永遠の夕暮れを越えて   作:太陽を拝みたい

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永遠の夕暮れを越えて

呼吸をするたびに、粘りつく焦げたオイルと鉄錆の匂いが肺の奥を撫でた。

頭上を見上げても、青い空も、白い雲もない。視界を遮るのは、はるか数千メートルの上空にそびえる重厚な「岩盤(天井)」だ。巨大な亀裂から露わになった鉄骨の隙間で、巨大な人工太陽の光源が、死んだ魚の目のようにぼんやりと橙色の光を放ち続けている。

第3層、スラム街。

ここには「夜」が存在しない。朝から夕方にかけての、くすんだ橙色の明るさが永遠に固定されている。だから住民たちの生体リズムは狂い、時間感覚は失われ、誰もが常にうっすらとした不眠と眩暈(めまい)を抱えながら泥をすっている。

少年——カナタは、壁際に置かれた古びたろ過装置のコップを取り、一気に煽った。

空気中から吸着・結露させて精製した『合成水』だ。無色透明ではあるものの、機械油の微小な匂いと金属味が残り、喉を通る時に独特のエグみがひっかかる。

「……っ、うぐ……」

顔をしかめながら飲み干す。この街には本物の「綺麗な水」など存在しない。喉を潤すためだけに、毎日この泥の混じったような液体を体内に流し込む必要があった。

カナタには社会的なIDも、正確な年齢の記録すらない。自分の首元を触っても、富裕層が持つような識別チップの膨らみはどこにもなかった。この過酷な第3層において、カナタはただの「存在しないゴミ」だった。

「グゥ……」

足元から、低く地響きのような唸り声が漏れる。

カナタのすぐ横に寄り添うように立っているのは、ハスキー犬ほどの大ぶりな体躯を持つ四足歩行の獣——魔獣の『ジャック』だ。

体表を覆う青みがかった灰色の毛並みは所々剥げ、皮膚の下からは鈍い光を放つ金属質な生体装甲が覗いている。かつて旧文明が遺した兵器の生き残りと言われているが、カナタにとっては幼い頃、スラムのゴミ捨て場で死にかけていたところを拾い合って以来の、世界でたった一人の「家族」だった。

その時の拙い語彙で「ジャンク(ゴミ)」から名付けた『ジャック』という名前を、この相棒は今でも誇らしげに背負っている。

ジャックが鼻先をカナタの膝に押し付け、短い吐息を漏らす。

カナタは濡れたジャックの頭を乱暴になでた。

「ああ、行こう。今日も何か探さないと、明日の水も買えやしない」

 

 

 

二人が向かったのは、スラムの端に位置する「旧構造体」の最下層だった。

企業の立ち入り調査も入らないほど老朽化し、いつ天井の鉄骨が落ちてきてもおかしくない危険区域だ。スラムの住民すら滅多に近づかない場所だからこそ、運が良ければ価値のある「ジャンク」が眠っている。

ぬかるんだ汚水を踏まないよう慎重に足を進めると、崩落した巨大な配管の奥でカチカチと乾いた金属音が響いていた。

「……作業ドローンの残骸か」

カナタは暗闇の中に浮かんでは消える赤い単眼の光を見咎めた。

ジャックが低く唸り、先導するように影の中へ滑り込む。ジャックの鋭い気配察知がなければ、カナタはとっくに崩落に巻き込まれるか、狂った機械に殺されていたはずだ。

「よし、ジャック。俺が拾う間、周りを見ててくれ」

カナタは崩れたコンクリートの隙間に手を突っ込み、手当たり次第に使えるパーツを引き抜いた。合成水プラント用のフィルター、高圧ケーブルの断片、高純度のバッテリーセル。どれもジャンク屋に持ち込めば、数日分の食事に変えられる。

その時、指先が「異様な感触」に触れた。

冷たい。だが、鉄の冷たさではない。どれだけ泥に塗れていても、その指先に触れた表面は鏡のように滑らかで、一切の傷も錆すらも存在しなかった。

「……なんだ、これ?」

暗がりから引きずり出したのは、掌にすっぽりと収まる程度の、真黒な「立方体(デバイス)」だった。

重さは驚くほど軽いが、ずっしりとした密度を感じる。表面にはボタンも、継ぎ目も、コードの挿入口すら存在しない。金属なのか、ガラスなのか、あるいはまったく未知の素材なのかすら判別がつかなかった。

「目立った傷もないし、珍品だな……。ジャンク屋のオヤジなら、面白がって高値で買い取ってくれるかもしれない」

カナタは深く考えず、その黒い箱をボロ布の袋の底へと突っ込んだ。

「よし、引き揚げるぞジャック!」

 

 

だが、運命はそう簡単にカナタに食事を与えてはくれなかった。

旧構造体を抜け、スラムの狭い路地へと戻ったところで、曲がり角の影から不快な笑い声が響いた。

「おいおい、どこ行ってたんだよ、“ゴミ拾い”のカナタちゃんよぁ」

路地を塞ぐように立っていたのは、スラムの粗暴な不良グループのリーダー、ダグだった。後ろにはナイフや鉄パイプを手にした手下5人が立ち控え、カナタをあざけるような目で見下ろしている。

ダグは泥の跳ねたブーツで地面を小刻みに叩きながら、カナタが抱える袋へ視線の送った。

「いいもん抱え込んでるじゃねぇか。おい、今日俺たちが回収する予定だった“上納金”の足しにしてやるから、そこに置いていけ」

「……断る。これは俺とジャックが命がけで拾ってきたんだ。渡せるかよ!」

カナタは袋をかばうように背を向けたが、ダグの横から躍り出た手下が容赦なくカナタの腹を蹴りつけた。

「ガハッ……!」

湿った路面に叩きつけられ、激しい痛みが胸を走る。カナタの手から袋が転がり出た。ダグが嫌らしい笑みを浮かべ、その袋を拾い上げる。

「威勢だけは一人前だな。だがな、お前みたいな身元不明のゴミが、この街で生きてられるのは誰のおかげだと思ってんだ?」

ダグが踏みつけようと足を持ち上げたその瞬間——

「グルアッ!!」

突風のような影が躍り出た。ジャックだ。

ジャックは生体金属の牙を剥き出しにし、ダグの腕へ容赦なく噛みついた。

「ぐああああっ!? このクソ犬がぁっ!」

ダグが悲鳴を上げ、手下の男たちが慌てて鉄パイプを振り下ろす。ジャックは間一髪で身を翻すと、そのままカナタの服の首元を強力な力で咥え込み、地面から強引に引きずり起こした。そして、路地の奥を鋭い目で見据え、短く一発だけ吠えた。

言葉はない。だが、その動作だけでカナタには十分だった。

「くそっ……! 覚えてろよダグ!」

カナタは痛む腹を抱え、床に転がっていた「黒い箱」とわずかな袋だけを咄嗟に拾い上げると、ジャックの導くまま暗い路地の奥へと全力で駆け出した。

後ろから「追え! ぶっ殺せ!」というダグの怒号が響く。だが、迷路のようなスラムの路地裏において、ジャックのナビゲーションは完璧だった。入り組んだ配管の影を抜け、崩落現場を飛び越え、追っ手を完全に撒いて二人は自分たちのあばら家(アジト)へと滑り込んだ。

 

 

ガチャン!と重い鉄の扉を閉め、内側から閂(かんぬき)を下ろす。

静まり返った部屋の中で、カナタは膝から崩れ落ちた。

「ハぁ……っ、ハぁ……っ……!」

肩を上下させ、荒い息を吐く。殴られた頬が熱く腫れ上がり、腹の痛みが引かない。手に残ったのは、命がけで逃げ延びた結果の「あの黒い箱」ひとつだけだった。せっかく集めた合成水用のフィルターも、バッテリーも、すべてダグたちに奪われた。

明日食べるものもない。綺麗な水を買う金もない。

ただ、この狭く暗いスラムで、理不尽に殴られ、奪われ、虫ケラのように死んでいくのを待つだけ。

「……なんでだよ」

カナタの目から、ポロポロと悔し涙が零れ落ちた。

「なんで俺ばっかり……! IDもない、家もない、水すらまともなもんが飲めねぇ! この天井の向こうには広い世界があるっていうのに……俺は一生、ここでゴミみたいに死ぬのかよ!!」

怒りと、恐怖と、非力さへの絶望が、胸の奥でドロドロとした熱い塊となって爆発した。

「チクショウ……!! チクショウぁぁぁっ!!」

カナタは叫びながら、手元にあった『謎の黒い箱』を、ありったけの力で部屋の壁へ叩きつけた。

ガン!と硬質な音が響き、黒い箱が床へと転がる。

その瞬間だった。

——チリ、と静電気のような音が部屋に満ちた。

叩きつけられた黒い箱の表面に、青白い幾何学コードが、血流のように走り出す。

『——警告。物理的衝撃を検知。緊急自己診断プログラムを開始します』

部屋の暗闇に、透きとおるような少女の声が響いた。ノイズが走り、黒い箱から投射された幾何学的な光の粒子が、空間で収束していく。

そこに現れたのは——薄汚れたあばら屋にはあまりにも不釣り合いな、完璧な美しさを持つ少女のホログラムだった。

透きとおる銀髪に、吸い込まれそうな藍色の瞳。彼女は軍服のような意匠を持つ完璧なドレスを纏い、カナタに向かって優雅に一礼した。

「初めまして、適合者(マスター)。あるいは、カナタ様とお呼びするべきでしょうか」

「な……んだ、これ……!?」

カナタが腰を抜かして後退る。ジャックが警戒して前に出ようとしたが、少女はただ感情の欠片もない、人形のように美しく完璧な笑みを浮かべていた。

「個体識別番号:NOA-01。旧文明再建補助AI『ノア』、起動いたしました」

ノアがすっと細い指先をカナタに向けた瞬間、カナタの視界がバチバチと青い光の嵐で上書きされた。

目に見える景色が変わる。

部屋の壁の強度、空気中の酸素濃度、ジャックの心拍数、カナタ自身のバイタルデータ、そしてダグたちが追ってくるかもしれない路地の構造——それらすべてが、複雑な数式と数理データ(AR視界)となって、脳内に直接流れ込んできたのだ。

脳を焼くような情報の濁流に、カナタは息を呑む。

ノアは完璧に美しく、完璧に優しい声で、しかしどこまでも冷酷なプログラムとして静かに告げた。

「適合者(マスター)の生体波形を確認。管理者コードを受理しました。……おはようございます、カナタ様。世界の再建計画を始めましょう」

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