夜の静寂がしんと漂う中庭で、噴水の水面が蒼い月光を静かに反射していた。
「……お前、その、フリーレンという娘について知っているか」
太い葉巻から立ち上る紫煙の向こうで、白銀と濃紺の正装を崩した人狼の騎士アルフレッド・ベルンハルトが低く重厚な声を漏らした。
黄金の瞳をかすかに細め、傍らに佇むエルフの大魔法使いへ視線を向ける。
「姿かたちが判れば、人狼騎士団に捜索命令を出してやる。我が騎士団の諜報網ならば、北部大陸の僻地であろうと探せるはずだ」
不老不死の怪物として恐れられる彼が見せた、どこまでも不器用で直接的な気遣い。
ミリアルデは膝の上に置いた琥珀色の酒瓶を愛おしそうになぞり、遠い昔を慈しむように薄緑の瞳を揺らした。
「フリーレンはね、まだ三百歳くらいなのよ……ちょうど、あんたが不老不死になった頃に生まれた女のエルフでね。幼い頃から恐ろしいほど魔法の才覚があって、将来が楽しみな子だったわ」
ミリアルデはフリーレンにまずい皇帝酒の碑文と隠した貯蔵庫の話をしたことを思い出していた。
「でも……崩壊した村には、あの子の死体だけがなかったのよ。どこへ行っちゃったんだろう。魔族に消されたのか、それとも北へ連れ去られたのかと思うとね、胸が締め付けられるように心が痛むのよ」
普段の酒好きで怠惰な振る舞いの裏に隠された、同族への深い愛情と消えぬ喪失感。
彼女の言葉に、アルフレッドは微かに口元を緩め、からかうように低く呟いた。
「お前にも、そうやって痛む心が残っていたんだな」
「……バカ」
ミリアルデは照れくさそうに長耳の先端を朱に染め、短く吐き捨ててそっぽを向いた。
その甘く温かな静寂を切り裂くように、回廊の闇の奥から二つの足音が近づいてきた。
カツン、カツンと響く確かな足音と、それに寄り添うようなかすかな衣擦れの音。
夜風に乗って漂ってきたのは、鋭い魔力の気配と、どこか冷たい硝煙の匂いだった。
「――お邪魔だったかしら?」
闇の中から現れたのは、数年ぶりに姿を現した魔法使いフランメであった。
二十歳前後の凛とした佇まい、白銀の肌と繊細な魔法衣。
その瞳には相変わらず、人類の歴史を根底から変革しようとする静かな熱情が宿っている。
だが、アルフレッドとミリアルデの視線を釘付けにしたのは、彼女のすぐ傍らに寄り添うように立っていた、一人の小さな少女の姿であった。
「――っ!?」
その姿を目にした瞬間、アルフレッドの全身の神経が歓喜と驚愕で熱く灼けついた。
息を吸うことすら忘れ、黄金の瞳が激しく見開かれる。
月光を透過させるような繊細な白銀の髪、華奢な肩、そしてどこかこの世界の果てを見つめるような儚げで澄んだ瞳。
三百年前、あの残酷な殺戮の日に永遠に失われたはずの存在――許嫁シルヴィアの面影が、目の前の少女の佇まいにあまりにも残酷なほど鮮烈に重なった。
「……シルヴィア……」
アルフレッドの薄い唇から、三百年間片時も忘れたことのない愛おしい名が、掠れた吐息となって漏れ出た。
胸の奥で、凍てついていた過去の思い出と激しい熱情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、激しく衝動が走り抜ける。
しかし、その衝撃に揺れるアルフレッドの横を、疾風のように通り抜ける影があった。
「あら……フリーレンじゃない! 生きてたの!?」
ミリアルデが叫んでいた。
彼女は抱えていた酒瓶をその場に無造作に放り投げると、溢れんばかりの歓喜を顔に浮かべ、迷うことなく少女へ向かって駆け寄った。
少女の正体は、ミリアルデがずっと案じ続けていた同郷の幼きエルフ――フリーレンであった。
「よかった……無事だったのね! ずっと探していたのよ!」
ミリアルデは膝をつき、フリーレンの細い肩を抱きしめようとした。
数千年の悠久を生きる大魔法使いが、まるで幼子を迎える母親のように全身で安堵を表していた。
だが――抱きしめられそうになったフリーレンの表情には、生還の喜びなど微塵も存在しなかった。
透き通るような瞳は深く暗い影に覆われ、その唇は激しい絶望に微かに震えている。
「……ミリアルデ……」
フリーレンの声は、夜の冷気の中に消えてしまいそうなほど小さく、痛々しかった。
「故郷が……故郷が、魔族の将軍に燃やされたよ……みんな、死んじゃったよ……」
そのポツリとこぼれ落ちた言葉には、目の前で愛する者たちをすべて奪われ、世界に一人取り残された者の、膨大で救いようのない絶望が凝縮されていた。
ミリアルデの動きがピタリと止まる。
喜びにあふれていた彼女の薄緑の瞳が、痛々しい衝撃に揺れた。
フリーレンの背後に立つフランメは、静かに拳を握り締めていた。
自身もまた、かつて幼い頃に魔族によって故郷と両親を奪われた過去を持つ。
同じ絶望の深淵を味わった者として、彼女の瞳にはフリーレンへの深い同情と、魔族に対する憎悪の炎が静かに揺らめいていた。
「……あれが、フリーレンか……」
アルフレッドは胸に手を当て、深く呼吸を整えながら、暗闇の中に立つ少女を再び見つめ直した。
面影は確かに亡き許嫁シルヴィアに酷似している。
だが、その瞳の奥に宿っているのは、かつての彼女が持っていた穏やかな温もりではなく、魔族に対する果てしない冷気と絶望であった。
自分がフランメについた「両親は魔族に殺された」という優しき嘘。
そして、現実に魔族の猛威によって故郷を失ったこのエルフの少女。
運命の糸が凄惨なまでに絡み合い、新たな時代の狂乱が、まさにいま目の前で芽吹こうとしていた。
アルフレッドの手元で、魔剣フェンリスが不吉な紫の光を静かに明滅させる。
不老の狼とエルフの大魔法使い、そして絶望を背負った新たな世代の魔法使いたち。
月光が照らす夜の中庭で、彼らの紡ぐ途方もない宿命の物語が、より深く、より凄惨な闇へと足を踏み出していった。
(第18話に続く)
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