真夜中の深淵へと差し掛かる王城の中庭。
月光は冷ややかに石造りの敷石を濡らし、噴水の水面は蒼い波紋を揺らしていた。
城内の宴の喧騒はとうに途絶え、ただ白薔薇の茎が夜風に軋む音だけが静寂を支配している。
そこに座すのは、帝国を裏から動かし、あるいは世界そのものの理を超克した四つの影。
石造りの円形噴水の縁、その中央には漆黒の軍服に身を包んだ不老の騎士、アルフレッド・ベルンハルトが深々と腰を下ろしていた。
彼の右隣には、薄桃色の唇を湿らせながら酒瓶を抱えるエルフの大魔法使いミリアルデ。
左隣には、二十歳前後の凛とした佇まいに不遜な笑みを湛えた大魔法使いフランメ。
そして、フランメの身体にすがるように座っているのは、魔王の苛烈なエルフ狩りによって滅ぼされた集落の唯一の生き残り――エルフ、フリーレンであった。
「……ふう」
アルフレッドの指先で燻る南部産の太い葉巻から、濃密な紫煙が立ち上り、夜空へ溶けていく。
フランメもまた、アルフレッドの嗜むものと同じ細巻きの葉巻を指に挟み、慣れた手つきで重々しく煙を吐き出していた。
ミリアルデは、「うわ……やっぱり、まっずー」と低く毒づきながら、新参の諸侯から贈られた皇帝酒の陶器瓶を直接煽り、喉を鳴らしている。
二人の大魔法使いが紫煙と酒を楽しむ中、手持ち無沙汰のまま縮こまるフリーレン。
彼女の透き通るような瞳には、未だあからさまな恐怖が宿っていた。
アルフレッドの身から立ち上る紫のオーラ、無数の敵を踏みつぶしてきた凄惨な死臭と、返り血と硝煙の匂い。
フリーレンにとって、隣に座るこの漆黒の軍服の男は、故郷を焼き尽くした魔族の将軍すら凌駕しかねない、おどろおどろしい「化け物」そのものに見えていた。
怯えに身体を強張らせ、呼吸すら浅くなっている。
そんな少女の怯えを察したアルフレッドは、静かに腰の革袋へ手を伸ばした。
取り出されたのは、丁寧に磨き抜かれ、月光を反射して白銀に輝く小さな金属製の箱。
三百年前、故郷で死に別れた最愛の許嫁シルヴィアが何よりも愛した、思い出の銀の小箱であった。
アルフレッドは無言のまま、その小箱をフリーレンの目の前へとそっと差し出した。
「――っ!?」
フリーレンは小さく息を呑み、身を竦めてフランメの背後へ引こうとした。
化け物から差し出された怪しげな光り物。
毒でも盛られているのか、あるいは己を喰らうための儀式なのかと、華奢な肩を震わせる。
見かねたフランメが、くわえ煙草のままフッと可憐な唇を緩め、隣の少女に優しく声をかけた。
「フリーレン、安心しな。毒じゃないよ。銀製だから邪気も届かない」
師の言葉に背中を押され、フリーレンは恐る恐る、細い指先を伸ばした。
冷たい銀の小箱を受け取り、カシャリと静かな音を立てて蓋を開ける。
そこに並んでいたのは、角が削れた小さな小粒の、真っ白な砂糖菓子であった。
フリーレンは指先でそれをひとつ摘まみ上げると、小さな口の中へそっと放り込んだ。
かり、と可憐な音が夜の静寂に響く。
一生懸命にポリポリと噛み砕くフリーレンの表情から、徐々に硬直が抜け落ちていく。
「……甘い」
ポツリと漏れた、小さな呟き。
舌の上に広がる素朴で優しい甘さが、故郷を失い、恐怖で氷のように冷え切っていた少女の胸の奥を、じんわりと温めていく。
その一生懸命に砂糖菓子を食む少女の姿は、十数年前、この中庭で己に激しく牙を剥いていた幼い頃のフランメの面影と、痛々しいほど重なり合っていた。
「……懐かしいな、フランメ」
アルフレッドは太い葉巻を指先に挟み直し、胸の奥からくっくっと低く重厚な笑いを漏らした。
「お前が俺を殺さんばかりの勢いでつっかかってきたのが……昨日のことのようだ」
フリーレンは砂糖菓子をポリポリと噛み砕きながら、不思議そうに瞳を丸くして問いかけた。
「フランメも……人狼に貰って食べたの?」
その問いに、フランメはぶっきらぼうに煙を吹き出し、横目でアルフレッドを眺めた。
「師匠(せんせい)と呼びな……そうさ、この男は、口説き文句が下手なのは昔からなのよ。自分を怖がる女の子には、とりあえず甘いものを握らせておけばいいと思ってるんだから」
フランメの不器用な煙の吐き出し方と、その横目で見つめる瞳。
そこには、かつて幼かった頃に抱いていた激しい敵意や警戒など微塵もなく、長い年月をかけて育まれた奇妙な信頼と、少しばかりの茶目っ気が混ざり合っていた。
アルフレッドは黄金の瞳を呆れたように細め、紫煙の向こうで鼻を鳴らした。
「ふん。お前のような可愛げのない小娘に、高度な口説き文句など必要なかっただけだ」
「あら、言ってくれるじゃない。伯爵様は随分と偉くなったものね」
軽口を叩き合う二人。
そのやり取りを、ミリアルデは心底楽しそうに聞き流しながら、酒瓶を置いてフリーレンに優しく声をかけた。
「いいのよ、フリーレン。この男は化け物だけど、その箱の中身だけは、この世界で一番優しい記憶が入っているんだから」
ミリアルデの声音から伝わる温もりと、舌の上に残る砂糖菓子の甘さ。
フリーレンは緊張の糸が完全に解けたように、小さく頷いてもう一つ砂糖菓子を口に放り込んだ。
――ふと、噴水広場を臨む高層の回廊の暗がりから、二つの柔らかな視線が注がれていた。
皇帝コンラート、そして皇后ロザリア。
二人は、静かにこの中庭の集いを見守っていた。
ロザリアの胸には、かつて十数年前にこの場所でアルフレッドの紫煙を吸い込んだ熱情の記憶と、今や一国の母として世界を見守る気高き愛が穏やかに満ちている。
血塗られた戦場を生きる人狼の騎士。
不老の刻を共に歩むエルフの大魔法使い。
旧体制の魔法を打ち壊し、人類全土へ魔法を普及させようと企む魔道士。
そして、魔王の残虐によって絶望の淵から救い出されたばかりのエルフの少女。
甘い砂糖菓子の味が、復讐と改革の炎に身を投じようとする彼女たちの心に、ほんの一時の、けれど何物にも代えがたい「平穏」を深く刻み込んでいた。
「狼の泉」に集う影たち。
それは、やがて世界を塗り替える凄惨な「魔法改革の時代」が幕を開ける前の、嵐の前の静けさであり、あまりにも美しく、切ない晩餐であった。
(第20話に続く)
皆様、大変ご無沙汰しております。
前回の更新から少し間が空いてしまいましたが、変わらず作品を見守ってくださり、心より感謝申し上げます。
おかげさまで、物語全体のプロット自体はしっかりと完成しております。
少しずつの更新にはなるかと思いますが、楽しみにしてくださっている皆様の期待に応えられるよう、妥協なく執筆を重ねてまいります。どうか焦らず、のんびりと物語の結末までお付き合いいただけますと幸いです。
今後とも『人狼の騎士 ~統一王朝崩壊史~』と彼らを取り巻く運命の物語を、どうぞよろしくお願いいたします。
応援のコメントなど頂けましたら幸いです。