月光が蒼く冷たく照らし出す王城の中庭――「狼の泉」の石造りの縁には、静寂を裂くようにして四つの影が腰を下ろしていた。
その位置関係は、左から順にエルフの大魔法使いミリアルデ、漆黒の軍服を纏った人狼の騎士アルフレッド、静かに砂糖菓子を口にする若きエルフのフリーレン、そして不遜な笑みを湛える大魔法使いフランメの四人であった。
夜の冷気が白薔薇の香りを運ぶ中、広場には微かな物音すらなかった。
ただただ、噴水の水面が微小な波紋を重ね、静かに時を刻んでいるだけだ。
だが、その均衡は――一人の男の視線によって、ごく微かに揺らいでいた。
アルフレッドの黄金の瞳は、右隣に座るフリーレンの姿へと釘付けになっていた。
彼女が細い指先で銀の小箱から白い砂糖菓子を摘まみ上げ、小さな口へと運ぶ。
かり、と素朴な音が鳴り、美味しそうにそれを噛み砕く。
その横顔、伏せられた睫毛の角度、そして月光を透かす白銀の髪の繊細な揺れ。
どれを取っても、三百年前のあの忌まわしき血の夜に失った許嫁――シルヴィアの面影を、あまりにも残酷なほど鮮烈に映し出していた。
(……似ている)
頭の中で、かつての記憶が熱を帯びて蘇る。
だが、同時にアルフレッドの理性は冷徹に現実を告げていた。
シルヴィアは血肉の通った人間の少女であった。
対してフリーレンは、数千年の時を生きるエルフという異なる種族の、しかもまだ幼さの残る少女に過ぎない。
面影に目を奪われているなどと口にすれば、どのような誤解を招くか分かったものではない。
何より、彼女自身が目の前の「死臭を纏った怪物」に怯えているというのに、下手に過去の女の影を重ねているなどと知られたら、それこそ気味悪がられるのがオチだ。
「……なに?」
ふと、フリーレンが気配に気づき、小首をかしげてアルフレッドを見上げた。
その透き通るような瞳が真正面から捉えてきたため、アルフレッドは心臓を掴まれたような衝撃を覚え、慌ててふっと顔をそらした。
「い、いや……なんでもない……ちょっと、な」
不器用に言葉を濁し、ぶっきらぼうに視線を正面の夜空へと逃がすアルフレッド。
その一瞬の動揺と、あからさまに目を泳がせた挙動を、隣に陣取る二人の大魔法使いが逃すはずもなかった。
「……ふうん?」
ミリアルデは酒瓶を口元から離し、薄緑の瞳を細めた。
彼女は面白そうに唇の端を持ち上げ、アルフレッドの横顔とフリーレンを交互に見比べた。
「なに、あなた……フリーレンみたいな子がお好みだったの? 不老の騎士様」
「お、おい……何を言い出すんだ、お前は」
アルフレッドは顔を引きつらせ、低い声で抗議した。
だが、その程度の反論では、百戦錬磨の酔いどれエルフの口撃をかわすにはあまりにも弱々しかった。
さらに、反対側の隣に座っていたフランメが、面白がるようにふっと不敵な笑みを浮かべた。
「ほう……」
フランメは細身の葉巻を指先で回しながら、冷ややかな、けれど茶目っ気を含んだ視線をアルフレッドに向ける。
「私が小さい頃、あの面倒な師匠――ゼーリエの特訓に付き合わされていた時には、一度だってそんな甘い目線で見てくれたことなんてなかったのにな。なるほど、好みの問題ってわけかい、伯爵様」
「違う! そういう目で見ているわけではない!」
アルフレッドはさすがに焦りを隠せず、黄金の瞳を少しだけ見開いて声を荒らげた。
だが、その過剰な反応こそが、二人の大魔法使いにとっては最高の娯楽であった。
ミリアルデとフランメの二人は、示し合わせたようにすうっと身体を寄せ合い、じ――っと、容赦のない冷やかしの視線をアルフレッドの全身に浴びせかけた。
まるで、珍しい動物の生態を観察するかのような、あまりにも無言でプレッシャーに満ちた眼差しである。
(……くそ、居心地が悪い)
戦場で数万の敵に包囲されようとも微動だにしなかった人狼の騎士が、今、この中庭の小さな石畳の上で、二人の女の冷ややかな視線に晒されて冷や汗を流していた。
その重苦しい沈黙と、アルフレッドの挙動不審な様子を観察していたフランメは、ふっと悪戯っぽい笑みを消し、小さく口元を歪めた。
そして、隣で何が何だか分かっていない様子でキョトンとしているフリーレンの耳元へ、そっと顔を寄せた。
「フリーレン……」
「ん……なに、フランメ?」
「師匠(せんせい)だ。ちょっと、面白いことを教えてやるよ。あの怖そうな人狼の騎士をからかう方法があるのだが、お前、やってみるか?」
フランメのヒソヒソ声での囁きに、フリーレンは無垢な瞳をパチクリとさせた。
彼女にとって、この恐ろしい死臭を漂わせる怪物は、近づくだけで背筋が凍るような存在でしかなかったが、師であるフランメが言うのなら悪いことではなさそうだった。
「なに、フランメ……ううん、師匠? それをすればいいの?」
「そう。見た目はお兄さんで、中身は化け物の奴をちょっとだけ驚かせてやりなさい」
フランメが意地悪く笑いながら、こくりと頷いて見せた。
フリーレンは真面目な顔で「わかった」と小さく返事をすると、よいしょっと、小さな身体で石造りの縁から立ち上がった。
コツコツと、可愛らしい足音が夜の静寂に響く。
アルフレッドは、ふと視線の先に現れた白い影に気づき、怪訝そうに黄金の瞳を向けた。
「……ん? どうした、フリーレン」
何事かと問うアルフレッドの前で、フリーレンはピタリと足を止めた。
彼女はフランメに教えられた通り、少しだけ背伸びをする。
そして、その小さな右手の人差し指と中指を揃えると、自らの柔らかそうな唇にそっと当てた。
(……?)
アルフレッドが状況を飲み込めず、眉をひそめたその瞬間。
フリーレンは唇に当てていた指先をスッと前方へ突き出し、アルフレッドに向けて小さな息を吹きかけた。
――投げキッス。
それは、戦場の血と硝煙にしか縁のなかった人狼の騎士にとって、想像の斜め上をいく、あまりにも破壊力抜群の「一撃」であった。
(――は?)
アルフレッドの思考が、完全に停止した。
三百年間の呪縛、数多の修羅場、皇帝からの叙任、そして数々の死闘。
そのすべての記憶が、その一瞬の可愛らしい動作によって頭の中からきれいに吹き飛んでいった。
心臓が、バクンと跳ねる。
顔の温度が、一気に沸点へと達するのを感じた。
化け物として恐れられ、死神として生きる男の胸を、予想外すぎる無垢な少女の仕草が直撃したのである。
「う、お……っ!?」
あまりの動揺と衝撃に、アルフレッドの身体はバランスを完全に失った。
彼は慌てて体を後ろへ引こうとしたが、そこにあったのは――夜風に冷やされた、苔むした噴水の縁の石畳であった。
アルフレッドの身体は、そのまま盛大に宙を舞った。
「わっ……!?」
ざぼーん!!
静まり返った中庭に、水飛沫が盛大に弾け飛ぶ心地よい音が響き渡った。
漆黒の軍服を着たまま、無数の勲章を胸に輝かせた不老不死の怪物は、そのまま背中から噴水の冷たい水底へと見事に沈んでいったのだった。
水面から頭を出したアルフレッドが、髪から滴る水を拭いもせず、呆然と天井の月を見上げる。
その両隣では――。
「くっ……くふふ……あははっ! 見た!? 人狼の騎士が水に落ちた!」
酔っていたミリアルデが腹を抱えて大爆笑し、酒瓶を危うく落としそうになっていた。
「ふん、流石の伯爵様も、投げキッスの直撃には耐えられなかったみたいだね」
フランメは面白そうに片頬を釣り上げ、満足げに細巻きの紫煙をくゆらせている。
そして、当の本人であるフリーレンは、自分の指先を不思議そうに見つめながら「……あれでよかったの?」と首をかしげていた。
月光の降り注ぐ狼の泉は、かつてないほどの明るい笑い声に包まれ、静かな夜はどこまでも穏やかに更けていくのだった。
(第21話に続く)
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