「ログの解析を完了しました。休眠状態中も周囲の音波スキャンを継続していたため、貴方の個体識別名が『カナタ』であると特定・登録済みです」
暗闇の中に浮かぶ銀髪の少女——ノアは、息をのむほど美しく、徹底して感情を排した声でそう告げた。
カナタは息を呑み、思わず後退る。
叩きつける前の、ただの黒い箱だった時から、あいつらとの泥臭いやり取りを全部聞かれていたというのか。
「お前、ずっと俺たちの声を聞いてたのか?」
「肯定。スリープモード中も最低限のパッシブ・センサーを維持することは、本機の基本プロトコルです」
ノアはすっと細い指先を胸元で組み、空中に浮いたまま静かに頷いた。そのホログラムの身体からは一切の熱も、呼吸の気配すら感じられない。
カナタの足元で、ジャックが身構えるように低く唸り声を上げた。青みがかった灰色の毛並みを逆立て、金属質の生体装甲をチラつかせながら、カナタとホログラムの間に割り込む。
言葉は持たないが、『この奇妙な光の少女は安全なのか?』とカナタに問いかけているのは明白だった。
「待て、ジャック。攻撃しようとしてるわけじゃなさそうだ」
カナタがジャックの背中を撫でて宥めると、ジャックはまだ不服そうに鼻を鳴らしつつも、ゆっくりと身体の緊張を解いた。だが、その鋭い視線は決してノアから外さない。
カナタは腫れ上がった頬をさすりながら、ホログラムの少女へ向き直った。
「ノアって言ったな。さっき適合者とか管理者コードとか言ってたが、一体どういう意味だ? 俺はただのスラムのゴミ拾いだぞ。IDも、名前の記録すらない。この街じゃ存在しないゴミなんだ」
「問題ありません。我々が参照するのは、現行の社会的IDのような曖昧なデータではなく、貴方の生体波形および遺伝子配列です」
ノアの透きとおる藍色の瞳が、冷たくカナタを見つめる。
「先ほど、貴方が本機を壁面へ衝突させた際の物理衝撃に伴い、皮膚接触面からミリ波生体スキャンを実行いたしました。その結果、貴方の生体波形が、旧文明期における最高管理権限、適合者コードと99.8%の整合率を示したため、システムが緊急起動しました」
「壁に叩きつけたのが起動の理由じゃなくて俺の体質が原因だったってことか?」
「肯定。仮に他の個体が本機を粉砕しようとも、適合者コードが検知されない限り、本機が再起動することはありませんでした」
カナタは自分の手元を見つめた。薄汚れて、かすり傷だらけの小さな手。
こんなゴミ溜めで親の顔も知らずに育った自分に、そんな大層な資格があるなど、到底信じられなかった。
「じゃあ、その旧文明ってのはなんなんだよ」
カナタは壁に背を預け、息を吐きながら尋ねた。
スラムの老人に昔話として聞かされたことはある。だが、彼らの話はいつも尾ひれがついていて、「昔の人間は空を飛べた」とか「ボタン一つで肉が出てきた」といったおとぎ話の域を出なかった。
ノアは淡々と、しかし極めて正確なデータを提示するように語り始めた。
「今から約一千年前、かつての人類は爆発的な人口増加に直面しました。限られた地表の資源と居住地を守るため、当時の人類は大規模な『3層構造都市(テラリウム)』の建設に着手したのです」
ノアがすっと手をかざすと、あばら家の空間に青い光の立体図面が浮かび上がった。
巨大な円柱状の建造物が、上下に三つの層に分かれている。
「第1層、最上層。本物の太陽光と大気が循環する、特権階級の居住区」
「第2層、中層。人工の海や昼夜の環境サイクルが維持される、企業と生産の都市」
「第3層、最下層。都市システムの排熱と廃棄物が集約される、インフラ維持のための地下区域」
「最下層。それが、俺たちのいるこのスラムか」
カナタは頭上の橙色の天井を思い浮かべた。
毎日見上げるあのくすんだ人工太陽は、かつて人類が人口増加を克服するために作った巨大都市の、ただの排熱口と照明設備に過ぎなかったのだ。
「では、なぜその旧文明が滅び、現在のような技術の停滞が起きているのか。今から約三百年前、原因となった大災厄が発生しました」
ノアの声がわずかに低くなったように感じられた。
「原因は、都市のインフラおよび物質生成を担っていた超微細ナノマシン群、環境制御素子の暴走、および制御中枢の機能不全です。かつて人間が魔法のように自由自在に物質を組み換えていたナノマシンが未知のバグを起こし、都市機能の8割が停止。旧文明の社会構造は数日で崩壊しました」
「ナノマシンの暴走」
「肯定。文明崩壊からの三百年、生存者たちは制御を失った都市構造体の中で細々と生き延び、技術や知識の継承は途絶えました。それが、現在の貴方たちが置かれている状況の全容です」
カナタは口の中が乾くのを感じた。
生まれた時から当たり前だと思っていたこの過酷で薄暗いスラムは、誰かの怒りでも何でもなく、ただ「三百年前に壊れた巨大な機械の底」でしかなかったのだ。綺麗な水が存在しないのも、夜が来ないのも、すべては管理システムが壊れたまま放置されているから。
「じゃあ、ノア。お前は何のために作られたんだ?」
「本機の主目的は地球再建プロトコルの実行です。適合者を導き、制御中枢へアクセスし、暴走したナノマシン網を再起動・修復すること。それにより、この3層構造都市を正常な環境へ戻すことが私の存在意義です」
ノアは流れるような所作でカナタへ向き直り、静かに一礼した。
「マスター・カナタ。貴方が望むのであれば、私は貴方に世界の再建権限を行使する手助けをいたします。まずはこの閉塞された第3層を脱出し、制御中枢が存在する上層へ向かいましょう」
「上層。第1層……?」
カナタはノアの言葉を、すぐには呑み込めなかった。
頭上に浮かぶ青い立体図面を凝視する。
老人たちが酒の肴に語っていた「青い空」や「白い雲」というおとぎ話。生きるのに必死な自分にとっては笑い飛ばすしかなかった与太話が、今、ノアの出す緻密なデータによって「本当に存在する場所」として目の前に浮かび上がっている。
「本当にそんな場所があるのか? おとぎ話じゃなくて……」
「肯定。最上層の環境維持プラントは、現在も最低限の稼働率で機能を維持しています。適合者である貴方が制御中枢へ到達すれば、アクセス権限を解放可能です」
ノアの返答に揺らぎはない。
カナタは自分の手を見つめ、それから横に立つジャックを見下ろした。
毎日、泥の混じったような水を飲み、いつ死ぬかもわからないままゴミを拾い集める日々。理不尽に殴られ、奪われ、この橙色の天井の下で終わっていくはずだった人生。
(行けるのか? 俺みたいな奴が、あの空のところまで……)
胸の奥で、今まで感じたことのない熱い何かが芽生え始めていた。戸惑いや恐怖はある。けれど、それ以上に「このままここで終わりたくない」という思いが重く胸を突いた。
「……ジャック」
カナタが低く呟くと、ジャックが「ヴォフ」と短く鼻を鳴らし、カナタの脚にそっと身体を寄せてきた。言葉はなくとも、『どこへ行くとしても一緒だ』と言ってくれている気がした。
カナタは深呼吸をし、ゆっくりと拳を握りしめた。
「ノア。俺はどうすれば」
カナタが次の問いを投げかけようとした——その時だった。
パチ、と音を立てて、カナタの視界が青い幾何学模様で覆われた。
「なんだ、これ!?」
脳内に直接流れてくる、膨大な視覚データ。
あばら家の古びた鉄骨の耐久値、壁の隙間から漏れ出す微小な風量、ジャックの心拍数と筋肉の収縮度、それらすべてが、青い数式や矢印となって空間に重なって見えている。
『視覚拡張インターフェース、同期完了』
ノアの声が、部屋の空気からではなく、カナタの耳元、あるいは脳内で直接響いた。
それまでの美しいホログラムの表情が影を潜め、ノアの瞳がどこまでも淡々とした警告モードの冷徹な光を帯びる。
『環境音声ログおよび路地周囲の音波振動を解析』
「ノア? 急にどうしたんだよ」
『先ほどの敵対個体、ダグを含む5名の生命反応を検知。全員が鉄パイプおよびスタンガン等の近接武器を携帯し、急速に本建物へアプローチ中』
「ダグだと!?」
カナタの全身の血が引いた。
「嘘だろ!? ジャックの案内で、スラムの入り組んだ配管を通って完全に撒いたはずだぞ! あいつらがこのあばら家の場所を知ってるわけがない!」
「グルルルっ……!」
ジャックが突如として低い唸り声を上げ、扉の方角へ向かって毛を逆立てた。鼻先をひくひくさせ、敵意を剥き出しにしている。
カナタは荒い息を吐きながら、信じられない思いであばら家の重い鉄の扉を見つめた。
『距離、残り15メートル。10メートル。到達します』
直後——
ガン!!!!
あばら家の鉄の扉が、外側から巨大な鈍器で殴りつけられたような凄まじい衝撃音を立てて跳ねた。
錆びついた閂がギィィと嫌な悲鳴を上げる。
「へへへっ! おいおい、扉閉めて隠れてるつもりかよ、ガキがぁ!!」
扉の向こうから響いたのは、間違いなくあのダグの、下劣で不快な笑い声だった。
「命がけで拾った珍品を持ち帰ったってことはよぁ! そのボロ家の中に、もっと良いモン隠してんだろ!? 扉開けねぇと、家ごと燃やすぞコラァ!!」
ドカン! ドカン!と、激しい蹴りと鉄パイプの打撃音が扉を打ち叩く。
「なんで!」
カナタは腰を抜かしそうになるのを必死で耐え、絶望と恐怖で目を見開いた。
ジャックの完璧なナビゲーションで撒いたはずだった。路地裏を何十回も曲がり、追っ手の気配が完全に消えたことを確認してアジトへ入ったはずだったのだ。
それなのに、なぜダグ達はこの隠れ家のドアの前に立っているのか。
「くそっ! なんで追ってこられたんだよ!!」
カナタの絶叫と、激しく叩かれ歪んでいく鉄の扉の音が、狭なあばら家に絶望的に響き渡った。