「正直……あんたが頼みだったのさ、人狼」
フランメは新たに灯した細身の葉巻の灰を指先で軽く落とすと、自嘲気味に口元を歪めてそう漏らした。
「……俺が、だと?」
アルフレッドは黄金の瞳をかすかに細め、太い葉巻を口にくわえ直した。
その重々しい問いに、フランメは隠すことなく本音を吐き出す。
「そうさ。私は確かに、聖杖法院じゃ『気鋭の大魔法使い』なんて持ち上げられている。だがね、統一王朝という巨大な政治の仕組みの中じゃ、何の権限も力もないただの平民出身の魔法使いに過ぎないんだ。小娘が一人で、今を時めく皇帝陛下に謁見を願い出たところで、宮廷の門番に追い払われて終わりだよ」
彼女は夜の闇を見つめ、静かに言葉を継ぐ。
「だから、陛下に『魔法の改革』を奏上するにしても、裏で絶大な影響力を持つ誰かに繋ぎ取ってもらわないと不可能だったのさ。王室の最大戦力にして初代皇帝の師、統一王朝の伯爵であるあんた以外に、この無茶を通せる人間なんてこの世界に存在しない」
「俺の政治的な立場を利用するというのか……」
アルフレッドの低く掠れた声が、夜の静寂に重く落ちた。
政治的な立場。
その言葉は、アルフレッドの胸の深層を苛烈に突き刺した。
三百年前、不老不死の怪物となって以来、彼は徹底して宮廷の政治劇や権力闘争から身を引き――いや、逃げてきたのだった。
爵位も領地も受け取らず、ただ戦場で敵を喰らい、功績の代わりに故郷の砂糖菓子と煙草だけを求めてきた。
権力を持てば、人間たちの醜い欲望に巻き込まれ、自らの内にある『人間としての矜持』が擦り減ってしまうことを恐れていたからだ。
コンラートから与えられた「伯爵」という栄誉すら、彼は弟子への情義のために甘んじて受け入れたに過ぎない。
だが――今、目の前に立つ少女は、彼がずっと逃げ続けてきたその「政治的立場」を、世界の未来を変えるための楔として打ち込もうとしていた。
「利用されるのが嫌なら、断ってもいいんだよ?」
フランメは挑発するように片眉を跳ね上げたが、その瞳にはアルフレッドに対する揺るぎない信頼が宿っていた。
「私は一人でもやる……だが、あんたなら分かっているはずだ。魔法を禁忌から解き放ち、誰もが使える技術にしなければだめだ。人間が魔族に食い散らかされ、無知ゆえに互いを疑い、殺し合う時代を終わらせて平和な時代を作るには、これしかないんだ」
アルフレッドは無言のまま、手元で揺らめく紫煙を見つめた。
自分がついた「両親は魔族に殺された」という記憶改変の嘘。
その嘘から芽生えたフランメの狂気と執念は、いまやアルフレッドが逃げ続けてきた「政治」という現実の舞台へと彼を力ずくで引きずり出そうとしている。
逃げることは、もはや許されない。
「……ハッ」
アルフレッドの薄い唇から、自嘲に満ちた短い息が漏れた。
「逃げ切れんか。三百年間、戦場と王室の影だけに身を置いてきたこの俺が、ついに宮廷の表舞台で泥を被る羽目になるとはな」
彼が覚悟を決めたように立ち上がると、胸元の無数の勲章がジャラリと重厚な音を立てた。
「いいだろう、フランメ。皇帝コンラートへの謁見はお前ひとりの申し出ではなく……この『人狼の伯爵』『人狼騎士団長』アルフレッド・ベルンハルトからの政治提言として執り行ってやる」
「……頼みにしてるよ、人狼」
フランメの瞳から、それまでの苛烈さが消えていた。
単なる仲介ではなく、自らの名誉と軍事力を完全に賭けて前面に立つという宣言だったからだ。
「俺が蒔いた種だと言ったはずだ。お前の背負う狂気も、これから巻き起こる歴史の嵐も……すべて俺が道連れになってやる」
アルフレッドは黄金の瞳を夜空へ向け、静かに、そして凄絶な意思を込めてそう告げた。
隣で見ていたミリアルデは、空になった酒瓶を足元に置くと、心底可笑しそうに、けれど深く満足そうに笑みを浮かべた。
「くふふ……言っちゃったわねぇ、狼さん。これであんたも、立派な『政治家』の仲間入りよ」
「……笑うな、ミリアルデ。俺はただ、この小娘の無茶に最後まで付き合うだけだ」
静まり返った「狼の泉」で、歴史を変える決定的な誓いが結ばれた。
かつて権力から逃げ続けた人狼の騎士が、ついに自らの意思で「政治の表舞台」へと足を踏み出す。
宮廷に血の雨が降る未来という重苦しい予感が夜の静寂を満たしていく中――。
横から見ていたフリーレンは、三人の深刻な会話には一切の関心を寄せず、アルフレッドから渡された銀の小箱のなかを覗き込んでいた。
そこに入っていたのは、三百年の時を越えてアルフレッドの心を繋ぎ止めてきた、最後の一粒の白い砂糖菓子であった。
それを口に放り込み、かりかりと美味しそうに噛み砕いてから数秒。
彼女は銀の小箱を傾けてみたが、中にはもう一粒も残っていなかった。
「……あ、もうなくなっちゃった?」
フリーレンは名残惜しそうに小箱を伏せ、周りの大人たちを見上げて無邪気に首をかしげた。
「……おかわり、ないの?」
その一言で、先ほどまでの張り詰めた空気と凄惨な革命の決意が、たちまち綺麗に霧散してしまった。
シリアスな政治劇から一転して、あまりにもマイペースで現実的な少女の要求に、アルフレッドは思わず言葉を詰まらせた。
「あ……いや、それは……」
不老不死の怪物として世界を揺るがす『魔法改革』の矢面に立つと誓ったばかりの男が、目の前の小さなエルフにあっさりと調子を狂わされている。
その狼狽ぶりを見逃さなかったミリアルデは、さきほどからフリーレンに向けられるアルフレッドの視線の「異常な熱量」を敏感に感じ取り、どこか疑念を孕んだ、けれど可笑しそうな眼差しで彼の横顔を凝視した。
(……ねえ、アルフレッド。あんた、あの子に一体何を見ているの……?)
胸の奥に芽生えた微かな胸騒ぎを酒の笑みで覆い隠しながら、ミリアルデは呆れたように肩を揺らした。
「ねぇ、人狼さん。世界を救う大男の威厳が台無しよ? 早くその子に追加をあげたらどうなの」
フランメもやれやれといった風に細身の葉巻の煙を吹き出し、くすくすと笑った。
「まったくね。障害をすべて切り伏せてやるなんて大層なことを言っておきながら、手元の砂糖菓子すら切らしているなんて頼りないことこの上ないな、人狼」
二人の冷やかし交じりの視線を受け、アルフレッドはわずかに気まずそうに目を逸らした。
「……すまん、フリーレン。今夜の分はもうない。明日にでも用意してやろう」
アルフレッドが真面目な顔でそう告げると、フリーレンは少しだけ不満そうに唇をとがらせたが、「そう……なら、しかたないか」と素直に納得したように銀の小箱を閉じ、アルフレッドへとそっと差し出した。
その無垢で執着のない仕草は、奇しくも三百年前のシルヴィアの面影を鮮烈に掠めさせ、アルフレッドの胸の奥を激しく締め付けた。
「……ふっ」
アルフレッドは微かに笑みをこぼすと、差し出された銀の小箱を丁寧に受け取り、再び懐へとしまった。
政治の表舞台への進出する人狼の騎士。
フランメが仕掛ける人類の魔法改革。
そして、宮廷に巻き起こるであろう血の闘争。
避けて通れぬ幾多の修羅場が待ち受けていようとも、この静かな中庭で砂糖菓子をねだる小さなエルフの存在が、不思議とアルフレッドの心に新たな戦う理由を灯していた。
「さて……夜も更けた。城内へ戻るぞ、フリーレン」
フランメが泉の縁から立ち上がる。
その背中は、もはや迷いを断ち切った人間の改革者そのものであった。
(第23話に続く)
評価・お気に入り・しおり・応援のコメントなど頂けましたら幸いです。