統一王朝が誕生するより前、歴史の波間に消えていったある王国の城。その中庭にある噴水広場が、彼と彼女の初めての出会いの場だった。
◇
―三百年前―
シルヴィアという光を失ってからの彼は、ただ敵を喰らい、魔剣フェンリスの渇きを癒やすためだけに戦場を駆ける、騎士団における『最恐の騎士』だった。
死線を超えるたび、体内に取り込まれた幾千、幾万の命の苦悶が胸の底で蠢き、彼の体を重苦しい死臭で満たしていく。
仲間からも恐れを込めた敬遠を受け、背後からは『人間の皮を被った魔族』『死臭の漂う死神』『絶対に死なぬ殺し屋』とまで囁かれる日々。
数々の功績を重ね、王国における地位が上がるにつれて、彼の周囲からは文字通り「人の温もり」が綺麗に消え失せていった。
そんな凄惨な日々の最中、彼が登城の折にふと足を止める場所があった。
王城の奥深く、日陰と日向が穏やかに交錯する中庭の噴水広場である。
そこにはたまに、溢れんばかりの陽光を浴びながら、あるいは静寂な月明かりの下で、だらしなく脚を投げ出し、酒瓶を直接煽っている一人のエルフの女がいた。
(……またあの酔いどれか。エルフの分際で、品のない奴だ)
当初の感情は、ただの嫌悪に近い不快感と微かな興味に過ぎなかった。
高潔で美しくあるはずのエルフという種族が、噴水の縁に腰を下ろし、泥酔してくだを巻いている姿は、彼の目にひどく異質に映った。
けれど、彼女がそこにいない時間、アルフレッドは吸い寄せられるようにその噴水の縁へ向かい、彼女がいつも座っていた場所に深く腰を下ろして煙草を燻らすようになっていた。
それが、血と硝煙に塗れた戦場で乾ききった心を、彼女が残していったわずかな『生きた人間の匂い』で潤そうとする無意識の渇望だったのか。
それとも、この城内で唯一、己を『狂気の死神』として畏怖の目で見つめてこない存在への、すがるような不器用な依存だったのか。
その時の彼には、知る由もなかった。
◇
――二百年前。
国境付近で繰り広げられた凄惨極まる殲滅戦を終え、アルフレッドは国王への戦果報告を手短に済ませて噴水広場へと向かっていた。
体内で荒れ狂う一万の命の悲鳴と死臭が彼の肉体を内側から灼き、魔剣フェンリスがさらなる血と肉を求めて脈打ち、凶悪に疼く。
一刻も早く、あの誰もいない静かな場所で煙草を吸わなければ、自分が自分という人間の輪郭を失い、真の化け物へと変貌してしまう。
そんな狂おしいほどの焦燥感と破壊衝動に駆られていた。
しかし、その夜、彼の「指定席」には先客がいた。
短髪の鮮やかな金髪を夜風に遊ばせ、噴水の縁で心地よさそうに酒瓶を傾けているエルフの女。
「……どけ。そこは俺の席だ」
体内の紫のオーラが薄闇の中で激しく揺らめく。
いつも彼女の面影を無意識に重ねて座っていたその場所を、まるで幼子のような意地悪さと苛立ちで奪い取ろうとしたのだ。
だが、酒瓶を傾けていたエルフの女――ミリアルデは、赤らんだ顔をゆっくりと上げると、黄金の瞳で見下ろす凶悪な騎士を、ひどく眠たげに、けれどどこかすべてを見通すような慈しみを含んだ目で見つめた。
「……ん? 何よ、そんな怖い顔しちゃってさ……隣、空いてるじゃない。こっちに座りなさいよ……」
彼女は、自分が座っているすぐ隣の冷たい石畳を、白い手でポンポンと軽く叩いた。
騎士の解き放つ凄まじい殺気などどこ吹く風といった様子で、再びラッパ飲みで芳醇な葡萄酒を喉へと流し込んだ。
「……ふん。飲んだくれのエルフめ。酒がよく回っているのか」
毒づきながらも、アルフレッドはその抗いがたい温かな誘いに逆らえず、吸い寄せられるように彼女のすぐ隣に腰を下ろした。
冷たい鉄と濃密な血の臭いを全身から放つ己と、芳醇な葡萄酒の甘い香りを纏った彼女。
アルフレッドが震える指で金属の小箱から煙草を一本取り出して咥え、火を灯すと、立ち昇る紫煙が夜の噴水の水しぶきに混ざり合って溶けていった。
「……いい匂いね。その煙草、どこのやつ? ……一本、頂戴よ」
「……貴様にやるような安物ではない……黙って酒を飲んでいろ」
口では冷たく突き放しながらも、彼は無言のまま小箱から新しい一本を取り出し、彼女の唇へと乱暴に差し出した。
ミリアルデは嬉しそうに目を細め、彼の手元から火を借りて紫煙をくゆらせる。
それが、後に歴史の中で「狼の泉」と呼ばれるようになる二人の孤独が静かに溶け始める、最初の夜の始まりであった。
◇
――百年前。
王城の噴水広場は、時代が変わっても変わらず穏やかな水の音を奏でていた。
そしてそこには、もはや広場の風景の一部となった二人の姿があった。
互いに約束を交わすわけでもなく、ただたまに顔を合わせれば、噴水の縁に隣同士で腰を下ろしていた。
ミリアルデは空になった酒瓶を逆さに振り、最後の一滴が舌の上に落ちるのを惜しむように待つと、「ヒック」と短く愛らしいしゃっくりを漏らした。
「……ねえ、ちょっと……あのさあ、あんた……前からずっと思ってたんだけど……あんたってさ、私が初めてこの噴水で見かけた時も、二十代くらいの若造だったわよね? あれから……もう二百年は経つじゃない……あんた、もしかして、あの時のあいつの子供? それとも孫なの?」
彼女は朱に染まった頬を片手で支え、不思議そうに隣の騎士をじっと覗き込んだ。
長命なエルフである彼女にとっての百年と、人間に与えられた百年とでは意味がまるで違う。
しかし、目の前の男の容貌は、一日の狂いもなく、あの出会った最初の夜のまま時が止まっていた。
傷一つ増えることもなく、衰えることもない肉体。
「……子供でも孫でもない。俺は、俺だ」
アルフレッドは視線すら合わせず、吐き出した紫煙の先を虚空に見つめたまま、冷淡に言い放った。
その声には、時間の経過そのものを断固として拒絶するような、硬く冷たい石の響きがあった。
「……ふうん。じゃあ、あんたは不死なのね。魔族でもないのに不老不死なんて、人間にしちゃ珍しい……どんな呪いか魔法か知らないけど、気味の悪いやつ」
「……何でもいいだろ、酔いどれエルフ。理由など知ったところで、貴様には何の得もない……俺は俺だ。それ以上でも以下でもない」
どこまでも突っぱねるような凶暴な言葉。
けれど、彼はその場所から立ち去ろうとは決してしなかった。
懐から銀の小箱を取り出し、フタを開ける。そこには小粒の白い砂糖菓子がいくつも転がっていた。
「……またそのお菓子? あんた、百年経っても同じ甘味を食べてるのね。甘党なの?」
「甘党などではない……これは、故郷の砂糖菓子だ」
アルフレッドは一粒を指で摘み、口の中へ運んだ。
「……三百年前、俺の故郷だった村は野盗どもに焼き払われ、地図から消えた。だがな、あの素朴な砂糖菓子の製法自体は、周辺の郷土菓子として近隣の地方に細々と残っている……俺は遠征のたび、あるいは配下の商人たちに命じ、その地方の職人からこの菓子を大量に買い上げさせているんだ。こうして箱へ定期的に補充し続けることでしか……俺は己がかつて『人間』であったことを証明できない」
「へえ……故郷が消えても、味だけは金で買ってたぐり寄せてるってわけだ。つくづく、面倒くさい生き方してるわね」
ミリアルデは呆れたように笑いながらも、その言葉の裏にある凄惨なまでの執着と孤独を感じ取り、それ以上追求するのをやめた。
彼女自身もまた、心に消えない傷と諦念を抱えていた。
だからこそ、彼女はアルフレッドの頑なな拒絶を無理に暴こうとはせず、ただ静かに新しい酒瓶の栓を抜き、夜風に身を委ねたのだった。
◇
――五十年前。
時の流れはさらに刻まれ、ひときわ風の強い月夜へと辿り着いた。
噴水広場の石畳に腰を下ろし、手慣れた手つきで煙草を燻らすアルフレッド。
その目の前に、珍しく濁りのない鋭い視線を湛えたミリアルデが立ちはだかった。
その手には、月光を浴びて怪しく光る、極上の熟成を経た葡萄酒の瓶が握られている。
「ねえ、いい加減に吐きなさいよ。あんたが不死なのが不思議で、最近じゃ酒がちっとも喉を通らないのよ。答えなさい、騎士。あんた、一体何者なの?」
アルフレッドはゆっくりと紫煙を吐き出し、黄金の瞳を細めて彼女を見上げた。
「……面倒な奴だな。そんな暗い話、シラフで語れると思うか……その酒を寄越せ」
ミリアルデは迷うことなく、封を切ったばかりの高級酒の瓶を彼の手元へ手渡した。
アルフレッドはそれを片手で掴むと、豪快に喉を鳴らして一気に煽り、空になった陶器の瓶を膝の上に置いた。
「……ふぅ……ふん、効くな。話は長くなるぞ、酔いどれエルフ」
「ミリアルデよ」
「あん?」
「私の名はミリアルデ。互いに名前すら問い合わさず、ただ隣で酒と煙草を弄ぶのも二百年近く……いい加減、覚えなさいよ。この無礼な騎士」
二人の間に横たわっていた「深く踏み込まない暗黙の協定」が、極上の酒と夜風の勢いで静かに崩れ去る。
アルフレッドは一瞬、呆気に取られたように目を見開いたが、やがて胸の奥から押し寄せる可笑しさに、喉の奥で低く愉快そうに笑った。
「はっは……そうか。よろしい、ミリアルデ……俺の名はアルフレッド。魔剣使い、人狼の騎士、魔剣士、人ならざる化け物、人間の皮を被った狼……好きに呼ぶがいい。俺は、神の化け物になった……ただの人間だ」
その言葉に含まれた絶大な魔力と怨嗟の重圧に、噴水の水しぶきさえも一瞬凍りついたかのようだった。
ミリアルデはその名を耳にし、わずかに声を震わせた。
「……あんたが、あの戦場を喰らい尽くす……『狡猾な悪狼』なのね」
その忌まわしい二つ名が放たれた瞬間、アルフレッドの表情からすべての温もりが瞬時に消え去った。
彼は膝の上に置いていた空の酒瓶を掴むと、石畳へと強く叩きつけた。
パリンッ!!
鋭い破砕音が夜の中庭に響き渡り、飛び散った陶器の破片が月光を浴びて激しく跳ねた。
「……俺をその名で呼ぶな! 誰が呼んでもいいが、貴様だけは……その名で呼ぶな!」
アルフレッドは怒りに満ちて立ち上がり、彼女を射抜くような鋭い殺気を向けた。
体内に眠る数万の死者の怨念がざわめき、凶悪な紫のオーラが溢れ出して夜の闇をドス黒く侵食していく。
「……人狼で十分だ。……それ以上の化け物じみた名は、俺には分不相応だ」
(……俺を、戦場の化け物として見ないでくれ。お前にだけは……ただの狼として見られたかったんだ……)
割れた陶器の破片が月光を跳ね返し、張り詰めた空気の中に鋭い緊張の火花を散らしている。
アルフレッドは、己の内から溢れ出す凶暴な狂気に呑み込まれそうになりながら、目の前の華奢なエルフを睨みつけていた。
しかし、ミリアルデは眉ひとつ動かさなかった。
「あーあー、割っちゃって……高い酒瓶だったのよ? せっかくの風情が台無しじゃない……騎士らしくないんじゃないの?」
「……なんだと……っ。貴様、今の俺の殺気と魔力を浴びて、正気でいられるのか……」
アルフレッドの背後で、紫のオーラが巨大な狼の顎のように猛々しく揺らめく。
しかし、ミリアルデは腰に手を当て、心底呆れたように大きなため息をついた。
「騎士を名乗るなら、女性に対する扱いがなってないって言ってるのよ、人狼の騎士! 騎士なら騎士道を貫きなさいよ。化け物だと思うなら徹底的に化け物になり切りなさい。中途半端に迷って……貴方は一体どっちなのよ!」
その一切の躊躇もない言葉は、魔剣フェンリスの咆哮よりも深く鋭く、アルフレッドの胸の奥底を直接射抜いた。
「う……く……っ……」
喉の奥で、獣の唸りと人間の呻きが混ざり合う。
数万の命を束ねる圧倒的な暴力の魔力も、この無気力な酔っ払いエルフの、あまりにもまっすぐな説教の前では完全に行き場を失い、雲散霧消していった。
「自分が間違っていると思うなら、反省しなさい。新しいお酒を私に寄越しなさいな。そして……私の隣で、静かに煙草でもふかしてなさい。いいわね、人狼!」
あえて今教えられたばかりの本名ではなく、彼が望んだ呼び名で言い放つエルフ。
世間が畏怖する恐ろしい二つ名すらも、彼女の口にかかればただの愛嬌のある皮肉へと塗り替えられてしまう。
ビシッと指を突きつけ、堂々と命令を下すエルフ。
戦場では一国の軍隊をたった一人で壊滅させる死神が、一人の泥酔したエルフの女に完全に気圧され、毒気を抜かれたように肩を落とした。
「……ふん、勝手なことを。次からは……割れんように魔法の酒瓶にでも入れて持ってきてやる」
アルフレッドは不機嫌そうに吐き捨てると、再びどっかと石畳に腰を下ろした。
震える手で新しい煙草を取り出し、火を灯す。
その紫煙は、先ほどまでの刺々しさを失い、夜の静寂に寄り添うように穏やかにゆったりと揺れていた。
ミリアルデは満足げに鼻を鳴らすと、彼の隣に当然のような顔をして座り直し、空に浮かぶ月を見上げた。
(……そうだ。あの日からだ。……俺が、お前にだけは勝てなくなったのは)
化け物でも、恐るべき英雄でもない。
ただの「不器用で傷ついた一人の男」として扱ってくれた、世界で唯一の存在だった。
ミリアルデの横顔を紫煙の向こうに見つめながら、アルフレッドは深く静かな息を吐き出した。
噴水の水音が、夜の静寂をより深く際立たせている。
月光に透ける己の白い指先を見つめながら、ミリアルデはまるで独り言のように言葉を紡いだ。
「……『繋がれた狼と、失われた右手』……ね。神話のオオカミは、己を縛る鎖と引き換えに神の右手を噛みちぎったというけれど。私の心も、どこか欠けたまま……。ねえ、人狼さん。その大きな傷と永遠の時間の中で……あなたも、大事なものを失ったの?」
アルフレッドの指先で、煙草の火が微かに震えた。
いつもなら「黙れ」と一蹴するはずの問い。
だが、ミリアルデの纏う「欠損」の空気が、彼の頑なな心の隙間に、冷たい風のように入り込んでくる。
アルフレッドは無言のまま、懐からあの銀の箱を取り出した。
指先で蓋をなぞる。
そこには、王国の紋章でも、騎士の誇りでもない、ただ一人の少女が愛した無骨な装飾が刻まれている。
どれほどの手間や金がかかろうとも、商人を通じ周辺地方から買い集めたその菓子を定期的に補充することだけが、彼を「人間」に繋ぎ止める術だった。
「俺が、この手で握りつぶしたんだ……彼女が望んだ『平和な世界』のために、俺は世界を喰らい尽くす化け物になった。約束を守るたびに、俺の中の『人間』は削り取られ、ただの本当の狼になっていく」
アルフレッドは菓子を口に放り込み、苦く、それでいて酷く虚しい甘みを噛み締めた。
「ミリアルデ。いくら菓子を補充し、砂糖を口に転がそうと、俺の胸にはもう何もない。魔剣が魂を食らうたびに、シルヴィアの笑顔すら思い出せなくなる……これが、神の遺物を手にした代償だ」
ミリアルデは、じっと彼の方を向いた。
その瞳には同情はない。
あるのは、同じ「終わらない時間」を歩む者への、残酷なまでの共感だった。
「ふふ、お揃いだね。私は時の中に心を落とし、あんたは約束の中に自分を捨てた……ねえ、狼さん。その菓子を補給し続けられなくなったら、あんたは何を糧に『人間』の振りを続けるつもり?」
アルフレッドは答えなかった。
ただ、煙草の吸殻を静かに踏み消す。
立ち昇る細い煙の先に、彼は隣に座るエルフの横顔を捉えた。
「……お前はどうなんだ。俺は人を喰らわねば、この呪われた『不死』を維持することさえできなくなった。だが、お前は――なぜ、酒を煽らなければ生きられなくなった?」
その問いは、刃となってミリアルデの胸を突いた。
いつもなら軽口でかわすはずの彼女が、酒瓶を握る指を微かに震わせている。
「……同じだよ」
ミリアルデは、空になった酒瓶をそっと噴水の縁に置いた。
「私も、はるか昔に大事なものを失ったんだ……あまりに長すぎる時間を歩くうちに、何を失ったのかという実感さえ、酒の海に沈めなければ耐えられなくなった。あんたが魂を喰らうことで『人狼』であり続けるように、私は忘却を啜ることで『私』であり続けているだけさ」
ミリアルデは、白い手で空を掴むような仕草をした。
そこにはかつて、確かに何かが存在していた。
それは愛した者だったのかもしれないし、あるいは「心」という名の、二度と取り戻せない熱量だったのかもしれない。
アルフレッドは、隣に座るこの女の中に、自分と同じ『奈落』を見た。
一人は奪われた怒りで化け物になり、一人は喪失の退屈で心を殺した。
形は違えど、二人は同じ場所――終わることのない冬のような永劫の中に、立ち尽くしている。
「…………そうか」
もう、言葉はいらなかった。
理由を問い、傷を舐め合う段階は、とうの昔に過ぎ去っていた。
ただ、欠けたもの同士が、この噴水のほとりで肩を並べて座っている。
その事実だけが、冷たい月夜に唯一の確かな重みを与えていた。
頭上では、満月が冷徹なほど美しく二人を照らしている。
アルフレッドの纏う不吉な紫のオーラも、ミリアルデの纏う寂寥とした魔法の残り香も、月光の下では平等に白く、静かに透けて見えた。
戦場に明け暮れる人狼と、酒に溺れるエルフ。
歴史という名の奔流から取り残された二人の怪物は、ただ静かに、夜が更けるのを待っている。
それが、これからずっと続く「奇妙な隣人」としての誓いとなったのだった。
◇
――現在。
「魔剣フェンリス……その名に秘められた意味を知ってる?」
ミリアルデは酒瓶の口を指でなぞりながら、アルフレッドの腰に鎮座する、紫の脈動を放つ剣を見つめていた。
その剣は、ただの鉄の塊ではない。
神代の残り香であり、世界の理を食い破る顎そのもの。
「フェンリスは世界の終わりの出来事において、重要な役割を果たすとされているわ。世界を炎上させ、人間と社会の崩壊をもたらし、神すらも殺す手助けをする……神話の詩人はそう予言している。ねえ、人狼さん。あなたが、その『終焉』そのものなの?」
その問いは、一個人の肩に乗せるにはあまりに重すぎる、運命の宣告だった。
だが、アルフレッドは微塵も動じず、ただ深く煙草を吸い込む。
「……俺はただ、死にたくなかったからそれを手にしただけだ」
紫煙が月を隠す。
「聖杖法院の連中や胡散臭い僧会からも同じようなことを言われたよ。曰く、俺は呪われていて、いつか世界を滅ぼすと。だがな、ミリアルデ。俺は騎士だ。たとえ人ならざる化け物に成り果てても、俺の剣は誰かを守るために、約束を果たすためにある……そんな大層な未来が来るとは思えないよ。俺の目的は、もっと矮小で、個人的なものだ」
シルヴィアとの約束。たった一人の少女が願った「平和な世界」。
彼が国を平らげ、人を喰らうのは、世界を滅ぼすためではなく、彼女が見たかった景色を無理やりにでも作り上げるため。
そのあまりにも『人間臭い』答えを聞いて、ミリアルデは小さく、肩を揺らして笑った。
「……くふふ、あははは! 傑作ね。五百年ぶりに笑ったわ」
彼女は笑いすぎて滲んだ涙を、細い手で拭った。
神を殺し、世界を焼き尽くすと予言された絶望の魔剣。
それを振るう主が、ただ『死にたくなかった』という生存本能と、たった一人の少女への執着だけで動いている。
「最高に滑稽で、最高に愛おしいわ、人狼さん。神々が聞いたら、腰を抜かして天界から落ちてくるんじゃないかしら。世界を滅ぼす引き金が、たった一つの『砂糖菓子』と同じ重さだなんて」
ミリアルデは笑い終えると、慈しむような、あるいは突き放すような冷徹な眼差しを彼に向けた。
「いいよ、それで。予言なんて、退屈な奴らが未来に飽きて書いた作り話だ。あんたが世界を壊すなら、私は特等席でそれを眺めながら酒を飲む。あんたがただの騎士で居続けるなら、私はその隣で、あんたが忘れていく『人間』の欠片を拾い集めてあげる」
彼女は再び酒瓶を煽り、満足げに喉を鳴らした。
「約束なんて、呪いと同じ。あんたはその呪いに縛られて、どこまでも無様に生きてなさい……大丈夫。世界が燃え尽きるその日まで、この『退屈なエルフ』が隣にいてあげるから」
二人の影は、満月の下で一つに溶け合っていた。
世界を救う勇者でも、世界を滅ぼす魔王でもない。
ただ、何かを失い、何かに固執し、終わりのない時を彷徨う二つの「欠損」。
満月の光は、すべてを白日の下にさらけ出すほどに冷酷だった。
ミリアルデは、紫煙を吐き出すアルフレッドの横顔を、じっと盗み見るように見つめた。
三百年。人間なら、いくつもの家系が生まれ、途絶えていくほどの時間。
けれど、この「二十六歳の姿をした怪物」は、出会ったあの夜から何一つ変わっていない。
その瞳の奥に宿る、シルヴィアという名の少女への狂気的なまでの忠誠心さえも。
(……神の右手を噛みちぎる、か)
ミリアルデは自分の白い手を見つめた。
数千年の時を越えてきたこの手が、彼という呪いに触れた時、どうなるのか。
彼を縛り付け、その暴走を止めようとすれば、いつか自分も取り返しのつかない喪失を味わうのかもしれない。
けれど、彼女は薄く笑った。
ミリアルデは酒瓶を弄び、思考を忘却の海へ沈めながら、己の白い右手を一度静かに握り締め、それから隣の男の顔を見つめた。
「……嫌だなぁ、右手を奪われるのは。まだまだ、美味しいお酒を飲まなきゃいけないのにさ」
「なんだ? 独り言にしては声が大きいぞ。俺の顔に何かついているか」
視線と呟きに気づいたアルフレッドが、億劫そうに首を巡らせた。
その瞳には、かつて王国の騎士だった頃の気高さと、神の獣としての底知れぬ飢えが、危うい均衡で同居している。
「ううん、なんでもない」
ミリアルデは軽く首を振ると、隣でポンと酒瓶の栓を抜いた。
彼を縛り付けるつもりなど、毛頭ない。
彼がいつか世界を滅ぼす牙を剥くとしても、あるいはこのまま「騎士」としての誇りを抱いて朽ち果てるとしても。
ただ、その隣に座り、漂う紫煙を眺めるくらいなら、どんな神々の予言も禁じてはいないはずだ。
「あんたの煙草、相変わらず臭いわね」
「……文句があるなら、向こうの噴水で飲んでいろ」
「やだよ。あっちは月が綺麗に見えないもの」
ミリアルデは、アルフレッドの肩に触れるか触れないかという距離まで、わずかに体を寄せた。
鉄の鎧の冷たさと、そこから漏れ出る人ならざる熱量。
予言が現実になるその日まで。
あるいは、彼が銀の箱の中身をすべて食べ尽くし、本当の「化け物」になってしまうその時まで。
この「退屈なエルフ」は、ただの隣人として、彼の影に寄り添い続けることを選んだ。
「ねえ、人狼さん。次の三百年も、ここで煙草を吸ってなさいよ。私が飽きるまではね」
アルフレッドは答えず、ただ新しい煙草に火をつけた。
それは彼なりの、この奇妙な「永劫の契約」への承諾だったのかもしれない。
噴水広場の静寂の中で交わされたその密やかな誓いは、やがて時代の狂騒の中へと飲み込まれていく。
◇
それからの時代も、人狼の騎士が駆け抜ける戦場において、敗北という文字は存在しなかった。
アルフレッド率いる『人狼騎士団』の踏み越えた地には、立ち塞がるあらゆる敵国と魔物の群れが破砕され、荒野と化した。
ある時は広大な山脈を越えて隣国を呑み込み、またある時は酷暑の砂漠や凍てつく北部大陸の防波堤を打ち破り、王国はその領土を爆発的な勢いで外へ外へと広げていった。
血と鉄の匂いを撒き散らしながら進むその無慈悲な進撃の果てに、一国の枠組みを超えた巨大な支配領域が完成しつつあった。
これこそが、のちに中央大陸から世界の歴史そのものを塗り替え、恐るべき覇権を振るうことになる「統一王朝」の強大な萌芽であった。
不老の牙を持つ怪物、アルフレッド・ベルンハルト。
彼の振るう魔剣フェンリスの紫の刃は、一人の少女への歪んだ純愛を胸に抱いたまま、国家の形すら作り変えようとしていた。
そして――この急激すぎる人間の領域拡大と、圧倒的な怪異の出現に対し、北方で蠢く魔族たちもまた、ついに無視できない脅威としてこの王国へその冷酷な視線を向け始めていたのだった。
(第3話に続く)