人狼の騎士 ~統一王朝崩壊史~   作:ポオツマス亭

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第5話 狼の泉と権力者たち

王城の中庭にある噴水広場から見上げると見える最上階の一室。

 

その位置にあるのは、贅を尽くした大公爵の執務室。

 

磨き上げられた巨大なデスクの上には、王国全土の領有図や遠征軍の補給記録、さらには各貴族家から寄せられた陳情書が山のように積み上げられていた。

 

窓枠を縁取る金の刺繍が施された重厚な赤いカーテンの隙間から、没していく陽光が赤黒い影となって室内に差し込んでいる。

 

その影の中で、優雅な革飾りの椅子に深く身を沈めている男がいた。

 

現国王の弟であり、王国の軍事・行政の双方に絶大な影響力を誇る男――大公爵である。

 

その向かいには、数々の勲章が整然と並ぶ絢爛な軍服に身を包んだ、王国の軍務大臣が硬い表情で立っていた。

 

ふたりの間に流れていたのは、美酒の酔いとも、戦勝の歓喜とも程遠い、胃を焼くような苦痛と重苦しい沈黙であった。

 

「……また、だ」

 

大公爵が、低く絞り出すような声で沈黙を破った。

 

彼は手にした銀のペーパーナイフを、卓上の地図の真ん中に突き立てた。

 

刃が刺さった場所は、先月新たに王国の版図へと組み込まれたばかりの、南部諸国の肥沃な境界地域であった。

 

「南部戦線の平定報告が届いた……またしても、あいつだ。我が王国の正規軍が三ヶ月かけても崩せなかった敵の難攻不落の要塞を、あいつはわずか一日で、たった一隊の『人狼騎士団』を率いて平らげてしまった」

 

「……報告書によりますと」

 

軍務大臣が冷や汗の浮かぶ額を拭いもせず、震える声で言葉を継いだ。

 

「敵陣には生存者が一人も残っておらず……要塞内部は、まるで巨大な肉食獣の巣窟と化したかのような凄惨な有様であったと。回収できた敵の武具は破砕され、流された血の匂いは数里離れた街道にまで漂っていたそうでございます」

 

「怪物の仕業だ」

 

大公爵は吐き捨てるように言い、ペーパーナイフの柄を握り潰さんばかりに力を込めた。

 

「人間が行う戦争ではない……軍務大臣よ、貴公はあの男――アルフレッド・ベルンハルトが、この宮廷や我々の前に一度でも足を踏み入れたところを見たことがあるか? 国王陛下の御前で開催される御前会議に、顔を出したことがあるか?」

 

「……いいえ。私の記憶する限り、一回たりともございません」

 

軍務大臣は苦い顔で首を振った。

 

「彼は功績に対する恩賞の授与式すら拒絶しております。爵位も、領地も、金銀財宝すらも……。受け取るのはただ、配下の商人を通じた南部や近郊からの郷土菓子の買い付け権限と、上質な煙草の調達ルートの保障のみ。宮廷の権力闘争や政治的な駆け引きには、一切の興味を示しておりません」

 

「それが……それこそが、恐ろしいのだよ!」

 

大公爵が突然、激昂してデスクを強く叩いた。

 

重厚な木製デスクが大きな音を立て、卓上のインク瓶が激しく揺れた。

 

「権力や金、女、名誉を欲する者ならば、いくらでも操りようがある! 欲望があれば、それを餌に繋ぎ止め、あるいは罠に嵌めて排除することもできよう! だが、あの男にはそれが一切通用せん! 奴が欲しているのは、死んだ許嫁との正気とは思えぬ約束と、故郷の砂糖菓子の味だけだ! 政治の理屈が何一つ通用しない化け物が、王国の最強兵力を握り締めているのだぞ!?」

 

大公爵の胸を焦がしていたのは、激しい憤怒と、それを遥かに上回る圧倒的な「恐怖」であった。

 

今や王国は、爆発的な勢いでその領域を外へと広げつつある。

 

のちに歴史家たちが『統一王朝』と呼ぶことになる巨大な覇権国家の骨組みが、目の前で形作られようとしていた。

 

本来ならば、その偉大な歴史の主役たるべきは、王立軍を指揮する自分たち大貴族や、王家の血を引く者たちであるはずだった。

 

しかし、現実はどうだ。

 

国内の民衆が口にする英雄の名は、大公爵でも軍務大臣でもない。

 

血塗られた漆黒の甲冑を纏い、紫の呪いを揺らめかせて敵軍を喰らい尽くす《人狼の騎士》アルフレッド・ベルンハルトの名ばかりであった。

 

「……民どもめ」

 

大公爵は忌々しそうに窓の外を見下ろした。

 

「恐れおののきながらも、あいつをまるで守り神のように崇め奉っている……聖杖法院の大魔法使いどもと同列にな」

 

その言葉に、軍務大臣も深いため息を漏らした。

 

かつて、魔法というものが「女神の奇跡」あるいは「禁忌の力」として厳しく管理されていた時代。

 

いわゆる『旧聖杖法院』の時代において、エルフの魔法使いの存在は国家の法規を超越した異形のものとして扱われていた。

 

全能と謳われる大魔法使いゼーリエ。

 

言葉を発することすら稀な、寡黙なる真理の探求者である大魔法使いミーヌス。

 

そして、歴史の表舞台に興味を持たず、酒と退屈の中に身を置く大魔法使いミリアルデ。

 

後にフランメという少女の手によって凄惨な異端審問の時代が終わりを告げ、魔法が一般の人々に開放される魔法改革が行われる以前のこの過酷な時代において、旧聖杖法院に名を連ねる者たちは、人間にとって神にも等しい絶対的な畏怖の対象であった。

 

そして、何より腹立たしいことに――魔法使いですらない一人の魔剣士、ただの不老の化け物に過ぎないアルフレッドが、民衆の口伝においてはそれらの怪物たちと全く同等の「世界の理を超える存在」として語り継がれているのだ。

 

「宮廷の臣下の列にすら並ぼうとしない男が、民の心の中では我々貴族の上に君臨している……」

 

大公爵は苦々しく唾を吐き捨てた。

 

「あの男がその気になれば……その気になればいつだって、この王城の門を叩き割り、玉座を奪い取ることすら可能なのだ。本人が権力に興味がないと言ったところで、誰がそれを真に受けられる!? 奴の気まぐれ一つで、我々の首など容易く飛ぶのだぞ!」

 

「……大公爵殿下、それだけではございません」

 

軍務大臣が声を潜め、さらに陰鬱な事実を提示した。

 

「『僧会』の連中も、急速に不穏な動きを見せております」

 

「僧会だと……? あの、女神の教えを盾に信徒をかき集めている連中か」

 

「は。僧会は人間主導の組織であり、女神の魔法を管理することで宗教的な権威を確立しようとしております。彼らにとって、アルフレッド殿の存在はまさに『神の理に対する冒涜』そのものなのです。魔剣フェンリスの放つ不吉な紫の魔力、不老不滅の肉体、そして戦場で敵を食らう野蛮な振る舞い……彼らはアルフレッド殿を邪悪なる異端、あるいは人間に害をなす悪魔と決めつけ、非難の声を強めております」

 

「ハッ! 邪悪だと!?」

 

大公爵はあざ笑うように鼻を鳴らした。

 

「僧会の聖職者どもめ、口では何とでも言えるだろうよ! だが、北方の国境線に魔族の大軍が押し寄せた時、祈りだけで国を守れたか!? 涙を流して助けを求めたのは、他ならぬあの『邪悪な人狼』へではないか! 己の無力を棚に上げて、都合が良い時だけ騎士として使い、平和になれば化け物と蔑む……。実に人間らしい、反吐が出るほど浅ましい態度だな」

 

大公爵の冷痛な指摘に、軍務大臣は返す言葉もなかった。

 

僧会がどれほどアルフレッドを「邪悪」と指弾しようと、彼がもたらす圧倒的な勝利の成果を拒絶できる者は、この王国のどこにも存在しないのだから。

 

「……しかし殿下、最大の頭痛の種は、軍内部の格差でございます」

 

軍務大臣が苦渋に満ちた表情で語る。

 

「我が『王国軍』は、王侯貴族の子弟や、各地の領主が買い集めた私兵の集合体に過ぎません。

 

華やかな装飾の甲冑を纏い、儀仗兵としての見た目は美しくとも、実戦における経験と戦意は貧弱そのもの。

 

対して……アルフレッド殿が直接率いる『人狼騎士団』は、どうでしょう」

 

人狼騎士団。

 

それはアルフレッドという死神の背中を追い、死線を潜り抜けてきた、王国最強にして最悪の武力集団であった。

 

彼らは貴族の出身などではなく、戦場で生き残った叩き上げの兵士や、死に場所を求める狂戦士たちで構成されている。

 

アルフレッドから分け与えられる不屈の闘志と、過酷極まりない錬成によって鍛え上げられたその戦力は、数倍の規模を誇る王国軍正規部隊を容易く踏みつぶせるほどに完成されていた。

 

「王国軍の将校どもは、人狼騎士団の兵とすれ違うだけで恐怖に腰を抜かします。軍組織としての実力、そして戦場での支配力において……我が王国軍は、人狼騎士団の足元にも及びません。これでは、どちらが『王国の軍隊』なのか分かったものではない……!」

 

軍務大臣が握りしめた拳を震わせる。

 

権力を握る貴族たちの私兵である『王国軍』が役に立たず、権力から最も遠い場所にいる化け物の私兵の『人狼騎士団』が国を支えているという、滑稽で歪な構造。

 

「……手出しはできんのか」

 

大公爵が低く問うた。

 

「暗殺者、毒、あるいは魔法使いを用いた異端審問の網……何でもいい。あの男を物理的に排除する手段はないのか?」

 

「……不可能です」

 

軍務大臣は即座に、絶望を込めて首を横に振った。

 

「かつて、彼の不気味な存在感を危惧した聖杖法院の苛烈な異端審問官たちが、独断でアルフレッド殿を包囲し、禁忌の攻撃魔法を浴びせたことがございます……結果は全滅でした。首を跳ね飛ばされようと、心臓以外の肉体を跡形もなく吹き飛ばされようと、彼は紫の魔力とともに数秒で再生し、襲撃者たちの命を喰らい尽くしました。あのお方には……『本体の心臓』を直接破壊する以外の殺害手段が存在しないのです。そして、その心臓がどこに隠されているのか、どのような防護が施されているのかを知る者は、世界に誰一人としておりません」

 

静寂が、再び執務室を支配した。

 

絶対的な暴力。

 

あらゆる陰謀や暗殺、政治的圧力を嘲笑う、絶対的な個の武力。

 

大公爵は背もたれに深く体重を預け、天蓋の豪華なフレスコ画を見上げた。

 

そこに描かれているのは、人間に祝福を与える美しい女神の姿であった。

 

「……ふん」

 

大公爵の口から、自嘲に満ちた掠れた声が漏れた。

 

「宮廷では貴族どもが権勢を競い、僧会は説教で民を惑わし、王国軍の若造どもは功績を求めて右往左往している……だが、あの男からすればどうだ?」

 

大公爵はゆっくりと首を巡らせ、窓の外――はるか下方に位置する、王城の中庭へと視線を向けた。

 

そこには、巨大な噴水を中心に広がる、静かな石畳の広場があった。

 

夕闇が深まりゆく中、その広場の縁には、二つの不気味で超然とした影が佇んでいるのが見えた。

 

軍服姿で腰を下ろし、指先から細い紫の煙を立ち上らせている人狼の騎士。

 

その隣で、膝に抱えた酒瓶を傾け、怠惰に夜風を浴びているエルフの大魔法使い。

 

二人は王国の未来を左右する重大な軍事会議にも、宮廷の華やかな宴にも顔を出さず、ただそこに当たり前のように存在していた。

 

まるで、人間たちの営みそのものを、取るに足らない戯れ言として見下しているかのように。

 

大公爵の瞳に、深い陰鬱と、根深い屈辱の光が宿った。

 

「……奴は我々を塵と思っている」

 

その一言には、王国の権力者が抱く最大の絶望が込められていた。

 

「敵意すら向けてこん。憎しみも、怒りも、蔑みすらもない。ただ、道端に転がる石ころか、踏みつける土塵としか思っていないのだ……我々がどれほど頭を悩ませ、陰謀を張り巡らせようと、あの化け物にとっては風に舞う塵と同じなのだよ」

 

大公爵は立ち上がり、ゆっくりと窓辺へと歩み寄った。

 

ガラス越しに見下ろす不老の騎士は、懐から小さな銀の箱を取り出し、愛おしそうに中身を摘んでいた。

 

砂糖菓子。

 

故郷の思い出を繋ぎ止めるための、あまりにも小さく、あまりにもくだらない「鎖」。

 

世界を平らげ、国家の形を変えようとしている怪物が、たった一つの甘味に固執して生きている。

 

その狂気的なまでの純粋さが、権力に固執する大公爵たちの醜悪さを、残酷なまでに浮き彫りにしていた。

 

「大公爵殿下……コンラート皇太子殿下とロザリア様のご婚礼が、来月に迫っております」

 

軍務大臣が背後から静かに告げた。

 

「統一王朝の樹立に向け、国内の結束を固める最後の機会です。アルフレッド殿の存在が、式典の妨げにならねば良いのですが……」

 

「……邪魔などせんよ」

 

大公爵は背を向けたまま、静かに呟いた。

 

「あの男はただ、約束のために戦うだけだ……皇太子コンラートが『正しい国』を作り上げるというのなら、奴は黙って立ち塞がる敵を喰らい続けるだろう。だが……覚えておけ、軍務大臣」

 

大公爵は振り返り、鋭い眼差しで部下を射抜いた。

 

「もしも我が国が、皇太子が……あの男の抱く『約束』を踏みにじるような愚行を犯した時。その時こそ、我が統一王朝は、内側からあの悪狼に喰らい尽くされることになるだろう」

 

「……ッ」

 

軍務大臣は息を呑み、深く頭を下げた。

 

 

 

 

風が吹き抜け、王城の中庭に漂う紫煙を優しく散らしていく。

 

噴水の水音だけが絶え間なく響く静寂の中で、アルフレッドは口の中の砂糖菓子を静かに噛み砕いた。

 

舌の上に広がる素朴な甘みが、胸の奥底で渦巻く数万の死者の悲鳴を、束の間だけ遠ざけてくれる。

 

「……ん? なに? アルフレッド」

 

隣で酒瓶を抱えていたミリアルデが、眠たげな目を擦りながら顔を上げた。

 

「上の方から、すっごく嫌な視線が飛んできてたわよ。あの高い窓の部屋……貴族のえらいさんかしらね?」

 

アルフレッドは視線すら上げず、静かに煙草の灰を落とした。

 

「……知らん。ただの塵だ」

 

「くふふ、相変わらず手厳しいわねぇ」

 

ミリアルデは愉快そうに笑い、空になった酒瓶を足元で転がした。

 

「でも、塵にしては、あんたのことを死ぬほど怖がってたみたいだけど?」

 

「……怖がるなら、近づいてこなければいいだけの話だ」

 

アルフレッドは膝の上の銀の小箱を愛おしそうになぞり、カシャリと静かな音を立てて蓋を閉じた。

 

懐へ収められたその箱は、彼が「人間」であったことの唯一の証明。

 

宮廷の権力者たちがどれほど己を畏怖し、謀略を巡らせようとも、彼の胸の中に存在する輝きに触れることは誰にもできない。

 

頭上には、群青色の夜空がどこまでも広がっていた。

 

北の空から漂う魔族の気配と、城内で渦巻く人間の醜悪な欲望。

 

それらすべての渦中に立ちながら、人狼の騎士はただ静かに、次の戦場の訪れを待っていた。

 

紫煙が月光に溶け、静かな夜が深まっていく。

 

二人の怪物の影は、今夜も変わらず、噴水の傍らで重なり合っていた。

 

 

(第6話に続く)

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