魔法少女ヨルティナ〜貴女に言えなかったこと〜   作:オーギュストめろん

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第八話︰ヨルティナとネムラの未来と後悔と

 

 

 街外れの研究所は、夕方の光の中で静かに佇んでいた。

 かつては白かったであろう外壁は灰色にくすみ、そこに植物の蔓が我が物顔で這い広がっている。半開きの門扉は錆びつき、その向こうの庭には、発光するキノコと、風もないのに揺れる奇妙な植物たちが雑草に混じって好き勝手に自生している。それらを目にすれば、好き好んで足を踏み入れようとする者はそう多くないだろう。

 

 建物の奥にある所長室も似たようなものだ。床には配線が乱雑に這い回り、壁際には所狭しと薬品棚が並び、机の上には薄汚れた魔導具と書類が積み重なっている。どこを見ても、陰鬱な空気の染みついた研究室でしかない。そのはず、だった。

 

 

「სულებო, ისმინეთ ჩემი ხმა.(精霊よ、我が声を聞け)」

 

 

 エルフの呪文が走り、部屋が青い光に満たされていく。水底から見上げる陽の光のような穏やかな輝きが室内へ降り注ぎ、壁も床も淡い揺らぎの向こうへ沈んでいった。

 それは魔導具による灯りではない。もっと古く、もっと根源的なものだ。床を這っていた配線の影が青い揺らぎの中に紛れていく。薬品棚の瓶も、乱雑に積み上がった書類も、薄汚れた魔導具も、今だけは水底に沈んだ遺物のように存在が希薄だった。

 

 

「ბოროტთ მიეზღოთ სასჯელი, ხოლო კეთილთ მიეცეთ შენდობა.(悪しき者には罰を、善き者には赦しが与えられるべきである)」

 

 

 部屋の中心には、ヨルティナが座っている。白と紺のマジカルドレスを揺らぎに浸して、膝の上で重ねた指は、ぴくりとも動かない。青い光を受けた金髪は本来の色を薄め、毛先に近づく程に青を映した白銀に近い輝きを帯びていた。

 翡翠の目は閉じられている。ネムラに、そうするよう言われていたからだ。

 

 

 ──しばらくは目を閉じていたまえ。自分の魔法をじろじろと見られるのはあまり好きじゃないんだ。

 

 

 そう言われ、ヨルティナは素直に従っていた。身体の奥で未だに巣食う疼きと熱が、余計な反論をする余裕を奪っている。

 その向かいで、研究室の主は静かに手を組んでいた。白衣はよれ、長い青髪は櫛というものを長らく知らないように、好き勝手な方向へ跳ね、眠たげな目元には薄いクマが滲んでいる。以前と変わらない、雑然とした姿のままだ。だが、青い光の中で目を閉じて、祈るように指を組むネムラの周囲だけは、場違いなほどに清らかだった。

 静かな水面に雫を一滴ずつ垂らすかのように、青髪のエルフの口から繊細な言霊が紡がれていく。

 

 

 

「ამ სხეულის მანას ვწირავ, და ნემურა, ძველი ტყის მცველი, ბრძანებს.(この身のマナを捧げ、旧き森の守護者であるネムラが命じる)」

 

 

 冬の泉のように透き通った、冷たい声で紡がれる呪文。

 それは人のために作られた詠唱の響きというより、まるで木々の枝葉を打つ雨音であったり、岩肌を伝い落ちる湧き水のせせらぎであったりした。誰かに聞かせるためではなく、人の営みとは無縁の場所で、何百年も変わらず繰り返されてきた自然そのものの囁きのように。

 

 

「წმინდა წყალი, ბოროტების განმდევნელი; სიცოცხლის წყლის სიღრმე, ჭრილობათა მკურნალი.(邪を退ける聖なる水、傷を癒やす生命の水底)」

 

 

 森に降り注いだ雨が大地へ染み入り、やがて泉となって命を潤す。その絶えることのない流れを掬い取るように、ネムラの手がゆっくりと動く。それに合わせて、淡い光が水流のような形をなし、緩やかにヨルティナの身体へと溶け込んでいく。

 魔力は小さく脈を打ち、水面に落ちた雫の作る波紋のように、少女の身体の中で広がっていく。その波に合わせて、部屋の空気がさらに冴え渡り、窓の向こうに広がる、騒然とした都市の気配さえも薄い膜を隔てたように遠ざけられる。

 残ったのは、ネムラの声だけだった。

 

 

「ო, წმინდა წყლის სულო, განკურნე ამ არსების ჭრილობა.(清らかなる水の精霊よ、この者の傷を癒せ)」

 

 

 呪文の最後の一節が静かに溶けていく。

 その余韻に触れるように、ひやりとした感覚がヨルティナの身体の内側を撫でた。「冷たい」と一瞬そう思ったが、それは肌を刺すようなものではなかった。夏の暑い日、湖へ足を浸したときのように、火照った身体から余分な熱だけをさらっていく。

 青い光が身体の奥へと溶け込み、それまで居座っていた体内の鈍い痛みが、寄せては返す水に攫われるように少しずつ輪郭を失っていった。痛みと疼きが一つずつ消えるたびに、知らず強張っていた肩から力が抜けていく。

 傷を無理に塞いでいるのとは違う。欠けたところへ水が流れ込み、乾いた場所を満たしていくかのように。失われていたものが、あるべき場所へ戻されていく。そんな感覚だった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「……一応、説明しておこうか。私は今、君の内臓や全身の筋肉に確認できた損傷に対する対処をした。君の生殖機能にしろ、ドール化薬にしろ、その治療にあたっては君には相応の負担が見込まれる。だから、その負担に耐えられるように、君の肉体を修復させてもらった」

 

 

 ネムラの組んでいた指先がほどけた。

 すると、水底のように揺らめいていた部屋が元の研究室へ戻っていく。壁に揺れていた波紋は薄れ、天井の反射は光を失い、床を満たしていた青い光が、乾くように消え去っていった。

 ヨルティナが、ゆっくりと目を開ける。翡翠色の瞳に青い光の名残がまだ揺れていた。目の前では、先ほどまでの神聖さは何処へやら、ネムラが以前と同じ気怠げな様子で椅子に座っている。あれだけの魔力行使をしたというのに、その顔色は一切変わっていない。

 

 

「ネムラ、私はオーク事務所で受けた身体の損傷は可能な限りですが、自力で治癒を終えています。わざわざ魔法による再治療が必要だったのですか?」

「君に限った話じゃないが、魔法少女たちの行使する回復魔法は少しばかりお粗末だな。即時的な肉体の修復は大したものだが、長期的な視点が欠落している。ズタズタになった体組織を再生させるなら、もう少し丁寧にやるべきだ。さもないと、さっきまでの君みたく傷の一部が歪に修復されてしまう」

「……確かに、身体の調子が先程よりも、随分と良いような気がしますね」

 

 

 オーク由来の汚染はともかく、ヨルティナの身体は魔法による治療で以前の状態に少しずつ近づいていた。ドール化薬で痛めつけられた両足や腰の筋肉の違和感、腹部の痛みが消え去っている。自分の回復魔法を粗雑なものだと言い切られたことに、ヨルティナとしては思うところが無くはない。しかし、実際にエルフの魔法の効力を実感すると、言い返す言葉が見つからなかった。旧い妖精の系譜に連なるエルフの魔法、認めたくないが、その技術水準はこの世界の人類の比ではないのだろう。

 ネムラはそんなヨルティナの内心など気にした様子もなく、再び両手を組み、回転椅子に深く腰を沈める。

 

 

「さて、これからドール化薬の休眠措置をしてしまおう。君の生殖機能の回復についての治療方法はまだ検討中でね。もう少しだけ時間が欲しい」

「約束した二年の期限さえ守ってくれるなら構いません。あと、ドール化薬についてですが、ナノマシンそのものを私の身体から除去するのは難しいのですか?」

「出来ないことはないが、君には治療が終わるまで、そこの診療台の上で三ヶ月ばかり眠り続けてもらうことになる。それでいいなら善処しよう」

「論外ですね。そんな暇はありません」

 

「奇遇だね。私にも生憎とそんな時間はない。……さあ、続きを始めようか。悪いが、また目を瞑っていてくれ」

「承知しました」

 

 

 ヨルティナが瞳を閉じるのを確認すると、ネムラは一度だけ深く息を吸った。すると、青い魔力光がネムラを中心に今一度大きく波打った。壁の輪郭がわずかに滲む。床を這う配線の影が揺れ、薬品棚の瓶に映った光が、深い水の底で瞬く泡のように細かく震えた。

 音が遠ざかり、建物内の駆動音も、窓の外の気配も、薄い膜の向こう側へ押しやられる。そこにあるものすべてが、静寂に包まれてゆっくり沈黙していく。

 

 

「და კვლავ, გევედრები.(続けて、乞い願う)გამოღვიძებას მიეცეს სინათლე, ხოლო ძილს — სიბნელე.(目覚めには光を、眠りには闇が与えられるべきである)」

 

 

 詠唱に合わせるように、ネムラの青い魔力光に影が差す。濁ったのではない、穢れを含んだわけでもない。それは澄んだ泉の底に、木々の枝葉や空を横切る雲の影が差し込んでいくようだった。木漏れ日のような明るさと、木陰のような暗がりが絡み合いながら、呪文の続きを誘うかのようにネムラの周りを漂っている。

 

 

「უღირსი, სიცოცხლის ნაგლეჯს ვწირავ და ამ სხეულს მსხვერპლად ვდებ; ნემურა, ძველი ტყის მცველი, გევედრებათ.(卑しくも生命の欠片を捧げ、この身を贄とし、旧き森の守護者であるネムラが願い出る)」

 

 

 その一節を口にした途端、ネムラの組んだ指先から腕にかけて赤い亀裂が走る。硝子にひびが入るように青白い肌へ鋭い傷が広がっていく。鋭い刃物で切り裂いたような細い傷口は、やがて何かに掴まれるように押し広げられ、そこから少なくない血が流れ出していく。ネムラは痛みに表情を変えることなく、その事象を受け入れる。

 鉄さびのような匂いが、部屋の空気へと微かに染み込んでいく。ヨルティナは目を開けない。開けてはいけない、と言われているからだ。それでも、流血の匂いだけは隠しようがない。

 

 

「……ネムラ?」

「大丈夫だ、何も問題ないよ」

 

 

 魔法とは、代償なくして行使できるものではない。そして、その対価は術者の魔力によって支払われることが多い。だが、古い系統の魔法においては、求められるものが術者自身に及ぶことがある。その場合の術者の肉体は、魔法を行使する者でありながら、尊き存在に差し出される供物であり、言葉通りの贄となる。血と肉、精神と魂、術者の痛みや苦しみに至るまで、行使する魔法に釣り合う代償を突きつけられるのだ。

 

 

「სისხლში ჩამალულნო, ელვის მეშვეობით მოძრავნო, ურიცხვნო მცირენო, განუწყვეტლივ რომ იკლაკნებით.(血潮に潜み、雷を介し、絶えず蠢く数多の小さきもの共)」

 

 

 ネムラから零れた赤は、血の色を失い、体温を失い、何者か──おそらくは精霊たちの手によって、澄んだ液体へと変わっていく。それはネムラの血でありながら、もうネムラだけのものではない魔力を宿していた。そして、青い魔力の流れに導かれるまま、ヨルティナの肌を濡らすことなく、その内側へ静かに浸透していった。

 

 

「ჩაიძირეთ, დაცხერით, დადუმდით; თქვენთვის სინათლე საჭირო არ არის — სწორედ სიბნელე შეგეფერებათ.(沈め、鎮め、静め、汝らに光は要らず、汝らには闇こそが相応しい)」

 

 

 ドール化薬、この薬の作用メカニズムは神経系に潜み、外部からの指令を受け取る魔導ナノマシンによるものである。ひとたび投与されてしまうと、その全てを壊すことも、引き剥がすことも困難となる。

 

 

「ამიტომ, ო, დიდებულო სინათლისა და სიბნელის სულებო,(ゆえに、大いなる光と闇の精霊よ)」

 

 

 そのため、異界において、ドール化薬は完治ではなく、寛解を目指すことが推奨される。ナノマシンが外部から入力を受け取る機能を麻痺させ、本人の意思からの経路と、外からの命令を受け取る経路の双方を遮断することで、擬似的な休眠状態に移行させる。それが、ドール化薬に対する最も現実的な治療方法であった。

 

 

「მასში ჩაბუდებული უცხო წესი ბნელი წყლის ფსკერზე დალუქეთ და, გევედრებით, ახლა მხოლოდ დააძინეთ.(彼の者に巣食う、異なる理を暗き水の底に封じ、どうか今はただ眠らせたまえ)」

 

 

 祈りにも似たその言葉が静寂の底へ沈み、それと共にヨルティナの内側でずっと蠢いていたものの気配が消えていく。ヨルティナは目を閉じたまま、自分の身体の奥へ意識を向ける。「右手を上げろ」と、自分の身体の中のナノマシンへと指示を出す。けれど、何も起こらなかった。泉へ投げ入れた小石がそのまま深みに沈んでいくように、ヨルティナの呼びかけは身体の奥で何かに受け取られることなく、薄れていった。

 ヨルティナはゆっくりと目を開ける。

 

 

「……試しに命令を下しましたが、ナノマシンの反応はありません」

「上出来だ。ドール化薬による支配経路は、ひとまず断ち切れたと判断していいだろう。……どうかしたのかい?」

「いえ、血の匂いがしたので」

 

 

 ネムラを上から下まで観察するヨルティナ。しかし、ネムラの白衣やその下の黒いワンピースに流血の跡は見当たらない。あれは気のせいだったのだろうかと、ヨルティナは首を傾げた。

 そんなヨルティナからの視線には反応せず、ネムラは机の上に置かれたマグカップを手に取った。中身は冷めかけたコーヒーだ。味はひどいもので、おまけに淹れてから時間が経ちすぎてぬるい。けれど、今はその苦味と不味さがちょうどいいくらいだった。

 ネムラはマグカップの口を指先でなぞり、口を開く。

 

 

「今回、はっきりと分かったが、君の身体は思ったよりも酷い状態だったらしい。豚どもの事務所にいた期間があとひと月でも長ければ、カルテの書き方が変わっていたところだ」

 

 

 ヨルティナが膝の上で拳を握りしめる。翡翠の瞳にもわずかに力が入った。

 

 

「私は、負けません。必ず社長の元に帰ると誓った以上、どれだけの時間を耐えることになったとしても、魔法少女ヨルティナに敗北はありません」

「……前に言ったね、私はあの事務所にあった映像はオンラインに公開されている分も、公開されていない分も確認している。だから、君を含めた魔法少女たちがどれだけ気丈に抵抗していたかも、どこまで堕ちていったかも知っている」

 

 

 ヨルティナの瞳とネムラの瞳が向かい合う。窓の外はもう夕闇に包まれており、研究所の庭の植物が薄く青く瞬いている。

 

 

「豚どもの戯れ言を知っているかい? 『処女穴にして、好きな男がいる上位種族のお高くとまったメス穴を、アクメと自分のザーメンの臭いで塗りつぶして豚色に染めて征服する』だ」

「さすがは、低俗で、卑猥で、下劣な豚どもというところでしょうか。最低最悪で醜悪極まります」

「そう思うなら、二度と関わらないことだ。異界では、理解の範疇を超えた文化圏の者には近づかず、近づかせないのが暗黙のルールだった」

 

 

 蛍光灯が、一度だけ明滅する。影が棚の標本の瓶の列を這い、ヨルティナの金髪の端だけが、不自然に明るく残る。少女は視線を逸らさなかった。

 

 

「ですが、あのとき、私がレンタル移籍に応じていなければ、トワイライト事務所は無くなっていました。豚どもに買い取られてしまうなら、それはもうトワイライト事務所ではありません。あの事務所は社長と私の居場所です。もし、無くなってしまえば、私は……」

 

 

 そこまで言って、ヨルティナの声は途切れた。その後に何を続けるつもりだったのか、ネムラには分からない。居場所を失うだけでは足りない何かがあるのだろう。オークにその身を差し出してでも守りたい何かが、この少女にはあったのだろう。しかし、そんなヨルティナの言葉にもネムラは冷めた態度を崩さない。

 

 

「その話は前にしたはずだろう。君は逃げれば良かったんだ。事務所は清算でもして、君は想い人とどこかで暮らせば良かったんだと、私の見解は既に述べたはずだ」

「むっ……。なら、あなたが私と同じ立場だったとして、あなたの大切な人や大切な人の夢と自分の身が引き換えだとしても同じことが言えますか?」

 

 

 少しだけ挑発的な問いかけだった。真っ直ぐと向けられた翡翠の瞳に青いエルフは沈黙する。回転椅子が軋む音も、マグカップを動かす音もない。青白い指を机の上に置いて、何かを考えるようにネムラは視線を細めた。

 

 

「私は客観的な見解を述べているだけだ。合理的に考えるなら、誰もが同じことを言うだろうさ」

「いえ、誰かではなく、私はあなたに聞いています。あなた自身の答えを聞かせてください、ネムラ」

 

 

 研究室の空気が、薄く張り詰める。にらみ合い、と呼ぶほどお互いの視線は鋭くない。ヨルティナはじっとネムラの青色の瞳を見つめたまま答えを待っている。

 そんな眼差しから目を背けることなく、ネムラは答えを探していた。培養槽の泡がぽこりと鳴り、壁の奥の駆動音が低く唸っている。古びた蛍光灯がかすかに点滅している。

 やがて観念したように両手を挙げ、ネムラは回転椅子の背に沈んだ。その拍子に白衣の袖が持ち上がり、腕に刻まれた真新しい傷跡が照明に晒される。深々と肉を抉るような裂創が青白い肌をドス黒い紫色に変色させている。視線に気づいたネムラは素早く袖を元に戻すが、ヨルティナは先程の血の匂いが気のせいではなかったと確信した。

 

 

「……なるほどね、なかなか嫌な問いかけだな。客観的な見解を提示したはずなのに、そこへ個人の意見をわざわざ求めてくるなんて」

「答えたくないなら、無回答でも構いませんが」

「いや、君の気が晴れるなら付き合うよ。患者のメンタルケアも主治医の仕事のうちだからね。少しだけ待ってくれ、頭の中を整理したい」

 

 

 青い魔力がネムラの指先から滴る。魔力は空気へと泡のように溶け込み、それに反応するように空中の湿気が収束し、水の塊になり、ネムラの指の回転で熱湯へ変わっていく。魔法によって熱を帯びた湯はマグカップの中へと導かれ、雑な分量のコーヒー粉と混ざり合う。

 それを見届けてから、ネムラはゆっくりと口を開いた。

 

 

「……そうだな。私も君と同じ行動をする、かもしれない」

「かもしれない、ですか?」

「仮の話なのだから、確実なことは言えない。だが、君と同じ状況なら、私も同じことをする可能性があるのは否定しないよ。誰かのために、誰かの夢のために、純潔くらいなら失ってもかまわないと、破滅的な決意をしてしまう私のいる世界だってあるかもしれない」

 

 

 それは意外な答えだった。「逃げるに決まっている」「馬鹿馬鹿しい」「そんな非合理的な選択を、私がするはずがないだろう?」とでも答えてくると思っていた。

 これまで彼女が口にしてきた言葉を思い出せば、そういった回答が最も妥当だったはずだ。事務所は清算すればいい、夢を諦めて暮らせばいい。その指摘が客観的に正しいというのも、きっとその通りなのだから。しかし、ネムラはそうは言わなかった。

 

 

「まあ、実際は君も知ってのとおり、純潔どころか、肉体を余すことなく蹂躙されて、尊厳を磨り潰されることになる。そうなると、私の末路は過去の犠牲者と同じく、豚の花嫁か、魔力製造機の二択だ」

 

 

 青髪のエルフは何でもないことのように、自らの破滅をどこか他人事のように語っている。

 

 

「あなたがそうなっている姿は想像できませんね。何をされたとしても、上手く対処して、そういう余裕そうな表情を浮かべていそうです」

「……さっき伝えた連中の戯れ言は覚えているかい? あの中の『上位種族のお高くとまったメス穴』とは、かつてはエルフのことを示していた。豚どもの精の汚染が魔力防御を越えてくるのは、エルフを穢すために特化した生殖機能の一つなんだ」

 

 

 オークは他種族の優秀なメスを孕ませ、その高い能力を受け継いだ仔を産ませることで繁栄してきた。亜人の中で魔力への極めて高い親和性を持つエルフを母体とした場合、そのオークの子孫は数世代に渡って魔法を行使できるようになる。しかも、エルフには旧き妖精の血が混じっており、身体能力が脆弱である一方で、身体そのものは見た目からは想像できないくらいに頑丈だ。

 どうにか魔法を封じてしまえば、あとは長期に渡って孕み袋として利用でき、産まれて来る仔は高い確率で強い魔力を帯びている。そのため、魔力制御の杜撰なオークにとって、いつの時代でもエルフは理想的な交配相手であり、エルフからすれば、オークは最悪の交配相手である。

 両種族の歴史を紐解けば、エルフの国でオークが害獣扱いされるのは当たり前のことだ。

 

 

「……魔力防御が殆ど機能しなかった理由がようやく分かりました。つまりは、エルフへの対策のついでに、私たち魔法少女の護りも無効化されてしまっているということですか」

「その理解で問題ないよ。そもそも、君たち魔法少女が出現したのは、とあるエルフが人間の少女にチカラの一部を分け与えたからだとされている。君たちの魔力や魔法がエルフ由来のものである以上、連中からは御しやすい相手となってしまうのは当然だ。だからこそ、もう連中には関わらないようにしたほうがいい」

 

 

 魔法少女たちがエルフからチカラを分け与えられた存在である限り、エルフに対して有効な攻撃は魔法少女たちの弱点にもなり得る。逆もまた、同じなのだろう。

 

 

「納得はできませんが、理解はしました。ところでネムラ、一つだけ確認なのですが」

「ん、なんだい?」

 

 

 ヨルティナはかねてから疑問だったことを口にする。

 

 

「まさかとは思いますが、あなたが時々挟んでくる雑談は私を気遣ってのものなのですか?」

 

 

 口にしてみると、胸の奥に引っかかっていた違和感がようやく形を持った気がした。このエルフの話には脱線が多い。前回はヨルティナよりも酷い症状の魔法少女のこと、そして、今回はエルフがオークにどのような目に遭わされてきたかという類いの話だ。

 

 

『君よりもよっぽど酷い症例を診たことがあるからね』

『そんな娘でも生殖機能以外はそれなりに元に戻せたし、外見上は綺麗になったんだ』

『そう思うなら、二度と関わらないことだ。異界では、理解の範疇を超えた文化圏の者には近づかず、近づかせないのが暗黙のルールだった』

『君たちの魔力や魔法がエルフ由来のものである以上、連中からは御しやすい相手となってしまうのは当然だ。だからこそ、もう連中には関わらないようにしたほうがいい』

 

 

 どれもこれも、ろくでもない話であることに間違いはない。しかし、同時に聞きようによっては、ヨルティナの後遺症に寄り添おうとする言葉か、ヨルティナの今後を案じたような忠告だ。どれも回りくどく、話題の選び方も言葉の選び方も酷いものだが、ヨルティナは少なくとも自分への敵意や悪意は込められていないように感じた。

 

 

「……この五十年くらいは、あまり人と接する機会も無かったから、どうにも対話能力が低下しているらしくてね。意図が正しく伝わらなかったのなら、私の落ち度だ」

 

 

 露骨に目線を反らしながら、ネムラはそう答えた。否定する言葉は返ってこなかった。つまりは、ヨルティナの指摘は誤ってはいなかったのだろう。怪しげな研究者で、妙に冷めたところのある現実主義者。そういう人物だと思っていた。おそらくそれ自体は間違っていない。ただ、それだけではなかったらしい。

 空になったマグカップを両手で持ち上げ、ネムラはまだ中身が残っているふりをして口元を隠している。椅子の上で器用に体育座りをする姿は小柄な体躯と相まって、どこか幼く見えた。

 

 

「さて、そろそろ君のいう雑談とやらを終わりにしよう。すまないが、これから用事があってね。今日の問答は他言無用だ、特にエルシャには伏せておいてくれ。さもないと、余計なことを言ったと怒られてしまう」

「分かりました。またここを訪れる日が決まれば、連絡してください」

 

 

 椅子から立ち上がり、扉の前まで歩いていくヨルティナ。金色の髪が点滅する蛍光灯の下で光を放つ。その足取りは研究室に来たときよりも軽やかだった。扉に手をかけたヨルティナはネムラへと振り返る。黒い回転椅子に身体を預けるネムラは、どこか消耗しているように見えた。白衣の袖口から覗く傷跡も、相変わらず痛々しい。

 

 

「どうして、ネムラは私にそこまでするのですか? いくらエルシャからの依頼だとしても、限度があるでしょう」

 

 

 気がつけば、ヨルティナはそう尋ねていた。はた、とネムラは少しだけ驚いたような様子でヨルティナの瞳を見つめる。その問いだけは予想していなかったらしい。眠たげだった青色の瞳がわずかに開き、まっすぐにヨルティナを見返していた。

 

 

「……そうだね」

 

 

 すぐには答えなかった。黒い回転椅子が、キィと小さく錆びた音を鳴らす。ネムラは背もたれへ身体を預け、そのまま視線を天井へ逃がした。点滅を繰り返す蛍光灯を眺めながら、何か適当な言葉を探しているようだった。

 

 

「傷ついた今の君に、こんなことを言うべきじゃないんだろうけど、自分を犠牲にしてでも守りたいと想える相手がいて……向こうも、おそらくは同じくらい君を想っている」

 

 

 一度、そこで言葉が途切れる。口元に浮かんだ笑みは、いつもの人を食ったようなものではなかった。

 

 

「そんな君たちの関係性が、私は少しだけ羨ましかったんだと思う」

 

 

 その表情からいつもの不敵さが消えていた。乱れた髪の隙間から覗くのは、伏せられた瞳の青色だけだ。どうしてネムラがそんな顔をしているのか、その理由はヨルティナには分からないし、その理由を尋ねてはいけないような気がした。

 

 

「……ありがとうございます。また連絡をください」

「ああ。またね、ヨルティナ」

 

 

 ネムラに背を向けて扉を開ける。廊下へ一歩踏み出してから、ヨルティナはもう一度だけ振り返った。ネムラは黒い回転椅子の上で膝を抱え、小さな身体を白衣に埋めていた。長い青髪が頬へ落ち、その表情を半分だけ隠している。俯いた横顔は、触れればそのまま消えてしまいそうなほど頼りなく見えた。

 

 

「……お大事に、ネムラ」

「それはこっちの台詞なんだけどね」

 

 

 顔を上げ、ネムラがへにゃりと笑う。それは笑顔というには弱々しかったが、こちらに心配はいらないと伝えるには、それで十分だと思っているような笑い方だった。扉が閉まっていく。その隙間が細くなる中で最後まで見えたのは、こちらを見送る青色の瞳だった。

 

 その姿が、誰かとはぐれたまま、いつまでもその帰りを待っている少女のように見えたのは、気のせいだろうか。

 

 カチャリ、と内側から鍵の閉まる音がする。ヨルティナはしばらく扉を見つめていた。やがて、廊下の向こうから小さな駆動音が届く。エレベーターが、この階へ上がってきているのだろう。

 扉から視線を外して、ヨルティナは歩き出す。エレベーターの前まで進んだところで、ポケットからスマートフォンを取り出した。用事は終わったのだ。今から自分の家に帰ることくらい、勝乗に連絡しておいた方がいいだろう。

 そう考えて画面を開き、慣れた名前を指先で選ぶ。しかし、文字を打とうとしたところで、その指が止まった。

 

 

「……別に、今すぐ知らせなければならないこともありませんね。明日になれば、また会えるのですから」

 

 

 そんな当たり前のことを口にして、ヨルティナは何も打たないまま画面を閉じる。そして、エレベーターに乗り込むと研究所を後にすることにした。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 




ヨルティナちゃんとネムラ。
明日になれば、会える誰か。
明日になっても、会えない誰か。
光に溢れた未来と水底に沈んだ後悔。
どちらもきっと純愛の形。


ネムラが持っているのは誰かの写った写真立てです。
更新予定などは、以下で呟いてますので、チェックしたい方はよろしければ。
本編に載せていないAIイラストもチマチマ載せてます。
余計なことも呟いてますので、その際はお目こぼしくださいませ。
https://x.com/8gw9j
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