昨夜の冷たい雨が嘘のように上がり、天には一点の雲もない澄み渡った青空が広がっていた。
祝祭の訪れを告げる大聖堂の鐘の音が、遠くから重厚に響き渡る。
城内は朝から、統一王朝の基礎となる皇太子コンラートとロザリア王女の大婚礼に沸き立ち、華やかな装飾と歓声に包まれていた。
だが、王城の中庭――静かな噴水広場だけは、外界の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
「……遅いわね、あの男」
噴水の縁に腰を下ろしたエルフの大魔法使いミリアルデは、朝露に濡れた石畳を眺めながら、ぽつりと呟いた。
いつもなら、この刻限にはすでに紫煙を燻らせ、黄金の瞳で空を睨みつけているはずの「人狼の騎士」の姿が、今日はまだ見当たらない。
彼女は膝の上で酒瓶を弄びながら、怠惰に夜明の風を浴びていた。
その時だった。
カシャリ、ジャラ……と、聞きなれない金属が擦れる音が、石畳の回廊の奥から近づいてきたのは。
「――っ?」
ミリアルデが半目を向けた瞬間、その瞳が驚愕に大きく見開かれた。
現れたのは、いつもの凄惨な死臭を纏う漆黒の軍服姿でも、不吉な紫の魔力を放つ黒甲冑姿でもなかった。
纏っているのは、王国最高位の上級騎士にのみ着用が許される、白銀と濃紺の絢爛な礼装。
一切の皺もなく完璧に着こなされたその肩から胸元にかけては、彼が三百年間という途方もない歳月の中で積み上げてきた、数えきれない数の戦功の証――ジャラジャラと音を立てる無数の勲章が、隙間なく飾られていた。
不老の怪物、『人狼の騎士』アルフレッド・ベルンハルト。
普段の冷酷な死神の佇まいとは対極にある、あまりにも華やかで気品に満ちた「王国の最高位騎士」としての正装姿であった。
ミリアルデは固まった後、くくくと肩を揺らして耐えかねたように吹き出した。
「くくっ……あはははっ!似合わないわね、あんたの礼装って」
彼女は呆れと可笑しさが混ざった声を漏らし、指で彼をさした。
「なんなの、そのジャラジャラした勲章の山は? まるで歩く宝物庫じゃない。あの冷血な人狼様が、そんな人間たちの着せ替え人形みたいな恰好をするなんてね」
「……うるさいぞ、酔いどれエルフ」
アルフレッドは撫でつけられた頭を気にしながら、不機嫌そうに眉を顰めると、手慣れた手つきで懐から太い葉煙草を取り出した。
指先に微かな紫の魔力を灯し、火を点ける。
紫煙がゆったりと立ち上がり、快晴の空へと溶けていく。
彼がまとう濃密な香草の匂いが、絢爛な正装の生地へとしみ込んでいった。
「……ロザリアちゃんとは、あのまま?」
ミリアルデはニヤニヤとして笑みを引っ込め、少しだけ声を落として尋ねた。
昨夜、この場所でアルフレッドの煙草を一口吸い、永遠の刻印を残していったあの気高き王女の姿が、彼女の脳裏に焼き付いていたからだった。
アルフレッドは吐き出した紫煙の向こうで、冷淡に首を振った。
「ああ、会ってもいない。殿下には出席のご報告をした……大公殿下や側近どもがやかましいのですぐに離されたよ」
大公や側近、大貴族たちにとって、人狼の騎士は王国の最大戦力であると同時に、触れてはならない恐怖の対象。
華やかな婚礼の式典において、彼が新婦や新郎の近くに長居することを、宮廷の臣下たちが許すはずもなかった。
顔を見せること自体が、彼らにとっては心臓を叩き潰されるようなプレッシャーなのだ。
「ふうん……まあ、あんたが大人しく引き下がるなら、それでいいじゃない?」
ミリアルデは酒瓶を抱え直し、納得したように頷いた。
アルフレッドは黙って葉巻を深く吸い込み、紫煙とともに重い吐息を漏らした。
そして、不意に止まると、黄金の瞳でまっすぐにミリアルデを見つめたのだった。
「……それでな、頼みがある」
「なによ?」
ミリアルデは気のない返事をしながら、空の酒瓶を揺らした。
「こういった儀式に男一人で出るわけにはいかない……その、お前に一緒に来て欲しい」
「……っ!?」
ミリアルデの身体が、弾かれたように跳ねた。
抱えていた酒瓶が手元から滑り落ちそうになり、慌ててそれを持ち直す。
薄金の髪が揺れ、緑色の瞳が言葉を失ったように大きく見開かれた。
数千年の忘却の海を漂い、人間たちの歴史や権力闘争を「とるに足らない戯れ言」として酒の海に沈めてきたエルフの大魔法使い。
そして、死んだ許嫁への狂おしい純愛と砂糖菓子だけに心を縛り付け、他者を決して寄せ付けなかった不老の人狼。
そのアルフレッドが。
よりにもよって、人間たちの最も華やかな祝宴の場において、自分に「伴侶役」として同伴を求めているのだ。
「……本気?」
ミリアルデの声が、微かに震えた。
「本気だ。大まじめだ。一緒に来てくれ、ミリアルデ」
アルフレッドの黄金の瞳には、迷いも、冗談の欠片もなかった。
彼はまっすぐに彼女を見つめ、王家に仕える騎士としての厳格さと、どこか無骨な不器用さをにじませながら、ただ真摯にその言葉を告げたのだ。
「はあ……」
ミリアルデの口から、深い、深い溜息が漏れた。
それは呆れであり、困惑であり――そして、胸の奥底で何かが激しく熱を帯びて昂っていく音でもあった。
(……この男は本当に、どこまでも私を驚かせるのが上手いわね)
人間の最高峰が集う絢爛な大聖堂。
権力者たちの醜い視線と、過飾された滑稽な儀式。
本来ならば、酒でも飲んで木陰で寝転がっていたいだけの鬱陶しい場所。
だが――。
三百年の孤高を生きてきたあの怪物が。
今、この瞬間に、自分という存在を必要とし、「隣に立ってくれ」と頼んできたのだ。
胸の奥で、鐘が打ち鳴らされるような衝撃。
数千年の退屈な時の中で眠っていた彼女の心が、激しく灼けつくように熱を帯びた。
「……まったく」
ミリアルデは呆れたようにくすりと笑うと、膝の上の酒瓶をそっと噴水の縁に置いた。
半目だった彼女の瞳に、数千年の時を統べる大魔法使いとしての凛とした気品と、一人の女性としての妖艶な決意が宿る。
彼女はゆっくりと立ち上がると、風になびくドレスの裾を優雅に払ってみせた。
「お酒の持ち込みが許可されるなら、付き合ってあげてもいいわよ?」
「……式典中の飲酒は許可されん」
「ケチねぇ。まあいいわ……行きましょう、人狼さん」
ミリアルデはアルフレッドの隣へと歩み寄ると、驚く彼に向けて、いたずらっぽく、そして最高に美しい微笑を浮かべて手を差し出した。
「最高の『パートナー』として、あんたの横に立ってあげるわ……私をエスコートしなさいな、上級騎士様」
「……ふん。手がかかる」
アルフレッドは口元に微かな苦笑を浮かべると、白手袋を嵌めた腕を彼女に差し出した。
ミリアルデはその腕に自分の細い手をしっかりと絡め、胸を張る。
輝く太陽の光の筋を背にした人狼の騎士と、数千年の忘却を纏うエルフの大魔法使い。
二人の超然とした影は、重なり合いながら、華やかな祝宴が待つ大聖堂へと向かって静かに歩み出した。
(第9話に続く)