人狼の騎士 ~統一王朝崩壊史~   作:ポオツマス亭

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第6話 狼の泉と若き皇太子

その日は、朝から低く重い雲が垂れ込め、生ぬるく湿った強い風が王城の回廊を吹き抜けていた。

 

城旗が激しくはためき、中庭に群生する白薔薇の茎が軋んだ音を立てて揺れる。

 

空は鉛色に淀み、刻一刻と天光を奪い去っていた。

 

「……雨でも降るか?」

 

漆黒の重厚な軍服に身を包んだ人狼の騎士アルフレッド・ベルンハルトは、噴水の縁に腰を下ろしたまま、低く掠れた声で空を見上げた。

 

指先からは、紫のオーラを揺らめかせる煙草が静かに一本、揺れていた。

 

苛烈な戦場の匂いを消し去る香草の煙が、吹き荒れる風によって渦を巻き、すぐさま灰色の空へと散っていく。

 

「ふふ……降ればいいじゃない。雨の日の酒っていうのも、乙なものよ?今日のお酒は南部の極上品なのよ? 芳醇で、甘くて……いくら飲んでも飽きないわ」

 

隣で膝を抱え、陶器の瓶から直接琥珀色の液を喉へと滑り込ませていたエルフの大魔法使いミリアルデが、唇を湿らせながら愉快そうに笑った。

 

三百年という歳月を、亡き許嫁・シルヴィアとの狂おしい『約束』だけに捧げ、死ねぬ肉体を引き摺り回す人狼の騎士。

 

そして、数千年の忘却の海を漂い、人間たちの権力争いや世俗の営みを退屈そうに眺め続けるエルフの大魔法使い。

 

二人の怪物が共有する時間は、人間たちのそれとは根底から流れる速度が異なっていた。

 

彼らにとって、一秒も一箇月も、ひいては数十年という単位すらも、瞬きの合間に過ぎない。

 

だが、そんな怪物たちの不可侵の領域へ、ひとつの規則正しい足音が近づいてきた。

 

カツン、カツン、と。

 

洗練された軍靴の響き。

 

地に足をしっかりつけ、過飾を廃した、愚直なまでにまっすぐな歩調。

 

現れたのは、一人の青年の姿であった。

 

飾り気のない、実用性のみを重視した簡素な軍服。

 

過剰な勲章も、豪奢な金糸の刺繍も一切施されていない。

 

だが、その背筋は一本の槍のようにまっすぐに伸び、佇まいには隠しようもない覇王の気品と、武人としての愚直な素直さが満ちていた。

 

男の名は、コンラート。

 

現国王の第一王子であり、全土を統べる『統一王朝』の歴史において、初代皇帝としてその名を不滅のものとする青年であった。

 

コンラートは、後世において大魔法使いフランメが人間に魔法をもたらした奇跡の時代――あの激動の歴史のうねりとほぼ同じ刻に、この地に生を受けた人間の男であった。

 

フランメにとってのゼーリエ。

 

フリーレンにとってのフランメ。

 

フェルンにとってのフリーレン。

 

悠久の歴史の中で刻まれる『師弟』という絶対的な絆の系譜。

 

アルフレッド・ベルンハルトという、世界から「死神」「人狼」「怪物」と恐れおののかれる不老の騎士にとって、コンラートこそが「最初にして最後の弟子」であった。

 

幼少の頃、剣の重みに振り回されていた八歳の皇太子に対し、王城の裏庭で木剣の手ほどきをしたのはアルフレッドであった。

 

どれほど転び、泥にまみれ、体中に痣を作ろうとも、涙を拭って立ち上がってきた愚直な少年。

 

宮廷の誰もがアルフレッドを化け物として遠ざける中、コンラートだけは純粋な憧れと深い敬意を抱き、彼を「師」と仰ぎ続けてきたのだった。

 

コンラートの姿が視界に入るや否や、人狼の騎士の纏う空気が一変した。

 

「――っ」

 

アルフレッドは素早い動作で指先の煙草を揉み消すと、噴水の縁から勢いよく立ち上がった。

 

背筋をピンと伸ばし、軍服の乱れを手袋で整え、王家に仕える忠実な騎士としての完璧な姿勢を取る。

 

魔剣フェンリスの放つ殺気は影を潜め、漆黒の佇まいにはただ、一人の武人としての厳格な品格と敬意だけが満ちていた。

 

「……師匠。少し、話があるのだ」

 

強風に軍服の裾をなびかせながら、コンラート皇太子は静かにそう告げた。

 

「……コンラート皇太子殿下。どうなさった」

 

その声には、先ほどまでの冷酷な怪物としての気配は微塵もなかった。

 

王家に仕える忠義の騎士であり、己の名誉を守り、人間としての矜持と忠節を保とうとする、凛とした「人間」の姿がそこにあった。

 

「えっ……!?」

 

隣にいたミリアルデは、抱えていた酒瓶を落としそうになりながら、目を見開いて声を漏らした。

 

あの、血と死臭を撒き散らし、国王や大公爵の呼び出しすら「塵の戯れ言」と一蹴する死神アルフレッドが。

 

たった一人の人間の青年の前で、慌てて煙草を消し、襟を正し、一人の「騎士」として振舞っている。

 

不老不死の狂気に侵され、殺戮の獣へと成り下がったはずの怪物が、この青年の前でだけは「人間としての心」を失うまいと必死にしがみついているのだ。

 

ミリアルデの目には、その姿が痛々しくも美しく、そしてどこか哀れで滑稽なものに映った。

 

(……この男は本当に、滑稽で愛おしいわね。どれだけ血の海に沈んでも、この男の子の前では『立派な師匠』でいたいんだわ……)

 

コンラートは、アルフレッドのその過剰なまでの礼節に対し、気負う風もなく、どこか愛おしそうに目を細めた。

 

「堅苦しい礼はよいと言っているだろう、師よ……ふう、風が冷たいな」

 

皇太子はそう呟くと、アルフレッドのすぐ隣――かつて幼少期に、剣術の稽古の合間に並んで座ったあの頃と同じように、石造りの噴水の縁へと腰を下ろした。

 

二人の距離は、わずか数十センチ。

 

人間であれば、人狼の放つ圧倒的な殺気と魔剣の呪いに吐き気を催すほどの至近距離である。

 

コンラートは、それを意に介さず両膝に手を置いて、吹き荒れる風が引き起こす噴水の水面を見つめていた。

 

アルフレッドは少しだけ躊躇ったが、主君であり弟子である青年の横に、静かに再び腰を下ろした。

 

二人のやり取りを、ミリアルデは酒を舐めながら、興味深そうに見守っていた。

 

(ロザリアちゃんの件……かしらね)

 

ミリアルデの脳裏に、数日前にこの広場を訪れた淡い黄色のドレスの少女――ロザリア王女の姿が過った。

 

あの日、ロザリアが自分たち二人とお茶がしたいと申し出たことや、彼女がアルフレッドに向ける狂おしいまでの執着と視線について、二人からコンラートに伝えるような真似は一切していなかった。

 

それは、王国の未来を背負う皇太子に対する、無用な不忠であり、残酷な嫌がらせにしかならないからだ。

 

アルフレッドは意を決したように重い口を開いた。

 

「……で、殿下。話とおっしゃいますのは?」

 

「師匠……いや、アルフレッド卿。今度、余は、結婚しようと思うのだ。ロザリアとな」

 

静かな声だった。

 

だが、その一言には、一国の未来と政治的思惑、そして膨大な運命の重みが込められていた。

 

胸の奥底で、かつて自分が失った「人間の幸福」という影が、かすかに疼く。

 

「……そうですか。よいことです、皇太子殿下」

 

アルフレッドの声は重厚で、一切の揺らぎがなかった。

 

「ロザリア王女殿下は気品に満ち、この国の未来を背負うに相応しいお方だ。殿下が皇太子として、そしていずれこの統一王朝の頂点に立つお方として、これ以上ない最高のご婚礼かと存じます」

 

完璧な臣下としての模範的な回答。

 

「……ふ」

 

コンラートは苦笑いを浮かべ、膝の上で大きな両手を固く組んだ。

 

「そう答えるだろうな、師匠は。いつでも正しく、いつでも忠実な……完璧な騎士として」

 

「……殿下?」

 

その表面的な会話の裏に潜む、妙な違和感を逃すようなミリアルデではなかった。

 

ミリアルデは酒瓶を足元に置くと、半目で二人を見比べ、不意に冷ややかな声を挟み込んだ。

 

「ねえ……失礼ですが、殿下。それだけの『報告』に来ただけとは、私には思えませんが……?」

 

「ミリアルデ! 殿下に失礼なことを言うな!」

 

アルフレッドが即座に立ち上がりかけ、黄金の瞳を怒らせて大魔法使いを叱責した。

 

自らの人間らしさを保つための「騎士の規律」を汚されたと感じたからだ。

 

しかし、コンラートは制するようにそっと手を挙げた。

 

「いや……いや、ミリアルデ様にはかないませんね」

 

コンラートは苦笑いを浮かべると、深く組んだ両手に顎を乗せ、痛々しいほどに考え込む様子を見せた。

 

その肩は微かに震えており、武人としての堂々とした佇まいの内側に、押し殺しきれない苦悩と葛藤が渦巻いているのが見て取れた。

 

「……わかっているのだ。余は、あの者にはふさわしくないと……」

 

「……殿下?」

 

アルフレッドは言葉を失った。

 

愚直で、いかなる困難な戦局においても退いたことのないあのコンラートが、弱音を吐いている。

 

ミリアルデはその様子を見て、すべてを察知したように、静かに鼻で息を吐いた。

 

ロザリア王女がこの中庭で見せた、あの情熱的で灼けつくような瞳。

 

そして、不老の怪物であるアルフレッドに向ける、言葉にならない無音の渇望。

 

コンラートはゆっくりと顔を上げて、アルフレッドの顔を見た。

 

その瞳には、一国の皇太子としての威厳ではなく、傷ついた一人の青年の生々しい感情が宿っていた。

 

「人狼の騎士……今だけは、私を殿下と思わないでくれ」

 

コンラートの声が、低く太く響いた。

 

「これから言うのは、皇太子としてではない……師匠に対して非常に失礼なことだと分かっている。だが、あえて私は……男として話す」

 

そう言うとコンラートは、まっすぐにアルフレッドの顔を見据えた。

 

その視線の先にあるのは、不老不死の呪いによって『二十六歳』の青年の姿のまま時を止められた男。

 

神の域に達した圧倒的な剣技と魔力で、この世の頂点を極めた異形の怪物。

 

コンラートは、その怪物たるアルフレッドを「政治の駒」でも「師」でもなく、ただ一人の『同年代の男』として見つめたのである。

 

「……ロザリアは、卿に……人狼の騎士に惚れている」

 

風が、ピタリと止んだ。

 

重苦しい静寂が、噴水広場を支配する。

 

ミリアルデは「やっぱりね」と心の中で呟き、悲痛な光景から目を背けるように、酒瓶を煽るフリをした。

 

「殿下……それは……いくらなんでも、戯れ言が過ぎます」

 

アルフレッドの声が動揺に震えた。

 

「ロザリア王女殿下は、ただの年相応の好奇心で俺のような怪物に近づいただけのこと。俺は人喰いの化け物であり、殿下の忠実な剣に過ぎません。王女殿下が想いを寄せておられるのは、他ならぬ殿下お一人――」

 

「違う!!」

 

コンラートの叫びが、中庭に響き渡った。

 

「違うのだ、師よ! 男なら分かるはずだ! 女が誰を見て、誰のために微笑み、誰のために心を灼いているかくらい……! 彼女の瞳の中に映っているのは、王城の最上階からこの広場を見下ろし、あなたという漆黒の孤独を見つめていた時の……あの熱情なのだ!」

 

コンラートは両拳を強く握り締め、爪が皮膚に食い込むほどに力を込めた。

 

「私は……幼い頃からロザリアを見てきた。彼女が私に向けたのは、穏やかな兄に対する親愛と、王族としての義務感だけだ。だが……あなたに向けられる視線は違う。息もできないほどの渇望と、狂おしいまでの嫉妬……。私は、それがどうしても……ッ!」

 

コンラートは言葉を詰まらせ、激しい呼気とともに固く顔を覆った。

 

だが、告白は、まだ終わらなかった。

 

「私はそれが……どうしても……いや、あなたに本音を言わせてもらおう。師よ……私は、あなたに『嫉妬』しているのだ……!」

 

「……っ! 殿下……それは……!」

 

アルフレッドの顔が、恐怖と狼狽で歪んだ。

 

「殿下……それは……私は、そのようなつもりは……」

 

戦場で数千の敵に囲まれようと、首を刎ねられようと微動だにしなかった男が、激しく動揺していた。

 

コンラートの瞳に宿っているのは、激しい憎悪ではなく、あまりにも人間らしく、切ない「敗北感」と「熱量」であった。

 

「どうしたらいい!? 私はどうしたらいいのだ、師よ! 男らしく……ロザリアをかけて、あなたに『決闘』を申し込むべきか!?」

 

「殿下……ッ!」

 

コンラートの叫びと、アルフレッドの驚愕が広場に虚しく響き渡る。

 

彼は幼い頃から、この男の背中を見て育ってきた。

 

アルフレッドの圧倒的な強さ、絶対的な孤高、そして何者にも縛られない不滅の存在感。

 

どれほど努力しようと、どれほど剣を振るおうと、人間である己が追いつくことのできない絶対的な壁。

 

そして今、己が愛すべき婚約者の心すらも、その男の影に奪われているという事実。

 

コンラートは、男としての尊厳をかけて、この若き男の姿をした「師」に決闘を挑むべきなのかと苦悶していた。

 

アルフレッドの胸中に、激しい衝撃と苦痛が走り抜けた。

 

己はただ、死んだ許嫁との約束を果たすためだけに血を流してきた。

 

宮廷の権力など興味もなく、ロザリア王女の心を手に入れようとした覚えなど一度たりともない。

 

だが、己という存在そのものが、不老不死という呪われた影が、このかけがえのない「弟子」の心を切り刻んでいたのだ。

 

アルフレッドは、ゆっくりと石畳の上に片膝をつき、深々と頭を垂れる。

 

「……殿下」

 

アルフレッドの声は、絞り出すように震えていた。

 

「私は……あなたに刃を向けられません……!」

 

「……師よ」

 

「お言葉ですが……この不老不死の身体。たとえあなた様の刃で貫かれようと……私の命を刈り取ることは不可能なのです。私は……死ぬことすら許されぬ化け物なのです……!私が決闘に応じたところで、それはあなた様を無意味に傷つけ、王国の未来を破滅させるだけに過ぎない……!」

 

アルフレッドの肩は震えていた。

 

「歴代の国王陛下……そしてあなたのお父上……何より、真摯に私を師と仰いでくださった殿下への恩義がございます……! 私の存在が殿下を苦しめ、その心を乱したというのなら……どうかご勘弁ください……お許しください、殿下……!」

 

頭を下げ、謝罪するアルフレッド。

 

不老の怪物。

 

千の敵を喰らい、王国の歴史を裏から支配してきた伝説の「人狼の騎士」が。

 

一人の人間の青年の前で、地面に平伏し、涙を飲むような声で謝罪していた。

 

「……ッ!?」

 

その光景を目にしたミリアルデは、息を呑み、絶句した。

 

あの傲岸不遜で、人間を「塵」とすら吐き捨てるアルフレッドが、膝を屈して謝罪している。

 

自らの強さが、自らの存在が「罪」であることを認め、弟子の前で屈服してみせたのだ。

 

(アルフレッドが……あのアルフレッドが、人間に謝っている……?)

 

ミリアルデの胸に、激しい衝撃が走った。

 

コンラートは、平伏するアルフレッドの姿をじっと見つめていた。

 

その瞳から、殺気と嫉妬の熱が、急速に引き引いていく。

 

代わりに去来したのは、圧倒的な諦念と、深い悲しみであった。

 

「……ハ、ハハ……」

 

コンラートは寂しげに笑った。

 

その笑顔は、あまりにも弱々しく、そして儚かった。

 

「……余の負けだ……最初から、師に勝てるはずがないのだ……わかっていた」

 

コンラートは空を見上げた。

 

雲はさらに低く垂れ込め、いよいよ雨の匂いが風に混じり始めていた。

 

「立ち上がってくれ、アルフレッド卿。決闘など……恥ずかしいことを言った。たとえ私があなたを斬り伏せたところで、ロザリアの心が私に戻るわけでもない。それに……不老不死のあなたを斬ることなど、誰にもできないのだからな」

 

コンラートは自嘲気味に呟くと、静かに吐息を漏らした。

 

「……だがな、師よ。彼女の一門との結婚は……今後の王国の発展には絶対に不可欠なのだ」

 

アルフレッドは促されるまま重々しく立ち上がり、黙って耳を傾けていた。

 

「私だって……自由に恋愛できるわけではないのだよ」

 

コンラートの口から漏れた苦笑には、王家に生まれた者の逃れられぬ宿命が滲み出ていた。

 

一国の皇太子として、未来の国王、そして統一王朝の皇帝として。

 

個人の感情や恋心など、国家の安寧という巨大な天秤の前には、一粒の塵に過ぎない。

 

「殿下……」

 

「いいのだ、師よ。私は……自分の運命を受け入れている……あなたと同じように」

 

コンラートの言葉に、アルフレッドの身体がかすかに跳ねた。

 

『あなたと同じように』。

 

三百年前に故郷を失い、許嫁を殺され、怪物として生きる宿命を受け入れたアルフレッド。

 

そして、王国の未来のために、自らの初恋も、個人としての幸福も捨て去り、覇王としての道を歩むコンラート。

 

形は違えど、二人は同じ「運命という名の鎖」に繋がれた同志であった。

 

コンラートは軍服の裾を払い、いつもの愚直で凛とした佇まいを取り戻す。

 

しかし、その顔には薄暗い影が落ちていた。

 

「……父上も、体調が悪いのだ」

 

コンラートの低い声が、風に流れる。

 

現国王の衰弱。

 

それは、近いうちに王国の権力構造が激変することを意味していた。

 

「ここで王統の安全と健全を内外にアピールするに越したことはない……これは、仕方のないことなのだ」

 

コンラートは握りしめた手をゆっくりと開き、己の掌を見つめた。

 

そこには、血の滲むような剣術の稽古で作られた、数無しのタコと傷跡があった。

 

すべては、このアルフレッドという師から授けられた「強さ」の証であった。

 

「私の決意も……ロザリアの未練も……すべて、余が受け入れよう」

 

一切の迷いを断ち切った声。

 

それは、個人としての青年コンラートが死に、歴史に名を刻む『初代皇帝コンラート』が誕生した瞬間であった。

 

アルフレッドは重々しく立ち尽くしたまま、ただ「殿下……」と掠れた声を漏らすことしかできなかった。

 

言葉のすべてが虚しく、いかなる慰めもこの青年の覚悟の前には不敬であった。

 

傍らでやり取りを見守っていたミリアルデは、一切の茶化しを捨て、無言でコンラートの背中を見つめていた。

 

(……ご立派な決意だわ)

 

ミリアルデは心の中で、静かにその青年を賛美した。

 

人間は脆く、儚い。

 

たった数十年で姿を変え、病に倒れ、死んでいく。

 

だが、自らの運命を悟り、すべてを背負って立ち上がる瞬間の人間の輝きは、数千年の時を生きるエルフの目から見ても、眩いばかりに美しかった。

 

「……邪魔をしたな、師よ。ミリアルデ様も」

 

コンラートは爽やかな笑みを浮かべると、背を向けた。

 

「また……剣のご指導を頼む」

 

それだけを言い残すと、コンラート皇太子は護衛も連れず、ただ一人で薄暗い回廊の奥へと歩み去っていった。

 

その背中は、どこまでも孤独で、そしてどこまでも気高かった。

 

彼が去ると同時に、ぽつり、と冷たいものがアルフレッドの首筋に落ちた。

 

ポツポツポツ……と、石畳を叩く音が大きくなっていく。

 

空から、冷ややかな雨が降り出してきたのだった。

 

「……ねえ。雨よ、アルフレッド」

 

ミリアルデが酒瓶を抱え直し、雨粒に濡れる空を見上げながら静かに呟いた。

 

立ち尽くしたまま、コンラートが消えていった暗闇を見つめるアルフレッド。

 

雨水が、膝についた泥と、漆黒の軍服を濡らしていく。

 

去り行った弟子の残像が消えた暗がりを、彼はいつまでも見つめ続けていた。

 

「……そうだな」

 

不老の騎士の口から漏れたのは、ただそれだけの静かな言葉だった。

 

雨は容赦なく降り注ぎ、彼の漆黒の軍服を濡らし、紫の不吉な魔力を冷たく冷やしていく。

 

コンラートが残していった熱い嫉妬と、悲痛な覚悟。

 

ロザリアが窓辺から投げかけていた、狂おしいほどの愛執。

 

自由で美しい人間の世界の裏側で、自分という死にきれぬ化け物が背負い続ける、三百年前の約束。

 

人間の情熱は、雨のように激しく降り注ぎ、やがて地面へと染み込んで消えていく。

 

だが、残された怪物たちは、どれほど時が流れようと、この冷たい雨の中に立ち尽くし続けなければならないのだ。

 

ミリアルデはそっと立ち上がると、アルフレッドの隣に並んだ。

 

雨に濡れるのも気にせず、彼女は冷たい雨が降るのをただ静かに眺めていた。

 

「……良い弟子を持ったわね、人狼さん」

 

「……ああ」

 

アルフレッドは懐から、濡れないように大切に銀の小箱を取り出し、雨の中で静かに開けた。

 

中に転がる、一粒の白い砂糖菓子。

 

彼はそれを指先で摘むと、静かに口の中へ運んだ。

 

激しい雨の音と、甘く素朴な故郷の味が、彼の体内に刻まれた無数の死者の悲鳴を、優しく覆い隠していった。

 

 

(第7話に続く)

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