換気ダクトから吹き出す生ぬるい排気と、油とカビが混ざり合った独特の異臭。
排熱ランプの光が薄暗く滲むスラム街の路地は、いつもと変わらず重く湿っていた。
「くそっ。7,700Crの価値があったはずなのに、たった770Crかよ」
路地裏の物陰で、カナタは手のひらに載せた薄型ICチップ——770Crと刻まれた残高データが入ったチップを指先で強く握りしめた。
硬いプラスチックの角が掌に食い込む。
傍らにしゃがみ込んだ相棒のジャックが、心配そうに低く喉を鳴らした。
買取屋のガルドに持ち分をまるごと買い叩かれた悔しさは、未だに胸の奥で黒く渦巻いている。
だが、いつまでも立ち止まって愚痴を吐いている余裕はスラムの人間にはない。
「愚痴っても始まらねぇな。手ぶらで追い出されるよりはマシだ。この770Crをどう使って悔しさを晴らすか考えなきゃな」
カナタは息を吐き出し、思考を切り替えた。
スラムの最底辺でその日暮らしを続けてきた自分にとって、770Crは貴重な資金だ。
1食5Crの泥水みたいなスープと5Crの灰色ペーストで繋ぐ生活なら、単純計算で1ヶ月以上、節約すれば2ヶ月近く生き延びながらチャンスを待てる。
だが、カナタはただ生き延びるためではなく、本気で勝ち上がるために手持ちのチップから僅かなCrを切り崩す決断をした。
「まずは体力を戻す。明日からも稼ぐなら、いつもの泥水ペーストじゃ身体が持たねぇ」
露店で「合成肉ブロック」を1食分購入する。20Cr。
さらに、不純物を濾過した15Crの清涼中和水。
そして、1泊300Crの安カプセルドームへと身を投じた。
プラスチックの壁で仕切られただけの狭隘な空間だが、鍵がかかり、外の強盗や冷気から身を守れる安全地帯だ。
「ほら、ジャック。お前も食え」
合成肉の半分を千切って投げると、ジャックは空中で見事にキャッチし、噛みしめるように呑み込んだ。
カナタも残りを口に放り込む。
人工的な塩気と肉汁が広がり、疲弊した身体にじわじわと体力が戻ってくる感覚があった。
「明日からはまた切り詰める。残りは435Crだが、1日10Crのペースに戻せば余裕で立て直せるはずだ」
鍵のかかる部屋で横になり、午前6時のアラームをセットして、カナタは深い眠りへと落ちていった。
目覚めは、網膜に直接投影された青白い光によって強制された。
『おはようございます、カナタ様。生体バイタルチェック完了。睡眠効率72%。筋疲労の回復率は不完全です』
脳内に直接響くノアの無機質な音声に、カナタは眩しそうに目をこすりながら起き上がった。
「ノアか。なんだよ朝から。もう少し寝かせろよ」
『警告および今後の行動指針の提示を行います。カナタ様、現在の思考モデルおよび資産運用計画に致命的な乖離が確認されました』
「乖離? 何のことだよ。残りは435Crもある。宿を出て、また1食5Crのペースト生活に戻せば、1ヶ月以上は楽勝で——」
『否定します。その認識は、スカベンジャーとしての生存戦略に基づいた不適切な試算です』
ノアの音声と共に、カナタの視界の端に赤いテキストとグラフが次々と浮かび上がった。
『当ユニットの目的は、カナタ様を【ハンターライセンス獲得(50,000Cr)】および【戦闘適合個体】へと成長させることです。そのためには、高負荷な戦闘に耐えうる肉体構築とコンディションの維持が不可欠となります』
ノアは淡々と、しかし容赦のない数値データを出力していく。
『筋繊維の修復、反応速度の維持、および1日8時間の戦闘活動を想定した場合、1日あたり最低でも高タンパク合成食および代謝補助剤(計約300Cr相当)の摂取が必要です。さらに、質の低い野宿は襲撃リスクを増大させ、生存率を84%低下させます。したがって、最低限の防犯機能を有する宿泊環境(1泊300Cr)の維持が推奨されます』
カナタは眉をひそめた。
「ちょっと待て。1日の食費で約300Cr、宿代で300Cr……? 合わせたら、1日600Cr以上掛かるってことか?」
『肯定。1日あたりの最低維持コストは600Cr以上と算出されます。現在の所持金435Crを当てはめた場合、次のサイクルでの宿代すら支払えず、明日には破産および資金ショートを起こします』
脳内の計算が瞬時に崩壊した。
カナタはベッドの上に跳ね起き、思わず叫んだ。
「え!? 1日ちょっとで消えるのかよ!?」
カプセルドームの薄い壁越しに隣室から壁を叩く音が響いたが、カナタはそれどころではなかった。
頭を抱え、目の前の赤字グラフを見つめる。
「おかしいだろ! 770Crだぞ!? スラムじゃ十分な金なんだよ!」
『スラムの最低生存ライン(1日10Cr)であれば、長期間の維持が可能です。しかし、戦うプロフェッショナルとしての身体維持コストはそれとは大きく異なります』
視界の中のノアのARインターフェースが、冷徹に点滅する。
『1日3食の栄養補給、十分な睡眠環境、そして装備のメンテナンス。これらは贅沢品ではありません。生存率を上げ、確実に獲物を狩るための【必須コスト】です。カナタ様、1日10Crで明日を凌ぐ貧困思考を直ちに破棄してください。あなたはもう、ゴミを拾って生き延びるスカベンジャーではないのです』
「っ……」
言葉が出なかった。
悔しさが胸の奥からこみ上げてくる。
自分ではプロのハンターを目指すと言いながら、頭の中は今日をどう安く生き延びるかというスラムのゴミ拾いの感覚から一歩も抜け出せていなかった。
カナタはきつく唇を噛み締め、両手で顔を覆った。
「そっか。俺はまだ、ゴミ拾いの頭のままだったんだな」
『自覚が得られたのであれば結構です。現状の破産を回避し、継続的な資金獲得を行うため、直ちに戦闘準備へ移行します』
「ああ、わかったよ。ノア、俺はどうすればいい?」
カナタが顔を上げると、その目から甘さは消えていた。
カプセルドームをチェックアウトしたカナタの手元に残されたのは、わずか135Crだった。
肉代と水代、そして1泊の宿代で、再起の資金だったはずの770Crはだいぶ減っていた。
「残りは135Crか。本格的な武器なんて、露店でも買えねぇぞ」
『問題ありません。既製品の購入は資金的に不可能です。ジャンク資材の回収および即席の武器クラフトを行います』
ノアのナビゲーションに従い、カナタはスラムの東側にある「崩落配管集積区」へと向かった。
そこは、上層都市から廃棄された建築資材や工業ゴミが山積みになっている巨大なゴミ捨て場だ。
『視界のハイライト表示に従い、指定の資材を回収してください』
ノアのAR表示が、ゴミの山の中にある特定のパーツを青く光らせる。
「これか?」
カナタが引っ張り出したのは、折れ曲がった厚手のパイプだった。
表面は錆びついているが、ずっしりと重い。
『【高密度超軽量カーボンパイプ】。建築用の高耐圧配管です。内部のクラックをスキャン……構造的欠損はありません。長柄の柄として十分な屈折強度を有しています』
続いて、ジャンク露店が並ぶ区画へと移動した。
ノアの指示で、カナタは看板も出ていない泥臭い露店の前で足を止めた。
雑多に転がる金属片の中に、荒く削れた灰色のパーツが転がっている。
「オヤジ、このパーツいくらだ?」
「それか? 工業用削削ドリルの破片だ。刃先が欠けてるからゴミ同然だな。50Crで持っていけ」
カナタは50Crを支払い、ずっしりと重い金属片を買い取った。手元に残ったのは85Cr。
「こんな欠けたドリルで、本当に戦えるのか?」
『肯定。刃先は欠損していますが、素材は超硬度ジュラルミンと炭素鋼の複合合金です。分子密度が極めて高く、先端の角度を調整して力を一点に集中させれば、並の魔獣の甲殻を容易に穿ちます』
資材を抱え、カナタは人目のない路地裏の廃倉庫へと移動した。
『クラフトを開始します。カナタ様、ボロナイフの背を使い、カーボンパイプの指定位置に深く傷を付けてください』
「こうか?」
ノアがARで提示する赤線に合わせて、ナイフの背を打ち込む。
『次に、その傷を支点として、右斜め30度の角度で体重をかけ、不要な屈曲部をへし折ってください』
カナタはパイプを足で踏みつけ、一気に体重を乗せた。
バキッ、と鈍い音が響き、歪んでいた先端が見事に剪断された。
まっすぐで適度な長さを持った、1.8メートルほどの硬質なパイプが手元に残る。
『完璧です。次に、ドリルの破片をパイプ先端の割れ目に挿入。ジャンク山で回収した銅線を強固に巻き付けて固定してください』
カナタは慣れた手つきで銅線を何重にも巻きつけていく。
スラムで育った彼にとって、廃品を組み合わせて道具を作る手作業は慣れたものだった。
『トルク不足です。巻き付けが甘い場合、初回打撃で刃先が脱落します。パイプ端部をてこにして、さらに3割強く締め上げてください』
「ぐっ、これで、どうだ……!」
腕の筋肉を浮き上がらせ、額に汗を浮かべながら銅線を締め上げる。
最後に、耐熱圧着テープを隙間なく巻き付け、摩擦熱で表面を融着させた。
完成したそれを見つめ、カナタは一息ついた。
無骨で、継ぎはぎだらけの長柄武器。
だが、1.8メートルのカーボンシャフトの先端には、鈍い銀色の光を放つ重工業ドリルの破片が凶悪な牙のように固定されている。
『【即席の重突槍(ヘビー・スピア)】の組み上げを完了。既存のボロナイフと比較し、リーチは4.5倍、突刺貫通圧力は4.8倍に向上しました』
「ヘビー・スピア。重くて武骨だけど、悪くない感覚だ」
カナタは槍を小さく突き出してみた。
ずしりとした手応えが腕に伝わってくる。
『武器の確保は完了しました。続いて、旧地下排水区の攻略に向けた個人の戦闘動作修正、およびジャック個体との連携シミュレーションを行います』
ノアの声と共に、廃倉庫の空間に青いホログラムの標的が出現した。
『カナタ様、ヘビー・スピアを構え、正面の仮想標的へ突刺を行ってください』
「おう!」
カナタは槍を引き絞り、勢いよく前方の標的へ向かって突き出した。
鋭い風切り音が響く。
しかし、ノアの判定は冷酷だった。
『不合格。モーションが大きく、予備動作から打撃到達まで0.84秒を要しています。下層に生息する小型魔獣の場合、回避率78%。さらに軸足のブレにより、威力の30%が逃げています』
視界にカナタのフォームが線画で描かれ、赤く乱れた軸が強調された。
『カナタ様の現在の身体スペックでは、腕力だけで槍を振り回しても威力が削がれます。右足の踏み込みと同時に骨盤を回転させ、全身の体重を先端の一点に乗せるイメージで突いてください』
「こうか!? 踏み込んで、腰を回す!」
何度も槍を突き出す。
ノアはその度にコンマ数秒単位でフォームの歪みを指摘し、AR予測線で理想的な軌道を示し続けた。
十数回の試行の末、シャープな突進が仮想標的の中心を捉えた。
『打撃効率89%を検知。個人における基本突刺動作を学習しました』
カナタは肩で息を吐きながら、槍の柄を握り直した。
たったそれだけの動作で、全身から汗が噴き出している。
『続いて、ジャック個体との連携戦術の構築に入ります』
ノアの視線が、カナタの足元で静かに佇んでいたジャックへと向けられた。
『カナタ様個人の俊敏性では、素早い魔獣の死角を取ることは困難です。しかし、ジャック個体の優れた動体視力とアジリティをデコイとして組み込むことで、撃破率は飛躍的に上昇します』
ジャックが低く短く「ワン」と鳴いた。
カナタの意図を察したように、姿勢を低くして身構える。
『戦術パターンAlpha:ジャック個体が標的の左側面から接近し、威嚇および奇襲によって注意を引き付けます。標的の視線がジャック個体へ固定された1.2秒後、カナタ様は右斜め前へ踏み込み、無防備となった首元へヘビー・スピアを穿ってください』
視界に、ジャックの移動軌道とカナタの踏み込みタイミングがリアルタイムのタイマー付きで表示される。
「よし、行くぞ、ジャック!」
訓練が始まった。
ジャックが黒い影となって地を蹴る。
仮想標的の横合いへとすばやく回り込み、素早い牙の素振りで相手の意識を完全に引きつけた。
「今だっ!」
カウントがゼロになった瞬間、カナタは右足を力強く踏み出していた。
ノアに叩き込まれた腰の回転。
体重の全てを、手にしたヘビー・スピアの先端へと集中させる。
ズドン、と重い手応えが槍柄を通してカナタの腕に伝わった。
仮想標的の急所を、超硬度のドリル刃が見事に貫通していた。
『連携成功。標的の不意を突いた場合の貫通命中率は85%まで向上。基本連携戦闘モデルの構築を完了しました』
カナタは貫通した手応えの余韻に震えていた。
一人でボロナイフを振り回していた時とは全く違う。
ノアの正確な計算と、長年連れ添ったジャックの素早い動き。そして、自分の手で組み上げた槍。
それらが噛み合った瞬間、確実に格上の存在を殺せるという実感が芽生えた。
「行ける。これなら、戦えるぞ!」
スラムの一角にある旧地下排水区画の入り口に、カナタは立っていた。
湿った錆の匂いと、地下から吹き上がってくる気味が悪いほど冷たい空気。
古びてボロボロの階段の奥「旧地下排水区」の闇が、ぽっかりと口を開けている。
手元に残された所持金は、わずか85Cr。
午後19時までに魔獣を狩り、素材を持ち帰って金を得なければ、カプセルドームに泊まることも、まともな食事を取ることもできない。
「19時までに稼がなきゃ、野宿で殺されるか、またあの最底辺合成食料を食うことなる」
カナタはヘビー・スピアの柄を強く握り直した。
恐怖がないと言えば嘘になる。
だが、胸の中に渦巻いているのは焦燥感だけではなかった。
1日10Crで泥水をすすっていたスカベンジャーの自分は、もういない。
自分に投資し、強くなり、勝利して金を稼ぐ。それがハンターの生き方だ。
『カナタ様。エリア侵入前の最終確認です。ここから先は一部の密猟者やハンターの狩場となっており、危険度が大幅に上昇します。油断は死に直結します』
「わかってるよ、ノア。準備はできてる」
足元を見下ろすと、ジャックが静かに、しかし力強い眼光で暗闇を見つめていた。
その姿に気圧される様子はない。
「行くぞ、ジャック。俺たちの初陣だ」
カナタは一歩、古びた階段の暗闇へと足を踏み出した。
カツン、とブーツの底が湿ったコンクリートを叩く音が、静かな地下通路へと吸い込まれていった。