人は、何を失ったかでは決まらない。
何を失っても、その後に何を残そうとしたかで、人の生き方は決まる。
強さとは、単に他者より優れていることではない。己の弱さを正しく知り、傷を抱えながらも、なお誰かのために足を前へ踏み出そうとする意思そのものなのだ。
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共同研究が始まってから、二か月ほどが過ぎた。
最初は、互いに検査室の前で偶然顔を合わせる程度の関係だった。検査室、リハビリ室、そして面談室。それぞれ別の患者として呼び出され、たまたま時間帯が重なっただけの浅い接点。だが、研究の段階が進むにつれて状況は変化していった。
医療技術への応用を進めるうえで、私と那須さんのデータを比較・分析する必要が生じたらしい。
共同での反応測定が増え、リハビリのプログラムも足並みを揃えることが多くなった。
自然と、朝から夕方の終わりまで行動を共にする時間は長くなっていった。けれど、不思議と気疲れや息苦しさを覚えることはなかった。話したい話題があれば語り合い、静かに過ごしたい気分の日は、お互いに本のページをめくるか窓の外の景色を眺めている。
不自然に沈黙を埋めようと焦らない。その距離感が、お互いにとって心地よかった。
その日も、一連のハードな実験プログラムを終えた頃には、すっかり陽が傾き始めていた。
「本日の共同測定は以上で終了です。お疲れ様でした」
担当研究員の無機質なアナウンスに、私は深く息を吐き出した。
腕には採血の痛々しい痕が残っている。今日は人工器官の適合強度試験も兼ねていたため、全身の肉体と機械パーツの結合部にじんわりとした鈍い疲労感が溜まっていた。
「……お疲れ様です、屍山さん」
隣でシートベルトを外しながら、那須さんが立ち上がる。
「今日はいつもより少し長かったですね」
「ええ、少しだけ」
彼女は小さく肩をすぼめ、苦笑いを浮かべた。
「ラウンジ、行かれますか?」
「そうしよう。水分補給も必要だ」
今ではそれが、ごく自然な二人の約束事になっていた。長い検査が終わると、病院棟の小さなラウンジへ向かう。
自動販売機で飲み物を買い、夕暮れの静けさの中で一息つく。それが二人にとっての、ささやかで大切な日課だった。
ラウンジは静まり返っていた。
大きな窓からは、沈みかけた夕日の茜色が研究棟の無機質な白い壁をほんのりと赤く染めている。人影はまばらで、聞こえるのは規則的な空調の低い稼働音だけだ。
私は紙カップの温かいブラックコーヒーを。那須さんは小さな紙パックのストレートティーを買い、窓際のテーブル席へと腰を下ろした。
しばらくの間、二人は何も喋らなかった。
疲労が身体に沈殿している時は、これでいい。沈黙は気まずい空白ではなく、すり減った心を休ませるための温かな時間だ。
それを互いに理解している相手だからこそ、余計な言葉はいらなかった。
「……今日は、少しだけ疲れましたね」
最初に静寂を破ったのは、那須さんだった。
「そうですね。適合試験の負荷が少し高かった感じはします」
「でも……今日の数値は、昨日よりずっと良かったそうです」
「そっかぁ。それは何より。良い知らせです」
私の言葉に、彼女は心から嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
その柔らかな表情を見るたびに、私は密かに感嘆する。彼女は得られた成果を誇ったり威張ったりしない。ただ、手に入れた小さな前進を、壊れものを扱うように大切そうに受け止めるのだ。だから彼女の姿勢には無理がない。だからこそ、途方もない試練を前にしても歩み続けられる。
湯気を立てるコーヒーの深緑色の水面を見つめながら、私は以前からふと気になっていた疑問を口にしてみることにした。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「はい、何でしょうか」
「……どうして那須さんは、この共同実験に参加することを選んだんですか?」
彼女はすぐには答えなかった。
細い指先で紙パックを優しく包み込み、視線をゆっくりと窓の外の茜空へと移す。小さな口唇から、静かな吐息が零れた。
私は急かさない。語りたい言葉は、語りたいタイミングで口にすればいい。相手が心の中で言葉を紡ぐのをじっと待つ時間もまた、大切な対話の一部なのだから。
やがて、那須さんは窓の外を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……身体が、弱かったからです」
その一言には、自分を卑下するニュアンスも、運命への諦めも含まれていなかった。ただの、揺るぎない客観的な事実として発せられた言葉。
私は静かに頷き、黙って続きを待つ。彼女は少しだけ自嘲するように口元を緩め、言葉を重ねていった。
「幼い頃から……私には『できないこと』がたくさんありました」
遠くを見る彼女の瞳は、過去の記憶の風景を辿っているようだった。
「みんなと一緒に、校庭を思い切り走ることができませんでした。放課後に、長く友達と遊ぶこともできませんでした。学校も……病気で休んでばかりで……」
ぽつり、ぽつりと落とされる静かな声。けれど、一つひとつの言葉の裏には、積み重ねられてきた重みがあった。
それは悲惨さを訴える弱音などではない。
自分の歩んできた半生を、静かに、丁寧に振り返る人間の言葉だった。
私は何も挟まず、ただ深く彼女の言葉に耳を傾けた。
今この瞬間に必要なのは、軽々しい慰めや励ましではない。彼女が紡ぐ過去の輪郭を、そのまま受け止めることだった。