黒鉄街の喧騒を抜け、冷却塔廃墟へと続く暗い傾斜路を進みながら、カナタはふっと吐き出した息の白さに目をやった。
上層からの排熱が届きにくいこの区画は、昼夜を問わず冷気が澱んでいる。
しかし、手のひらに感じるズシリとした重みが、皮膚を刺す寒さを打ち消していた。
革の袋に収められた電子チップの束――現在の所持金は、5,208Cr。
つい数週間前まで、ガルドの買い取り店でE級魔獣ラット・ディガーの前歯を数本持ち込み、数10Crのチップを投げつけられていた頃とは世界が違っていた。
だが、カナタの視線はすでにその先――スラムでの正規市民権を得て素材の適正買取を可能にし、上層への道を開く第一歩となる「ハンターライセンス」の取得費用、50,000Crを見据えている。
「残弾、確認してくれノア」
カナタが歩みを止めずに呟くと、視界の右上に精緻な青いARウィンドウが静かに立ち上がった。
『了解です、マスター・カナタ。ジャックの背部装備『汎用小型火器ユニット(サブ・バレル9mm)』――残弾数、100発。機関砲モジュールの動作精度、およびセンサー同期率は100%を維持しています』
歩調を合わせるようにカナタの横を並走していたジャックが、短く「ワン」と鼻を鳴らした。
背中に新しく組み込まれた武骨な9mmサブ・バレルは、ジャックのしなやかな跳躍や身構えに干渉することなく、関節の動きに追従して滑らかに軸を微調整している。
青みがかった灰色の毛並みは艶を取り戻し、脚先や背を守る生体金属の装甲は、スラムの薄暗い街灯の光を反射して硬質な輝きを放っていた。
かつてゴミ溜めで衰弱し、ツギハギの泥犬と蔑まれていた姿は、どこにもない。
「100発か……頼もしいが、撃ち尽したらただの飾りだな」
『肯定です。9mm標準弾の補充コストは、スラムの裏市場において1発につき5Cr。100発のフル装填で500Crの支出となります。現在の所持金5,208Crに対し、弾薬コストの比率は軽視できません。火器ユニットは無制限の掃射ではなく、敵の体勢崩しや緊急回避時の牽制として運用することを強く推奨します』
「1発5Crか。引き金を引くたびに合成肉のブロックが飛んでいくようなもんだな……。ジャック、弾はここぞという時まで温存だぞ」
ジャックはカナタの言葉を理解したように耳をピクりと動かし、低い鼻鳴らしで同意を示した。
「さて、次はどうする? 『廃油プラント洞窟』でD級魔獣アーマー・シェルの狩り方を覚えたが、あそこだけであと4万5千Cr以上稼ぐとなると、どれだけの数が残ってるか怪しい」
カナタは手に持った『ヘビー・スピア・改』の柄を握り直す。
バンダの手によって改修された柄は、手のひらに吸い付くように馴染んでいた。
超硬軽量合金の適度な重みと、穂先に組み込まれた『高出力衝撃振動ドライブ』の存在が、カナタの背中を強力に押し出す。
『提案です。『廃油プラント洞窟』におけるアーマー・シェルの単体撃破プロセスは完全に確立されました。現在の装備スペック、およびジャックの火器ユニットとの連携熟練度を考慮すれば、さらに下層――『旧第二冷却水路』への進出が可能です』
「旧第二冷却水路……?」
『肯定です。廃油プラントの最奥部から落ち込む、旧文明のろ過施設跡地です。重度の汚染と未検知の暴走メカノイド、およびD級変異種の生息が確認されています。危険度は上昇しますが、出現する目標の素材単価はアーマー・シェルの1.5倍から2倍と試算されます』
カナタは口元を歪め、薄い笑みを浮かべた。
「いいな。リスクが高けりゃ、それだけ稼ぎもデカい。ガルドの奴の顔面を札束で叩きのめしてライセンスを掴み取るまで、立ち止まってる暇はないからな」
だが、カナタが足を踏み出そうとした、その瞬間だった。
「——おい、そこのガキ」
ぬっと伸びる不快な影とともに、背後の路地から重苦しいダミ声が響いた。
◇
カナタは足を止め、ゆっくりと振り返る。
蒸気パイプの影から姿を現したのは、錆びついた鉄パイプや重工具を手に握りしめた5人の男たち。
スラムの底辺にへばりつき、自ら戦うことも耕すこともせず、弱者から奪うことで生き長らえてきたハイエナ――ダグ一味だった。
「なんだ、生きてやがったのか」
頭目のダグが、黄ばんだ歯をむき出しにして下品に笑った。
「生憎だが、簡単には死んでやらないよ」
カナタは『ヘビー・スピア・改』の柄を低く構え、冷ややかな視線を返した。その声に揺らぎはない。
「へっ、いい武器持ってじゃねえか、ゴミ拾い。それにその犬……背中に何か高級な機械まで背負ってやがるな」
ダグのギラついた視線が、カナタの新しい槍と、ジャックの背に鎮座する火器ユニットに注がれる。
「俺たちが追ってやったおかげで拾えた命だろ? 恩返しに、その綺麗な槍と犬のパーツ、ここに置いていきな。そうすりゃ今日のところは、手足の一本くらい残して見逃してやるぜ」
ダグの合図とともに、手下4人が扇状に散らばり、カナタの退路を塞ぐように間合いを詰めてくる。
かつて隠れ家を特定され、着の身着のまま逃げ出すしかなかったあの日の構図と同じだった。
『マスター・カナタ。敵性人間個体5名。視覚拡張支援、および行動予測ラインの展開を開始します——』
ノアの声とともに視界が青く着色されかけた瞬間、カナタは静かに目を細めた。
「ノア、アシストを切れ」
『……否定です。敵個体は武器を所持しており、危険性の排除には効率的なサポートが推奨されます』
「いらない。こいつらは……過去の俺を縛り付けてた連中だ。ノアの力に頼らず、俺自身の力で叩き潰さなきゃ意味がない」
カナタの強い意思を感じ取り、ノアは一瞬の沈黙ののち、静かに答えた。
『了解です。アシストをオフにします』
青い視界表示が消え、いつもの薄暗いスラムの路地が戻ってくる。
ノアの予測線も、着地点の赤点もない。
だが、カナタの研ぎ澄まされた視界には、連中の不格好な立ち姿と、雑な重心の置き方がはっきりと見えていた。
「ジャック、弾は使うな。こいつらに5Crの弾薬を使う価値もない」
カナタが短く命じると、ジャックは低く地響きのような唸り声を上げ、姿勢を低くした。
「分をわきまえろよ、ダグ。俺はもう、お前たちに奪われるだけのゴミじゃない」
「ハッ、強がり言ってんじゃねえぞ、底辺のクソガキがぁ!」
左手から踏み込んできた男が、錆びた鉄パイプを振り上げ、カナタの頭部を目がけて振り下ろした。
遅い。
ノアのアシストなどなくても、連日の死線で叩き込まれたカナタの動体視力には、男の動きが止まって見えた。
空振りした男の体勢が大きく前に崩れる。
「隙だらけだ」
カナタは『ヘビー・スピア・改』の石突を短く突き出し、男の落ち切った顎下へ正確に叩き込んだ。
ゴツン、と重い打撃音が響く。
男は悲鳴をあげる暇もなく目を見開いたまま倒れ、膝から崩れ落ちて地面に突伏した。
「ヒロ!」
「てめぇ……よくもやりやがったな!」
残り3人の手下が怒号を上げ、同時に肉薄してくる。
一人はボロナイフを構え、残る二人はスタンバトンをバチバチと放電させながらカナタの左右を挟み込もうと躍り出た。
だが、カナタが指示を出す前に、黒い影が弾けた。
「ガアッ!」
ジャックだった。
アシストのない素の俊敏さだけで左側の男へ肉薄すると、生体金属で補強された前脚を強烈に男の膝関節へ撃ち込んだ。
ベキッ、という嫌な屈折音が響く。
「ぎゃあああああっ! 膝が、俺の膝がぁあ!」
脚を破壊された男が悲鳴を上げて転倒する。
ジャックはその背を蹴り台にして跳躍し、今度はナイフを構えた男の顔面に向かって鋭い爪を振るった。
「うわああっ!?」
顔面を切り裂かれた男が血を撒き散らしながら後退する。
ジャックは着地と同時に低姿勢を作り、威嚇の牙を剥き出しにして残る手下たちを牽制した。
わずか数秒。
5人いたダグ一味のうち、3人が一瞬で戦闘不能へ追い込まれた。
「な……なんだ、その動きは……!?」
後方に控えていたダグの顔から余裕が消え失せ、冷や汗が頬を伝う。
かつて自分たちの影を見ただけで震えていた少年は、今や恐ろしいほどの強者へと変貌していた。
「ダグ、お前は言ったな。『恩返しに置いていけ』と」
カナタはスピアをゆるりと構え直し、じりじりと距離を詰める。
「俺がこの数年間、お前たちに何を奪われてきたか覚えているか? 拾った食べ物、暖を取るための薪、命がけで回収したネジ一本に至るまで……お前たちは全部、力で奪っていった」
「ひ、ひぃ……っ!」
「奪った側は忘れるかもしれないが、奪われた側は忘れない。——これが、俺からの『恩返し』だ」
カナタの踏み込みは、ダグの視界に入らないほど速かった。
「来んな、このゴミ拾いがぁ!」
絶叫したダグが、手にした大型の簡易スタンガンをカナタの胸元へ突き出そうとする。
だが、その手元すら認識する前に、カナタは懐へ潜り込んでいた。
出かかったスタンガンを『ヘビー・スピア・改』の柄で弾き飛ばすと、そのまま大きく体を旋回させる。
『高出力衝撃振動ドライブ』を使うまでもない。カナタ自身の全身の踏み込みと踏破力が乗った柄が、ダグの脇腹へ一閃した。
ドカッ!
「カハッ……!?」
肋骨が叩き折れる鈍い音とともに、ダグの巨体が浮き上がり、路地の壁面へ激しく激突した。
背中のコンクリートに亀裂が入り、ダグは口から泡を吹いてその場に崩れ落ちる。
「ガハッ……ごほっ……待っ……待て、カナタ……! 悪かった……俺が悪かった……!」
壁に背をあずけ、血の混じった唾液を吐き出しながら、ダグが命乞いをする。
かつての威圧感は欠片もなく、そこにあるのは死を恐れる哀れな弱者の姿だった。
カナタは無表情のまま歩み寄り、ダグの目の前にスピアの鋭い穂先を突きつけた。
「頼む……持ってるチップは全部渡す! だから……命だけは……!」
ダグは震える手で腰のポーチを外し、地面に投げ出した。
中から数枚の電子チップが転がり出る。
『スキャン完了。提示されたポーチ内の資産価値:計1,450Cr。回収を推奨します』
ノアの声を聞きながら、カナタは足元に転がったポーチを足で踏みつけ、自分の方へ引き寄せた。
「1,450Cr……。俺から奪ってきたものに比べたら、まるで足りないがな」
カナタはポーチを拾い上げ、ポケットにねじ込んだ。
冷たい瞳でダグを見下ろす。
「次に俺たちの前に面をさらしたら、その時はスピアの振動ドライブを入れてやる。……消えろ」
「ひぃっ……! ありがとよ、ありがとう……!」
ダグは折れた肋骨を押さえながら、立ち上がれなくなった手下たちを罵倒し、這うような勢いで暗闇の奥へと逃げ去っていった。
◇
静寂が路地に戻ってくる。
カナタは深く息を吐き出し、スピアの穂先を下に向けた。
己の手を見る。震えはどこにもない。
影に怯え、物音に怯え、必死に集めた資源を不当に奪われ続けていた日々は完全に終わったのだと、カナタは静かに噛み締めた。
もう二度と、この男たちに屈することも、理不尽に搾取されることもない。
ジャックが歩み寄り、カナタの脚に体を擦り寄せてくる。
「よくやったな、ジャック。傷はないか?」
ジャックは「くぅん」と短く鳴き、異常がないことを示した。
『戦闘終了。経過時間:42秒。マスター・カナタ、およびジャックの被ダメージ:0。戦利品として1,450Crを獲得。現在の総所持金は6,658Crとなりました』
「6,658Crか……。思わぬ臨時収入になったな」
かつて自分を脅かしていた暴力の象徴を退け、自分の力で叩き潰した。
過去の呪縛を振り払ったカナタの心にあったのは、晴れやかな確信だった。
「行くぞ、ノア、ジャック。『旧第二冷却水路』へ」
カナタはスピアを背負い直し、次の目的地へと真っ直ぐと歩きだした。
目標の50,000Crまで、残り43,342Cr。