永遠の夕暮れを越えて   作:太陽を拝みたい

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1週間の周回ノルマ

旧地下排水区、最深部に位置する沈殿池。

頭上の配管からポタリ、ポタリと滴り落ちる粘度の高い水滴が、黒く濁った水たまりに不気味な波紋を描いていた。

立ち込めるのは、湿気と腐敗、そして金属が錆びついたようなスラム特有のドブ臭さ。かつて都市の排水処理を担っていたこの広大なコンクリート空間は、今や光の届かない魔獣たちの巣窟と化している。

その沈殿池の中央で、カナタは息を殺し、低く身を構えていた。

手に握りしめているのは、廃材とドリルで組み合わされた一見ガラクタに見える武器ーー『ヘビー・スピア』だ。

長年のゴミ拾いで鍛えられた細身の身体には、以前のような痩せこけた弱々しさはない。この1週間、まともな合成肉を食い、命がけの戦闘を繰り返してきたことで、皮膚の下にはしなやかで力強い筋肉が着実に根を張りつつあった。

周りを覆うのは死のような暗闇と、壁の隙間から漏れ出る不快な排気音。

修羅場をくぐり抜けてきた感覚が、暗闇の奥深くからじわじわと距離を詰めてくる無数の不気味な爪音を敏感に捉える。

カサ……カサカサッ……!

『警告。前方より通常型ラット・ディガー3体。右側面、壊れた給水管の影より1体。後方通路の死角より1体。計5体。カナタ様を完全に中心へ捉える包囲陣形を形成中』

脳内にノアの冷静で澄んだ音声が響く。

だが、以前のように視界へ描かれていた鮮やかな青い軌跡や、敵の攻撃タイミングを示すターゲットマーク、照準補正のホログラムはどこにも存在しない。

あらかじめカナタ自身がノアに命じて設定させた【トレーニングモード】。視覚拡張アシストをすべてカットし、自らの感覚と判断力を培う訓練だ。

「……来い」

カナタは短く息を吐き出し、槍の柄を握る指に力を込めた。

視覚、聴覚、そして皮膚を撫でる微かな湿った風の揺れ。五感のすべてを極限まで研ぎ澄ます。

次の瞬間、正面の暗がりから赤く濁った眼球をギラつかせた巨大なネズミ——ラット・ディガーが3体同時に跳躍した。

湿った空気を引き裂く甲高い威嚇音。ナイフのように鋭く伸びた前歯が、カナタの首元と胸元へ向けて迫る。

「ジャック、右だ!」

カナタの叫びと同時に、彼の影から弾け飛ぶように躍り出たのは相棒のジャックだった。

青みがかった灰色の毛並みをなびかせ、隙間から覗く金属質の生体装甲を鈍く光らせながら、ジャックは右側の給水管から飛び出してきた4体目の喉元へ正確にかみついた。

「ギャウッ!?」

凄まじい衝撃とともに、ジャックはラット・ディガーの巨体をコンクリートの壁面へと強烈に叩きつける。装甲犬としての脚力と噛み合わせ。右側の脅威は、これで完全に遮断された。

そして正面から迫る3体。

カナタは引かなかった。いや、あえて半歩だけ軸足を下げ、ヘビー・スピアの長さを最大限に活かせる間合いへと敵を誘い込む。

突くのではない。互いの距離が近すぎる狭い通路での乱戦、カナタは槍の柄を短く持ち直し、泥を蹴って全身のタメを解放した。

ガキィンッ!

横一文字に薙ぎ払われた重厚な鉄の柄が、中央の1体の鼻頭を容赦なく打ち砕く。鈍い骨折音が響き、1体が脳震盪を起こして泥水へと転がり落ちた。

勢いを殺さず、カナタは円を描くように軸足を高速回転させる。

ノアの視覚アシストがなくても、身体が覚えていた。背後——死角である後方通路から跳びかかってきていた5体目の気配。

バキッ!

振り返りざまに振り下ろしたスピアの石突が、頭上から迫っていた5体目の脳天を正確に叩き割る。体重を乗せた一撃に、魔獣は金声一泣すら上げられず床へ叩きつけられ、ピクピクと痙攣した。

「最後だ……!」

出鼻を挫かれ、残された正面の2体が死の恐怖に身を竦めた。

そのわずかな硬直を、カナタは見逃さない。

踏み込み一歩。ノアのアシスト線に頼らずとも、この1週間で何十回、何百回と繰り出してきた直突きは、吸い込まれるように1体目の眉間を貫いた。

ブスッ!

「ガラッ……!」

手応えを感じた瞬間に槍を引き抜き、返し刃の勢いのまま、最後の一体の胸元へ——肋骨の隙間を縫うようにして刃先を抉り込ませる。

静寂が、沈殿池を支配した。

冷たい水滴がポタリと落ちる音だけが響く暗闇の中、血と脂の匂いが急速に広がっていく。

カナタの足元には、完璧に命を絶たれた5体のラット・ディガーが、泥水に伏して動かなくなっていた。

肩を激しく上下させ、カナタはヘビー・スピアにこびりついた血を豪快に振り払った。

自分の身体を見下ろす。ボロボロの服は泥と血で汚れているが、刃や爪によって付けられた傷はただの一筋すら存在しない。

『戦闘終了。経過時間:1分42秒。カナタ様の被ダメージ:0。ジャック個体の被ダメージ:0。目標条件である【5体同時包囲下の完勝】を達成しました』

脳内に、どこか誇らしげなノアの音声が響く。

同時に、AR視界が再起動し、青い光の粒子とともに【Training Complete】のホログラムがカナタの目の前に大きく展開された。

「……ハッ、見たかノア! アシストなしでも、身体が勝手に動いたぞ!」

カナタは槍を床に突き立て、荒い息のままニッと口元を歪めた。

「ワンッ! ワフンッ!」

戦闘を終えたジャックが、尾を千切れんばかりに振りながら駆け寄ってくる。口元に少しだけ返り血を浴びた相棒の頭を、カナタはガシガシと強く撫で回した。

「よくやった、ジャック。お前が右を抑えてくれなきゃ、さすがに背中を削られてた。助かったよ」

ジャックの身体を軽く叩いて労うと、カナタは息を整えながら足元の死体を見下ろした。

自分たちの手で掴み取った確かな手応え。過酷な1週間のトレーニングが、確実に成果を結びつつあることをカナタは実感していた。

「よし、解体して地上に上がろう。今日の分でちょうど1週間だ」

カナタは息を整えると、ボロナイフを握り直し、足元に転がる5体のラット・ディガーへと手を伸ばした。

アシスト無しの解体では1体の解体すら毛を巻き込んで肉を痛めたり、毒腺を傷つけそうになってノアに冷や汗交じりの指摘を受けたりしていた。しかし、今のカナタの手つきに迷いは一切ない。

皮膜の隙間にナイフの先端を滑り込ませ、筋膜に沿って刃をスッと引く。

硬い前歯の根元には刃を入れず、関節の合わせ目をテコの原理で抉り抜く。

ズシッ、ズシッと、状態の良い後脚肉と美しい前歯が切り分けられ、大型のボロ袋へと収められていく。

『解体作業完了。総所要時間:8分12秒。平均解体精度:94.2%。初期計測時と比較し、作業効率は約270%向上しています』

「へへっ、手際だけはプロ並みになってきたな」

カナタは額の汗を袖で拭い、ズッシリと重みの増したボロ袋を肩に担ぎ上げた。

あの日、ノアのアドバイスを受けて「1週間の周回特訓」を決意してから、今日で丸7日。

カナタの毎日は、まさに血と泥に塗れた周回ノルマの日々だった。

早朝に安カプセルドームを出発し、薄暗い旧地下排水区へ潜権してネズミ狩り。ノアの指導のもと、あえて複数体に包囲される危険な状況を作り出し、ジャックとの連携と槍の間合いを身体に叩き込んだ。

そして夕方にはパンパンに膨らんだ袋を抱えてスラム北端の『解体酒場』へ通い、レニーに素材を買い取ってもらう。それだけの往復作業だった。

最初は泥水をすすり、腐りかけた食料にすがっていた身体が、1日600Crの生活維持コストを惜しまず払い、質のいい合成肉を喰らうことで、劇的に変化していた。

細かった腕には芯のある筋肉がつき、何よりその瞳からは搾取される側の怯えが完全に消え去っていた。

「行くぞ、ジャック。レニーさんのところへ報告だ」

「ワンッ!」

 

 

 

 

スラム北端、冷却塔廃墟区画。

シューシューと甲高い音を立てて蒸気を吹き出す配管の下を潜り抜け、カナタは慣れた足取りで『解体酒場』の重い鉄扉を押した。

キーッという金属音が店内に響く。

安酒の匂いと煙草の煙、そして怪しい肉の脂が焦げる匂い。相変わらず荒くれハンターたちが集う店内だったが、1週間前のようにカナタを「ドブネズミ」と嘲笑う者は激減していた。

この1週間、毎日欠かさず大量の品を持ち込み続ける「泥犬連れのガキ」の存在は、嫌でもこの裏街の連中の耳に届いていたのだ。

カウンターの奥では、白髪交じりの短髪の老女レニーが、左目の赤い義眼レンズをカチカチと作動させながら、解体包丁を振るっていた。

ドスン!

カナタがカウンターの上に、ずっしりと重いボロ袋を静かに置く。

「レニーさん、今日の分の査定を頼む」

レニーは包丁を止め、ギョロリとした赤い義眼をカナタに向けた。袋の縄を解き、中の素材を一瞥すると、不敵に口元を歪める。

「ふん、今日も見事な仕事だな、ボウズ。前歯も肉も傷ひとつねぇ。毒腺の処理も完璧だ」

レニーは手元の端末を素早く叩き、数字を提示した。

「通常品の前歯10本で200Cr。後脚肉が10ブロックで600Cr。計800Crから、うちの手数料15%(120Cr)を差し引いて、今日の受け渡しは【680Cr】だ」

レニーはカウンターの下から、角に【680Cr】の数字が浮かび上がったプラスチック製のカード型チップをすっと滑らせてきた。

「毎度どうも。ところでボウズ、今日でちょうど1週間通い詰めたな」

レニーは胸ポケットから葉巻を取り出し、紫煙を大きく吐き出した。

「最初はただ牙を剥くだけの痩せたノラ犬だったが、今の顔はいい。腹の据わった狩人のツラをしてやがる。うちに通う荒くれどもでも、1週間でここまで化けたガキは見たことがねぇよ」

「ありがとな、レニーさん。あんたが社会的立場なんか関係なく、正当に買い取ってくれたおかげだ」

カナタがカードをしっかりとポケットに収めると、レニーはフッと鼻で笑った。

「礼なんざいらねぇよ。アタシは良い素材と良いハンターに正当な対価を払ってるだけだ。だが、忘れんなよ。こんなスラムの裏ルートで甘んじてちゃ、いつまで経っても上には行けねぇ。目指すは50,000Crのライセンスだ」

「言われなくても、絶対届かせてみせるさ」

 

 

 

 

その夜。スラムの片隅にある安カプセルドームの狭い室内。

チカチカと不快に点滅する天井の蛍光灯の下、カナタはベッドの上に、この1週間で蓄えてきた複数枚のクレジット・カードをズラリと並べた。

「ノア。1週間の最終収支の集計を出してくれ」

『肯定。1週間の周回狩り、および生活コストの最終試算結果を表示します』

視界に、青く輝くARホログラムの収支ウィンドウが静かに展開された。

──────────────────────

【1週間の周回狩り・最終会計】

・周回狩りによる総買取額(手数料15%控除後):+4,120Cr

・生活維持コスト(7日分 / 宿代・合成肉等の食費):-1,800Cr

・特訓開始前の手元残金:1,088Cr

【現在の総所持金】:3,408Cr

──────────────────────

「3,408Cr!」

数字を口にした瞬間、カナタの胸の奥から熱い塊が込み上げてきた。

1週間前、たった1,000Crを超えただけで泣きそうになるほど喜んでいた自分が、今や手元に3,000Cr以上の純資産を残している。

毎日まともな食い物を腹いっぱい食い、温かい(とはいえカプセルドームだが)床で眠り、自分とジャックの命を繋いだ上で、これだけの財産を作り出したのだ。

『ジャック個体との連携を含めれば5体同時対処の目標値は達成していますが、現状、カナタ様単体での同時対処上限は4体です。今後はカナタ様単体でもアシストなしで5体を同時に処理できるよう、継続した訓練を推奨します。ただし資金目標はクリアしたため、次のステップとして【初期装備の強化】および【ジャック個体のメンテナンス】を提案します』

ノアの冷静なアナウンスが響く。

「ああ! この廃材とドリルで組んだヘビー・スピアも、そろそろ限界だったからな。あのクソ親父に見せつけてやるための準備が、ついに整ってきた」

カナタは3,408Cr分のカードを強く握りしめた。

「よし、明日はいよいよジャンク街のまともな工房に行って、装備を鍛え直すぞ!」

「ワンッ!」

狭いカプセルドームの中に、カナタとジャックの力強い声が響き渡った。

底辺のゴミ拾いとして踏みつけられていた少年は、己の力で稼ぎ、鍛え、成り上がりの階段を確実に登り始めていた。

 

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