ある日の昼下がり、王城の深奥に位置する古い噴水広場には、重苦しい死臭を塗りつぶす紫煙と、芳醇な葡萄酒の香りが怪しく混ざり合っていた。
指先で煙草を燻らす人狼の騎士、アルフレッド・ベルンハルト。
その隣で、泥酔して脚を投げ出し、空になった酒瓶を弄んでいるエルフの女、ミリアルデ。
世間からは過酷な畏怖をもって語られる「魔剣使い」と、歴史の影に隠れて目的もなく気ままに生きる「大魔法使い」。
かつて神の威光を聖杖法と呼び、魔法を女神の奇跡の一種としていた時代――いわゆる『旧聖杖法院』の時代において、ミリアルデはゼーリエやミーヌスらと並び称されるほどの大魔法使いであった。
だが、今の彼女にはそんな大層な肩書などどうでもよく、ただただ退屈を紛らわせる酒と、隣に座る化け物の吐き出す不機嫌な紫煙があればそれで満足だった。
そんな二人だけの静寂を破るように、圧倒的な密度の魔力を纏った足音が石畳を鳴らした。
「ミリアルデ、まったく、どうしようもないな。そんな輩と隣り合って座るなど」
屈託のない笑顔を浮かべ、黄金の髪をなびかせて現れたのは、大魔法使いゼーリエであった。
「チッ……なんだよ、ゼーリエ……帰れよ」
アルフレッドは紫のオーラを全身から揺らめかせたまま、露骨に嫌そうな顔をして舌打ちをした。
そして、ゼーリエの背後からおずおずと、けれど好奇心と警戒心を露にして顔を覗かせた小さな影に、彼の黄金の瞳が留まった。
うら若き天才魔法使い――後の伝説の大魔法使いと呼ばれることになる少女、フランメであった。
アルフレッドの脳裏に、十数年前の苦い景色が鮮明に蘇る。
――あれは、彼が北部方面で魔族との血濡れの殺戮を繰り広げていた頃のことだ。
この当時はまだ魔法への偏見が強く、魔力の才を示す者は「魔族の同類」として忌み嫌われ、時に人間たちの手によって火刑に処されていた。
アルフレッドが魔族の襲撃の知らせを聞いて駆け付けたとき、小さな村は火の海に包まれていたが、村に住んでいた魔法使いの一家によって魔族は撃退されていた。
だが、生き残った村人たちの手によって、助けたはずの魔法使いの一家が追い詰められていた。
血の海の中に横たわる、瀕死の父親と母親。
そして、その傍らで冷たくなりかけていた幼い少女。
『どうか……お願いです、騎士様……。娘が……この子が、人間を恨むような大人に……ならないようにしてください……村人は怖かっただけなのです……私らが悪いのです……』
両親は最後の力を振り絞り、アルフレッドの手に泣きついた。
アルフレッドは魔剣フェンリスの紫の魔力を揺らめかせ、幼い少女の精神に介入した。
人間への憎悪で心を狂わせないよう、彼女の記憶を静かに書き換えたのだ。
――お前の両親を殺したのは、人間ではない。恐ろしい『魔族』なのだと。
自分ではこの託された幼子を育てることができない。
血と死臭に濡れて戦いばかりを追い求める自分の側に置けば、いずれろくな死に方はしない。
そう判断したアルフレッドは、ミリアルデに引き取りを打診したが、「子育てなんて柄じゃないわ」とあっさり拒絶された。
やむなく、魔法使いの才能があることから、腐れ縁であるもう一人の大魔法使い――ゼーリエの元を訪ねて、その少女を半ば押し付けたのだった。
それから十数年。
成長したフランメは、師であるゼーリエから「過酷な戦場を駆け抜ける人狼の騎士」の噂を聞くたび、異様なほどの執着を見せるようになったという。
『その騎士に会ってみたい』『どんな男か知りたい』『最近はあの憎き魔族も討伐してるのね』と根掘り葉掘り問い詰められ、いい加減に面倒くさくなったゼーリエが、「そこまでいうなら直接会わせてやる」と、今日こうしてわざわざ王城の噴水広場へ連れてきたのだ。
成長した少女の面影を注視しながら、アルフレッドは低く呟いた。
「……なんだ、この小娘は?」
「小娘ですって!?」
フランメは目の前で酒と煙草に耽る異様な二人組を見つめ、思わず声を張り上げた。
「ミリアルデ様! どうしてこんな化け物と一緒にいるのですか!不浄です!」
矛先を向けられたミリアルデは、困ったように首を傾げると、手にした葡萄酒の瓶をちびちびと煽った。
「そう……どうしてかな……寂しかったからかな……」
「寂しいからって、こんな死臭のする化け物と……!」
フランメは拳を強く握り締め、紫煙の向こうに座るアルフレッドを直視した。
「あなたは人間を憎む。私は魔族を憎む。だけど……それが相容れなくなったら、あなたは人間と魔族のどちらにつくつもりなの、人狼!」
その問いかけは、あまりにも鋭く、まっすぐだった。
アルフレッドは肩をすくめ、冷淡に言い放つ。
「小難しいことを聞くな、小娘。俺の敵は敵、俺の前を塞ぐ者が敵だ。お前は敵か?」
「あなたが人間に害を及ぼす化け物ならね!」
フランメは一歩踏み出し、ゼーリエに似た不敵で屈託のない笑顔を彼に向けた。
そこには恐怖も、怯えも、一切の不安もなかった。
遥かに格上の魔力量を持つ怪物に対峙しているにもかかわらず、彼女の心根は微塵も揺らいでいない。
それは魔力や戦闘力の差などでは到底推し量ることのできない、人間としての強固な意志の輝きだった。
アルフレッドは、かつて火の海の中で記憶を書き換えた幼い少女の顔と、目の前の力強い瞳を重ね合わせた。
「なるほどな、ゼーリエ……お前がなぜこの小娘を連れてきたか……」
彼は静かにため息を漏らすと、ポケットに手を突っ込んだ。
ごそごそと音を立てて取り出したのは、細かな擦り傷の刻まれた、光り輝く純銀の箱だった。
蓋を開けて差し出すと、中には雪のように白い、小粒の砂糖菓子がいくつも転がっていた。
「まあ、座れよ。煙草か、酒か……それとも砂糖菓子でも食うか?」
フランメはサッと身を引くと、ゼーリエの背後に隠れた。
「なによ、それ!毒じゃないの!?」
「銀製の箱に入れて魔力を遮断してあるのにそれはないだろう。俺の故郷のお菓子さ」
「地獄の?」
「……はっはっは!」
アルフレッドは思わず腹を抱えて大笑いした。
「面白いことを言う小娘だ。俺だって元は人間だぞ」
「小娘じゃない!フランメ!私の名前はフランメよ、覚えなさいよ、頭の悪い人狼!」
キャンキャンと噛みついてくるフランメの横から、ミリアルデが白い指を伸ばし、箱から一粒を拝借した。
「酒のつまみには甘すぎるけど、食べられるわよ」
ひょいひょいと口に運ぶミリアルデの姿を見て、フランメはおずおずとゼーリエを見上げた。
ゼーリエは無言のまま、「食べてみろ」と顎で促す。
フランメはミリアルデの傍に行き、彼女から一粒受けると、太陽の光にかざして毒や呪いが仕込まれていないか入念に確認してから、パクリと口に含んだ。
「ッ……あっまいわ!これ!」
普段、ゼーリエのもとで苛烈な魔法修業に明け暮れている彼女にとって、砂糖の強い甘みは未知の衝撃だった。
一瞬で舌いっぱいに広がる豊かな甘さに目を丸くしたフランメは、じーっとアルフレッドの手元にある銀の箱を見つめ始めた。
「ふん、やはり小娘だな。ほれ、食べていいぞ。俺の部屋にはまだたくさんある」
アルフレッドがくすりと笑いながら銀箱ごと渡してやると、フランメは素直にそれを受け取り、ミリアルデのすぐ隣に腰を下ろした。
そのまま夢中で砂糖菓子を口へ運び始める。
かつて二人の怪物が孤独を分け合っていた「狼の泉」に、初めて三人目の存在が加わった瞬間だった。
ゼーリエは少し離れた場所で腕を組み、不機嫌そうな、けれどどこか愉しそうな眼差しでその光景を眺めていた。
「……ごちそうさま!」
あっという間に箱を空にしたフランメは、満足そうに息をつくと、アルフレッドに直接銀箱を突き返した。
「ああ、どうだ、フランメ。俺が化け物か魔族か、人間に害をなす怪物か……決まったか?」
アルフレッドが問うと、フランメは口元の砂糖を拭いながら、ニッコリと笑ってみせた。
「そうね。美味しい砂糖菓子をおごってくれたから……『保留』にしてあげるわ」
「ふふ、それがいいわね。結論をすぐに出すのはもったいないわよ」
隣でミリアルデも愉快そうに目を細める。
アルフレッドは冷めた紫煙を吐き出し、自嘲気味に鼻で笑った。
「ふん、まあ、俺自身がどっちつかずの化け物だから悪いのさ。だがな、故郷の菓子を好いてくれる奴を裏切るほど、人間味がないわけではない。結論を待ってやるよ」
「ふふん、ありがとう。ところで、名前はなんていうのよ? 人狼さん」
「アルフレッド。アルフレッド・ベルンハルトだ。覚える気があるなら覚えておけ、小娘」
「フランメ。私の名前はフランメよ。物覚えの悪い狼さんね!アルフレッド!」
不毛で、けれど温かいやり取りが交わされる中、耐えかねたようにゼーリエが口を挟んだ。
「くだらん。フランメ、帰るぞ」
ゼーリエが素っ気なく踵を返すと、フランメは慌てて立ち上がった。
「はーい!じゃあ、またね!ミリアルデ様、アルフレッド!」
走ってゼーリエの後を追うフランメは、師の小さな手をしっかりと握り締めた。
ゼーリエは後ろを振り返り、歩みを止めないまま、冷ややかな言葉を背後に残していった。
「化け物の狼、気を付けろよ……お前は必ずいつか、人間の本性を知って絶望するぞ」
大魔法使いゼーリエの直感は、これまで一度として外れたことがない。
常に絶対の正解であり、真実を見通すその予言は、不吉な未来を確実に射抜いていた。
だからこそ、その言葉は苛烈でありながら、過酷な宿命を歩む男への彼女なりの警告でもあった。
アルフレッドは新しく火を点けた煙草を咥え直し、深く吐き捨てた。
「ああ、知ってるさ、ゼーリエ……まったく、お節介なエルフめ」
「じゃあ、私は?」
すかさず隣からミリアルデが顔を覗かせる。
「……飲んだくれのエルフさ」
「あー! ひっどい!」
大袈裟に落ち込んで見せるミリアルデを横目に、アルフレッドは受け取った銀の箱を開けた。
そこには一粒の砂糖菓子も残っていなかった。
「やれやれ、あいつ……本当に全部食っていきやがって」
アルフレッドの唇から、小さな笑みが零れた。
カシャリと静かな音を立てて、彼は愛おしそうに箱を閉じた。
◇
王城の長い廊下を、静かな足音が二つ響いていた。
ゼーリエは終始不機嫌な顔を崩さず、時折立ち止まっては、隣を歩く弟子の身体に手のひらをかざした。
パッと淡い光が弾け、フランメの身にまとわりついていた紫煙と不吉なオーラの残り香が消し去られていく。
「お前、あの化け物に近づきすぎたな。奴の残滓が残っている」
「あら、でも……お師匠様の言うほどは、悪い人じゃなさそうでしたけど?」
フランメは首をかしげながら、口の中に残るほのかな砂糖の甘みを反芻した。
ゼーリエは呆れたように大きなため息をつく。
「知らんのか? 赤ずきんは森に入って、狼に騙されておばあちゃんと一緒に食べられるんだぞ」
「あら、じゃあ、私は大丈夫ですね」
フランメは胸を張り、ゼーリエの手を握ると、眩しいほどの笑顔を師に向けた。
「世界最強の、数千年生きている魔法使いのゼーリエ様が一緒にいるんだから!」
「……私をおばあちゃん扱いするな。まったく、生意気な弟子だ」
ゼーリエはそう吐き捨てながらも、しっかりと握り返された弟子の小さな手を開放することはしなかった。
フランメはクスクスと嬉しそうに笑いながら、繋いだ手から伝わる師の強固で確かな温もりを噛み締めていた。
そして、口の中にかすかに残る、あの素朴でどこか懐かしい砂糖菓子の余韻を確かめるように、静かに舌を転がす。
紫の不吉なオーラを身に纏い、血と戦煙の匂いを漂わせた《人狼の騎士》。
世間から恐れられ、化け物として忌み嫌われる絶対的な牙。
だけど、あの傷だらけの銀の箱を差し出してくれた男の指先は、決して冷酷な怪物のそれなどではなかった。
どれほど恐ろしい魔力を誇ろうとも、その黄金の瞳の奥に揺れていたのは、消えることのない深い哀愁と、切ないほどの孤独だ。
壊れてしまいそうな過去の記憶を、あの一粒の甘みだけで必死に繋ぎ止めようとしている不器用な姿。
(あいつは……世界が恐れるような怪異なんかじゃない。大切な約束を抱えて生きている、ただの……優しそうな狼でしたよ、ゼーリエ様……)
フランメは廊下の窓から差し込む茜色の夕日を見つめながら、心の中でそっとそう言葉を紡いだ。
いつかまたあの噴水広場で出会う時、自分はどれほど強い魔法使いになっているだろうか。
その時もきっと、あの男は不機嫌そうに煙草を燻らせながら、自分に甘い砂糖菓子を投げてくれるのだろう――そんな予感を胸に抱きながら、彼女は師の隣をしっかりと歩いていくのだった。
◇
やがて陽が落ち、再び静寂を取り戻した夜の噴水広場。
アルフレッドは噴水の縁に腰を下ろしたまま、紫煙の向こうに広がる澄んだ夜空を見上げていた。
「ミリアルデ、俺はまた戦場に行く。お前はどうするんだ?」
「私は……まだ旅を続けるよ。もう少し見ておきたい場所もあるしね」
ミリアルデは空になった葡萄酒の瓶を指で弄びながら、静かに答えた。
「そうか……お前も俺も、久遠の時を過ごしている。お前の方が俺よりもはるかに長い時間を生きているはずだが……まだ見るべき場所があるんだな」
アルフレッドの声には、どこか寂しげな響きが混ざっていた。
彼は紫の魔力で作り出した漆黒の甲冑を現出させて、ゆっくりと立ち上がる。
「あんたは……どうするの?」
ミリアルデは彼の背中に問いかけた。
「人を憎んでいるのに……どうして、人間のために戦うの?」
アルフレッドは足を止め、夜空に浮かぶ欠けた月を仰いだ。
「……それが、死んだ許嫁との約束だからな」
冷たい風が吹き抜け、彼の身を包む紫のオーラを揺らす。
彼はゆっくりと歩みを進めながら、噛み締めるように言葉を漏らした。
「太陽は苦手だ。眩しすぎる……いつだってそうだ。あいつも……フランメも眩しかった……大きくなったな」
去っていく人狼の背中を、ミリアルデは新しい酒瓶を煽りながら静かに見送り、呆れたような、けれどひどく愛おしそうな深い溜息を吐き出した。
「バカ……バカな、狼さん。ちっとも気づかない……」
自分がどれほど深い闇を抱えようと、その不器用な優しさが少女の救いとなり、今こうして眩しい光となって自分たちの前に立っていることに。
そして、自分という存在がどれほどこの男の不器用な生き方に救われているのかに、彼は永遠に気づかないのだ。
新しい酒瓶の栓を抜き、喉へと流し込む。
銀の箱を空にして去っていった少女の残した眩しさと、死んだ許嫁との約束という呪いに身を焦がし続ける男の切ない哀愁。
それらが夜風に交ざり合い、静寂に包まれた噴水広場へ深く、深く溶け込んでいった。
(第4話に続く)