人は、失って初めて知る。
命の価値でも、損なわれた身体の価値でもない。「人は一人では生きられない」という、ごく当たり前の事実を。
人間は不完全だからこそ、互いを補い、支え合う仕組みが必要なのだ。
◆
目を開けた時、視界を埋めたのは無機質な白い天井だった。ツンと鼻を刺す消毒液と薬品の匂い。胸の奥を重い肉の塊で押し潰されているような圧迫感があり、浅い呼吸をひとつ吐き出すだけで肋骨の裏側が鋭く痛んだ。
(……何が起きた?)
記憶の糸をたぐり寄せようとして、途中で思考を止める。思い出せることと、思い出せないことの境界が曖昧だ。ならば、まずは今の状況を客観的に観察し、確認する。
それが思考の第一手順だ。
視線だけをゆっくりと巡らせる。無機質な壁、機械的な電子音を刻む見たこともない医療機器。ここは一般的な病院ではない。
「――これが例の実験体か」
頭上から、低くくぐもった男の声が降りてきた。
「ええ。ダメージは相当なものですよ。トリオン器官は完全に喪失、肉体も約七割を失っています」
「酷いことをするものだ、侵略者共は」
乾いた吐息。白衣を纏った男たちが、私のベッドを見下ろしている。
「だが、この手術で生まれ変わる」
「生き残れば、ですが」
「始めよう」
視界の端で白衣の裾が揺れ、左腕に冷たい金属の感触が走った。管を通じて、未知の薬剤が体内へと注入されていく。
痛みはなかった。ただ、身体の感覚が徐々に薄れ、自分という人間の輪郭がどこか遠くへ溶けていく感覚だけがあった。
(実験体、か)
冷徹な事実として、その言葉を脳内で反芻する。怒りも恐れも湧いてこない。
ただ「助かった代償としてここに運ばれた」という情報を処理するだけだ。生き残ったのなら、まずはこの身体を維持することを優先する。
今後の課題は、そのあとでいい。
◆
ここが『トリオン技術研究所』――通称・技研と呼ばれる施設だと知ったのは、それから数日後のことだった。
トリオンという未知の資源を解明し、兵器開発と高度医療を同時に研究する場所。
無機質な廊下では、研究者たちが早口で専門用語を交わしながら行き交っている。誰もがどこか狂気的な熱病に取り憑かれているようだった。
ただ、患者としてここに滞在している人間は少ない。だからこそ、特定の人物と顔を合わせる機会は自然と増えることになる。
その少女は、いつも中庭に面した日当たりの良い窓際にいた。
やわらかなクリーム色の髪、薄手の病衣から覗く細い肩。膝の上に一冊の本を広げている姿は、殺風景な施設の中でそこだけ切り取られた絵画のようだった。
ふと、視線が交わる。
彼女は静かにページを閉じると、姿勢を正して小さく頭を下げた。
「こんにちは」
透き通るような、静かな声。
「こんにちは」
私も短く返す。
それ以上、会話は続かなかった。お互いに無理に会話を繋ごうとはせず、ただ窓から差し込む陽光の中に身を置く。だが、不思議と沈黙が苦ではない相手だった。言葉を飾る必要がないというのは、案外心地が良い。
◆
翌日も、彼女は同じ窓際にいた。日差しに透ける髪を風に揺らしながら、静かに佇んでいる。
「……調子は、どうです?」
声をかけると、彼女は少し驚いたように顔を上げ、すぐに柔らかく目を細めた。
「昨日より、ほんの少しだけ良いです」
「そうですか、それなら良かった」
本当にそれだけのやり取り。けれど、どこか張り詰めていた自分の心が少し緩むのを感じた。
「……あの、自己紹介がまだでしたね。私は、那須玲です」
「私は屍山血河です」
彼女の動きがピタリと止まり、丸い瞳でこちらを見つめてきた。
「……珍しいお名前ですね。どこまでが苗字で、どこからがお名前なのでしょうか」
「よく言われる。自分でもたまに迷う。屍山が苗字で、血河が名前です」
不器用な私の返答に、那須さんは思わずといった風に「ふふっ」と息を漏らして笑った。つられて私も口元を緩める。だが、笑った弾みに胸の人工パーツが軋み、引きつるような痛みが走った。
思わず胸元を押さえると、那須さんも小さく胸に手を当てて苦笑している。
「……笑うと、少し響きますね」
「ええ。ですが、痛むということは生きている証拠でもあります。不快ではない……かも」
「屍山血河さんは前向きですね」
二人で互いの不格好な身体を労うように、苦笑いを交わした。
◆
那須さんは病弱で、自分の体が長持ちしないことを静かに受け入れているようだった。
一方で私は、トリオン器官を失い、身体の七割近くを人工物で補強された半ば機械の怪物だ。
どちらも「普通」からは掛け離れている。だからこそ、私たちは互いにごく普通の雑談をした。
「いつも本を読んでいますね、好きなんですか?」
「ええ、好きです。物語の世界に入っている間は、体調のことを忘れられますから」
「どんな本を読むんだ?」
「歴史物や、少し古い小説が多いですね。屍山さんは読まれますか?」
「いや、私はあまり。……強いて言えば、取扱説明書くらい」
「ふふ、それは読書とは言わないかもしれません」
たわいのない話。
研究の話も、先のない未来の話もしない。今日読んだ本の一節、窓の外の雲の形、食堂のパサついたパンの味。
何について話すかではない。ただ誰かと穏やかな時間を共有することが、これほど人を安心させるものだとは思わなかった。
ある日の夕刻、厳しい定期検査が終わった廊下で、那須さんと鉢合わせた。
彼女は壁にそっと手をつき、肩を上下させて息を整えている。顔色はいつも以上に蒼白だった。
「……大丈夫ですか?」
「あ……屍山さん。ええ、少し体力を使ってしまって、疲れただけです」
彼女は無理に口角を上げ、何でもないように微笑んでみせた。だが、私はその笑顔の裏側にあるものを知っている。痛い時、辛い時ほど、人間は周囲を心配させまいと無理をして笑うのだ。
「無理はしなくていいですよ」
「無理なんて、していませんよ」
頑なな彼女の言葉に、私はそれ以上追及しなかった。
「頑張れ」と励ますのは簡単だ。だが、過酷な現実に毎日向き合っている彼女に必要なのは、安易な気休めの言葉ではない。
私はゆっくりと彼女の隣に腰を下ろし、壁に背をもたれかけた。
「私も少し、歩き疲れた」
理由を自分側に引き寄せて、立ち止まる口実を作る。那須さんはハッとしたように目を見開き、自分の強がりが見抜かれていたことを悟ったようだった。
「……はい。ありがとうございます」
彼女はそっと私の隣に腰を下ろし、安堵したように息を吐いた。相手の現実を察し、ただ寄り添う。それだけで十分な時もある。
◆
技研の日常は、ある意味で失敗の連続だった。通路を歩いていると、実験室から小規模な爆発音やアラームが響く。薬剤の配合ミス、数値のわずかなズレ、新しい制御装置の暴走。だが、廊下に出てくる研究者たちの顔に悲壮感はない。
「原因の特定は?」
「冷却ラインの負荷計算ミスだ。次はパラメータを三パーセント下げて試そう」
彼らは失敗を恐れず、責めもせず、ただ事実として記録を書き直していく。
なるほど、と私は心の中で頷く。失敗とは終わりではなく、ただの「データ」だ。成功へと近づくための地図の一部分に過ぎない。だからこそ改善ができ、次の一歩を踏み出すことができる。
私や那須さんもまた、この施設においては「数字」で管理される実験体に過ぎないのかもしれない。けれど――人間は単なる数字やデータではない。
交わす言葉があり、ふとした笑顔があり、相手を気遣う温かい沈黙がある。その積み重ねだけは、どんなに精密な測定器であっても測ることはできないはずだ。
私はまだ、壊れた身体を持った何者でもない青年だ。彼女もまた、病と戦う一人の少女に過ぎない。だが、不完全だからこそ見えてくるものがある。
人は、強くあるから支え合うのではない。弱く、脆いからこそ、互いの欠けた部分を補い合って生きていくのだ。
その事実だけは、この研究所が出すどんな実験結果よりも確かだった。身体の大部分を作り替えられようとも、私は人間を観察し、人として生きることをやめない。
それだけは絶対に、失いたくはなかった。