魔法少女ヨルティナ〜貴女に言えなかったこと〜   作:オーギュストめろん

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タイトルに偽りはないはず。
闇の回ですので、ご注意。


第五話:ヨルティナ不在、ネムラと社長の急接近?  

 

 

 ヨルティナが帰った後、研究室には静けさが戻っていた。

 もっとも、完全な静寂というわけではない。壁の奥では何かの駆動音が低く唸っているし、培養槽は泡を吐き、床に散らばった紙束は空調の風に煽られてかさかさと音を立てている。それでも、妙に真っ直ぐな翡翠の瞳の主がいないだけで、やけに寂しく感じるものだった。

 

 

「ふ、ふふっ、面白い子だったな……」

 

 

 研究室の主であるネムラは、回転椅子に深く身体を預けたまま、隣の部屋を眺めていた。つい先ほどまで実験用の大型冷蔵庫があった場所だ。封印符と冷却術式を何重にも貼り、三年ほど中身を熟成させていた。それも今はない。未知の生命体と化していたところを、完全無欠魔法少女とやらの魔力光で跡形もなく消し飛ばされたからだ。薬品やら実験途中の培養液が入っていたので、中身を損失として計上すれば、それなりの額になるだろう。

 しかし、不思議と腹は立たなかった。

 

 

「……まったく、あそこまで一途に想いを寄せられる相手がいるのは幸せなことだろうさ。羨ましいことだ」

 

 

 治療自体は面倒な上に、相手は魔力量の多い魔法少女である。下手に処置をすれば、治療そのものが悪化の原因になりかねない。面倒な話だと思って、当初は乗り気ではなかったのだが、まさか患者本人があそこまで愉快だとは思わなかった。

 椅子に座ったまま、ネムラは機嫌良さそうに両脚を子供のようにプラプラと揺らしている。

 

 

「まあ、おかげで事前に練っておいた計画は丸ごと作り直しなんだけどね」

 

 

 机の上の治療計画書を指先でぺしっと弾いた。

 ヨルティナがこの研究室を訪れてくる前に、ネムラが書き上げておいたモノだ。そこには、数年がかりで行う医療処置が段階に分けてまとめられていた。最低でも五年程度はかけるつもりだったのに、二年以内に完治させろとは無茶を言ってくれたものである。要望に応えるには、本格的に例の研究を実行するしかないだろう。

 

 

「あまり気は進まないが、もう献体を運び込んでしまったのだから今更だね」

 

 

 そんな独り言を呟いていると、研究室の隅に置かれた白い有線電話が鳴った。この時代において、ほとんど骨董品に近い道具である。それでもネムラは携帯端末を好まない、何処にいても連絡がくる電話なんて鬱陶しくて仕方ないからだ。

 放っておいたら諦めてくれないかと、ネムラは鳴り響く電話を眺めながらコーヒーを淹れる。しかし、相手は諦める気はなさそうで、電話は鳴り続けている。20コールを超えたあたりで、面倒そうに電話のところまで椅子を滑らせ、ネムラは受話器を取った。

 

 

「はいはい、こちら魔法生物学研究所だよ」

 

 

 電話の向こう側からは怒りの声が聞こえてくる。

 やれ、もっと早く受話器を上げろだの、携帯端末に切り替えろだのといったお小言だ。ネムラは声の主の顔を思い浮かべて、やれやれとマグカップを傾けた。

 

 

「それで、どういった用件なんだい、大魔法使い様? 君の言うとおりにヨルティナの診察は終えたし、治療の方針も決めた。これから一休みしようかと思っていたんだけどね」

 

 

 電話の向こうから、返ってくるのは聞き慣れた声だ。それは喫茶店の店長、エルシャのもの。お節介で、強引で、美形の多いエルフの中でも特に美しい容姿を持ち、おまけに地方都市を丸ごと支えられるくらいの絶大な魔力量を誇る。自分ごときとは比較にならないほど馬鹿げた性能を有する旧友である。ネムラは受話器を耳に当てたまま、空のマグカップを眺めている。

 

 

「……ああ、そうなのかい。スポンサーが見つかったのか。それは僥倖だね。君から依頼された研究の費用を踏み倒された時のことを想像して、戦々恐々としていたところなんだ」

 

 

 電話の向こうから、少し強めの声が飛んできたので、ネムラは肩をすくめた。

 

 

「冗談だよ、半分くらいは冗談さ。資金の当てができたのなら、さっそく研究を開始しないと……嘘じゃないよ。あの娘からもシビアな期間を切られてしまったからね」

 

 

 エルシャが何かを念押ししてくる。ちゃんと真面目にやりなさい、気をつけなさい、という内容である。まるで保護者が子どもに注意するような言い方にネムラは苦笑する。

 

 

「うん、大丈夫さ。そこまで無理をするつもりはない」

 

 

 通話を終え、ネムラは受話器を戻した。

 それから、机の上に置かれていたコーヒーを飲み干す。時間が経ってぬるくなったソレは粉っぽさばかりが舌に残ってしまった。いつもは砂糖とミルクをたっぷりと入れているのだが、今日は切らしていたのが悔やまれる。

 

 

「うぇぇ……。こんなことなら、ヨルティナに頼んで買ってきてもらえば良かったなぁ」

 

 

 顔をしかめるネムラ。

 だが、眠気は多少マシになったのを感じた。なにせ、昨日から丸一日掛けて、オーク事務所に保管されていた映像を確認していたのだ。時間もないので、複数の映像を複数のモニターで流しつつ、倍速で再生をしていた。そんなことをしていたので、肉体的にも精神的にも疲労はそれなりに溜まっている。ふらりと、ネムラは回転椅子から立ち上がった。

 

 白衣の裾を軽く払い、所長室を出る。既に日は落ちており、ヨルティナが来たときよりも、研究所の廊下は暗闇に包まれていた。蛍光灯の一部は相変わらず断続的に点滅している。壁に貼り付けられた資料、床に這うケーブル、使途不明の段ボール箱。その間を、青髪の小さなエルフは眠たげな足取りで進んでいく。

 

 エレベーターの前に立つと、自動的に扉が開く。エレベーター内には、ヨルティナが来たときと変わらず異質な匂いが漂っていた。体液と肉が中途半端に焼けた匂い、まともな感性の持ち主なら顔をしかめるような不快な匂いだった。

 中へ乗り込んだネムラは操作盤へと視線を送る。操作盤には、一階から三階までのボタンしかない。ネムラはその表面に指先を当てた。青い魔力が静かに滲む。

 

 すると、操作盤の表面に通常では見えなかった文字が浮かび上がる。それはエルフ語の認証術式で、建物の所有者であるネムラの魔力だけを受け付ける発動キーである。

 程なくして、エレベーターは動き出した。下へ、一階を通り越して、さらに下へと。軋むような音と共に、箱は地下へ降りていく。階数表示は既に消えていた。代わりに操作盤の奥で青い光がゆっくりと瞬いている。

 

 やがて、エレベーターが止まり、扉が開く。

 

 その瞬間、異臭が流れ込んできた。焦げた血の匂いと獣じみた体臭、薬品と体液、そして魔力が腐ったような澱みが追加された耐え難い悪臭。それらが空気と混ざり合い、地下階層の全体を満たしていた。エレベーターにまで微かに滲んでいた不快な匂いの正体は、これである。

 

 

「さすがに強烈だね、これは……」

 

 

 ネムラは白衣の袖口で軽く口元を押さえる。

 どこからか、うめき声が断続的に聴こえてくる。低く、野太く、人の声に似ているが、どちらかというと獣に近い声だ。痛みと怒り、そして憎しみに満ちた唸り声。命乞いとも呪詛ともつかない音が、地下に沈殿している。

 

 エレベーターを降りた。地下は壁のない広大なワンフロアである。天井は高く、剥き出しの配管とケーブルが蜘蛛の巣のように走っている。照明は落とされており、暗がりの中には鎖の擦れる音と、濡れた床を何かが叩くような水の音だけが響いていた。

 

 ネムラは額に上げていたゴーグルを下ろして装着する。魔力を流し込むと、天井のライトが一斉に点灯したかのように、地下フロアを見通せるようになる。

 

 そこには、緑色の皮膚をした豚面の亜人たちがいた。

 

 ある者は鎖で吊るされ、ある者は魔法陣の描かれた床へ縫い留められ、ある者は首輪から伸びる管を通じて装置に繋がれている。いずれも焼け焦げた皮膚を晒していたり、四肢の一部を失っていた。焦点の合わない目で天井を見上げながら、意味のない音を喉から漏らす個体が何体かおり、おぞましい叫び声を響かせている。

 

 どの個体も、オーク事務所に所属していたオークたちだ。

 

 職員、警備員、運搬係、例の撮影の現場にいた者。命令を出した者も命令に従った者も区別なく、事務所への襲撃後も息のあった者はこの地下に運び込まれていた。

 ネムラの表情は変わらない。青い瞳に憐れみはない、興奮もなければ、怒りもない。ただ、その瞳には観察対象を見る研究者の無機質な光だけがあった。

 べちゃり、と踏み出したブーツの底で何かが潰れるような感触がする。

 

 

「…………最悪だ、買い換えようかな」

 

 

 視線だけを足元へ落とす。

 床は酷く汚れていた。黒ずんだ赤色の血液が、一部は排水口に流れ、一部は所々で浅い水溜まりのようになっている。そして、穢れきった床の上で白濁したゼリー状の液体が鈍い光沢を放っている。ネムラが一歩踏み出すたびに、それがブーツの底から不快な感触を伝えてくる。

 オークどもには()()を採取するためのチューブを装着していたのだが、恐らくは粘度が高すぎて目詰まりを起こしたのだろう。どの個体から漏れ出したものなのか、いちいち判別する気にもなれなかった。

 

 

「……まったく、死を前にしているのに随分とお盛んなことだ。君たちがどういう脳内構造をしているのか、少しだけ興味が湧いてきたよ」

 

 

 軽薄な言葉を口にしながら、ネムラは白衣の袖で口元を押さえて目を鋭く細めた。

 吐き気がこみ上げる。エルフとしての本能が、この場にいることを強く拒絶しているのを感じる。鼻から吸い込んだ空気が肺へ届くたび、肺がその空気を受け入れることを拒むような違和感があった。喉が勝手に狭くなり、胃の奥からさっき飲んだコーヒーが逆流してくる錯覚さえ覚える。

 

 

「……う、ぇ」

 

 

 小さな声が、漏れた。

 研究者として、衛生環境に問題がある場所には慣れている。腐敗した魔物の死骸も、魔力汚染体も、失敗したキメラの類も扱ってきた。三年間放置した冷蔵庫に未知の生態系を誕生させる程度には、ネムラ自身の衛生観念も褒められたものではない。

 

 だが、これは違う。

 

 理屈よりも嫌悪が先に来る。エルフに刻み込まれた原初的な忌避感に、前日からの疲労が重なった。久しぶりの戦闘、押収した映像の確認と消去、あの少女の治療計画の作成。疲弊した身体は、こういう時に正直だった。

 

 

「ふぅ…………うぷッ!?」

 

 

 呼吸を整えようとして失敗した。少しばかり深く息を吸ってしまった瞬間、濃縮された臭気が肺の奥まで入り込んだ。血と脂と体液、いや、もう誤魔化すのはやめよう。白濁色のゼリーのような何かはオークの精である。

 本来ならば、エルフが近づいていいものではない。だが、魔法少女たちを汚染した液体の性質、それを解析し直せば、彼女たちの治療の精度を上げることができるはずなのだ。

 故にネムラは事務所の生き残りをここに運び込んだ。しかし、換気の悪い地下室でオークの精から放たれる醜悪な臭いは、青い少女の想定を遥かに超えていた。舌の上に膜を張り、喉の奥を湿った布で塞がれるような怖気に、全身が総毛立つ。

 

 

「ん、ぐぅっ……大丈夫、こんなものは、単なる、生理反応、だ」 

 

 

 呼吸が浅く、胸が苦しい、喉の奥が爛れるようだ。

 胃の底は緩やかに波打ち、次の発作を待っている。ネムラは青白い顔で周囲を見回す。オークどもの中に身動きのできる個体はいない。意識がないか、四肢がないかの2択で、更にその上から、鎖や首輪で物理的に拘束されている。

 なので、自分がどれだけの無様を晒しても、その隙を突いてくる個体はいない。だが、これから会うオークに関しては、こちらの不調を悟らせるわけにはいかなかった。ネムラは口元を拭い、いつもの不敵な笑みを張り付けて、フロアの中央へと進んでいく。

 

 そこには他の個体とは異なり、一体だけ五体満足で、目立った外傷もないまま拘束されているオークがいた。金属製の鎖で両腕と両脚を固定され、首元には太い拘束具が嵌められている。

 上等な赤いスーツに身を包んだオークだった。イタリア辺りの布地だろうか、服に無頓着なネムラでも仕立ての良さだけは分かる程度には高価なものだった。だが、その赤いスーツは黒ずんだ血で汚れ、ズボンには乾いた染みが広がっている。脂汗に濡れた顔は醜く歪み、口には猿ぐつわが噛まされている。

 

 

「やあ、社長。気分はどうだい? ちなみに、私は今世紀で最悪の気分だ」

 

 

 ネムラはまるで古い知人と偶然出会ったかのような口調で言った。青い魔力がネムラの指先から糸のように伸び、それがオークの口元へ絡みついて、猿ぐつわを取り除く。するとオークは狂乱したように叫んだ。

 

 

「私の部下と、魔法少女どもは何をしているのです……! なぜ誰も、私を、助けに、来ないのです!」

 

 

 舌が上手く回っていないようだった。顎の骨か、舌か、喉か、そのあたりに損傷が残っているのだろう。ネムラは同情しなかった。

 

 

「ああ、君の事務所の部下と魔法少女たちなら、私が到着したときにはほとんどが無力化されてたよ。狭いビルの中でアイツと戦ったのが運の尽きだったね」

「そんな、ばかな……!」

 

 

 オーク事務所が襲撃された日。

 ネムラもその場にいた。エルシャから呼び出されていたからだ。突然の呼び出しにも関わらず駆けつけたのだから、少しは褒めてほしいくらいだったが、現場に到着した頃にはだいたいのことは終わっていた。ビルの中は半壊しており、壁は抉れ、警備システムは沈黙していた。

 オークの半数以上は絶命しているか、再起不能に近い状態に追いやられていたし、事務所所属の魔法少女たちも大なり小なり叩き伏せられ、拘束されていた。

 なので、ネムラが主にやったのは残党の掃討と、負傷した魔法少女たちを医療機関へ回すこと、そして生き残ったオークどもをこの地下室へ押し込むことくらいだった。

 

 

「この野蛮人がっ、毒婦ども、化け物がッ!」

「オークに野蛮呼ばわりされる覚えはないな。あと、その化け物というカテゴリには、もしかして私も入ってるのかい? 私は同じエルフでも、あの大魔法使い様のような馬鹿げた魔力は有していないのだが」

 

 

 そもそも、自分はいきなりオークだらけの現場へ呼び出されたのだから、被害者のようなものだとネムラは心の中で旧友へ抗議した。面と向かって言ったところで聞き入れられないことは分かっているので、直接伝えるつもりはない。

 その間にも、オークの社長は唾を飛ばしながら喚いている。自分をどうするつもりだ、誰の許可を得ている、監禁は違法だ、そんな言葉が喉から次々と垂れ流される。ネムラは小さく息を吐いてから、話し始める。

 

 

「この国では、亜人の所有する不動産の中では、その亜人の母国法の適用が優先される。君たちが本来なら違法となる薬物を拠点で生産、所持していたり、明らかに未成年である少女たちをあのように扱おうとも見逃されていた理由の一つがそれだ」

 

 

 これは異界側の政府の力が強いのと同時に、この国の主権が穴だらけなために引き起こされている。オークのビルではオークの法が、エルフの研究所ではエルフの法が顔を出す。

 属地主義の一種のようにも思えるが、実態としては限定的な治外法権に近いのだろう。建物の壁を国境に見立てて、適用する法を切り替える歪な制度だ。亜人の母国法を尊重するという建前で、建物一つ、土地一筆ごとに小さな異界を作ってしまっているのだ。

 ネムラの青い瞳に、無機質な光が揺れる。

 

 

「この国の政治家はそれを多文化の共生と叫び、官僚は準拠法の特例とし、君たちは権利と呼んだ。けれど実態は法治国家の壁に空いた穴だ。君たちはその穴から薬物と金と人々を運び出していた。ならば、同じことをそっくりそのまま返してやろうと思ってね」

 

 

 ネムラの青い瞳には、まるで水面に映る影のようにオークの姿が映し出されていた。

 

 

「言うまでもないが、この土地と建物は私の所有物だ。そして、私たちエルフの国では君たちオークに一切の人権は認められていない。それどころか駆除が推奨される対象であり、害獣と同じ扱いだ」

 

 

 言葉はどこまでも平坦で淡々としていた。そこに一切の感情は乗っていない。

 

 

「つまり、ここで私が君たちをどのように扱おうと、この国で法的な咎めを受ける可能性は低い。この理屈は、君もよく知っているとおりだ」

 

 

 オークの緑色の皮膚から血の気が引いていく。

 法治主義という観点からするならば、非常に問題のある制度だろう。ネムラは以前から考えていたことだが、この国の政府は異界出身者同士の紛争を積極的に取り締まる気がない。むしろ、魔法少女を含む民間事業者や一般人へ丸投げしている節すらある。

 この世界とは異なる倫理体系を持つ異界の法を、建物や土地単位で優先させる。どの種族の土地に足を踏み入れるかによって、特定の種族が人間扱いから家畜扱いにまで変わる可能性があるのだ。そんな状況で、警察機構や司法権がまともに機能するわけがない。

 だが、今回ばかりは利用させてもらうとしよう。

 

 

「もし私が君たちの所有するビル内で拘束でもされれば、恐らくは逆の立場になるのだろうが……まあ、それはこの場で論じる話ではないね」

 

 

 仮にではあるが、もし事務所を襲撃した日に、こちら側が敗北していたなら、どうなっていたか。

 オークに捕まったエルフの末路は悲惨だ。薬漬けにされてオークの孕み袋にされるか、それとも魔力生産機にされるか。いずれにせよ、擦りきれるまで消費されることは目に見えている。

 そして生命の限界が来れば、防腐処理を施され、死後も玩具として、物理的に完全に壊れるまで使われることになる。そうなれば、墓に収まることなく、最後は生ゴミ送りだ。そして、その末路はオーク事務所に囚われた少女たちにも同様に用意されていたはずだ。

 はぁ、と小さなため息を吐くネムラ。

 

 

「……余計な話をするなと、ヨルティナにも怒られたばかりなんでね。脇道に逸れてばかりでは話が進まないから、本題に入ろうじゃないか」

 

 

 そう言うと、ネムラは白衣の胸ポケットから1本の試験管を取り出した。透明な液体の入ったソレには、真新しいラベルが貼り付けられている。そこに書かれた文字を目にした瞬間、オークの目が恐怖に見開かれた。

 

 

「そ、それは……ッ!」

「ドール化薬。または人体改造魔導流体ナノマシン液、だったかな。これは君たちの事務所にあったものだ」

 

 

 ネムラは試験管を指先でつまんだまま、淡々と告げる。

 

 

「軍事分野での正式名称は、戦術神経制御用魔導流体《MSN-CX15》。君たちが生殖行為や類似する行為を行う際に、あの娘や他の魔法少女たち、挙句の果てには一般人にまで投与していた劇薬だよ」

 

 

 透明に見える液体の中には、大量のナノマシンが含まれている。これを投与されると神経系を操作され、特定の感覚の遮断、思考の誘導、身体機能の掌握などの効果を付与される。

 投与された者は自分自身の精神と肉体、感覚がそれぞれ切り離される。外部からの操作も条件によっては可能であり、文字通りに人を人形(おもちゃ)にしてしまう劇薬である。

 この世界の軍人の装備や、魔物と戦う魔法少女たちのマジカルドレスにも、痛覚遮断や筋肉補助のためにこの技術が流用されてはいるが、それはあくまでも戦闘面への限定的な運用であり、オークどものような悪辣な使用はされていない。

 ネムラは話を続ける。

 

 

「これ自体は、それなりに古い薬物だ。なにせ、異界で魔法薬師をしていた時代の私も製造に携わっていたくらいだ。こちらの世界においては、魔法少女たちのマジカルドレスとやらを解析することで生成にこぎ着けたようだが……元々はエルフの技術だ」

「ま、ま……まさか、ドール化薬を私に投与するつもりか!?」

「そりゃそうだろう。君に解説するためだけに、私がわざわざ危険物をこんな所に持って来るわけがないじゃないか。君には色々とやってもらいたいことがあるんでね」

 

 

 オークが震える喉で唾を呑み込む。ネムラは自嘲するかのように薄く笑った。

 

 

「これを解析する限り、君たちの使っていたものは、私が知っている原型よりも、薬効がかなり限定的なものに変更されている。いや、むしろ悪趣味な方向に特化されていると言うべきかな。基本構造は変わっていないが、特定の感覚の制御と思考の誘導がいやに執拗だ」

 

 

 ネムラは試験管を軽く揺らす。透明な液体が内側で鈍く輝いていた。これを一度投与されると、人体から完全に取り除くことは不可能に近い。おびただしい量のナノマシンが神経系に取りつくからだ。通常の医療処置での完治には期待するだけ無駄だろう。

 地下のどこかで、オークの呻き声が低く響き、不快な水の音が鳴る。ネムラは構わず話を続けようとした。

 

 

「まあ、不可逆なのはナノマシンの身体への定着だけであって、寛解状態に導くまでの治療は不可能ではないのだが……ッ…………ん、ぐ、ゔぅ゙っ!?」

 

 

 湿った手で掻き回されたような錯覚が喉の奥を襲う。

 先ほど喚いたオークから漏れ出した体液、それが湿った地下の空気に混ざり合い、更に臭気を強くしたのだ。それがトドメとなり、少女の精神の許容量を超えてしまった。大きく身体を折り、ネムラは口元を押さえたまま激しくえずく。

 それとともに、指先から力が抜けて、試験管が滑り落ちた。床に触れた瞬間、その硝子製の器具はあっけなく砕け散る。透明な薬液は床の穢れた体液に飲まれ、すぐに輪郭を失っていった。

 

 

「……あ」

 

 

 それはどちらの声だったのだろう。確かなのはオークの社長の表情が目に見えて緩んだことだけだろう。鎖で吊るされたまま、オークは口の端を吊り上げる。

 オーク事務所に保管してあったドール化薬はあの一本だけだ。劇薬の出入りはすべて社長である自分の目を通している。入荷数に保管数、持ち出し記録に廃棄処理記録、それらは社長である自分が把握していたのだ。

 このエルフが切り札のように持ち出してきた薬は、床の汚物の中へ消えた。オークは、白衣の袖で口元を押さえたままふらつく小柄なエルフを見下ろす。さっきまで無機質な目をしていた女が今は力無く俯き、肩で息をしている。

 その事実が、オークの中に卑しい余裕を呼び戻していた。

 

 

「オークックッ、なかなかどうして。不気味なエルフかと思いましたが、これはこれは」

 

 

 オークの視線が、まるで商品を値踏みするかのように青いエルフへと這い回る。窪んだ眼が穢れた床の上で小刻みに震える細い足首を捉える。力が抜ければ、そのまま床の白濁液の中に膝から崩れ落ちそうな危うさがそこにはあった。

 視線はそこから這い上がっていく。華奢な脚の曲線と太もも、白衣の裾からわずかに覗く腰のくびれ。いずれも触れれば簡単に折れてしまいそうなソレらを舐め回すように吟味する。

 青白く不健康なだけに思えた肉体は、実際はひどく繊細な作りをしているにように見えた。何よりも、先ほどまでは軽薄な笑みと不敵な態度の下に隠されていた、目の前の女の幼さと脆さが今は表へと引きずり出されている。

 ぬるりと舌舐めずりをするオーク。その仕草だけで、この男がどういう人格をしているのかは十分すぎるほど明らかだった。

 

 

「あなた、まだ男を知らないのでしょう?」

 

 

 ネムラの肩が、ぴくりと動いた。オークはそれを見逃さなかった。吊るされ、拘束され、逃げ場などないはずのオスがまるで捕食者のように顔を歪ませる。

 

 

「年齢も、あの化け物エルフより随分とお若い。人間の換算でいうならば二十歳、いや、もっと若年ですか。純潔の若いエルフに、我々の精の臭いはさぞ効くでしょうなぁ」

 

 

 地下室にオークのくぐもった声が響く。それは直前までの命乞いのようなものではない。相手が嫌がる場所を探り当て、そこへ指を差し込むような嫌らしさがあった。

 オークという種族の脅威は何も腕力だけではない、繁殖力だけでもない。奴らは探るのだ、その者が何を恐れ、どこを突けば精神を崩せるのか。相手の足を止め、かき乱し、どうすれば抵抗する心をへし折り、取り返しのつかない未来を想像させられるか。そんな醜悪な知性こそが、奴らを単なる獣ではない邪な存在にしている。

 

 

「実に、実に当然の反応です。相容れぬモノを拒み、穢れを恐れる。それは生物として当然の防衛本能でしょう」

 

 

 オークの精の臭いに、ほぼ例外なくエルフの女は激しい嫌悪を示す。だが、それにも個体差はあり、齢を重ねた者よりも若い者、出産経験のある者よりも無い者、同族の男と交わったことのある者よりも、純潔の者はより激しく嫌悪感を覚えることになる。それはエルフという種族の存続を考えれば、当たり前のことである。なにせ、その腹に一度でもオークの子を宿してしまえば、二度と純血のエルフの子を宿すことはできなくなるのだから。

 

 

「脚が震え、抵抗もできず、ひたすらに許しを請い続ける。そんな本能に逆らった先にある根源的な恐怖と破滅がどういう甘美をもたらすのか、ご興味はありますかな」

 

 

 陶酔したように目を細めるオーク。

 そこにあるのは欲望だけではない。恐怖を契約と呼び、屈服を合意と呼び、搾取を事業と呼び換える。それらすべては彼らの文化にとっては正しい秩序の形なのである。

 地下室に沈黙が落ちた。ネムラは俯いたまま、肩を小さく震わせている。呼吸はまだ整っておらず、白衣の袖で口元を隠したままだ。オークの社長はその様子からエルフの精神が衰弱していると判断した。

 だから、次の言葉を予想できなかった。

 

 

「……正直に言うと、君たちを、実験台にする……ぅ゙……ことを少しだけ……躊躇していたんだ、けれど」

 

 

 ネムラの足元で青い光が灯り、穢れた床に魔法陣が浮かび上がった。青い魔力が床の亀裂を伝い、周囲へと湧き上がる。

 

 

「どうやら、徒労だった……ようだ」

 

 

 次の瞬間、少女の足元に広がっていた血と薬液と体液が、音もなく変質した。濁りが消え失せ、粘つきが失われ、悪臭の核になっていた成分が強制的に分解されていく。床に滞留していた液体は、ネムラの周囲から順に澄んだ水へと変わっていった。

 魔法陣の外では、血と体液がまだ床を這っているが、それらは見えない壁に阻まれるように魔法陣の中へ入ってこない。いや、円の外周に触れた瞬間に粘性を失い、透明な水へ変わっていく。

 完全に消えたわけではないものの、臭いは薄れて、肺を苦しめるほどではなくなった。ネムラはゆっくりと息を吸う、今度はむせなかった。

 

 

「……君たちはオークとして、恐らくは当然のことをしてきたのだろう。それがどれだけ他の種族から見て邪悪であっても、君たちの法では許され、君たちの文化圏では一般的で、君たちの社会では悪ではない。そういう理屈くらいは、理解してやるつもりだった」

 

 

 先ほどまでとは違う笑みを顔に貼り付けるネムラ。

 それはヨルティナに見せていたような笑顔ではなかった。回転椅子で怠惰に移動し、患者に冷蔵庫掃除を押しつけ、不味いコーヒーを飲みながら軽口を叩いていた、子供のような表情ではない。

 青い瞳が凍りついた光を宿して、吊るされたオークを見上げている。

 

 

「やっぱり、豚どもの思考回路を理解するのは諦めることにするよ。あまり得るものが無さそうだからね」

 

 

 ネムラは白衣の内ポケットへ手を入れた。

 ごそごそと探り、厳重な封印処理が施された小箱を取り出す。黒い金属でできた小さな箱だった。表面にはエルフ語で書かれた警告文と、軍用薬物の保管を示す紋章が刻まれている。ヨルティナが冷蔵庫を駆除してくれたおかげで、これの置いてある保管庫へようやく入ることができたのだ。掃除というものも大事だなとネムラは頷く。

 小箱がかちりと開き、少女が中から取り出したのは一本の注射器だった。その内部には薬液が満たされており、その液体は透明というより、月光を溶かしたような淡い銀色を帯びている。側面には古びたラベルが貼られていた、文字は掠れていたがまだ読める。『戦術神経制御用魔導流体《MSN-CX15》』の文字が、そこには印字されていた。

 それを見たオークがひゅっと息を止める。

 

 

「この薬を新しく生成するのは、エルフの国でもご法度だ。しかし、たまたま手元に残っていた薬液を家畜相当の生物に打つ分には問題ない」

 

 

 シリンジキャップを外された注射器の先端から、銀色の液体が一滴だけ滲む。

 

 

「安心したまえ。君たちの使っている模造品ではなく、軍が尋問目的に使用していた純正品だ。効果は製造主である私が保証するよ」

「や、やめてくれッ! それはドール化薬などよりも、遥かに酷いッ!!」

「まずは女性の年齢や男性経験の有無に言及するような、粗野な頭蓋の中に品性をインストールするところから始めよう。なに、心配しなくていい。人格が丸ごと変わったところで死にはしない」

「それは、まともな知的生物にとっての死だと言って……ォ」

 

 

 注射器の針がオークの腕に突き刺さった。銀色の液体が、ゆっくりと押し込まれていく。即座にオークの瞳孔が開き、その身体が大きく痙攣し、口から泡がこぼれ落ちた。

 さようなら、青いエルフの口から放たれた短い言葉。それがオーク事務所の社長が聴いた最後の声となった。

 

 

 




原作が原作なので、このあたりの解釈もしておかないとなと思った次第です。
この手の話はヨルティナちゃんや、かつのり君にはちょっと厳しそうなので、今作の闇担当のネムラちゃんに頑張ってもらいました。次話以降はまた光の回になる予定です。

例のごとくAIイラスト注意

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人類最後のマスターになる覚悟を決めた転生者は召喚事故に遭いながらも人理保障の旅に出る……!


総合評価:15642/評価:8.9/完結:10話/更新日時:2026年07月24日(金) 18:00 小説情報


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