天を覆う重い雲が去り、王城の上空には冷酷なまでに澄み切った満月が浮かんでいた。
明日、この王国は歴史的な節目を迎える。
皇太子コンラートと王女ロザリアの婚礼。
のちに全土を統一し、覇権を唱えることになる『統一王朝』の礎が、ついに打ち立てられる日の前夜であった。
城内が明日への緊張と祝祭の準備で静まり返る中、中庭の噴水広場には、いつもと変わらぬ二つの超然とした影があった。
「……ふう」
重厚な吐息とともに、紫煙が月光の下へ吐き出される。
そこにいたのは、漆黒の軍服姿を完璧に着こなした人狼の騎士、アルフレッド・ベルンハルト。
出撃の刻にのみ纏う紫の魔力の鎧を脱ぎ捨て、一切の乱れもない漆黒の軍服の襟を正したその佇まいは、凄惨な死神でありながら、息を呑むほど凛とした「人間の騎士」の品格を保っていた。
彼の指先には紫煙が燻り、もう片方の手には丁寧に磨かれた銀の小箱。
箱の中から摘み上げた小粒の白い砂糖菓子を、彼は静かに口の中へ放り込み、舌の上で転がしていた。
「……ねえ、人狼さん。いよいよ明日ね」
隣で石造りの噴水の縁に腰を下ろし、陶器の瓶から直接酒を煽っていたエルフの大魔法使いミリアルデが、月光に薄緑の髪を透かせながらつぶやいた。
「明日になれば、あの真っ直ぐな皇太子と、あのかわいらしいロザリアちゃんが夫婦になる。人間たちの歴史が、ドッと音を立てて動き出すわね……あんたは、明日もその軍服姿で式に参列するつもり?」
「……俺は王家の影だ」
アルフレッドは冷たく、だが静かに答えた。
「祝福の場に俺のような怪物が長居することは許されん。遠くからコンラート殿下の晴れ姿を見届けたら、すぐに北方の戦線へ向かう。魔族どもの動きが不穏だ」
「相変わらず味気ない男ねぇ……」
ミリアルデが肩をすくめた、その時だった。
カツン……カツン……と。
洗練された、だがどこか切ないほどに重みのある靴音が、廊下の暗がりから広場へと近づいてきた。
現れた人影を目にした瞬間、アルフレッドの黄金の瞳が微かに揺れた。
ミリアルデもまた、酒瓶を口元から離し、驚きに目を細める。
「……ロザリア様?」
夜風になびく絹のような金髪。
纏っているのは、明日着るはずの豪奢な婚礼衣装ではなく、月光を浴びてしっとりと輝く深い紺色の夜会ドレスであった。
いつものように大勢の侍女や顔を青ざめさせた護衛の騎士たちを引き連れてはいない。
明日、この国の「未来の皇后」となる十八歳の少女は、たった一人で、護衛すら振り切ってこの死臭漂う中庭へと足を踏み入れてきたのだ。
「……ロザリア王女殿下」
アルフレッドは即座に噴水の縁から立ち上がると、軍服の手袋を整え、完璧な姿勢で深々と頭を下げた。
「このような夜更けに……いかがなされました。明日は貴女様にとって、そして我が王国にとって最も重要なご婚礼の日。お身体を冷やされては、コンラート殿下がご心配なさいます」
臣下としての、付け入る隙もない完璧で礼儀正しい態度。
だが、ロザリアはその言葉を聞き流すように、軽やかな足取りでアルフレッドの目の前へと歩み寄った。
二人の距離が、縮まる。
人間の男であれば、アルフレッドの纏う不吉な威圧感と無数の死臭に足がすくむ至近距離。
だが、ロザリアは怯える素振りすら見せず、むしろその死臭すら愛おしそうに胸いっぱいに吸い込んだ。
「……ふふ。相変わらず、隙のないお方ですのね、騎士アルフレッド」
ロザリアは可憐な唇を綻ばせ、鈴を転がすような声で囁いた。
その瞳には、明日花嫁となる者の幸福感ではなく、狂おしいほどの熱量と、静かな決意が宿っていた。
「ロザリアちゃん……一人で来たの? 侍女たちに怒られちゃうわよ」
ミリアルデが半目で酒瓶を揺らしながら尋ねる。
「ええ、ミリアルデ様。今夜だけは……今夜のこの一刻だけは、誰の目も、誰の邪魔も入らずに、この場所へ参りたかったのですわ」
ロザリアはミリアルデに優雅にお辞儀をすると、再びまっすぐにアルフレッドを見つめ直した。
「アルフレッド卿。わたくしは明日、コンラート殿下の妃となります。皇太子妃として……この王国の『王妃』として、彼の隣に立ち、この国を治めて参ります」
「……まことに、誇らしいことにございます」
アルフレッドは頭を下げたまま、重々しく返した。
「殿下は誠実で、誰よりもこの国の安寧を考えておられる。貴女様が隣におられれば、我が王国の未来は盤石でありましょう」
「ええ。コンラート殿下は素晴らしいお方ですわ」
ロザリアは静かに頷いた。
「わたくしも、彼を深く尊敬しております。彼と共に歩む運命に、何一つ悔いはございません。わたくしは完璧な王妃として、我が身と命をこの国に捧げるでしょう」
そこまで語ると、ロザリアは言葉を区切った。
そして、ゆっくりと手を伸ばしたのだった。
「――ですが」
繊細で白い彼女の指先が、アルフレッドの胸元――漆黒の軍服の固い生地の上に、そっと触れた。
「……っ!?」
アルフレッドの身体が硬直する。
魔剣フェンリスが察知して紫の不吉な脈動を打とうとしたが、アルフレッドは力技でそれを抑え込んだ。
「王女殿下……何を……」
「わたくしの身体も、未来も、王妃としての役割も……すべてはコンラート殿下と、この国のために捧げましょう」
ロザリアは一歩、さらに踏み込んだ。
アルフレッドの胸に触れた手から、彼女の体温と、激しい動悸が軍服越しに伝わってくる。
十年前、高層の窓から見下ろしたあの日と同じ。
ロザリアの全身の血液が激しく脈打ち、脳内の神経が熱情と歓喜で灼けつくように昂っていた。
目の前にいるのは、決して自分を愛してはくれない怪物。
死んだ許嫁の影を追い続け、故郷の砂糖菓子だけを食らって生きる、哀しくも完璧な悪狼。
だからこそ――どうしようもなく、愛おしい。
ロザリアはつま先立ちになり、アルフレッドの耳元へ、その可憐な顔を近づけた。
月光の下、彼女の瞳から一筋の透明な涙がこぼれ落ち、彼の漆黒の軍服へと染み込んでいく。
そして、世界のあらゆる理を破棄するように、彼女は決定的な言葉を囁いた。
「――愛してるわ、アルフレッド」
「……っ」
アルフレッドの黄金の瞳が激しく見開かれた。
戦場で数万の敵を前にしても微動だにしなかった人狼の心が、そのたったひとつの究極のフレーズによって、激しく揺さぶられる。
「……王女殿下……それは……」
アルフレッドの声が、低く、苦痛に満ちて震えた。
「俺は……俺は三百年前に人間を捨てた怪物だ。死んだ許嫁との約束のためにしか生きられぬ、血塗られた死神だ……! コンラート殿下を裏切るような真似は……」
「裏切りなどではありませんわ」
ロザリアは可憐に微笑み、ゆっくりと彼の胸から手を離した。
その顔には、一切の未練も、迷いもなかった。
あるのは、己の真実の感情をすべて吐き出し終えた者の、恐ろしいほどの気品と神聖さであった。
「わたくしは、あなたに助けを求めているわけではありません。駆け落ちをしたいわけでも、明日からの運命から逃げ出したいわけでもありませんの」
ロザリアはドレスの裾を優雅に整えると、月光を背にして美しく胸を張った。
「わたくしは明日、コンラート殿下と結婚します。そして、世界で最も気高く、もっとも強かな『王妃』となって見せますわ……だけど、私の魂の最も深い場所、誰にも奪えない私の『心』だけは……十年前のあの日に、あなたに奪われたままなのです」
彼女はアルフレッドの目を見つめ、慈しむように目を細めた。
「あなたが生涯、亡き許嫁様の砂糖菓子だけを愛し続けるように……わたくしもまた、生涯あなたという狼を愛しながら、皇太子の妃として生きて参ります……これで、おあいこですわね?」
「……っ」
アルフレッドは言葉を失い、ただ立ち尽くした。
あまりにも壮絶で、あまりにも狂おしい純愛。
逃避でもなく、妥協でもない。
自らの運命を完璧に受け入れながら、同時に一人の男への絶望的な恋心を永遠に抱き続けるという、凄絶な覚悟。
隣で見守っていたミリアルデは、抱えていた酒瓶を静かに足元へ置くと、息を呑んでロザリアの姿を見つめていた。
「……アルフレッド卿」
ロザリアは不意に、彼の指先で揺らめく紫の煙――彼が死臭を覆い隠すために嗜む、独特な香草の煙草へと視線を向けた。
「今夜は……その煙草を一口、吸わせてくださらない?」
「……っ!? 王女殿下、何を仰います。ご婦人が煙草を嗜むなど!」
アルフレッドの黄金の瞳が驚愕に揺れた。
高貴な王女が煙草を嗜む習慣など存在せず、明確なマナー違反であり、およそあり得ないことであった。
「これは戦場の死臭を覆うための毒煙。貴女様のような高貴な姫君が口にされるようなものでは……」
「いいえ。わたくしは……あなたの味を知りたいのですわ」
ロザリアは可憐に微笑むと、拒む間も与えず、アルフレッドの指先からそっと煙草を奪い取った。
繊細で白い指先でそれを挟み、躊躇うことなく、自らの小さな可憐な唇へと運ぶ。
「あっ……肺には入れず、口の中で転がすだけに留めなさい、王女殿下」
ロザリアはその忠告に従い、煙を肺へ流し込むことなく、口の中で静かに転がした。
舌の上に広がる濃厚な香草の香り、焦げた葉の苦み、そして――アルフレッドという男の体内に染みついた、微かな血と鉄の匂い。
彼女はむせることすらなく、ゆっくりと月光の下へ、紫の煙を吐き出してみせた。
「……ふふ。苦くて……どこか切ない味がいたしますのね」
紫煙の向こうで、彼女は恍惚とした瞳で目を細めた。
自分の体内に、彼の象徴である煙を満たしたその瞬間、彼女の神経は歓喜と熱情で灼けつくように昂っていた。
その光景を目にしたミリアルデは、息を呑んで身体を固まらせ、ただ絶句していた。
(……すごい子ね)
ミリアルデは心の中で、震えるような賛美を送った。
(人間の生なんて、たった数十年……。だけどこの子は、その短い生の中で、アルフレッドの紫煙を吸い込んで……同じ『永遠の狂気』を手に入れたんだわ……)
ロザリアは吸い終えた煙草を、愛おしそうにアルフレッドの指先へと戻した。
そして、完璧な王族の礼(カーテシー)を捧げる。
「それでは、失礼いたしますわ。騎士アルフレッド……いいえ、わたくしの愛しい人狼様。明日、最高の式でお会いしましょう」
「……は、王女殿下」
アルフレッドは胸に手を当て、地面に膝をついた。
それは、主君に対する礼であり、同時に……自らの胸を打ち破り、己の煙さえも飲み込んでみせた一人の気高き女性に対する、最大級の敬意であった。
「……輝かしき王国の『皇太子妃』、ロザリア王女殿下に……祝福と、絶対の忠誠を」
「ええ。ありがとうございます」
ロザリアは誇らしげに微笑むと、一度も振り返ることなく、軽やかな足取りで漆黒の回廊へと消えていった。
彼女が去った後には、甘い薔薇の香水の匂いと、残された紫煙の香りが、静かに混ざり合って漂っていた。
月光が、中庭を白く照らし出す。
「……参ったわね、アルフレッド」
ミリアルデがぽつりと溢し、己の酒瓶を煽った。
「あの子、本物よ。あんたの煙草を一口吸っていくだなんて……あんたの心にも、身体にも、消えない傷を刻み込んで去っていったわ」
アルフレッドは立ち上がると、ロザリアが唇を触れさせた煙草をじっと見つめた。
指先が微かに震えている。
それを静かに口にくわえ直すと、懐から銀の小箱を取り出した。
蓋を開け、中に転がる小粒の白い砂糖菓子をひとつ摘み、口の中へ放り込んだ。
広がるのは、三百年前の故郷の味。
だが、今夜の甘味と煙の味には……あの少女が残していった強烈な薔薇の香りと、灼けつくような熱情の味が、二度と消えない刻印のように混ざり合っていた。
(第8話に続く)