水飛沫を上げて「狼の泉」へと見事に沈んだアルフレッドは、濡れた前髪を無造作に掻き上げながら、重い水音とともに噴水の浅瀬へと立ち上がった。
漆黒の軍服は水を含んでズッシリと重くなり、胸元に飾られた金銀の勲章からは、ぽたぽたときれいな雫が垂れ落ちている。
それを見たミリアルデは、お腹を抱えて笑い転げながら酒瓶を叩いた。
「く、あはははっ! あーおかしい! なによそれ、濡れ狼さん! 風邪をひくわよ、城内の暖炉にでもあたってくる?」
反対側では、フランメが小さく肩を揺らし、くすくすと満足げに紫煙を吐き出している。
当のフリーレンだけが、濡れ鼠となった巨大な男を少しだけ申し訳なさそうに見上げ、「……大丈夫?」と首をかしげて心配そうに覗き込んでいた。
「ふん……心配ない」
アルフレッドが低く短く返した、その瞬間だった。
彼の全身から、ゆらりと濃密な紫の魔力が燃え上がるように立ち上った。
不老不死の肉体を守り、戦場を統べる不吉で圧倒的な魔力のオーラ。
バチバチと不吉な火花を散らすその紫の熱気によって、濡れそぼっていた漆黒の軍服と勲章、そして髪の雫が一瞬にして湯気となって蒸発していく。
手にもっていた水に濡れた葉巻もきれいに雲散霧消していった。
ほんの数秒の間に、彼は何事もなかったかのように完璧に乾ききった軍服姿へと戻っていた。
「……まったく。不意打ちには気をつけんとな」
アルフレッドは黄金の瞳を少しだけ気まずそうに逸らすと、白い手袋で服装を整えながら重々しく呟いた。
その強がりと、圧倒的な魔力の無駄使いに対し、ミリアルデとフランメは再び楽しそうに笑い声をあげる。
紫のオーラで一瞬にして服と髪を完璧に乾かしてみせたアルフレッドの力技に、フランメは感心したように細身の葉巻をくわえ直した。
「へー、便利ね。私の風呂上がりの髪も乾かしてもらおうかしら」
「じゃあ、私も……乾かすの、めんどくさいから頼もうかな……」
フランメの思いつきに、フリーレンも素直に頷いて白銀の長い髪を触ってみせる。
長い髪を持つ二人からの思いがけない「湯浴み後の乾燥依頼」に、酒瓶を抱えたミリアルデも面白そうに目を丸くした。
「え、それって……私もやってもらえるの……?」
三人の視線が一斉に自分へ注がれるのを感じ、アルフレッドは額に青筋を浮かべ、苦虫を噛み潰したような顔で即座に一蹴した。
「や、やめろ、俺は便利な魔法アイテムじゃない」
人狼の騎士の呆れたような制止に、中庭には再び小さな笑い声が響き渡るのだった。
濡れた衣類を一瞬で乾かし、幾分気まずそうに狼の泉の縁へと座り直したアルフレッドは、手慣れた手つきで懐から太い葉巻を取り出し、火を点けた。
紫の魔力を帯びた濃密な煙が夜空へとゆったりとなびき、中庭に漂う甘い雰囲気を一変させる。
アルフレッドの黄金の瞳から、先ほどまでの動揺は完全に消え去っていた。
そこに宿るのは、人狼騎士団を率い、世界の影で戦い抜いてきた『人狼の騎士』としての冷酷で重厚な眼光であった。
彼は隣に座るフランメを見据え、低く地に響くような声で切り出した。
「さて、本題に入ろう。こんなくだらない戯れをしにわざわざ会いに来たわけではあるまい。魔法の改革……決心がついたのか?」
その一言で、場の空気が緊張の糸を張り詰めたように引き締まった。
右隣で酒瓶を抱えていたミリアルデは笑みを引き込め、静かに瞳を細める。
フランメの傍らに座って寄り添うフリーレンも、不意に漂い始めた重苦しい気配を感じ取り、か細い肩を緊張でこわばらせた。
フランメはくわえていた細身の葉巻を指で挟み、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
二十歳前後の凛とした美貌の奥に、人類の歴史そのものを根底から覆しかねない狂気と確信の炎が燃え上がっている。
「……ああ」
フランメは一切の迷いなく頷き、まっすぐにアルフレッドの黄金の瞳を見つめ返した。
「決心なら、とうの昔についているさ。私は皇帝コンラートに……王立魔法院の設立と、宮廷魔法使いたちの育成、魔法研究の認可、そして何より『魔法の一般化』を提案する」
その言葉が夜の静寂に落ちた瞬間、隣のフリーレンは「魔法の一般化……?」と小さく呟き、不思議そうに首をかしげた。
魔族の惨劇から生き残ったばかりの幼きエルフにとって、その言葉が意味する果てしない凄惨さと変革の大きさを、まだ理解する術はなかった。
「……本気なんだな」
アルフレッドは深く葉巻を吸い込み、紫煙越しにフランメの顔を見つめた。
「魔法とは人間にとって『魔族の忌むべき異端の力』であり、恐れと弾圧の対象だった。それをすべての人間に開放し、生活の技術として普及させる……そんなことをすれば、貴族どもや僧会、聖杖法院の老いぼれたちが黙ってはいないぞ。世界がひっくり返る」
「ひっくり返せばいいのさ」
フランメは不遜に鼻を鳴らし、冷ややかな、けれど激しい情熱を込めて言い放った。
「誰もが魔法を使える世界になれば、魔法への不当な恐怖も、無知ゆえの血生臭い異端審問も消える。そして何より、人間社会全体が魔族に対抗できる圧倒的な力を持つことになる」
彼女の瞳の奥で揺らめくのは、故郷と両親を奪われた深淵なる復讐の炎。
(……やはり、俺のついた『嘘』が原因なのか)
アルフレッドは胸の奥で苦い痛みを噛み締めた。
十数年前、魔法に怯えた人間に両親を殺された少女を守るため、彼女が人間に絶望しないよう「両親は魔族に殺された」と記憶を塗り替えた。
その優しき嘘が、巡り巡って彼女を「魔族を叩き潰すために全人類へ魔法を広める」という凄絶な大改革へと突き動かしている。
真相を知る者は、世界でアルフレッドただ一人。
隣で気丈に酒を煽るミリアルデすら、この残酷な因果を知らずにつぶやいた。
「……ゼーリエには、間違いなく反対されるだろうね」
フランメは自嘲気味に呟いた。
「師匠――せんせいは魔法を『選ばれた特別なる者のためのもの』だと信じている。だが、私は違う……私は人間だ。脆くて儚い人間が、魔族の脅威から生き残るためには、魔法を誰にでも扱える『道具』にしなければならないんだ」
「ゼーリエと決別する覚悟はあるのか?」
「最初から、理解してもらえるなんて思っていないよ」
フランメは短くなった葉巻を指先で揉み消すと、まっすぐに立ち上がり、アルフレッドの前へと立つ。
そして、彼に手を差し出した。
「だからこそ……人狼の騎士、伯爵となったあんたの力が必要なんだ。統一王朝の軍事と政治の裏を牛耳ることができる、あんたが背後にいてくれれば、皇帝コンラートも王室会議も、私の提案に耳を傾ける。私に協力してくれるかい、平和を願う騎士殿?」
静寂が中庭を支配する。
――魔法研究の認可。
――魔法の一般化。
――宮廷魔法使い。
――王室魔法院の設置。
それは人間に大きな繁栄と魔族への対抗手段をもたらすのと同時に、これまでの秩序を根底から破壊し、恐ろしい混乱と犠牲を生み出す劇薬であった。
アルフレッドは無言のまま、手元で燻る葉巻をじっと見つめた。
そして、隣に座っているフリーレンへ「すまんな、フリーレン。菓子を一つもらうぞ」と声をかけると、彼女は「ん……」と素直に銀の小箱を差し出してきた。
箱の中に残っていた砂糖菓子を一粒摘まみ上げると、静かに口の中へ放り込んだ。
故郷の甘さと、香草の苦み。
三百年前の許嫁シルヴィアとの約束の味が、彼の舌の上で溶けていく。
「……俺にしかできないことだ」
アルフレッドは低い声で呟き、力強く立ち上がった。
「フランメ。お前の描く狂気と改革の未来……俺も最後まで付き合おう。統一王朝の『影』として、お前の歩む道にある障害をすべて切り伏せてやる」
白手袋に包まれた手を差し伸べて、二人は初めてお互いの体温を感じた。
「……ありがとう、人狼」
フランメの口元に、満足げで気高い笑みが浮かんだ。
ミリアルデは呆れたように深いため息をつきながらも、白磁の酒瓶を掲げて二人を潤んだ瞳で見つめた。
「まったく、不老の化け物と狂える大魔法使いが組むなんてねぇ。世界がどうなっちゃうか、見ものだわ。いいわよ、私も最後まで特等席で見届けてあげる」
満月の冷たい光の下、歴史を塗り替える壮大な「魔法改革」の企みが、今、静かに産声を上げた。
不老の騎士が影となり、新時代を作る大魔法使いが引き起こす、その変革の果てに待つものが――人類への「救済」なのか、それとも抗えぬ「破滅」なのかは、まだ誰にもわからない。
(第22話に続く)
お気に入り・しおり・応援のコメントなど頂けましたら幸いです。