった。
箱はゆったりとした上昇を開始した。エレベーター内には微かに異質な匂いが漂っている。消毒液でも香料でもない、体液と肉の焦げたような匂い。そして、そこに魔力の残滓が混ざっており、不快な匂いだった。
表情を変えないヨルティナ。しかし内心で、この施設へと警戒度を一段階引き上げた。少なくとも、まともな施設ではない。あの事務所と同じような場所だと捉えた自分の評価は正しかったのかもしれない。
2階に到着すると、ゆっくりと扉が開く。廊下は薄暗い、蛍光灯の一部が断続的に点滅している。壁には魔法陣のようなものが直接描かれ、その上に何かのメモや資料が無造作に貼り付けられていた。床には太いケーブルが這い、壁際には書籍や段ボール箱が無秩序に積まれている。
廊下を進んでいく。どの部屋も荷物で埋め尽くされ、人がいる気配はなかった。メモには店長によるフロアマップが描かれていたため、その絵に従って歩くとフロアの最奥の位置に唯一、閉じられているドアがあった。
そこには『所長室兼第一実験室』というプレートが掛かっている。ヨルティナは顔色一つ変えずにその文面を見つめた。
「私は献体になるために来たわけではありませんが……。まあ、いいでしょう」
そう言って、ドアを規律正しくノックする。中から反応は無かったが、ガチャリと鍵の開く音が響いた。ヨルティナは一拍置き、室内へと足を踏み入れる。
部屋は散乱していた。色とりどりの薬品や、何かの標本が詰まった瓶の置かれた棚、埃まみれの資料が積み上げられた机。床には黄ばんだ紙束とガラス瓶が散乱しており、資料なのか廃棄物なのかも分からない。
研究室というより、何かが破綻したような空間だった。
「はぁ、ひどい臭いで最悪の気分です。これでは、あの豚の事務所と大して変わらないかもしれませんね」
「……オークの住処と同一視されるのは、さすがに傷つくね」
ヨルティナの悪態に反応するように、部屋の奥で椅子の軋む音がした。そちらに目をやると、誰かが座っていたらしい回転椅子がくるりと、こちらへと向き直す。
「よく来たね、山田夜子。それともヨルティナと呼んだほうがいいのかな?」
そこに座っていたのは、小柄な少女だった。
陽光に当たったことがないような青白い肌と目の下の濃いクマ。そして、寝起きのまま放置されたように跳ね放題の青い髪、薬品の染みが随所に残っている白衣は、まるで幽霊か吸血鬼のような雰囲気がした。
だが、尖った耳がそんな推測を否定する。その耳は紛れもなくエルフのものだったからだ。青い少女は椅子に身体を埋めながら、薄い笑みを顔に貼り付けている。
ヨルティナは警戒を維持したまま、先ほどの問いかけに返答する。
「マジカルネームを呼ぶことを許可します。以後、私のことはヨルティナと呼んでくれて構いません」
「君のことは知ってるよ。半年前の『薪葉原魔獣事件』で6体の巨獣を、一人の犠牲者も出さずに討伐した魔法少女。魔力量はトップクラスだが、それ故に出力の調整に難がある。ファースト写真集の売上は6位。トワイライト事務所所属、この半年は薪葉原の被害の賠償金を肩代わりしたオーク事務所にレンタル移籍、だったかな?」
「……写真集の売上は5位です。あと、最後の1点はどこからの情報なのでしょうか。事務所間以外では共有されていない話のはずです、あの喫茶店の店長から提供された情報ですか?」
「事務所の社長から直接聞いたって言ったら信じるかい?」
「信じません」
こんな怪しげな相手と、あの愛しい人との繋がりなどあってたまるものかと少女は全力で否定する。青髪のエルフはクルクルと天井を見あげながら、椅子を回転させている。他者を嘲っているような態度にヨルティナは眼差しを鋭くする。
「私が何のために、この薄暗く、不潔で、異臭のする場所にわざわざ来たのかは知っているのでしょう。さっさと診療をしてもらえませんか?」
「ああ、構わないよ。私も初対面の相手とあまり長々と話すのは得意じゃないからね。そこに横になってくれ。その衣装、マジカルドレスとやらのままでいい」
指示された先には診察台があった。
室内では比較的整頓されているように見える場所で、少なくとも書類やガラス瓶が床に散乱している様子はない。ヨルティナは一瞬だけ魔力で探りを入れる。術式や拘束の類は仕掛けられておらず、特にこちらを害するものは無さそうだった。最低限の安全を確認してから、静かに診察台へ横たわる。
「聞きそびれましたが、あなたの名前は何なのですか? メモには肝心の名前がありませんでした。正直、興味はありませんが、呼び方が分からなければ不便です」
「ほへ? 君、名前も知らない相手から診察を受けるつもりだったのかい?」
「私、強いので」
妙なことをされそうになったら、魔法で吹き飛ばせばいい。
ヨルティナの思考はシンプルだった。青いエルフは足で床を蹴り、滑るように診察台の横まで移動してくる。どうやら椅子から降りるつもりはないらしい。
「私の名前はネムラ・アメトゥス、呼ぶときはネムラでいいよ。私が私のことだと判別できるなら、エルフでも青い奴でも、好きに呼んでくれて構わない。所詮は大魔法使い様にこき使われる、哀れな使いっ走りのエルフだからね」
そう言って、ネムラはヨルティナの腹部に左手を当てる。
皺だらけの白衣とは対照的に、その所作は丁寧だった。指先から青い魔力が雫のように落ち、流水のようにヨルティナのお腹を覆っていく。しばらくすると、魔力は澄んだ湖面のように一旦静まり返り、次に小さく鼓動して、波紋のように揺らめく魔法陣を魔法少女の衣装の上から浮かび上がらせる。
魔物と戦うため、魔法少女の衣装には物理的な攻撃と魔力攻撃に対する耐性がある。それを歯牙にもかけずにネムラの魔力が体内に浸透していく、その事実にヨルティナが内心で驚愕する。
やがて、青い光が魔法少女の衣装の下にある少女の皮膚の下を走り、複雑に分岐していく。それは単なる魔力の流れというより、植物の根やツルのように身体の内側へと絡みついてくるようだった。
ずぐん、と身体の奥に痛みが走る。ヨルティナは声が漏れないように僅かに歯を食いしばった。
「ん、そのままで頼むよ。解析はもう完了する」
ネムラは空いている右手で、何かをヨルティナの腹部から引き上げるような動作をした。すると、魔法陣から光輝く文字が吐き出され、するすると机に置いてある紙に向かって溶け込んでいく。魔法による自動書記である。
「……なるほどね、だいたいは理解した」
出来上がったカルテをクリップボードに挟んで、ネムラは眉をひそめる。いつの間にか魔力光は収まり、魔法陣もまた粒子になって消えていた。紙面を指先でなぞると、触れた部分が強く発光する。そこにはヨルティナの身体が図面のように表示されていた。
「今の状態では、人の子を宿すのは困難だろうね」
室内の空気が重く、冷たくなっていく気配がした。ヨルティナは表情を変えなかった、その代わりに両手を強く握りしめる。
「……一応、理由を聞かせてください」
「オーク由来の汚染が深い。胎内環境が人間の生殖に適していない。人間と生殖行為をしたところで着床する可能性は低いし、仮に着床したとしても、これでは育たないだろうさ」
「そうですか」
ネムラの診断に対して、ヨルティナからの反応はそれだけだった。泣き出すわけでも、絶望するわけでもない静かな声。意外そうにネムラが碧い瞳を少しだけ見開いた。
「そういう気丈な反応を返してくる子は初めてだ」
「先ほどの診断結果は、現時点での話でしょう。そんなことは今更指摘されなくても想定済みです。今ここで重要なのは、どの程度まで治療可能なのかという1点だけでしょう」
「その認識で構わないが、表情一つ変えないのは意外だったよ。感情のコントロールが上手いのか、単に表に出てきてないだけか。君と親しい人間であれば、受ける印象が違うのかな」
ネムラは肩をすくめ、机へ向かった。
机の上に置かれたマグカップを手に取り、薄汚れたガラス瓶からコーヒー粉を大量に注ぐ。そして、眠そうに欠伸をした後、手のひらを虚空にかざすと部屋の空気が収束されるように渦巻き、たちまち空中にコップ1杯分ほどの水の塊が生成される。
ネムラが水の塊に向かって、クルクルと指先を回すと水は即座に沸騰して湯気を放ち、そのままマグカップへと丁重に注がれ、コーヒー粉と混ざり合った。
なんてことない作業だが、それは緻密な魔力の調整技術があってのことだ。ネムラはコーヒーを一口飲み、子供のように顔をしかめた。
「うぇー、苦いし不味い……」
「当たり前です。粉の分量が合っていませんでした」
「うぅ……まあ、カフェインによる覚醒効果が狙いだからいいさ。眠気を覚ますだけで充分。君が来る前に確認しておくべき資料が多すぎて、昨日は徹夜だったんだ」
「……資料? ああ、なるほど、そういうことですか。それはいい気分では無かったでしょうね」
「ああ、まったくだ。私にはその手の趣味はないのでね」
ネムラはマグカップを置き、魔法少女を見つめた。ネムラの碧い瞳とヨルティナの翡翠の瞳がお互いを映し合う。バツが悪そうにネムラは口を開く。
「察しは付いているだろうけど、私はあの事務所に保管されていた映像データは君のものに限らず全て確認してる。オンライン上に公開されているものも、公開されていないものも全てね」
「……なるほど、ですが」
「ああ、安心したまえ。未公開の分に関しては、どれも外部流出は確認できなかった。データ自体も私個人の外部端末に移して、連中が保管していたモノは削除済み。まあ、君とあと数人の魔法少女は表に顔が出てないだけ、世間に対してまだ誤魔化しが効くだろうさ」
「あなたが依頼されたのは私の診療のみでは? そこまでやる必要性が分かりません」
ヨルティナの疑問はもっともだった。
患者として自分を診るだけであれば、あの事務所に関わること自体にあまり意味はないだろう。あの碌でもない映像を視聴したところで、それは治療法と関係ないはずだ。ネムラは渋い顔で泥のようなコーヒーをもう一口だけ飲み込み、汚れたマグカップを片手にヨルティナへと淡々と告げる。
「大魔法使い様からの命令だから仕方ないさ。それと、一応はあの豚どもも、亜人という点で私の研究対象ではあるからね。連中の儀式がどんなものなのかは、文献を探るよりも実際の映像を観たほうが早い」
「……儀式とは?」
「君が散々に身体に刻み込まれたものだよ。オークの精による肉体の変質、薬物による精神汚染、その他諸々。これらは旧い時代の儀式の構造そのものだ」
診察台で横になっているヨルティナの目の前に青い光が奔った。ネムラの魔力は線のように空中で直線と円を描き、簡易な図とその解説文を器用に作り出していく。
「原始的だが、どんな種族相手でも効果を出すよう設計されている。複雑な術式の過程を扱えない豚でも運用できるように実行方法もシンプルだ。連中の嗜虐心を満たすためなのか、映像を見る限りは過程に無駄も多いがね」
「……少なくとも、回復薬や単純な治癒魔法で身体は元に戻りませんでした」
「君に限った話じゃないが、あの事務所にいた誰もが胎内の奥深くまで汚染されている。もはや変質した後の身体が正しいものであるかのように固定されているんだ。こうなると、通常の回復薬や治癒魔法での対処は困難だ。自然治癒にしても、どこまで見込めるか分からない」
「つまり、一般的な医療機関での完治は難しいということですか」
「この世界の未熟な魔法医療に望みを託すのはオススメしないかな」
ひたすらに事実だけが羅列される会話。
そこには慰めの言葉の一つもなく、傷ついている患者に対しては酷く冷たい印象を与える。だが、同時に嘘偽りはなく、奇妙なほど公正な言葉でもあった。ネムラは薄く笑い、それから何でもないことのように言う。
「身も蓋もないが、こんなことになる前に君は恋人を連れて、とっとと逃げるべきだったのさ」
ヨルティナの瞳が、わずかに揺らぐ。ネムラは構わず続けた。
「賠償金の問題が発生した段階で、魔法少女の事務所なんてものは、法的に畳んでしまえばよかったんだ。二人で一緒に逃げ出して、どこかで平穏に暮らせばよかった。君たちの債務が回収不能になったところで、苦しむのは債権を抱え込んだ豚どもだけだ」
「……それは、確かにそうかもしれません。ですが」
挑発のようにさえ聞こえるネムラの言葉。
それはひどく単純で残酷だ。あの時、オーク事務所へレンタル移籍しなければよかった。あの時、連中の狙いが分かった瞬間に社長と一緒に逃げればよかった。賠償金も、世間からの評価も、何もかも投げ捨てて。
過去を後悔する者なら、誰でも一度は思うことだ。もっと早く気づけていれば、別の選択をしていればと。それを善悪の面からではなく、純粋な損得の話としてネムラは語っている。
ヨルティナは身体を起こし、背筋を伸ばして診察台に座り直した。
「……ですが、責任は、責任です」
消え去るような声だった。けれど、真っ直ぐな声だった。
「人々を守るためとはいえ、街を壊してしまったことは事実です。そこから逃げるのは、魔法少女や魔法少女事務所の社長のするべきことではないでしょう。あの品性下劣な豚モドキからの仕打ちに対する怒りはありますが、それとこれとは話が別です」
ネムラは少しだけ目を開いた。驚いたようでもあり、興味を示したようでもあった。ヨルティナは診察台から降りる。足取りはしっかりしていた。衣装の裾を整え、ネムラを見据える。
「それで、あなたに私の身体は治せるのですか。これ以上、あなたの無駄話に付き合っている時間はありません。答えを早急に聞かせてください、ネムラ」
ネムラは翡翠の瞳から逃れるように回転椅子をくるりと回して、雑然とした机へと向き直る。机の上に積まれた紙束を崩して、その中から古びた書物を取り出した。
ネムラが掌で書物の表紙を軽く撫でると、そこから紫色の光が漏れ出していく。光は煙のように上へと舞い上がり、天井で滞留して、室内を不気味な紫色に染める。
「不可逆な汚染は解くのではなく、上書きするしかない」
エルフがそういうと、青い清らかな魔力光が足元から放射され、紫色の光に染まった室内を青く染め直す。
「変質が進んだ身体を単純に治癒させるのは難しい。ならば、君の身体を正常な方向へともう一度、変質させ直してやればいい。汚染が不可逆であるのなら、その上から別の魔法で塗り直す」
「つまり、あなたの提示する治療とは元に戻すのではなく、再変質によって正常な状態へ近づける方法なのですか」
「その理解でおおむね問題ないよ。鏡返しのように、やられたことをやり返す。君の胎内がオークにとって都合の良い状態に改造されたのなら、人間にとって都合の良い状態に改造し直せばいい。分類としては、むしろ再構成に近いのかもしれないね」
それは歪みの上に別の歪みを重ねるような手法だった。危うい治療法だ、まともな医師の考えることではない。だが、ヨルティナにも理屈は理解できた。
魔法で作られた歪みなら、魔法で別の歪みを与えて相殺する。薬で変えられたなら、別の薬で押し返す。呪いで作られた結果なら、その結果に干渉するための呪いを上から被せる。それは、おおよそ正道の医療ではないのだろう。
愛しい人の顔が頭の中でちらつく。例え、邪道であったとしても、治る可能性があるなら自分は縋るしかない。
「……分かりました、あなたの提案する治療を受けましょう」
「一定のラインまでの回復は約束するよ。なにせ、君よりもよっぽど酷い症例を診たことがあるからね」
「そうですか」
「ああ、その娘はここに運び込まれた時点で、下半身の組織がグッチャグチャでさ。君と違って生殖機能は完全に壊されていたし、それどころか骨盤や背骨、排泄器官も……」
「詳しく聞きたいと言った覚えはありません。というより、患者のプライバシー保護を少しは意識したほうがいいのでは……」
「で、そんな娘でも生殖機能以外はそれなりに元に戻せたし、外見上は綺麗になったんだよね。まあ、下半身不随はまだ残っちゃってるから、治療は継続してるんだけど」
「……繰り返しますが、詳しく聞きたいと言った覚えはありません。当たり前のように続きを話すのをやめなさい。その長い耳は人語を聴き取るための器官ではないということですか?」
ヨルティナは冷ややかに言った。
相手の名前は出してないのにとネムラは悪びれもせず、コーヒーの残ったマグカップを揺らしている。
「まあ、君の場合も治療には時間がかかるだろう。ドール化薬……正式名称はなんだったかな。そっちのほうは症例が多いから比較的容易にどうにかなるが、生殖機能のほうは改善するにしても二年、三年、あるいはもっと掛かるかもしれない」
「二年です。どうせなら、その間での完治を目標に設定してください」
ネムラは少しだけ首を傾げる。
その動作は、単なる疑問というよりも、観察対象の想定外の反応を前にした研究者のそれだった。この治療は身体に負担がかかることは明らかだ。それなのに、彼女は治療の代償への質問よりも「二年」という期間だけを拾い上げた。どのように治すかではなく、治すために必要な時間を問題にした。
「急ぐのは分かるんだが、その二年という期間に何かこだわりでもあるのかい?」
ネムラの問いに、ヨルティナは不思議そうに眉を寄せた。まるで、何故そんなことをわざわざ質問してくるのかとでも言いたげな顔だった。
この研究室の主に対して遠慮するつもりは、既にかなり薄れているらしい。先ほどまで警戒していた相手に対して、ヨルティナは少しずつ本来の調子を取り戻し始めていた。
「そんなことも分からないのですか?」
ヨルティナは静かに息を吐いた。それは明らかに呆れの感情が込められたため息だった。
「……はぁ。エルフは長く生きる分、女の子の気持ちというものを理解できなくなるのかもしれませんね」
「君、私に対して段々と辛辣になってないかい……?」
ネムラはマグカップを持ったまま、椅子の背もたれに沈み込む。よほど重要なタイムリミットが、この魔法少女にはあるのだろうか。だが、それがなんなのかが皆目見当も付かず、青い瞳をひそめる。分かりやすく罵倒されても、不機嫌そうというより、むしろ興味深そうにネムラはヨルティナの次の言葉を待っていた。
「私は15歳なので、社長と結婚できる年齢に至るまで、あと二年と少ししか猶予がありません」
研究室のどこかで培養槽の泡がぽこりと鳴り、古びた蛍光灯が一度だけ明滅する。机の上に積まれた紙束が、空調の風でカサカサと揺れる。そんな静寂に近い空間の中でネムラは、マグカップを持ったまま固まっていた。
「…………………………へ?」
それは今日初めて見せる、ネムラの純粋な困惑だった。魔法少女の身体に刻まれた不可逆の痕跡、再変質による荒療治、生殖機能の回復の可能性。そうした重い会話の中で、まさかそういう話をねじ込まれるとは思わなかった。完全な不意打ちだ。
ヨルティナは少しもふざけていないし、本気である。むしろ、その真剣さのせいで、発言そのものの場違い感が際立っていた。
「ふ、ふふ……あははははっ。そ、そういうことなの!?」
ネムラは数秒間、固まったままでヨルティナを見つめていたが、堰が切れたように笑い出す。その笑い声は、先ほどまでの気だるげな声とは違っていた。薄暗い研究室に似合わないほど明るい笑い声だった。
ヨルティナは不服そうに眉をひそめる。
「何がおかしいのですか。極めて重要な目標です。患者の人生設計に関わる事項なのですから、当然考慮されるべきでしょう」
「あはははっ! そうだね、人生設計か! それは確かに大事だね……く、ふふふっ」
「私が結婚可能な年齢に至った後、速やかに婚姻届を提出します。もちろん社長の予定や事務所の運営の都合も考慮しますが、基本的に先延ばしにする理由は存在しません」
「く、くくっ……君はなんていうか強いね」
「私は完全無欠の魔法少女ヨルティナですので」
ヨルティナは胸を張った。
その仕草はいつもの彼女そのものだった。傷ついた身体のことを話していたはずなのに、今だけは少しだけ誇らしげにすら見えた。ひとしきり笑い終えたネムラは白衣の袖口で涙を拭き取っている。
「……なるほどね。あのお節介な大魔法使い様の言ってた言葉の意味が少し分かった気がするよ」
「大魔法使い、ですか?」
「ああ、君たちが店長と呼んでいるエルフ、エルシャのことだ。アイツったら『頑張っている女の子と男の子は応援したくなっちゃうものよ』なんて言ってきたからさ」
ネムラは口元に笑みを浮かべた。
身体を変質させられ、まともに回復する保証もなく、それでも二年後の結婚を当然の前提として口にする少女。合理的ではないし、希望的観測が多すぎる。だが、それを否定する気は不思議と起こらなかった。
あのお節介な旧友がここまで肩入れしたくなる理由は、まだ分からない。自分にもいつか理解できるようになるだろうか。そんなことを考えるネムラの青い瞳は相変わらず眠そうだったが、先ほどより少しだけ楽しそうだった。
「ところでヨルティナ、君は掃除って得意かな」
「唐突ですね」
「できれば、実験室の冷蔵庫を掃除してほしいんだけどね」
「話のつながりが行方不明ですが、この美少女メイド機能付き魔法少女ヨルティナにかかれば、多少の散らかりには対応可能です」
「助かるよ、冷蔵庫をどうにかしてくれれば、さっきの治療目標のことは前向きに考えよう。あ、中には大切なサンプルもあるから、勝手に処分しないでね。ラベルは貼ってないけど」
「ラベルを貼っていないサンプルに存在価値はありません。そもそも見分けがつきませんし」
「厳しくない?」
そうして、ヨルティナは研究室の奥にあるドアの前に立った。
掃除対象は、この扉の向こうにある業務用の大型冷蔵庫らしい。部屋のドアの表面には封印符と冷却術式が何重にも貼られている。扉の隙間から、何とも言えない匂いとガサガサと何かの這い回る音が漏れ出していた。
ヨルティナはしばらく無言でそれを見つめる。ネムラは回転椅子の上で、少しだけ期待するように身を乗り出していた。
「ネムラ、ちなみにその冷蔵庫の中身は最後にいつ確認したのですか?」
「中身は3年くらい前かな、多分」
「……なるほど、重症ですね。魔法少女ヨルティナとしたことが、エルフの時間感覚を甘く見ていました」
ヨルティナは静かに目を閉じる。
そして軽く深呼吸をしてから、扉を開けると中に何かがいるのが見えた。半透明でぬめりがあり、冷気を纏いながらゆっくりと蠢く未知の生命体がこちらを見ている。先端に目玉が生えている触角、蜘蛛のように複数本ある脚、それらが大型の冷蔵庫から生えている。そして、そんな怪物がヨルティナを見つめながら「やぁ」とでも挨拶するかのように触角を動かした。
ヨルティナは無言で扉を閉めた。そしてひと息ついてから、静かに手をドアの表面にかざす。
「執行」
次の瞬間、ドアの向こうで金色の光が閃いた。
聴いたことのないような悍ましい断末魔が響き渡り、何かが床をのたうち回る。数秒もすると研究室は元のとおりに静まり返り、ドアに貼られていた封印符がひらひらと床へ落ちた。
「あまりにも醜悪だったので、冷蔵庫ごと処分することが適切だと判断しました」
ヨルティナは後ろにいる依頼主に涼しい顔で答えると、ネムラは「やっぱり、掃除よりも駆除になっちゃったか」と他人事のような様子でコーヒーの追加をマグカップに注いでいた。