月光が冷ややかに濡らす噴水広場に、痛々しいほどの静寂が降り積もっていた。
風に揺れる白薔薇の香りと、太い葉巻から立ち上る濃厚な紫煙。
そして、足元に転がる皇帝酒<ボースハフト>の空瓶。
フランメとフリーレンの二人が「じゃあ、明日な。人狼」「ミリアルデ、またね」と言って暗がりの中へと立ち去り、広場に残されたのは、かつてと変わらぬ「二人の怪物」だけであった。
だが――その静寂の質は、数年前までのそれとは根底から異なっていた。
アルフレッドは無言のまま、指先に挟んだ葉巻を深く吸い込み、濃密な煙を夜空へと吐き出した。
その黄金の瞳は、城内に消えた二人の影ではなく、はるか先の暗がり――宮廷、聖杖法院、そして人間たちのドロドロとした欲望と権力が渦巻く表舞台を見つめていた。
その横顔を、石造りの縁に腰掛けたミリアルデがじっと見つめていた。
彼女の手に、いつもの酒瓶はない。
薄金色の髪が夜風に揺れ、長耳の先端が小さく震えている。
その薄緑の瞳に宿っていたのは、数千年の時をやり過ごしてきた洒脱な微笑でも、大魔法使いとしての冷淡さでもなかった。
溢れ出しそうな切なさと、胸をかきむしるような悲痛な熱量。
「……ねえ、アルフレッド」
ミリアルデの声が、夜の冷気の中にぽつりと落ちた。
いつも二人きりの時は「人狼さん」と戯れ気味に呼ぶ彼女が、飾りのないその名を口にする。
アルフレッドは視線を動かさず、ただ静かに耳を傾けた。
「私じゃ……ダメなの?」
掠れた問いかけ。
ミリアルデはローブの裾を強く握り締め、白銀の太腿を震わせながら、膝の上にぽたぽたと落ちる涙を隠そうともしなかった。
「ここで……私と一緒に、ただ時を重ねるだけじゃ……だめなの……?」
数千年の忘却の海を漂い、人間たちの歴史も世俗の権力も「取るに足らない戯れ言」と切り捨ててきたエルフの大魔法使い。
その彼女が、いま、一人の女として、剥き出しの情念を目の前の男へとぶつけていた。
皇帝コンラートと皇后ロザリアが統一王朝を完成させ、人間たちが栄華の頂点を極めたこの平穏な夜。
ここで表舞台から完全に姿を消し、この噴水広場の影で、二人だけで酒を煽り、煙草をくゆらせ、永遠の微睡みの中に沈んでいくことだってできたはずなのだ。
二人なら、どれほど世界が移ろおうとも、傷つけ合うことなく、穏やかな「永遠」を分かち合えたはずだった。
「私はね……あんたといる時間が、一番好きなのよ」
ミリアルデの声が震え、涙が頬を伝って可憐な顎から零れ落ちる。
「あんたが私を綺麗なドレス姿で見つめてくれたあの日から……『綺麗だ、ミリアルデ』って言ってくれたあの瞬間に、私の数千年の退屈な時間は全部終わったの。あんたと一緒にいられれば、過去の思い出も、エルフの村の滅亡も、何だって耐えられた……!」
彼女は手を伸ばし、アルフレッドの漆黒の軍服の袖を、すがるように強く掴んだ。
「なのに……どうして? どうしてあの子たちのために……人間の最も穢れた場所に足を突っ込もうとするのよ! フランメの身勝手な狂気も、フリーレンの悲劇も……あんたが一人で背負う必要なんてないじゃない!」
悲痛な叫びが、夜の中庭に空しく響き渡る。
ミリアルデは知っていた。
アルフレッドが武門の影を捨て、フランメたちの「魔法改革」に応えて宮廷や聖杖法院へ提唱すれば、何が起きるかを。
栄華の頂点にある『統一王朝』は、人狼への恐怖と嫉妬から、アルフレッドを「守り神」から「最悪の怪物」へと反転させる。
人間の権力者たちの醜い奸計によって、やがて苛烈な異端審問と裏切りが彼を襲うだろう。
かつてミリアルデとの安らぎの中に留まっていれば避けられたはずの、あまりにも惨痛な破滅の未来。
「お願いよ……アルフレッド……」
ミリアルデは彼の胸元に額を押し当て、無数の勲章が悲痛な金属音を立てて鳴る中で、咽び泣いた。
「お願いだから……私とここにいて……私を置いていかないで……」
アルフレッドは、胸元で泣きじゃくるエルフの温もりを、全身で受け止めていた。
その心根は、引き裂かれるような苦痛に悶えていた。
(……ミリアルデ)
彼女の言う通りだった。
彼女とここにいれば、どれほど救われただろう。
三百年間、死にきれずに血にまみれてきた己の魂にとって、ミリアルデの存在こそが唯一の「至高の安息」であり「救い」であった。
だが――。
アルフレッドはゆっくりと手を伸ばし、彼女の華奢な肩を、慈しむように、けれど苛烈なほど固い意思を込めて抱き寄せた。
「……すまない、ミリアルデ」
低く、重厚な声。
そこには、紫のオーラに揺らぎが一切存在しない、不老不死の怪物の「矜持」が宿っていた。
「……俺は、あの娘を捨てられん」
アルフレッドの黄金の瞳に、宿命の闇が深く沈み込んでいく。
「十数年前……俺がついた『両親は魔族に殺された』という優しき嘘が、あの子をあの狂気へと走らせた。俺が撒いた偽りの種だ。その引き金を引いた俺が……あの子の身勝手も、身を焼く復讐も、見捨てることなどできんのだ」
そして、脳裏に焼き付いたもう一人の少女の姿。
「それに、フリーレンもな……俺が……俺が悪いんだ……」
アルフレッドの掠れた声に、ミリアルデはハッとして顔を上げた。
「王朝の平和ばかりに目を奪われ、庇護の届かぬ場所でエルフの集落が魔族に踏みにじられるのを……俺は見過ごした。フリーレンからすべてを奪ったのも、巡り巡って……今こうしてお前を泣かせているのも、俺の無関心と驕りが生んだ罪なのだ」
男を表舞台へと再び立ち上がらせるもの。
それはいつの時代も、穏やかな安らぎではなく、傷ついた者たちの熱情と、身を焦がす不幸、そして男自身が捨てきれぬ「騎士としての優しさ」という名の罪悪感であった。
ミリアルデという「至高の安息」を持ってしても……この人狼が自らに課した贖罪の血を抑えつけることはできなかったのだ。
「……俺は、俺の道を行く」
アルフレッドは彼女の月明かりに光る金髪を優しく撫で、その濡れた頬を白手袋の手でそっと拭った。
「コンラートとロザリアが創り上げたこの帝国が、俺を化け物として排除しようとも。貴族や魔法使いどもが俺を裏切り、異端として殺そうと企もうとも……俺はフランメのわがままを引き受け、あの二人の盾となって、抵抗する奴をすべて喰らい尽くす」
「……あう……うっ……」
ミリアルデは声にならない嗚咽を漏らし、彼の胸元で握り拳をつくった。
分かっていたのだ。
この男がどれほど不器用で、どれほど愚直で、どれほど恐ろしいほどに「優しい」狼であるかを。
だからこそ自分は、この男に心を奪われ、数千年の孤独を捨ててまで愛してしまったのだと。
アルフレッドは彼女の額にそっと自分の額を重ね、深く、熱い吐息を漏らした。
「ミリアルデ……お前を愛している……だからこそ……俺の破滅を、最後まで見届けてくれ」
「……バカ」
ミリアルデは涙で濡れた瞳を開き、可憐な唇を震わせながら、掠れた声で吐き捨てた。
「バカ……大バカ野郎っ! 誰が見届けるもんですか! あんたが底なしの沼に落ちるなら……私も一緒に行くに決まってるじゃないっ!」
彼女はアルフレッドの首筋に力いっぱい手を回し、その体内に染み付いた紫煙と鉄の匂いを、狂おしいほど深く吸い込んだ。
「置いていくなんて……絶対に許さないんだから!」
澄み切った満月の光が二人を白く照らし出す。
繁栄の頂点を迎えた『統一王朝』。
その輝かしい歴史の陰で、自らの平穏を破棄し、人間たちの醜い欲望と破滅の渦へ足を踏み出す「二人の怪物」。
噴水広場に刻まれた二つの影は、二度と戻らぬ安寧の時に別れを告げ、苛烈なる「魔法改革の時代」の戦いへと、静かに、そして気高く立ち上がった。
(第24話につづく)
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