「ふぅ……ふぅ……。よし、これで最後か」
重く湿った空気が漂う沈殿池で、カナタは荒い息を吐きながら、血と脂でドロドロになったボロナイフを布切れで拭った。
目の前には、綺麗に解体され、骨と使えない肉片だけになったラット・ディガー3頭と、そのリーダーの無惨な残骸が転がっている。
足元には、素材を限界まで詰め込んでパンパンに膨れ上がった大型のズック袋が二つ。
(重ぇ……! あのクソ親父の店までこれを担いで運ぶだけで、ちょっとした筋トレだな)
ズック袋を持ち上げると、肩にズシリと重みが食い込む。だが、その重さはそのまま「金」の重さだ。泥水をすすっていた頃の虚無感に比べれば、この重みは笑えてくるほど愛おしかった。
『カナタ様。解体作業の完了を確認。総所要時間:22分15秒。解体精度は平均78%。初回としては許容範囲内です』
脳内にノアの冷静な音声が響く。
同時に、視界の端に収穫物の内訳がホログラムでリストアップされた。
【ラット・ディガーの前歯】×6本(標準品)
【ラット・ディガーの後脚肉】×6ブロック(鮮度:高)
【変異種:漆黒の三本前歯】×1セット(希少素材)
【変異種:外殻の破片】×4枚(防具加工用)
(ノアのおかげで、ダメにしがちな肉の切り出しも無駄なくできたしな。……へへっ、これだけあればあのクソ親父もぐうの音も出ねぇはずだ)
「ジャック、手伝ってくれてありがとな。行くぞ、地上へ帰還だ」
カナタが呼びかけると、血の匂いを鼻先につけたジャックが「ワンッ!」と短く吠え、先導するように階段の方へ駆け出した。
◇
二つの重い袋を両肩に担ぎ、手にはヘビー・スピアを握りしめながら、カナタはボロボロの階段を登りきった。
地上へ出ると、スラム独特のむせ返るような泥と油の臭いが鼻をつく。頭上に広がる巨大な天井岩盤は、人工のオレンジ色の光を弱々しく放っているだけだ。昼か夜かも判別できないその光景は相変わらず死んだ魚の目を思わせたが、今のカナタの心境はまるで違っていた。
何日もゴミ溜めをあさり、腐りかけの合成食料や最底辺の泥水で胃を満たしていた自分が、ついに自分の手で害獣を打ち倒し、二つの袋いっぱいに資源を詰め込んでいる。肩に食い込む痛みすら、彼にとっては自分が生きているという確かな証拠だった。
「よし……このままあのクソ親父の店へ行って、ガツンと叩きつけてやるか!」
前回、命がけで拾ってきた7,700Cr相当の旧文明パーツを「無許可のスカベンジャー品」という理由だけでたったの770Crに買い叩いたガルド。あの不快な丸顔が動揺で引きつる様を想像し、カナタが鼻で笑ったその瞬間——脳内にノアの冷ややかな警告が差し込まれた。
『警告。ガルドの買取店舗へ直行した場合、想定買取価格から大幅に買い叩かれる確率:99.9%』
カナタはピタリと足を止めた。
「……は? なんでだよ! これだけの希少素材だぞ!? 誰が見たって価値のある変異種の部位だし、肉だって傷ひとつ付けずに解体したんだ!」
『ガルドの店舗における買取アルゴリズムは、持ち主の「社会的属性(ライセンスの有無)」を最優先の交渉カードとして使用します。正規ライセンスを持たないカナタ様が単独で持ち込んだ場合、前回の実績——すなわち1/10以下の買い叩き、または「不法侵入による没収」という名目での無償押収が再現される見込みです』
「くそっ……!」
カナタは足元の泥を強く蹴り飛ばした。ノアの指摘はあまりにも正論だった。あのクソ親父は、相手が反論できない立場だと知るや否や、徹底的にむしり取る男だ。「ライセンスのないガキがこんな良質な肉を持っているのはおかしい」「密猟の罪で警察に通報されたくなければ置いていけ」——そう言って嘲笑うガルドの顔が容易に目に浮かんだ。
正当な戦果を手にしながら、社会の底辺であるという理由だけで奪われる理不尽。弱者は何を成し遂げても、システムの壁に押し潰される。
カナタは歯を食いしばり、固く拳を握りしめた。
「じゃあどうすりゃいいんだよ? スラムに他にまともな店なんてあるのか? どこへ行ったって、ライセンスがない俺たちはカモにされるだけだろ」
『推奨解:企業非公認の中立ブローカーの利用です。スラム北端の廃墟区画に、元D級ハンターが経営する素材買い取りルートが存在します』
ノアの声と共に、カナタのAR視界に立体的なスラムの地図線が描かれた。網の目のように入り組んだ路地裏を通り抜け、スラムの北の果てへと続く青い光のガイドライン。
『対象名:レニーの解体酒場。店主の「レニー」は元D級ハンターであり、素材の「本物の価値」を正当に鑑別する目を持っています。企業の公認ギルドを通さないためライセンスの有無を問われませんが、独自の仲介手数料として全体の15%を徴収されます』
「15%……」
カナタは目を丸くした。あのクソ親父に90%を不当に奪われる屈辱に比べれば、15%の手数料など提示されるまでもなく払う価値のある出費だった。
「15%でまともに査定してくれるなら、天国みたいな話じゃないか! 行くぞ、ノア! そのレニーってやつの店へ!」
ジャックがカナタの様子に呼応するように短く吠え、二人はスラムのさらに奥深くへと足を進めた。
◇
スラム北端。そこはかつて都市全体の巨大な冷却を担っていた巨大冷却塔の廃墟区画だった。
数十年前に自らの過重でぐにゃりと歪んで潰れた巨大なコンクリートと鉄骨の塊が、巨大な獣の死骸のように鎮座している。
頭上を這う太い蒸気パイプからはシューシューと甲高い排気音が漏れ出し、結露した正体不明の怪しい液滴がポタポタと足元に落ちて水たまりを作っていた。
立ち込める霧と薄暗がりの中、角を曲がると、錆びついた厚い鉄扉の上にネオン管の半ば切れた『解体酒場』の看板が鈍く光っていた。
重い鉄扉を押すと、キーッという不快な金属音が響き、途端に内側から熱気と強烈な臭気の渦が押し寄せてきた。
安酒の甘酸っぱい臭い、炭火で粗雑に炙られた脂っこい肉の煙、そして何より——持ち込まれた獣や魔獣たちの、生々しく鼻をつく血と油脂の匂い。
ガタついた丸テーブルには、傷だらけのプロテクターを着込んだ荒くれハンターや、怪しげな密猟者たちが肩を寄せ合い、合成酒のグラスを煽っていた。
壁際には解体用の巨大なフックが何本も吊り下がり、血抜きの途中の皮剥き肉がブラブラと揺れている。
ギシ……とカナタの足元で鉄板の床が鳴ると、店内に充満していた低い喧騒が一瞬だけ途切れた。
入口に立ったカナタとジャック、そして彼らが担ぐパンパンに膨らんだ二つのボロ袋に向けられる、数十の鋭く濁った視線。
「おいおい、どっかのガキが泥犬連れて迷い込んできたぞ」
「ケチなゴミ拾いか? 坊や、ミルクのシロップ漬けならここにはねぇぞ」
「てめぇの着てる服よりデカい袋担いで、中身はボロ鉄くずか?」
あちこちから下品な嘲笑とからかいの声が飛ぶ。
ジャックが身を低くし、喉を低く鳴らして威嚇の体勢をとったが、カナタはジャックの頭にそっと手を置き、背筋を伸ばした。
(ビビるな……。俺はただのゴミ拾いじゃない。沈殿池の主を倒してきたんだ)
両肩に食い込む二つの巨大なズック袋を握り直し、カナタは荒くれどもを足蹴にするような強い足取りでまっすぐ通路を歩いた。
周囲の嘲笑を完全に無視し、カウンターへと突き進む。
カウンターの奥には、背の高い初老の女性が立っていた。
白髪交じりの短髪を後ろで雑に束ね、油と古血で黒ずんだ分厚い革のエプロンを纏っている。彼女の左目は無機質な金属パーツと赤い光学レンズで覆われた、不気味な義眼だった。
レニーは巨大な解体包丁を握り、丸太のような肉塊をドスン、ドスンと手際よく叩き切っていた。
ドスン!
カナタが二つのパンパンに膨らんだ袋を、カウンターの上に力任せに叩きつけた。
木製の頑丈なカウンターが軽い悲鳴を上げる。
レニーの包丁がピタリと止まった。
彼女は左目の義眼レンズをギョロリと動かし、カチカチと不気味な作動音を立てながらレンズの焦点を絞った。
カナタの煤けた顔、血の匂いを纏うジャック、手に握られたヘビー・スピア、そしてカウンターの上に置かれた二つのボロ袋をゆっくりと見回す。
「……査定を頼む」
カナタがレニーの赤い義眼を真っ直ぐ見つめて言い放った。
レニーは一瞬だけ口元を歪めると、何も言わずに解体包丁を台に突き立て、ボロ袋の縄を解いた。
ガバッと広げられた袋からカウンターの上に転がり出たのは、まだ生温かく鮮度の高い大量の肉塊。そして——異彩を放つリーダー変異種の「漆黒の三本前歯」と、重厚な外殻の破片だ。
カウンター周辺でせせら笑っていた荒くれハンターたちの声が、一瞬で静寂に変わった。
「おい……ありゃ排水区の『主』の歯じゃねぇか?」
「マジかよ、あのデカブツを……あのガキが一人で……?」
「後脚の肉も傷ひとつねぇぞ。どうなってやがる」
ざわめく店内を無視し、レニーはギョロリとした赤いレンズを前歯の表面に極限まで近づけ、傷口の断面や肉の切り口を食い入るように凝視した。
「……毒腺を潰さずに根元から抉り抜いてある。後脚の肉も、筋膜に沿って見事な角度で刃が入ってるな。刃筋に一切の迷いがねぇ」
レニーは義眼をカチリと鳴らし、カナタを見上げた。
「ボウズ、これをどうやって狩った? 誰か腕利きの同行者がいたのか?」
「俺と相棒のジャックで、狭い通路に誘導して槍で突いた。解体は……手順通りにやっただけだ」
カナタが力強く答えると、レニーはフッと鼻で息を吐き、口元を緩めた。
「度胸のある目だ。いいだろう、うちの査定を出す」
レニーは手元の古びた端末を素早く叩き、表示された数値をカウンターの上に提示した。
「標準品の前歯6本で120Cr。極上の後脚肉が6ブロックで360Cr。そしてこのリーダー変異種の漆黒前歯が500Cr、外殻破片が200Cr。……総額で【1,180Cr】相当だ」
1,180Cr。
ノアが脳内で試算した数値と、完璧に一致していた。
レニーという女は、ノアの精密な計算と同等の査定結果を、長年の経験と義眼だけで言い当てたのだ。
「ここからうちの手数料15%——177Crを引いて、1,003Crだな」
「……取引成立だ。それとレニーさん、そこに置いてある質のいい合成肉ブロックも買いたい。俺とジャックのメシだ」
カナタがカウンターの棚を指差すと、レニーはニヤリと口元を緩めた。
「いい目の付け所だ。合成肉2人前で【200Cr】。買い取り額の1,003Crから直接引いておくよ。残りは【803Cr】だ」
レニーはカウンターの下から、角に【803Cr】の数字がデジタル光で浮かび上がった、四角いプラスチック製のカード型チップをすっと滑らせてきた。あわせて、ずっしりと重い肉の包みを差し出す。
カナタがカードと肉を受け取ると、手のひらに確かな重みが伝わった。自分の汗と血で稼いだ、本当の金と食料だ。
「いい腕だ、ボウズ。だがな……」
レニーは胸ポケットから葉巻を取り出し、火を点けて紫煙を吐き出した。
「お前、ライセンスを持ってねぇだろ」
カナタの身体が一瞬硬直した。
「……それが何か?」
「お前が持ってるその技術と度胸は本物だ。だが、スラムの裏ルートじゃ、どれだけ稼いでも15%の手数料で削られ続け、警備隊に見つかれば『密猟』の罪で一発アウトだ。……本気でここから這い上がりたいなら、早く【ハンターライセンス】を取りな」
「……」
「登録料は50,000Crだ。気の遠くなるような額に見えるだろうが、ライセンスさえあれば企業管轄の正規ギルドでこの数倍の単価で取引できる。……お前なら、届かない額じゃねぇよ」
「言われなくても、絶対手に入れてやる」
カナタは803Crのカードを強く握りしめ、レニーの言葉にうなずきを返した。
◇
その夜。スラムの片隅にある安カプセルドームの狭い室内。
チカチカと点滅する天井の蛍光灯の下、カナタはベッドの上に【803Cr】と書かれたプラスチックカードと、手元に残っていた残金(285Cr)のカードを並べた。
現在の総所持金:1,088Cr。
「ノア。食事を買っても、ついに総額で1,000Crを超えたぞ……!」
カナタの胸の中に、熱い感情が込み上げてきた。
今朝までは、残金を削りながらどう生き延びるかに怯えていた。それが今や、質のいい肉を買い、1日の必要維持コスト(600Cr)を支払えるだけの余裕を持ちながら、手元に1,000Cr以上の資産を残せている。
『試算完了。現在のペースを維持した場合、ライセンス獲得に必要な50,000Crに到達するまで、約98日を要します』
ノアの現実に満ちたアナウンスが響く。
「約3ヶ月か……。だが、いきなりもっと強いヤツがいるエリアに行くのは危険すぎるよな。今日のリーダー戦だって、ノアの指示がなきゃ一発でやられてた」
『適切な自己分析です。提案します。まずは今後【約1週間】、旧地下排水区での「通常型ラット・ディガー」の狩りを継続することを推奨します』
ホログラムのUIが切り替わり、カナタの現在の身体能力データと、今後のトレーニングプランが表示された。
『目的は資金稼ぎだけではありません。カナタ様自身の【基礎戦闘能力の底上げ】、【危険察知と即座の状況判断力の育成】、そして【ジャック個体との密接な連携動作の完全習得】です。リーダー個体のような希少種は狙わず、通常のネズミ狩りに徹底して特化します』
「ネズミ狩りに特化か……。具体的にはどこまで鍛え上げるんだ?」
『目標設定:狭所・乱戦環境下において、通常型ラット・ディガー5体に同時に包囲された場合でも、ノアのアシストを最小限に抑え、カナタ様単独の判断とジャックとの連携のみで【無傷で完勝】できるレベルに到達すること』
「5体に囲まれても単独で完勝……」
カナタは息を呑んだ。今日、3体とリーダー相手に命がけだった自分からすれば、恐ろしく高いハードルだ。だが、ノアの言葉には一切の無駄がない。それだけの地力をつけなければ、この先のスラムの過酷な狩場や、上位の魔獣には到底立ち打ちできないのだ。
『1週間の周回狩りにより、目標戦闘力の獲得、および確実な軍資金の積み増し(推定純利益:3,000〜4,000Cr)が見込まれます。その資金をもって、ヘビー・スピアの強化とジャックのメンテナンスを行います』
「……分かった。乗ったぜ、ノア。まずは1週間、あの地下排水区で徹底的にネズミを狩りまくってやる!」
目標が明確になり、カナタの瞳には強い闘志が宿った。
もう自分は、ただ泥水をすすりながら怯えるゴミ拾いではない。自分の力で鍛え、稼ぎ、自分と相棒を強くしていく「ハンター」の第一歩を踏み出したのだ。
「ほら、ジャック。明日からの猛特訓に備えてしっかり食っておこう」
レニーの店から買ってきた質のいい合成肉ブロックを投げると、ジャックは「ワン!」と元気に吠えてかぶりついた。
カナタも肉を口に放り込み、冷たい清涼中和水で流し込む。
「待ってろよ、ハンターライセンス。そしてあのクソ親父……絶対に強くなって、正面から叩きのめしてやる」
カナタはジャックの頭を撫でながら、カプセルドームの狭い天井を見上げた。
その暗闇の向こうに、まだ見ぬ自らの成長と、手に入れるべき未来がはっきりと見えた気がした。